• [0]
  • 湯月城リサイクル作戦

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)04時30分28秒
 
河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [25]
  • Re: 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月14日(水)12時29分15秒
 
伊豫の城郭研究者の宮尾克彦氏は先月、「松山城石垣は湯築城のリサイクルでは?」の質問に
伊豫史談会初代会長の意見を否定し、「あれは嘘です。最近の研究では、松山城の石垣は道後の裏山から
切り出され、且つ石手からも持ち出されたのを当時の住民が、湯築城の石を持ち出していると思ったから
です」と発言しました。

道後や石手に松山城築城の「石切場」があったのでしょうか?
又、当時の住民は、「石切場」から運び出すのと、湯築城から運びだすのとの区別がつかないレベルの
人たちばかりなのでしょうか?

松山市教育委員会は「石切場」は海の近くの場所を含む数箇所を教えてくれました。

もちろん湯築城が石を多用している形態の城とはハナから思ってはいませんが・・・・。
古記録を無視するのもいかがかと。

  • [24]
  • 松山城

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)17時44分20秒
 
松山城の今の天守のある場所は築城当初は違う場所だったのでしょうか?
以前、愛媛新聞に掲載されましたが、結論がわかりません。
蒲生家から出た古地図と県歴博所蔵の古地図では、現天守の場所は
池(水)となっていて、天守ではなさそうです。築城当初は天守は別
場所にあったか(二の丸)辺りそれとも現場所の近くもしくは現場所
の池の上?色々考えます。新聞記事は割愛しますが、
(愛媛新聞2009年10月25日版参照)
五層から三層になったと云う話なども絡めて、この結果が解明されれば良いと思います。
池(井戸)に付いては二の丸にも大きな物があり他の城(あまり知りませんが)にはこのような大掛かりな井戸は無いのではとも思います。

  • [23]
  • Re: 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)22時59分32秒
 
湯築城跡はごく一部を除いて残り具合は素晴らしいのです。だからこそ、石垣も、石垣を壊した跡も一切存在しないとの報告に、考古学者からも文献史学の研究者からも異議は出ませんでした。

●意義がでなかったということは確固たる反論する意見を持ち合わせていない場合もあります。

 どちらにしろ時間をかけて調べるしかないでしょう。

  • [22]
  • Re: 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:今城
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)21時44分22秒
 
>>21

>  物理的状態で石が無いのであれば、石があった可能性は否定できないと思われます。

 石は沢山残っています。土塁の裾石や、溝の壁面など、石は完璧に残っていました。石が無いなどと誰が言ったのですか。湯築城跡はごく一部を除いて残り具合は素晴らしいのです。だからこそ、石垣も、石垣を壊した跡も一切存在しないとの報告に、考古学者からも文献史学の研究者からも異議は出ませんでした。


  • [21]
  • Re: 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)20時34分57秒
 
>  発掘調査報告書を否定なさるのですね。それならそれを証明することが必要です。

●一応古文書と言われる古記録から解釈したものですから、どの程度までを完成と言うのかわかりませんが
 一応着工してから屋移りをするまでは一般的には完成とします。
 周辺工事が続くことはあれだけの規模であれば何年もかかるでしょう。


 発掘報告書を否定するものではありませんが、破壊の痕はないと言うことと石垣が無かったとする
 ことは別のことと思われます。貴重な石材を乱暴に破壊して持って行くことはないでしょう。
 物理的状態で石が無いのであれば、石があった可能性は否定できないと思われます。
 一次史料が出てくれば簡単に決着する話なのでしょうが、それがまだ発見されていない以上は
 まだまだ時間をかかるかもしれませんね。
 どこかに一次史料はあると思うのですが、石材の移築は市井の皆が見ていたのでしょうから。

  • [20]
  • Re: 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:今城
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)16時32分52秒
 
>>19

>  やはり、湯築と正木の石材は根こそぎ持ち去られたと考えるほうが自然と思われます。
>  よって正木にも湯築にも石材はなにも残ってないとする発掘調査は逆にすべて持ち去られたことを
>  証明することになると思われます。

 発掘調査報告書を否定なさるのですね。それならそれを証明することが必要です。

>  戦国の世を生き抜いた武将は短期間で堅固な城を築く必要があったので、一番簡単なのは相手の城を分捕る
>  ことで、改築や新城でも短期間に造る必要があります。

 松山城の建設は20数年掛かっています。

  • [19]
  • Re: 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)15時02分38秒
 
> 多幸山天徳寺の古文書によると、
> 「慶長八年加藤嘉明、旧松前城及湯築城を松山城へ合移築」
> とあって、この時、率先して縄張りをしたのが天徳寺住職南源和尚とある。
> この功により天徳寺は天徳寺伽藍を西方へ六丁移動し江西山麓に再建新築する
> ことができ、寺領百石を給い、寺名を江西寺に改めたとあります。
>
> この「合移築」は両城の資材を利用したことを意味するものと思われますが
> 石垣が含まれているか否かまではこの文では分りません。

●やはりこの天徳寺文書の信頼性は高いことが分りました。
 この記述をしたのは当時の住持南源禅師本人で、天徳寺中興への依頼は加藤嘉明その人が請うている。
 彼は甲州の産であるが、師匠は南化玄興で彼は美濃・一柳家出身である。
 松山城造営時の人で造営工程も細かく知りえる立場でした。

 記録によると松山城築城開始は慶長7年正月に始まり、竣工し加藤嘉明が移り住むのは翌年の10月と
 あるのでわづか22ケ月間で造り上げたことになる。自然の山を切り築いたとは云え土台の石垣は最優先
 で造築しなくてはなりません。この短工期であれだけの石垣をバージン石から切り出すことは不可能でしょう。

 やはり、湯築と正木の石材は根こそぎ持ち去られたと考えるほうが自然と思われます。
 よって正木にも湯築にも石材はなにも残ってないとする発掘調査は逆にすべて持ち去られたことを
 証明することになると思われます。

 戦国の世を生き抜いた武将は短期間で堅固な城を築く必要があったので、一番簡単なのは相手の城を分捕る
 ことで、改築や新城でも短期間に造る必要があります。

 明智光秀の築いた福知山城の石垣はよほど石材が足りなかったのか、近くの墓地から墓石を多量に流用し
 今でも天守閣の基礎の石垣にはっきりと墓石が露出しています。

 「伊豫温故録」にも同様に両城の石材転用を記録しますので、使えるものは石も上屋も丸ごともって
 いったのでしょう。
 慶長7~8年はまだ平穏な時代ではありませんでした。

  • [18]
  • 松山城は湯築城と松前城のリサイクル

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 9月21日(水)21時29分3秒
 
以前からあった手許の史料を見落していました。

多幸山天徳寺の古文書によると、
「慶長八年加藤嘉明、旧松前城及湯築城を松山城へ合移築」
とあって、この時、率先して縄張りをしたのが天徳寺住職南源和尚とある。
この功により天徳寺は天徳寺伽藍を西方へ六丁移動し江西山麓に再建新築する
ことができ、寺領百石を給い、寺名を江西寺に改めたとあります。

この「合移築」は両城の資材を利用したことを意味するものと思われますが
石垣が含まれているか否かまではこの文では分りません。
南源和尚なら分るのでしょうが・・・・・。

余談ながらこの南源和尚は慶長八年十一月上京し妙心寺で出世しますので天徳寺は妙心寺派と思われます。

  • [17]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)11時17分48秒
 
> > と言うことは父親の間違いを子が実地調査して訂正したということですね?
>
>  8番の記事は何番に対する返信ですか。

●6番の今城さんの記事にたいしてですが、分かりにくかったですね。

 父親景浦直孝(稚桃)氏が湯築城の石の大半は松山城に転用され、とくに北廓にはその大 石が著名であると主帳したのを、次男、勉氏が現地発掘調査を主帳した後、そのようなこ とは無かったと述べられたからです。

 つらつら考えるに直孝氏の根拠は
 「松山叢談」
 「勝山築城記」
 「伊予郡郷里諺集」
 「松府秘記」

 に影響されたのではと考えます。

 松山師範学校では、松山城の構造について

 「東西二峰の頂を切り下げて谷を埋めて一山とし、五層の天守を設けて本丸とし、
  二の丸(現今衛戊病院の所)、三の丸(兵営内の東北部)を設く。
  北廓は大手の大城戸、俗に高石垣と称する所、道後湯月の石材を運びて築けるもの
  当時の重臣佃十成を住まわしめしを以て佃廓とも云う」

 と教えて愛媛の子供達に広めていきました。

  • [16]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)10時46分36秒
 
>>8

> と言うことは父親の間違いを子が実地調査して訂正したということですね?

 8番の記事は何番に対する返信ですか。

  • [15]
  • Re: 湯築城の建物は移築された

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)10時43分55秒
 
>>12
> >  私は湯築城の瓦の廃棄状態も、建物を移築したことを物語ると見ております。湯築城の発掘調査で、大手門近くの溝に、瓦が袋に入れて捨てられていたのが見付かりました。4袋あり、中は紋様の付いた軒丸瓦や軒平瓦が殆んどで、紋様のない平瓦はありませんでした。

> ●この袋入りの瓦はいつの年代の層で見付かったものでしょうか?

 上記の通り、溝から見付かりました。この溝は廃城になるまで使われていました。その溝に捨ててあったということは、捨てたのは廃城後であることを意味します。

>  またこの袋の大きさと材質は何だったでしょうか?

 知りません。

  • [14]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)10時38分38秒
 
>>11
> ◎土盛だけだと水を入れると崩れるのですが?
>  堀底から高さはどのくらいだったのでしょう?
>  堤の淵から底に向って土盛の傾斜度はどのくらいでしょうか?

 全然知りません。

  • [13]
  • Re: 湯築城石垣転用説は誰が言い始めたのか?

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)10時35分15秒
 
>>10

 江戸時代に出来た伝承ではないでしょうか。

  • [12]
  • Re: 湯築城の建物は移築された

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)00時18分21秒
 
>  湯築城の建物は、どこかに移築されたと、私は見ております。松山城に湯築城から持って来た建材で作ったと伝わる櫓がありますので、移築先は松山城の可能性が高いでしょう。
>
>  私は湯築城の瓦の廃棄状態も、建物を移築したことを物語ると見ております。湯築城の発掘調査で、大手門近くの溝に、瓦が袋に入れて捨てられていたのが見付かりました。4袋あり、中は紋様の付いた軒丸瓦や軒平瓦が殆んどで、紋様のない平瓦はありませんでした。
>
>  紋様の付いた瓦は、それぞれの家で定めた紋様と異なるので捨てたのでしょう。一方、紋様の無い瓦は使えるので持って行ったのではないでしょうか。つまり再利用できる紋様の付いていない瓦が残っていないのは、建物が移築されたことを語っていると思います。

●この袋入りの瓦はいつの年代の層で見付かったものでしょうか?

 またこの袋の大きさと材質は何だったでしょうか?

  • [11]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)00時09分24秒
 
> > ●石垣が全くないと言うことは水を貯めない空堀構造だったということでしょうか
>
>  外堀、内堀とも水はちゃんと有りますよ。湯築城の堀は松山の灌漑水系の一部です。

◎土盛だけだと水を入れると崩れるのですが?
 堀底から高さはどのくらいだったのでしょう?
 堤の淵から底に向って土盛の傾斜度はどのくらいでしょうか?

 行基さんも弘法さんもこれには苦労したのですよね。

  • [10]
  • 湯築城石垣転用説は誰が言い始めたのか?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)23時51分3秒
 
なら、いつごろから伊予では湯築城石垣を松山城転用説を何に基づいて言い始めたのでしょうね?

景浦直孝さんの時代はこのことはほぼ常識とされ、愛媛県師範学校の一年生の教科書には同様なことが書かれ、卒業した先生達により、愛媛県下の生徒達に伝播していったのでしょうね。

曰く
「加藤嘉明、松山城を築くとき湯築城の石を取りきと伝う、この城は天正十五年より廃城
 となり、明治十九年公園として盛んに桜樹を栽培せり、外濠と内濠とは今なお二重に続き
 て周井およそ五百間あり(東西十九間、南北四十九間)」と

  • [9]
  • Re: 湯築城の建物は移築された

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)23時16分8秒
 
>>4

 湯築城の建物は、どこかに移築されたと、私は見ております。松山城に湯築城から持って来た建材で作ったと伝わる櫓がありますので、移築先は松山城の可能性が高いでしょう。

 私は湯築城の瓦の廃棄状態も、建物を移築したことを物語ると見ております。湯築城の発掘調査で、大手門近くの溝に、瓦が袋に入れて捨てられていたのが見付かりました。4袋あり、中は紋様の付いた軒丸瓦や軒平瓦が殆んどで、紋様のない平瓦はありませんでした。

 紋様の付いた瓦は、それぞれの家で定めた紋様と異なるので捨てたのでしょう。一方、紋様の無い瓦は使えるので持って行ったのではないでしょうか。つまり再利用できる紋様の付いていない瓦が残っていないのは、建物が移築されたことを語っていると思います。

  • [8]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)23時09分55秒
 
と言うことは父親の間違いを子が実地調査して訂正したということですね?

  • [7]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)22時52分59秒
 
>>5
> ●石垣が全くないと言うことは水を貯めない空堀構造だったということでしょうか

 外堀、内堀とも水はちゃんと有りますよ。湯築城の堀は松山の灌漑水系の一部です。

  • [6]
  • 湯築城が国史跡に指定されるまで

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)22時43分13秒
 
>>4

 松山城を築くとき湯築城から何もかも持って行き、湯築城は破壊されたという伝承が、今振り返ると本格的調査を邪魔していました。この伝承が真実と信じられていたため、発掘しても何も出て来ないと考えられていて、発掘しても無駄と思われていたと聞いています。

 湯築城跡に日本庭園を造ろうという計画が起きあがり、行政は当然事前発掘をしなければなりませんが、その時発掘しても無駄という空気の中で、発掘調査を強く主張したのが景浦勉氏でした。

 行政発掘が始まると、予想に反して出るわ出るわで遺構も遺物も残りが非常に良いことが判明し、この時点で壊されたという伝承は誤りと判りました。そこでこんな貴重な遺跡を潰してはならぬと、川岡先生始め愛媛大学の先生達が湯築城の保存運動を立ち上げ、13年の長年月にわたる運動の末目的を達成し、湯築城跡は今では国の重要文化財として国史跡に指定され、日本百名城にも選ばれる結果となりました。

 湯築城の今日があるのは、景浦先生や川岡先生の御蔭と言って間違いありません。湯築城跡を守る会の活動の中で、会の活動を伝えるサイトを開き、談話室ゆづきは運動を進める人達の交流を図るため、そのサイトの掲示板として開設したのが始まりで、その後種々の変遷を経て今に至りました。

  • [5]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)22時23分3秒
 
●石垣が全くないと言うことは水を貯めない空堀構造だったということでしょうか

  • [4]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)20時35分1秒
 
>>3
> >>2
>
>  建物は移築したでしょう。その可能性は高いと思います。
>
>  石を松山城に運んだと言う件は、発掘調査の結果否定されました。この結論を出したのは湯築城の発掘調査員です。川岡教授始め研究者から異論は全然出なかった筈で、今では仮説でなく定説となっており、松山城のガイドも以前は、湯築城から石を持って来たと説明していましたが、今は訂正され、湯築城から持って来たと言う説明はしていません。
>
>  材質分析の結果、松山城の石垣の石を切り出した場所は二箇所と判明し、どこだったか覚えていませんが、その場所も判っているようです。

●なるほど・・・。
 なら景浦氏の全く見当違いの話なのですね?

  • [3]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)20時00分14秒
 
>>2

 建物は移築したでしょう。その可能性は高いと思います。

 石を松山城に運んだと言う件は、発掘調査の結果否定されました。この結論を出したのは湯築城の発掘調査員です。川岡教授始め研究者から異論は全然出なかった筈で、今では仮説でなく定説となっており、松山城のガイドも以前は、湯築城から石を持って来たと説明していましたが、今は訂正され、湯築城から持って来たと言う説明はしていません。

 材質分析の結果、松山城の石垣の石を切り出した場所は二箇所と判明し、どこだったか覚えていませんが、その場所も判っているようです。

  • [2]
  • Re: 湯築城の遺構は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)19時29分52秒
 
>>1
> > 河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
> > とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?
>
>  湯築城跡発掘調査の結果、石垣が壊されたと言う伝承は完全な間違いであることが判明しました。
>  そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。湯築城跡においても、石垣も石垣を壊した跡も全然発見されず、遺構が非常に良く残っておりました。松山城築城に際して湯築城から石を運んだと言う伝承は、湯築城の実態が判らなくなった後世に作られたらしいと言われています。

●そうですか?
 川岡さんはそのように言ってますね?

 となると「伊予古蹟史」が伝える加藤嘉明が松山城築の時、「湯月城」の用材を転用した
 とされるのは誤りなのですね?これは木材のようですが。

 しかしそうなると景浦稚桃氏が断じた「松山城の石塁の多くは湯築城のもので、特に北郭
 に於いて大きな石材をみることができる」とのことは、景浦先生発言の根拠は伝承だった
 のでしょうか?
 仮にも伊予史談会をリードした方ですからそうは思えないのですが?

 そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。

 ●これも時期と場所によって違うのではないでしょうか?

 戦国時代になるとわれもわれもと石を組み始めますし。
 専用の石工集団がいました。

 中世の美濃土岐本城の革手城も石組です。
 古くは「野面積み」でのちに現在のような形式になります。
 仙台青葉城のように現在の石垣の下から古い時代の野面積みの石垣が次々と発掘されま  す。

 瀬戸内海沿岸は比較的良質な花崗岩を切ることができますので石垣は多かったと思います が。
 水戸城や会津若松城や弘前城は現在でも殆ど石垣がなく土塁ですが、これは近くに良質な
 石を採ることが出来なかったからと言われています。
 豪雨のたびに崩れますので、水戸黄門の子が高松から石垣材を船の乗せて水戸藩港那珂湊
 を積みだしたが、途中の時化で転覆し、それ以降水戸藩は石垣組は諦めたとか。

 革手城は石垣を全部もって行かれて近くの城の土台になっています。

 幻の湯築外堀石材かもしれませんね?

  • [1]
  • 湯築城の遺構は

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)11時17分2秒
 
> 河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
> とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?

 湯築城跡発掘調査の結果、石垣が壊されたと言う伝承は完全な間違いであることが判明しました。
 そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。湯築城跡においても、石垣も石垣を壊した跡も全然発見されず、遺構が非常に良く残っておりました。松山城築城に際して湯築城から石を運んだと言う伝承は、湯築城の実態が判らなくなった後世に作られたらしいと言われています。


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