• [0]
  • 河野系図異同は通信以降に始まった?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月24日(土)10時12分26秒
 
整理のため「河野家大系図」を作成していると、合わなくなる最初が通信の子供達からです。
子供の順番(序列ではない)が狂うと、後世分の修正が大変です。

河野系図に拠らずとも系図の作成は、記入者及び転記者、並びに当時の「御家」の価値観
に左右され変化している模様です。

原因とすれば、部族間の「長」の認識の違いかと。

?「一族」、と「一黨」の違い。
?一族の内、「長子」と「次子」の違い。
?、?の内でも「嫡子」と「庶子」の違い。
?、?の内でも「嫡男」と「惣領」の違い。

上記の解釈の違いにより河野通信以降の系図の書順が違う「河野系図」が量産される。

現在伝わる河野系図は?から?を注意して見ていく必要がある。

親清以前は「越智系図」を借用したものと思われるから、「越智系図」に異同がある「系図」の後裔の方は逆に越智氏後裔の可能性が高い。

さて、河野通信の子の序列は如何なものであろうか?

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [17]
  • Re: 河野系図異同は頼清までさかのぼる?

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 6月 3日(日)10時40分31秒
 
  呑舟さん。
  こちらも、書き方が悪かったようです。
  河野系図 → 黒川系図(写)です。


>>16
> 失礼! 親清を頼清と間違って途中で変換していました。三島四郎親清のことです。
>
> また、群書類従本の「河野系図」「越智系図」「予陽河野家譜」も
>
>   ①親経→②親清→通清 となっていたと思いますが?
>
>  ご提示の下記の「河野系図」どこに伝わる河野系図でしょうか?
> >
> >   河野系図は①親清→②親経→③通清となってます。
> >
> >    八幡太郎義家の末子の親清は、源頼義が伊予守の時に源頼義の子として
> >     北条親経の家を継ぎ河野郷に住し、河野冠者と称した。
> >     親清は世嗣がないので、頼義の四男(河野親経)を養子に迎え
> >     養育の後に家を譲る。
> >     で、理屈は合ってると思いますが?
>
>  こちらは逆に親清の記事と親経の記事が混乱しているようですね。
>
> ●いづれにしろどれも河野関係文書が出典ですのでよく分らないのです。
>  源氏の関連系図には源 親清こと、河野系図における「三島四郎親清」がいないのです。
>
>  源 頼義の子を源系図から、 生れた順に並べ替えると
>
>  ① 長庶子 快誉 出家   [生1036~没1112] 【庶子の為、長子なるも系図上末子扱い?】
>
>  ② 嫡長男 義家 八幡太郎 [生1039~没1106・7/4]
>                 【庵主様提示の「我が物」によると没年が天仁元年(1108)
>                  6/18日卒とされてますが、厳密に言いますと天仁改元は
>                  1108年8月3日とされますので嘉正時代でないと合いません。
>                  「我が物」は後世の書物からの引用ではないかと思われます】
>
>  ③嫡二男 義綱 加茂次郎  [生1042~没1132]
>
>  ④嫡三男 義光 新羅三朗  [生1045~没1127]
>
> とありますので生年はほぼ自然な流れです。
>
> これに対し「我が物」の
>
>  ⑤源 親清 三島四郎 [生1063.2/25日の【頼義伊豫任国日】の最低十月十日後以降】
>
> としようとするので、河野系図の編者が少し無理があると感じたのか、
> 頼義の子ではなく義家の末子と仮冒したと一次史料がないと、そう思われても仕方がないのです。
>
> それにまた、八幡太郎義家流の系図にも源親清なる人物が見出せないのです。
>
> また源頼義流の通字は「義」ばかりです、嫡男八幡太郎義家流も「義」ばかりです。
> そこに突然「親清」を登場させるのは違和感を感じてしまいます。
>
> 実態はよくわかりません。
>
> また「河野系図」が多用する「国司」と云う意味もよく分らないのです。
>
>
> >     呑舟さんの書かれている下記の「三島四郎頼清」はどの
> >     位置に居る方でしょうか?
> >     私も良く解ってないので、教えてください。
> >
> >
> > >
> > >  また、源 頼義系図には末子に頼清は私は見出せないのですが「我が物」の出典は
> > >  何なのでしょうか?
> > >  これが河野関係文書では論拠にならないのですが、別の他家一次史料があったのでしょうかね?
> > >
> > >  この人物は「予陽河野家譜」になると
> > >  『親経一男 親清、三島四郎 又号河野冠者 任伊豫権佐更通明
> > >
> > >   前国司頼義朝臣雖為末子、実義家末子祖父養子也』
> > >
> > >  とあり親清は親経の子とされますが、親経は「養父」の意味でしょうか?
> > >  伊豫権佐なる官職がなにかわかりませんが、なにか流れが変ですね。
> > >
> > >  また続いて前国司源頼義の末子と言いながら、実は頼義の嫡男義家の末子でその子を義家の父
> > >  頼義の養子としたと記されているようです。
> > >
> > >  いったい三島四郎頼清の実父は誰なのでしょうね?
> > >  義家が自分の末っ子をわざわざ、父頼義の養子にし、自分の兄弟に格上げする必要性が
> > >  何故あるのでしょうか?
> > >
> > >

  • [16]
  • Re: 河野系図異同は頼清までさかのぼる?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月 3日(日)09時52分25秒
 
失礼! 親清を頼清と間違って途中で変換していました。三島四郎親清のことです。

また、群書類従本の「河野系図」「越智系図」「予陽河野家譜」も

  ①親経→②親清→通清 となっていたと思いますが?

 ご提示の下記の「河野系図」どこに伝わる河野系図でしょうか?
>
>   河野系図は①親清→②親経→③通清となってます。
>
>    八幡太郎義家の末子の親清は、源頼義が伊予守の時に源頼義の子として
>     北条親経の家を継ぎ河野郷に住し、河野冠者と称した。
>     親清は世嗣がないので、頼義の四男(河野親経)を養子に迎え
>     養育の後に家を譲る。
>     で、理屈は合ってると思いますが?

 こちらは逆に親清の記事と親経の記事が混乱しているようですね。

●いづれにしろどれも河野関係文書が出典ですのでよく分らないのです。
 源氏の関連系図には源 親清こと、河野系図における「三島四郎親清」がいないのです。

 源 頼義の子を源系図から、 生れた順に並べ替えると

 ① 長庶子 快誉 出家   [生1036~没1112] 【庶子の為、長子なるも系図上末子扱い?】

 ② 嫡長男 義家 八幡太郎 [生1039~没1106・7/4]
                【庵主様提示の「我が物」によると没年が天仁元年(1108)
                 6/18日卒とされてますが、厳密に言いますと天仁改元は
                 1108年8月3日とされますので嘉正時代でないと合いません。
                 「我が物」は後世の書物からの引用ではないかと思われます】

 ③嫡二男 義綱 加茂次郎  [生1042~没1132]

 ④嫡三男 義光 新羅三朗  [生1045~没1127]

とありますので生年はほぼ自然な流れです。

これに対し「我が物」の

 ⑤源 親清 三島四郎 [生1063.2/25日の【頼義伊豫任国日】の最低十月十日後以降】

としようとするので、河野系図の編者が少し無理があると感じたのか、
頼義の子ではなく義家の末子と仮冒したと一次史料がないと、そう思われても仕方がないのです。

それにまた、八幡太郎義家流の系図にも源親清なる人物が見出せないのです。

また源頼義流の通字は「義」ばかりです、嫡男八幡太郎義家流も「義」ばかりです。
そこに突然「親清」を登場させるのは違和感を感じてしまいます。

実態はよくわかりません。

また「河野系図」が多用する「国司」と云う意味もよく分らないのです。


>     呑舟さんの書かれている下記の「三島四郎頼清」はどの
>     位置に居る方でしょうか?
>     私も良く解ってないので、教えてください。
>
>
> >
> >  また、源 頼義系図には末子に頼清は私は見出せないのですが「我が物」の出典は
> >  何なのでしょうか?
> >  これが河野関係文書では論拠にならないのですが、別の他家一次史料があったのでしょうかね?
> >
> >  この人物は「予陽河野家譜」になると
> >  『親経一男 親清、三島四郎 又号河野冠者 任伊豫権佐更通明
> >
> >   前国司頼義朝臣雖為末子、実義家末子祖父養子也』
> >
> >  とあり親清は親経の子とされますが、親経は「養父」の意味でしょうか?
> >  伊豫権佐なる官職がなにかわかりませんが、なにか流れが変ですね。
> >
> >  また続いて前国司源頼義の末子と言いながら、実は頼義の嫡男義家の末子でその子を義家の父
> >  頼義の養子としたと記されているようです。
> >
> >  いったい三島四郎頼清の実父は誰なのでしょうね?
> >  義家が自分の末っ子をわざわざ、父頼義の養子にし、自分の兄弟に格上げする必要性が
> >  何故あるのでしょうか?
> >
> >

  • [15]
  • Re: 河野系図異同は頼清までさかのぼる?

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 6月 3日(日)07時39分47秒
 
呑舟さん、庵主さん。
 下記、少し考えてみました。

  河野系図は①親清→②親経→③通清となってます。

   八幡太郎義家の末子の親清は、源頼義が伊予守の時に源頼義の子として
    北条親経の家を継ぎ河野郷に住し、河野冠者と称した。
    親清は世嗣がないので、頼義の四男(河野親経)を養子に迎え
    養育の後に家を譲る。
    で、理屈は合ってると思いますが?
    呑舟さんの書かれている下記の「三島四郎頼清」はどの
    位置に居る方でしょうか?
    私も良く解ってないので、教えてください。


>
>  また、源 頼義系図には末子に頼清は私は見出せないのですが「我が物」の出典は
>  何なのでしょうか?
>  これが河野関係文書では論拠にならないのですが、別の他家一次史料があったのでしょうかね?
>
>  この人物は「予陽河野家譜」になると
>  『親経一男 親清、三島四郎 又号河野冠者 任伊豫権佐更通明
>
>   前国司頼義朝臣雖為末子、実義家末子祖父養子也』
>
>  とあり親清は親経の子とされますが、親経は「養父」の意味でしょうか?
>  伊豫権佐なる官職がなにかわかりませんが、なにか流れが変ですね。
>
>  また続いて前国司源頼義の末子と言いながら、実は頼義の嫡男義家の末子でその子を義家の父
>  頼義の養子としたと記されているようです。
>
>  いったい三島四郎頼清の実父は誰なのでしょうね?
>  義家が自分の末っ子をわざわざ、父頼義の養子にし、自分の兄弟に格上げする必要性が
>  何故あるのでしょうか?
>
>

  • [14]
  • 河野系図異同は頼清までさかのぼる?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月 1日(金)19時09分4秒
 
通信以降もよく分らないが、その前の頼清の代からもよくわからない。
本スレッドの庵主様のご提示系図と他の系図や古文書を比較検証するとますます謎が深まります。

本スレッドはそのうち何処に書いたか分らなくなるので転載しますと。

『> No.3630[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

> 重ねて、黒川師への道案内の道標の一端にご参考までに、我が家の先祖・通重(文禄三年午甲・1594年卒・菩提寺は土佐之国・真静寺・戒名は差し控えさせて頂きます)なる者が『我が物』と記して~後世の子孫に書き残しております家伝の書(明治時代に同族通幸・横瀬の郷の在・なかなか氏のご尊父が翻訳・書き写す)を以前に譲り受けて座右の書として身近に置いており~その内容には、源氏の血筋の系統図が見受けられます。
> ご参考までに、為義殿との繋がりが垣間見えれば幸いです・・・南無。

●貴重な「我が物」なる家伝の系図のご披露有り難うございます。

 ここでもよく判らないのは「源 親清」なる人物ですね。

「我が物」によると
 『源 親清 三島四郎
   父頼義伊豫任国時出生 三島四郎為養君河野継家」

 とありますので、父親は源 頼義(988~1075)で彼が伊豫守任官は
 康平6年(1063)2月25日とされますので、この記述が正しいなら、親清は早ければ
 1064年生まれとなりますね。この時父は76歳前後とされますので相当「絶倫」の
 限りとなります。私では無理です。はあ。
 また、75歳で当時からすれば相当 高齢な頼義を伊豫守に任官し
 伊豫に送り込んだとするなら人使いの荒い、敬老精神のない使用者ですね。
 通常なら隠居していますよね。

 また、源 頼義系図には末子に頼清は私は見出せないのですが「我が物」の出典は
 何なのでしょうか?
 これが河野関係文書では論拠にならないのですが、別の他家一次史料があったのでしょうかね?

 この人物は「予陽河野家譜」になると
 『親経一男 親清、三島四郎 又号河野冠者 任伊豫権佐更通明

  前国司頼義朝臣雖為末子、実義家末子祖父養子也』

 とあり親清は親経の子とされますが、親経は「養父」の意味でしょうか?
 伊豫権佐なる官職がなにかわかりませんが、なにか流れが変ですね。

 また続いて前国司源頼義の末子と言いながら、実は頼義の嫡男義家の末子でその子を義家の父
 頼義の養子としたと記されているようです。

 いったい三島四郎頼清の実父は誰なのでしょうね?
 義家が自分の末っ子をわざわざ、父頼義の養子にし、自分の兄弟に格上げする必要性が
 何故あるのでしょうか?

 もっとも「予陽河野家譜」で齟齬が多い書ですので真面目に考えてはいけないのかもしれませんが。

 「予陽河野家譜」は出鱈目が多いので私が直すとして書き始めたのが「予陽河野盛衰記」の
 作者だったと記憶しますので、やはりあちこち辻褄が合わないのでしょうかね?

 予陽河野家譜の作者もあちこちに「・・・ではないか?」と自信のない書き方をしますので
 江戸中期の同書最終編纂期にはよく判らなかったのかもしれません。

 同書を「正史」と勘違いして伊豫の中世史として「市町村誌」に引用されますので変な流れと
 なっています。』

●やはり源 頼清出自はキーワードの一つとなります。

 それ以前の国造家越智氏との関連もよくわかりません。

 源頼清流は河内源氏の流れともされ、同末裔を標榜する「和州・越智家」の伝承が
 紛れ込んでいる可能性も否定できません。

 同時代は古文書等によると越智家は三つ存在しているようです。

 ① 伊豫国造家末裔の越智家

 ② 京で相撲道を家業としたらしい越智家

 ③ 河内源氏を末裔とする和州・越智家
   (和州・越智家は以前話題となった、伊豫で河野家に追われ和州に落ち延びたとされる
    伊豫・国造家の末裔との異説もありますが、現和州越智家の子孫はこの説を否定します)

上記三家の伝承をつなぎ合わせると「予陽河野家譜」や「予章記」の記述と合ってくる感じも
するのも不思議です。

やはりどの文書も何時の時代に書かれたかを時系列に並べないと分りませんね。
時代が若いものほど異説が混在しているようです。

これは河野家だけに限るものではなく、「予州・大野家」も「三島・村上家」も同様です。



  • [11]
  • 昔の話題に戻しましてスミマセン

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 2月 3日(木)22時40分29秒
 
海遊庵主師には、またまた秘伝の系図をお見せ頂き有り難く存じます。嫡流ではないのですが、
45代通久に左側に見える通弘、別府七郎左衛門が1月4日にお見せ頂いた通忠の室、
別府七郎左衛門通朝の女と同姓であることで、通弘と通朝は親子か、はたまた兄弟か、と二つの
系図の写真を拝見して師の仰る仏縁を感じました次第です。

ネット上で公開されている河野系図は水里原義河野系図(清和源氏系)と鈴姫様の
孝霊天皇より始まる河野越智系系図あたりですが、前者では通信の子供として
新居玉氏の女を母とする通俊、通政、通弘、二階堂入道の女を母とする通末、北条時政の
女を母とする通久、通継、女子、通宗があげられています。豫章記には通継は通久の次男で
母は祐経の女とあるので一致しませんね。海遊庵主師の系図では上記通弘の母が北条四郎時政と
ありますので、通久とは兄弟であろうと思いますが鈴姫様の河野越智系系図にも出ていません。
このスレッドの始めで呑舟師が整理されたよりも子供の数が多いようですが、笑。

もう1点は、海遊庵主師の系図では冒頭の(野嶋家が庶流である先祖の)通忠と別府七郎左衛門
通朝の女の子供である通貞でして、鈴姫様の河野越智系系図では通久の兄弟のように見えます。

私なりに親清から通直牛福丸までの系図を「縦書き」で整理してみましたが、1MB弱と重いこと、
内容にも自信がないのでたたき台のもならないかとupさせていただくには躊躇致します次第です。

  • [10]
  • Re: 大元の義・・今少しご案内下さいませんか

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2010年 8月 4日(水)14時48分31秒
 
●この予章記は「長福寺本」そのものですね。
> >
> >   予章記には古写本の系統とされる、故長山源雄氏の筆写本の「上蔵院本予章記」と
> >
> >   流布本の代表とされる北条の「長福寺本予章記」が有名なことはご案内の通りです。
>
>  ●もしかすると流布本の「長福寺本」系の得能次郎左衛門通忠の写本系かも知れませんね。
>  どしらにしろこちらは若い編纂物と思われます。
>  通忠本なら巻尾に南明のことが書かれていると思いますが。
>
>  結論からすると「江戸期の編纂物」と思われます。
>
>  13世紀の「平家物語」14世紀の「太平記」引用を多くして、江戸初期の地名「今治」の
>  表示がありませんか?
>  南明師の記述があれば間違いないと思いますが・・・・。
>
>  古写本予章記の書き出しは全く違いますし、最初から現松山地方に展開し
>  どうしても孝霊天皇を祖としたい意欲が伝わってきます。
>
>  どうしてニギハヤヒではなく孝霊天皇にしなくてはならなかったのかよく分かりませんが
>  、重大な理由があったのでしょうね。
>
>  この史観があった時代が「予章記」の揺籃期と思われます。
>
>  考えられるのは、
>  ①今治地方で展開した「国造家越智家」との区別化。
>  ②源氏の棟梁系を強調するため頼清をいれ、連綿性を高めるため三並等を登場させた。
>  ③最大の動機は「神別」を「皇別」に書き換えることにあった。
>  ④もともとは、道前、道後の一部を支配した部族の箔付け書の編纂であった。
>
>  ④は河野後裔の方に袋叩きにされそうですが、私はどれもみな時代の変遷とともに
>   予章記も河野系図も語っていると思われます。
>
>  ①は外位しか貰えない越智国造家であり中央政府をして、一、地方豪族扱いであることは
>   「続日本紀」の記述から明らかです。
>    遠祖はニギハヤヒ系物部とされていたのでしょう
>
>  ②の頼清以降の河野系図は他の文献等により史実としての検証が可能ですが、
>   それ以前はクリエイティブです。
>
>  ③の動機が一番強いのですが、
>   「神別」すなわち神武天皇を支えた重臣たちの子孫たち。
>   「皇別」すなわち天王(天皇)家の一族の子孫たち。
>    がブランド争いをした時期があるのでしょう。
>
>  河野系文書も無理したせいか、または、意味が分からなかったのか、
>  文中に天皇の臣下を意味する「宿禰姓」を書き残してしまっています。
>
>  当方の専門の「予州大野系図」も同様な書き換えを行っています。
>
>  「河野家譜」と歩調を合わせるような記述が散見されます。
>
>  こちらの最大の改竄は「神別」を「皇別」に書き換えたことです。
>
>  本来は「神別」であるべき「大伴姓」であるのを「皇別」にしたいため「天智天皇の
>  御子、大友の王子より始まる」と書き直してしまったから辻褄があわなくなってしまいました。
>
>  ④は不自然に河野系図に越智伝承を継ぎ足したと思えるからです。
>   「お伽話調」が急に「トキュメンタリータッチ」に変わります。
>   信用して貰うために『「平家物語」や「太平記」によると』と主帳を強調しています。
>   これは不自然と写ります。
>
>   伊予史談会の景浦氏は前半部分は荒唐無稽で信用ならないとされています。
*頷けること多き感なり・・感謝。
神別・皇別の義、真に諸説の原典を見ゆ。
豫章記の内訳も~御伽噺の領域を常識の見地により御簾越さざるを得ない神域から~人皇の御世に焦点を合せて其の原典を語る書あり。(全く同意なり)
我が家の伝承の豫章記も、本来なら喫茶室にご案内することも、庵主としては何の躊躇も御座らぬが、この書物はなかなか氏の御祖父からご尊父に受け継がれた個人的編纂の書にて候えば一存にては御披露すること叶わず何れの日にか~其の機会が有ろうかと考えます。南無

  • [9]
  • Re: 大元の義・・今少しご案内下さいませんか

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 8月 4日(水)04時40分30秒
 
> > 呑舟師、「豫章記」の原典は、何年の頃その原典が編纂されたのでしょうか? 是非ご教示願えませんか?
> > 我が家の豫章記は「几吾朝日本秋津洲豊葦原之中津国之者大洋海之東扶桑洲也」~から始まる古書なり。・・その原本を現代文に解読成されたのが、先般、長寿を真至なされた・・なかなか氏の故御尊父様です。

>  ●この予章記は「長福寺本」そのものですね。
>
>   予章記には古写本の系統とされる、故長山源雄氏の筆写本の「上蔵院本予章記」と
>
>   流布本の代表とされる北条の「長福寺本予章記」が有名なことはご案内の通りです。

●もしかすると流布本の「長福寺本」系の得能次郎左衛門通忠の写本系かも知れませんね。
 どしらにしろこちらは若い編纂物と思われます。
 通忠本なら巻尾に南明のことが書かれていると思いますが。

 結論からすると「江戸期の編纂物」と思われます。

 13世紀の「平家物語」14世紀の「太平記」引用を多くして、江戸初期の地名「今治」の
 表示がありませんか?
 南明師の記述があれば間違いないと思いますが・・・・。

 古写本予章記の書き出しは全く違いますし、最初から現松山地方に展開し
 どうしても孝霊天皇を祖としたい意欲が伝わってきます。

 どうしてニギハヤヒではなく孝霊天皇にしなくてはならなかったのかよく分かりませんが
 、重大な理由があったのでしょうね。

 この史観があった時代が「予章記」の揺籃期と思われます。

 考えられるのは、
 ①今治地方で展開した「国造家越智家」との区別化。
 ②源氏の棟梁系を強調するため頼清をいれ、連綿性を高めるため三並等を登場させた。
 ③最大の動機は「神別」を「皇別」に書き換えることにあった。
 ④もともとは、道前、道後の一部を支配した部族の箔付け書の編纂であった。

 ④は河野後裔の方に袋叩きにされそうですが、私はどれもみな時代の変遷とともに
  予章記も河野系図も語っていると思われます。

 ①は外位しか貰えない越智国造家であり中央政府をして、一、地方豪族扱いであることは
  「続日本紀」の記述から明らかです。
   遠祖はニギハヤヒ系物部とされていたのでしょう

 ②の頼清以降の河野系図は他の文献等により史実としての検証が可能ですが、
  それ以前はクリエイティブです。

 ③の動機が一番強いのですが、
  「神別」すなわち神武天皇を支えた重臣たちの子孫たち。
  「皇別」すなわち天王(天皇)家の一族の子孫たち。
   がブランド争いをした時期があるのでしょう。

 河野系文書も無理したせいか、または、意味が分からなかったのか、
 文中に天皇の臣下を意味する「宿禰姓」を書き残してしまっています。

 当方の専門の「予州大野系図」も同様な書き換えを行っています。

 「河野家譜」と歩調を合わせるような記述が散見されます。

 こちらの最大の改竄は「神別」を「皇別」に書き換えたことです。

 本来は「神別」であるべき「大伴姓」であるのを「皇別」にしたいため「天智天皇の
 御子、大友の王子より始まる」と書き直してしまったから辻褄があわなくなってしまいました。

 ④は不自然に河野系図に越智伝承を継ぎ足したと思えるからです。
  「お伽話調」が急に「トキュメンタリータッチ」に変わります。
  信用して貰うために『「平家物語」や「太平記」によると』と主帳を強調しています。
  これは不自然と写ります。

  伊予史談会の景浦氏は前半部分は荒唐無稽で信用ならないとされています。

  • [8]
  • Re: 大元の義・・今少しご案内下さいませんか

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 8月 2日(月)22時32分44秒
 
> 呑舟師、「豫章記」の原典は、何年の頃その原典が編纂されたのでしょうか? 是非ご教示願えませんか?
> 我が家の豫章記は「几吾朝日本秋津洲豊葦原之中津国之者大洋海之東扶桑洲也」~から始まる古書なり。・・その原本を現代文に解読成されたのが、先般、長寿を真至なされた・・なかなか氏の故御尊父様です。

●「予章記」の原本がいつごろ成立したかは分かりません。

 ここで云う「予章記」編纂は鎌倉時代の初めに編纂されたと思われる、「河野予章記」
 のことを指しています。

 なぜなら、当初1本であった「予章記本河野系図」が通信以降にご案内のように系図の
 異同が発生しますから、鎌倉期以前に「予章記河野系図」は無かったと思われるから
 です。これは修史館も同様な見解を採っていると思われます。

 「通清討死之事」以前は不自然なのではないでしょうか?

 『我が家の豫章記は「几吾朝日本秋津洲豊葦原之中津国之者大洋海之東扶桑洲也」~から始まる古書なり。』

 ●この予章記は「長福寺本」そのものですね。

  予章記には古写本の系統とされる、故長山源雄氏の筆写本の「上蔵院本予章記」と

  流布本の代表とされる北条の「長福寺本予章記」が有名なことはご案内の通りです。

  • [7]
  • 大元の義・・今少しご案内下さいませんか

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2010年 8月 2日(月)21時46分33秒
 
呑舟師、「豫章記」の原典は、何年の頃その原典が編纂されたのでしょうか? 是非ご教示願えませんか?
我が家の豫章記は「几吾朝日本秋津洲豊葦原之中津国之者大洋海之東扶桑洲也」~から始まる古書なり。・・その原本を現代文に解読成されたのが、先般、長寿を真至なされた・・なかなか氏の故御尊父様です。

  • [6]
  • 河野系図の変遷は・・・?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 8月 2日(月)17時02分34秒
 
大元は
「予章記」本一本であった可能性がる。

「予章記」は鎌倉時代初期の編纂と思われ、伊予名門越智氏の「家記」を
「河野氏家記」に編纂しなおしたと思われる。

鎌倉時代以前の「越智系図」はどこに眠っているのでしょう???

 主だった「河野系図」は
 ①「古本紀氏系図裏書」本、
 ②「一条院坊官内侍原刑部卿」蔵本、
 ③「予章記本越智稲葉系図」本
  この三本は同系統である。

 ④「善應本」⑤「石出寺本」も予章記本の系統となる。

 こちらが庵主様秘蔵の系図と思われます。

よって、現在伝わる「河野系図」はこれらいづれかの亜流本と考えられます。

  • [5]
  • Re: 河野系図異同は通信以降に始まった?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 8月 2日(月)16時30分38秒
 
> ①河野系図(続群書類従系図部巻167所収)によると
>
>  通信の子は 通正(太郎)
>        通俊(得能冠者)
>        通末(河野八郎)
>        通久(河野九郎左衛門)とあり
>
> ②越智系図(続群書類従系図部巻167所収)によると
>
>        通俊(得能四郎大夫)
>        通政(河野太郎)
>        通末(河野八郎)
>        通久(河野九郎左衛門)
>        通広(別府七郎左衛門)とあり
>
> ③これらの諸本は総括し景裏勉氏は
>
>  通信の子は 通久(九郎左衛門)
>        通政(太郎)
>        通広(別府七郎左衛門)
>        通継
>        通俊(得能四郎太郎)
>
>  と書順を校正する。
>
●庵主様のところは②ですよね。

 修史館によると
 通信の嫡は通俊とし、通信は承久の乱に於いて北条の為に陸奥に流され、
 嫡子通政信濃葉廣に於いて殺され、
 二男通末は信濃に、
 通政の子、政氏通行は常陸に流され、
 河野の本領は没収せれれしなり。
 通俊は庶子にて別に得能と称したるを以てその采邑は失はざりしならん。
 よりてこれ以後通俊子孫連綿たり故に予章記等の系は通政、通末等系統に関らざる
 者を斥けて庶となし家を保ちし通俊を以て通信の嫡嗣と定め、
 又、通信四男は親兄弟と離れ鎌倉方に成て宇治川の先陣せし功により阿波の
 冨田庄賜り、後、伊予の石井郷に替へ賜いその子孫連綿たりと。

状況に応じた「系図作成」を傍証する。

  • [4]
  • Re: ほっとしました!・ぞ・・呑舟師

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月29日(木)03時13分38秒
 
>>3
> 通信の子・・通正?????の義、何故!!!!!。から始まりましたご案内には驚きました。(後刻訂正追記にて安堵しました)
> 先般来のテーマの件は・・誠に永年の興味深い事柄ですね。(同意也)
> さて、河野系図異・同の分岐点は、相当時代を溯る~21代玉奥(散位伊豫守・称伊予大領)と清義(河野六郎・土居之祖・また・1説にては新居之祖とも)の時代から、22代玉澄(宇摩大領樹下大神・・今治の郷に史跡在り
> ・・三嶋大明神移別宮佐理郷奉額と記す漢文は各自ご解読をお願いします)
> 土居の祖を別流河野氏の系図では、新居氏とも書き綴られております。
> 故に、我が家の系図では、河野氏諸流(土居・得能・能嶋・来嶋・怱那・三嶋内・松末・久枝・桑原・戒能・今岡・中川・重見・黒川・和田・大内・正岡・南・稲葉・一柳の各氏名を載せております)。
> 且つ、土居之一當として(越智・周敷・今井・松本・難波江・徳永・高部・新居・の各氏を記す)のです。(土佐国の別流河野氏の系図には・・土居之一當を・・新居の一當と記されております)・今のところ何故なのか?解りません。
> また、44代通信の子については、長子には通俊(母は新居太夫玉氏の女・依父之罪暫浪人)・を記し、注釈は、得能太郎・通俊は初め得能と号すと有れども時故に、記帳は略す・・添え書きを見ゆ。何故?・・。
> 二男には通政(母は北条四郎時政の女・初め得能太郎・河野太郎と号す)・三男には通末(母は北条時政の女・初め河野八郎・後土居八郎と号す)・四男には通久(母は北条時政の女・九郎左衛門尉・・通信之四男也父流罪之時在鎌倉北条時政依為孫暫此所ニテ浪人ス然所宇治川合戦云々~河野氏45代と記す)。
> 五男通弘(母は北条時政の女・別府七郎左衛門・後出家)、六男通宗(母は右同じ・土居十郎・後出家号弥佛)云々~長々と書き残されております。

●となると②の越智系図系ですね?

  • [3]
  • ほっとしました!・ぞ・・呑舟師

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2010年 7月25日(日)21時33分1秒
 
通信の子・・通正?????の義、何故!!!!!。から始まりましたご案内には驚きました。(後刻訂正追記にて安堵しました)
先般来のテーマの件は・・誠に永年の興味深い事柄ですね。(同意也)
さて、河野系図異・同の分岐点は、相当時代を溯る~21代玉奥(散位伊豫守・称伊予大領)と清義(河野六郎・土居之祖・また・1説にては新居之祖とも)の時代から、22代玉澄(宇摩大領樹下大神・・今治の郷に史跡在り
・・三嶋大明神移別宮佐理郷奉額と記す漢文は各自ご解読をお願いします)
土居の祖を別流河野氏の系図では、新居氏とも書き綴られております。
故に、我が家の系図では、河野氏諸流(土居・得能・能嶋・来嶋・怱那・三嶋内・松末・久枝・桑原・戒能・今岡・中川・重見・黒川・和田・大内・正岡・南・稲葉・一柳の各氏名を載せております)。
且つ、土居之一當として(越智・周敷・今井・松本・難波江・徳永・高部・新居・の各氏を記す)のです。(土佐国の別流河野氏の系図には・・土居之一當を・・新居の一當と記されております)・今のところ何故なのか?解りません。
また、44代通信の子については、長子には通俊(母は新居太夫玉氏の女・依父之罪暫浪人)・を記し、注釈は、得能太郎・通俊は初め得能と号すと有れども時故に、記帳は略す・・添え書きを見ゆ。何故?・・。
二男には通政(母は北条四郎時政の女・初め得能太郎・河野太郎と号す)・三男には通末(母は北条時政の女・初め河野八郎・後土居八郎と号す)・四男には通久(母は北条時政の女・九郎左衛門尉・・通信之四男也父流罪之時在鎌倉北条時政依為孫暫此所ニテ浪人ス然所宇治川合戦云々~河野氏45代と記す)。
五男通弘(母は北条時政の女・別府七郎左衛門・後出家)、六男通宗(母は右同じ・土居十郎・後出家号弥佛)云々~長々と書き残されております。

  • [2]
  • 訂正

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月25日(日)05時53分16秒
 
> ①河野系図(続群書類従系図部巻167所収)によると
>
>  通信の子は 通正(太郎)⇒通政

  • [1]
  • 河野系図異同は通信以降に始まった?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月25日(日)05時36分55秒
 
禅問答のような書き出しでは分かりませんよね。

①河野系図(続群書類従系図部巻167所収)によると

 通信の子は 通正(太郎)
       通俊(得能冠者)
       通末(河野八郎)
       通久(河野九郎左衛門)とあり

②越智系図(続群書類従系図部巻167所収)によると

       通俊(得能四郎大夫)
       通政(河野太郎)
       通末(河野八郎)
       通久(河野九郎左衛門)
       通広(別府七郎左衛門)とあり

③これらの諸本は総括し景裏勉氏は

 通信の子は 通久(九郎左衛門)
       通政(太郎)
       通広(別府七郎左衛門)
       通継
       通俊(得能四郎太郎)

 と書順を校正する。

一見、各系図の転記違いのように見えるが、どうも意味を持っているらしい。
 通信の子の序列が変わると後の家の家格に影響します。
 即ち、河野宗家、得能家、別府家、土居家の立場が変わってくる。

現在、河野後裔の方の秘蔵系図は①か②かの系列で分類されるのではないでしょうか?
それにより、原本の原本の特定がしやすくなります。

庵主様のところは如何でしょうか?

尚、①と②の違いは異同であって、錯誤、改竄とは思われません。
前述した「長」の認識の違いかと。


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