• [0]
  • 伊予黒川家と正岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年11月27日(土)08時23分28秒
 
伊予黒川家も正岡家も伊予河野家一門です。
近代に於いては、黒川通軌陸軍中将と正岡子規の家系として有名です。
黒川家も正岡家も伊予の歴史上は避けて通れない名門ですので関連の投稿はこちら
で話題にしたいと思います。
河野関係の中で言及すると埋もれてしまう傾向にありますので。
【予州黒川家】のサイトも中断しましたので流れが分からなくなりました。
正岡関係サイトは複数あるのですが、散発的な記事が多く、全体像がつかめません。

黒川家、正岡家に重点を置いた話題はこちらにしたいと思います。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [81]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 8日(水)05時43分45秒
 
>   この、分限は何時の年代頃になりますか?曽我部八右衛門は
>   千足の黒川八右衛門と同一人物と思われますが?

●お問合せにつき再度見直して見ましたが、よく分りません。
 江戸期であるのはわかるのですが年代が特定できません。
 分限者数の数の多さと、石高が細分化されてますので江戸中期から後期と思われます。
 厳密に書かれている人物の在位年を精査すれば分るのでしょうが・・・・。
 大野だけでも14名に達していますので分家分知を相当繰り返していると思われます。

 他の分限帳と比較して流れがつかめないかと挑戦中です。
 ひょこり出てくると思われます。

 その過程において黒田長政時代とされる分限帳(これは脱漏多し)には曽我部は見出せませんでしたが、
 欄外余白に何を意味するのか判りませんが
 「曽我部五右衛門通範」と書いてありました。通範は誰のことか分りませんか?

 黒田家分限帳はまだまだ沢山残っているようで少しづつ覗きにいくしかなさそうです。
 黒田如水はメモ魔のようで家臣たちも沢山メモリまくってます。

 萩藩譜録のように体系的にきちんと整理してくれていれば助かるのですが?

 今日は紀州徳川藩士大野を探索してみようと思っています。
 史料も増えてきたので点が線に繋がるかもしれません。
 こちらは「大野スレッド」で展開しましょう。

  • [80]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 2月 7日(火)19時40分8秒
 
呑舟さん
  この、分限は何時の年代頃になりますか?曽我部八右衛門は
  千足の黒川八右衛門と同一人物と思われますが?

>>79
> 現地にはいろとろと記録が残っているのでしょうが地の利がありません。
> 黒田藩に残る曽我部家の分限帳をUPしてみましょう。
> 最初の大身から相当減っていますので、減封や相次ぐ分家の結果と思われます。
> 黒田藩での系図や親類書が出てくればはっきりするのでしょうが、
> そのうち見つかるでしょう。

  • [79]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 4日(土)20時33分32秒
 
現地にはいろとろと記録が残っているのでしょうが地の利がありません。
黒田藩に残る曽我部家の分限帳をUPしてみましょう。
最初の大身から相当減っていますので、減封や相次ぐ分家の結果と思われます。
黒田藩での系図や親類書が出てくればはっきりするのでしょうが、
そのうち見つかるでしょう。

  • [78]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月 2日(木)20時09分5秒
 
>  NAOKOさんの書き込みを見て、少し進展しそうです。どのような
>  些細な事でも構いませんので、ご教示願えればありがたいです。
>  この資料は何処で手に入りますか?よろしければ教えて頂ければ
>  幸いです。
>
この資料は、お近くの県立図書館に蔵書されていれば「和歌山県史」というキーワードで検索できると思います。
【黒川瑞仙通政】に関しては私が転写した内容がすべてです。他の出仕者についても一行記載で終わりですので、探索するには他の文献を探さなければならないと思います。
大野(菅田)探索中に、黒川家に関する記述があればお知らせいたします。
こちらこそ宜しくお願いします。




  • [77]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 2月 2日(木)19時22分25秒
 
NAOKO様
 貴重な情報ありがとうございます。私は浅学ですので、今後も
 宜しくご教示お願い致します。
 紀州藩に医師として仕えた黒川ですが、以前私のHPにも
 記した事がありますが、その後裔の方が大阪より、西条に来て
 (5・6年前)一時住してました、其の方曰く大阪より
 着てますと、言われてました。
 家は伊予の黒川の出自でそれを調べに来たと言われてました。
 それより、驚いたのは、出会いです。丁度私は用事で西条から
 松山へ行く途中で小松の11号線沿いで其の方がヒッチハイクを
 していました。普段なら私は絶対と言う程、乗せる事は有りませんが、
 何故かその日は気分が止まれ乗せよの気分で、松山まで御一緒しました。
 その道中にて、詳細を聞き驚いた次第です。今でもこの方は何処かのサイト
 で、HPを開設していますがURLを忘れてしまい、今は疎遠です。
 NAOKOさんの書き込みを見て、少し進展しそうです。どのような
 些細な事でも構いませんので、ご教示願えればありがたいです。
 この資料は何処で手に入りますか?よろしければ教えて頂ければ
 幸いです。

>>76
> > ただ、紀州家に御殿医で黒川家の一部が入っていたのは、
> > 大阪在住の黒川さんの家系との事で聞き及んでいますが、
> > 証明するものは何もありません。
>
> ●黒川様へ
> 「和歌山県史研究第15号別冊」の『紀州藩由緒書と初代出仕者』をみていたら、黒川姓の人がいたので書き出してみます。すでにご存知の情報かも知れませんが、
>
> 【黒川瑞仙通政】
>  本国越後 生国伊予 (出仕時期)元禄15年 (役儀)西条藩医師 (禄高)五人扶持
>  (備考)先祖は、謙信家臣。通政は正徳六年五月宗直に従い紀州藩へ。


  • [76]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月 2日(木)13時12分30秒
 
> ただ、紀州家に御殿医で黒川家の一部が入っていたのは、
> 大阪在住の黒川さんの家系との事で聞き及んでいますが、
> 証明するものは何もありません。
> この話も含めて、話が堂々巡りしているような気が致します。

●黒川様へ
「和歌山県史研究第15号別冊」の『紀州藩由緒書と初代出仕者』をみていたら、黒川姓の人がいたので書き出してみます。すでにご存知の情報かも知れませんが、

【黒川瑞仙通政】
 本国越後 生国伊予 (出仕時期)元禄15年 (役儀)西条藩医師 (禄高)五人扶持
 (備考)先祖は、謙信家臣。通政は正徳六年五月宗直に従い紀州藩へ。

とありました。

●呑舟様へ
 「福岡藩初期(下)」は遠方へ貸し出し中なので、土佐へ戻ってくるのは2月末になるそうです。しばらくお待ちください。

  • [75]
  • 正岡・黒川・西原は・・

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月29日(日)20時55分9秒
 
呑舟さん
以前、写した系図(殆ど呑舟さんのと同じ)ですが、其の続きなる
記述がありましたので記します。
*やはり大まかに書くと「河野通直の子は正岡家(府中)で養育し
 正岡を名乗っているようです。その廉子は西原と名乗り続いて
 いるようです。以下省略して記します(漢字PCの漢字もあります)
「府中龍岡荘龍王寺卒給ヒメ三十五歳龍王寺殿号ス慶長十九年八月
三日息子菊千世丸十歳ニ成給メ正岡備中守常貞者元服具足河野四郎
通晴トソ名乗給福島太夫被扶持持五百人侍大将ニナリシガ是モ
非本意トテ府中高野荘イヌカイ城御入有テ幾程ニ卒ス
蓮明寺殿宗■居士号其子仁兵衛通重ト名乗其ノ子五男二女有リ
嫡男忠次郎二男水子也三男九郎四男源太郎五男菊松丸是ハ出家同郡
摩尼山光林寺照俊和尚佛子ト也受受戒、俊雅宗音房御室宮ニテ被任
法印上人官、四男源太郎通次ニ代々當家重書重器等悉以不残家督譲
源太郎改名シ源右衛門通次号ス姉姫ハ浮穴興右衛門貞室也ニ姫ハ
渡部正左衛門室也源右衛門通次ヨリ河野ノ名ヲ院密而正岡トモ名乗也
是モ正岡ト云モ嫡子計名乗。廉子タル分ハ西原ト云名ゾ名乗也
源右衛門通次子息四男四女有三男者密室入出家ス則
光林寺道場而受戒法印俊雅上人蒙授傳法汀阿閣梨■■御室宮ニテ
被任法印俊誉音教房云四男八右衛門代々家督ス伊予府中ノ農夫トゾ
成ス」

  • [74]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月28日(土)04時56分23秒
 
呑舟さん。以前に福岡のお墓の写真を送付して頂き存じて居ます。
現代墓ですので、コメントできませんが、その曽我部さんの資料から
解明できれば良いのですが。
千足の庄屋と勤めた黒川も2代、3代辺りは、曽我部を名乗り
(もしかするとこの2代は庄屋が交代?)また黒川の戻って
いますので、関連があるかもしれません。
後藤又兵衛は、大阪の陣で小松原付近で討死にとあり一緒に
付いていた、曽我部金右衛門も同じとおもわれます。
徳蔵については、詳細不明です。
ただ、紀州家に御殿医で黒川家の一部が入っていたのは、
大阪在住の黒川さんの家系との事で聞き及んでいますが、
証明するものは何もありません。
この話も含めて、話が堂々巡りしているような気が
致します。

  • [73]
  • Re: 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月27日(金)17時01分29秒
 
●曽我部五右衛門の子孫は今でも福岡にいると思いますのでそちらに史料があるかもしれませんね。
 現在の子孫の方が新調した墓の写真をUPしようと思いましたがサイズオーバーと言うことで
 叶いませんでしたので、直接メールで送信しました。同じ境内に同じ時期に伊豫をはなれ黒田家に
 仕えた大野家の墓も同送しました(参考までに)
 この寺は黒田家ゆかりの金竜寺で歴史マニアの間では貝原益軒の墓があることでも有名です。

 貝原益軒が寛永時代に書いた「黒田家臣傳」によると
 曽我部五右衛門について
 ①本姓黒川と云い伊予の人也
 ②天正年中秀吉公に攻め亡ばされ浪人となり毛利家を頼り中国にて老死
 ③その子嫡子、五右衛門、二男金右衛門と云う。
 ④天正13年 五右衛門二十三(歳)弟、金右衛門九歳、にて(黒田)孝高の所に来て仕える。
 ⑤天正15年 孝高は五右衛門に二千石を与える。この時、五右衛門、黒田の黒を憚り、黒川姓を
  母方の名の曽我部に改める。
 ⑥文禄元年 朝鮮の役に(黒田長政とともに)出陣する。
 ⑦慶長5年 如水と大友の戦い(石垣原の戦い)で主将久埜次右衛門が若武者のため、彼の後見として
  戦い討死する。この時、三十八歳。
 ⑧子、徳蔵は父の録二千石を相続、孤弱により、後藤又兵衛の婿となる。
  又兵衛、福岡を去るとき、徳蔵も同じく大坂の城の戦い(大坂の陣か)で落城の後、紀州太守に
  仕え采地千石あり(後、略とあり)

これらは寛永8年(1631)の作と思われるので傳といえどもほぼ史実に近いものと思われます。
貝原益軒は黒田藩命を受け「黒田家譜」も編纂しているので当時の黒田藩資料をすべて猟集できる立場で
ありました、この家譜にも曽我部五右衛門や大野三兄弟の活躍も記録されています。

「紀州家中系譜並びに親類書書上げ」によると後藤又兵衛の子孫らしき名は多数ありました。
 徳蔵が福岡に帰ったか、徳蔵に弟がいたか、その後の黒田藩分限帳にも曽我部家が見出せますが
 禄高が相当落ちています。こちらの子孫が金竜寺の墓を守っているのではないでしょうか。
 となると、この墓の始祖は黒川通貫の子の五右衛門と思われますね。

 曽我部文書を秘蔵する松山の曽我部さんも福岡から帰ってきた一人かもしれませんね。




  • [72]
  • Re: 竹原渡航

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月27日(金)05時23分7秒
 
> すみません よくギブアンドテイク と云いますが 戦災に会い資料はすべて焼失しました
> 又父母も亡くなりなりましたので 今は何も調べようが無い状態です
>
> ただ 父が生前 竹原に渡り その後流浪したと聞いています
>
> そんなわけで 竹原の渡航・状況が気になりましたので 投稿してみました

●状況は分りました。竹原に渡りその後流浪した人たちは大勢います。
 調べようがないこともありません。
 父親の口伝そのものがヒントでしょう。

 ①まず伯父伯母は存命ではありませんか? ならもう少しヒントがもらえるかも知れません。
 ②従弟たちはいませんか? それぞれの親たちからなにか出自を聞いていませんか?

次に客観的史料を集めて見ましょう。
 ①まず姓は何で、先祖の姓名は何代まで分りますか?
 ②名に同じ字を使う習慣はのこっていませんか?(河野家系なら通の字を通字とします)
 ③今は家紋は何を使ってますか? 墓があらばその刻印紋で一番古い墓のもの。
 ④菩提寺の名と住所、その宗派とその由緒はわかりませんか?
 ⑤父、祖父の本籍地が同じであればその本籍地市役所(役場)に「改姓原戸籍」を請求してみてください。
  (廃棄されてなければ、江戸末期までの正確な先祖の人名と家族関係がわかります。ただし、直系子孫
   の請求でないと戸籍係は謄本をくれませんので、その場合は従弟か甥に頼む必要があります)

だいたい以上が先祖探し入り口の手段ですが、
貴方の本名(個人情報のからみがありますので名は要りません)、家紋、菩提寺(宗派)、通字が分れば
だいたい絞り込みをすることもできますが・・・・。

がんばりましょう。

  • [71]
  • Re: 竹原渡航

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月27日(金)02時23分29秒
 
> 又本レスは「正岡 黒川家」ですが 予章記は 河野家資料が黒川家室へ
> 持ち込まれて 南明が編集と聞いたことが有りますが そうのでしょうか?

 ● 予章記はその通りとおもいます。何通りかの 予章記があり、南明が
  長福寺に持って来たのは、(長福寺本)と呼ばれています。
  他に(築山本)もあります。いずれも伊予史談会から現代文にして
  発売されています。普通私たちが目にするのは、この2つです。
  

  • [70]
  • Re: 竹原渡航

  • 投稿者:竹原メール
  • 投稿日:2012年 1月26日(木)22時31分32秒
 
>>68
> 竹原様。おはようございます。
> 私も素人ですので、河野家の詳細はわかりませんが、
> 大まかに言えば、秀吉の四国討伐(天正13年)以降
> に移動したものと思います。
> 竹原様の家も何か云われがあるのでしょうか?
> 色々と書き込みをお願い致します。

すみません よくギブアンドテイク と云いますが 戦災に会い資料はすべて焼失しました
又父母も亡くなりなりましたので 今は何も調べようが無い状態です

ただ 父が生前 竹原に渡り その後流浪したと聞いています

そんなわけで 竹原の渡航・状況が気になりましたので 投稿してみました

又本レスは「正岡 黒川家」ですが 予章記は 河野家資料が黒川家室へ
持ち込まれて 南明が編集と聞いたことが有りますが そうのでしょうか?


  • [69]
  • Re: 竹原渡航

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月26日(木)14時23分23秒
 
竹原さま、真に憧憬の誼かと。
是非、引き続いてご先祖さまの伝承をこのサイトにてご安心成されてご交流をお願いします。南無


  • [68]
  • 竹原渡航

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月26日(木)05時47分9秒
 
竹原様。おはようございます。
私も素人ですので、河野家の詳細はわかりませんが、
大まかに言えば、秀吉の四国討伐(天正13年)以降
に移動したものと思います。
竹原様の家も何か云われがあるのでしょうか?
色々と書き込みをお願い致します。


  • [67]
  • Re: 竹原渡航

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月25日(水)18時23分57秒
 
> 初めて投稿します 入門者です >
> 通直には 50名ほどが同行したとされていますが その人たちの
> 名前は分ってるのでしょうか?
> また 多数の河野関係者が 伊予脱出したとされますが
> いつの時期なのでしょうか?

●ようこそ「喫茶室」へ
ご質問の出所は「予陽河野家譜」と思われます。
同書は同行の家臣の名を28名挙げています。
ただ、この書は相当後に書かれたと思われますので真偽のほどは分かりません。
家族や小者まで入れると数百人から千人近いかも知れません。
伊豫を出て行くのは河野家家臣団の一部です。

おたづねの渡海日ははっきりしません。天正15年(1587)に牛福通直に同行したのは古文書により
人数も出発日も違いますので一概にいえませんが、一応7月9日説が多いようですが、後に五月雨式に
家臣や家族が渡海したともあります。

唯、天正13年に湯築城を開城してから、三々五々家臣の一部が渡海して安芸に住み着いたとする文書も
あり河野家家臣の安芸移動は天正13年~15年までかかっているものと思われます。
毛利側の記録は天正13年の河野家離散を『河野崩れ』と呼び
慶長五年に関ヶ原の戦いに負けた時、竹原から旧河野家家臣が再離散したことを『竹原崩れ』と云います。
これらには来島を除く、因島、能島の村上水軍も含まれます。

  • [66]
  • 竹原渡航

  • 投稿者:竹原メール
  • 投稿日:2012年 1月25日(水)11時45分47秒
 
初めて投稿します 入門者です みなさん歴史研究家顔負けのレベルで
教えて頂きたく思います

通直には 50名ほどが同行したとされていますが その人たちの
名前は分ってるのでしょうか?
また 多数の河野関係者が 伊予脱出したとされますが
いつの時期なのでしょうか?

  • [65]
  • 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月24日(火)19時25分23秒
 
黒田藩における曾我部五右衛門の子孫が今も在のであれば、
伊予の何処かに一度くらいはアクセスした記録などが、
在るとはおもいますが、見出せません。
曽我部を名乗る氏は多くありますので、何とも証明が
付きませんです。今後の解明を楽しみにして、こちらも
調査して行きます。
別件ですが、「らい病」は鎌倉期位からすでに、使われて
いた名称と記憶していますが。。。


  • [64]
  • 黒田藩 曾我部五右衛門

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月23日(月)00時29分13秒
 
> 呑舟さん。こんばんは。
>  通貫の兄弟とされる人は諸書いろいろとあります。
>  黒川の総領を継いだ準で言えば以下でしょうか。
>
>  通博(美濃守)→ ①通長(宗太郎)討ち死に
>              ②通貫(五右衛門)毛利家で老死→ 五右衛門(石垣原討ち死に)
>              ③八右衛門通友(伊予で帰農) → 七郎右衛門
>              ④善兵衛盛治 → ①女子(南部家中 大矢清左衛門室)
>                         ②女子 野矢勘之丞室
>                         ③善右衛門通近(仕加藤左馬介)
>                         ④女子 早世
>                         ⑤女子 早世
>
>           ⑤曽我部金右衛門 →①源右衛門(源八郎トモ)
>                         ②又八郎
>                         ③ 某
>
>           ⑥桃女(福岡ニテ没)
>
> --------------------------------------------------------
>  で、呑舟さんの、質問の②八右衛門③善兵衛盛治は帰農し伊予に残り千足系と
>  石田系先祖となったとなります。が、HPにも記した様に、通博は女子のみで
>  (通貫以降)他黒川一族で総領職を継いだと考えます。
>  桃女は兄弟である、金右衛門を頼り福岡に言ったと思われます。
>  河野家滅亡前に毛利に渡海したのではなく、天正陣後1年は石田に通貫一党は
>  滞在し、毛利へ客食したが、通貫は老死し、その子の五右衛門は黒田家に
>  その縁で、金右衛門も福岡へ行き、桃女もその後、南部家中の姪の所など
>  に滞在して死亡したと思います。その後、南名が小松に龍華院を造ったと。
> ---------------------------------------------------------------
>
>
> >
> > 正岡系系図によれば、桃女の兄弟は、
> >
> > ①黒川五右衛門 討死 (子) 菊太郎通昭
> >                女 早世
> >
> > ②黒川八右衛門    (子) 女 早世
> >  仕加藤左馬守(助)
> >
> > ③黒川善兵衛盛治   (子)曾我部源右衛門
> >  付黒田衛□ □ 殿
> >
> > ④曾我部金右衛門   (子)曾我部八郎
> >                 曾我部源八郎
> >
> > ⑤女
> >  幼名云 桃女
> >  正岡太郎左衛門貞室(正室)也 七十二歳逝去
> >  曰 龍花院殿松雲妙貞真尼公、其院址在予州周布郡一本松村
> >  則南明和尚ノ建立、
> >  慶安元年(1648)戊子十一月二日於筑前福岡死去也
> >
> >  ①、( )内は呑舟追捕のため原本には無し。
> >
> > これによると四人兄弟となり、桃女は末っ子のようだ。
> > 【予州黒川家】の記事と若干違います。
> > (サイトが消滅する前に研究用にすべてCOPYしましたので)
> >
> > ①が通貫のようである。②と③の消息がよく分からない。
> > 黒川さんこのあたりは分かりませんか?
> > ②が現在の伊予の引き継がれている家系と思われるのですが?
> >
> > ③④の子孫が福岡に在留し、福岡金龍寺の曾我部家の墓を健在守っている
> > 子孫と思われます。

●以前のやり取りは上記の通りです。
 私も黒田藩士大野家を探索していますが中々最初の経緯が分りません。
 以前 福岡市博物館が黒田藩士の大野家の特別展示をして史料も公開してくれたのですが
 史料が散逸しているのか部分的にしか分りませんでした。
 担当の学芸員もそもそも論は分らないとのことでした。

 大野はさておき、黒田文書に曽我部五右衛門を見つけました。
 一つは文禄の役(1592)秀吉の朝鮮出兵に動員された黒田長政の動員名簿にその名がありました。

 この時一番隊944人
    二番隊950人
    旗本備3156人
    〆て 5050人を率いる部隊長26の一人です。
    二番隊に属し49人を率いる曽我部五右衛門とあります。

    大野も旗本備の中に377人を率いる大野惣右衛門とありますがこちらが伊豫大野系か否かは
    わかりません。引き続き探索します。

  これらは四月二十二日、先陣の大将小西行長、加藤清正、黒田長政ら十萬余人を船に乗せ名護屋湾頭
  を出航します。これにより文禄の役に幹部として従軍したことが知れます。

  小田原城攻略の合戦にも行ってると思うのですが、まだ名簿が見つかりません。

  次はやはり討死する慶長五年の石垣原の戦いですね。
  この時は黒田家の第七番隊に属し、隊長は久野次左衛門で曽我部五右衛門は副将ですね。
  曽我部五衛門は宗像掃部と刺し違えての討死と記録されてますから、黒田藩の子孫は
  禄が安泰となり現在まで続いているのでしょうね。
  この時は大野三兄弟は井上隊に属して軍功を上げ、後に家老となる井上周防守とともに
  黒崎に支城を築き井上周防は一万六千石を賜りますからその一部を貰っています。
  私ほこの兄弟の養祖父の消息を探していますが分りません。
  黒崎で病死とあるだけです。
  この養祖父が河野家家老大野直昌の兄、直秀(後隆直)なのです。

 毛利家記録より黒田家記録を探す方が早いかも知れません。
 石垣原の戦いの時は能島村上系の水軍を雇っています。
 この戦いは九州の関ヶ原の合戦で、同じ時期に伊豫の関ヶ原として松前の戦いがあります。
 どちらもバックに西軍の毛利が指示しています。

 大野直秀の息(直政)西軍として村上元吉とともに松前に出陣し大怪我をして帰ります。
 これに対し直秀の養嗣子たちは東軍として石垣原で大友義統軍と戦います。
 黒川家も東西わかれた同じ構図になってますね。

 これが後の世に影響しているようです。探索をつづけましょう。

両家の子孫は黒田藩士として今も生きてるようですが所在がわかりません。
寺と墓は分るのですが。

  • [63]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月11日(水)19時16分10秒
 
呑舟さん。わかりました!ありがとうございます。
 ヤフーで見ていたので、探せませんでした。グーグルではチャント
 出ました。地図はグーグルの方が詳細ですね。


>>62
> >>61
> > 皆様。御教示有難うございました。土地勘が無いので地図でも見ましたが判りません
> > でした。一度は色々と行って見たいと思います。
>
>
> ●説明が不備でしたね。「竹原市田の浦1丁目」で出てくる場所の右側の山がそうです、
> 麓に磯宮八幡があると思います。田ノ浦一丁目の上(北側にすぐ)に現在の長生寺があると
> が見つかります。
> 鎮海山(珍海山)でしたら「村上元吉の墓」で検索したほうが詳しいかも知れません。

  • [62]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月11日(水)18時05分35秒
 
>>61
> 皆様。御教示有難うございました。土地勘が無いので地図でも見ましたが判りません
> でした。一度は色々と行って見たいと思います。


●説明が不備でしたね。「竹原市田の浦1丁目」で出てくる場所の右側の山がそうです、
麓に磯宮八幡があると思います。田ノ浦一丁目の上(北側にすぐ)に現在の長生寺があると
が見つかります。
鎮海山(珍海山)でしたら「村上元吉の墓」で検索したほうが詳しいかも知れません。

  • [61]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月10日(火)06時09分5秒
 
皆様。御教示有難うございました。土地勘が無いので地図でも見ましたが判りません
でした。一度は色々と行って見たいと思います。

  • [60]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)23時38分29秒
 
失礼致しました 拝呑舟
*呑舟師、我等土佐国一族(細川氏天竺禅門の故事・古縁に恰もゆらいする三家)は、何等妄りに鼓舞・誇張をする邪心・思惑も無く唯只管に、河野通有を歴史的検証が可能な先祖として、通忠・通茂の弟~三男通種(河野四郎左衛門)を始祖として、その子通時の弟(二男)「通任・初代」から土佐之国へ流れ着いた子孫へ受け継いだ面影を累々と書き残された系図・500年来の先祖代々菩提弔う現存の墓所を同族の由縁也、当然のことながら我が家の系図には時代を下った「通直殿」の記述は皆無なれど、先祖の面影を徒然の侭に遊行を重ねてその地~その古跡や仏縁の寺院に可能な限り訪ね歩いて我が身を置いて居ります。南無

  • [59]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)22時56分53秒
 
失礼致しました 拝呑舟

  • [58]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)22時36分50秒
 
庵主様だめですよ!間違いを流布しては。
>  現在の長生寺の通直の墓とされるものは墓ではありません。
>  通直の墓は山崩れで下の田圃の中です、
>  よって今 墓とされているのは後世の供養塔です、変な格好してるでしょう。
>  長生寺の古文書も一緒に亡失したとされます。
*呑舟師、存じ上げておりますよ・・御住職からも・・原風景と今の風情は、聊か趣を異にする旨のご案内は授かっております。
然もあらんかな!?・・拘る所以も淋しからずや・・南無

  • [57]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)22時26分3秒
 
> その当時は、墓地の中腹にご住職様の案内に導かれて「伊予の太守河野通直殿」の墓前には、花々や各地の御子孫の方々の先祖に寄せる仏心の尊さを瞼にしっかりと留めております。 南無

●庵主様だめですよ!間違いを流布しては。
 現在の長生寺の通直の墓とされるものは墓ではありません。
 通直の墓は山崩れで下の田圃の中です、
 よって今 墓とされているのは後世の供養塔です、変な格好してるでしょう。
 長生寺の古文書も一緒に亡失したとされます。

  • [56]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)22時16分33秒
 
> 珎海山(しょうかいさん)ではなく珍海山(ちんかいさん)どちらでしょうか?私は土地勘が無いためわかりません。芳闕嵐史はやはり珎海山(しょうかいさん)と書かれています。長生寺がある場所の事を指すのでしょうか?
> それとも別所?

●また面白いテーマを呉れましたね(笑い)

 まず前提ですが「芳闕嵐史」ではなく同本に合冊された「南山霞抄」の記述ですよね?
 「芳闕嵐史」は太平記の底本となるだけのしっかりした内容と思われますが、
 「南山霞抄」となると少し今までの史実とされるものと異なりますよね。
 今までの常識がおかしいのかも知れません。

 通直の湯築城下城の時期が変ですね。「予陽河野家譜」も変ですがこれも変ですよね?
 「予陽河野家譜」は1760年代の代物と思っていますから中身があやふやなのは分りますが
 「南山霞抄」は慶長8年の書とされていますから牛福通直逝去からわづか15年しか経ってない
 一番史実に近いはずなのですが?
 我々が先入感に惑わされているのかもしれません。
 史実なら大発見です。

 「南山霞抄」によると通直は天正13年に竹原に移動したことになっています。
 これにはトリックがある可能性があります。
 河野一族は配下を含めて天正13年にすべて下城とされます、事実、村上武吉も大野直昌も
 下城しています。
 これを悲しんで近くの寺で自刃した家来の話も辻褄があってきます。

 伊豫河野家を陥落させたのは小早川氏です。
 公的には(秀吉への報告)はすべて下城させたことにして通直は湯築滞在も勝手次第と
 お目こぼしをしていた可能性が出てきました。

 昨日、竹原の郷土史家の方と話しをしていて、河野通直の居宅は用意されていて天正15年7月に
 そこで逝去したとの現地史料が出てきました。
 秀吉には竹原に居るとしていて、実際は行ったり来たりしている状態が考えられます。
 領主は小早川ですから自由にできます。

 フロイスの「日本史」によると天正15年6月は通直は伊豫湯築にいたことになってますから
 出入りしていることは充分考えられます。

 私も始めて聞きましたが通直の屋敷は当時の住所で「安芸国加茂郡下野村山田土居(屋敷)」
 とされています。確かに「大方様」とされる通直母(春禅院・春松院・したし)の屋敷も
 山田村にあったとされ、河野家没落時に受け入れ態勢で大童とされる古文書も天正13年秋と
 すれば辻褄が合ってきます。
 家老大野直昌もここで天正17年に逝去しています。
 彼はこの地区の領主の山田氏(小早川家普代の臣)の菩提寺の薬師寺に葬られています。
 江戸中期に直昌の子孫、伊豫上川村の大野直尚が薬師寺に尋ねて行き位牌を再調整して帰郷しますが
 この位牌が昭和になり見つかり伊豫久万町に里帰りすることは「久万町誌」の通りです。
 この山田地区は河野家主従のために緊急に家屋を造ったとされる地区です。

 通直は天正15年7月に山田で生害して近くの寺に仮埋葬され、翌年、小早川の好意で新築なった菩提 寺の長生寺に葬られたものと思います。これで最初の戒名に長生寺殿と付いていない理由が解けま  す。仮埋葬の寺の名を探してますが今史料が見つかりませんのでまたと言うことで。
 河野系図のどれかに書かれていたのですが・・・。
 確か黒川系か正岡系の文書だったと思うのですが・・・。

 長生寺殿の戒名は長生寺ができた天正16年以降と思われます。
 通直の遺髪を伊豫天徳寺に持ち帰り、戒名に「後天徳寺殿」とつけたのは天正15年と思います。

 お尋ねの称海山は珍海山の誤記と思われますが、文書の古さからすると称海山が正しかったのかも
 知れません。どちらも同じ山(丘?標高90M)で珍海山は村上武吉の居城とされますが、能島城
 を天正13年に下城した後の新居城と思われます。
 「正木の戦い」で討死した息子の元吉と一緒に討死した家来の墓が今でもここにあります。
 「河野氏分限録」はこれを誤りて父の武吉の墓と書いていますから、「河野分限録」の
 信頼性はイマイチと思っています。武吉の墓は周防屋代島にあります。

 珍海山は江戸時代までの書き方で明治以降は格好がよいからと鎮海山と書き方を変えた
 そうで郷土史家は苦虫を噛み潰していました。

 具体的な場所が知りたければ地図検索で「竹原市田の浦1丁目」で検索してください。
 鎮海山城と道の駅の上の現在の長生寺が出てきます。
 

  • [55]
  • Re: 竹原

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)20時56分46秒
 
黒川師、想い出す竹原の風景・隣接の古刹の2寺の高台(境内)の赤柱の舞台より展望した夕焼けの瀬戸内の面影を。
その当時は、墓地の中腹にご住職様の案内に導かれて「伊予の太守河野通直殿」の墓前には、花々や各地の御子孫の方々の先祖に寄せる仏心の尊さを瞼にしっかりと留めております。 南無

  • [54]
  • 竹原

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)07時23分57秒
 
珎海山(しょうかいさん)ではなく珍海山(ちんかいさん)どちらでしょうか?私は土地勘が無いためわかりません。芳闕嵐史はやはり珎海山(しょうかいさん)と書かれています。長生寺がある場所の事を指すのでしょうか?
それとも別所?
黒川・正岡系図は殆どは長福寺系図が基本となったと思われます。
その後は、その家の事情に合わせて作図(真実を含め)して行ったと考えます。

  • [53]
  • Re: 河野通勝と通就

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 9日(月)01時53分54秒
 
>>52
> 呑舟師、貴重な「正岡氏系統。系図」のご案内真に庵主の先祖を偲ぶ道標に一筋の光明を与えて頂きました。(深謝) 恐惶謹言

●秘蔵の系図ですので全文は晒せませんが河野黒川系図とやはり共通点が多いものです。
 このような系図はあまた彼方此方に秘蔵されているのでしょう。

 今日は牛福通直菩提寺長生寺の研究者の久保翁と長話をしてしまいました。
 80歳を越えたからインターネットは覚束なくなったので切ったと云われ、長年の記録が消えてしまい
 ました。通直の竹原での研究では権威でした。東雲の西尾和美さんが是非お会いしたいとのアポを
 したらしいですが高齢を理由に断ったそうです。どちらも牛福通直生害説の論者です。

 伊豫の方は「予陽河野家譜」を信じてますから病死説ですが。
 でも長福寺本河野家譜は生害説なのですが・・・・。

 また長生寺に葬るとする記録のある系図や古文書は新しく、牛福通直は逝去時は長生寺には
 葬られていません。長生寺は通直逝去の翌年に創建されます。
 この辺りは地元でないと分からない情報です。
 こうしたことからどの古文書が正確か追跡する必要があります。

 まあ河野系図はいろいろです。

 久保翁が河野系図を持ってる家は「皆うちが本家だから間違いはありません」と口々に言うのには閉口
 した旨述べていました。

 確かに河野家一統はその傾向が強いですね。
 河野家に不利益や自家伝承に不利益なことを指摘されると敵愾心を燃やしますね。
 論理的に順序だてて反論することはあまりありません。

 逆に言うとこれが河野家たるDNAの伝播かもしれませんね。【笑い】

 南朝方河野家は遠祖をニギハヤヒから初めます。
 孝霊天皇から始めるのは北朝系河野家末裔のようですね。

 面白い現象です。

  • [52]
  • Re: 河野通勝と通就

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)14時56分24秒
 
呑舟師、貴重な「正岡氏系統。系図」のご案内真に庵主の先祖を偲ぶ道標に一筋の光明を与えて頂きました。(深謝) 恐惶謹言

  • [51]
  • Re: 河野通勝と通就

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)10時26分22秒
 
> 「正岡一族」が論拠してる系図は下にUPしてみましょう。

「正岡河野系図」の黒川さんちの部分がUP三枚制限で切れましたのでもう一枚UPしときます。

  • [50]
  • Re: 河野通勝と通就

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)10時10分33秒
 
> 河野通勝は「正岡一族」初本を見ると、こう書いています。
> 以下「正岡一族」引用
> *河野家末期の城代家老で正岡経政の正室は、河野晴通の女で晴通には三女あり
>  一人はい穏居田治部少輔元清(ママ)の妻、一人は黒川美濃守通将(ママ)の妻
>  となっているが、男子ないため、実弟通宣を養子とし河野家を相続させた。
>  通宣の女は天正3年ころ、足利15代将軍義昭の北政所となり、養子通直は、
>  天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に際して、伊予を離れ、安芸国竹原に転居
>  して毛利家の庇護を受けた。しかし、生来病弱ため、天正15年に竹原にて
>  死去したので、竹原には立派な墓碑がある。
>  河野系図によると、正岡右近太夫経政は晴通の娘婿であるため、河野氏の
>  道後湯月城の城代家老を勤め、また晴通の弟通宣の女の章子と足利義昭
>  との間に生まれた通勝を幸門城で経政が養育したと伝えられる。

●これは正岡河野系図に準拠しているのでしょう。
 この系図も通直は天正13年竹原渡海で15年の3月7日卒としてありますから混乱しています。

>  河野通勝(昭王丸)は足利義昭の遺児となって居ます。では通就はどの御仁
>  となりますでしょうか?鈴姫さん系図では通勝の弟に位置してます。
>  いずれにしろ、黒川関係はこの辺りの事はまったく書かれてないです。
>  他・冷静に見れば、黒川各家も家の存続と仕官の為の手段か?
>  やはり系図は信用度が大きく落ちます。南名(長福寺)系図も後に
>  写されたもので、(南名により)真の系図はボロボロだったと伝えられて
>  います。他河野系図とはまた違うみたいですね。
>  黒川中将の藩に出した系図もまた、ここの繋がり方に違和感を感じます。
>  黒川一巻ではあったのでしょうが、どうしても本筋として書かなければ
>  仕官や庄屋には成れない事情があったのでしょう。

●通就は鈴姫系図ではわかりません。要探索です。「安芸の河野家末裔たち」のスレッドのままです。

「正岡一族」が論拠してる系図は下にUPしてみましょう。

  • [49]
  • Re: 河野通勝を担いだ人たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)09時32分14秒
 
> ますます、判らなくなりました。
> 鈴姫さん系図は通直の子は2人(通勝)と(通就)とあり、南山霞抄は通直の子は無く通直母(宍戸安芸守の息女)の甥である七郎但馬守通軌が河野を
> 継いだとあります。呑舟さんの推測である黒川の動きは何も書かれて
> 無く(多分もう自家の存続優先)あまり動きは無かったのではとも思います。系図には黒川源三郎親子出陣するが、既に露呈していて事に及ばなかったと書いてた記憶します。
> 継続調査必要ですね。

●一概に間違いともいえませんね。

 通直継承者として築山殿を担いだのは毛利小早川側の意向でしょう。

 通勝を担いだのはそれに納得できない黒川家を張本とするグループと考えられます。

 「鈴姫系図」の通直の跡は通宣の娘が生んだ通勝と思われます。
 素性、血統からすれば宍戸の甥よりははるかに上です。
 ただ亡家の河野家からすれば、もう最大スポンサーの毛利・小早川の意向は無視できないもの
 があったと思われます。よって河野家什器の大半は築山家に引き継がれたものと思われます。

 そんな毛利・小早川のやり口に納得しない河野遺臣7名が通勝を担いだものと思われます。
 此の張本が黒川氏と思われます。
 出典が何かは分りませんが「伊豫温故録」に

『(久米郡)岸城主 岸宗右衛門忠達 天正十五年河野家と共に亡ぶ、其の時、忠達越智郡龍ケ岡に蟄去し
 河野幼君昭王丸(通勝)を奉し再興を謀る七将の一人也。
 慶長五年荏原の陣に戦功あり、その子八郎右衛門忠勝、父の謀に背き密に加藤家に内通す。
 嘉明功を以て、その罪を赦し本村に居らしむ。子孫今尚存せり』

の記述とも符合します。

「今治史談」も「風早史談」も触れてますね。

  • [48]
  • 河野通勝と通就

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 8日(日)09時18分14秒
 
河野通勝は「正岡一族」初本を見ると、こう書いています。
以下「正岡一族」引用
*河野家末期の城代家老で正岡経政の正室は、河野晴通の女で晴通には三女あり
 一人はい穏居田治部少輔元清(ママ)の妻、一人は黒川美濃守通将(ママ)の妻
 となっているが、男子ないため、実弟通宣を養子とし河野家を相続させた。
 通宣の女は天正3年ころ、足利15代将軍義昭の北政所となり、養子通直は、
 天正13年、豊臣秀吉の四国征伐に際して、伊予を離れ、安芸国竹原に転居
 して毛利家の庇護を受けた。しかし、生来病弱ため、天正15年に竹原にて
 死去したので、竹原には立派な墓碑がある。
 河野系図によると、正岡右近太夫経政は晴通の娘婿であるため、河野氏の
 道後湯月城の城代家老を勤め、また晴通の弟通宣の女の章子と足利義昭
 との間に生まれた通勝を幸門城で経政が養育したと伝えられる。
 <伊予二名集>によると、天正7年正岡氏の家老鳥生石見守は、鷹森城
 主越智駿河守と謀って、経政を討ち、来島氏の旗下に属さんと陰謀を
 起したが、事前に露見して別府修理大夫、別府縫殿助のために城中で
 討ち取られた。別府修理大夫などは進んで石見守を囲んだが、妻子など
 はすでに鷹森城へ逃げ去った後だったので、これを鬼原部落まで追って
 、妻子など5人を討取ったと伝う。とかかれて居ます。

 河野通勝(昭王丸)は足利義昭の遺児となって居ます。では通就はどの御仁
 となりますでしょうか?鈴姫さん系図では通勝の弟に位置してます。
 いずれにしろ、黒川関係はこの辺りの事はまったく書かれてないです。
 他・冷静に見れば、黒川各家も家の存続と仕官の為の手段か?
 やはり系図は信用度が大きく落ちます。南名(長福寺)系図も後に
 写されたもので、(南名により)真の系図はボロボロだったと伝えられて
 います。他河野系図とはまた違うみたいですね。
 黒川中将の藩に出した系図もまた、ここの繋がり方に違和感を感じます。
 黒川一巻ではあったのでしょうが、どうしても本筋として書かなければ
 仕官や庄屋には成れない事情があったのでしょう。
 

  • [47]
  • 河野通勝を担いだ人たち

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 7日(土)22時15分49秒
 
ますます、判らなくなりました。
鈴姫さん系図は通直の子は2人(通勝)と(通就)とあり、南山霞抄は通直の子は無く通直母(宍戸安芸守の息女)の甥である七郎但馬守通軌が河野を
継いだとあります。呑舟さんの推測である黒川の動きは何も書かれて
無く(多分もう自家の存続優先)あまり動きは無かったのではとも思います。系図には黒川源三郎親子出陣するが、既に露呈していて事に及ばなかったと書いてた記憶します。
継続調査必要ですね。

  • [46]
  • 河野通勝を担いだ人たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 7日(土)11時28分54秒
 
別スレッドで牛福通直の跡として河野通勝を担いだ家として正岡家と黒川家としましたが
事情が若干違うようです。

正岡家は築山殿を担いでいるようです。伊豫正岡家の什器什書である「高縄神社由緒」「水里ソ洄録」
によると宍戸(完戸)の息を河野通直後継として担いで「松前の戦い」を戦ったこととしてあります。

【高縄神社由緒】曰く

「慶長庚子之秋 加藤左厩喜明濃州関原在陣之時旧主前兵部侍郎養息河野太郎率 完戸 村上 曽根 能島 己下一族
押渡興居島攻撃松前城 此時當社累代之祠官前吏部侍郎馳加南郷平岡一揆雖立篭荏原城 被曳智姓頻発之運當
手終敗績矣 吏退蟄新宮頗為要害干敗九月廿日夜至人定松前翔将中嶋某 天与日記云真前軍将佃次郎兵衛率数百騎
攻来 放火新宮折説魔風飛瓦礫余焰散干八方総社凡七十末社神蔵神部政所坊舎十二院 商民数百悉為灰燼矣」

【水里ソ洄録】曰く


「慶長五年ノ秋 當国松前ノ城主加藤佐馬助殿関ヶ原在陣也 茲ニ前ノ屋形河野兵部大夫通直ノ
 養息河野太郎殿 実芸州宍戸安芸守ノ男子 此ノ虚ニ乗ジテ討入ル 完戸 村上 曽根 能島
 己下一族兵船数船ニ取乗テ當国興居島ニ押渡ル 又、當国普代ノ一族所々ヨリ一揆与力シテ
 本意ヲ遂ント評定ス 中ニモ平岡孫右衛門尉兄弟 久米 浮穴両郡ノ諸牢人ヲ相催シ荏原城ニ楯籠リ
 此時 正岡式部大夫 并 横山城主南彦四郎通具 共ニ軍慮ヲ尽シ戦カヲ励スト云ドモ終ニ素意ヲ
 開事不能 式部大夫ハ退テ新宮ノ館ニ蟄ス
 同九月廿日ノ夜 人定ノ頃松前ヨリ佃次郎兵衛ト云人 数百人押来リ新宮ニ放火シ一時ニ攻崩ス
 式部罪ヲ難遁終ニ白刃ニ伏メ落命ス 此時ニ至リテ数代相伝ノ神宝什物皆灰燼ト成テ失タリ
 弟出雲守モ鉄砲傷ヲ蒙リ 其ノ弟 正岡孫右衛門 相助テ遊退 當国大洲御家中ニ鈴木忠右衛門ト申ス
 伯父アリシヲ相頼リ 暫ク郡内ト申ト所ニ蟄居ス 其後新宮氏人御社建立ノ時 出雲守罷帰職事可勤トアリシカ
 共ニ公儀ヲ憚リ殊ニ病身ナレバ弟孫右衛門ヲ神職トシ 再 宮内村ニ帰参シ若狭守ト名ヲ改ラル
 出雲守は慶長十年二月當郡小川村ヘ帰リ 暫ク 外父玉井四郎左衛門ト云人ノ方ニ住シ
 其後 河野善応寺村ヘ隠居セラル」

面白いのは正岡文書は松前の戦いの総大将は養子の河野太郎としています。

また以前投稿のあった野嶋さんの家は河野通存の子で通宣弟の野島直信家と思われます。
松前の合戦では能島と書かれていますが(野島)と思われます。
よって能島村上ではなく正規の河野一族と思われます。

また、平岡兄弟の言及があり、この兄弟は平岡通倚と直房兄弟と思われ、平岡系図に合致します。
平岡家の持城荏原城に立て篭もるのは自然ですね。

よって通勝を担いだ張本は黒川家と思われます。
黒川さん如何でしょうか?何か残ってませんか?

確か「河野黒川系図」に通勝を担いだが裏切りにより露見して上手くいかなかったような
記述があったような気がしますが?
又、「伊豫温故録」にもこの裏切り者への言及があったように記憶します。
これは黒川党と志を同じにして通勝を河野家継承者とする為、画策していた時に藩主に密告して
露見したような話でした。「伊豫温故録」ですから真偽はよくわかりませんが・・・。

余談ながら大野家の人たちは何をしていたかと云うと、系図類が正しく記録しているならば。

牛福通直と共に竹原へ渡海した河野家家老大野直昌は逝去しており
直昌の新嫡男(正規の嫡男は廃嫡)熊王丸直常は松山・天徳寺で養育中で、

後に上川村大野家初代となる庶子直清は関が原で小早川秀秋の陣にあって、西軍
総大将毛利家への裏切りに加担したのち、秀秋没落して伊豫に戻り後裔上川村庄屋となる。

大野直昌の兄、直秀(傳兵衛隆直)の嫡男、直政は村上元吉に従い松前の戦いに参加して
佃側の兵に槍傷を受けます。この直政が秀吉の誘いを断り、河野家、村上家、大野家
断絶の圧力を受けます。河野家は通直の自害により糸が切れました。

所謂、河野家遺臣総動員体制です。後世の書き物(特に江戸中期以降)の方が変です。

近頃は出典そのものの「出自」から見直す必要に迫られています。

去年、山内譲先生と電話で話した時に「歴史史料は一次史料しか信用できない」と言った言葉が
蘇りました。

私が信用している東大史料編纂所の「大日本史料」の解説に今回高縄神社を調べていて、
永禄9年5月16日 伊予河野通宣、同国高縄社に諸役と免除す【高縄神社由緒】
と解説してありますが、同高縄神社由緒には 来島通康が諸役を免除した同日付文書としてあります。
花押を見ると通宣の花押ではなく通康の花押ですから東大史料編纂所の解説が間違いです。

ことほど左様に大変です。




  • [45]
  • 陸上戦に長けた平岡氏

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 5日(木)18時29分12秒
 
河野の要請で陸上戦に長けた平岡氏を要請した?河野家はそれ程長けてなかったか?でも急に現れた平岡氏の出自はうなづけますね。
三島由紀夫もその一族でしょうか?三島を名乗ったのも気になりますね。

  • [44]
  • Re: 芳闕嵐史

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 5日(木)16時50分47秒
 
> そうなんです。高野山「上蔵院」などの事や平岡「系図」とどうして平岡氏
> や中川氏が河野家に深く食い込んだ云われなど、面白い事がかいてあります。黒川系図にも、南北に分かれ、また東西に分かれ、みたいな記述があり、この意味がなんとなく判ってきました。

●巻末の平岡系図はさもありなんとする一方、平岡通倚よりから以降は変ですね。
 長州平岡系図は通倚の弟直房が兄の養子となって平岡家を継いでいますから別に継承者がいない
 わけではありません。
 にも拘わらず、付録の系図はいきなり通倚の下に線を引き直清なる人物を登場させ

 【平岡家祭祀権承継】と但し書きがある。この但し書きそのものが変です。

 平岡家は当時断絶もしていないし流浪の民でもない。屋代島に領地を貰っており毛利家家臣として
 禄を食んでいる。旧家にとって一番大事な祭祀権を渡す必要性は全くありません。

 この直清から中川姓に変わるようですが、平岡家の祭祀権を継承したとしてる割りに氏を変更する
 のは解せない。中川系図の直清と同一人物にするためのものとしか思えない。
 同一人物なら養子とも考えられるが、娘は2人いるが、一人は村上景親の室となり、
 もう一人は土井家に嫁しているから養子をもらった娘は居ない。

 次の代の直房改め義清も平岡直房を連想させますが別人です。

 長岡(中川)氏が自信をもって書いているのであろうからなんらかの証拠となる史料を持っているのでしょう。
 しかし、現在に伝わる平岡系図は伊豫史に詳しいひとなら知っていますから
 長州平岡氏との関係をどう説明されるのか聞いてみたいものです。

 以前、「談話室」に長州平岡氏の本家筋と分家筋の方が登場しましたが思いは同じでしょう。
 しかし、房実以前は検証に値しますね。

 長州平岡家は河野家末裔として藩に系図を出していますが、この出自は間違いでしょう。

 平岡家は突然伊豫に現れますので芳闕嵐史の記述はそそられます。
 突然、美濃土岐家の伊豫分領を蚕食し始めます。
 この時、美濃土岐家から管理を依頼されるのが伊豫大野家とされます。

 このあたりが詳細になると面白いのですが。
 徳川城の意味も判りましたね。
 大野家も南北朝時代は南北に家が割れており、伝わる系図により同じ「大野系図」でも
 トーンが違います。

 一番典型的なのが、通尭が九州に逃れて伊豫に再上陸する時のシーンに
 山方の大野らが援軍をだしてくれるとしてあります。
 この時小田にあった大野は通尭らの再上陸を阻止せんと攻撃しています。
 結果的には河野通尭軍の再上陸を許すのですが、大野家は北南二手に分かれて争っています。
 この通尭(北朝)に味方せんとした大野は誰かわかりません。南朝方は
 「長福寺本予章記」には記述はありませんが「山野井本予章記」では言及されております。

 「山野井本」は杜撰として景浦直孝先生は伊予史(狭義では河野史)研究の文献足り得ないと
 してますが、確かに順序等が杜撰ですが個々の内容の信頼性は高いと思っています。

  • [43]
  • Re: 芳闕嵐史

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月 5日(木)13時46分4秒
 
黒川師、そうなんですよ!・・土佐之国の中川氏とも庵主の父親の代までも会い向かって同所に住居を構えておりました。
その折には、祖父からも先祖の古縁の同族の家系と教えられておりました・・・摩訶不思議也。南無

  • [42]
  • 芳闕嵐史

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 5日(木)06時08分5秒
 
そうなんです。高野山「上蔵院」などの事や平岡「系図」とどうして平岡氏
や中川氏が河野家に深く食い込んだ云われなど、面白い事がかいてあります。黒川系図にも、南北に分かれ、また東西に分かれ、みたいな記述があり、この意味がなんとなく判ってきました。

  • [41]
  • Re: 黒川五右衛門元康

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 4日(水)23時17分36秒
 
●そうですかか元康はまだよくわかりませんか?
 こちらも村上・浦・乃美・小早川・毛利関係を探してみましょう。
 どこかに手がかりがあると思うのですが。

 そちらも難しいテーマに挑戦しているようですね。頑張ってください。

 それと「芳闕嵐史」はとても面白いですね。
 まだ半分も読んでいませんが、南朝系の河野族の立場で書かれているようで、
 「予陽河野家譜」や「予章記」のような北朝系のトーンが全くないですね。
 同じ事件が全く別の視点で書かれているのも面白いですね。
 軍記物でしょうから彼方此方に誇張と脚色があるのはやむ得ませんが、
 一つづつ検証する必要がでてきましたね。
 河野家が上蔵院とその親寺 金剛三昧院を宿坊とする意味が分りました。
 恩があったのですね。

 また続きを読みます。




  • [40]
  • Re: 黒川五右衛門元康

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月 4日(水)21時36分50秒
 
呑舟さん。こんばんわ。ご飯炊くのは大変です。
 お問い合わせの件ですが、この五右衛門元康は私も
 調べましたが不明です。船大将でしたよね?
 こちらの五右衛門系と思いますが、書き物にも
 あまり出てきません。系図にもありませんが、五右衛門
 加賀守と云う人が出てきますが関係は不明です。(森田系図)
 今日雪の中、見てきました。河野系図んぼ最後に書かれている
 玉川の系で、本筋は河野を名乗り、廉子は西原を名乗るとの記述
 気になっていまして、黒川墓郡の中に2基だけ西原家の五輪があり
 何故か?とずっと考えてました。関連は無いかも知れませんが、
 1基は五輪には西原悦右衛門(元禄十三年没)と同室(亨保九年没)
 もう1基は西原喜三右衛門(元和三年没)と同室(元禄十三年没)
 とあります。他に碑文に、良く読めませんが新田開墾し里正になった
 ように書いてました。そうすると、坂本黒川家は、西条誌に書いている
 天正陣で、讃州に逃げて、暫くして伊予の西条に戻り籐堂高虎に侘びを
 入れて坂元の里正に成ったは、違う話となります。それか、西原・黒川
 は別家か?今後の調査がいります。

>>39
> 村上系図に出てくる黒川五右衛門元康の位置づけがよくわかりません。
> 黒川さん。 元康は誰の子で兄弟は誰でしたっけ?
>
> 「村上略系譜」
>
>  村上義盛 夭死 四郎兵衛 父村上景廣 母椋梨公平女 妻黒川五右衛門元康女

  • [39]
  • 黒川五右衛門元康

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 4日(水)12時52分54秒
 
村上系図に出てくる黒川五右衛門元康の位置づけがよくわかりません。
黒川さん。 元康は誰の子で兄弟は誰でしたっけ?

「村上略系譜」

 村上義盛 夭死 四郎兵衛 父村上景廣 母椋梨公平女 妻黒川五右衛門元康女

  • [38]
  • 芳闕嵐史(またまた牛福通直)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 2日(月)07時27分27秒
 
さて今年の口切です。

結論から言うと牛福通直の没日と死因と卒年齢、戒名はいろいろ有って正月早々頭が回らない。
御屠蘇の影響も若干あるかもしれぬが・・・・。

差異いろいろ

『河野牛福通直』

①天正15年3月7日卒18歳 於安芸竹原 死因 生害(自殺)法名 長生院殿玉峰宗宗大居士
【出典 南明禅師朱印有 「河野系図」(長福寺本)】

②天正15年3月7日卒 於安芸竹原 死因 病死    法名 長生院殿玉峰宗宗大居士
【出典 南明禅師朱印有 「河野系図」(長福寺本)の清書本と思われる「河野系図」】
 *死因が病死に置き変えられている。

③天正15年4月5日卒 25(24)歳 死因 自害(自殺)  法名 後天徳寺殿前予州太守月渓宗圓大居士
【出典 江西山天徳寺古文書 記録】

④天正15年7月9日卒      死因 秀吉の為生害(自殺)
【出典 萩藩附録 河野通恒譜】

⑤天正15年7月9日卒?                   法名 長生寺殿月渓公大禅定門
【出典 小早川隆景書状 】
 *これは7月13日付けの村上元吉から隆景宛の通直急死の急報の返事だから通直死はそれ以前と
  思われる。この時元吉は能美嶋に居たと思われるから数日の時間差は考えられる。

⑥天正15年7月14日卒                  法名 長生寺殿前予州太守月渓宗圓大居士
【出典 上蔵院河野氏過去帳 同寺管理高野山奥ノ院慰霊塔】

⑦天正15年7月14日卒
【河野家譜 善応寺本】

⑧天正15年7月15日卒 24歳  死因 病死       法名 長生寺殿前予州刺史月渓圓公大禅定門
【出典 予陽河野家譜】

他にも沢山あるがきりがないので止めます。
一応近世のヨタ文書ではないと思われるものを列挙しましたが、どの文書に準拠するかにより
牛福通直なおみならず河野家譜全体の全体の流れが文書により変わります。

歴史家が一次史料が唯一の原典とする意味がわかります。

上記内で一次史料と思われるのは、天正16年に高野山登山を行い上蔵院に息子通直の過去帳を記させ
同時期に通直供養塔を建て命日を7月14日と刻したものにも思えます。

ただ前日の13日には早くも通直急死の報を九州にいた小早川隆景に送った村上水軍惣領元吉の書簡も
一次史料となります。9日秀吉の為の障害説を記録する河野通恒家譜は一次史料ではありませんが
元吉書簡を裏づけます。

ここで「一次史料」同士で矛盾を発生させます。

となると他史料からの検証が必要となります。細かい説明は長くなるので略しますが

通直渡海は急な毛利輝元の呼び出しで行われたものと思われます。

理由は単純。

7月9日に九州から帰る秀吉を竹原で饗応するから同席して「御家再興」を長い出たらどうか?とする
河野家向後の一大事に取るものもとりあえず、少人数で竹原渡海したと思われます。
結果として御家再興の願い叶わず絶望の淵の中での自害と思われます。
これが「河野通恒家譜」の内容と符合します。

秀吉の河野家再興拒絶の言い分は「他の文書」からすると

「だから何度も自分が信長の家来の時代から信長公に味方して欲しいと言ったではないか!
 それをこちらは毛利と親戚だから駄目と言ったのはそちらで、その上お前の母親春禅院は
 私への悪口雑言まで言ったそうではないか!使者から聞いているぞ。
 毛利と小早川が何度も領地は少なくてもいいから
 せめて家門は続けさせて欲しいとの懇願は聞いているが誰が認めるか!。
 今の伊豫も小早川から取り上げ加藤にやることに先月した。小早川は九州に行かせる。
 よっておまえら河野一門の居場所はもはや無い! バーロ!」

 のようなやり取りである。

よって通直の即日自害もうなずける。

通直母「五もし」は12日になって急報を受け急ぎ竹原に渡海する【毛利輝元書状】

よって13日通夜、14日葬儀となってこの日を春禅院(春松院)は公式命日に置き換えたと考えられる。
河野家再興の懇願を断られ、為に自害しかつその一因が自分の悪口雑言にまで及んでいるとするなら
公式には命日も死因も変更する必要があったと思われます。

となると翌年の高野山登山の過去帳届出と慰霊塔没日刻印はアリバイ工作と取られても仕方ない。
よほで、河野家にとって不名誉なことがあったのでしょう。


蛇足
珎海山(しょうかいさん)ではなく珍海山(ちんかいさん)と思います。

今の河野通直の墓と紹介されているのは墓ではなく供養塔です。
墓は後に山崩れの為下に流され田圃の下敷きだそうです。
よって現供養塔を作り直しました。


  • [37]
  • 芳闕嵐史

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年12月28日(水)06時14分5秒
 
呑舟さん、庵主さん、おはようございます。本日やっと仕事納めです。
呑舟さんの書かれている通り、通直の没日は、天正十五年四月五日没と
なっています。ちなみに湯月城をを引き退いたのは天正十三年九月と
あります。芸州、毛利、宍戸、小早川の招きにより竹原に蟄居し愁訴の
最中に死去し、同所珎海山(しょうかいさん)へ葬るとあります。
今まで、盛衰記等や他の書き物とは記述が違ってます。
また、遺髪、什器等は本国の天徳禅寺に送り、後天徳寺殿の法号を
送られるとあります。


  • [36]
  • Re: 芳闕嵐史~奥の細道

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月26日(月)23時20分24秒
 
黒川師、並びに呑舟師・・未だ庵主の及び至らぬ領域です!(申し訳ない)
是非此れからの展開を期待しております! 南無

  • [35]
  • Re: 芳闕嵐史

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月26日(月)22時56分2秒
 
「芳闕嵐史」は天徳寺史料として名は知ってはいるのですが、現物は読んだことがありません。
近くの図書館にもなくて。

確か天徳寺文書と黒川さん紹介の系図は牛福通直の没日が「予陽河野家譜」等の没日と違いましたよね。
それがとても不思議でなりません。

私は別の意味で天徳寺は探索していますが新発見には至っていません。

と言うのも大除城主大野直昌が河野牛福通直に従い、天正15年竹原に移りますが、すぐ通直は卒去します。
直昌は天正17年に卒去し、竹原の薬師寺に葬られます。その後、嫡男、直常は松山に戻り、天徳寺で養育され
大野家の出入りの商人、大坂の天野屋九兵衛に連れられ、大坂表に行き、天野屋を継ぐと記録されます。
これが別スレッドの「忠臣蔵」の義商・天野屋利兵衛の祖父と思われるからです。

天野屋に連れられて天徳寺を後にする時、天徳寺の和尚は餞別として本尊胎内の秘蔵の唐絵の布袋の一幅を
持たせたと記録されています。和尚にしては大切な人物扱いであったのでしょう。
また直常の法名もなぜか「天徳寺殿圭厳常白大居士」で天徳寺を使用しています。
彼は大坂・野田の竹林寺に葬られます。現存しますので機会があれば調査したいと思っています。

このような記録を踏まえ、天徳寺になにか関連する記録は残ってないか、以前問合わせたことがありましたが
なにもないとのことでした。

なにか関連情報ありましたらお教えください。



  • [34]
  • 芳闕嵐史

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年12月26日(月)20時35分24秒
 
最近読んだ本で「芳闕嵐史」と言う本がある。
原本は「鳳闕乱離諍」と云う。太平記の底本とされ享徳四年(1453年)
に日野中納言の執事前大和大椽蔵人介宗信が写本し、さらに慶長元年(1596年)に妙心寺の南源禅師により写本され、伊予の名刹天徳寺に伝わる。「南山霞抄」は伊予の国司であった四条大納言有資等が芳闕嵐史から伊予に関する所を抜粋し南源が加筆した。

  • [33]
  • Re: 重ねて讃岐の国長福寺供養等の写真を

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年12月12日(月)19時59分21秒
 
 訂正、徳島でなく香川でした。(通久は関係ないですか!)
    スミマセン!!
>>32
> 庵主様
>  徳島にも、長福寺があるとは驚きですね。通久の関係でしょうか?
>  石の鑑定は伊方の黒川さんの方が長けていると思いますが、
>  ここ1年程度は疎遠になっています。いまは何処に居られるやら
>  鎌倉に帰れれて居るかも。
>  友澤氏は甲冑が得意と聞いています。(本人から聞いた訳ではないので)
>  添付の写真の文章に八幡宮が出てきますので、やはり越知氏に
>  関係があると思います。八幡神は殆どの方が八幡太朗義家の事と
>  思われて居ると思いますが、河野関係での八幡神は小千皇子の
>  をお祭りした物と思われます。新居浜の一宮八幡社と同じと思われます。
>
>


  • [32]
  • Re: 重ねて讃岐の国長福寺供養等の写真を

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年12月12日(月)19時55分47秒
 
庵主様
 徳島にも、長福寺があるとは驚きですね。通久の関係でしょうか?
 石の鑑定は伊方の黒川さんの方が長けていると思いますが、
 ここ1年程度は疎遠になっています。いまは何処に居られるやら
 鎌倉に帰れれて居るかも。
 友澤氏は甲冑が得意と聞いています。(本人から聞いた訳ではないので)
 添付の写真の文章に八幡宮が出てきますので、やはり越知氏に
 関係があると思います。八幡神は殆どの方が八幡太朗義家の事と
 思われて居ると思いますが、河野関係での八幡神は小千皇子の
 をお祭りした物と思われます。新居浜の一宮八幡社と同じと思われます。


>>31
> 今は昔~夢の跡~讃岐の国の長福寺(廃寺古跡から掘り起こされた)鎌倉時代の供養塔の写真を改めてお送りしておきますので、是非、館長さまにもご覧頂いてみて下さい。 


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