• [0]
  • 牛福通直と平岡氏

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月 8日(土)14時45分13秒
 
河野家最後の当主牛福通直は惣領にならなければ静かに余生を送れたのかも知れない。

未だに出自が確定しない、河野惣領である。
今は毛利系の出自説が西尾氏より出されている。
論拠に合点が行く所は多いが、キーマンは平岡一族でしょう。
特に平岡房実の研究が欠かせないが史料が見付からない。
このサイトのかって平岡氏の本家と分家からアクセスがあったが、その時とてあまり史料がない模様
であった。

系図を時間の流れで見てゆくくせがあるが、時より周囲の人物の相関関係を整理することも
ヒントとなる。特に、戦国時代は婚姻関係と烏帽子親とヘンキと官途叙任は流れを見やすくする。

さてこちらもボチボチ参りましょうか・・・・。

平岡情報をお持ちの方宜しく。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [51]
  • 牛福通直母の名の変遷

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月18日(水)13時55分30秒
 
通直母は宍戸隆家の娘、父は来島通康とされ(西尾和美)とされ通宣の跡の河野家を継ぐとされます。
彼女の名は下記のように色々と記録される。
俗名がまだ分らない。

「したし」【御仕出】  =天正15年7月24日付 小早川隆景書状に有り。
「五もし」       =天正15年7月12日付 毛利輝元書簡に有り。
「宮原大方」      =文禄5年7月28日付  小早川隆景書簡に有り。
「春禅院」       =天正9年(10年?  大野系譜各種に有り、その他伊豫文書多数。
「永寿」        =牛福通直の没後、号を永寿としたらしい。
「春松院」       =文禄3年「春松院殿天遊永寿」として宍戸喜左衛門法要す【上蔵院過去帳】
「天遊永寿」      =文禄3年「春松院殿天遊永寿」として宍戸喜左衛門法要す【上蔵院過去帳】

以前から気になっていたが、「したし」【御仕出】も「五もし」も高貴な女性への尊称のようである。
「宮原大方」は(みやはらおかた)は書簡の時期からすれば、竹原宮原地区に住んでいた奥方もしくは御母堂
様の意味らしい。よって双方とも当時の普通名詞である。
「春禅院」が古書に一番多いのであるが、これは院号からして
夫とされる村上(来島)通康の没後、永禄10年髪を下ろして「春禅院」と号したものと思われる。
子の通直は翌年2月に河野宗家を継ぐとあり、これは2月21日とされ、、なぜか良く分らないが元服式と
相続式を同時にしたようである。
毛利輝元書状によると2月21、22日に小早川隆景と毛利元春が湯月城に行っている。
21日元服、22日惣領相続と思われるが、21日に式典はすべて終り、22日は飲めや歌えの大宴会だったの
かもしれない。
ここで留意すべきは通直相続に毛利家の意向が強く反映されていることである。

通直母の呼び名は上記のような変遷と思われる。まだ俗名は判らない。

「古文書」がどの名を使っているかによって成立年も推定できる。

  • [50]
  • 牛福通直の葬儀はどこ?喪主は誰?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月17日(火)21時10分22秒
 
通直の命日も史料によりバラバラである。
天正15年3月7日卒【伊豫 長福寺河野系図】
天正15年4月5日卒【伊豫 天徳寺古文書】
天正15年7月9日卒【萩藩閥閲録・河野通恒文書】
天正15年7月13日卒【小早川隆景書状】
天正15年7月14日卒【予陽河野家譜】【高野山上蔵院河野家過去帳及び通直・永寿供養塔刻卒日】

私は7月9日卒説を以前から支持している。

それはさておき葬儀は何処で行われたのであろうか?

通直の法名となる「長生寺」は天正15年の卒時にはまだない。

地元史料によると竹原新城村の法常寺跡に通直を仮埋葬し、翌年、小早川隆景の芳志で建立された長生寺に本葬
されたとされ、どちらの法要も営なんだのは「瑚月霊珊禅師」とされ法常寺住職であり、また長生寺開基とされる。
伊豫の史料に「通直を法成寺に葬る」とあるのはこの経緯を知っている古文書からの引用と思われます。

通直をすぐ「長生寺」に葬ったと説明する古書は時代が後と判断できます。

法常寺(ほうじょうじ)は法成寺、法浄寺、宝丈寺、法条寺と記す古文書も同義とされます。

喪主は誰が勤めたか記録はまだ見つからないが、通直母「永寿」と思われます。

出典を今、探索中ですが通直の正室「矢野」は参列していなかった可能性もあります。

通直の急死の知らせに慌てて竹原に渡海する「永寿」の記録とともに
同時期にさっさと竹原ではなく三原に里帰りする「矢野」の記録もあります。

これは通直自害による身の振り方を毛利家から「永寿」と「矢野」に直接指示した可能性があります。
(「矢野」は大野毛利家に後年、嫁ぎます。)
これが事実なら、この時、九州にあった小早川隆景は「蚊帳の外」の扱いです。

7月9日に三原にいた毛利に何があったのか?
謎は益々深まるばかり・・・・・。

  • [49]
  • 長州 平岡系図 (5)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)21時02分47秒
 
長州 平岡家五代

平岡就次
 長吉 市朗兵衛
 母ハ村上氏
 元和八年生ル
 寛永十九年八月二十三日市朗兵衛尉ニ任セラレ
 毛利秀就公ヨリ片諱一字ヲ賜ヒ就次ト称ス
 明暦元年十二月三日家督相続禄高五百石ヲ領ス
 年号不知船手組番頭役ニ任ス
 寛文二年月日不知上ノ関代官役ニ任シ
 寛文三癸卯年六月三日没ス 年四十二
 法名 金剛院(加筆=殿)英山恕雄居士
 三田尻正福寺ヘ葬ル
 妻 村上河内元信女
 承応元年壬辰十月二十六日没ス
 法名 華香院(加筆=殿)心安理貞大姉
 三田尻正福寺ニ葬ル
 後妻 粟屋内匠隆方女
 寛文二壬寅五月二十七日没ス
 法名 興善院(加筆=殿)安叟妙心大姉
 三田尻正福寺ニ葬ル
 後妻 高須筑後元信女
 寛文五年六月二十七日没ス
 法名 蓮室清薫大姉
 三田尻正福寺ニ葬ル



  • [48]
  • Re: 歴史は断片的でなく~連続性が大事かと

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)12時38分25秒
 
> 大願成就なされると善いですね。
呑舟師、ご厚情有り難く~じっくりと前に進めて参ります。
昭和33年・高知大学文理学部の山本大(やまもとたけし)先生の著書は手元にしっかりと持っております。(庵主の高校卒業の時代也)・・この度の遊行を最後に小豆島の古庵に身をゆるりと休める所存也。・・・今までのデーターをじっくりと纏める時間を造ろうかと考えております(子孫に継ぐ諸行)
成就の後は~のんびりと釣り三昧でもしようかと!・・庭に野菜でも育てて自給自足の在家出家僧紛いか仙人境地の夢を見て。南無


  • [47]
  • Re: 歴史は断片的でなく~連続性が大事かと

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)08時38分59秒
 
大願成就なされると善いですね。
話が古いのでもうなされていると思いますが、事前に質問書を送付していないと先様もきちんと調べて
くれませんので意欲が伝わらないことがありますね。



  • [46]
  • 歴史は断片的でなく~連続性が大事かと

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月20日(土)08時34分13秒
 
呑舟師、真に仰せの通り~以前から今城先師も第一次史料の検証を旨と為されております。
庵主も、今月はお盆の前後から~京都の江戸時代末期の直系先祖出家僧の想いを偲んで、近々現本山御住職にお目にかかるコンタクトを執っております
お蔭様にて手順を踏んで居り、執事の御方にも手元の家伝の古文書等の史料を検めて整理して居り整い次第お届けする義・前もって資料の準備をしております。成就祈願 南無

  • [45]
  • 詳しい時代を追った年表~参考になりました

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)23時07分0秒
 
>>44
> 呑舟師、土佐の国でもこれ程までには、分析されることは無いものかと。
> 伊予も土佐も~阿波も~讃岐も、今少し垣根を越えて情報交換が出来れば宜しいものかと?・・南無

●感想有難うございます。
 幾多の歴史・書古文書がありますが同じ家の家譜でも辻褄が合わないのが散見されます。
 例えば河野系図もたくさん伝わっていますが「5W1H」(いつ?どこで?誰が?何を?何のため?何をした?
 どのようにして?結果はどうなったか?)を解析するために関連年譜を作っています。
 歴史の場合はこれに出典の信憑性が考慮される必要がありますのでとても難儀です。
 今回UPの関連年譜は単に関連であってほんの一部です。何も判りません。状況だけです。
 まだまだ点と点で面となりませんので史実に近付くにはほど遠い状態です。
 最大の疑問は出典の信頼性の問題です。

 例えば一次史料とされる当時の書簡ですが、これが書簡形態で残っているものと、系図の一部に挿入されて
 いるものとでは文面は同じでも価値が変わります。
 例えば「予陽河野家譜」「予章記」の将軍や天皇からの書簡は挿入書簡文です。
 河野系他家の関連系図も同様な形態をとりますから原本の状態がわかりません。
 これらの系図もほとんど菩提寺に伝わっており時代により内容が変ります。
 天正15年河野宗家は断絶しますが子孫や分家は継続しており近代を迎ます。
 所謂、明治の河野家末裔三家(くるしま・淀稲葉・臼木稲葉)とされます。
 どの家も皇孫と明治政府に届け出ました。よってこの流れは学者の見解は別として現在も主流です。

 今、臼木稲葉文書を見ていますが、「予陽河野家譜」「予章記」の文書と同一と思われるものの
 日時や宛先、書面の内容に異同が散見されどれが原本に近いのか判断に苦しみます。
 唯一の救いは現物から謄写したことを示す文言と、その形態の封筒の宛名と裏書があることにより信頼性が系図 挿入文よりあがります。
 さりながら、長い間の転記間違い、余計な加筆、不注意な脱落が散見されます。(他の河野家文書と比較し  て)
 河野関連系図に限らず、私の専門の大野系図も同様で真偽の見極めが大変です。

 これらの見極めのため他家や第三者文書との照合のため年譜をメモしています。

面白いことにこの作業で不思議と出典の信憑性が明らかになってきますので、庵主様の手持ち史料を
5W1Hで時系列化されることをお勧めします。一番重要なのは出展とその成立年と著者と考えます。
個体の文書では問題ないことが他文書と並べることで矛盾点が次々と現れます。
その因果関係を追うのが歴史考証と私は思っています。
よってあまり活本ではなく出来るだけ原本かその謄写本を見ることにしています。
古文書が読めない私にとってサンダル履きでエベレストに登るようですが、ようやくまだ花が咲いている
一合目くらいは登ったと自負しています。
後。九合ありますが、寿命との勝負です(笑)
 

  • [44]
  • 詳しい時代を追った年表~参考になりました

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)21時04分24秒
 
呑舟師、土佐の国でもこれ程までには、分析されることは無いものかと。
伊予も土佐も~阿波も~讃岐も、今少し垣根を越えて情報交換が出来れば宜しいものかと?・・南無

  • [43]
  • 河野は河埜、川野でのどれでもOK!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)10時01分45秒
 
河野・河埜・川野の姓を「予章記」の河野の謂われである分解文字にこだわっていたが
世間様はそのように考えては考えてはいなかった。
様々な河野関係書簡を見るに「河野家文書写」とする河野流臼木稲葉家秘蔵文書には川野も中世
書簡に「川野殿」との書簡がある。
よって、すべてOKある。発音はカワノではなくコウノが主流のようであるが世につれ変化する。
あまり神経質になる必要はないようである。


  • [42]
  • 河野家質 平岡房家は出典、未だ不明

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)08時12分10秒
 
『(1513~1572)
平岡大和守房実(房世の子・河野牛福通直の重臣)
 同時代)
平岡房家(河野牛福通直の質として長曾我部家に送られた人物)』

と以前書き込んだ。
この時の平岡房家の出典は土佐長宗我部家末裔の長宗我部友親氏の著書「長宗我部」(パジリコ株出版)で
あった。その部分は、同書 十四 四国統一の条で

『そして、四国戦線で最後に戦った伊豫に元親が再度攻撃を集中したのは、天正十二年(1584)から翌年に
 かけてである。元親は深田、岡本などの城を落として、二万近い大軍で伊豫の道後湯築城に迫った。
 河野通直はやむを得ず、家老の平岡伊豆守房家を人質として岡豊に送り降伏する。元親の四国制覇はこれを
 もって成就したのである。天正十三年の春であった。』

とある。
これに対し、更に一次史料を探るべく、長宗我友親氏に出典を問い合わせたところ、

「河野攻めの戦況などについては山本大氏の「長宗我部氏」に小早川隆景の書状など詳しく載っています。この書には「家老の松岡某を人質として岡豊に送る」としかありませんが、平岡氏が「伊豆守房家」であることは、その他個別資料で調べました。」

と返事を頂きました。更に他の個別資料が何であるかの調査の依頼を御願いいたしましたが多量の資料に埋れ
そのうちのまま三ケ月がすぎましたので、現段階の経緯の説明をします。

全体の流れからすると、土佐側資料による一部誤認から憶測された可能性があります。
大きな違いは土佐側資料は以前にも問題になったことであるが、湯築城を落し、河野通直は降伏すると
する筋立てである。これらの一環の中で河野家人質説が浮上すると思われます。
これに対し伊豫側資料は確かに元親は南予、東予等から蚕食を数年来開始するが湯築城陥落には至らないし
通直は元親に降伏した形跡は無いとする説の対立である。

現・湯築城代今城氏は伊豫側資料の立場に立っている。私もそれが正しいと思います。

少し時代が外れている「土佐物語」の記述を根拠に「長宗我部元親は伊豫河野家は毛利家の縁戚であるゆえ、
伊豫進出はしない」とする記述で土佐勢の伊豫進出はなかったとする説は少し的がはづれています。
長宗我部は数年に亘り近隣諸国に攻撃をしかけたのは史実であります。

山本大氏の「長宗我部氏」を読んでいないので断定はしかねますが小早川と長宗我部と手を組んで湯築を陥落を
することはないし、小早川文書に長宗我部が湯築城攻めのものはない筈です。

また山本氏は家老の名を松岡としています。

「河野家分限禄」(これは後世の寄せ集め伝承禄であるから史料性はイマイチであるが)を紐解くに
家老職に松岡姓はいないし、もちろん平岡房家も記録されない。
松岡を名乗るのは同禄によると和気郡衆の中に松岡五郎を見出すのみである。

どうも小早川が湯築城を開城した話と混乱して伝承されているようであるが実態はよく判らない。
当時の河野家重臣の一人に平岡房實はいるが、彼は家老職ではなく、勿論土佐の人質にはなっていないし
大和守であって伊豆守ではない。只、当時人質の習慣は常態化している。神文誓書よりはましだったのでしょう。
人質も段階があり家臣から親兄弟子に至るまで忠誠を誓う段階でランク付けされていたようである。
原則人質は後に謀反を起こしても殺されることは稀で人質生活も行動の自由を除けば豊かであったようである。

現段階においては未だ不明としか言えなくなった。

天正11~13年の関連年譜をピックアップすると。

天正11年 1月13日
長宗我部元親、其将久武親信、桑名太郎左衛門等を遣して、伊予北川城主北川親安を其城に攻めしむ、親安、戦死し、城陥る【元親一代記】
天正11年 閏1月7日
長宗我部元親、好を神戸信孝に通ず、信孝の臣玉井彦介、書を元親の弟香宗我部親泰に遺りて、之に答ふ【香宗我部家証文】
天正11年 3月11日 高野山の僧勢雄、柴田勝家の江北出兵を長宗我部元親に報じ、其兵を動さんことを望む【香宗我部家伝証文】
天正11年 3月19日 長宗我部元親、同信親父子、一宮民部少輔に、土佐安芸郡の地を与ふ【武州文書】
天正11年 春 羽柴秀吉、仙石秀久をして、淡路に帰り、長宗我部元親に備へしむ【秀吉事記】
天正11年 4月21日 長宗我部元親、兵を率ゐて讃岐に入る、羽柴秀吉の将仙石秀久と、引田に戦ふ、之を走す【元親一代記】
天正11年 4月 長宗我部元親の弟香宗我部親泰、阿波木津城を攻めて之を抜く、又淡路の洲本城を奪ふ、淡路の兵起り、洲本城を復す【香宗我部家伝証文】
天正11年 5月13日 羽柴秀吉、其将仙石秀久に答へて、近江坂本に帰れるを報じ、併せて、近く長宗我部元親を撃たんとするを告げ、備前、播磨の艦船を督せしむ【伊予国新宮田辺氏蔵古文書】
天正11年 11月11日 毛利輝元、属将伊予能島の村上武吉に書を遺りて、同国来島の村上通昌の帰国を許容せざるを告ぐ
天正11年 伊予中世年表 ○阿波国三好氏東予に進出、ニ神通範・大野・土居氏と防衛戦

天正12年 3月7日 織田信雄、書を長宗我部元親の弟香宗我部親泰に与へて、羽柴秀吉との絶交を報じ、元親の援助を請ふ【香宗我部家伝証文】
天正12年 3月17日 毛利輝元の将宍戸元孝等、伊予に渡る、長宗我部元親の兵と同国恵良に戦ふ【毛利氏四代実録考証論断・萩藩閥閲録】
天正12年 5月18日 伊予金子の金子元宅、長宗我部元親に覚書を送りて、証判を求む、元親、之に加判す【土佐国蠧簡集】
天正12年 5月24日 毛利輝元の将渡辺長等、伊予恵良に戦ふ、同国湯月の河野通直、長を賞す、輝元も亦之を褒す【萩藩閥閲録】
天正12年 6月25日 伊予湯月の河野通直、毛利輝元と安芸福成寺に相会せんとす、輝元の老臣赤川十郎左衛門尉、粟屋元信、同寺に禁制を下して、
天正12年 7月19日 長宗我部元親の将久武親直、伊予金子の金子元宅に、讃岐出馬を促し、之に誓書を送る【金子文書】
天正12年 8月18日 長宗我部元親の弟香宗我部親泰、使を徳川家康、織田信雄に送りて、元親の誓書を致す、家康、之に答へて、羽柴秀吉の美濃出馬を報じ
天正12年 8月18日 長宗我部元親及び其近臣瀧本寺栄音、伊予金子の金子元宅に書を遺りて、讃岐出勢を止め、毛利輝元の伊予出兵に備へしむ【金子文書】
天正12年 8月20日 細川信良、昭元、阿波に渡り、長宗我部元親に頼る、織田信雄、元親に書を遺りて、信良に対し、疏意なかるべきを述ぶ【土左国古文叢】
天正12年 9月3日 伊予金子の金子元宅、長宗我部元親に交替の人質を送る、元親、之に答へ、且毛利輝元の伊予出兵の動静を報ぜるを謝す【金子文書】
天正12年 9月11日 長宗我部元親、其将久武親直をして、伊予を攻略せしむ、同国深田城、陥る【金子文書】
天正12年 9月18日 伊予湯月の河野通直、金尊坊を同国石手寺地蔵院住持職に補す【石手寺文書】
天正12年 10月19日 長宗我部元親の兵、西園寺公広の居城伊予黒瀬を陥る、毛利輝元の将桂元親、之を輝元に報ず【萩藩閥閲録】
天正12年 11月6日 土佐長宗我部元親の兵、伊予に出づ、毛利輝元、同国在陣の桂元親に書を与へて、援軍の派遣を報ず【桂文書】
天正12年 11月8日 土佐長宗我部元親、大崎吉右衛門の、伊予三間表の功を賞し、諸浦の諸役を免除す、香宗我部親泰も亦、其分領諸浦の諸役を免除す【土左国古文叢】
天正12年 12月21日 河野通直、伊予能美の村上景親をして、同国府中東条分を安堵せしむ【萩藩閥閲録】
天正12年 12月24日 予陽河野家譜 ○大野直之は元親の矛先となって梶谷氏の居城高森を攻めて抜けず。

天正13年 2月11日 大日本史料 毛利輝元、羽柴秀吉の意に従ひて、伊予来島の村上通昌の帰国を許す、是日、小早川隆景、同国能島の村上武吉・元吉父子に誓書を与へて、
天正13年 3月25日 大野家譜上田本 ○長宗我部元親、忍び本国に帰る。
天正13年 春頃 伊予年表 ○ついに河野氏は元親に屈服した。(これは長曾我部側資料でありこの時期河野氏は支配権は維持している。
天正13年 4月17日 山口県史整理年表 秀吉の四国征伐に伊予渡海五月二日と決定す。輝元下松船出帆準備を下知す。延期して六月二十七日、隆景・吉川元長出陣す 【閥閲録】 天正13年 5月18日 大日本史料DB 長宗我部元親、羽柴秀吉の軍を防がんが為め、阿波岩倉に著陣す【木屋平文書】


  • [41]
  • 長州 平岡系図 (4)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月17日(水)14時57分52秒
 
長州 平岡家四代

 岡 平岡

平岡就房
 六助 清吉 八左衛門
 母ハ出渕氏
 慶長六年生 岡姓ヲ改メテ平岡姓トス
 寛永十八年九月十三日家督相続 禄高五百石ヲ領ス
 寛永十九年八月二十三日八左衛門尉ニ任ジ毛利
 就武ノ片諱就字ヲ賜ヒ就房ト称ス年号不知
 上関代官役トナル
 明暦元年六月十一日没ス年五十五
 法名萬祥院(加筆=殿)雄峯山英居士 三田尻正福寺ニ葬ル
 妻村上三郎兵衛景親女 寛永八年十二月二十六日没ス
 法名自性院(加筆=殿)本州妙源大姉 三田尻正福寺ニ葬ル
 後妻沓屋筑前元綱女 元禄六癸酉十一月二日没ス
 法名青岩院(加筆=殿)梅窓常香大姉 三田尻正福寺ニ葬ル



  • [40]
  • 長州 平岡系図 (3)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月13日(土)06時36分12秒
 
長州 平岡家三代

平岡直房
 善兵衛
 實ハ通倚ノ弟
 元亀元年生
 伊豫其ノ外ニテ度々武功アリ
 河野氏滅亡ノ時 姓ヲ岡ト改ム
 毛利輝元公ノ代ニ浪人分ニテ召シ出サレ
 大島郡和佐村ニテ三百石ヲ領ス
 後秀元公ノ時加増 同郡八代村ニテ二百石ヲ領シ
 萩城下ニ住ム
 村上河内元信三田尻船手組頭役トナル際
 元信末ノ幼少ナルヲ以テ其ノ後見トナル
 大坂ノ陣ノ時十一月十七日輝元公ヨリ
 陣中掟黒印物ヲ賜フ
 年月不知上関代官役トナリ辞任後隠居
 大島郡和佐村ニ移居ス
 慶安元年三月二十日没ス 年七十九
 法名 心月院殿(加筆=心月)常閑大居士 和佐村心月寺ニ葬ル
 妻出渕某女 年号不知八月二十二日没
 法名修善院(加筆=殿)心月壽清大姉 和佐村心月寺ニ葬ル
 後妻 村上八郎右衛門女没及法名不知
 後妻 曽根孫右衛門高房女
 寛文十二年壬子六月十六日没
 法名 梅鶯院(加筆=殿)華屋妙蓮大姉 和佐村心月寺ニ葬ル



  • [39]
  • Re: 天正16年 牛福通直供養登山は永寿の私的供養か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月12日(金)02時15分43秒
 
従者わずか13人の永寿の高野山登山は、永寿の私的供養登山の可能性を捨てきれない。

通直没後一年も経たないうちに河野家家臣団がこれはどバラバラになるとは思えない。
竹原で通直没後、関係者の談合で河野宗家を継いだとされる築山殿もその関係者もいなければ
後に通直の実子と称し伊予正岡家に匿われし人物の関係者もいないようだ。河野家筆頭家老だった
大野直昌もこの時はまだ生きているのにその関係者も見出せない。
勿論、通直の正室も同行して居ない。

永寿に従った13名の人々にヒントがありそうである。
この13人は家臣団の中の人物としては何故か偏りを感じるので、永寿の取り巻き達だけで
河野家を代表したメンバー構成にはなっていない。
このことから永寿はプライベートに登山した可能性がある。

現在残る通直と永寿の供養塔と前の鳥居が周りの他の殿様のものと比べるとサイズが一回り小さいのは
時代が違うからであろうと思っていたが、造る費用に限界があったのかも知れない。

女人禁制の高野山に何故永寿が登山できたか、こちらもまだ疑問が解けない。

これらは、現在残る書物等と史実は違うのかもしれない。



  • [38]
  • 貴重な寺伝の文書・・然も有らんかな

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月10日(水)20時34分30秒
 
呑舟師のご見識には度々頷くこと多き哉。
高野山上蔵院に伝えられている古文書の義~13名の従者・・・恰も落人の如き様相は、真に伊予の国の領主の最後の姿を思い浮かべて~嘆かわしき哉
栄枯盛衰世の定めかと。南無

  • [37]
  • 天正16年 牛福通直供養登山はわづか14名

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月10日(水)20時15分6秒
 
高野山上蔵院文書によると
天正15年7月竹原で生害したとされる牛福通直の菩提を弔うため、翌年
四月に高野山に登ったのは牛福母 永寿と従う者はわづかに13名であることが
見出された。この文書は天正16年4月27日付けで今後河野主従が高野山に
参るときは上蔵院を今まで通り宿坊とする旨が書かれてある。

現在高野山奥の院に残る牛福通直と永寿本人の逆修供養塔の日付刻印が天正16年4月26日であるから、この文書は翌日の下山する時の文書と思われる。

永寿は通直母と記載し花押ではなく黒印か朱印を押している。
筆頭臣下は平岡太郎通資とし、以下
垣生、垣生、松浦、垣生、向居、、高田、浅海、久保、大田内、杉原
戒能、久城名 のそれぞれの名(正しく書けないので略)と花押がある。

華やかなりしころの高名な家臣の名がないのが寂しい限りである。

この登山のことを知っている人により後世「豫陽河野家譜」編纂時に
通直自身が天正15年湯月城落去のみぎり有馬温泉で湯治の後、高野山
に登山し遠祖にお家断絶の不明を詫びる話として挿入されたのであろう。

  • [36]
  • 長州 平岡系図 (2)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月 6日(土)17時18分21秒
 
長州 平岡家二代

平岡通倚
 遠江守
 母不知
 伊豫国浮穴郡浄瑠璃寺薬師堂ノ後ニ石塔有り
 後ノ代八左衛門通之道後入湯ノ砌 参詣住僧他
 出ノ為メ石塔銘ニ墨ヲ入レ浦月大居士ト同會ニ
 位牌調置候様ニト地下人猪ノ口末之者ニ依頼シ
 請取地下人両人ヨリ取置ク
 死去年不知五月六日没年不知
 法名 耕雲院殿種月英心大居士
 伊予国浮穴郡ニ葬ル
 妻不知

  • [35]
  • 長州 平岡系図 (1)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月 5日(金)18時35分37秒
 
長州毛利家に仕官した伊予平岡家は出自を越智河野として本藩に届ける。

長州平岡家系譜
 姓越智以平岡為称號
 孝霊天皇第三皇子
 伊予皇子後胤河野末裔

初代
 平岡房實
  大和守 母不知
  河野家ニ属シ伊予国浮穴郡大戸山在城脇城吉岡ト号ス
  今モ形堀等有リ此外縫針之城トナドト云テ浮穴郡有家来筋猪ノ口ナドト申ス
  末其外アマタ居住ス 武功万人ニ授ケシ時也
  豊後在陣之時落胤ノ女子ニ子有リ平岡ヲ名乗リ佐武ノ家ニ仕シ由伝聞有リ
  死去年月日不知
  法名 天澄院殿日山浦月大居士
  妻不知

  • [34]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月19日(木)20時13分39秒
 
> ●いいえ合戦の褒賞とされています。来島は後に屋代島に年貢米を早く送れと督促状を出しています。
では安堵ではなく宛行ですね。
厳島直後から伊予へのちょっかいが始まるとするお話と矛盾してきます。

> ●意味があるかどうかは毛利家に聞いてもらわないと分りませんが、「毛利関係文書」等はその
> ように動いたと思われます。意味無く河野家と縁組はしないと思いますが?
隣国の大名であり海賊に影響力のある河野氏と敵対しないためで十分でしょう。
ちなみに『毛利元就卿伝』や『毛利輝元卿伝』など一次史料を中心にした書籍からは、毛利氏が伊予を支配しようとしていた様子は見えませんが。『陰徳太平記』あたりの記述でもそんなようには書いていなかったと記憶しています。
論理的にはもちろん史料的に考えても、毛利氏が河野氏を傀儡にして間接的に支配しようとしたとの見解は合点がいきません。

> ●来島村上を嗣とすることに反対した内訌のことです。
「来島騒動」は来島通康が重臣として活躍する前の出来事ではないでしょうか。
最近は「天文伊予の乱」として、通直・晴通親子の政治的対立が重視されていますが。

>  厳島合戦の交渉も協力の褒賞として何を呉れるかに時間が掛ったようです。
山内譲氏は諸史料を検討した結果、武吉の参戦は不明としています。
また最近では岸田裕之氏が能島は陶方だった可能性を示す史料を紹介したようです。

>  このような見解を採るのは民族学者宮本常一先生です。
宮本氏の功績は大きいものがありますが、ここ最近の研究も参照されてはいかがでしょうか?

>  前後の文節からすると、この時は通直はまだ18歳と思われます。
>  マザコンか否かは私は精神医ではないので断定はできませんが当主に決定権が無かったからの憶測で す。
通直に決定権がなかったとする根拠は何でしょうか?一次史料で見るかぎりそんな様子はうかがえません。通直母の権限が大きかったようではありますが。毛利氏との姻戚関係が背景ではないでしょうか?

> ●川岡先生、なかなか面白い解釈ですね。初めて聞きました。
詳しくは愛媛新聞社の『伊予河野氏と中世瀬戸内世界』を参照ください。

> ●河野家家老は「河野家分限録」です。筆頭と書いてあったのは又別の文書だったと記憶します。
確かに「河野分限録」には御家老衆の筆頭に上がってますね。ありがとうございます。
とはいえ、大野直昌が河野氏家老であったとは思えませんが・・・。

  • [33]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月18日(水)23時22分48秒
 
> > ●来島は屋代島の一部、能島村上は江田島能美島一部と鞆の一部を毛利から安堵された意味です。
> 安堵ではなく、宛行ではないでしょうか?
> 厳島合戦以前に、両氏がそれらの場所に領地を得ていたということですか?

●いいえ合戦の褒賞とされています。来島は後に屋代島に年貢米を早く送れと督促状を出しています。

> >  毛利は河野家を傀儡にすれば領地を物理的に獲とくする必要はありません。
> >  全部自分の支配権が間接的に行使されますから。
> 毛利氏は、帰属する国衆にさえ支配権を行使できないのに、他大名に支配権など行使できるでしょうか。
> そもそも物理的な利益のない支配にいったい何の意味があるのか理解できません。

●意味があるかどうかは毛利家に聞いてもらわないと分りませんが、「毛利関係文書」等はその
ように動いたと思われます。意味無く河野家と縁組はしないと思いますが?

> > ●大きく河野家そもののとして左右したか来島村上は「筋目が違う」との内訌に発展したのではないでしょうか?
> どのことを指しているのでしょうか?

●来島村上を嗣とすることに反対した内訌のことです。

> > 能島村上は河野家に従属した認識はなかったと思われます。
> 能島村上家の通直書状を見ると。天正年間は河野氏家臣として扱われているようですが。

●河野氏はそう思っていたようですが、特に村上武吉は、良く言えば全方位外交で、当時の海賊の
 考えは誰かの臣下になることではなく頼まれれば一件一件損得計算をしたのちに請負の形で
 行動したようです。厳島合戦の交渉も協力の褒賞として何を呉れるかに時間が掛ったようです。
 彼は河野とも、毛利とも、大友とも契約していたようです。
 実質的に臣下体制に入らざるを得なかったのは天正13年能島下城でホームベースが無くなって
 からでしょう。
 このような見解を採るのは民族学者宮本常一先生です。

> > 通直は卒年で24歳ですし、春禅院のマザコンと思われます。
> ご想像でしょうか?

●大野系図は秀吉の使者が天正年中、河野家も自軍につけと交渉に来た時に、当主通直ではなく
 母親の春禅院が当家は毛利とは懇意なるゆえと追い返したとの記述からです。
 前後の文節からすると、この時は通直はまだ18歳と思われます。
 マザコンか否かは私は精神医ではないので断定はできませんが当主に決定権が無かったからの憶測で す。

> 政略結婚でない婚姻は滅多に存在しないでしょう。平岡・大野の婚姻は、川岡勉氏が「天文伊予の乱」と結びつけて解釈されてますね。大野氏が大内方と反大内方で抗争し、房実女の子である直昌が家督を継承したと。

●川岡先生、なかなか面白い解釈ですね。初めて聞きました。
 大筋では合っているのかも知れません。大野家内が反大内と親大内と分かれたする見解は?

 色んな大野系譜を見るに反大内は大野家三男直昌らの兄弟と思われ、
 親大内は二男の直秀と五男直之(行)兄弟と思われます。
 別に諸大野系図は内輪もめをしたとは書いてはありません。
 後の言動がその様に見させます。
 上川村大野系図が長男友直(直森)夭逝した後、家督が次男直秀ではなく三男直昌にしたのは
 直秀は庶子で直昌が嫡子であるとし、直秀は怒って久万を出て行ったとされ、「久万町誌」をそれを
 史実の如く公開し近隣町村誌も引用しますから、伊予ではこの説が常識となりました。

 直秀系の「長州屋代島大野系譜」はそうは語りません。

 川岡説を裏付けるのは上川村大野系図が直秀は大内義隆と契約し隆直と改名した等でしょう。
 ただ直秀兄弟の父である利直は大内と親交があったえらしく義隆の書状が残っています。

> > ①信長に味方し毛利家と縁を切れとの信長代理秀吉の使者に対し、河野家は毛利は親族故そのような
> >  ことは出来ぬとした説(最終決断は『春禅院」』の模様)【大野系図】(一応河野家筆頭家老系図)
> 大野氏を河野氏筆頭家老とする根拠を教えていただけますか?

●河野家家老は「河野家分限録」です。筆頭と書いてあったのは又別の文書だったと記憶します。

> 大野氏は一次史料が少ないようで、河野氏とどのような関係であったかは興味があります。

●私もその関係を検証するために河野家に関わっているだけです。

 愛媛県編年史が載せる「大野家文書」の殆どは現物ではなく「大野系図」(珍丸本)の転載
 ですので「予陽河野家譜」等と同様に一次史料とは言えません。難儀な話です。

  • [32]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月18日(水)19時31分41秒
 
> ●来島は屋代島の一部、能島村上は江田島能美島一部と鞆の一部を毛利から安堵された意味です。
安堵ではなく、宛行ではないでしょうか?
厳島合戦以前に、両氏がそれらの場所に領地を得ていたということですか?

>  毛利は河野家を傀儡にすれば領地を物理的に獲とくする必要はありません。
>  全部自分の支配権が間接的に行使されますから。
毛利氏は、帰属する国衆にさえ支配権を行使できないのに、他大名に支配権など行使できるでしょうか。
そもそも物理的な利益のない支配にいったい何の意味があるのか理解できません。

> ●大きく河野家そもののとして左右したか来島村上は「筋目が違う」との内訌に発展したのではないでしょうか?
どのことを指しているのでしょうか?

> 能島村上は河野家に従属した認識はなかったと思われます。
能島村上家の通直書状を見ると。天正年間は河野氏家臣として扱われているようですが。


> ●萩藩閥閲録、同譜録、三家誌、毛利十八代史を参照願います。
「毛利家文書」といえば普通「大日本古文書」で活字化されているものを想起します。
毛利家関係の諸史料とでも言っていただいた方が誤解がないと思います。

> いろんな論文の平岡親子が実権を握っていた根拠がわかりません。
最近のものでは、『四国中世史研究』の山田康弘氏や中平景介氏の論文が詳しく触れています。ご参照ください。

> 平岡家は河野一族ではありませんし、村上、戒能、大野等と閨閥関係を構成して河野家内の
> 「今太閤」の感じです。何故、河野通直の絶大な信頼を得たのか未だ分りません。
多くの国衆に影響を与える強大な権力を持つ存在が、大名家の動向を左右するのはごく一般的ではないでしょうか?河野氏に限らずどの大名も有力家臣の寄り合い所帯に過ぎませんから。

> 通直は卒年で24歳ですし、春禅院のマザコンと思われます。
ご想像でしょうか?

> 平岡と大野家は本来敵対関係で戦闘をしています。この和平条件として平岡房実の娘を嫁に迎えたとされますが政略結婚(質)と思われます。
政略結婚でない婚姻は滅多に存在しないでしょう。平岡・大野の婚姻は、川岡勉氏が「天文伊予の乱」と結びつけて解釈されてますね。大野氏が大内方と反大内方で抗争し、房実女の子である直昌が家督を継承したと。

> ①信長に味方し毛利家と縁を切れとの信長代理秀吉の使者に対し、河野家は毛利は親族故そのような
>  ことは出来ぬとした説(最終決断は『春禅院」』の模様)【大野系図】(一応河野家筆頭家老系図)
大野氏を河野氏筆頭家老とする根拠を教えていただけますか?
大野氏は一次史料が少ないようで、河野氏とどのような関係であったかは興味があります。

  • [31]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月18日(水)10時10分36秒
 
> > ●けっこうあったと思います。
> >  手許の史料の山の中からそれがどの文書であってか探し出すのは時間がかかりそうですが・・・。
> いろいろな論文での引用を含めて、管見には及びませんでした。もし見つかりましたら教えてください。

●どこかにあると思いますので探してみましょう。

> > ●伊予を狙い、うまくいけば四国全体も視野に入れていたと思われます。
> > 厳島の合戦で村上水軍の与力を受け、その褒賞として領地を安堵したあたりから伊予へのちょっかいが 始まります。陶を討ち防長二州を取り、次は九州、山陰尼子、伊予を手始めの一条家の宇和進出への攻撃は領土拡大の一環と思われます。
>
> 来島にしろ能島にしろ本領安堵などされていないと思いますが。来島は屋代島に知行を与えられたようですが。宇和での一条氏との戦いも、河野氏の要請に基づいた援軍であったことは史料・論文からみて明らかだと思いますが。秀吉の四国征伐後まで毛利は伊予に領地を獲得した形跡がありませんし。

●来島は屋代島の一部、能島村上は江田島能美島一部と鞆の一部を毛利から安堵された意味です。
 毛利は河野家を傀儡にすれば領地を物理的に獲とくする必要はありません。
 全部自分の支配権が間接的に行使されますから。
>
> >村上通康も武吉も「河野家分限録」によれば一応、河野家家臣とされます。本人たちがそう思っていたか否かは別ですが?河野家への影響力は少なからずあったと思われます。
> 来島通康は、河野氏を代表する重臣でしたし、武吉も天正十年代には河野氏重臣であったようですから、影響力があったというよりは河野氏そのものを大きく左右していたのではないでしょうか。

●大きく河野家そもののとして左右したか来島村上は「筋目が違う」との内訌に発展したのではないでしょうか?能島村上は河野家に従属した認識はなかったと思われます。
因島村上は小早川の仲間です。三島村上も団結はしていません。
元々「村上系図」が語る三家一家ではなく梶取仲間の連合体だったからとも思われます。

> > 牛福通直母、春禅院(春松院)を送りこみ、更に牛福通直の室を送りこんで傀儡化がほぼ成功したと
> > 思われます。春禅院の附人として毛利側家臣を送り込み、湯築城内に詰所(現地駐在所)を設けた
> > と毛利家文書は記録します。
> 「毛利家文書」でそのような史料を見たことがありません。これもよろしければ教えてください。

●萩藩閥閲録、同譜録、三家誌、毛利十八代史を参照願います。

> 河野氏を構成していたのは平岡・来島・能島などの有力領主ですから、当主の周辺に一族や家臣を送り込んだところで、河野氏の政治を簡単に左右することなどできないと思います。
> いろいろな論文で牛福の時代は、平岡親子が実権を握っていたとされていますし。通直元服後は、平岡親子が死んでいたためか通直本人が表に出ているように感じますが。

●よく分らないのです。

いろんな論文の平岡親子が実権を握っていた根拠がわかりません。
平岡家は河野一族ではありませんし、村上、戒能、大野等と閨閥関係を構成して河野家内の
「今太閤」の感じです。何故、河野通直の絶大な信頼を得たのか未だ分りません。
通直は卒年で24歳ですし、春禅院のマザコンと思われます。

平岡と大野家は本来敵対関係で戦闘をしています。この和平条件として平岡房実の娘を嫁に迎えたとされますが政略結婚(質)と思われます。

河野家断絶後双方の一支流が屋代島に土着し明治を迎えます。
双方の領地は細い屋代川を挟み隣接し屋敷は500M程度しか離れていませんので、
「世が世であらばお互い一国一城の主であったものを・・・・」とか言いながら
嘆き節の酒宴を時折していたのではと想像しています。
この時はもう毛利家の家臣と村上図書の家臣ですから、大野は陪臣となります。

> > 最後の最後の直訴を通直が安芸で天正15年に九州からの帰途の秀吉にして御家再興断念に至り
> > 生害に及んだと思っています。後世の河野関係文書はこれを通直病死と記録し名誉を保とうと
> > したものと思われます。
> 西尾和美氏がそのような論文を書かれていましたね。

西尾論文は萩藩閥閲録と同譜録の長州河野文書を根拠とし、小早川文書と村上文書と毛利家文書から
補強しての話ですね。

河野家再興の願いを毛利、小早川が再三運動しますが結果的には叶いません。

古文書には理由が二つあるとされます。
どちらが正しいかは分りませんが・・・・。

①信長に味方し毛利家と縁を切れとの信長代理秀吉の使者に対し、河野家は毛利は親族故そのような
 ことは出来ぬとした説(最終決断は『春禅院」』の模様)【大野系図】(一応河野家筆頭家老系図)

②天正13年臣下の礼を取らせるために秀吉が呼びつけたのを牛福通直が拒否したからとの説

とがあります。多分両方発生したのでしょう。
①と②は時期が違いますので、秀吉はチクチクと河野家攻略をしていたのでしょう。

まだまだ未発見の文書を探す必要がありますね。


  • [30]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月17日(火)20時16分4秒
 
> ●けっこうあったと思います。
>  手許の史料の山の中からそれがどの文書であってか探し出すのは時間がかかりそうですが・・・。
いろいろな論文での引用を含めて、管見には及びませんでした。もし見つかりましたら教えてください。

> ●伊予を狙い、うまくいけば四国全体も視野に入れていたと思われます。
> 厳島の合戦で村上水軍の与力を受け、その褒賞として領地を安堵したあたりから伊予へのちょっかいが 始まります。陶を討ち防長二州を取り、次は九州、山陰尼子、伊予を手始めの一条家の宇和進出への攻撃は領土拡大の一環と思われます。

来島にしろ能島にしろ本領安堵などされていないと思いますが。来島は屋代島に知行を与えられたようですが。宇和での一条氏との戦いも、河野氏の要請に基づいた援軍であったことは史料・論文からみて明らかだと思いますが。秀吉の四国征伐後まで毛利は伊予に領地を獲得した形跡がありませんし。

>村上通康も武吉も「河野家分限録」によれば一応、河野家家臣とされます。本人たちがそう思っていたか否かは別ですが?河野家への影響力は少なからずあったと思われます。
来島通康は、河野氏を代表する重臣でしたし、武吉も天正十年代には河野氏重臣であったようですから、影響力があったというよりは河野氏そのものを大きく左右していたのではないでしょうか。

> 牛福通直母、春禅院(春松院)を送りこみ、更に牛福通直の室を送りこんで傀儡化がほぼ成功したと
> 思われます。春禅院の附人として毛利側家臣を送り込み、湯築城内に詰所(現地駐在所)を設けた
> と毛利家文書は記録します。
「毛利家文書」でそのような史料を見たことがありません。これもよろしければ教えてください。
河野氏を構成していたのは平岡・来島・能島などの有力領主ですから、当主の周辺に一族や家臣を送り込んだところで、河野氏の政治を簡単に左右することなどできないと思います。
いろいろな論文で牛福の時代は、平岡親子が実権を握っていたとされていますし。通直元服後は、平岡親子が死んでいたためか通直本人が表に出ているように感じますが。

> 最後の最後の直訴を通直が安芸で天正15年に九州からの帰途の秀吉にして御家再興断念に至り
> 生害に及んだと思っています。後世の河野関係文書はこれを通直病死と記録し名誉を保とうと
> したものと思われます。
西尾和美氏がそのような論文を書かれていましたね。

  • [29]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月17日(火)04時38分26秒
 
> > 今の中学1年生ぐらいが宗家の総大将になったようですから家臣への押さえは利かなかったことは
> > 容易に想像できます。色んな当時の文書は「通直(牛福)幼稚ゆえ・・・」と傍証しています。
> たしか、河野は幼少だから家臣に話をつけようという趣旨の文書ではなかったでしょうか?
> 当時の文書でそんなことが書かれていたのは一点だけだったと思いますが、他にもあるのでしょうか。

●けっこうあったと思います。
 手許の史料の山の中からそれがどの文書であってか探し出すのは時間がかかりそうですが・・・。

> > 河野家を傀儡政権にするための毛利家にとっては「してやったり!」かも知れませんね。
> 毛利は河野を傀儡にしようとしていたとは思えませんが・・・。伊予にそんな魅力があったとは思えません。

●伊予を狙い、うまくいけば四国全体も視野に入れていたと思われます。
厳島の合戦で村上水軍の与力を受け、その褒賞として領地を安堵したあたりから伊予へのちょっかいが
始まります。陶を討ち防長二州を取り、次は九州、山陰尼子、伊予を手始めの一条家の宇和進出への
攻撃は領土拡大の一環と思われます。村上通康も武吉も「河野家分限録」によれば一応、河野家家臣
とされます。本人たちがそう思っていたか否かは別ですが?河野家への影響力は少なからずあった
と思われます。
牛福通直母、春禅院(春松院)を送りこみ、更に牛福通直の室を送りこんで傀儡化がほぼ成功したと
思われます。春禅院の附人として毛利側家臣を送り込み、湯築城内に詰所(現地駐在所)を設けた
と毛利家文書は記録します。
通直時代に河野家と毛利・小早川家の間のメッセンジャーが平岡房実親子とされます。
この親子は河野家と毛利(主に窓口は小早川家)家から絶大な信頼があったと思われます。

秀吉が天下を取ったのは計算違いで、ただちに適応した毛利側は天正13年、伊予を攻めた形を取り
湯築を無血開城させたとされます。河野家擁護のためか、小早川はほぼ河野家旧版図を受領します。
通直らは当時の常識に反して、下城させず、湯築にそのまま住まわせます。
その後何度も毛利側は河野家再興を秀吉に願い出ますが、頑として聞き入れられず、
最後の最後の直訴を通直が安芸で天正15年に九州からの帰途の秀吉にして御家再興断念に至り
生害に及んだと思っています。後世の河野関係文書はこれを通直病死と記録し名誉を保とうと
したものと思われます。

  • [28]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)23時55分16秒
 
> ●と云うことは山内譲さんは「予陽河野家譜」が語る、
>  「永禄十一年二月牛福丸湯築城で元服し伊予守通直と改める」とされる記述は嘘と認識されたと言うことですね?
少なくとも元服に関しては「予陽河野家譜」の記事は採用されていないようです。
なお「柁谷文書」で、牛福通直は元亀4年(天正元年)にすでに通直を名乗っていたようです。

> 今の中学1年生ぐらいが宗家の総大将になったようですから家臣への押さえは利かなかったことは
> 容易に想像できます。色んな当時の文書は「通直(牛福)幼稚ゆえ・・・」と傍証しています。
たしか、河野は幼少だから家臣に話をつけようという趣旨の文書ではなかったでしょうか?
当時の文書でそんなことが書かれていたのは一点だけだったと思いますが、他にもあるのでしょうか。

> 河野家を傀儡政権にするための毛利家にとっては「してやったり!」かも知れませんね。
毛利は河野を傀儡にしようとしていたとは思えませんが・・・。伊予にそんな魅力があったとは思えません。

  • [27]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)21時46分51秒
 
> > ●この牛福の元服が天正年間がとされる一次史料はなにか教えて頂けませんか?
> 山内譲氏の論文「河野通直(牛福丸)の時代 上」に書かれています。
> 確認される一次史料は、永禄13年まで「牛福」で天正年間から「通直」を名乗っているためだったと思います。
> 『ソーシアルリサーチ』という雑誌に掲載されています。
>
> >  逆算すると天正4年元服が正しく、
> なぜ天正4年なのでしょうか?

●と云うことは山内譲さんは「予陽河野家譜」が語る、
 「永禄十一年二月牛福丸湯築城で元服し伊予守通直と改める」とされる記述は
 嘘と認識されたと言うことですね?

逆算は単純に電卓を弾いただけです。
牛福通直逝去がほぼどの文書も天正15年(1587)7月にとし、享年24歳とします。
となると生年は1563年(永禄6年)となります。それに詳しい誕生日は分りませんので13~14年の
元服年齢を足すと早ければ天正4年となり遅くても天正5年となるからです。

一部の河野系図は34歳で逝去と記すものもありますが、是は誤記と思われます。

今の中学1年生ぐらいが宗家の総大将になったようですから家臣への押さえは利かなかったことは
容易に想像できます。色んな当時の文書は「通直(牛福)幼稚ゆえ・・・」と傍証しています。

河野家を傀儡政権にするための毛利家にとっては「してやったり!」かも知れませんね。

  • [26]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)19時25分1秒
 
> ●この牛福の元服が天正年間がとされる一次史料はなにか教えて頂けませんか?
山内譲氏の論文「河野通直(牛福丸)の時代 上」に書かれています。
確認される一次史料は、永禄13年まで「牛福」で天正年間から「通直」を名乗っているためだったと思います。
『ソーシアルリサーチ』という雑誌に掲載されています。

>  逆算すると天正4年元服が正しく、
なぜ天正4年なのでしょうか?

  • [25]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)03時38分53秒
 
> ご疑問の牛福の元服ですが、一次史料で確認できるのは天正年間からだったと記憶しています。
> よって観念寺文書はとくに問題ないと思います。

●この牛福の元服が天正年間がとされる一次史料はなにか教えて頂けませんか?
 たぶんこちらが私も正しいと思うのですが。
 逆算すると天正4年元服が正しく、
「予陽河野家譜」の永禄11年元服の記述は間違いだと証明されます。

  • [24]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月 9日(月)20時08分35秒
 
> ●大丈夫です。心配ご無用です。
失礼いたしました。不特定多数の目に触れる場所への許可が下りるか疑問でしたので。

ご疑問の牛福の元服ですが、一次史料で確認できるのは天正年間からだったと記憶しています。
よって観念寺文書はとくに問題ないと思います。
それから牛福の花押についてですが、最新の歴博の『研究紀要』がちょうどそのことを扱っているようです。手前もまだ注文していないので見ておりませんが。

  • [23]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 9日(月)06時14分5秒
 
>>22
> > 牛福通直が河埜と名乗っていたことは前述の「上蔵院文書」で明らかである。
>
> 写真の署名は「河野牛福」であって「河埜牛福」ではありません。
> 「野」の構成時のうち「田」「土」「予」の配置が変わった
> 田予
>  土
> のくずし字ですから活字にすれば「野」です。「埜」ではありません。
>
> > 私の投稿の通直書簡は伊予史談会の冨永先生が大正期に上蔵院に出向き直接校合されたものですが
> > 映写本ではなく転写本ですので現物そのものではありませんから。
>
> 影写本を許可を取って撮影されたものと思いますが、転載の許可はとられているのでしょうか?

●大丈夫です。心配ご無用です。

  • [22]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月 8日(日)22時34分44秒
 
> 牛福通直が河埜と名乗っていたことは前述の「上蔵院文書」で明らかである。

写真の署名は「河野牛福」であって「河埜牛福」ではありません。
「野」の構成時のうち「田」「土」「予」の配置が変わった
田予

のくずし字ですから活字にすれば「野」です。「埜」ではありません。

> 私の投稿の通直書簡は伊予史談会の冨永先生が大正期に上蔵院に出向き直接校合されたものですが
> 映写本ではなく転写本ですので現物そのものではありませんから。

影写本を許可を取って撮影されたものと思いますが、転載の許可はとられているのでしょうか?

  • [21]
  • 牛福通直はいつから通直を名乗るのか?花押は?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 3月 3日(木)19時35分51秒
 
牛福通直がいつから通直と名乗るのか誰かご存知ありませんか?

通常幼名は元服後は成人名に変えるものと思っていますが・・・・。

牛福の元服は永禄11年2月(1568)先代通宣が病に罹り嗣子が無い為、遠縁の牛福を湯月城に迎え
元服と同時に家督相続をしたと伝えられます。
毛利輝元の書状によると、2月21日22日に小早川隆景は毛利元春を同道し伊予表に渡海とあるので
元服式と家督相続式の祝宴への輝元の名代としての渡海と思われます。
となると14歳に満たない牛福を相続のため幼少のまま当主資格を与えるため元服させた可能性もある。
牛福誕生年は通直竹原での生害年齢の記録により、現在では逆算想定されているが果たして正しいのか
不明となってきた。
河野関係文書はあちこちに「牛福幼稚ゆえ」と書かれ河野家一族郎党が一致団結しない理由とされています。どうも毛利家による河野家乗っ取りの戦略の一環のように思えます。
永寿を送り込み、同行世話人として湯月城に毛利家駐在員をまた送り込み、通直嫁も送りこみますから
着々とこの作戦は進行したようです。
嫌なら、宇都宮や大野直之の騒乱には援軍は送れないとムチと飴とで篭絡したのでしょう。
牛福元服家督相続に呼応するように3月には2万5千の援軍を毛利は伊予に出動させます。

前置きが長くなりました。
観念寺文書と上蔵院文書を見るに、観念寺文書の牛福書簡は元服後数年経っており、成人が幼名を
使うのは変?どなたか分る人はいませんか?

観念寺の牛福文書と上蔵院の牛福文書を参考にUPします。

  • [20]
  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 3月 3日(木)12時26分43秒
 
牛福通直が河埜と名乗っていたことは前述の「上蔵院文書」で明らかである。
埜と野はどう違うか調べてみました。
漢字学者によると埜は野の古体字である。異体字ではないようです。
よって意味は同じであるが、使用時期が違うようである。

となると河野と書かれている古文書は予陽河野家譜、予章記、はもちろん太平記、平家物語にまで
遡り、本来はどう書かれていたか、編纂年(版)の確認が必要となってきた。

となると予章記が説明する「河野」の語源説明
「彼ノ水上可住、サレハ水ヲ予里トスヘシト云ヲ二文字ト成テ河野ト名ヘシ」
は河野を念頭で河埜は念頭にない。やはり成立年を含めて検証が必要と思われます。
上記語源は「河」「野」の漢字成立のプロセスを説明したのにのに過ぎない。(「漢語林」参照)
「埜」となると成立プロセスが微妙に違う。

こうなると、書き物ではなく書簡等の一次史料を確認する必要が出てきました。
西尾さんは「上蔵院文書」の現物を直接見て映写してると思われるのでどう言われているか気になります。

私の投稿の通直書簡は伊予史談会の冨永先生が大正期に上蔵院に出向き直接校合されたものですが
映写本ではなく転写本ですので現物そのものではありませんから。


  • [19]
  • 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 3月 2日(水)07時03分11秒
 
戦国末期は河野家は河埜家と名乗っていた。
埜と野は発音は同じであるが、現在の別スレッドの漢字論争の折、意味は違うのか、
単なる同音語でどちらでもよいのか?
さすれば名前等の固有名詞は原則変更してはならないとされるものも現代の感覚なのであろうか?
現在では中野さんと中埜さんはきちんと区別するのだが?
現在の河埜さんも字は違えども河野一族の可能性が出てきました。

高野山上蔵院宛の牛福通直自筆とされる書簡を参考にUPしておきましょう。

  • [18]
  • Re: 平岡治部小輔

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 2月21日(月)19時42分36秒
 
> 天正13年春、河野家の質として長宗我部へ出された平岡某(伊豆守房家・出典不明)といい、
> 平岡一族は河野屋形にかなり近い縁者のようですね。
> 平岡治部小輔というのは、このスレッドで名前のあがっている平岡一族の中にいるのでしょうか。

●精査しないと断定できませんが、時期からすると平岡通倚と思われます。
 河野家の毛利家への窓口でメッセンジャーボーイが平岡家で、毛利家の窓口は小早川隆景です。
 情報のチャネルは1本化していたようです。外交の基本姿勢ですね。
 後に、河野家滅亡により、平岡家も小早川隆景に随従、隆景無きあとは毛利家家臣として明治の代を
 迎えます。
 同様な変遷を送るのが、大野直昌の兄、直秀(隆直)で、故あって、能島村上武吉の預扶助となり
 武吉の女を嫡男、直政が娶るにいたって、直政は元吉付け家老となり、「姫路会談」に於いて、
 信長(代理人秀吉)の河野家と毛利家と村上家の調略を断り、後日、河野家は断絶、村上家は西方に追いやられ
 交渉当事者の村上元吉とその家老大野直政の首をよこせと再三の督促をとりなしたのは、毛利家と
 小早川家であったのです。
この会談で来島村上は秀吉に走ったので、後、九州の大名になりました
 が主家、河野家を滅亡に追いやったことは周知の通りです。

> 別件ですが、宇都宮豊綱の子豊治の存在も確認できました。
> 『豊治は姓氏を荻野與右衛門と号して小早川隆景に陪従す』
> 桐見川大野系図にある、豊治女が大野(菅田)直之室という記述の信頼性も
> 高くなってきました。

●これも精査しないと断定できませんが
 大野(菅田)直行(直之)の室は宇都宮の女であることは事実です。
 豊綱の女説が大野系図では一般的で、豊治では年代が合うかどうかを調べる必要がありそうです。
 直之が娘婿の立場で宇都宮家を乗っ取ったと河野系文書は稀代の悪者として記録し、愛媛県史も
 同様な趣旨のことが書かれていると思います。
 確かに、河野家にとっては目障りな外様【河野家分限帳】の家臣と記されます。
 長曾我部元親と連携して河野家に敵対していますが、なにか理由があるようです。
 前出の兄、直秀(隆直)は弟、菅田(大野)直之に同情的です。
 下世話に言う、嫡子グループと庶子グループの対立のように思えます。
 古田村大野系図はどちらかと言えば庶子Gに近い立場にたっています。
 これに対し、上川村大野系図は宗家の立場で書いてますが、こちらも庶家です。
 「正統大野譜図」と仰々しい名前を系図の冒頭に付けてますが、様々な大野系図があって
 迷惑したことによる題名と好意に私は解釈していますが正統ではありません。

 大野の嫡孫系は?と言われると非常に難しい。

 ある系図は直昌は嫡子を廃嫡し、宇都宮の一条家からの出戻りの女を再正室とし、大野家が宇都宮家
 の什器を継承することにより、大野家、宇都宮家は合体したとしるす。
 こちらの立場を採るのは「大野系図讃岐屋本」です。

 まあ、ぼちぼち調べます。虚実が千年以上にわたり複雑に絡んでいます。

  • [17]
  • 平岡治部小輔

  • 投稿者:naokoメール
  • 投稿日:2011年 2月21日(月)13時08分59秒
 
お久しぶりです。
東京大学史料編纂所のデータベースで「西園寺公広」を探索中に、
偶然以下の記述に行き当たりました。

『(前略)・・屋形乃使平岡治部小輔赴干隆景陣、以為人質。(略)・・』
文献本文に続けて 天正13年9月12日付 小早川左衛門佐の署名の書状が
記載されています。
データは天正13年8月6日条に分類されています。文献名は失念しました。

天正13年春、河野家の質として長宗我部へ出された平岡某(伊豆守房家・出典不明)といい、
平岡一族は河野屋形にかなり近い縁者のようですね。
平岡治部小輔というのは、このスレッドで名前のあがっている平岡一族の中にいるのでしょうか。

別件ですが、宇都宮豊綱の子豊治の存在も確認できました。
『豊治は姓氏を荻野與右衛門と号して小早川隆景に陪従す』
桐見川大野系図にある、豊治女が大野(菅田)直之室という記述の信頼性も
高くなってきました。

  • [16]
  • 残念ですが

  • 投稿者:takubo某メール
  • 投稿日:2011年 1月30日(日)15時04分2秒
 
ご歓迎いただいているのはありがたいのですが、こちらで何かお話しするような新たな材料はありませんし、
仮にあったとしてもその状況も整っていないようです。

> 下記の内、④⑦は貴方のHPの流用す。

先日確認させていただきましたとおり、宍戸景好室や平岡通賢を平岡房実の子とする史料は
存じておりませんし、そのような記述も一切私自身しておりません。
裏を取るもなにもありません。

私の駄文を隅から隅まで読んでいただきたいとまで言うつもりはありませんが、
少なくとも情報として引用されるものについては落ち着いて確認いただきたいものです。
私が書いてもいないことを書いたとされる意図がどのようなところにあるのかは
存じ上げませんが、困惑するばかりです。

このような状況では私の中では呑舟さんご自身が集められた史料を元にコメントされていることについても、
その記述が誤解ないものであるのか疑念をもたなくてはいけなくなるのは残念なことでもあります。

また、弊ブログで質問いただいております、宍戸景好の直系子孫の行方についても
既に1行2行ではなく大きく取り上げているつもりなのですが、、、

いずれにしても「呑舟さんにしか見えていない」ものとの間では議論の深まりようもありません。
まずはその点、ご留意いただければと思います。

http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/


  • [15]
  • Re: 宍戸景好室と平岡通賢と其の後にて

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 1月29日(土)23時29分19秒
 
>>10
> はじめまして、takubo某と申します。
> 呑舟さんに弊ブログにてコメントをいただいていますが、こちらの方が議論によいかと思いますので
> こちらにもお邪魔させていただきます。
田窪さま、是非新たなテーマで、ご先祖様『田窪(家)』氏のご先祖を訪ねてみませんか!・・。
河野家四十一代『親経』の弟・『兼孝』(高井太夫・氏の祖)の5男『孝房』(田窪小太夫)~其の子
高村(田窪三郎)の家系か~もしくは、その孝房の2つ上・兄孝経(高井五郎)の子『兼経』(四郎子太夫)の子『清孝』(田窪五郎)の御子孫の家系を受け継いでいるのではないでしょうか!??。是非今後ともご先祖を辿る『奥の細道』をご一緒しませんか?・・是非呑舟師の先達にて。 南無

  • [14]
  • 荏原地区の領有者、平岡

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月29日(土)18時04分42秒
 
美濃土岐家の分領であった荏原久万地域は平岡房世の「平岡競望」により
取れれてしまった。伊予土岐家も平岡に従属するようになったといわれる。
土岐家が興した浄瑠璃寺も取られてしまった。
当時、土岐成頼や細川政元は大野綱直に「平岡進出」を阻止するよう
頼んでいるが出来なかったらしい。

柳原多美雄氏が「古城を行く」で荏原(会原)城は「忽那一族軍忠次第」
によると建武2年(1335)に築城されているから、当時の城主は不明で
あるが平岡氏の先祖に間違いない」と述べているが、当時は土岐家の持ち物
であろうから、これは間違いです。

文明2年(1480)の土岐成頼書簡と細川政元の書簡は

予州荏原久万山事、先程申候処
御懇示給候、悦着候、弥可然様願 御合力、
早速達 本意候様被掛御心候者本望候。
仍従 細川右京太夫土州讃州以諸勢可有
合力之由承候。各可申合候。併御許容
肝要候、恐惶謹言
(文明十二年)七月廿日  (土岐)成頼
大野九郎次郎(綱直)殿
(1492*土岐成頼書状)

當国荏原久万山事、忍取天神森於徳(川)城
取攻口之由、乍是非無次第所々事、
可致退治候。平岡競望之由一段申遣
河野刑部太輔入道方以後攻事品々承遣候ハ
可喜候、猶大平中務大丞(国雄)可申候
恐々謹言
(文明十二年)八月二八日  (細川)政元
大野九郎次郎(綱直)殿
(1490*細方政元書状)

【土岐成頼書状*切紙   (大野文書)】
(端裏切封)「   ・---   」
就分領荏原林久万山等事、度々申候処、
一段無等閑之儀候之条、誠難謝存候、只今
方々江以書状申候、此時急度被廻計略、早々
達本意候様、預調法候者、弥可為祝着候、
仍太刀一腰兼光進之候、委曲尚等信西堂可
申候、恐々謹言
(文明十二年)十月十三日
       (土岐)成頼(花押)
 大野九郎次郎(綱直)殿
(封紙ウハ書)
「大野九郎次郎殿     成頼」
(1493*土岐成頼書状*切紙)


  • [13]
  • 平岡一族

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月29日(土)17時34分6秒
 
手許の断片的な平岡氏一族を時系列に並べてみると。

文安~応仁の頃(1444~1469)
 平岡房景
応仁の頃(1467~1469)
 平岡大和守房近(房景の子)
文明の頃(1469~1487)
 平岡下総守房世(房近の子、荏原城主?)
 【文明期の土岐家所領の荏原地区を競望した人物と思われる、結果的に
  荏原地区を領有したと思われます】
(1513~1572)
 平岡大和守房実(房世の子・河野牛福通直の重臣)
(同時代)
 平岡房家(河野牛福通直の質として長曾我部家に送られた人物)
(同時代)
 平岡宮内通資(房実の子、通房の兄)
(同時代)
 平岡近江守通房、通倚(房実の子・侍大将)
(同時代)
 平岡通長(通房の子)
(同時代)
 平岡直房(房実の子、通房の嗣、善兵衛、善右衛門)
(同時代)
 平岡左近房衛(峯)(房実の子、大野直昌旗下荏原西町城主)
(同時代)
 平岡孫右衛門(房実の子)
(同時代)
 平岡就房(直房の子)

他に三名いるが系図線が分らない。
この後の系列は萩藩士平岡家に繋がると思われます。

宍戸景好についての古いメモは
池原通軌(通直の嗣・宍戸元秀の子、太郎、宍戸景好)
とあります。同一人物か否かと室は不明です)

  • [12]
  • Re: 宍戸景好室と平岡通賢

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 1月28日(金)11時26分5秒
 
> はじめまして、takubo某と申します。
> 呑舟さんに弊ブログにてコメントをいただいていますが、こちらの方が議論によいかと思いますので
> こちらにもお邪魔させていただきます。
TAKUBOさま、良くぞ湯築城の搦め手門をお敲き下さいました!・・これも呑舟師のご縁かと。
さて、庵主も嘗て、今から15年~予~以前・若き現職の頃、伊予之松山も全国ネットの某社の保険部門の役を努めていた時代には高松支社から松山支社へ出向いて、田窪さまと申される・上客の御屋敷に、請負賠償責任保険のご契約で毎年契約更新の訪問をさせて頂いた思い出が甦ります。(其のつど道後温泉で至福の入浴を)誠に懐かしい想い也。南無
是非、今後とも末永くご来訪とご懇意な御親交を願います。南無

  • [11]
  • Re: 平岡房実の子供達?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月28日(金)07時28分6秒
 
takubo某さんへ ようこそ!ようやくお出まし頂きましたね(熱烈歓迎)
下記の内、④⑦は貴方のHPの流用す。
只今、裏を取るために山口県文書館に問い合わせ中です。
ちなみに
①は大野系系図(複数)からが出典です。
②③⑤は平岡系図や「萩藩閥閲録」「同譜録」「風土注進案」等の長州系が出典です。
⑥は村上系図です。
⑧は「大野家聞書」等大野家臣家に伝わる、「笹が峠の戦い」の参戦者と戦死者名簿と
 本城の大除城伊か支城の配置、城主名、一部続納からが出典です。

よって、色んな史料からの羅列ですので、「よく分りませんが、独断と偏見で書きます」と
冒頭に書きました。順番は独断です。

通字の件は大野家、平岡家、村上家等の当時の婚姻関係を図にすると双方で烏帽子親になったり
ヘンキしたりが想定されます。
景→小早川系
直→大野系
房→平岡系
通→河野系
こちらの登場人物以外でも同様な事例が散見されます。
当時の家と本人を守るための保険と他人に位置付けを知らせる為に名前は変遷していったと考えます。
元服するまでは「・・丸」の幼名で、元服時に親が状況を判断して烏帽子親を決め、承諾した烏帽子親
は自分の名の一字を与え、その子を終身保護する立場となり責任が生じます。一字を貰った子は親は
実親と烏帽子親の双方に義と孝の義務が発生したと思われます。
こららの風習はある地方に於ける、青年時の育て親下宿制度、任侠道に於ける、兄弟親子の盃制度
に繋がって行き当事者達には不自然ではなかったのでしょうね。

> ①長女 平岡某          →大野利直の室(妙智院)
> ②長男 平岡宮内大夫通資(ミチスケ)
> ③二男 平岡通倚(ミチヨリ)     →後、毛利家家臣、領地周防屋代島西屋代北迫
> ④次女 平岡某          →宍戸景好室
> ⑤三男 平岡直房         →前室、出渕の女、後室、曽根高房の女、仮屋口の合戦参戦
> ⑥三女 平岡某          →村上景親室
> ⑦不明 平岡通賢(ミチカタ)     →天正16年河野通直母春松(禅)院の通直供養の為高野山登山同行
> ⑧不明 平岡左近房衛(峯)    →大野直昌旗下荏原西町城主


  • [10]
  • 宍戸景好室と平岡通賢

  • 投稿者:takubo某メール
  • 投稿日:2011年 1月27日(木)23時17分58秒
 
はじめまして、takubo某と申します。
呑舟さんに弊ブログにてコメントをいただいていますが、こちらの方が議論によいかと思いますので
こちらにもお邪魔させていただきます。

呑舟さんが挙げられている以下のお二人の情報の出典はどこでしょうか?

> ④次女 平岡某          →宍戸景好室

私はずっと宍戸景好のことを調べておりましたが、村上氏の系図にもあるとおり、平岡氏(6の女性ですね)を母にもつ宍戸景好室は村上景親の娘と考えておりました。
想定される景好の生年からみてもその方が自然と思えますが。

> ⑦不明 平岡通賢(ミチカタ)     →天正16年河野通直母春松(禅)院の通直供養の為高野山登山同行

西尾先生は平岡通賢を通倚の子である可能性を提示されているのは存じておりますが、房実の子というお話はどこからのものでしょうか。
また、通賢についてはその出自が平岡でも宍戸でも年代的には通倚の1世代先と見るのが妥当であるように思われます。

ところで、直房の「直」の字は河野通直からの一字拝領かと深く考えず思っておりましたが、大野氏縁のものを示すものがあるのでしょうか?
確かに河野氏周辺には「直」「宣」を与えられたと思われる人物があまり見えないようには感じていますが。


http://iyo-sengokushi.blog.so-net.ne.jp/


  • [9]
  • 平岡房実の子供達?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月20日(木)03時41分43秒
 
平岡房実の子供達もよく分からない。
独断と偏見で羅列してみると、

①長女 平岡某          →大野利直の室(妙智院)
②長男 平岡宮内大夫通資(ミチスケ)
③二男 平岡通倚(ミチヨリ)     →後、毛利家家臣、領地周防屋代島西屋代北迫
④次女 平岡某          →宍戸景好室
⑤三男 平岡直房         →前室、出渕の女、後室、曽根高房の女、仮屋口の合戦参戦
⑥三女 平岡某          →村上景親室
⑦不明 平岡通賢(ミチカタ)     →天正16年河野通直母春松(禅)院の通直供養の為高野山登山同行
⑧不明 平岡左近房衛(峯)    →大野直昌旗下荏原西町城主

と現段階では想定しているが実態はよく分からない。
長女が大野直昌の父、利直に嫁いでいるが、どうも政略結婚のようである。
利直の長男直森の母は平岡房実の娘であるから、逆算するとこの娘は房実が元服前後の子となる。
13~14歳の時の子となるので、現代からすれば早熟である。

よく分からない一番が平岡通賢である。
高野山に河野家の意向で登山し、通直母の同行したと「高野山上蔵院宿坊証文」は語るが
西尾氏は房実の子としているようであるが、実態はよく分からない。
宍戸からの養嗣説もあるが、これも?である。
二男通倚が存命であるから跡取の養氏を貰う必要はない。
高野山に同行しているので、通直の後を追って竹原で殉死していないグループとなり、
通直を中心とする序列は低いものと思われるが、通直母には近しい人物なのであろう。

また、長曾我部元親に差し出された河野家の質も房実の子の可能性がある。

平岡家は元来、伊予の国人と思われ、通字は「房」を使用する。
子供達の中に「通」があるのは河野家の誰かから頂戴したものと思われる。
当主通直とは限らないのではないだろうか?
「直」があるのは大野家の通字と同じなので縁戚の大野家の誰かからの頂戴物と思われます。

誰か詳しい人はいませんかね?

  • [8]
  • Re: 御辺事深謝

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)19時28分5秒
 
> > 「長宗我部オフィシャルサイト」を立ち上げていらっしゃいます。

●こちらは分かりました、有難うございました。

  • [7]
  • 御辺事深謝

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)19時07分14秒
 
●早速のお返事有難うございます。

> 「長宗我部オフィシャルサイト」を立ち上げていらっしゃいます。
●出来ればアクセス先をお教えいただけませんでしょうか?
 画面に出るアクセス先をコピーして本文に貼り付けて頂ければ幸いです。
>
> 平岡房家が岡豊へ送られたのは、天正13年春、となっています。

●成程そうですか、天正12年11月から来島通総は秀吉の命を受け伊予への乱暴狼藉を繰り返します。
 前面の来島通総、後ろから長曾我部元親が波状攻撃をかけて来た時期と重なりますね。
 天正13年2月11日に来島通昌帰国を秀吉から迫られた、毛利輝元は已む無く許可します。
 天正13年3月16日には河野通直、大野直昌、大野直周は元親と公広の合戦に加勢して戦っています。
 天正13年3月25日の長曾我部元親は忍び本国に帰った。
 これらを考えると、人質平岡房家は3月25日以降送られたと解釈できますね。

> 著書では「笹が峠合戦」についてはまったく触れられていません。
>
> 私の手元にある桐見川庄屋大野家のコピーには、直昌の条に「同二年(天正)元親当国山方放火節於笹峰合戦也・・(後略討死数名の名あり)・・」
> とあるだけです。笹が峠ではなく笹ヶ峰です。原本は毛筆書で、ある時期に庄屋が人を雇ってどこかの大野系図を写したと聞いています。
>  桐見川というのは、高知県の越知町あたりで、この系図は大友皇子から始まっています。

●桐見川大野 の名は初めて耳に致します。
 大野家を探索中の私と致しましては、大野家コピーのコピーを是非ともお譲り頂ければ有り難く
 存知ますが如何でしょうか?
 笹が峰は笹が峠の誤写と思われます。
「元親当国山方放火節於笹峰合戦也」の記述が気に成ります、他の合戦と混同しているかも・・・。
 討死者は大体分かりますので、書かれている討死者の名をUPして頂くと分かります。
 大野家断絶(河野家と同じ時期)後は伊予の大野一族はそれぞれの領地の庄屋(庄官)となり
 子孫は現在まで続いています。
 土佐の越知近郊で庄屋が勤められたことは、大野家の影響は伊予山方のみに留まらず、土佐側にも
 与えていたことを意味し大野研究が進みます。

 尚、この系図がいつどの大野家から転写されたか今はわかりませんが、原本コピーを見ることが
 できれば、およそ見当をつけることが出来ます。
 初代を大友皇子としてあるなら、多分江戸時代以降の転写物と推定されます。
 天正時代までは本姓は「大伴」と大野宗家は認識していたはずで、そのように河野家家老大野直昌
 の兄の直森夭逝に際し、追善梵鐘に大伴と銘記してあります。
 大伴とは平城京の大伴旅人の庶子の高多麻呂が伊予大野の遠祖とされます。
 大伴家持とは異母兄弟となります。

 桐見川大野系図を是非とも見たいものです。

  • [6]
  • 遅ればせながら

  • 投稿者:naokoメール
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)13時23分16秒
 
管理人様はじめサイトの皆様に改めてご挨拶申し上げます。
初登城は緊張したせいで、不調法でした。PC環境からは遠いため、返信が遅くなり申し訳ないです。

呑舟さんへお返事です。
著書名「長宗我部」、著者 長宗我部友親、発行所 バジリコ(株)です。
「長宗我部オフィシャルサイト」を立ち上げていらっしゃいます。

平岡房家が岡豊へ送られたのは、天正13年春、となっています。
巻末には多数の参考文献が挙げられていますが、この文章についてどの文献を参照したかは不明です。

著書では「笹が峠合戦」についてはまったく触れられていません。

私の手元にある桐見川庄屋大野家のコピーには、直昌の条に「同二年(天正)元親当国山方放火節於笹峰合戦也・・(後略討死数名の名あり)・・」
とあるだけです。笹が峠ではなく笹ヶ峰です。原本は毛筆書で、ある時期に庄屋が人を雇ってどこかの大野系図を写したと聞いています。
 桐見川というのは、高知県の越知町あたりで、この系図は大友皇子から始まっています。





  • [5]
  • Re: 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 1月16日(日)19時41分38秒
 
よくぞお出で下された!・・長曾我部と長宗我部とは~土佐の国でも・・伊予之国でも以前よりしばしば論戦(両論)が為された経緯もあるのですが、概ね学者先生のご検証にて近年は『長宗我部氏』と表されるのが通念とか・・其れはさて置きこの度の土佐の国の資料の義は、眞に新年早々の話題として~新たな展開を生む切っ掛けに成ろうかと考えます。
是非、今後共に根気よく共に歴史の妙なる調べを話し合いましょう!・・伊予と土佐と讃岐の国々に其の身を委ねる庵主の願いです。南無

  • [4]
  • Re: 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月16日(日)19時08分3秒
 
> 長宗我部友親氏(元親の弟親房の家系17代目)の著書(H22年発行)には、
> 「河野通直は家老の平岡伊豆守房家を人質として岡豊に送り、降伏する。」
> とういう記述があります。

●早速の投稿有難うございます。元親系の方の著書であれば間違いないでしょうね。
 初めて平岡伊豆守房家の名を知りました。
 平岡家末裔の方もこの記事をウオッチしてるでしょうから朗報です。
 ついでと言っては何ですが、これは何時(年月日)のことかはっきりしませんでしょうか?

 別件ですが天正2年閏8月25日の元親の許に逃げ込んだ大洲の大野(菅田)直之を兄の大除家城主 大野直昌に引き渡すとして「笹ケ峠の合戦」についての記述はありませんでしょうか?

 新しい本のようですが、版元と著者名と題名をお教え頂けませんでしょうか?

 いきなり色々済みません。

  • [3]
  • Re: 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:naokoメール
  • 投稿日:2011年 1月15日(土)22時11分43秒
 
>>2
> 菅田直之等の攻勢に耐え切れず、毛利の援軍を頼んだ河野家は
> 菅田直之を葬り宇都宮勢に打ち勝つことが出来たが、それもつかの間
> 元親に攻められ、河野家重臣平岡某を質として差出し、元親に従属したと
> 「愛媛県誌」は語るがこの平岡某とは誰であったのであろうか?
> まさか房実本人が行ったとは思えない。
> 親か兄弟か?河野家重臣とされているので親の可能性があるが俗名が分からない。
> 誰かご存知あるまいか?
> 以前、平岡房実の末裔の方も同様な質問をされていたが・・・

はじめまして。参考になればと思って投稿しますが、
長宗我部友親氏(元親の弟親房の家系17代目)の著書(H22年発行)には、
「河野通直は家老の平岡伊豆守房家を人質として岡豊に送り、降伏する。」
とういう記述があります。

  • [2]
  • 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月15日(土)18時07分28秒
 
菅田直之等の攻勢に耐え切れず、毛利の援軍を頼んだ河野家は
菅田直之を葬り宇都宮勢に打ち勝つことが出来たが、それもつかの間
元親に攻められ、河野家重臣平岡某を質として差出し、元親に従属したと
「愛媛県誌」は語るがこの平岡某とは誰であったのであろうか?
まさか房実本人が行ったとは思えない。
親か兄弟か?河野家重臣とされているので親の可能性があるが俗名が分からない。
誰かご存知あるまいか?
以前、平岡房実の末裔の方も同様な質問をされていたが・・・。


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