• [0]
  • 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月29日(土)21時21分38秒
 
近頃新しい情報が立て続けに入ってきますね。
芸州の河野家の末裔達を語るスレッドを別に立てます。

島谷さんもこちらにどうぞ!

今日は島谷さんの投稿がある前に、芸州山野井家を久々に取り上げようとしたときに島谷さんの
投稿を見ましたので、タイトルを「芸州の・・・」と変えました。
島谷さんの話を聞いて、手許の「芸藩通誌」をどこにやったか捜してますが見付かりません。
記憶が正しければ、確か牛福通直が竹原で生害して後の末裔だったように思いますが
貴家の系図はどうなってますでしょうか?

さて、山野井さんも近頃、お出ましになりませんが、いかがお過ごしですか?
「談話室」が消滅しましたので山野井情報も消えてしまいました。

今日、古いメモを整理していると新しい発見がありましたので報告します。

正誤と出典が不明なのですが、
貴系図で芸州初代とされる、山野井清景は養氏のようで浅海季清の子、祖父は海信季で曾祖父は
頼季とされ、北条親孝の末ともされるメモを発見しました。
初代以降は貴家の系図に完全に合致しました。
貴系図に秀清、信秀と書いてあるのは季の字を秀と転記違いをした可能性があります。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [82]
  • Re: 加計の河野家

  • 投稿者:分家の長男
  • 投稿日:2012年 6月17日(日)14時29分23秒
 
>>81
> 山田様、津波村の河野家と貴殿の山田家とは全く無縁でございます。河野家の墓所、位牌、等々の河野家の繋がりを表すものが一切ないのでは?津波村の山頂と高野山に墓所がありますか?
●繋がりを表すものは一切ありません。津波村の山頂と高野山に墓所もありませんので津波村の河野家とは無縁だと思います。40年くらい前取った除籍謄本によると曾祖母が加計の朝枝という家から明治28年に嫁入りしていて、住んでいた番地をみると津波のすぐ近くなのでびっくりしました。気になったので住宅地図をみてみますと周りの家が河野と栗栖がほとんどでしたので、またまたびっくりしました。朝枝は誰もいないようです。残念

http://8244.teacup.com/yamakaka/bbs


  • [81]
  • Re: 加計の河野家

  • 投稿者:真の津波村河野家
  • 投稿日:2012年 6月17日(日)07時56分27秒
 
山田様、津波村の河野家と貴殿の山田家とは全く無縁でございます。河野家の墓所、位牌、等々の河野家の繋がりを表すものが一切ないのでは?津波村の山頂と高野山に墓所がありますか?

  • [80]
  • 加計の河野家

  • 投稿者:分家の長男
  • 投稿日:2012年 5月15日(火)11時20分19秒
 
[79]の続、  質問をした後はっと思い出しました、加計には、有名な加計家がありました、ネットで答えがすぐわかりました、愚問ですいませんでした(冷や汗)、もう少し勉強して時々顔をだしますので、よろしくお願いします。

http://8244.teacup.com/yamakaka/bbs


  • [79]
  • 加計の河野家

  • 投稿者:分家の長男
  • 投稿日:2012年 5月13日(日)23時04分47秒
 
加計(津浪村)河野家は、道直死後、散らばった河野水軍配下の人達より前に入った、違う河野一族と考えていいのですね、当家(相田山田)と加計の地はおぼろげながら結ばれるのですが、太田川水系に多い、佐々木、栗栖、河野、と言う苗字と結びつきがありません。河野は別にして、佐々木、栗栖は河野家と結びつきますか?

http://8244.teacup.com/yamakaka/bbs


  • [78]
  • Re: 芸州河野家の末裔にたどり着いた

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 5月13日(日)17時52分42秒
 
山田さま、安芸の国のご縁も瀬戸内を挟んで~古より伊予の国との並々ならぬ先祖の縁故の地です。
是非~此れからの豊かな話題でご先祖様の仏縁を偲んでください! (湯築城の皆様も快くお迎えするものと)

  • [77]
  • 芸州河野家の末裔にたどり着いた

  • 投稿者:分家の長男
  • 投稿日:2012年 5月13日(日)16時38分53秒
 
広島市安佐南区に住んでいます、山田といいます、
ご先祖様は、維新の時、どうしてこんな簡単な名前をつけてしまったのかと
恨んでおりましたが、それはそれ、ご先祖様はどうしてこの地へ来たのか
知りたいと思って調べている内に河野水軍に行き当たりました、そしてここにたどり着きました、仲間に入れてくださいね。
まず、祖父の話では山田家は宮島と関系がある、曾祖母が加計からきている
そして家紋が隅きりに波三なので、皆さんの話が面白いのですが分家なので
これ以上調べることができなくて行き詰まっています。

http://8244.teacup.com/yamakaka/bbs


  • [76]
  • Re: 河野牛福通直の子、現る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月12日(月)04時54分5秒
 
> 「芸州・牧野家系図」の内容は当家に伝わる系図とほぼ同じ内容のようです。私見ですが、先にも述べましたようにこの系図は通信の子通俊までは長福寺本と同様の内容ですが、それ以降は改竄され河野家断絶後に予州から芸州に逃れた子孫又はそれ以前に芸州に渡って生き延びた一族を直系と記載したようです。牛福通直の嫡男であるなら芸州(桧山 栃谷)最初の当主(通修 通兼 因幡守通種の長男兵部丞 諸説あり)は寛永7年(1630年)85歳亡(当家系図に戒名と共に記載あり)とありますので天文14年(1545年)生まれとなり年齢に無理があります。この芸州牧野系図が伝わった経緯と地名をご教授頂けたらと思います。

●牧野系図の伝承経緯は分りません。四村の所在は高田郡です。

 これは豊田郡安芸津町三津の郷土史家がたぶん「竹原春秋」へ論文で『河野没落と河野家家臣群』の
 題名で書かれた論文の一部です。参考資料の中に名がありますから多分現物を見られての論文と思われ
 ます。
 内容的には河野系図そのものですから後世、牧野と名を改めた家のものでしょう。
 十年程度前の論文ですから、系図の現物はどこかにあるのでしょう。
 竹原を中心として河野家末裔たちがたくさん居ますので多くの「河野系図」が残されているようです。
 伊豫では牛福通直の死因を「病死」とする説が強いようですが、最後まで通直に付き添った家臣家たちの
 こちらは「生害(自殺)」とする説が強くなります。

 たぶん生害が正しいのでしょう。
 河野家再興が秀吉に認められなかったことによる絶望の生害とされ、この時を境に遺臣の達は、御家再興
 を諦め、直接、秀吉殺害に走ります。
 事件そのものは隠されていますが、「三原八幡秀吉暗殺未遂事件」ともう一つの暗殺未遂事件が伝えられて
 います。

また「八幡の藪事件」(三原市の山中にある御調八幡宮の近くの野串というところにこの時事前に発覚して討死した河野一族の宝供印塔や五輪塔が20基あまりが地域の人に守られて現存しています)に芸州の一族が参画したか否かは分かりませんが、平家の落人とか屋号で名を伏せ河野一族であることを隠し、人里離れた山深い地域に4百年に渡り住んだことを思えば秀吉暗殺計画に加わった可能性はあると思いますが、毛利家としては親戚筋の一族が事件を起こそうとした事実を残された一族と共に徹底的に隠した事と思われます。

●「三原八幡秀吉暗殺未遂事件」は前述等の経緯により、河野家遺臣群により引き起こされたとされます。
 もちろん芸州の河野遺臣は真っ先に参加しているでしょう。
 ただ一致団結してではないようです。

 『宝供印塔や五輪塔が20基あまりが』とのことですが、現在の写真を見るとそのようですね。
 現在はわざわざ「河野氏一族之霊位」と立柱がありますね。
 十数年前は40基近くあったと記録されているので残欠を整理してしまったのでしょうね。
 この事件には河野遺臣300人前後が加わったとされますので、墓を作ってもらったのは一部でしょう。
 真ん中に在る宝供印塔が中心人物と思われますが、刻印がありません。
 またこの墓所の所有者は東氏で、たぶん河野一族の東氏でしょう。

 「河野系譜」(どの河野系譜かわかりません)によると
 参加者の中心人物は通直養子通軌、得能備後和田左衛門、栗神因幡、土居兵庫親子、松末美濃以下
 三百名とあります。

 只、発生時を文禄元年四月九日と書いてありますが、文禄への改元は十二月八日ですので、
 これは錯誤です。正しくは天正二十年四月九日と思われます。

 また「大逆罪」を隠蔽するのは当たり前で、系図類まで改竄するのも此の件に関する限り普通でしょう。
 後に広島浅野藩士となる通昭家は丁寧に改竄し、その他の記録隠蔽もしたとされます。

  • [75]
  • Re: 河野牛福通直の子、現る

  • 投稿者:通嘉メール
  • 投稿日:2012年 3月11日(日)19時22分57秒
 
「芸州・牧野家系図」の内容は当家に伝わる系図とほぼ同じ内容のようです。私見ですが、先にも述べましたようにこの系図は通信の子通俊までは長福寺本と同様の内容ですが、それ以降は改竄され河野家断絶後に予州から芸州に逃れた子孫又はそれ以前に芸州に渡って生き延びた一族を直系と記載したようです。牛福通直の嫡男であるなら芸州(桧山 栃谷)最初の当主(通修 通兼 因幡守通種の長男兵部丞 諸説あり)は寛永7年(1630年)85歳亡(当家系図に戒名と共に記載あり)とありますので天文14年(1545年)生まれとなり年齢に無理があります。この芸州牧野系図が伝わった経緯と地名をご教授頂けたらと思います。また「八幡の藪事件」(三原市の山中にある御調八幡宮の近くの野串というところにこの時事前に発覚して討死した河野一族の宝供印塔や五輪塔が20基あまりが地域の人に守られて現存しています)に芸州の一族が参画したか否かは分かりませんが、平家の落人とか屋号で名を伏せ河野一族であることを隠し、人里離れた山深い地域に4百年に渡り住んだことを思えば秀吉暗殺計画に加わった可能性はあると思いますが、毛利家としては親戚筋の一族が事件を起こそうとした事実を残された一族と共に徹底的に隠した事と思われます。

  • [74]
  • 河野牛福通直の子、現る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月12日(日)12時14分55秒
 
古い資料を整理していましたら、牛福通直の子の記述が見つかりました。
八年前には入手していたのですが、当時はなんら意識してなかったのでしょう。

元史料は通直末裔とする「芸州・牧野氏系図」となります。

同書によると、
「通直の子、四郎通信は天正13年に秀吉に国を奪われた時、小早川隆景にお預けになり、その子右衛門通修は
 二人の男の子を伴い密に予州を遁れ、安芸宮島に渡り、後に、高田郡市川村檜山に移り、後、毛利輝元より
 檜山・杼谷・正木・弓投の四ケ所を与えられ客分として暮らした。
 慶長三年右衛門通修は隠居し、長男通知を杼谷へ分家し、三男通親を市川村へ別家させた。
 ところが慶長五年の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、毛利氏も長州に引き移る通修親子にも誘引があったが
 通修は檜山に留まり郷士となり、福島正則の時代に帰農する」とある。

 毛利について行っておれば毛利家家臣で明治を迎えたことでしょう。
 しかし毛利家は通直の子が居ることを知っていながら何故宍戸の孫を通直の養子として立てたのでしょう?
 なにか複雑な経緯があるように思われます。
 築山通軌は文禄元年4月6日の秀吉の筑前下向時、三原八幡宮で戦勝祈願をするとの事前情報により
 秀吉暗殺計画を立て河野縁者に激を飛ばし400名を集め待ち受けたが事前に情報が漏洩し事ならずと
 されます。これが世に云う「三原八幡藪事件」のことです。
 この事件そのものが「大逆罪」となりますので系図から文書からすべて隠滅を毛利家は図ったとされます。

 この辺りは芸州の方達に探索を御願いしたいものです。

  • [73]
  • Re: 芸州 河野末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)22時53分45秒
 
> 呑舟様①~⑤の出展についてお知らせします。

●出典のご披露有り難うございます。
 私は河野家やその末裔たちに特段詳しいわけでは有りませんので資料それぞれを精査しないと
 何ともコメントできません。

 まずどれが一次史料かもしくはそれに基づくのか確認する作業が必要ですね。
 伝承ものや軍記物、系図類は二次史料ですので排除して考えなくてはないません。
 萩藩閥閲録 同譜録も史料の中では一流の部類には入るのですが、それぞれ差出人の三代位前までは
 信用できますが、それ以前になると「家伝に言う」と云う書き方で伝承の域をでません。
 酷い系図になると元は同じ家なのに本姓も始祖も間違えているのも散見されています。
 他に拠り所がないので中世の瀬戸内の歴史については「中世史」の先生方は萩藩閥閲録を多用します。

 こつこつ玉石を選り分ける作業をつづけるしかありません。
 またすべての史料が手許にあるわけではありません、なにかありましたらUPしましょう。
 閥閲録の中の書簡部分は信用できますが、年号が無い書簡が多く間違った所に挿入した子孫もあります。
 石井家文書等はほとんど一次史料のようですね。

 また、なにか情報があれば教えてください。

 それと築山殿は通宣の子ではないと思いますが?
 こちらは「鈴姫系図」系の伝承との混乱かと思われます。

 

  • [72]
  • Re: 芸州 河野末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)21時50分17秒
 
通嘉さま、芸州の重見氏と阿波の国の重見氏の古縁を一度尋ねて見たいと思いを重ねております。
改めて暫くお時間を頂きたいと。南無

  • [71]
  • 芸州 河野末裔たち

  • 投稿者:通嘉メール
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)19時13分28秒
 
呑舟様①~⑤の出展についてお知らせします。
■「予陽河野盛衰記」お察しの通りです。真贋については江戸中期伊予側で作成されたため河野一族に都合の良い内容となっており、資料ではなく軍記物として読むべきですが、江戸期に廃寺となった安芸吉田の真光院(当家の父方親戚)の什物として伝わった「毛利記」(手許にあり)にも"因幡守通種に子2人あり木原と称し元就に仕える〟と簡略に記載されています。
■「萩藩閥閲録 巻八十三 重見与三左衛門」掲載されている何通かの古文書に兄の木原兵部丞元次と弟の木原紀三郎元定の所領安堵状のほかに、兄の兵部丞(安芸河野の先祖)が元就から〝重畳堪忍の後、緩怠の条を申し付けられ蟄居断絶の模様と弟へ輝元や隆景、尾崎の局(元就長男隆元正妻*文書の永禄13元亀元年当時隆元亡)から慰めの文書、萩移封後に弘治元年(厳島合戦の年)から毛利に属したことなど重見家の系図(伊予からの経緯を憚り部分的に改竄したと思われます)が記載されていますのでご確認頂きご意見を賜りたく存じます。
■「石井家文書の内 矢掛の陣屋石井家の養子に迎えた"へらほりの池"で有名な竹野屋河野与三郎から数代の後江戸末期の竹野屋河野の次男(三男?)が婿入りの時に携えて来た『河野累世書』長州、坪井九右衛門宛(*参勤交代宿泊時したためた物と思われます。)にも゛河野通信祖、弘治元年厳島の陣の折毛利に属す(予陽盛衰記の記載に一致)とあり萩移封に弟は従い、兄兵部丞親子は吉田の庄番(広島から毛利の旧本城吉田郡山城に至る街道筋の要所上根峠の関所)を任ぜられるも関ケ原の後民間に下り吉田に移り6千坪の茶屋と庭園(へらほりの池)を構えて広島浅野藩の殿様の〝御鷹野゛など休息処に使われ、元就から賜った兜茶道具など持ち伝える。
■現代の[高田郡史]中世史にも与三郎は和歌に通じ、酒米を扱う豪商として栄え、京都から“だんじり屋台”(今に伝わる5月5日の“だんじり子供歌舞伎”毛利の氏神、祇園神社から町内を練り歩く*現在は神仏分離の後、清社*スガシャと改名)を誘致、また萩から毎年墓参の案内や世話役をしたとあります。前述の上根の吉田の庄番から北の吉田に行った者と南の可部に移り住んだものがあり吉田の子孫は出度末期嫡男が幼児を残し早世したため後見人が親代わりとなったが断絶、可部の子孫は可部から広島など安芸国各地にに分かれて河野と名乗り現在に至ったものと思われます。(蛇足ながら浅野藩に仕えた河野一族の築山氏は竹原長生寺に眠る牛福通直に従った左京大夫通宣の子と伝承されています。)
その可部の河野一族に“前述の予州から持ち伝えたる諸々の品”が伝わりました。(現在は保存の為他の場所に大切に保管されています)
また同じく高田郡史資料編の“国郡誌御用に付き下調書出帳”(浅野藩が地誌編纂の為文政2年に各村々の庄屋に命じて作成させた資料)にも同様の記述があります。
概略以上ですが精査頂き客観的なご意見を頂きたく思います。

呑舟様、海遊庵主様、芸州の末裔の概略ですが以下の通りです。     ①1530年重見因幡守通種、予州を逃れ防州大内家の宿将になる ②厳島合戦に従い敗戦割腹、二人の兄弟 木原兵部(1545年生 1630年没 ○月窓浄禅定門 ③関ケ原の後芸州に残留し初代となる 福島正則に領地を奪われ後、郷士として河野を名乗り現在に至る*木原姓は芸州の領地木原に因む 家紋は隅切角に縮み三*三の字は角の立った三角波を表現 鎧の片袖*伝:その他は大山祇神社宝物殿に奉納*右側の袖の無い鎧が現存展示 その他、槍 弓 矢筒 矢 観音像 大日如来像 苦行仏 五輪塔多数 位牌 山の神の祠*大山祇神社 系図等々現存)④弟、木原弥三郎(郡山城から輝元の側近 萩に従い後に重見姓に戻す)⑤安芸高田市吉田町の「へらほりの池で名を残した竹野河野与三郎も兵部の次男と思われる=豪商で浅野藩の茶屋を勤める、江戸末期に絶える2代前の男子の一人が岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り*数年前に矢掛の郷土史調査会の方々が古文書調査でこれを知り吉田に残る遺跡を調査見学


  • [70]
  • Re: お位牌の件

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)08時04分48秒
 
>>12
> 母方の実家は山田家(広島県三次市)で、位牌の事を親戚の長老に聞いてみますと、浅野家の関係であるとの事でした。
>  広島藩家中山田家は,文禄年間頃から浅野家に仕えました。寛永9年(1632)に浅野長治が5万石を分知されて初代三次藩主となると,山田監物重次は本家から附人を命じられ,以後享保5年(1720)に三次藩が断絶するまで,代々同藩家老職を勤めています。
> ここで紹介するのは,三次藩断絶後の宝暦3年(1753)の文書2点です。この前年には5代藩主浅野吉長が逝去し,その嫡子であった宗恒(むねつね)が襲封し6代藩主となっています。山田家は三次藩断絶後本藩家臣に戻されました。宝暦3年当時,山田頼母孝友は江戸詰の番頭(警護などを司る軍事部門の侍組の頭)でした。以上の関係で何等かの鳥取との関係があるのでは?と思います。

●過去記事を見てまして「山田」で止まりました。
 以前はなにげなく見ていましたが、母方の実家山田家(三次)は以前三原にいたことはありませんか?
 三原山田家の流れですと竹原山田家の移転先の可能性が出てきます。
 私は伊豫大野家探求の徒ですが、牛福の家老の大野直昌が牛福とともに竹原に行き天正17年に竹原下山田
 村で逝去したと古文書は伝えますが、この下山田村と言うのは江戸期にはありません。
 長い間、不明の地とされていましたが、この度、郷土史家により判明しました。
 この山田地区は小早川家の古い時代からの重臣山田氏が居住したことによるそうです。
 牛福が死んだのもこの「山田土居【屋敷?】」とされます。
 よって貴家に山田家伝承が混在して伝わっている可能性もあります。
 山田家由緒を調べる方が早いかも知れませんね。

 牛福通直家臣団はこの下野村山田地区に後の「竹原崩れ」(慶長五年)まで集団で住んでいたようです。
 通直母もこの地区の宮原で逝去したとされます。

 尚、小早川家家臣山田家は小早川九代の景弘の「置文」に
 山田六郎三郎、山田与五郎、山田源左衛門尉、山田越後守、「一番親類、二番山田、萱野、三番手嶋衆」
 とあり、この文書は文明7年(1475)ですから、山田家は古くからの重臣と思われます。



  • [69]
  • 伊予風早から忠海へ

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)07時06分19秒
 
>>68
> 伊予の風早と言うところより芸州忠海に上陸したと言う祖父より聞いたことを思い出しました。何か有力な手掛りとなりますか?

●伊豫風早(北条)から芸州忠海(竹原の忠海村)に渡海したとされるなら、やはり牛福通直以前の時期とも
 考えられます。湯築の近くから竹原忠海に行くには牛福時代は美津が浜が一番利用されているようです。
 風早・北条のどこの湊を出たかわかりませんがこの辺りでよく使われていたのは堀江と思われますが、
 大きな船でなければどこからでも出れます、柳原かもしれません。
 忠海(ただのうみ)は当時は三原へ行くのも竹原に行くにもよく利用される良港です。
 逆に伊豫に行くにもこの湊を頻繁に使っています。小早川水軍(山野井(乃美)警固衆)の
 根拠地の一つです。因島村上はこちらの影響を受けています。
 (上記すべての地名は現代の地図に全部残っていますので参照願います)

 やはり牛福より前の代の話のようです。
 牛福の没後は宍戸の養氏で家督相続としてあり、いわゆる「築山殿」で
 この人は河野太郎として松前の戦いに総大将として出陣したとされます。
 後、摂州に隠れ住み、その後安芸浅野家に仕えます。
 江戸時代に長生寺で牛福通直の回忌法要をきちんとするのはこの家です 。

 ですから貴家とは少し流れが違うようです。
 やはり「鈴姫系図」や「正岡・黒川系」の後裔流のようです。
 今、長生寺を調べてますが、キーマンは「南」家のようです。

 まだ分りません。

  • [68]
  • 伊予から忠海へ

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2012年 1月20日(金)19時30分28秒
 
伊予の風早と言うところより芸州忠海に上陸したと言う祖父より聞いたことを思い出しました。何か有力な手掛りとなりますか?










伊予の風早と言うところより芸州忠海に先祖が来たのだと、亡き祖父が申していた事を思い出しました。何か有力な情報となりますでしょうか?いつも断片的ですみません。







  • [67]
  • Re: お位牌の件ですが

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 4日(水)13時19分11秒
 
『天正十六年戊子九月二日没 高野山於泰雲院大日碑 俗○ 河野因幡守通就』との文字が書かれておりました。

●高野山は泰雲院は毛利家ゆかりの寺であり、伊豫河野家の上蔵院とは違いますね。
 場所も本山を挟んで裏と前との位置関係になりますね。
 「通就」の名乗りからすると毛利元就から一字拝領が考えられますので
 天正16年卒時はそこそこの年齢と考えられます。
 通宣 通直あたりは河野系図も入り乱れておりどれが史実なのかもよく分かりません。

 絡みあった糸を解きほぐすのは大変です。
 当時の河野関係者の位置付けを一人ひとり解明していく必要があります。
 伊豫史談会の景浦親子や川岡勉氏 西尾和美氏 山内譲氏らもまだはっきりと解明していません。

 困るのは一次史料がないことです。後世の二次史料はたくさんあるのですがそれは方向を示すだけで
 根拠にはなり得ません。逆に返って混乱させることもあります。

  • [66]
  • Re: お位牌の件ですが

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 3日(火)20時07分43秒
 
> お久しぶりでございます。お位牌の裏面には、天正十六年戊子九月二日没 高野山於泰雲院大日碑 俗○ 河野因幡守通就との文字が書かれておりました。

●明けましておめでとうございます。

正月早々からの難題ですね。

表に戒名はなんて書いてありましたでしょうか?
又裏の位牌を後に再調製したような文言はありませんでしょうか?

系図的には以前話題になった「鈴姫系図」と同系統と思われますが。
「鈴姫系図」の現物を見ていないので断定はできませんが、
「河野因幡守通就」の位置付けが同系図は通秀の子としていると思われます。
 「通勝」の隣りに書いてありますので通勝の弟のように見えます。
 通勝は通直の下に書かれていますが、官途名が?です。
 伊豫の別の「越智系図」で通勝が出てくるのは管見に入るのは二家あります。
 こちらの通勝は通宣の長女章子が足利義昭に上り生んだ子とされ(天正8年ころの誕生と推定)
 河野家再興のため牛福通直の跡を継がせたとする人物です。
 河野家断絶の後でしょうから正式な河野宗家継承式(養子縁組)はされてないと思われます。
 河野家重臣正岡家と黒川家が奉ろうとしたようです。

 ともあれ通秀が通勝の弟であることは考えられません。
 まして通秀の子の通就も時代が合わなくなりました。
 通勝の子でも変になります。
 となると、通勝 通秀が書かれている系図を再検討しなければ分りません。
 「鈴姫」さんは音信なしですので確認できません。
 通嘉さんのところの系図にこの二人は書かれていませんでしょうか?

「天正十六年戊子九月二日没」が事実なら牛福通直の孫とする説も子の説も無理となります。

 また出だしに戻りました。どこに単純なミスがあり長年(数百年かも)引きずってきてる
 と思われます。

 別の意味では今これが「河野系図」と現在流布されているものの修正が必要になる可能性もあります。

  • [65]
  • お位牌の件ですが

  • 投稿者:島谷です。
  • 投稿日:2012年 1月 2日(月)23時01分30秒
 
お久しぶりでございます。お位牌の裏面には、天正十六年戊子九月二日没 高野山於泰雲院大日碑 俗○ 河野因幡守通就との文字が書かれておりました。

  • [64]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月28日(水)13時42分30秒
 
呑舟師、仰せの通り、汎用の系図と各所に見受けられる、通俊殿の御子孫の「通孝」を始祖とする「重見氏一族」の家系は、その子孫の家名を「重見・木原・尾原・日高・栗原」等を分流と記す古書もあり。
さて、得能氏(通俊)の系図を今一度検証する必要が・・庵主の永年の願いなり。南無

  • [63]
  • 岡山の矢掛の陣屋石井家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月27日(火)11時37分42秒
 
現在、矢掛の陣屋石井家は国の重要文化財ですから現在の様子はネットで検索すればすぐでてきます。
1620年ころ矢掛に定住し庄屋兼、陣屋兼、酒造兼 江戸末期には分家に醤油製造まで手がけた家です。

参考までに石井家歴代を書いておきましょう。

 初代 石井源次郎喜是 元和十年卒
 二代   源次郎喜昌 明暦三年卒
 三代   源右衛門秀昌 号 師古
 四代   源治郎喜綱
 五代   源次郎喜門 (治郎右衛門)
 六代   源次郎義知  号 雪渓
 七代   源次郎世昌 (為治郎 後 敬信)
 八代   源治郎逸平 (善師)
 九代   源次郎喜祉  号 撫松庵 (実は備後神辺【福山市内】江原広右衛門の子)
 十代   源次郎喜通  明治28年卒 (実は安芸河野三郎右衛門三男)
十一代   源次郎喜延  鑑吾 徳五郎 治郎右衛門
十二代   源次郎喜淋  与三郎 号 桐松
十三代     遵一郎
十四代     祥一郎  在東京 現石井家当主、石井家系図原本蔵置者

  • [62]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月27日(火)10時53分41秒
 
下記について一部情報が入りました。

⑤安芸高田市吉田町の「へらほりの池で名を残した竹野河野与三郎も兵部の次男と思われる=豪商で浅野藩の茶屋を勤める、江戸末期に絶える2代前の男子の一人が岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り*数年前に矢掛の郷土史調査会の方々が古文書調査でこれを知り吉田に残る遺跡を調査見学
>
>  ⇒これらそれぞれの根拠となる出典は分りませんか?
>    ①竹野河野与三郎も兵部の次男
>    ②豪商で浅野藩の茶屋を勤める、江戸末期に絶える2代前の男子の一人が岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り
>
>  ⇒「豪商で浅野藩」とはどの浅野藩でしょうか?(広島本藩?三次支藩?赤穂浅野?)
>    また豪商の屋号と主な取扱い商品は分りませんか?

●①【竹野河野与三郎】
  の屋号は「竹野屋」でした。竹野がなにを意味するのか分りませんでしたが屋号でした。

 ②【芸高田市吉田町の「へらほりの池」】
  の謂われは1670年頃、吉田の豪商竹野屋河野与三郎が当時災害によって困窮した人たちを
  雇い、庭園の池をへらで掘らせ、その土を小さな「ざる」で運ばせることによりわざと長い月日
  をかけて賃金を払うことにより困窮者を救ったとする美談から「へらほり池」と言い伝えられて
  いるそうです。余談ながら、そこに昭和29年に困窮者のための公営住宅が建てられ再度困窮者
  のお役にたった場所のようです。

③【岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り】
  これも現在の石井家の系図及び古文書によって傍証されました。岡山県が調査した結果
  石井家10代石井源次郎善通(実は安芸河野三郎右衛門三男)明治28年卒
  とあり、与三郎と三郎右衛門の違いはありますがこの人と思われます。
  石井家の娘、「愛」の養子です。

  • [61]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月27日(火)08時52分13秒
 
> 呑舟師、お申し出の如く、短絡的には凡例(図書館にて検証)の系図にては、前術の『通孝』なる人物をを始祖とする『重見氏』の家名を名乗る存在を検知・表記されております。

●この系図は何家に伝わるものでしょうか?
 そして通信以降はどう書かれているのでしょうか?


> 我が家の系図にては通宗と関係は(土居十郎・後出家号弥佛)と記し、その後の継者に「通方・孫次郎」ーその子「通國・又次郎」を継いで、通代(号栗上・氏名の始祖か?)と記し、通照に継ぐ。

●私が認識している「通宗」は得能通純の子、得能通景のまたその子、得能越後守通宗のことですが
 同一人物でしょうか?


> 重見の氏名を名乗る家系は、聞く所によれば凡例「通孝」なる人物を始祖として、初代通朝・通高・の家系の後継者「通栄」なる御仁の子に「通孝・後出家缶道号ス」なる名前を見ゆ!・その血筋とすれば・通久の兄弟の如き並びにて通朝の家系に由来する面影を伝える如き哉?。

●出典はよく分りませんが、「予陽盛衰記」には重見氏初代は、得能但馬守通勝が重見と改めるとあります。

 重見氏は得能家から分かれたとする説が多いのですが、一次史料が見当たりません。
 古系図や古文書、古書簡が出てくればいいのですが。

 「予陽盛衰記」の影響を受けた、江戸後期以降編纂の系図類では?がつき
 真贋をより分ける作業が必要となります。

  • [60]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月27日(火)00時22分39秒
 
>>59
> いえね、重見氏の出自がよく分らないのです。
> 庵主様ご存知であればご教示願いたいのですが。
> また異説も多々あってよくわかりません。
呑舟師、お申し出の如く、短絡的には凡例(図書館にて検証)の系図にては、前術の『通孝』なる人物をを始祖とする『重見氏』の家名を名乗る存在を検知・表記されております。
我が家の系図にては通宗と関係は(土居十郎・後出家号弥佛)と記し、その後の継者に「通方・孫次郎」ーその子「通國・又次郎」を継いで、通代(号栗上・氏名の始祖か?)と記し、通照に継ぐ。
重見の氏名を名乗る家系は、聞く所によれば凡例「通孝」なる人物を始祖として、初代通朝・通高・の家系の後継者「通栄」なる御仁の子に「通孝・後出家缶道号ス」なる名前を見ゆ!・その血筋とすれば・通久の兄弟の如き並びにて通朝の家系に由来する面影を伝える如き哉?。 南無

  • [59]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月26日(月)20時25分7秒
 
いえね、重見氏の出自がよく分らないのです。

河野通信→通俊→通純→通景→通宗→重見氏

と続くものらしきものは存じてますが、これの出典がよく分りません。
庵主様ご存知であればご教示願いたいのですが。
また異説も多々あってよくわかりません。

「予陽盛衰記」は重見氏を論理的には書いてありますが、こちらも出典がわかりません。
同書は元文四年(1739)年発行の書物ですので新本です。
重見氏の系図で戦国以前のものを探してします。
現在管見にあるのは「予陽盛衰記」の影響を少なからず受けています。

重見氏の古文書の紹介を是非とも御願いいたします。




  • [58]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月26日(月)17時32分17秒
 
> ①②あたりまでは「予陽盛衰記」にも書かれていて庵主様はこちらの情報から展開されているのかなと思われますが、そもそも「予陽盛衰記」の真贋はよく分りません。
*呑舟師、夫々の家系の御子孫には~古来より多岐にわたるその家々に思いを重ねて~親から子に歴代伝わる古の先祖から悠久の時代(タイムスリップ)を継いで、ある家系にては『文書』や時には『語り草』として、其れなりにその時代時代に『生・命』を授かった家系の御子孫が現世にて懸命に~始祖から血筋(命の継承)を尊して引き継いで『奥の細道』を辿る尊き想いが、真義のほどは定まられずとも~導かれる侭に~御子孫の先祖の菩提を弔い偲ぶ仏心を、単なる歴史書に比(因)しては私見として聊か不本意也。(情報は、浮くもの~沈むもの・その真義は必ず後世にて検証されるものと)
例えば、箇条書きにてその検証をもって査定するのは、学者先生の内でも数少ない御仁のご尽力を基本として周辺には想いの他数々の凡例(情報)もあり、更に慎重に御ゆるりと参りましょう。南無

  • [57]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月25日(日)19時15分54秒
 
概略返信有り難うございます。
河野家にはあまり詳しくありませんので今のところよく分りません。

①~⑤は貴殿が整理されたメモではございませんか?
関連性がよく分りません。

すべてお持ちの系図に書かれているのでしょうか?


①1530年重見因幡守通種、予州を逃れ防州大内家の宿将になる

 ⇒これも系図に書かれているのでしょうか?

②厳島合戦に従い敗戦割腹、二人の兄弟 木原兵部(1545年生 1630年没 ○月窓浄禅定門

 ⇒これも出典はなんでしょうか?

 ③関ケ原の後芸州に残留し初代となる 福島正則に領地を奪われ後、郷士として河野を名乗り現在に至る*木原姓は芸州の領地木原に因む 家紋は隅切角に縮み三*三の字は角の立った三角波を表現 鎧の片袖*伝:その他は大山祇神社宝物殿に奉納*右側の袖の無い鎧が現存展示 その他、槍 弓 矢筒 矢 観音像 大日如来像 苦行仏 五輪塔多数 位牌 山の神の祠*大山祇神社 系図等々現存)

 ⇒これも系図に書かれているのでしょうか?


④弟、木原弥三郎(郡山城から輝元の側近 萩に従い後に重見姓に戻す)

 ⇒これも系図に書かれているのでしょうか?


⑤安芸高田市吉田町の「へらほりの池で名を残した竹野河野与三郎も兵部の次男と思われる=豪商で浅野藩の茶屋を勤める、江戸末期に絶える2代前の男子の一人が岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り*数年前に矢掛の郷土史調査会の方々が古文書調査でこれを知り吉田に残る遺跡を調査見学

 ⇒これらそれぞれの根拠となる出典は分りませんか?
   ①竹野河野与三郎も兵部の次男
   ②豪商で浅野藩の茶屋を勤める、江戸末期に絶える2代前の男子の一人が岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り

 ⇒「豪商で浅野藩」とはどの浅野藩でしょうか?(広島本藩?三次支藩?赤穂浅野?)
   また豪商の屋号と主な取扱い商品は分りませんか?

①②あたりまでは「予陽盛衰記」にも書かれていて庵主様はこちらの情報から展開されているのかなと
思われますが、そもそも「予陽盛衰記」の真贋はよく分りません。

①から⑤までの情報が1本の貴家の系図に書かれているのであれば「新発見」となります。
是非ともご教示願います。

  • [56]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月24日(土)20時45分23秒
 
 追記の義~①1530年重見因幡守通種、予州を逃れ防州大内家の宿将になる
> *通嘉さま、誠に不思議なご縁かと。
阿波の国の中世の守護職の古城『勝瑞城跡』の発掘調査を成されている御仁も安芸の国に由来する『重見』氏の出自のご子孫ですよ!
概ね読めて来ましたね!・・阿波の国の歴史背景の古き関係は、得能通俊の子・通秀・通村とその弟達(通孝・信綱・通方と・他諸説あり)の系統に源を発する、重見氏一族なれば・・嫡男通秀(得能冠者・後弥太夫)の子通純(又太郎)が文永年中六波羅史部討伐の功にて阿波国富田之庄(富田庄には讃岐の国の地元では、通久と通純の両説が垣間見えております)を賜ると記す
通秀の弟・通村(得能弥次郎)の子通綱は元弘の役の折、宮方に属して戦功を上げて備後守に任じられております。
その流れを今一度検めて夫々の御仁の先祖を偲ぶ道標として『奥の細道』を訪ねるのも必要かと。南無

  • [55]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月24日(土)20時02分3秒
 
>>54
> 呑舟様、海遊庵主様、芸州の末裔の概略ですが以下の通りです。                  ①1530年重見因幡守通種、予州を逃れ防州大内家の宿将になる
*通嘉さま、誠に不思議なご縁かと。・・・阿波の国の中世の守護職の古城『勝瑞城跡』の発掘調査を成されている御仁も安芸の国に由来する『重見』氏の出自のご子孫ですよ!・・驚きました。南無

  • [54]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:通嘉メール
  • 投稿日:2011年12月24日(土)18時03分8秒
 
呑舟様、海遊庵主様、芸州の末裔の概略ですが以下の通りです。                  ①1530年重見因幡守通種、予州を逃れ防州大内家の宿将になる ②厳島合戦に従い敗戦割腹、二人の兄弟 木原兵部(1545年生 1630年没 ○月窓浄禅定門 ③関ケ原の後芸州に残留し初代となる 福島正則に領地を奪われ後、郷士として河野を名乗り現在に至る*木原姓は芸州の領地木原に因む 家紋は隅切角に縮み三*三の字は角の立った三角波を表現 鎧の片袖*伝:その他は大山祇神社宝物殿に奉納*右側の袖の無い鎧が現存展示 その他、槍 弓 矢筒 矢 観音像 大日如来像 苦行仏 五輪塔多数 位牌 山の神の祠*大山祇神社 系図等々現存)④弟、木原弥三郎(郡山城から輝元の側近 萩に従い後に重見姓に戻す)⑤安芸高田市吉田町の「へらほりの池で名を残した竹野河野与三郎も兵部の次男と思われる=豪商で浅野藩の茶屋を勤める、江戸末期に絶える2代前の男子の一人が岡山の矢掛の陣屋石井家に婿入り*数年前に矢掛の郷土史調査会の方々が古文書調査でこれを知り吉田に残る遺跡を調査見学

  • [53]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:通嘉メール
  • 投稿日:2011年12月24日(土)16時11分35秒
 
畏まりました。時間が取れ次第お知らせしますのでご意見賜りたく存じます。

  • [52]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年12月19日(月)10時17分7秒
 
>>49
> >>3  突然ですが、同じく安芸国の末裔として一言申し上げます。
> 「芸藩通史」の完成は1825年です。1663年に浅野藩によって完成した「芸備国郡史」を基に藩内の資料を提出させて再調査したものです。
> 当家一族も「五輪塔・系図・位牌・武具甲冑の類・仏像など」伊予国から持ち伝えたものとして4百数十年大切に守っており、津波の一族とも同系統ではないかと思われます。
>
> > ●メインスレッドでは後々別の話題の中に埋れますので
> > こちらで述べます。
> >
> > > > 私は広島県の加計という町に住んでいたものです。当家の先祖は河野家との言い伝えがあります。現に三島神社(加計町)河野の墓、山頂に墓標(石)、河野家のお位牌(16文字)、高野山に過去帳(寺院名は忘れましたが)清○院か、○清院か・・・・?また戦前河野家が子爵・伯爵の位を授かる時、他の(九州)の河野さんと言う警察官が私の自宅にあった家系図を何故か持っており、どちらが本当の河野家であるか大きな事件が起き当時の中国新聞(広島)に報道されました。また「芸藩通史」にも当家が搭載されております。大三島神社の大祭に、前述のお位牌を持っていけば最上段に鎮座できます(幼少の頃の話)
> > 島谷です。大変ご無沙汰しております。昨日故郷の加計町に帰郷いたしました。なかなか帰郷できませんので、加計町津波の三島神社に行って見ました。神社の横書きに
> > 三島神社
> >
> >  今から約四百四十年昔の千五百五十六年、河野信秀
> > という人が愛媛県より移り住んできた時にたてられた
> > といわれています。
> >  戦国時代もそろそろ終わりに近づき広島では千五百
> > 五十五年、毛利元就が厳島で陶晴賢(すえはるたか)
> > をやぶって支配を完成させました。
> >  三島神社がたてられたのは、その翌年のことでした。
> > が、書かれておりました。参考になればとお知らせしておきます。
> >
> > ●お久しぶりですね。
> >
> >  まず高野山寺坊名ですが、お示しの条件に該当するのは
> >  清光院か清涼院しか見つかりませんでした。
> >  過去帳がすぐ見つかったということは近代の法要でしょうかね?
> >  16文字の法名は判りませんせんか?
> >  河野宗家最後の当主牛福通直の法名が12文字なので多分前○○守等が付け加え
> >  られていませんか?
> >  そうすると卒後相当経ってからの法名の可能性があります。
> >  高野山寺坊が上蔵院ではないのも気になりました。
> >  このあたりの経緯はわかりませんか?
> >
> >  加計町の河野家墓にはどのような刻印がされていますでしょうか?
> >  また山頂の墓標のある山の名を教えてくれませんか?
> >
> >  戦前の叙勲騒動の中国新聞の記事も気になりますね?
> >  記事そのものは中国新聞に残っていませんかね?
> >  戦前の記事なら途中でピカドンにやられますので難しいですかね?
> >
> >  以前から気になりましたので、再度「芸藩通志」を流し読みしました。
> >
> >  加計が頭にあったものですから当時(江戸初期)の住所を加計村と思っていまし
> >  が、隣り村の津浪村ですよね。
> >  津浪村の三島神社は「弘治二年(1556)河野信秀により再造」と書かれています ので
> >  河野信秀の創建ではなく再建となりますから以前から在ったことが窺えます。
> >
> >  この河野信秀の名も河野家通字の「通」を使わないので変だなと思いましたが、
> >  同じ「芸藩通志」で人物欄では
> >  「津浪村 河埜氏
> >   伊豫河埜通直 天正中加茂郡□□□□来る 其の子通秀より今の秀右衛門迄八代」
> >  と書かれていますので、三島神社由緒の河野信秀は通秀の誤写と思われます。
> >
> >  この河埜(野)氏伝聞も悩みます。
> >  天正年間に安芸に移動する河野通直は牛福で、その子通秀とするなら築山系河野
> >  の可能性が出てきました。なら高野山寺坊が上蔵院でない理由がわかる気もしま
> >  す。それか後、芸州浅野家家臣となる河野氏の関連が想像できます。
> >  多分後者と思われます。
> >  ここでも九州の警察官が所持していた系図が貴家と同じとされるなら
> >  その系図は今どこにありますでしょうか?
> >  あれば簡単に系統がわかると思うのですが。
> >  また、通直から数えて秀右衛門まで八代とは代数が多すぎます。
> >  「芸藩通志」は1600年の半ばに編纂されたとされますので
> >  1587年卒の通直から100年未満で八人も代わるとは少し異常です。
> >  よほど、飢饉が多い場所か、編纂年より後に加筆されたのならわかりますが。
> >
> >
> > ご承知のように遠祖が定住した津浪村は江戸初期においては
> > 村勢は
> >  五十六町二反八畝十六歩 四百三十五石五斗の生産額で
> >  戸数百七十五戸 八百十五人 僧一人 医者一一人
> >  牛四十五頭 馬四匹 舟二艘とされる
> >  八百十五人の中に本家や親戚や雇い人がたくさん居たのでしょうね?
> >
> >  この村勢は中程度の村となります。隣りの加計村は桁違いの大村落と記録されます。
> >  人口だけで三千八百五十人とされますから。
> >
> >  津浪村に移り住んだのは毛利か小早川氏からの領知宛がいからでしょう。
> >  大田川の水運も盛んで、石州の裏街道筋ともなりますので石見への守りの
> >  位置づけと思われます。
> >  三島神社再建時はまだ毛利方は長州の陶残党とドンパチしていますので
> >  前の陶、後ろの尼子と彼方此方に気を配る必要のある時です。
> >  後の毛利家を大大名に押し上げる原動力となった「大金庫」である「石見銀山」
> >  確保保持も河野通秀の最大の役割と思われます。

  • [51]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月11日(日)19時00分15秒
 
始めまして~通嘉さま。
この度のご投稿の義、誠に伊予と安芸の縁の面影を知る想いを募らせて居ります。
是非、湯築城の集いに今後ともご教示お願いします。

  • [50]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月11日(日)17時52分33秒
 
通嘉さん、ようこそ。
是非とも貴家の系図の流れを戦国時代以降をご披露頂けませんか?



  • [49]
  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:通嘉メール
  • 投稿日:2011年12月11日(日)14時46分4秒
 
>>3  突然ですが、同じく安芸国の末裔として一言申し上げます。
「芸藩通史」の完成は1825年です。1663年に浅野藩によって完成した「芸備国郡史」を基に藩内の資料を提出させて再調査したものです。
当家一族も「五輪塔・系図・位牌・武具甲冑の類・仏像など」伊予国から持ち伝えたものとして4百数十年大切に守っており、津波の一族とも同系統ではないかと思われます。

> ●メインスレッドでは後々別の話題の中に埋れますので
> こちらで述べます。
>
> > > 私は広島県の加計という町に住んでいたものです。当家の先祖は河野家との言い伝えがあります。現に三島神社(加計町)河野の墓、山頂に墓標(石)、河野家のお位牌(16文字)、高野山に過去帳(寺院名は忘れましたが)清○院か、○清院か・・・・?また戦前河野家が子爵・伯爵の位を授かる時、他の(九州)の河野さんと言う警察官が私の自宅にあった家系図を何故か持っており、どちらが本当の河野家であるか大きな事件が起き当時の中国新聞(広島)に報道されました。また「芸藩通史」にも当家が搭載されております。大三島神社の大祭に、前述のお位牌を持っていけば最上段に鎮座できます(幼少の頃の話)
> 島谷です。大変ご無沙汰しております。昨日故郷の加計町に帰郷いたしました。なかなか帰郷できませんので、加計町津波の三島神社に行って見ました。神社の横書きに
> 三島神社
>
>  今から約四百四十年昔の千五百五十六年、河野信秀
> という人が愛媛県より移り住んできた時にたてられた
> といわれています。
>  戦国時代もそろそろ終わりに近づき広島では千五百
> 五十五年、毛利元就が厳島で陶晴賢(すえはるたか)
> をやぶって支配を完成させました。
>  三島神社がたてられたのは、その翌年のことでした。
> が、書かれておりました。参考になればとお知らせしておきます。
>
> ●お久しぶりですね。
>
>  まず高野山寺坊名ですが、お示しの条件に該当するのは
>  清光院か清涼院しか見つかりませんでした。
>  過去帳がすぐ見つかったということは近代の法要でしょうかね?
>  16文字の法名は判りませんせんか?
>  河野宗家最後の当主牛福通直の法名が12文字なので多分前○○守等が付け加え
>  られていませんか?
>  そうすると卒後相当経ってからの法名の可能性があります。
>  高野山寺坊が上蔵院ではないのも気になりました。
>  このあたりの経緯はわかりませんか?
>
>  加計町の河野家墓にはどのような刻印がされていますでしょうか?
>  また山頂の墓標のある山の名を教えてくれませんか?
>
>  戦前の叙勲騒動の中国新聞の記事も気になりますね?
>  記事そのものは中国新聞に残っていませんかね?
>  戦前の記事なら途中でピカドンにやられますので難しいですかね?
>
>  以前から気になりましたので、再度「芸藩通志」を流し読みしました。
>
>  加計が頭にあったものですから当時(江戸初期)の住所を加計村と思っていまし
>  が、隣り村の津浪村ですよね。
>  津浪村の三島神社は「弘治二年(1556)河野信秀により再造」と書かれています ので
>  河野信秀の創建ではなく再建となりますから以前から在ったことが窺えます。
>
>  この河野信秀の名も河野家通字の「通」を使わないので変だなと思いましたが、
>  同じ「芸藩通志」で人物欄では
>  「津浪村 河埜氏
>   伊豫河埜通直 天正中加茂郡□□□□来る 其の子通秀より今の秀右衛門迄八代」
>  と書かれていますので、三島神社由緒の河野信秀は通秀の誤写と思われます。
>
>  この河埜(野)氏伝聞も悩みます。
>  天正年間に安芸に移動する河野通直は牛福で、その子通秀とするなら築山系河野
>  の可能性が出てきました。なら高野山寺坊が上蔵院でない理由がわかる気もしま
>  す。それか後、芸州浅野家家臣となる河野氏の関連が想像できます。
>  多分後者と思われます。
>  ここでも九州の警察官が所持していた系図が貴家と同じとされるなら
>  その系図は今どこにありますでしょうか?
>  あれば簡単に系統がわかると思うのですが。
>  また、通直から数えて秀右衛門まで八代とは代数が多すぎます。
>  「芸藩通志」は1600年の半ばに編纂されたとされますので
>  1587年卒の通直から100年未満で八人も代わるとは少し異常です。
>  よほど、飢饉が多い場所か、編纂年より後に加筆されたのならわかりますが。
>
>
> ご承知のように遠祖が定住した津浪村は江戸初期においては
> 村勢は
>  五十六町二反八畝十六歩 四百三十五石五斗の生産額で
>  戸数百七十五戸 八百十五人 僧一人 医者一一人
>  牛四十五頭 馬四匹 舟二艘とされる
>  八百十五人の中に本家や親戚や雇い人がたくさん居たのでしょうね?
>
>  この村勢は中程度の村となります。隣りの加計村は桁違いの大村落と記録されます。
>  人口だけで三千八百五十人とされますから。
>
>  津浪村に移り住んだのは毛利か小早川氏からの領知宛がいからでしょう。
>  大田川の水運も盛んで、石州の裏街道筋ともなりますので石見への守りの
>  位置づけと思われます。
>  三島神社再建時はまだ毛利方は長州の陶残党とドンパチしていますので
>  前の陶、後ろの尼子と彼方此方に気を配る必要のある時です。
>  後の毛利家を大大名に押し上げる原動力となった「大金庫」である「石見銀山」
>  確保保持も河野通秀の最大の役割と思われます。

  • [48]
  • 先日

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年12月 2日(金)15時46分21秒
 
先日、父の法要の折ある方が河野の過去帳は、高野山の龍泉院にもあるよ!との情報が得られました。

  • [47]
  • 思い出しました。

  • 投稿者:島谷です。
  • 投稿日:2011年11月23日(水)08時27分48秒
 
随分以前(40年くらい前)ですが、亡き祖父が家紋のことを言っていたことを思い出しました。家紋が2つあるからと!定かではないですが。またまた、断片的な記憶ですみません。


レンタル掲示板

スレッド一覧

  1. お知らせ(11)(管理人 今城)
  2. 平岡氏の家系(37)(KenKen)
  3. 道後 義安寺(10)(呑舟)
  4. 伊予黒川家と正岡家(81)(呑舟)
  5. 芸州 河野家末裔たち(54)(呑舟)
  6. 丸に九枚笹(4)(つくね)
  7. 言葉の歴史(ことのはのときのながれ)(2)(呑舟)
  8. 河野系図異同は通信以降に始まった?(15)(呑舟)
  9. 予州 大野家について(133)(呑舟)
  10. 水軍フェリー、風前の灯火(5)(maru阿弥)
  11. 海賊のお話(29)(呑舟)
  12. 越智家・河野家家紋を考える(29)(呑舟)
  13. 越智河野氏の出自や如何に?(134)(管理者)
  14. 河野水軍と仏教(20)(岩崎山法栄寺)
  15. 湯月城リサイクル作戦(25)(呑舟)
  16. 再び「笹ケ峠の合戦」へ(40)(管理人)
  17. 牛福通直と平岡氏(51)(呑舟)
  18. 今城伊豆守通興の子孫たち(17)(伊豆守直系子孫)
  19. 戒名は難しい・・・・(6)(呑舟)
  20. 河野家文書を見る(5)(呑舟)
スレッド一覧(全43)  他のスレッドを探す  スレッド作成 掲示板に戻る

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成