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  • 再び「笹ケ峠の合戦」へ

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)19時38分16秒
 
「談話室ゆづき」の該当スレッドが消えましたので再び立ち上げます。

皆様方の御協力により色々実態がつかめてきましたが、今一歩で光明が見える感じと
なりましたが、スレッド消滅により話が進みませんでした。
最近、土州の同好の士より新しい資料の提供を受けましたので、話を前に進めたいと
思います。

あちこちで黙って、私の投稿を見てる人がいますので笹ケ峠の合戦の概略を先に記します。
喫茶室の皆様には周知のことと思われます。

概略
?時は天正2年閏8月25日~26日にかけて
?場所は愛媛県源氏駄馬一帯の大野が原
?当事者、伊予大除城主大野直昌以下家臣団と長曾我部元親と交換要員大野直之ら土州勢
?目的は、建前上、大野直昌弟直之らの引渡し儀式であるが、土州側は大野側を騙し討ち
 にして大野一族を滅ぼすことにより、河野家重臣の一角を崩すことと小田、久万、大津
 地区の攻略を目論にいだいたものと思われる。

愛媛県史と高知県史いづれもこの戦いの存在を現在でも否定している。

しかし傍証史料として「予陽河野家譜」「各種大野家譜」「大野軍談」「大野家四十八名次第」「大野家聞書」等は史実として伝えています。

私はこの戦いは史実だと認識し探索中です。


さて前回までは笹が峠合戦の場所の特定を進めてきて、今城さん提供の笹が峠合戦の
推定地図のUPを頂き、大野家勢を留めていた秋望台(田)(あきぼーたい、あきごうた)
羅漢穴の近くと、元親勢の着した三ケ石まではほぼ特定できました。

元親勢が伏兵を置き、対面に近付く大野直昌らを奇襲した「ドウジガナル」場所が分りませんでした。

このたび、高知の同好の士により、大野が原の伝承集と云える「大野ケ原こぼれ話」(大野
原小学校長久保高一先生の研究成果・昭和46年発刊非売品)の提供を受け、場所と地名の
いわれが特定できました。

先生の研究によると、
「ドウジガナル」は「童子ケ成」と書き、伝承によると、弘法大師空海が帰朝後、本山建設
地の候補として大津より分け入り当時、浮島ケ原、童子ケ原と呼ばれていた所に大伽藍構想
をしたが、天邪鬼が来て邪魔をして、一夜にして草ぼうぼうの原野として本山不適地にして
しまった。
このことによりこのあたりの地名が「一朝カ原」と改名され、戦国時代まで続いたとされ、
「大野家聞書」が「一丁ケ原の戦い」と記入するは間違いで正しくは「一朝ケ原」が正しい
とされる。

このあたりが「大野ケ原」とされるのは天正2年の大野家勢多数討死により伊予側の文書
が「大野ケ原」と記すようになったとする。

天邪鬼に邪魔された空海は本山定礎の夢を諦め、名残惜しく一宇を地元民とともに建立した。
この寺の名を「童就寺」と云い「童子ケ成」の尻無川のほとりの上手に建てたとされる。
この時、地元民が酒を造りふるまいながら作ったとされ、この時の酒作りの引き臼は現在
小屋の大和の大師堂にあり記念物となっているという。
この「童就寺」は大野直昌の時に再興されたらしく「大野山童就寺」とされている。
この寺の裏手を「寺山」と呼ぶとされているので、今城さん提供の地図の寺山の下がった
ところが、「童子ケ成」で大野勢が奇襲を受けた所と思われます。

後に多数の討死者を葬るために、大野直昌は童就寺を再興したと思われる。
「大野家聞書」に「墓所は笹が峠佛堂と云うところにあり北平並□付近」と記すのも
このあたりのことと思われる。
昭和18年3月31日まではここは上浮穴村浮穴村大字小屋大野ケ原の地名であった。

ただし、童子ケ成の童就寺は弘化元年1844)、大洲藩主が鷹狩りの途中、荒果てた寺を見て
小屋村大和の地に移傳したとされ明治の初めまでは3月21日と7月21日に藩主の代理
が来て法要は怠らなかったとされます。法要は真言宗本願寺(喜多郡河辺村山鳥坂)の
住職が勤めるとあります。

天邪鬼ので一部作り話に近いものもありますが、実態に沿っての脚色でしょう。
空海の邪魔をする天邪鬼が「碁」を挑み勝ったのにも拘わらず消えていったので、その地を
「碁石ケ森」と言うそうです。

笹ケ峠は小田から一丁原に行くときの峠でこの峠を越えると「一丁原(後大野ケ原)と
呼んでいたのではないでしょうか?
よって笹ケ峠=一丁原(一朝ケ原)であったのでしょう。

場所のイメージが湧かないでしょうから(今城さん提供地図)をUPします。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [41]
  • 笹峠合戦論考

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月23日(木)12時42分31秒
 
小田留義著「大洲城砦址」よりUPします。
昭和37年、小屋村の上田氏の話として阿弥陀堂に戦没者の位牌が安置されている教えてもらった、とあります。
位牌の戒名、俗名等もう一歩踏み込んだ調査をされていたらと悔やまれますね。

  • [40]
  • 大野家聞書

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月20日(土)05時31分5秒
 
黒川久太郎を討死とするほうの「大野家文書」の該当部分もUPしておきましょう。
いづれも江戸期の文書と思われますので錯誤があるかも知れません。

【大野家聞書】
一丁原ニテ討死左如シ

大野九郎兵衛(3)

土居下野(4)
東筑前守(1)
城戸六郎(2)
尾崎七郎(5)
日野林勘解由(7)
平岡遠江守(6)

大洲 荒川大学(8)
山之内肥(9)
明神清右衛門(10)
菅内蔵之丞(11)
越智帯刀(12)
武市近江(13)
大洲壬 渡辺左馬之介(14)
鳥越左門(15)
船草五兵衛(16)
大野左馬直知 廿一才(17)

山下金兵衛(18)
高越源八(19)
平岡久太郎(20)

樋土靭負(23)


近澤左兵衛(22)
安部伊勢(21)
大洲壬 浅井重次郎(23)


日野林忠左衛門(24)
川崎左衛門(25)
石丸能登(28)
吉澤喜兵衛(29)
安持左馬之介(30)
鎌田甚六(31)
亀井万作(32)
今井作右衛門(40)
篠塚丹後(26)
大洲壬 熊権兵衛(27)


船草民丸(33)
梅木弥九郎丸(34)
鶴原千重良(35)
東権之助(36)
西原斉治(37)
小倉八九郎(38)
小倉八十郎(39)


曽根宇兵衛(41)
鶴原宇衛門(42)
吉沢八郎兵衛(43)
吉沢喜兵衛(44)





山下喜作(45)

山下宇八郎(46)
柴見右衛門(47)
林清吉(51)
洞木弥兵衛(52)
樋土次郎八(58)
加藤武兵衛(62)
和田孫六(63)
矢野加左衛門(48)
荒木喜八(49)
中村弥太郎(50)
馬場市郎兵衛(53)
原次郎八(54)
竹田市郎兵衛(55)
駒井勘蔵(56)
神谷勘右衛門(57)
黒川久太郎(59)
野開弥七兵衛(60)
山内左忠(61)
瀧口惣兵衛(64)
向井伊兵衛(65)

右討死六五人ノ人々笹ケ峠倛(仏)堂ト申所
葬リは墓所有リ 北平並■付近
【番号は書出し順】


  • [39]
  • Re: 石手寺

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月20日(土)05時12分17秒
 
> 問題の鐘を見てきましたが、写真のような古い形のお堂の為、鐘が見えませんでした。行く途中剣山を遠巻きに撮影しました。

●有難うございます。
 相当古い且つ壮麗な鐘撞堂ですね。この堂自体も結構歴史的価値がありそうですね。
 寺に鐘の運び込まれた年月日や謂われ、が寺の関係者から聴取できると面白いですね。
 これだけのものですから、関連の古文書が残っていると思われますが。

 例の黒田藩に届けたと同じ内容の中身も見たいものですね。
 重く無ければメールで送ってもらえませんか?

  • [38]
  • 石手寺

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年 8月20日(土)03時38分9秒
 
問題の鐘を見てきましたが、写真のような古い形のお堂の為、鐘が見えませんでした。行く途中剣山を遠巻きに撮影しました。

  • [37]
  • Re: 討死者七拾余名はいずこへ?

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年 8月19日(金)04時31分43秒
 
>>36
> >>35
  ●詳細に記して頂きありがとうございます。
  やはり、この筆者は久万地方を調査したと軽く書いていますので、この系図を見た
  可能性が大きいですね。
  筆者の方は、私の家のすぐ近くの方らしいのですが、すでに現世にはいなくて聞き取り
  もできません。ただ、この狭い櫻木地区をかなり調べ挙げて居ます。
  当時の資料は、やはり私たちが目にする図書館の古本と各家系図と住人の伝承で成り立って
  いるので決局は堂々巡りしているみたいですね。同じ事をまた、私たちがやっている。
  最近は、山間部も手を入れないので、草木は伸び、道路はボコボコでその内に目的の場所
  はすべて山に戻るでしょう。
  話は変わりますが、以前、呑舟さんから頂いた、黒田家の黒川出自の文書の小松藩に提出
  した、黒川五右衛門に関する文書の表紙の写真をUPしておきます。
  内容は、黒田家にあるのと同じ写しを、佐伯(大満田)庄屋に保存されていたものですが、
  同じですので、表紙のみUPしておきます。



  • [36]
  • Re: 討死者七拾余名はいずこへ?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月19日(金)00時13分49秒
 
>>35
>  呑舟さん。ありがとうございます。
>
> > 久しぶりです。
>   別綴りの史料名は何でしょうか?
>   私のUPは諸資料の総合氏名で該当の黒川久太郎は「大野家聞書」が出典です。
>   今見直しますと確かに黒川久太郎なる人物は「大野家四十八名次第」に名本左近の次に
> >  「直昌落去節茂仙埜大成ニ住居」とあり同一人物なら天正15年以降生きていることになりますね。

>   A=この文は、私もどこから引っ張ったかわかりませんが、「櫻木村の足跡」と言う個人(故人)の     方の本に書かれています。多分、久太郎は同一もしくは、一世代後の子とは思われます。
>      笹が峠の戦から、天正陣までは10年余ですので、同一人でもおかしくはないですね。

●そうですね同一人物でもおかしくありませんし、又、別人でもおかしくありません。
 親子で同じ名前を使うのは当時の習慣のようです。特に嫡男には同じ名前を付けます。
 例えば、大野家で言えば嫡男は当時「九郎兵衛」を本家分家も使用しますので見極めが大変です。
 よって同人かどうかは幼名や官途名で推測するしかありません。一番判りやすいのは法名ですが
 河野通直(牛福)のように寺により法名を出した場合、これも複数ありますので更に難儀です。

>  A=西山の鐘ですが、「追刻」するには、彫金と思われます。鋳造で浮文字は後では技術的に無理
>    と思われます。現にお寺の鐘の寄進者は大檀那など除いてすべて、彫金みたいに彫りこんで
>    ます。(刀の銘みたいな感じ?)私も、鐘の実物は未だ見たことありません。

●私もそうでないとおかしいと思っていますが、現物を見ていないのでなんとも。
 やはり現・湯築城代今城氏についでの折に見てもらった方が宜しいようですね。(笑)
>
>    ご存知でしょうが、参考までに
>  ------------------------------------------------------
>      興隆寺 建長三 歳次辛亥六月八日
>
>      領主  僧良順大徳  僧慶賢大徳
>
>      大工  河内国丹次国忠
>
>      任御示現 彼鐘自河内国来臨也
>
>      菅生山大宝寺一山大法主
>
>      別当大旦那大伴朝臣大野紀州利直一結
>
>      衆東西真俗  施主天文十七戌申十一月吉日
>
>      三十貫合力 宗岸 妙一 吉久
>
>  ----------------------------------------------------
>   とあります

●この刻印は知っていますが、当方の収集資料と一部刻字が違いますね。
初めて気がつきました。益々現物確認が必要ですね。

当方は
興隆寺建長三年(1251)歳次辛亥六月八日
願主 僧良順大徳  僧慶賢大徳
大工 河内国丹次国忠

   任御示現
   彼鐘自河内国来臨也
 一山大法主
 菅生山大宝寺  別 當
   大旦那大伴朝臣大野
   紀刕利直一結衆
   東西真俗施主等
 天文十七戌申年十一月吉日
      三十貫合作涼岸
            妙一
            吉久
と認識しています一部字が違いますね?


>   また、大野利直は、
>    戒名 威徳寺殿儀山道用雍大居士 とあり、
>
>    明応二年三月十五日生まれ、高寿丸、弥二郎、右衛門大夫、紀伊守となり、
>    天文十三年嫡男友直家督、十四年友直死去、再び城主となり、天文二十二年
>    直昌に家督す。と書いていますが、私には大野家の事はわかりません。
>    ただ黒川繋がりを調査する上では、ここを調べなくてはなりません。

●これは上川村大野系図のからの引用思われます。
 参考に示しますと

 利直 (1493~1580)
明応二癸丑年(1493)三月十五日誕生
高壽丸 弥二郎 右衛門太夫
永正二(1505)乙丑年元服 紀伊守
母 河野通秋女
天文四年(1535)河野春通 契約起請文来
同十年(1541)六月十六日
大内義隆書状至来
同十三年(1544)嫡男友直家督
同十四年(1545)友直死去利直再主
同十七年(1548)歳次戊申十一月
為友直鳴鐘一釣寄附菅生山大宝寺
同廿二年(1553)直昌家督矣
天正八(1580)庚辰年七月十四日卒
法名 威徳寺殿儀山道雍大居士
(室、平岡房実 実娘 妙智院殿)

ついでに黒川久太郎の底本思われる「熊大家城由来記」の秀吉の四国征伐以降の行方の記事を入れます。
大野家聞書は黒川久太郎は笹が峠討死と記録します。
【熊大代家城由来記】


直家三男直昌弟総津城主於笹ケ峠討死 大野 九郎兵衛
直家四女直昌妹婿町村城主於同所討死 大野 下野守
直家五男直昌弟 中川城主 大野 近江守
直家六男直昌弟赤岩城主於同所討死 東 筑前守
大野直昌婿 西王子 昌治
大野直昌婿 宇和三間 土居 式部少輔
直昌従弟 尾首城主 尾首 掃部
直昌弟大洲龍王城主於笹ケ峠討死 喜土 六郎
直昌息男親一所ニ芸州竹原ヘ
天正十五丁亥年御立退 大野 熊王丸
直昌従弟 大洲宇津城主 尾崎 丹波守
丹波守嫡子於笹ケ峠討死 尾崎 七郎
荏原西町城主 於笹ケ峠討死
通頼嫡男 平岡 遠江守
遠江守嫡男荏原西町城主  平岡 左近
荏原在町城主 政岡 右京之進
小田土州境嶽森城主 林 勘解由
小田日埜城主 直昌殿落居之節
畠川下嶽ニ篭居 日埜 肥後守
肥後守嫡男 直昌殿落居之節
畠川稲谷屋敷ニ篭居 日埜 彦六
小田赤岩城ニ居立 安持 備前守
五十崎城主 鈳 左衛門佐
内ノ子城主 於笹ケ峠討死 曽根 七郎
宇和北ノ川土州境森城居立
於同所討死  侍大将 荒川 大覚
直昌落去之節芸州竹原へ御供 日野 九郎兵衛
天正三亥戌九月東明神屋敷ニテ病死 舟草 出羽守
於笹ケ峠討死 山之内 肥後
同断 明神 清右衛門
同断 菅 内蔵之丞
於笹ケ峠討死 山之内 肥後守
同断  足軽大将 越智 帯刀
直昌没落後直瀬村吹藤川ニ牢居 菅 新左衛門
於笹ケ峠討死 武市 近江
天正二年十月松岡城ニテ病死 重頭 数馬
直昌没落後直瀬村藤野ニ牢居足軽大将 小倉 丹後守
天正十四年年直昌殿落去節七鳥村立退 梅木 但馬
於笹ケ峠討死 渡辺 左馬之介
天正二亥年久谷岡屋敷ニテ病死 森 讃岐
直昌没落節伊予郡森ヘ牢居 西原 斉兵衛
同断 大味川草原エ牢居 中川 主膳
同断 熊二名村エ立退 宮田 右京
同断 宇和北ノ川エ立退 立林 宇多

御旗奉行
直昌没落節伊予郡森ヘ牢居 鶴沢 右衛門
於笹ケ峠討死 鳥越 左門

御鑓奉行
於笹ケ峠討死畠川長野屋敷ニ在 舟草 五兵衛
直昌没落節東明神横之称ヘ牢居 山之内 伊勢

鉄砲小番頭
於笹ケ峠討死 山下 金兵衛
同断 高越 源八
大平城平岡右衛門伜 右同断 平岡 久太郎
直昌没落節畠川室屋エ牢居 武市 蔵人
於笹ケ峠討死 石田 武兵衛
直昌没落節宇和天井浪人 万作親 亀井 万右衛門
直昌没落節久主岡屋敷エ立退 梅木 馬之助
天正二戌正月 病死 梅木 馬之丞
直昌没落ノ節安藝竹原エ御供 佐伯 十兵衛
直昌没落節大洲石畳牢人 甚六親 鎌田 藤太夫

仕置奉行 寺社家門
直昌没落節東明神宮紹ヘ牢居 原 外記
於笹ケ峠討死 樋土 靭負

御使番目附
於笹ケ峠討死 近澤 左兵衛
同断 安部 伊勢
同断 浅井 十次郎
直昌没落節小田寺村ヘ牢居 日下 八兵衛
同断 野尻宮前エ牢居 露口隼人
直昌没落節畠川岩川エ牢居 東 遠江

御横目道奉行
同断 野尻預リニ牢居 山口 豊前
同断 戸部川預リニ牢居 溝口 喜兵衛

御近習馬廻り
直昌没落節畠川下松鳥越ヘ牢居 重藤 雅樂
同断 東明神野尻エ牢居 鶴原 三郎兵衛
於笹ケ峠討死 勘解由嫡子 林 忠左衛門
於笹ケ峠討死 川崎 左衛門
同断 石丸 能登
同断 吉沢 喜兵衛
同断 安持 馬之助
同断 鎌田 甚六
同断 亀井 万作
同断 篠塚 丹後
直昌没落節久万町住居 大家又兵衛
同断 杣野岡田屋敷エ牢居 佐川 左衛門
於笹ケ峠討死 総津山城倅 熊 権兵衛
直昌落去節 北坂昼野エ牢居 高岡 帯刀
同断 畠川岡屋敷エ牢居 武一 河内
同断 日野浦藤社立退 近澤 主膳
宮田右京倅一所ニ二名村ヘ牢人ス 宮田 忠次郎
直昌没落節浮穴郡高井エ牢人 井門 数馬
同断 畠川下屋敷エ立退 石田志摩之介
同断 菅生中ノ村ヘ住ス 南 甲斐之介

御小姓
右同断 西明内田口エ牢人  政岡 蔵之進
於笹ケ峠討死 船草出羽守嫡子 舟草 民丸
笹ケ峠討死梅木馬之丞嫡子  梅木 弥九郎丸
左馬助躮直昌落去節畠川岡屋敷牢人 渡辺 左馬五郎
笹ケ峠討死神露原三郎兵衛嫡子 露原 仙重郎
直昌落去節北坂タイエ牢居 佐川 左馬助
笹ケ峠討死東左兵衛嫡子  東 権之助
同断 西原斉兵衛嫡子 西原 斉治
同断 小倉丹後守嫡子 小倉 八九郎
同断 小倉丹後守二男 小倉 八十郎
同断 今井 作右衛門
直昌落去節北坂とうろく牢居 赤松 右近

御勘定奉行
笹ケ峠討死 曾根 右兵衛
同断 露原 宇右衛門
同断 吉沢 八郎兵衛

郡代町改
同断 吉沢 喜兵衛
直昌落去節 直瀬鳥越エ牢居 鳥越 信濃

御普請奉行
直昌没落節下直瀬東屋敷ヘ牢居 重頭 将監
同断 大味川若山エ牢居 寺西 遠江
同断 畠川岡坂エ牢居 窪 兵庫
同断 仕出岡田エ牢居 澗(タニ) 帯刀
同断 下直瀬エ立退 仙波 伊賀
同断 寺町 出羽
右同断 槻ノ沢エ住ス 高岡市衛門

御祐筆
於笹ケ峠討死 林 清兵衛
右同断 窪 儀兵衛
右同断 黒藤川岡屋敷エ住ス 猪野 加右衛門

御台所頭御膳改
於笹ケ峠討死 樋口 喜兵衛
同断 山下 喜作

御■御馬廻り■合
直昌落去節 直瀬下仲エ牢人 奥 兵庫
於笹ケ峠討死 山下 宇八郎
同断 重見 宇右衛門
直昌落去節 西谷エ立退 紀伊 加賀
直昌落去節 小田日渡住ス 堀 次太夫
同断伊予郡徳丸ニ住ス 矢野 加左衛門
同断 同東川大井屋敷エ住ス 森 将監
同断 同丹原エ住ス 荒木 喜八
同断 伊予郡康川エ立退 伊藤 作右衛門
同断 久米郡志津川エ立退 野間忠二郎
同断 久万北坂大成エ立退 松室 美濃
同断 温泉郡湯町ヘ住ス 中村源太郎
同断 小坂渋草ヘ牢人 松室 美作
於笹ケ峠討死 林 清吉
同断 泪木 弥兵衛
直昌落去節 小田寺村エ住ス 二宮 右京
同 菅生中村エ立退 大西源五右衛門
同 直瀬松ノ下エ立退 石丸五郎兵衛
同 直瀬大石エ立退 東 佐兵衛
同 入野蜂ノ巣エ立退 弥兵衛嫡子 泪木 弥介
同 花今瀬ニ住ス 成川 伊勢
直昌落去節 浮穴郡下林エ立退 小山 清左衛門
直昌落去節 久米郡平居ヘ住ス 馬場 市郎兵衛
同断 大洲内ノ子エ立退 板倉 藤太
同断 原外記嫡子親ト一所ニ立退 原 次郎八
同断 温泉郡湯山エ立退 白井伊太夫
同断 久万七鳥古味エ立退 沼野 内膳
同断 屋前郡藤坂牢人 竹田 市左衛門
同断 大味川若山ヘ牢人 宮原 蔵人
同断 讃州ヘ牢人 駒井勘蔵
同断 宇和伊予地川牢人 横田孫兵衛
同断 大洲長浜ニ住ス 神谷 勘左衛門
同断 東明神笠ヘ住居 三條 左馬
同断 柳井川土居エ牢居 三條 三郎左衛門
於笹ケ峠討死 靷負嫡子 樋土 次郎作
直昌茂仙埜大成ルニ住居 名本 左近
同断同所ニ立退 黒川 久太郎
同断兄野間三郎兵衛ト一所ニ立退 野間 弥兵衛
同断 大洲大瀬ニ住ス 渡辺 八郎太夫
同断 田替地エ立退 平田 三弥
同断 五百騎川ニ立退 赤羽 八郎
同断 熊父ノ川村エ立退 鈴木 忠右衛門
同断 日野浦西屋敷エ立退 高橋 佐渡
同断 西明神内田エ立退 青木 佐左衛門
同断 久米郡日瀬里エ立退 満口 半太夫
同断 父伊勢ト共ニ立退 成川 伊兵衛
同断 豊後国エ渡ル 槙 孫左衛門
同断 伊予郡壬生ニ立退 加藤 忠太
同断 行方不知 瀧口 惣兵衛
同断 行方不知 山本 佐忠
於笹ケ峠討死 加藤 武兵衛

御■御馬廻り■合
直昌落去節 西明神國屋敷エ立退 和田 孫兵衛
於笹ケ峠討死 和田 孫六
直昌落去節 大洲北平エ立退 舘 八郎太夫
直昌落去節 大洲田口ヘ立退 預 丹後
同 上黒厳尾戒エ立退 平井 長門
同 温泉郡平田村ヘ 向井 伊兵衛
同 上黒岩村エ立退 桜井 因幡
同 畠川上ノ段エ立退 名木 源左衛門
同 久米郡志津川村エ立退 谷崎 興三兵衛
熊王丸之メノト 大塚 修理
同 仙野笠方エ立退 佐川 内蔵介

御医師
医師 山口 甫順
同 中川 慶安
同 和田 休意
同 山下 元林
同 日下 一甫
右ノ面々天正弐丁亥迄如此 同年九月笹ケ峠討死
以後入替り

天正十五年丁亥年大野直昌落去ニ付宇津ノ城を立退
小田中村ニ住ス
大野 近江守 嫡男 大野 仁兵衛

親下野守討死 本川城ニ居立 天正十五年丁亥年
河野 大野落去本川ヲ立退大川村ヘ牢人ス
土居 下野守 嫡男 土居 弥九郎

親筑前守討死後 伯父直昌於本城勤 天正十五年丁亥年
直昌落去ニ付 牢人
大野東筑前守 嫡男 内蔵太夫事 大野 庄作

天正十五年丁亥年 大野直昌落去後 東明神窪埜屋敷
ヲ立退 同浦村ヘ牢人ス
船草 出羽守 嫡男 船草 新右衛門

親清右衛門討死後 葛掛城於勤同所 天正十五年丁亥年
直昌落去ニ付 立退
明神 清左衛門 嫡男 明神 忠三郎

親内蔵之丞討死後 若山城居立 天正十五年丁亥年
直昌落去ニ付 日浦村野地ヘ牢人ス
菅 内蔵之丞 嫡男 菅 岡之丞

兄 帯刀討死後 鷹森城有 天正十五年丁亥年
直昌落去ニ付 大川村ヘ牢人ス
越智 帯刀 弟 越智 未学


  • [35]
  • Re: 討死者七拾余名はいずこへ?

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)20時57分20秒
 
 呑舟さん。ありがとうございます。

> 久しぶりです。
 別綴りの史料名は何でしょうか?
 私のUPは諸資料の総合氏名で該当の黒川久太郎は「大野家聞書」が出典です。
 今見直しますと確かに黒川久太郎なる人物は「大野家四十八名次第」に名本左近の次に
>  「直昌落去節茂仙埜大成ニ住居」とあり同一人物なら天正15年以降生きていることになりますね。
>   黒川久太郎笹が峠討死は「大野家聞書」が記すだけです。他の討死者名簿には見出せません。
>   考えられるのは
>  ①記録が違う
>  ②同一人物ではなく親子等で同姓同名場合ですね。
>  大野家の於ける黒川久太郎の役職は御□御馬廻□合の一員とされます。
>
  A=この文は、私もどこから引っ張ったかわかりませんが、「櫻木村の足跡」と言う個人(故人)の     方の本に書かれています。多分、久太郎は同一もしくは、一世代後の子とは思われます。
     笹が峠の戦から、天正陣までは10年余ですので、同一人でもおかしくはないですね。


> 大野利直の墓がどこかまだ分かりませんが天正八年卒ですから、喪主は直昌と思われますので
> 当時の大野家菩提寺久万・菅生山大宝寺と思われます。
>
>  この寺に嫡男友直夭逝追善のため河内国からの名鐘を寄進します。
>  この鐘について「愛媛県史」は
> 「この鐘は建長三年(1251)に河内国で西山興隆寺(丹原町)
> の鐘として作られ、利直は黒川通俊あたりに斡旋して貰って
> 大宝寺に寄進したものであろう。それを直昌が湯築城老臣
> となった時に土産物として河野家を通じて石手寺に献じた
> のではなかろうか。
> とあり黒川通俊との緊密性を強調しています。
> もっとも後段の河野家への引出物の解釈は納得できません。
> 直昌の実兄友直の追善鐘で河内鐘に供養文を「追刻」してある
> これがどのような状態か私は現物を見ていないのでわからない。
> 鋳物の鐘に更に「追刻」をするのは技術的にどうするのでしょうかね?
> 以前から気になっています。「旧久万町史」は鐘の出自を示す興隆寺の部分
> をCUTしていますから、書物だけの研究ですと直接大野利直
> が菅生山大宝寺に寄進したと誤解するでしょうね。
> 大野家の重要な鐘を後世無理やり石出寺に移動させられた
> ものと考えます。
> 大野家が力が無くなった時の所業と思われます。
> 松山市教育委員会に経緯を問い合わせましたが「わかりません」でした。
> 今は国の重要文化財ですが、本来は大宝寺のものです。
> 更に云うと黒川家のものかも知れませんね。

 A=西山の鐘ですが、「追刻」するには、彫金と思われます。鋳造で浮文字は後では技術的に無理
   と思われます。現にお寺の鐘の寄進者は大檀那など除いてすべて、彫金みたいに彫りこんで
   ます。(刀の銘みたいな感じ?)私も、鐘の実物は未だ見たことありません。

   ご存知でしょうが、参考までに
 ------------------------------------------------------
     興隆寺 建長三 歳次辛亥六月八日

     領主  僧良順大徳  僧慶賢大徳

     大工  河内国丹次国忠

     任御示現 彼鐘自河内国来臨也

     菅生山大宝寺一山大法主

     別当大旦那大伴朝臣大野紀州利直一結

     衆東西真俗  施主天文十七戌申十一月吉日

     三十貫合力 宗岸 妙一 吉久

 ----------------------------------------------------
  とあります。
  また、大野利直は、
   戒名 威徳寺殿儀山道用雍大居士 とあり、

   明応二年三月十五日生まれ、高寿丸、弥二郎、右衛門大夫、紀伊守となり、
   天文十三年嫡男友直家督、十四年友直死去、再び城主となり、天文二十二年
   直昌に家督す。と書いていますが、私には大野家の事はわかりません。
   ただ黒川繋がりを調査する上では、ここを調べなくてはなりません。









  • [34]
  • Re: 討死者七拾余名はいずこへ?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)16時21分9秒
 
> > 現在で分る限りの討死者の名を各種史料より抜き出し、冥福を祈ります。
> 時 天正二年(1574)閏八月二十五日   場所 予土国境笹が峠(旧一丁原) 現 愛媛県
>
> @黒川 久太郎
>
>  以前、呑舟さんの投稿で、題記の討死者の中に、黒川久太朗とありますが、最近別綴に、黒川久太朗は
> 大成に・・と書いています。一部抜き出しますと、「大除城の家臣は、四散し、笠方に佐川内蔵之介、渋草に松室美作、大成に黒川久太朗と名本左近と松室美濃が入り、丹原(当時は丹原の地名なし)に荒木喜八、臼坂へ竹田市右衛門が来る・・・」とこの事は天正陣の後とのことですので、笹峠の戦いより後の事となります。黒川久太朗が同一人物かどうか不明ですが、多分同一と思われます。
> この文に出てくる家臣は大野家に居たのでしょうか?

久しぶりです。
 別綴りの史料名は何でしょうか?
 上記の内容が書かれているのは「大野家四十八名次第」が底本と思われます。
 もちろん江戸期の書ですから信頼性は数段落ちますが。

 私のUPは諸資料の総合氏名で該当の黒川久太郎は「大野家聞書」が出典です。
 今見直しますと確かに黒川久太郎なる人物は「大野家四十八名次第」に名本左近の次に
 「直昌落去節茂仙埜大成ニ住居」とあり同一人物なら天正15年以降生きていることになりますね。

 黒川久太郎笹が峠討死は「大野家聞書」が記すだけです。他の討死者名簿には見出せません。

 考えられるのは
 ①記録が違う
 ②同一人物ではなく親子等で同姓同名場合
 ですね。

 大野家の於ける黒川久太郎の役職は御□御馬廻□合の一員とされます。

> また、別に読んでいると、【森の浦神社】の件に、下影の裏山と保井野に森之浦神社という社があり、大野利直の御霊を背負って来た人を祭る神社があると・・。8月初にこの神社を探しに行きましたが、
> 山の中腹ですでに森に帰していました。近くの住人に聞いた所、地元では森の神様と呼んでいる、もう何も無いとウーハン等も盗まれたそうです。帰路、大野霊神社に行く橋が老朽化で通行止めだったのですが、きれいに架け替えられて、車も通れるようになってましたので、大野霊社に久々に行ってみました。
> 大野霊神社は、明治以前は大野大明神として祭られていました。ここに、かなり古い仁王様がありますが、昭和に京都の仏師である黒川玄氏(丹原町志川出身)が見たところ、製作年代は江戸初期か、それ以前との事だといわれたそうです。
> 黒川松の謂れは、大野利直の没年などが合いませんので大野霊神社の社記を作成するときに作文されたか?不明ですが違ってきます。
> 大野霊神社は大野利直を旧家臣がお祭りした神社ではないでしょうか?大野霊神社の御神体は大野利直と
> 丹原町誌に書かれていますが(誰もわかりません)
> 逆に、大野利直の菩提寺(威徳殿?)や墓、位牌等はどこにあるのでしょうか?ご存知の方は、ご教示願います。

●大野利直の墓がどこかまだ分かりませんが天正八年卒ですから、喪主は直昌と思われますので
 当時の大野家菩提寺久万・菅生山大宝寺と思われます。

 この寺に嫡男友直夭逝追善のため河内国からの名鐘を寄進します。
 この鐘について「愛媛県史」は
「この鐘は建長三年(1251)に河内国で西山興隆寺(丹原町)
の鐘として作られ、利直は黒川通俊あたりに斡旋して貰って
大宝寺に寄進したものであろう。それを直昌が湯築城老臣
となった時に土産物として河野家を通じて石手寺に献じた
のではなかろうか。

とあり黒川通俊との緊密性を強調しています。
もっとも後段の河野家への引出物の解釈は納得できません。
直昌の実兄友直の追善鐘で河内鐘に供養文を「追刻」してある

これがどのような状態か私は現物を見ていないのでわからない。
鋳物の鐘に更に「追刻」をするのは技術的にどうするのでしょうかね?
以前から気になっています。「旧久万町史」は鐘の出自を示す興隆寺の部分
をCUTしていますから、書物だけの研究ですと直接大野利直
が菅生山大宝寺に寄進したと誤解するでしょうね。

大野家の重要な鐘を後世無理やり石出寺に移動させられた
ものと考えます。
大野家が力が無くなった時の所業と思われます。
松山市教育委員会に経緯を問い合わせましたが「わかりません」でした。

今は国の重要文化財ですが、本来は大宝寺のものです。
更に云うと黒川家のものかも知れませんね。

黒川さんが見られている資料を見たいものです。


  • [33]
  • Re: 討死者七拾余名はいずこへ?

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2011年 8月18日(木)08時36分29秒
 
>>3
> 現在で分る限りの討死者の名を各種史料より抜き出し、冥福を祈ります。
時 天正二年(1574)閏八月二十五日   場所 予土国境笹が峠(旧一丁原) 現 愛媛県

@黒川 久太郎

 以前、呑舟さんの投稿で、題記の討死者の中に、黒川久太朗とありますが、最近別綴に、黒川久太朗は
大成に・・と書いています。一部抜き出しますと、「大除城の家臣は、四散し、笠方に佐川内蔵之介、渋草に松室美作、大成に黒川久太朗と名本左近と松室美濃が入り、丹原(当時は丹原の地名なし)に荒木喜八、臼坂へ竹田市右衛門が来る・・・」とこの事は天正陣の後とのことですので、笹峠の戦いより後の事となります。黒川久太朗が同一人物かどうか不明ですが、多分同一と思われます。
この文に出てくる家臣は大野家に居たのでしょうか?
また、別に読んでいると、【森の浦神社】の件に、下影の裏山と保井野に森之浦神社という社があり、大野利直の御霊を背負って来た人を祭る神社があると・・。8月初にこの神社を探しに行きましたが、
山の中腹ですでに森に帰していました。近くの住人に聞いた所、地元では森の神様と呼んでいる、もう何も無いとウーハン等も盗まれたそうです。帰路、大野霊神社に行く橋が老朽化で通行止めだったのですが、きれいに架け替えられて、車も通れるようになってましたので、大野霊社に久々に行ってみました。
大野霊神社は、明治以前は大野大明神として祭られていました。ここに、かなり古い仁王様がありますが、昭和に京都の仏師である黒川玄氏(丹原町志川出身)が見たところ、製作年代は江戸初期か、それ以前との事だといわれたそうです。
黒川松の謂れは、大野利直の没年などが合いませんので大野霊神社の社記を作成するときに作文されたか?不明ですが違ってきます。
大野霊神社は大野利直を旧家臣がお祭りした神社ではないでしょうか?大野霊神社の御神体は大野利直と
丹原町誌に書かれていますが(誰もわかりません)
逆に、大野利直の菩提寺(威徳殿?)や墓、位牌等はどこにあるのでしょうか?ご存知の方は、ご教示願います。大野霊社の仁王様、外からの撮影ですが観てください。もう一枚は参道(急坂です)
 

  • [32]
  • Re: 次第に見え来るは~四国ならず中国f・九州を巻き込むかも

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)03時06分36秒
 
> 永禄十一年(1568年)の鳥坂峠の合戦の有無とその所以を知れば、河野氏は宇都宮氏討伐の軍を派遣を決し、その折には毛利氏に援軍を求めてとも~南予の宇都宮氏(土佐一条氏が救援軍を派遣)と~その際には西園寺氏は河野氏に味方して背後から合力されて、此れにより土佐国一条軍勢は退き、宇都宮氏も毛利氏の軍勢の旗の下に降伏を余儀なくされたと聞く。
> さて、永禄十一年の周辺を遊行しており、その際に導かれる侭に、『河野家文書』の古文書の条項に、『ゆつき』・永寿の面影・とか浮んで・・牛福丸宛ての書状が目に留まりましたので、正しく高野山の文の二色と相重なるヒントも頭を過ぎりましたので、ご案内させて頂きます。南無

●河野家文書のUP有難うございます。
 この文書と「ゆつき」(女性の名)と二色とがどう繋がるのかイマイチ分りませんのでお教え願えませんか?

真ん中の文書は別の意味で興味深く見ました。

欄外の解説は牛福丸承継による贈物にたいする礼状とされ、編者が「永禄十一年?」七月九日と
書簡の書いた年度が良く分らないから(?)を入れ牛福通直への代変わり年とされる永禄十一年と
した感じですね。

よく分らないのはこの文書では永禄11年に家督相続した牛福丸が通直として相続したとされる
一般論ではなく、承継後も牛福を使用していた証左と考えます。
上蔵院文書も家督相続とされる永禄11年以降の本人書簡が牛福としてあるのが以前気になりました。

通直と改名したのは永禄11年以降なのでしょうか?それとも7月直前?
幼名をそのまま使うのは変と後世の人が考えたから一般論となったのでしょうか?

確かに永禄11年は色んなことのある年とされます。
1月には土佐一条家家臣ら500騎が久万山に侵入します【予陽河野家譜】それを大野直昌が撃退し事無きを
得たとされます【大野系図】

2月には宗家河野通宣は病に罹り、遠縁の牛福に跡を継がすとされます【予陽河野家譜】

この予陽河野家譜の一文が後世、通宣逝去と通直相続の同時期と決定づけたのではないでしょうか?
同譜は元服と同時に伊予守となり通直と改めるとしますが、書簡と合いませんね。
また通宣卒日は天正9年7月6日説もありよくわかりません。
実態的にはまだ正式には家督相続はされてなく、名も牛福のままだった可能性があります。
上蔵院文書や今回の紹介文書がその証左と思われます。

【毛利輝元書状】によると同年2月21日に「小早川隆景は毛利元春を同道して伊予表に渡海」とあり
後世の学者はこれを「元服の祝宴参加か?」と本に書いていますが、私は通宣の葬儀に参列した
不祝儀ではないかと思っています。
それとも全く式とは関係なく一条宇都宮と戦う軍議のための渡海かもしれません。ついでに葬儀も?
亡くなると同時に家督相続をしたとする説もありますが、通常葬儀(不祝儀)と家督相続(祝儀)を同時に
することはないでしょう?

今回の紹介文書の日付が7月9日が気になります。よって代替わりは7月直前かもと思われます。

2月は鳥坂の戦いを河野家連合軍と一条家連合軍がドンパチした月とされます。
この時は
「伊予河野通直、同国宇都宮豊綱と争ふ、一條康定、豊綱を援け、毛利元就等の兵、通直を援く、是日、両軍、多田口に戦ひ、豊綱等、敗績す」【土佐国編年記事略】とされ、
通直(伊予守)はこの顛末を幕府に報告し将軍足利義昭から祝勝の御内書を賜っている。とされます。

ただ毛利側文書はこれは4月であるとします。
「毛利元就、吉川元春及び小早川隆景を伊予に遣し、河野通直を援けて、大津城将宇都宮豊綱を撃たしむ」【萩藩閥閲録、毛利家日記、築山本河野家譜」】
豊綱の上須貝から大津城への退却は4月25日とされます【小早川文書】

6月に漸く宇都宮豊綱が毛利側に降り連れ去られます。【吉川家文書】
この大津の城を通直に与えるとされます。【東和町史】

伊予平定がまだ終らないさなかに、
「大友宗麟に立花鑑戴が反旗を翻して毛利家に通じたため大友家毛利家の和睦は決裂、元春・隆景は伊豫からそのまま九州に渡る。」(小早川文書)と忙しい。
「元春・隆景、大友氏との戦勝を長門住吉社に祈る」 【住吉神社文書】
大友との戦いには村上水軍も動員され、その甲斐あってか毛利側は勝利しする。
とあります。

●それにしても戦国武将は寝ても覚めても戦いばかりで気の休まることはありませんね。

日曜日も無い様ですから、私なら、とっくの昔に逃げ出しますね。

しかし「予陽河野家譜」は鵜呑みにできない。






  • [31]
  • Re: 次第に見え来るは~四国ならず中国f・九州を巻き込むかも

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)00時27分18秒
 
> 呑舟師、真に難題なればこそ慎重に一歩一歩奥の細道を辿る想いを重ねなければと~。
永禄十一年(1568年)の鳥坂峠の合戦の有無とその所以を知れば、河野氏は宇都宮氏討伐の軍を派遣を決し、その折には毛利氏に援軍を求めてとも~南予の宇都宮氏(土佐一条氏が救援軍を派遣)と~その際には西園寺氏は河野氏に味方して背後から合力されて、此れにより土佐国一条軍勢は退き、宇都宮氏も毛利氏の軍勢の旗の下に降伏を余儀なくされたと聞く。
さて、永禄十一年の周辺を遊行しており、その際に導かれる侭に、『河野家文書』の古文書の条項に、『ゆつき』・永寿の面影・とか浮んで・・牛福丸宛ての書状が目に留まりましたので、正しく高野山の文の二色と相重なるヒントも頭を過ぎりましたので、ご案内させて頂きます。南無

  • [30]
  • 次第に見え来るは~四国ならず中国f・九州を巻き込むかも

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月15日(日)17時28分0秒
 
呑舟師、真に難題なればこそ慎重に一歩一歩奥の細道を辿る想いを重ねなければと~。
笹が峠(天正五年・1577年)の前哨戦は、永禄十一年(1568年)の鳥坂峠の合戦の有無とその所以を知れば、河野氏は宇都宮氏討伐の軍を派遣を決し、その折には毛利氏に援軍を求めてとも~南予の宇都宮氏(土佐一条氏が救援軍を派遣)と~その際には西園寺氏は河野氏に味方して背後から合力されて、此れにより土佐国一条軍勢は退き、宇都宮氏も毛利氏の軍勢の旗の下に降伏を余儀なくされたと聞く。
天正3年(1575年)一条氏を手中に伏せて、長宗我部元親は、信長より土佐一国の所領を安堵されて、信長の『信』の一字を賜って嫡子に『信親』と名乗らせているのも史実なる故也・・其の年末には、阿波の国境を越えて進軍を進め始めたと記す。
時を同じくして、元親は重臣久武内蔵助を南予への侵攻の軍代に任じ、南伊予への準備体制を整え~一条氏配下並びに・南予・土佐国境に位置する・川原城主や、西の川・北の川・魚成の諸氏が元親に内通~その折には呑舟師の常に語られる喜多郡『菅田直之』殿の提携を為して、西園寺を包囲されたようですね!
其の情勢に非常事態と、毛利氏に救援の軍勢を要請されて、小早川の軍勢が直之を攻めたと!~その際には直之は急遽・元親に救援を求めて、直ぐ様妹婿の波川玄番を指揮下に土佐の軍勢を派兵したと記すも~直之も討ち死に~多くの戦死者を両軍共に出すも、玄番の命にて河野軍との和睦を為して一先ず撤退したるは其の後天正七年再度の南伊予攻め戦況を招く所以かと。南無

笹ヶ峰の戦は呑舟師の申す通り~天正五年八月は9年後の国境の戦場と考えております。
その間には、

  • [29]
  • この主題は根気善く~奥の細道を~是非

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月14日(土)16時05分7秒
 
呑舟師、何故にお急ぎに成られるのか(何時の間にか何の便りも無く無念)
奥の細道を辿るには~永年の積み重なれたタイムスリップの所業ですよね!
じっくりと穏やかにご指南頂ければ必ず~次第に、先祖を偲ぶ仏心が必ず導いて下されます。南無

  • [28]
  • Re: 想いを重ね~古への面影を訪ぬるは

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月28日(木)21時54分33秒
 
分り易い絵図の提供有難うございます。
現代の地図で教えてもらうより、イメージが湧きますね。
義経が攻めて来たから、慌てて海上に逃れたのでしょうか?
戦いは2月19日~20日で終ったようですね。
激しい戦いの中で那須の与一の射的が行われたとすると、
当時の合戦は、やはり、「只今より始めます!」と宣言して「やあやあ我こそは誰の子孫云々・・・・」と
挨拶しながらしていたのでしょうか?
与一の射的は「湯漬けブレイク」の余興かもしれませんね。
敗れる、象徴としての挿入話なら2月20日でしょうね。
与一は宇都宮の二荒山神社の神様に御願いしながら弓を射たとされますから宇都宮系でしょうね。

河野通信はこの戦いに何故、合力しなかったのでしょうか?
戦いの済んだ21日に源氏軍に合流していますが、間に合わなかったのでしょうか?
それとも前々日から洞ヶ峠を決め込んでいたのでしょうか?
翌日の志度浦の戦いから合流していますが、この志度浦は今のどこでしょうか?

司馬遼太郎先生なら時代小説が1本書けそうですね。

鑑真開基の屋島寺も気になります。
こちらは、鑑真が何度も渡航を失敗し、盲目になりながらも渡航に成功し、瀬戸内を平安京に向かう途中で
立ち寄ったとされていますので、現地の浜に船寄して、現地人のために祈祷した場所を記念して後世建てられたの
でしょうね。このような開基伝承は瀬戸内海には、空海等の高僧らが立ち寄った場所には多く残されていますね。
現在の地図で見直しますと、鑑真は行宮の反対の西側の浜に船寄し宿泊して、当時の海岸線から直線距離で
400M前後の地で祈祷したと思われますが、如何でしょう?
時は754年1月中頃と思われます、彼は前年12月26日には未だ大宰府にいますし、754年1月には奈良に
到着していますから。

鑑真を必死で連れてきたのは、遣唐副使、大伴古麻呂です。
彼は「菅田村大野系図」によると、大伴安麻呂の弟、大伴御行の子となっています。

  • [27]
  • Re: 想いを重ね~古への面影を訪ぬるは

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月28日(木)16時53分31秒
 
呑舟師、少し本論とは違うかと思えども、同じ土俵の延長線上の義なれば~お尋ねの安徳天皇行宮所は今は、今城先師からのご縁にて~ご懇意の頂いた城郭探訪の奥義を極められた・著名な『J・T』師の古代屋島古城史跡の学識・発掘現場をご案内させて頂いた懐かしい想い出が甦ってまいりました!南無
さて、本論にお答えします・・安徳天皇の御宮所は屋島の御座います(今は安徳天皇社として霊社也)屋島山上には古刹屋島寺在り~六万時寺~御宮所の位置関係をご案内させて頂きます。南無八幡大菩薩

  • [26]
  • Re: 想いを重ね~古への面影を訪ぬるは

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月27日(水)04時38分6秒
 
> 昨日24日は、地元の文化財保護協会のお誘いにて、源平合戦・八嶋の郷~牟礼の里の天平の世・行基開基の古刹(真言宗六万寺・安徳天皇の御行在所)は、庵主の在・牟礼の里に御座る。
> 呑舟師と皆様方のこの度の『笹が峠の戦場』へのテーマの奥深きその先には、仏法の諭の理の存在がほんのりと心を裡に響く感也。
> このテーマと差異はあれど・導かれる侭に縁ありて~昨日は庵主の地元の高松文化財保護協会の誘いにて、牟礼の六万寺の法要(安徳天皇の御供養)の仏前に座させて頂きました。
> その昔物語を知るにつけ~源平の相対する政情(伊予之国にも深き・対峙の戦況)の戦場故に~摩訶不思議なる人之世の性(さが)の諸行無常の理のご案内指せて頂きますね(ご容赦)

●まさに諸行無常でございますね。
 安徳天皇を極楽に追いやった義経に加担した河野縁者の回向に幼帝安徳の霊も目パチクリかも知れませんね。

 六万寺の案内有難うございます。
 行基菩薩が開基か否かは不明ですが、少なくても借名開基の可能性はあるようですね。
 彼が四国での開基寺の記録がないものですから。

 安徳帝が滞在されたのは事実のようですね。
 記録によると寿永二年六月三日、六万寺に入る、とされますから、都落ち後、あちらこちら流離った
 後、つかの間の滞在のようです。この後、行宮を建てたとされますから、建築期間中は滞在されて
 いたようですね。この行宮は今のどこか分りませんか?

 その後、同年閏十月一日、備中児島の戦い。十一月の播磨室津の戦いを経て、源氏軍を押し戻し
 寿永三年正月に福原に還りますので、約、半年、高松におわされたのではないでしょうか?

このころ、河野家は何をしていたのでしょうか?
記録によると、

「予章記長福寺本」は「寿永二年十一月三日源平合戦で高名に付き景時の感状を貰う。」とあり
 「寿永三年(1184)一月十一日河野通信は義経から兵糧酒肴の差し入れの礼状を貰う。」とあります。
さらに「上蔵院本」は「元暦元年(1184)一月十六日、通信は高原源太郎、同月図書俊則と戦い勝利を得る」
とありますので、
これらの記録が正しいなら、河野通信はこの時(寿永二年十二月一日)、伊勢に居た義経に同行していて、十二月十日、木曽義仲がこともあろうに、頼朝討伐の院宣を発せさせたことに対抗し、頼朝は十二月二十五日、義仲討伐の軍を発進させますので、通信らも合流したものと思われます。
翌年一月二十日の宇治川の合戦で義仲を戦死させ、内輪もめの第一幕は終ります。

尚、上蔵院本の元暦元年の記述は間違いです。
 元暦は寿永三年四月十六日改元ですから、作者が後世に編纂する時に、年度計算を
 間違えたのでしょう。よって後世編纂物となり、信頼度がワンランク落ちます。

  • [25]
  • Re: 湯月城の同笵瓦は・・・?!?!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月26日(火)12時22分1秒
 
 今後の研究の課題です・・何時もながら謎の残影を残す面影かと。
御両師のなかなかの興味深い談義ですね。庵主は伊予にも土佐にも~阿波にも~讃岐にも、諮らずも導かれる侭に遊行を重ねる身なれば、身をもって今少し洞察の道中を一歩一歩先に進める覚悟也。
今城先師のブログサイトの『湯築城探検クラブ』を検めて立ち上げられた義は、焦点を『湯築城・謎々尽くし』に移されて居られます。
是非、今後はこの題材は末永く~これ等の築城依頼からの時代スリップをメインテーマとして新鮮な検証を目指して根気善く皆様方の洞察・見識を語り合いましょう・・南無
処で、今城先師にご指導・ご案内頂きたいのですが、参考資料の写真添付は可能ですか? 庵主



  • [24]
  • 湯月城の同笵瓦は・・・

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)19時23分56秒
 
>  元親瓦ではありません。岡豊城、中村城と湯築城で同じ紋様の瓦が使われて居たというだけで、それを元親の瓦と言うのはとんでもない誤りです。
>
>  高知の歴史民俗博物館の館長さんが湯築城でその瓦をご覧になって、「この瓦が土佐から来た可能性は全く無い。その頃土佐には瓦を焼く窯はなかったからである。従ってこの同笵瓦は、例えば泉州など他国で焼かれた瓦が三つの城に行ったのであろう。」と即座に仰いました。論理的にこの方が正しいと思います。

●なるほど、同笵瓦だけで湯月城落城とは無理がありますね。
 しかし、土佐に瓦を焼く窯は無かったと言うのは少しオーバーな気がします。
 瓦は飛鳥時代から焼かれているので、天正年間まで土佐の瓦がすべて別所からの移入品とは思えないのですが。

 多分、館長の真意は湯月の同笵瓦を焼いた窯場は土佐には無かったと言いたかったのではないでしょうか?
 岡豊城の遺構から出た瓦には、「泉州作、天正三年」の刻のあるものがあったからでしょう?

 築城用の瓦として泉州瓦は引く手あまたであった気がします。
 従来の寺用の瓦より、戦闘用に優れていたものと思います。
 多分、信長の安土城使用瓦が大元と思われます。

 湯月城の該当瓦は見ていませんが、泉州物とすると、天文四年の湯月城の大規模改修時期の移入瓦の
 可能性がありますね。
 出典がよく分りませんが、この時の主な改修工事は、平山城化と二重掘と、大手門と搦手門の入れ替えのようで
 大規模ですね。通直の命令とあります。そうなのですか?
 この時期は伊予の各城は戦いに備えてか城の修造がされているようです。
 大野家本城「大除城」も天文四年、大修造と「予陽大野軍記」は記します。

 伊予の名瓦窯「菊間瓦」が湯月に納入されたのかと思いましたが、
 こちらは天正元年に安土城瓦の板型を持ち帰るとありので、天文四年には間に合いません。
 天正元年以降の修復用なら「菊間瓦」かも知れません。
 菊間瓦と河野家は付き合いは長く、弘安元年(1278)年、作事方として河野家の城に菊間瓦を納めた
 とされてますので。河野通有の屋敷でしょう。
 菊間瓦は1604年に加藤の松前城、勝山城に納入とされています。

 瓦の話はさて置き、湯月城が元親に下ったかの根拠で、この同笵瓦が出てきただけですが、
 河野家の人質として平岡が土佐に行かされていますので、非常にきわどい綱渡り状態であった
 ことは想像できます。何故、人質は一親等親族ではなく、平岡なのか疑問は残りますが
 今後の研究の課題です。

  • [23]
  • Re: 笹が峠の合戦は複数かも?

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)17時03分19秒
 
>>21

>  現代の人は湯月城の元親瓦を根拠としているらしいが、イマイチ根拠が薄い。

 元親瓦ではありません。岡豊城、中村城と湯築城で同じ紋様の瓦が使われて居たというだけで、それを元親の瓦と言うのはとんでもない誤りです。

 高知の歴史民俗博物館の館長さんが湯築城でその瓦をご覧になって、「この瓦が土佐から来た可能性は全く無い。その頃土佐には瓦を焼く窯はなかったからである。従ってこの同笵瓦は、例えば泉州など他国で焼かれた瓦が三つの城に行ったのであろう。」と即座に仰いました。論理的にこの方が正しいと思います。

  • [22]
  • 想いを重ね~古への面影を訪ぬるは

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)15時46分57秒
 
先人の面影を慕う御心は、尊き仏心の御導きかと。
昨日24日は、地元の文化財保護協会のお誘いにて、源平合戦・八嶋の郷~牟礼の里の天平の世・行基開基の古刹(真言宗六万寺・安徳天皇の御行在所)は、庵主の在・牟礼の里に御座る。
呑舟師と皆様方のこの度の『笹が峠の戦場』へのテーマの奥深きその先には、仏法の諭の理の存在がほんのりと心を裡に響く感也。
このテーマと差異はあれど・導かれる侭に縁ありて~昨日は庵主の地元の高松文化財保護協会の誘いにて、牟礼の六万寺の法要(安徳天皇の御供養)の仏前に座させて頂きました。
その昔物語を知るにつけ~源平の相対する政情(伊予之国にも深き・対峙の戦況)の戦場故に~摩訶不思議なる人之世の性(さが)の諸行無常の理のご案内指せて頂きますね(ご容赦)


  • [21]
  • 笹が峠の合戦は複数かも?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)15時02分50秒
 
>  従って笹ヶ峠合戦=一朝ヶ原合戦ですが、だからと言って笹ヶ峠=一朝ヶ原と言う説は疑問ですね。

●私も同様な感じがします。
 一朝ケ原の戦い=大野ケ原の戦い(後世の名称)で、
 「笹ケ峠の戦い」は同じ天正二年に発生した、元親が久万山に押し寄せてきた戦いと
  後世、戦いの名が混同されている可能性も捨てきれません。
  この戦いが一町ケ原の戦い(大野ケ原の戦い)の前か、後か、もしくは同じ戦いなのか
  今は特定出来ません。

 大野系図の直昌の条には、
「天正元年、久万山込加賀丞牽入於土佐勢三百余騎 楯籠入森之由、三條三郎左衛門訴干大除城
 因茲大野近江直吉即時追討畢、
 同二年、元親當国山方放火之節、於笹ケ峠合戦也、」

 とあり天正元年から七年まで他の記述を含め、元親は繰り返し、予州山方から南予への侵攻を繰り返していること
 が窺える。

 現代の人は土佐の「長元物語」あたりを根拠として、天正二年当時は元親が兵を動かした記録はないし
 且つ、河野と毛利は縁戚故、うかつに侵攻できないとしていて、笹が峠合戦は無いとしているが、
 当時の毛利・河野家はそれほど
 強固な同盟関係ではないし、長元物語は後世の軍記物であるので信頼性は低い書物であることも
 忘れてはならない。
 確か、同書は河野家本城湯月を攻め落とし、通直は敗軍し、四国全土平定なると書いてあったと
 思う。
 河野家が元親に降伏一歩手前まで追い込まれていたことは想像に難くはないが
 湯月城が落ちたとは思えない。
 現代の人は湯月城の元親瓦を根拠としているらしいが、イマイチ根拠が薄い。

 これは又、別の意味で話が長くなるので、この話は又の機会としましょう。

 ともあれ、頻繁な小競り合いの中で記録に残っていない合戦も数多く有ったようである。

 後世の子孫や臣下家末裔がいろいろと混同した可能性があるかも知れません。

 只、一丁(朝)ケ原の戦いは存在したと思われます。

  • [20]
  • Re: 童子ケ成(ドウジガナル)は童子ケ平(ナル)か?

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)10時54分52秒
 
>>18

 童子ケ成は童子ケ平。ずばりでしょうね。「平」に「ナル」の読みがあるのをすっかり忘れていました。

 広辞苑を見ますと、

  なる【平】
   (中国・四国地方で) 平坦な場所。なろ。なら。

とあります。音は違いますが、善光寺平と同じ用例ですね。

 その童子ケ平は、笹ヶ峠から尻無川の東の丘の辺りまでを指すようです。

 大野勢は笹ヶ峠を西から東へ越えた辺りで長宗我部の襲撃を受けたものと推測します。戦いが笹ヶ峠から始まったので笹ヶ峠合戦、その後戦いは大野ヶ原の広い範囲に広がったので一朝ヶ原合戦と呼ばれるのではないでしょうか。

 従って笹ヶ峠合戦=一朝ヶ原合戦ですが、だからと言って笹ヶ峠=一朝ヶ原と言う説は疑問ですね。

  • [19]
  • Re: お申す越しのことは

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)09時28分13秒
 
手許の系図によると、土州大野(小野)流は

元祖 大洲・菅田大野家
大野上総介右衛門大夫直之

土州 初代
大野直隆

小野改姓
大野直豊(小野新兵衛)

土佐桐見川小野家初代
小野太郎右衛門直繁

二代 小野小左衛門直泉

三代 小野伊兵衛直守

四代 小野源助直靖(養子)

五代 小野六右衛門直就

六代 小野興右衛門直好

七代 小野直辰 覚八

八代 小野雄三郎直敬

(慶應3年改姓)大野直陳

とされており、大野(オオノ)を隠し小野(オノ)と変名したものと思われます。

屋代島大野家のように秀吉存命中は大野を隠し、冨永や友田と変名し、秀吉卒去するや、本姓「大野」に
復します。
これに対し、土州大野家は慶應三年まで一部の分家は大野を隠し、その後、大野に復姓しています。

秀吉の時代は多くの家で変名(改姓)が行われています。
河野家の一部が「築山」と変名するのもその一端と思われます。

秀吉の意に添わなかった者への徹底的な弾圧と抹殺が当時の天下人の基盤整備に欠かせなかった
のでしょう。
敵対者への一族抹消は以前から有りましたが、下克上の時代はそれが更に過酷になっていたものと
思われます。




  • [18]
  • 童子ケ成(ドウジガナル)は童子ケ平(ナル)か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月25日(月)08時52分24秒
 
『天邪鬼に邪魔された空海は本山定礎の夢を諦め、名残惜しく一宇を地元民とともに建立した。
この寺の名を「童就寺」と云い「童子ケ成」の尻無川のほとりの上手に建てたとされる。
この時、地元民が酒を造りふるまいながら作ったとされ、この時の酒作りの引き臼は現在
小屋の大和の大師堂にあり記念物となっているという。
この「童就寺」は大野直昌の時に再興されたらしく「大野山童就寺」とされている。
この寺の裏手を「寺山」と呼ぶとされているので、今城さん提供の地図の寺山の下がった
ところが、「童子ケ成」で大野勢が奇襲を受けた所と思われます。』

の童子ケ成は、当時の表現ではナルは本来、「平」の字を当てていたようです。
平(たいら)なところや真ん中の意味を含んでいるようです。



  • [17]
  • Re: お申す越しのことは

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月22日(金)21時51分36秒
 
そうですか。
なら、江戸時代の小野系図では記載はありませんね。

  • [16]
  • お申す越しのことは

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月22日(金)16時08分56秒
 
呑舟師、本件の義・現世の近代の世・明治から~昭和の時代の縁故の結われにて候也。
小野家とは、中村一条氏城下、天正年代・渡川合戦の戦場・・四万十川流域の里長の小野氏の縁組は明治時代に、尚摂津之国の有馬温泉山脈麓の大野氏とのご縁は、昭和の時代の姻戚関係也。南無


  • [15]
  • Re: 仏縁と~現世の妙なる調べ哉?・・!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月21日(木)17時07分35秒
 
> 大野と小野両家の家名とは、古来より姻戚関係も深く繋がり~当家も2代~3代に渡り~婚姻関係を結んでおります。(摩訶不思議也)

●なるほど、縁は異なものですね。
 大野と小野の両家との貴家の婚姻のつながりを具体的に教えて頂けませんか?

  • [14]
  • 仏縁と~現世の妙なる調べ哉?・・!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月21日(木)16時47分3秒
 
呑舟師、真に御師とは、伊予之道後の里・湯築城にての巡り会いも、只管に御仏の御導きかとも想いを重ねて居ります。
大野と小野両家の家名とは、古来より姻戚関係も深く繋がり~当家も2代~3代に渡り~婚姻関係を結んでおります。(摩訶不思議也)
夫々の生き歳生ける今の世に、ご縁ありしも、何かの仏縁かと・・今城先師の許に、導かれる侭の遊行・奥の細道を一歩一歩前に~前に確りと踏みしめて宜しければ参りましょう。南無

  • [13]
  • 土州へのお誘い感謝

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月19日(火)19時34分14秒
 
土州へのお誘い有難うございます。
伊予と同じく一度は踏み込みたいと思っています。

実際は数十年前の中学生時代に、恐れも知らずに自転車で三津が浜を出発し、松山からの登り坂は
殆ど、自転車を突いて三坂峠まで歩いて行きました。振り向くと松山の町が何時までも見えていて
いつになったら、高知に着くか不安を覚えたことを思い出します。三坂峠を越えると一転、下り坂
ばかりで、ペダルも踏まなくても楽々と下っていきました。もちろん車一台がギリギリ通れるくらい
の道幅で舗装もないジャリ道でしたから、ハンドルはいつもグラグラしていました。
途中で野宿しながら四国一週しました。
このころは歴史には興味もなく大野や河野など知るよしもありません。

今から考えると松山から高知までの道すがら、大野一族の霊が次々に私に取り付いてきたのでしょう。
途中の久万町が大野の戦国期の本拠地とは知らずに、一目散に高知に向けペダルを漕いでいました。
私は単純に坂本竜馬とはりまや橋と高知城が見たかっただけです。

それ以来、久万は勿論、土州にも足を入れたことがありません。

大野家と土州は大体敵対関係の話が多いので、今まで、憎き長曾我部の国のイメージが強くて。

この度、土州の同好の士を得て、イメージが大きく変わりました。

記録に残る土州との戦いは、宝徳二年(1450)の室町幕府の命令により、土州の津野備前守之高
退治です。この戦いは一進一退だったようで、決着のつかないまま戦況報告に大野繁直が翌年に
上京して帰路、暑さの為、兵庫で倒れ死亡し、また讒言があって、大野家は一旦断絶します。
遺児二人は親戚の小田の冨永安芸守家で養育され、後、京の親族、土岐成頼により家名再興を果たします。
この時は河野家の臣下ではなく京の細川氏の直接指示下にあります。

この関係を知らない人は何故、河野の家臣家の大野が、河野の親族の津野家を退治するのか不思議と
言っています。大野家は直昌の時、以外は河野家には臣下の礼を取っていません。逆に敵対しています。

これらの功により細川から土州佐川郷の一部を与えられていますので、大野の橋頭堡は土州にも
あったことになります。

その後、土州の久万入道との戦いや、一条家との小競り合い、そして長曾我部との小競り合いの
結果、笹ケ峠の戦いで大きく戦力を失ったものと思われます。

長曾我部に早くから呼応した大津(大洲)の大野(菅田)直之の子直隆は、元親の庇護のもと、土州名野川森山へ移住し、
土州大野家として栄え、江戸時代に一部が小野姓に改姓し明治まで仁淀、名野川、別府山、長者村
森山、総津、高瀬、大平、別枝、越知に分布し、山内時代はそれそれ庄屋として繁茂しています。

この辺りは「仁淀村史」「梼原町史」が触れています。

土州で語り継がれる系図が「桐見川大野系図」です。
もちろん、大野直之(直行)流となります。

一度訪れたいものです。長州大工の仕事ぶりも見てみたいし。
現地の大野神社や一族の墓もはっきりしているようですから。



  • [12]
  • 是非~土州への旅をお奨めしたい

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月19日(火)16時41分17秒
 
呑舟師、天正二年(1574年)の土佐の国西南部の政情を是非ご洞察下され!・土州のことは土州に聞け之諺に順じて・土佐中村・一条兼定と老臣土居宗珊と伊予の西園寺公広と因縁~其の間に江村備後等の存在と時代背景と、一条家内紛の性・兼定(32歳)・追放先(2月)の豊後国大友氏(宗麟)との関係の奥の細道を辿っていただき、伊予之法華津・御荘の援助と一条家内紛の其の末に其の当時に思いを馳せて下されて、其の左中の変遷と一条家幼君・万千代君を我等一族古縁の大津天竺古城城近くの大津御所(庵主の推測では、隣接の飛鳥井山と)にて庇護なされ、其の後元服して、一条内房と名乗り元親の娘を娶り一男一女を生み、天正五年(1557年)に左中将に任じられて居ります。(そろり~そろりと奥の細道辿りましょう)南無

  • [11]
  • Re: 笹ヶ峠合戦関連の地図

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月18日(月)17時35分50秒
 
関係地図のUP有難うございます。消える前にファイルに取りこまさせて頂きました。
この地図のどこかに戦死者達が眠っていると思われるのですが?

まず大野山童就寺(どうしゅうじ)を特定する必要がありますが、地の利がありませんので
いかんともしがたい。

「大野ケ原こぼれ話」には【弘法大師建立・大野山童就寺】と書いた碑が立っている挿絵がしてあるので昭和46年当時にはあったようなので、現地の人に聞けば分るような気もします。
発掘もしたらしく古い陶器が出土したとされます。
行政区がころころと変わっていますので今の教育委員会が認識しているか否か不安です。

ステップ バイ ステップですね。

  • [9]
  • 笹ヶ峠合戦関連の地図

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2011年 4月17日(日)17時39分29秒
 
 談話室ゆづきで笹ヶ峠合戦が論じられていた時、私が喫茶室に投稿した笹ヶ峠合戦関係の地図を、「探索・探訪」に収録しています。

 「笹ヶ峠合戦に関連する地名」

をクリックして下さい。

  • [8]
  • いよ~伊予奥の細道に想いを馳せて!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 4月17日(日)15時47分20秒
 
呑舟師~永年の本願にも近づきたる思い也。
天正二年(1574年)の古事の結わくは、決して長宗我部元親の本線の伊予攻めとは時代を異にしており、間も無く土佐一国を制覇され治められる正にその前後の時代也。
例えば、長宗我部元親と~土佐国『一条と津野氏』との攻略の最中に、其の延長線上に浮ぶ、戦況の模様に深く因縁を含み於く必要が有ろうかと存じます。
これから先の御検索を期待しております。南無

  • [7]
  • 笹が峠の合戦を否定する「久万町誌」の記述

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)21時43分53秒
 
笹ケ峠の合戦を否定した著書は旧「久万町誌」です。
久万町誌はいまやその記述に於いて問題が多く、大野家の記述については「上川村大野系図」を
鵜呑みにし、他の大野家の系図や文書を調べてもいないと思われます。

こと笹ケ峠の戦いは江戸中期の末裔、大野直尚が手記で「笹が峠の合戦はなかった」との記述のみで
あっさりと笹ケ峠の合戦は無いと、記述してしまったことが、愛媛県史の記述に影響を少なからず
与えたと思われます。

大野直尚は(1743~1787以降)の時代の人で、1787年に竹原の大野直昌の墓に詣でて、寂れた状態
に思いを致したのか大野直昌の位牌を新調しています。この位牌は中学生の郷土学習でたまたま見付かり現在、久万高原町に里帰りしています。

1574年の戦いの有無が200年後の人物が断定できるわけがありません。
しかも自家の系図の編纂しなおしていますが、この戦いを削除はしていません。
久万町誌の編集者の早とちりかもしれません。

根拠となる、大野直尚手記を探していますが、全容がつかめません。
一部を見るに、直尚が見ていた大野系図や文書は別本と思える節があり、また現在の大野系図を編纂しなおした可能性があります。今、探索中です。
時代的には「予陽河野家譜」や現「予章記」の編集に拘わった可能性があります。
「予陽河野家譜」が取り上げる「笹が峠合戦」の条の記述の提供はこの時に行われてと考えられます。
代わりに、守護職安堵状やその他河野家譜や予章記の原稿を借用しています。
また、純友討伐の条は共有しています。
河野通有の弘安の役の、敵の大将の首を京都郊外男山八幡に運んだ、久万弥太郎成俊は双方で取り合い
をしています。
お互い、相手の原稿を見ながらパクリ合いをしている印象です。
まさか、後世、双方の記述が比較考証されるとは夢にも思わなかったのでしょう。
お互い「門外不出で秘蔵」としていたわけですから。

話題がそれました。本題の記述に戻ります。

【久万町誌】
  8.笹ケ峠合戦

 直之は兄直昌とは四歳の年少で、隼人・上総介
右衛門太夫と称し、喜多郡菅田城主となり菅田直之
(又は直行)とも呼ばれた。地蔵嶽城主宇都宮豊綱
の聟となり、その死後地藏嶽に住み、郡内の棟梁に
なったと云う。前述の如く直之は囚人として兄直昌
の監視下におかれたが、天正二年(1574年)小田
町で具足五両分の地を与えられた。しかし彼はそれ
を不服として、ひそかに妻子を連れ元親を頼って
土佐に逃れ、喜多郡の旧領に帰る様画策を始めた。
天正二年八月に長宗我部元親が中に立って兄弟
の和睦をはかり、両者は閏八月二五日、いよいよ
予土国境の笹が峠で会見する運びとなった。
その日元親は直之を伴って笹ケ峠甫見江坂に、
直昌はそれより50町ばかり隔たった樋ケ崎まで
出向き、互に使節の礼があって前進した。
このとき土佐の伏兵200余人が前後からときの声を
あげ発砲して現れた。不意をつかれた久万山勢は
はその死傷数知れず、直昌の弟、東筑前守をはじめ
喜土、樋口、土居、林、安持、荒川、近沢等屈強の
士70余人は戦乱の中で悉く討死を遂げた。
しかし直昌は名だたる知勇兼備の名将のこととて、
大敵の囲みをものともせず、土卒を叱咤して奮戦し
遂に土佐勢を切り崩し、一族の尾首掃部、尾崎
丹後守、日野九郎左衛門等と、逃げる敵を甫見江坂
の東まで追撃し勝どきを上げて帰軍した。
この時、土佐方は長野兄弟寺町左近以下80余人が
討死したと云う。こうして直昌は九死に一生を得たが
一族家臣の大半は討死し再起し得ぬほどの大打撃
を受けた。
  以上は「予陽河野家譜」の記すところである。
またこの地方に残る「大野家文書」などには更に
芝居がかった表現で、この戦いを描いており、面白く
はあるが全くの作り話であることは、既に天明年間に
上川村庄屋大野和五郎が手記に書いてあるので
ここでは省略する。


  • [6]
  • 「久万大除家城主大野家記録」が語る笹が峠の合戦

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)20時55分37秒
 
関係文書を立ち上げます。
「久万大除家城主大野家記録」(大野ケ原こぼれ話所収)が語る【笹ケ峠の合戦】
はっきりしないが底本は「大野家聞書」の古本と思われる。
大野ケ原を一丁原と記載して其の他多くの古地名が認められることから一番古い記録であろうと思われる。さりながら、途中で演出の加筆の跡が認められ、記録としての信頼性を薄めてしまっていること
は否めない、それらを削除し、人の名、地名、時間的経緯は一番信頼できるものと思われる。

【熊大除家城主大野家記録】 (大野ケ原こぼれ話)
 『笹ガ峠の合戦』

 天正元年癸酉、菅田直之聊かの事ありて直昌と不和
となり、亀ケ城を立退き土州に行き、元親を頼む
天正申戌年八月長曾我部元親より大野直昌に使者を
指越す。右意は大野直之事亀ケ城に罷有所、去年思召
に従い当地に立越、妻子を始め家中の目面々、右郷を
去る ことの外迷惑に及び、我等を頼み罷有候、御了高
有、先地へ御戻し給るよう致し候、依之使者差遣候、
委細は西村左近へ申含候、御報待計候、依右大夜家
城へ家門初、侍大将惣頭打寄評議之有、直昌より
御返翰に この度舎弟越前守直之 不行跡事有之
制詞を加え候得者其地へ駆込む、貴殿を頼み我等へ
詫申度由、誠に遠路御使者過分事候、委は西村へ
申含候御返答有之、又同年閏八月西村を被差越
御中直る御書到来し、其状に去る比、御報墨被見致候
今度直之 心腹御開届有之 御兄弟和睦者任某意候
依而当月下旬両国共境目において引合申度、
尤我等悉会をとけ隣国互いに向後申しと有之、
御返答に、伊予土佐境於壱丁原に御出合可有旨
申参る、依之
 天正二年申戌八月二五日両方共にご出馬有り
長曾我部宮内少輔秦元親、大野越前守大伴直之、
三ツ石峠、大野方は秋望田と申所、両方互いに礼儀
の御使者有り、其後御立合あるべきにて、長曾我方は
直之共に上下拾人、大野方にも八人双方共に御出合
之申合之有、土州より童子カ成の茂みに其勢三百騎
ほどかくし、□勢をかまえ直昌真近になると、弓鉄砲を
射入れ、打入れ一度にどっとおめいてかかる、大野方
には思寄らず驚き騒ぐ、直昌士卒を制し、高声に
「きたなし元親、尋常に合戦はせで、だまし打ちにせん
とは、おろかのはかりごとかな」とて秋望台にひかえたる
士卒と共に、ここ先途と思いけれども、大野方には
直昌をはじめ一族の人々、すはだに長上下の仕合
着て、こさせることなれば諸大将采配をとり士卒を
はげますといえども、立直しがたく、暫時に討死三百人
に及ぶ、其外手負数多くあり、中にも直昌の御舎弟
大野九郎兵衛、東筑前守城戸六郎、土居下野守を
はじめとして、樋土、日野、林、安持、荒川、近沢、
吉沢、其外侍大将を初め、物頭七拾四人、直昌秘蔵の
小姓、船草民丸、梅木弥九郎丸討死、長曾我部側方
には家老長野信濃ノ守兄弟、前備にて討死、寺町右近
を初め其外雑兵七拾余人討死、元親の長男弥三郎
信親、三男津野弥次郎手負い、直昌方には尾首掃部
尾崎丹後守、土居式部、日野九郎左衛門何れも死を
一決し、踏み止まって其のひまに、直昌を始め死卒
ようよう妙見ケ森迄引退く。
 時、天正二年申戌八月二五日の夜なり。
その夜は士卒の労を休めんと、この所に宿陣す、
近江守直好’、も戦いつかれ、睡眠におよぶとき、
妙見告げて曰く、「我は、是北極星にして’則’国尋立尊
なり、今夜夜討ちせば必ず勝利あらん・・・・・」と、夢とも
なく告げ給う、直好急ぎ直昌に諮る、直昌大いに喜び
士卒を励ましそのまま討ち立つ時に、土佐勢は一朝ケ原に
於て野陣し、夜明けなば直昌を追討すべし、と評議して
いたる所へ直昌間近く討寄せ、先にときの声をあげたり、
土佐勢大いに驚き周章する所に直昌、直好、無二無三
に討入り相戦う、
 土佐勢は物具する間もなく、討ちたるる者、その数を
知らず、然れども元親、心剛なる大将なれば、ひしひし
と物具をかため、士卒を励まし戦うといえども、終に
甫見坂の東まで五十町ばかり追われ引き退く土州の
諸勢敗軍す、
 大野軍は小勢なれば、深追いはせず、と引き返す、
直昌方は数々討死有之候共、芝居踏勝鬨を作り夫々
に取行い帰軍有之、
大野方は諸討死後、壱丁原を大野ケ原と云い伝う、

(故己松五郎氏、大正15年謄写された「久万大除家城主
大野家記録」による。
上記記録は小さい文字で31ページに纏められてある。
表紙裏に小屋の山本恒明、北平の中本光直と3名で記す、
とある。(一冊だけ残っている)この文書のあることを
とある。(一冊だけ残っている)この文書のあることを
今田則吉氏に聞き探し求めてもらった。)とある。


  • [5]
  • 「熊大代家城主大野家由来」が語る笹が峠の合戦

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)20時42分19秒
 
関係文書を立ち上げます。
「熊大夜家城主大野家由来」(伊予史談会蔵・松山曽根八千代原蔵)が語る【笹ケ峠の合戦】
こちらも江戸期の大野家家臣家に伝わるものと思われます。

【熊大代家城主大野家由来】
 『笹ガ峠の合戦』

  天正元癸酉年(1573)大野直行悪心之有り長宗我部
へ内通す。直昌へ不足を言い立て兄弟不和に罷成り
土州に駈け込み蒙り在り、天正二甲戊年(1574)八月に
長宗我部元親より大野(使者を差し越し候。右意趣は
「大野直行事大洲の城に罷り在る所、去年三月思し召しを
以って御丘所へ召し寄せられ、妻子をはじめ家中の面々
故郷を去り殊の他迷惑に及び貴殿へ不足を申し其の地を
立除き当国へ罷り越し、我らを頼り直行一心の難儀此の
事に候。御了簡之在りて先地へ御戻し給わる様いたし度
く、之によって使者差遣わし候。委細西村左近申達す可く
候。御報待つばかりに候」之に依って右大除城へ家門を
はじめ、侍大将物頭打ち寄り評議、大野殿より御返翰之
れ有り、「今度弟上総守不行跡之事之有るに付、制詞を
之有るに付、制詞を加え候へば、其の地へかけ入り貴殿
を頼り我等に詫び申し度き由、誠に遠路の御使過分の
事に候。くわしくは西村え申し含め候」と御返書これ有り、
又同年閏八月西村差し越され御中直りの御書到来、
その状に曰く「去る頃は御報墨被見致し候。今度直行
心腹御聞届これ有り御兄弟和睦之有る可き旨同意いたし
候。之に依って当月下旬両国境目おいて引き合わせ
申度く、もっとも我等も対面致し隣国互に向後申し合わさ
ず」とこれ有り、返事に伊予土佐の境笹カ峠にて両方
御出合之れ有る趣申し参り、之に依って天正二甲戊閏
八月二五日両方とも御出馬也。長宗我部方は笹カ峠
甫見坂大野方は樋カ崎と申す所両方何れも五十町計り
隔たり、互いに礼儀の御使者其の後お出合有る可きに
て、長宗我部方は直行共上下十人、大野方は八人
両方共御出合の申し合わせ之有る処、長宗我部方
其の勢二、三百騎山中をくぐり、坂半ば之折合、鉄砲
数百挺打ち掛かる。大野方驚くこと限りなく、諸大将
驚く事限りなく、諸大将采配追取り制するといえ共、
立て直し難く、大野方は残らず裸に長上下の仕合
討死其の数を知らず時の間に雑兵七百計り討死手を
負うものも数あり、中にも直昌の御舎弟大野九郎兵衛
東筑前守をはじめ喜土、樋土、土居、林、安持、荒川
近沢、吉沢等を先として侍大将物頭七十余人討死す。
直昌秘蔵のござ直し船草民丸、梅木弥九郎丸討死
何れも能き侍数々の討死仕る、長宗我部方には
家老長野兄弟寺町左近を始め雑兵八十ばかり討死仕る。
長野と申す者宇和土佐両国の境、上カ石の城主、
長宗我部先備え仕る故討死、侍分は討死八人有る由、
右の外は足軽、雑職と、軍散じて後 相聞き候故、
裸とは申しながら土州の大勢切崩し終に甫見坂の東まで
50町計り追討にいたし土州の諸勢廃軍す、直昌方は数々
討死之有り候え共芝居を踏み勝どきを作り夫々に取り行い
帰軍之有り、然れども能き侍多く討死之有る故、
御家の末かと覚え候。


  • [4]
  • 「予陽河野家譜」が語る笹が峠の合戦

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)20時32分35秒
 
関係文書を立ち上げます。
「予陽河野家譜」が語る【笹ケ峠の合戦】
地名等は江戸期以降と思われます。よって編纂は江戸中期の傍証となります。

【予陽河野家譜】 (大野直之地蔵ケ嶽城に拠り反抗)

頃大野上総介直行(之)通志長宗我部元親、向背河野
屋形、仍為誅伐、同三月十八日通直(江州)自進発干
喜多郡給、従軍都而五千余騎也、所謂右近太夫常政、
兵庫頭通建、左馬介通利、美濃守通為、但馬守通廉、
美作守通方、備前守通森、山城守親武、舎弟常陸介
豊澄、大野山城守直昌、重見美濃守通次、子息孫七郎
櫛部(戸)出雲守、越智(知)駿河守、同右衛問尉、
高田左衛問進、仙波大炊介、浅海兵庫介、尾越助右衛門
目見田修理亮、玉井備前守、二神隼人佐、同孫右衛門
同越後守、岡弘源左衛門、末房惣五郎、吉原新右衛門
出羽出雲守、武任修理亮、同豊前守、井門九郎左衛門
大内伊賀守、久枝肥前守、高松美濃守、中石見守、
福角太郎、中西大蔵少輔、久保源左衛門、東但馬守等也
平岡近州通倚、垣生加州盛周等率伊豫浮穴勢七百余騎
備後陣、通直(江州)既着陣干千部峠給、曽根丹後守
宣高率一族家人五十余人来加焉、仍於先手可抽忠勤
之旨、被仰含之、宣高応命加先陣、自未刻甚雨、
雷鳴数声、仍軍勢不得進、各滞留干一木民屋矣、
申下刻大野山城守直昌、曽根丹後宣高等別而欲顕
忠貞乎、不相約干旗本、而向干地藏嶽城
又亀ケ城ト云 直行居干此 城兵出城並楯於河端、
揃鏃列立招寄手、仍双方隔河発矢矣、諸将即(乍)
驚凌甚雨、而向干彼所、此間双陣亡命被疵者甚多焉、
同十九日通直(江州)越河不相戦者、難攻敵陣之由、
令被相計給、召二神隼人佐、可窺知河浅深之旨被命
之二神乃相具家子郎従等、雖臨河端、依昨日甚雨、
濁水奔流、白浪漲落難窺淵底漸為水練遂知浅深、
馳返令渡之条、不可有子細之由申訖、及卯下刻、
二神隼人佐、高松美濃守、中石見守、応(懸)命進渉、
敵兵之見同時発矢玉、隼人佐、石見守乗馬於河中、
各中之(矢)漂水、石見守沈淵底己欲終命、仍抜腰刀、
切甲上帯小具足、良久僅浮出浅瀬、為郎従等被救畢、
其後軍兵多河面並轡之処、流急未戦以前十人二三者
没水、所謂正岡右近太夫、土居兵庫頭、同左馬介、
松末美濃守、南美作守、大野山城守、曽根丹後守、
中河、重見、櫛戸、大内、久枝己下之一族郎従六十三
人惣軍総五百余騎也、典厩作州等乗馬、雖中矢斃、
各依為水練、無為着干岸、各揚旗競進、争勝負、
寄手既三十九人被疵云々、通直(江州)使越智
右衛門尉、浅海兵庫介等、壊取中村民屋造筏諸将
各乗之、着岸之後、苦戦移時、敵兵戦労逃入干城中
上総介己下咽烟殆迷惑矣、寄手乗勝攻戦之間、
終失防戦之術、紛烟遁走逃籠干鴾森城矣、通直(江州)
使備前守通森守地蔵岳城、自進兵令向干鴾森給、
直行集敗軍士卒令防戦、直行長臣鶴沢右衛門
引率足軽討(射)手、馳出干城外、令発矢玉、味方
之壮士多以中之、被殺戮、寄手更不屈頻競攻之間
鶴沢己下引入干城中、中河山城守、中石見守、仙波
大炊介、同左馬介、二神越後守等先頭、抽無雙之
勲功、城兵又忘身命、雖防戦、寄手依大軍、既欲雌伏
干時従土州為援兵、元親之妹婿波田(川)玄蕃允
引率八百余騎馳来、土佐方執行加賀守、津野藤蔵等、
殊相戦有大功、頃世上巷説云、近日元親率大軍進発
干予州、可決智泰両家雌雄、之由、盟約波田(川)
己下云々、此儀城中之輩謀言而一旦欲令解寄手之囲
乎、実元親有出軍之志、兼命波田(川)己下乎、両儀
雖不分明万一元親進発討予州虚則頗可為危難、
急乞援兵於芸州攻落鴾森、元親来則可決雌雄群議、
以二神隼人佐為使節被遣(達)干芸州、仍為加勢
宍戸備前守隆家、吉川駿河守元春、小早川左衛門佐
隆景率中国勢一万余騎来加矣、又今岡、村上、忽那等
島方輩、為中国勢先陣、従喜多郡長浜馳揚、同向干
鴾森城、道路人屋為軍士破壊城兵宿虚為兵火焼失、
運命(名)限今日之由、山野庶民皆迷惑、馳走干東西
逃亡南北、宛不異泰項之災、中国三将進新手猛兵
囲四面攻戦之間、城兵雖勇猛力戦、対干寄手
則九牛之一毛也、韓将軍深慮項王猛気己尽、偏待元親
之出陣而己、雖然元親常予河野家不好闘戦、况於有
中国援兵哉、虚病而不出陣、於干此城中士卒失色労心
或遁或降、主将上総介直行依家臣等諷諌、悔前非而
降干軍門、仍為囚人直行兄被預大野山城守直昌、
又波田玄蕃允馳軍使於小早川申曰、乞自伏自刃、
以従兵等活命、隆景美讃彼勇、敢挙河野家、被宥波田
己下罪名、通直(江州)同被加潤色之詞畢、
波田乃入隆景之陣営而謝恩義、金吾乃対干波田言曰
元親不忘年来之好、被援助総州之条、是武夫(取)
所好也、蓋(取)正(者)兵取弓不攻正国云々、
予州者河野家累代領之、足撫民、元親豈有被存(為)
阿党哉、以後於被向兵於予州者、挙江智両家之大兵、
速討入干土州追退元親於山林、与鹿猿可令為同栖也
波田己下敬屈帰干土州矣、通直(江州)乃残止土居
兵庫頭通建於郡内、同廿三日令班師於湯築城給、
同廿七日隆家、元春、隆景等依被帰帆干芸州、
自屋形為南美作守通方於使節、各被進送鞍馬三(二)
疋砂金百両、三将己被進発之時、通直(江州)自為被
送之、欲令到干三津浜、途中於衣山、三将固辞不進、
頻以被抑留之間、被帰還訖、今日土居通建従郡内
還着矣、是依通直(江州)直命猶止干彼地、廻治国要
計而求家門安全凡此度合戦之間、雖多残党疑、刑者
可従軽之由有厳命、仍四面之綱解三面、是所世美讃
也、蓋彼直行者、故宇都宮遠州豊綱之婿而無双之勇
士也、仍遠州卒去之後、賜彼遺跡、住干地藏岳、
而後度々立戦功、終成郡内棟梁、兵権漸冠干等倫、
而近年向背累代恩家、随身長宗我部、将興其家、
謀侫無道、誰豈不悪之哉、天爰不罰之哉、既絶
累祖廿余代之勲蹟、而子孫恥千歳之面、可恐可慎焉、

同二年(天正)四月四日従道前飛脚到来曰去月廿九日
鷺森城主壬生川摂津守通国於壬生川万福寺行猿楽、
近辺(嶋)之諸侍悉群集、周布郡剣山城主黒川美濃守
(通博)嫡子宗太郎通長依摂州招、同来干彼寺、終日
催興成宴、到干晩刻告帰駕、亭主通国送之出干広縁、
干時通長抜腰刀、忽斬殺之、壬生川家人十余人
各把(抱)刃欲討宗太郎、黒河家人等又込入干門内、
双方交刃相戦、其間通長鞭干駿馬、入干榎木城、
壬生川家人一族等競集之間、黒河家人等忽敗走、
同遁籠干榎木城、仍摂州一族桑原三郎兵衛率家子
郎従五十余人囲榎木城、攻之事依起不意、城兵尤
少焉、終被攻敗而通長自殺矣、於干此通長父美濃守
通博率氏族家人百余人、馳来欲討捕桑原、競懸、
近辺輩称方人馳属干双方、累日挑戦雌雄未決云々、
仍為御名代、松末美濃守通為被発向干道前、双方
和解引退、後日賜摂州之名跡於桑原、移住干鷺森城
訖、

粤囚人大野上総介直行附預人山城守直昌有申旨、
悔先非降之上者、被宥罪蹟、可帰干本所之由、頻
令愁訴間、有其沙汰、依為御敵張本、速雖可被処
梟罪、被優舎兄城州之忠勤、宥死刑、而被附属城州
之寄騎、於小田山賜具足五両 一両分高六十六石
総州甚不足之、密相具妻子、赴干土州、与長宗我部
相謀、再欲帰干本領、元親乃許諾之、今年八月以
家臣西村左近為使節、送書於直昌云、

大野直行事、大洲城罷在候処、去年三月
対河野殿、有違命之事、為囚人貴殿へ被召
預候得共、恩許之上、思召ヲ以御近所へ
被召寄由、妻子を始家中之面々去故郷、
殊外及迷惑候付、忘身之科、却而貴殿へ
不足を申、其地を立退、当国江罷越、
我等を相憑(頼)候、直行一身之難儀
此事ニ候、御了簡之上、河野殿へ茂
御吹挙有之、先地へ御戻し給候様致度候、
依之使者を差遣候、委細西邨左近可申達候、
御執持(報待)申計候、  恐惶謹言

八月十三日 長宗我部土佐守元親

大野山城守殿 参

依之城州召集家子郎従等、相議此旨乃送返簡曰、

今度舎弟上総介不行跡之事有之ニ付、
加制詞候得者、其地へ欠込(落)、
貴殿を頼、我等へ詫申度よし(由)、
誠遠路御使過分之事候、我等心中之趣
委細西村へ申含候間、口上可申達候、
恐惶謹言

八月十七日 大野山城守直昌

長宗我部土佐守元親殿

同閏八月自元親重而差越西村於与州送和解之書曰

去頃御芳墨致被見候、今度直行心服御聞届
有之、御兄弟御和睦可有之旨、任其意候、
依之当月下旬於当国境目(同)引合申度候、
尤我等も致対面、隣国向後申合候、猶
西村口上可申達候,   恐惶謹言

閏八月六日 長宗我部土佐守元親

大野山城守殿

仍同甘五日可出対干伊豫土佐両国之境笹峠旨相約、
既及其期、長宗我部元親相伴直行、到干笹峠
浦見江坂、直昌者出干樋ケ崎、其間隔五十町許、
先馳使者賀之、而双方相対、干時土州隠兵二百余
人、従前後発鬨、飛炮突出、久万山勢大周章被疵
堕命輩、不知其数、就中直昌舎弟東筑前守并
喜土、樋口、土居、林、安持、荒川、近沢、以下
究竟之士七十余人、為(各)苦戦数回悉討死、
雖然直昌元来知勇超衆、更不労大敵之囲、
自先士卒兵法竭力砕骨挑戦之間、土佐方雖大勢也、
終被切崩敗走、直昌一族尾首掃部、尾崎丹波守、
日野九郎右(左)衛門等乗勝追北斬返、至干浦見
江坂東、各作勝鬨引退、土佐方討死之輩者、
長野兄弟、寺町左近己下雑兵凡八十余人也、
直昌討勝不意之戦、万死雖得一生、氏族家人等
大半討死被疵、相残輩者皆以老叟愚弱之者共、
而更不(非)可進前途之輩、独直昌雖有知(智)
不克(能)成焉、偏離竜雲如漂虎海、暗然懐欝胸而己


  • [3]
  • 討死者七拾余名はいずこへ?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)20時19分46秒
 
現在で分る限りの討死者の名を各種史料より抜き出し、冥福を祈ります。

【笹が峠の戦いでの討死した人々】

時 天正二年(1574)閏八月二十五日   場所 予土国境笹が峠(旧一丁原) 現 愛媛県 出典
当事者 大野直昌一統 対 長曾我部元親配下 (元親と大野直之がいたかは不明・長曾我部家沈黙す) 大野家 系譜
由 軍 聞 大 上 古
来 談 書 州 川 田
氏名 役職 続納 合併前現在地
1 大野 九郎兵衛(直周) 惣津城主 直昌弟 直澄継跡 直昌弟 (広田村) 有 有 有
2 土居 下野(守)通匡(方玄) 町村城主 直昌妹婿(姉婿) 直昌妹婿 (小田町町村) 仝 仝 仝
3 東筑前守(大野直勝) 赤岩城主 直昌弟 利直二男 (小田町寺村) 仝 仝 仝 仝
4 喜土(城戸)六郎(直泰) 竜王城主 直昌弟 (利直四男・城戸六郎直泰) (五十崎町) 仝 仝 仝 仝
5 大野 (立花)直澄 惣津城主 直昌兄 有 有
6 大野(城戸) 直盛 城戸六郎直泰息 (五十崎町) 有
7 尾崎七郎(直茂) (宇津城主) 利直娘婿 丹波守嫡子(直昌従弟) (小田町町村) 仝 仝 仝 有
8 (日野)林勘解由(直尹) 崎森城主 (野村町小屋) 仝 仝 仝
9 平岡 遠江守 (荏原)西町城主 (松山市荏原) 仝 仝 仝
10 曽根 七郎 内ノ子城主 (内子町) 仝 仝 無
11 荒川 大覚(学)武光 森城主 侍大将 大洲 (伊予郡双海町) 仝 仝 仝
12 山之内 肥後守(豊忠) 越木甫城主 (久万町西明神) 仝 仝 仝
13 明神 清右衛門(里籌) 葛掛城主 (松山市久谷) 仝 仝 仝
14 菅 内蔵之丞(義充) 若山城主 (面河村) 仝 仝 仝
15 越智 帯刀(通喬) 鷹〈森)城主 足軽大将 (美川村七鳥) 仝 仝 仝
16 武市 近江(近左衛門) 河原淵城主 (北宇和郡松野町) 仝 仝 仝
17 渡辺 左馬之介 池峠城主 大洲壬 (久万町野尻) 仝 仝 仝
18 鳥越 左門 勝山城主 御旗奉行 (久万町直瀬) 仝 仝 仝
19 船草 五兵衛 高藪城主 御鑓奉行 (久万町畑野川) 仝 仝 仝
20 大野 織部直年 尾首城 大野直幸長男 仝
21 大野 左馬直知 尾首城 大野直幸二男 無 無 仝 仝
22 山下 金兵衛 天神森城主 鉄砲小番頭 (久万町入野) 仝 仝 仝
23 鳥越 (高越)源八 鉄砲小番頭 仝 仝 仝
24 平岡 久太郎 鉄砲小番頭 大手(平)城右衛門倅 仝 仝 仝
25 石田 武兵衛(光賛) 上之段(付人)鉄砲小番頭 (直昌下屋敷) (久万町上畑野川真畑) 仝 仝 無
26 樋土 靭負 日振城主 仕置奉行 寺社家門 (宇和海村) 仝 仝 仝
27 樋土 次郎八 無 無 仝
28 近沢 左兵衛 亀カ城附人 御使番目付 (大洲市) 仝 仝 仝
29 安部 伊勢(守) 大森城附人 御使番目付 (三間町) 仝 仝 仝
30 浅井 重太(次)郎 森城附人 御使番目付 大洲壬 (宇和町) 仝 仝 仝
31 (日野)林 忠左衛門 御近習馬廻り 崎森城勘解由嫡子 (野村町小屋) 仝 仝 仝
32 川崎 左衛門 御近習馬廻り 河原淵城附人 (松野町) 仝 仝 仝
33 石丸 能登(守) 御近習馬廻り 仝 無 仝
34 吉沢 喜兵衛 御近習馬廻り 仝 仝 仝
35 安持 (左)馬之助 御近習馬廻り 仝 仝 仝
36 鎌田 甚八(六) 御近習馬廻り 尽カ城主 豊ケ森城 (大洲 豊ケ森) 仝 仝 仝
37 亀井 万作 御近習馬廻り (日振城 樋戸行兵衛付人) (宇和海村) 仝 仝 仝
38 今井 作右衛門 御小姓 無 仝 仝
39 篠塚 丹後(守) 御近習馬廻り 仝 無 仝
40 熊 権兵衛(康成) 御近習馬廻り(森ケ城) 総津山城倅  大洲壬 伊予郡山崎庄 仝 仝 仝
41 船草 民丸 御小姓 出羽守嫡子 仝 仝 仝
42 梅木 弥九郎丸 御小姓 馬之丞嫡子 仝 仝 仝
43 鶴原 仙重郎 御小姓 笠松城鶴原三郎兵衛嫡子 (久万町東明神) 仝 仝 仝
44 東 権之助 御小姓 佐兵衛嫡子 仝 仝 仝
45 西原 斉治 御小姓 高岸城 斉兵衛嫡子 近江守直好持侍 仝 仝 仝
46 小倉 八九郎 御小姓 居部野城 丹後嫡子 (小田中川) 仝 仝 仝
47 小倉 八十郎 御小姓  同 二男 (小田中川) 仝 仝 仝
48 曽根 宇(玄)兵衛 御勘定奉行 仝 仝 仝
49 鶴原 宇衛門 御勘定奉行 仝 仝 仝
50 吉沢 八郎兵衛 御勘定奉行 仝 仝 仝
51 吉沢 喜(善)兵衛(茂久) 御勘定奉行 郡代町改 君カ城主 (宇和町) 仝 仝 仝
52 林 清兵衛 御祐筆 仝 仝 無
53 林 清吉 御備御馬廻り組合 無 無 仝
54 窪 儀兵衛 御祐筆 仝 仝 無
55 樋口 喜兵衛 御台所頭御膳頭 仝 仝 無
56 山下 喜作 御台所頭御膳頭 仝 仝 仝
57 山下 宇八郎 御備御馬廻り組合 仝 仝 仝
58 重見 右衛門 御備御馬廻り組合 仝 無 仝
59 林 清吉(郎) 御備御馬廻り組合 仝 仝 仝
60 洞(泪)木 弥兵衛 御備御馬廻り組合 仝 無 仝
61 樋土 次郎作 御備御馬廻り組合 仝 仝 仝
62 加藤 武兵衛 御備御馬廻り組合 仝 仝 仝
63 和田 孫六 御備御馬廻り組合 仝 無 仝
64 矢野 加左衛門 無 無 仝
65 荒木 喜八 無 無 仝
66 中村 弥太郎 無 無 仝
67 馬場 市郎兵衛 無 無 仝
68 原 次郎八 無 無 仝
69 竹田 市郎兵衛(市左衛門) 無 無 仝
70 駒井 勘蔵 無 無 仝
71 神谷 勘右衛門 無 無 仝
72 黒川 久太郎 無 無 仝
73 野開 弥七兵衛 無 無 仝
74 山内(本) 左忠 無 無 仝
75 瀧口 惣兵衛 無 無 仝
76 向井 伊兵衛 無 無 仝

右討死六五人ノ人々笹ケ峠倛堂ト申所
葬リは墓所有リ 北平並■付近
現在の大野ケ原の写真をUPしこれらどこかに眠っていると思われます。

  • [2]
  • 笹が峠の首塚

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)20時02分53秒
 
併せて「笹が峠の首塚」と場所も修復しておきます。
まだ、この首塚と笹ケ峠の合戦の具体的事象は確認できていません。

  • [1]
  • 再び「笹ケ峠の合戦」へ

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 4月16日(土)19時45分29秒
 
地図が添付できませんでしたので再UPします。



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