• [0]
  • 予州 大野家について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月19日(火)05時46分48秒
 
近頃、予州大野家の関心が高まっているようなので別スレッドを立てます。
予州河野家メインのサイトなので今まで専用サイトは立ち上げませんでしたが、どうも隠れファンが多いようでこちらでやりとりしたいと思います。
予州大野家に関することはこちらに集約したいと思います。
今城(河野)さん宜しく御願いします。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [133]
  • 大除城実測図

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月30日(水)10時55分59秒
 
今城師の情報により、現在の大除城の実測探査のこと。
ようやく昨日、久万高原町教育委員会の厚志により実測コピーを送付してもらいました。

七郭まである当時としては大規模な「掻き揚げ」形式の実態でした。
640M付近の空堀から694Mの最高度第一郭までおよそ50Mの急峻な崖が自然の防衛線となった感じです。
通常の侵入路が一本しかないのも堅固さを物語っています。
第一郭(天守台相当)の平地が凡そ180坪相当の平地と見られ、その他の郭平地を含めて1000坪前後
の平地に削った模様である。山をけづり1000坪の平地を造成する手作業は相当な労力を必要した
ものでしょう。

風雲急を告げる天文4年(1535)大除城は大修造を行なったとされます【大野家文書】その場所が
どこであったのかこの実測図では判明しません。石組み等の工法を検証すれば判るかもしれません
今後の研究が待たれます。
同年は【国分寺文書】【仙遊寺文書】によると河野家本城でも「湯付堀」の修造が行なわれ
「二重堀化」し要塞へ強化されたとされるので、当年の伊豫の主要な城は大修造が行なわれたと
思われます。他の拠点城の大普請の記録を並べると誰が何処から伊豫河野家所領に攻め入るかの
想定が伺われると思われます。

なおこの大除城の大改造をもって、河野関係文書は河野家の指示で配下の大野家へ土州境の守り
として城を築かせ、「災いを大いに除く」とし「大除城」と命名したと江戸期の書物あたりに伝承して
いったものと思われます。大除城は大野文書は「熊大代家城」と識別します。

大代家城は河野家の配下ではないはるか昔に築城されています。
「予陽河野家譜」や「予章記」は罪つくりです。



  • [132]
  • Re: 小野宗十郎直徳について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月 8日(火)14時52分5秒
 
> 年譜は手元にありますので、本日郵送させていただきます。私では気づかない新たな発見があるのではと思います。

●いつもながら有り難うございます。楽しみです。

> 【小野宗十郎直徳】についてですが
> (1764・9 ~ 1831・3・10)
> 土佐名野川郷番頭大庄屋の7代目
> 墓碑銘 『伊予国浮穴郡久万庄大除城主 大野紀伊守利直十二代後胤 68歳』
> とあるようです。ただ、利直を初代とするなら、十一代目になると思いますが・・・。朝直(直家)、利直あたりの混乱なのかもしれません。
>
> 直徳の通信相手は以下の面々です。
> ①大野正寛(松山大野家)
>   伊賀崎城主直泰の子孫で松山候に仕官。文政5年(1822)に直徳と謁見の後、通信
>
> ②大野義雄(彦根藩大野家)
>   直昌の息、利盛の子孫。文政11年(1827)通信
>
> ③天野屋九兵衛直興(大坂)
>   直昌の息、直常の子孫。文政6年(1823)通信
>
> ④大野直壽(伊予小田上川村大野家)
>   直昌の息、直清の後裔で大野(大伴姓)和五郎直尚の孫。
>     直徳は、直壽が当主の時に上川村大野家の系図を転写しています。
>     名野川大野系図には『文政5年直徳通信 右同年初而謁見家系書写ス』とあります。
>
> ⑤紀伊徳川家中の大野(菅田)家と通信していたかは不明ですが、子孫の情報が加筆されています。

●上記の情報で点が線でつながり始めましたね。

 少なくても直徳は親族五家の住所と当主の名を知っていたことになりますから戦国期から200年以上
 経っても付き合いはしていた証拠となりますね。江戸の大野家も屋代島大野家、徳山大野家、
 福岡大野家の消息も知っていたと想像されます。屋代島大野家には大野直尚が直接たづねて行って
 ますから上川村大野直壽から知らされていたと思われます。

 大坂天野屋の直興は私には初見ですが、たぶん 天野屋周蔵の孫でしょうね。
 大坂天野屋探索中ですが勉強になります。大坂天野屋子孫は現存するとされますのでまた一歩
 近付きました。忠臣蔵義商天野屋利兵衛(九郎兵衛直之)は討入りに連座し閉門となるとされますの
 で現天野屋は彼の弟、三郎兵衛が引き継いだものと推定しています。その子孫が直興なのでしょう。

 彦根藩の大野義雄は大野清兵衛一載の養子の義雄でしょうね。

 紀州徳川の大野(菅田)家とも連絡はとっていると思われます。この場合相手は、
 菅田九郎右衛門直次(1796~1837.2/3)病死 か
 菅田源吉直貞(1773~1847.6/28)病死
 と思われます。

 それぞれの書簡の内容がわかればもっと面白いのですが。

 大野正寛はよくわかりません。



  • [131]
  • 小野宗十郎直徳について

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 5月 8日(火)11時36分48秒
 
呑舟様
ご質問が多くて浅学の私にはお答えできないことばかりのようです。
小野(片岡)勝正と豊川良平の年譜は、山内家史料として蔵置されているもので、内容の真偽は一考を要しますが、一次史料と言ってよいものと思います。呑舟様の探究心にはいつもながらハッとさせられることばかりです。
年譜は手元にありますので、本日郵送させていただきます。私では気づかない新たな発見があるのではと思います。

【小野宗十郎直徳】についてですが
(1764・9 ~ 1831・3・10)
土佐名野川郷番頭大庄屋の7代目
墓碑銘 『伊予国浮穴郡久万庄大除城主 大野紀伊守利直十二代後胤 68歳』
とあるようです。ただ、利直を初代とするなら、十一代目になると思いますが・・・。朝直(直家)、利直あたりの混乱なのかもしれません。

直徳の通信相手は以下の面々です。
①大野正寛(松山大野家)
  伊賀崎城主直泰の子孫で松山候に仕官。文政5年(1822)に直徳と謁見の後、通信

②大野義雄(彦根藩大野家)
  直昌の息、利盛の子孫。文政11年(1827)通信

③天野屋九兵衛直興(大坂)
  直昌の息、直常の子孫。文政6年(1823)通信

④大野直壽(伊予小田上川村大野家)
  直昌の息、直清の後裔で大野(大伴姓)和五郎直尚の孫。
    直徳は、直壽が当主の時に上川村大野家の系図を転写しています。
    名野川大野系図には『文政5年直徳通信 右同年初而謁見家系書写ス』とあります。

⑤紀伊徳川家中の大野(菅田)家と通信していたかは不明ですが、子孫の情報が加筆されています。

ご存知のように、土佐名野川大野系図は出自が大友皇子ではなく、高皇産霊尊へ編集されています。編集時期は、直徳が大伴姓紀伊守利直の子孫であることを認識していることから、系図を転写してから死亡するまでの間と考えております。土佐桐見川大野系図の出自は大友皇子のままなので、この土佐大野系図2本の関わりは興味深いものがあります。
直徳が、上川村大野家の古文書をも転写して所持していたことが推測できる記事が地方史にありました。彼が残していたであろう覚書などを探索していますが、いまだその所在が掴めていません。


  • [130]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月 6日(日)11時06分17秒
 
●詳細な内容有り難うございます。

 小野勝正以降が混乱しているようですね。
 養子に行ったり復姓したりで流れが複雑になっているようですね。

『 ①小野(片岡)庄左衛門勝正
(~1719・10・10)
 片岡家へ養子・郷士召出
 山内豊隆御用人・住城下
 弐人扶持切米七石 』

この人から一次史料を探さないとなんともいえませんね。
「片岡家なるものはどのような家でしょうか?
 なぜこの時代に郷士召出されたのでしょうか?
 山内豊隆御用人とあるが事実かどうか?
 (ニ人扶持切米七石)とは領地はなく七石のサラリーでしょうから
 とても貧乏です。御用人とは思えません。陪臣の可能性が高いですね。
 されど帰農者が郷士とはいえ士分に格上げですから当時からすれば出世頭かもしれません。

 これが片岡家養子として成ったことか小野勝正として成ったことかが知りたいところです。
 山内家家臣であれば末端といえども禄を食みますから史料は残っている筈ですが・・・。

次に勝正の長男とされる為憲ですが、両人とも大野家「通字」の「直」でないことは
片岡家の通字を使用した可能性がありますので、勝正には養子に行く前に「直○」といった
初名がある筈なのですが・・・。
また勝正は長男に大野家長男の名乗り「九郎兵衛」を付けていますから大野家の伝統は守っていますね。

『権蔵
 諏訪家継グ・住安喜浦
 文政6年小野敬蔵(慶蔵?)謁見直徳/豊川良平の「指出し年譜」には先祖が諏訪家とあるが詳細は不明』

この人物はよくわかりません。
「謁見直徳」の直徳とは誰のことでしょうか?

豊川良平の「指出し年譜」の年譜はどこに差し出したのでしょうか?
現物は残っているのでしょうか?



『②小野九郎助為憲
(~1763・12・2)
 前名・片岡九郎兵衛
 小野姓ニ復ス』

これはどのような事情で復姓したのでしょうね?



> >美和の祖父、小野作吾を小野権蔵の子とするものと、小野直之の子とするものに系図により別れますね。どちらが正しいのでしょうね。
>
> ●小野直之の子と記述したのは、地元の郷土史家K氏ですが、問い合わせたところ「間違いでした」という回答をもらいました。K氏は根拠となる史料をお持ちでないようです。小野直之は大野直之の7代後裔です。
>
> 大洲城主、大野直之―(4代略)-小野勝正-為憲-直之(養子)-好直-(後略)
>
> では、小野作吾が権蔵の子であるかというと、これを断言できる史料を今のところ私は見たことがありませんが、土佐名野川の研究家N氏はそのように解釈しています。問い合わせてもN氏から明確な説明がないので、私なりに史料を検索した結果、『美福門院手記』(美和の回顧録)と弥太郎の従弟・豊川良平(前名、小野春弥)の差出年譜(明治4年)に行き当たりました。小野作吾が美和の祖父であることは、彼女の回顧録から間違いないことです。以下少々込み入った話になります。
>
> 豊川氏年譜によると、初代から4代目までは敷地姓です。
> 5代目が元禄2年(1689)諏訪姓へ改姓します。
>
> 6代、小野左太郎(養子) 享保3年(1718)相続
>
> 7代、諏訪作吾 元文5年(1741)相続、改姓して小野作吾。地下浪人で安芸浦西浜住、寛政10年(1798)病死
>
> 8代、小野慶蔵 寛政10年(1798)相続、文政10(1827)病死
>
> 9代、小野順吉 文政10(1827)相続、慶応元年(1865)病死
>
> 10代、小野春弥(順吉養子) 相続。 明治4年豊川良平と改名
>
> 美和の回顧録では豊川良平は、彼女の弟・篤治の子であり、兄順吉の養子です。
>
> 土佐名野川大野系図では、「小野勝正の子・権蔵が諏訪家を継ぐ」とあり、年代的にも符号すると思われるので、諏訪家6代の小野左太郎が権蔵のことではないだろうか、ということになります。権蔵の別称が左太郎であるという史料をみたことがないので推測に過ぎません。系図上は以下のようになります。
>
> 為憲の弟・権蔵(左太郎か?)-作吾-慶蔵-順吉・とき・美和・篤治
>
> 美和の子が岩崎弥太郎、篤治の子が豊川良平(小野春弥)で順吉の養子です。

●上記がややこしいですね。美和の祖父作吾は直之の子か権蔵の子かはたまた「養子」か
 紐解く必要がありそうですね。複雑になってはいますが、どちらも間違いでもなさそうです。
 「美和の手記」の信頼性は精々祖父までと思われます。
 我々もそうですが祖父まではほとんど記憶にありますが、曽祖父は殆ど相手が死んでいるか
 こちらが幼なすぎるかで記憶に残らず伝承のうろ覚えです。

> 補足情報として、名野川小野家出身の歌人・大町桂月が学生の頃、豊川氏の家紋を見たとき、小野家と同じだったので同族だったのだなと回顧しています。「横木瓜二引き」だったのでしょうね。また、刊本「豊川良平」では、豊川氏を大洲城主の大野直之、さらに大伴家遠祖・道臣命の血統を引く名家の末裔であると記しています。

●刊本「豊川良平」も変な話しですね。
 これの筆者は誰でしょう?現代の人ではないでしょうか?

古い大野系図の殆どは始祖を「天智天皇の御子、大友皇子」に求めます。
決して道臣命の流れである「大伴家」で始まるものは例外的に「系図纂用・内閣文庫」と
「東大史料編纂所」所収の「大野系図菅田本」しかありません。この本も江戸末期か
明治初期の編纂物の可能性が捨て切れない代物です。
よってこの刊本は我々と同じ現代の知識で書かれたものではないでしょうか?

> 「弥太郎が大野直之の血統を引く」という周辺情報は揃っていますが、伝記や系図に頼りすぎていて、根拠としては弱いですね。やはり過去帳やお墓の調査が必要でしょう。どなたか情報をお持ちの方が、この記事に対してコメントしてくださることを願うしだいです。
>
> ●美和の子供たちは4人のようです。
> こと  (1832.4.14~ )
> 弥太郎(1834.12.11~ )
> さき  (1838~ )
> 弥之助(1851~ )妻は後藤象二郎の長女です。
>
> 美和の少女時代の奉公先、五藤正応がどういう人物か知りませんが、土佐藩家老の五藤一族かもしれません。
> 笑止な話をひとつ
> 美和と、岡本寧浦の妻となった姉「とき」を自家の系図に取り込み、兄弟の順吉、篤治は架空の人物であるという持論を、土佐史談に発表した方が過去にいました。有名人は確かに引っ張りだこですね。(ため息~)

●歴史上の有名人でかつ維新に志士たちもからんでいますので史料はたくさんあると思います。
ただスポットの当て方が違うので見過されているだけと思います。

たとえば「弥之助(1851~ )妻は後藤象二郎の長女です。」
の記事は歴史的には大変です。

岩崎弥太郎、後藤象二郎、坂本竜馬は明治維新史を知る者は格好の素材です。
この相関関係の中に弥之助が出てきますので史料はたくさんあると思われます。
ただ一般的には一番のヒーロー「坂本竜馬」に目が行きがちですね。

余談ですが現在でも彼を信奉する信者は会社のマークに彼の「海援隊」のマークを借用します。
携帯電話の会社の「ソフトバンク」なるものです。「二引き紋」が好きなようです。
もっとも岩崎弥太郎も三菱の社章に主家「山内家」の家紋と自家の「菱紋」とを合体させますので
いつの世も同じですかね。

近頃は竜馬にあやかろうと「船中八策」なる現代版を掲げる大坂市長も出てきましたね。
これに慌てふためく政府も野党自民党のていたらくは政治不信をあおりますね。

{ばっかでないの?}笑い

高知県の最大ヒーローは「坂本竜馬」のようですが、同胞、山口県はの最大ヒーローは
毛利公でも、高杉晋作でも伊藤博文でもありません。

すべての県民が「先生」として敬愛する『吉田松陰先生』です。

 【松陰先生無かりせば明治維新ははるかに遠し】

  • [129]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 5月 5日(土)18時11分26秒
 
>>128

呑舟様、お返事が遅くなりました。

>美和の祖父、小野作吾を小野権蔵の子とするものと、小野直之の子とするものに系図により別れますね。どちらが正しいのでしょうね。

●小野直之の子と記述したのは、地元の郷土史家K氏ですが、問い合わせたところ「間違いでした」という回答をもらいました。K氏は根拠となる史料をお持ちでないようです。小野直之は大野直之の7代後裔です。

大洲城主、大野直之―(4代略)-小野勝正-為憲-直之(養子)-好直-(後略)

では、小野作吾が権蔵の子であるかというと、これを断言できる史料を今のところ私は見たことがありませんが、土佐名野川の研究家N氏はそのように解釈しています。問い合わせてもN氏から明確な説明がないので、私なりに史料を検索した結果、『美福門院手記』(美和の回顧録)と弥太郎の従弟・豊川良平(前名、小野春弥)の差出年譜(明治4年)に行き当たりました。小野作吾が美和の祖父であることは、彼女の回顧録から間違いないことです。以下少々込み入った話になります。

豊川氏年譜によると、初代から4代目までは敷地姓です。
5代目が元禄2年(1689)諏訪姓へ改姓します。

6代、小野左太郎(養子) 享保3年(1718)相続

7代、諏訪作吾 元文5年(1741)相続、改姓して小野作吾。地下浪人で安芸浦西浜住、寛政10年(1798)病死

8代、小野慶蔵 寛政10年(1798)相続、文政10(1827)病死

9代、小野順吉 文政10(1827)相続、慶応元年(1865)病死

10代、小野春弥(順吉養子) 相続。 明治4年豊川良平と改名

美和の回顧録では豊川良平は、彼女の弟・篤治の子であり、兄順吉の養子です。

土佐名野川大野系図では、「小野勝正の子・権蔵が諏訪家を継ぐ」とあり、年代的にも符号すると思われるので、諏訪家6代の小野左太郎が権蔵のことではないだろうか、ということになります。権蔵の別称が左太郎であるという史料をみたことがないので推測に過ぎません。系図上は以下のようになります。

為憲の弟・権蔵(左太郎か?)-作吾-慶蔵-順吉・とき・美和・篤治

美和の子が岩崎弥太郎、篤治の子が豊川良平(小野春弥)で順吉の養子です。

補足情報として、名野川小野家出身の歌人・大町桂月が学生の頃、豊川氏の家紋を見たとき、小野家と同じだったので同族だったのだなと回顧しています。「横木瓜二引き」だったのでしょうね。また、刊本「豊川良平」では、豊川氏を大洲城主の大野直之、さらに大伴家遠祖・道臣命の血統を引く名家の末裔であると記しています。

「弥太郎が大野直之の血統を引く」という周辺情報は揃っていますが、伝記や系図に頼りすぎていて、根拠としては弱いですね。やはり過去帳やお墓の調査が必要でしょう。どなたか情報をお持ちの方が、この記事に対してコメントしてくださることを願うしだいです。

●美和の子供たちは4人のようです。
こと  (1832.4.14~ )
弥太郎(1834.12.11~ )
さき  (1838~ )
弥之助(1851~ )妻は後藤象二郎の長女です。

美和の少女時代の奉公先、五藤正応がどういう人物か知りませんが、土佐藩家老の五藤一族かもしれません。
笑止な話をひとつ
美和と、岡本寧浦の妻となった姉「とき」を自家の系図に取り込み、兄弟の順吉、篤治は架空の人物であるという持論を、土佐史談に発表した方が過去にいました。有名人は確かに引っ張りだこですね。(ため息~)


  • [128]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月29日(日)10時53分57秒
 
NAOKO様

岩崎弥太郎(三菱創始者)の母、小野(大野)美和を「大野家大系図」に書き込もうとしましたら、
系図上混乱を起こしていますね。
美和の祖父、小野作吾を小野権蔵の子とするものと、小野直之の子とするものに系図により分かれていますね。
どちらが正しいのでしょうね。

史料が少なくて分りにくいのでしょうね。

検証のため時間軸で小野美和を中心に考えてみますと
彼女は1814年7/20日誕生(太陽暦だと9/3日誕生)とされます。
1827年に父小野慶蔵が死ぬと、貧乏だったのか後藤正応家に13歳で奉公に出されたとされます。
この後藤正応とは如何なる人物か分りませんか?
その後、美和が17歳になった1831年に弥太郎の父、弥次郎と結婚したとされます。
その4年後に弥太郎を生んだとしますから、その間、「水子」もありそうですね。

吾川村大野(小野)系図の方が時代的に一代、変ですね。

系図と云うものは得てして『有名人』は系図に取り込もうとするものですが、小野美和が岩崎弥太郎の母と
記していないのは外戚と思っていなかった人が後世系図に書き込まなかったのかとも思われます。

小野慶蔵とその父、祖父の情報を捜す必要がありそうですね。
この場合、「系図」よりも「過去帳」のほうが信頼性が高そうですね。両人の墓や菩提寺が分れば手がかりがでそうですね。

三菱財閥の総力を挙げて、創始者岩崎弥太郎のルーツ探しをした形跡はありますが、弥太郎の母方は小野慶蔵
までで終っています。まさか、戦国伊豫の風雲児、大津(大洲)城主大野直之に繋がるとは誰も想像しなかった
のでしょう。

この履歴情報を持っているのはNAOKO氏とその情報を受けた私ぐらいしか現代ではいないのでしょうね(笑い)

超有名人「岩崎弥太郎」関連でもこの程度です、歴史は忘却される運命かもしれませんね(はあ~)

  • [127]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)21時18分50秒
 
大野直常が大坂の天野屋養子として引き取られたことは分ったが大坂のどこか未だ分らない。
これについては「屋代島大野家譜」は大野九郎兵衛直實の子として
「天野屋九兵衛子孫摂州大坂上平野町に住す」とある。父親の名は混乱と思われるが住所はわかった。

この「大坂上平野町」が何時の時代のどこか精査の必要はあるが、豊臣末期か徳川初期の大坂は「東横堀」に
平野橋があり、その大坂城よりの初期の市街地の一角と思われる。その隣りの橋が思案橋で、「難波雀」に出てくる「天野屋利兵衛」の住所「思案橋濱」の住所とほぼ同じである。先日のオークションの古文書には寛政七年
時には「内平野町濱内」と記されるがこれもほぼ同一場所と思われる。この時は屋敷の広さは南角で「表口十五間
裏行凡十六間」とあるので250坪近い商家としては大店である。

平野町とは秀吉時代に「平野郷」の商人を集めて住まわせたとされる古い商人街であり
大坂城下内にある。
本来の「天野屋」は平野郷の住人「天野さん」だったのかも知れない。
彼の通しの名が「利兵衛」と思われるが「直常」以降は「利平衛」と大野家通し名「九郎兵衛」が
併用されている。赤穂浪士討入り時の天野屋は利兵衛ではなく九郎兵衛である。

新しい「弘化年間の大坂絵図」ですがUPしてみましょう。見づらいですが、
淀川にかかる天神橋の下に「東横堀」が掘られ淀川側から三番目の橋が「平野橋」その次が「思案橋」です。
この堀は「長堀」を経て「道頓堀」までつながります。今は東西横堀も長堀も埋め立てられわづかに
「道頓堀」を残すのみです。
初期のころは天神橋筋が商業の中心でしたが、江戸中期から東西の御堂が見える「御堂筋」が一等地と
なり現在では御堂筋両側が一流企業の集結地となりました。
金持ちが接待に使う「北の新地」と庶民の味方である南の道頓堀、宗衛門町を北と南に結ぶのが
地下鉄御堂筋線で、本町あたりで右にいくか左に行くかが懐具合との相談です。

  • [126]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)12時20分27秒
 
さてオークションの話はさておき、本題に戻ろう。

大坂・天野屋が何故伊豫大野家と関係するかは諸大野系図の記述によるものです。曰く

【大洲大野系譜】
直常 (1583~1660)
・母 宇都宮遠江守元教女 *豊綱ナラン
天正十一年(1583)癸未年正月十七日
於久万城誕生 *大除城カ
万治三(1660)庚子年四月廿八日卒
齢七十八歳
天徳院殿圭厳常白大居士
(注)宇都宮朝子・一条内政の胤カ

【大野系図讃岐屋本】
直常
 母宇都宮遠江守元教之女也
 天正十一(1583)癸未年正月十七日
 於久万城誕生 童名熊丸 父直昌
 退干芸州竹原而後豫州松山天徳寺
 寄宿干時九歳也
 大野家出入之町人天野屋九兵衛説
 干熊丸而大坂表江同伴 其時之和尚
 為餞別本尊像中秘蔵之唐絵ノ布袋一幅
 被送之 其後為養子継屋号九兵衛
 此画干今家蔵也 万治三(1660)庚子
 年四月廿八日卒去 齢七十八歳
 號天徳院殿圭厳常白大居士
 大坂九條邑竹林寺葬之
 熊丸実土佐一條殿内政郷之胤也
 母懐胎之時長曽我部元親起逆意内政
 郷以毒為殺逆 土州奪押領因慈父
 父宇都宮元教帰干舘當家直昌娶之
 其時契約状曰 若男子於出産者可為
 大野家家督 同姓家臣十人為連判
 然后左巴紋付銀鏡 信国之薙刀
 馬角牛王等並元教家督被譲請故雖
 大野氏宇都宮モ名乗也

【土佐桐見川大野系図】
直常
熊丸
天正十一癸未年正月十七日誕生干大除城
母宇都宮豊綱娘章子 實者一条内政胤成
土佐一条内正與波川玄蕃有陰謀而欲失元親
干時謀計露見而内政捨於豫州此時宇都宮豊綱
居干母居島
 旬余にして豊綱の女を娶る、豊綱と内政は深く元親
を恨み竊に元親を討つことを謹じ=転記モレ)
内正到宇都宮(宇和郡カ)棚井坂戸
以旧臣窺於元親虚叓発覚而内政為元親被鴆
因茲内政室帰與干母居島干時懐胎而再嫁
大除城主直昌而男出生謂直常
大坂天野屋為元祖矣也
萬治三年子四月廿八日卒
天徳院殿主厳常白大居士

【大野家譜上田本】
直常
・熊(王)丸
・天正十一年(1583)正月十七日大除に生る。
 母宇都宮豊綱女章子、実者一条内政の胤なり。
・土佐一条内政 波川玄蕃と陰謀有り、元親を失わん
 とする時、謀計露顕して内政を予州に捨つ、この時
 宇都宮豊綱母居島に居り、内政彼の島に居ること
 旬余にして豊綱の女を娶る、豊綱と内政は深く元親
 を恨み竊に元親を討つことを謹じ、内政宇和郡棚井、
 坂戸に到り旧臣を以て元親の虚を窺うこと発覚して
 内政元親のために鴆せられる。
・因って内政の室は懐胎して母居島に帰る、大除城
 直昌再嫁して男子出生、直常という、
 大坂天野屋の先祖となる。

それぞれの系図は若干の異同はあるが直昌嫡男(本当の嫡男は廃嫡・讃岐屋本によれば彼が大坂夏の陣の
道明寺合戦で討死)直常(熊王丸)は天正15年の河野通直竹原落去の節、父直昌の同行に伴い母とともに
竹原に行き、父が天正17年に同地にて卒去するや、松山・天徳寺(河野家ゆかりの寺で当時河野家遺臣の
拠点寺)に戻り養育され、後に大野家出入りの大坂商人天野屋に連れられ大坂へ行き、天野屋の跡を継ぐ
と説明する。

ここで直常の母は宇都宮(豊綱)の娘とされ、これは明らかに政略結婚で、直昌は本来の室と嫡男を排除し
宇都宮の娘、土佐一条家を離縁された娘とされ直常の実の父は一条であるとされる。それでも室として迎え
直常を嫡男と定め直すのに一族の親族会議を経て行なわれたことは宇都宮家を併合することを狙ったもので
ある。この時より、大野、宇都宮両家を名乗ります。

これを傍証するのが、
【大洲宇都宮系譜】 (大洲宇都宮圓所蔵)
豊綱・・・・・・女子 章子
 一条内政公北方公薨去之後、
 大除城主大野山城守直昌ニ再縁
 天正十壬牛年

とある。時期的には若干の異同はあるが相手方系図にも記載があることは史実なのであろう。
ここで、後世混乱するのは、大津城主で直昌の弟である直之(直行)の室も宇都宮の娘であり
この両者の混同が混乱させている。どちらが姉か分らぬが姉妹なのでしょう。
名前の章子が双方に使われ混乱に拍車をかけています。朝子なる説もあり。

彼の同腹妹が後に高仁親王の乳母として昇殿した正智院妙蓮とあります。
この記事も後に難儀となる表現です。



  • [125]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)07時20分17秒
 
黒川さん

そうですね。落札できなくてもさほど問題はありませんね。
ほとんどが偽物とわかりますが、本物の現物だと武吉書簡のように28万円程度はするのでしょうね。
これが公的な文書館だとその10倍以上の金で入手するようです。税金を使う人たちは気が楽です。
能島村上家の本物の文書はまだたくさん屋代島の村上一学家に残っているようです。
大半は村上水軍の博物館に寄付したようですがまだまだたくさん残っているようです。
問題は宗家村上図書家の文書がどこにあるかが不明です。山口県文書館にあるとされますがあれは殆ど写しです。
最後の殿様村上兼助が東京に移住するとき必要最低限だけ持っていったと思われます。
残りは殆ど反古として処分されたようです。一部残されている場所は判っていますので、その内私が貰って
こようと思っています。
オークションで別に欲しかったのが「伴大納言絵詞」と「神姓大伴系図」でした。
前者は大正8年の模写のようでしたが、綺麗に書かれていました。
伴大納言は伊豫大野家遠祖大伴家の分家で応天門の変で没落させられた家です。
神姓大伴系図は滋賀の大伴末裔家のようで後に設楽や冨永として尾張に移住する過程がわかりそうでした。
こちらは部分しかUPがなく肝心の所は見れませんでした。
トミナガを富永ではなく冨永と正しく書いてあるので本物のようでした。ただ編纂が江戸期のようで
中身の情報の伝来性はイマイチでした。
こちらの冨永の分家が伊豫の冨永のようで、後に伊豫大野に改姓した可能性があるのですが。
系図情報はよくわかりません。

  • [124]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)06時11分35秒
 
呑舟さん。
  むしろ、落札できなてよかったとおもいます。
  時間ギリギリで値段が上がるのは、オークション
  の特徴です。(人間の負けん気がでるのです)
  たまに、本物と思われるのも出ますが、今は
  皆無(殆どが写しか造作物と思われます)
  今でも浪士関係文章多く売りに出てますが、
  本物なら、大変ですね!(特に業者は注意)
  骨董・美術・などは要注意です。あくまでも
  参考までにが良いと思います。
  先日、愛媛新聞で、村上武吉の文章を29万で
  東京から買った記事がでてましたが、本物と判れば
  それくらいの値段が付くのではと思います。

>>123
> 黒川さん
>
> 落札は出来ませんでしたがお知らせ頂いたことでCOPYは撮ることが出来ましたので
> 内容のチェックは出来ますので助かりました。
>
> 唯、後で論証をする時に現物がないと推論の域を出ないことになり論拠が脆弱になることは
> 否めません。かの書は偽書ながらも内容的には事実を含んでおり切り捨てるには惜しい内容
> でした。
> もっともあの落札者は出品者自身と思われますのでほとぼりが覚めたら又、出品してくる気が
> します。どうもNETオークションは変な使われ方を業者にされている印象です。
> 暇つぶしに同時に4点応札しましたが、いづれも最後の5分で同様な手口で値がつりあがり
> 落札にはいたりませんでした。大半が引っ掛け業者のようで素人は気をつけないととんでもない
> ものを高値で掴まされそうですね。返品不可と但書きしている出品者は要注意ですね。

  • [123]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)01時30分0秒
 
黒川さん

落札は出来ませんでしたがお知らせ頂いたことでCOPYは撮ることが出来ましたので
内容のチェックは出来ますので助かりました。

唯、後で論証をする時に現物がないと推論の域を出ないことになり論拠が脆弱になることは
否めません。かの書は偽書ながらも内容的には事実を含んでおり切り捨てるには惜しい内容
でした。
もっともあの落札者は出品者自身と思われますのでほとぼりが覚めたら又、出品してくる気が
します。どうもNETオークションは変な使われ方を業者にされている印象です。
暇つぶしに同時に4点応札しましたが、いづれも最後の5分で同様な手口で値がつりあがり
落札にはいたりませんでした。大半が引っ掛け業者のようで素人は気をつけないととんでもない
ものを高値で掴まされそうですね。返品不可と但書きしている出品者は要注意ですね。

  • [122]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 4月23日(月)19時05分56秒
 
呑舟さん
 お疲れ様でした。かなり、奮発しましたね。真贋は大体解っていましたが、
 少しでも、未知の事柄が書いてあればと思い連絡差し上げました。
 でも、値段すごいですね!私も一柳直郷の書なるものを、落札しましたが、
 真贋は不明です。自己満足の世界。。
 これも考えようで、私みたいにに、やつれた車やバイク好きな者には、
 もう、販売されていない部品などが、手に入る恰好の漁場ですね!
 いつも、サーフしています。お陰さまで、30年前の車は今も健在
 で現役です。
 呑舟さんの今後の研究に期待します。



>>121
> 黒川さん案内のヤフーオークション「天野屋利兵衛直之」の肉筆文書は締め切り間際で高額に跳ね上げられて
> 落札できませんでした。文書の中身は全くの「偽書」であることは最初から判っていましたが、文の内容と紙質
> と筆の濃淡が気になり安ければ買おうかなと思ったのですが、最後の5分間で倍近い入札をしたのは売りたくない
> 提供者の知恵と判断しました。五千円以上なら月々350円の手数料を払えとする「ヤフーJAPAN」の商売は
> 小銭稼ぎで大王になったのがよく判りました。これだけで数億円の利益がでますね。
> 「ヤフーオークション」はあまり素人が手を出してはいけないことがわかりました。勉強になりました。
>
> 愚痴はさておき、何年も前から「大坂天野屋養子となる戦国末期の大野直昌嫡男、直常」を再度この競売を
> きっかけに追ってみたいと思います。
>
> 尚、天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之は、大野直常の3~4代目で、「忠臣蔵」時代の赤穂藩家老
> 大野九郎兵衛知房と同年代です。二人は伊豫大野家一族と認識していた上で行動していたとするのが私の
> 考えです。
>
> どちらの人物も一次史料が足りません。今回のオークション文書は参考になりました。
>
> 「忠臣蔵」で吉良邸に討入りの大半は茨城県真壁や笠間から播州赤穂に引っ越してきた人たちばかりで
> 私の推論の伊豫出身と思われる経済家老の大野九郎兵衛知房とは意思疎通も芳しくなかったのではないかと
> 思われます。
>
> 「だっぺ」言葉の茨城と「あもしとなもしはちがうぞなもし」の伊豫と、赤穂旧住民は「大坂弁なまり」の赤穂
> ではコミニュケーションも大変だったと思われます。
>
> 今でも「こわい」と真壁・笠間の人が言えば、一般的な(怖い・恐い)の意味ではなく「疲れた」の意味で
> すので???となります。
>
> 天野屋利兵衛に少しづつ迫りたいと思います。

  • [121]
  • 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月23日(月)02時49分40秒
 
黒川さん案内のヤフーオークション「天野屋利兵衛直之」の肉筆文書は締め切り間際で高額に跳ね上げられて
落札できませんでした。文書の中身は全くの「偽書」であることは最初から判っていましたが、文の内容と紙質
と筆の濃淡が気になり安ければ買おうかなと思ったのですが、最後の5分間で倍近い入札をしたのは売りたくない
提供者の知恵と判断しました。五千円以上なら月々350円の手数料を払えとする「ヤフーJAPAN」の商売は
小銭稼ぎで大王になったのがよく判りました。これだけで数億円の利益がでますね。
「ヤフーオークション」はあまり素人が手を出してはいけないことがわかりました。勉強になりました。

愚痴はさておき、何年も前から「大坂天野屋養子となる戦国末期の大野直昌嫡男、直常」を再度この競売を
きっかけに追ってみたいと思います。

尚、天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之は、大野直常の3~4代目で、「忠臣蔵」時代の赤穂藩家老
大野九郎兵衛知房と同年代です。二人は伊豫大野家一族と認識していた上で行動していたとするのが私の
考えです。

どちらの人物も一次史料が足りません。今回のオークション文書は参考になりました。

「忠臣蔵」で吉良邸に討入りの大半は茨城県真壁や笠間から播州赤穂に引っ越してきた人たちばかりで
私の推論の伊豫出身と思われる経済家老の大野九郎兵衛知房とは意思疎通も芳しくなかったのではないかと
思われます。

「だっぺ」言葉の茨城と「あもしとなもしはちがうぞなもし」の伊豫と、赤穂旧住民は「大坂弁なまり」の赤穂
ではコミニュケーションも大変だったと思われます。

今でも「こわい」と真壁・笠間の人が言えば、一般的な(怖い・恐い)の意味ではなく「疲れた」の意味で
すので???となります。

天野屋利兵衛に少しづつ迫りたいと思います。

  • [120]
  • Re: 現・石手寺梵鐘(重文)【大野直森(友直)供養鐘の変遷を追う

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 4月14日(土)19時46分15秒
 
●建長3年(1251年)頃は、黒川系図で云う、黒川初代(黒川信綱)の頃とおもわれますが、
 この信綱は愛媛においては、作り話の世界にて何とも言えませんが、どの黒川家も信綱を始祖と
 し、その後、日吉郷の青木氏を養子に迎えて2代目の黒川信兼と継いで行きます。
 この頃は、まだ黒川家は千足の山の中で息を殺して生きていた頃と思われ、西山の鐘を
 造るに当たり、そのような実力は無いと考えます。
 では、誰かと?なりますが、時代が合致するかどうか判りませんが、得能氏辺りかとも
 思います。が判りません。
 この頃の山城の調査をしている方がサイトを開設されて居ます。私は隠れファンですこのサイト
 の!最近は改定されて居ませんが、黒川の居城(旦ノ城)(剣山)(山城)などを掲載してくれています。 特に旦ノ城は何も無いですが、興味深いです。是非見てください。URL付けておきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/derfuhrer333/folder/1040044.html


建長3年の黒川家の当主はどなたか、黒川さんわかりませんか?
> この鐘の鋳造主が黒川家であれば「石手寺」の鐘の本来の所有者は黒川家となります。
> 尚、現在の興隆寺の鐘は弘安9年(1286)年に再調達されていますから、
> この直前後に大野家は譲り受けて菅生山大宝寺に寄進したとしてもおかしくありません。
>
> となると「上川村大野系図」の『天文17年寄進』が異同をおこします。
>
> 黒川文書になにか記述はありませんか?天文17年ですと黒川通俊の次の代と思われますし・・・。
>
> この鐘のことは「大坂府立博物館」の研究リストにありました。
>
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>
>

  • [119]
  • 現・石手寺梵鐘(重文)【大野直森(友直)供養鐘の変遷を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月14日(土)17時49分53秒
 
以前黒川さんに現物を見てきてくれませんかと依頼した鐘で、鐘衝堂が閉鎖されており見れなかった鐘です。

この鐘は天文14年(1545)久万大除城主大野直森(友直)の供養のために父、大野利直が天文17年(1548)
の直森の三回忌に大野家菩提寺菅生山大宝寺に寄進したものです。
この後なぜか、石手寺に持っていかれてしまった。
この鐘の鋳造は建長3年(1251)6月8日と刻印があるから直森の三回忌に鋳造されたものではありません。
この刻印を証拠として、現在の石手寺情報は建長3年からあたかも石手寺にあったかのような記事が
はびこり始めているのは遺憾である。

旧「久万町誌」は
『天文十三年(1544年)五十二歳の時長男友直
に家督を譲ったが、その友直が翌年死去した為
利直は再び大除城主となり、天文十七年
(1548年)友直追善のために菅生山大宝寺に
梵鐘を寄進している。

  任御示現
   彼鐘自河内国来臨也
 一山大法主
 菅生山大宝寺  別 當
   大旦那大伴朝臣大野
   紀刕利直一結衆
   東西真俗施主等
 天文十七戌申年十一月吉日
      三十貫合作涼岸
            妙一
            吉久
この鐘は現在、松山石手寺にあって、国の重要文
化財に指定されており、鐘銘に「菅生山大宝寺一山
大法主、大旦那大伴朝臣大野紀刕利直」の文字
また、「天文戌申十一月吉日」の文字があるから
疑う余地がない。この前後、利直は周布郡剣山
城主黒川通俊と結んで久万山勢を率い、井内峠
を越えて、戒能通運を小手が滝城(川内町大字
井門、中野の東方標高520M)に攻めて激戦を
交え、その用水を絶った為、城は陥った。
通運は逃れて更に大熊城(河内町大字即之内
標高905Mに寄ったので利直・通俊らは進んでこれを
囲んだが、この山城は一ノ森、二ノ森、三ノ森の
三段の急峻をなした要塞で攻めるに困難を極めた、
遂に空しく囲みを解いて退いたが勝ち二に乗じた
城兵の追撃が急で、黒川通俊は馬を射られて自殺し
利直はかろうじて久万山に引き上げた。』
と書いてある。

この町史には重大な不備がある。

鐘の刻印は上記の通りであるが、それ以前の刻印に鐘の出自を示しているがそれを省略してしまって
いる。その刻印は・・・・。


『興隆寺建長三年(1251)歳次辛亥六月八日
 願主 僧良順大徳  僧慶賢大徳
 大工 河内国丹次国忠』

この河内国丹次(治)国忠の名に惑わされ、この鐘に直森追善刻印をする時(天文17年)に間違いを
刻印してしまった。

『彼鐘自河内国来臨也」(この鐘は河内の国から来たものです)と。

この記事に惑わされ長年河内国興隆寺を探索していましたが見つかりませんでした。

見つからないのは当たり前でこの興隆寺は
「伊豫國道前分桑村郡古田郷西山興隆寺」でした。

大工(鋳造師)丹治国忠は奈良の大仏を鋳造した河内鋳物師衆の流れを組む一人で
建長時代は大物鋳造の場合は現地に出向き鋳造する「左方作手」の一員のようです。
よってこの鐘は河内国から来たのではなく、現「愛媛県西条市丹原町古田の興隆寺付近」で
鋳造されたものと思われます。

この地であるならスポンサーは黒川さんちではないかと考えます。
建長3年の黒川家の当主はどなたか、黒川さんわかりませんか?
この鐘の鋳造主が黒川家であれば「石手寺」の鐘の本来の所有者は黒川家となります。
尚、現在の興隆寺の鐘は弘安9年(1286)年に再調達されていますから、
この直前後に大野家は譲り受けて菅生山大宝寺に寄進したとしてもおかしくありません。

となると「上川村大野系図」の『天文17年寄進』が異同をおこします。

黒川文書になにか記述はありませんか?天文17年ですと黒川通俊の次の代と思われますし・・・。

この鐘のことは「大坂府立博物館」の研究リストにありました。












  • [118]
  • Re: 大坂夏の陣に於ける大野直載討死を考える

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月14日(土)03時14分22秒
 
NAOKOさんヘ
 ■流石に丁寧に読み込まれていますね。
  私はだいたい「般若湯」つまみにしながら書いてますので時折脱線し、呂律が回っておりません(笑い)


>   ◎大坂の陣から大野関係者を検証していく視点は、私にとっては新鮮な話題です。
>     系図を時系列に見ていくのがせいぜいで、横軸の関連まで検証する余裕がなかったので
>     勉強になります。

■以外と横軸の串刺しは面白いですよ、「系図」は時系列に書いてありますから、生年~没年が分らない
 人物のほう圧倒的です。「大野系図」もたくさんありますが同一人物で系図により異同が多くどちらが
 史実かを考える時に有効です。この時第三者の文書を判定基準としています。
 「大野系図」以上にたくさん有る「河野系図」などはもっと大変ですがビッグネームですので第三者関係文書も
 多くヒントはたくさんありますね。この場合第三者文書は「一次史料」でなくてはなりません。

 以前お送りした「大野家大系図」「河野家大系図」「村上家大系図」を壁に貼って縦に眺めますと
 「?????」がたくさん生れてきます。
 一族内でも矛盾が発生しますが、別家ですが密接に関連する「大野・河野・村上」内でも?がたくさん
 ありますね。
 明らかに間違いが多い、系図を信用度を下げていきますと、おのずと本来の系図が浮かび上がってきますね。

> ①土居大炊頭 (総大将徳川秀忠の側陣) 【天王寺の戦い】(土井家臣大野直綱参陣か?慶長10年以降の仕官)
>
>    ◎大野直綱は直之の息で、天正5年誕生(1577)、寛永11年(1634)卒ですね。
>     上司の土井利勝(1573~1644)は、以前呑舟師がご教示くださったように慶長10年(1610)に
>     大炊助叙任、慶長15年徳川秀忠の老中拝命ですから、慶長10年以降15年前後の仕官という推   測ですね。
>     大野直綱は慶長5年(1600)に奥州会津へ赴きますが、会津で卒したとする大野系図と、そう記   録していないものがあって断定できませんが、徳川軍と一緒に引き返してきて(これは私の想像
>    です)、武州で浪人していた(紀州菅田家譜)とあるので、土井家臣として大坂の陣(慶長19~2   0年)へ参戦した可能性はあります。

■直綱の会津での卒は「系図」の混乱とみています。徳川軍は奥州会津を目指していただけで
大坂で謀反が起こったので小山(栃木県)からUターンしています。この場所は今の小山市役所の
隣接地ですが、この城跡に昔、花見にいったことがあります。
会津卒は後年のことだろうと思っていますので「系図」的には間違いでもないとも考えています。


> ②紀州徳川家 (土居家臣大野から別れ紀州徳川藩大野直椿 参戦は時期的に不明)
>
>   ◎大野(菅田)直椿は上記の大野直綱の息で、直椿の室は紀州徳川二代藩主光貞(1627~)にお    乳を あげていた乳母の娘です。紀州徳川初代藩主頼宣は大坂冬の陣(1614)で初陣(天王寺    付近布陣)。 翌年の夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは後詰めで活躍(Wiki情報)。
>    土佐大野系図では、直椿の仕官は天和3年2月(1617)なので、紀州徳川家臣下として大坂の    陣参戦はないでしょう。ちなみに徳川頼宣の紀州転封は1619年7月19日です。
>    直椿はこの時紀州へ移ったのではと想像します。それ以前の紀州は浅野家の所領だったと記憶    します、どうでしょう。

■これはNAOKOさんの解釈で合っていると思います。
 言葉足らずでしたが、後の大野家の末裔たちがほとんど徳川方に居ることの傍証として書いただけです。
 その意味では「大野河内」も同様です。
 尚、『直椿はこの時紀州へ移った 』との解釈は二つできます。
 即ち、「紀州家に移った」とするのと「紀州(和歌山県)に移った」2つです。
 私は後者「和歌山へ移動」は無かったと思っています。
 「紀州藩大野直椿家」は代々江戸詰で和歌山城下には住む家屋敷も無かった感じがします。

 根拠は
 「紀州家中系譜並びに親類書書上げ」を見る限り、地元(和歌山)の臭いが全くしません。
  婚姻関係を結んでいるのも殆ど「江戸詰衆」のような感じです。
  さらに同書は明治初期まで書き重ねられていますが、和歌山市周辺に子孫と思われる「菅田家」が
  見当たりません。
 「江戸詰衆」が世襲で江戸のみ在住はあるか?の問に、「和歌山県立文書館」は
  「あるでしょう」とのことを論拠としました。

 なにげないNAOKOさんの一言も解釈が分かれていく例でもあります。
 このような表現は「系図や古文書」に多いのが悩む元でもあります(笑い)

 余談ですがこの紀州浅野家が国替えで安芸広島に転封されるとき途中、能美島の山野井家で休息します。
 その時山野井家は新藩主に蜜柑を差し上げたと、越智家末裔「山野井文書」は語ります。
 この能美島の山野井家で「屋代島大野家三代目」直房(是水)は生まれたと「屋代島大野家譜」は語ります。

> ③井伊掃部頭 (彦根井伊家家臣大野清兵衛利盛(時期的には参戦)【天王寺の戦い】
>
>   ◎「侍中由緒帳」に載る差出年譜では『大坂の陣において、利盛(直昌の養子、実父は舎弟直     光)は 井伊家家臣の松居清勝方にあり、陣小屋にて井伊直孝(二代藩主)に召出され参陣』とある。
>
>    同書の解説文では、『初代利盛は慶長18年(1613)に彦根に来て、松居清満方(ママ)におり、    冬の陣(ママ)の節、小屋拝領を願い出、直孝に陣場で対面した』とある。
>
>    また、土佐大野系図では、利盛の参陣は元和元年(=慶長20年、1615)とし、夏の陣のこと    としています。細部にそれぞれ異同がありますが、利盛の参陣は史実のようです。蛇足情報ですが、利盛(前名直盛)は、京の二条家で成人したようです。

■「侍中由緒帳」は彦根井伊家の 「人事記録簿」ですので、信頼度は「萩藩閥閲録・同譜録」よりは格段に
 上りますのでそれぞれがほぼ「裏」を採った記事と思われます。将軍家の「寛永の譜」などよりはるかに
 正確性は高いと思われます。

 問題は慶長18年に松居氏に利盛を誰が推薦したかが知りたいところです。
 見ようによっては松居清満の家来(井伊直孝からすれば陪臣)か居候のようにも見えます。
 「冬の陣」の時、「初お目見え」して、その戦功で直臣になったと思われます。

 又「二条家に成人云々」この流れも追う必要があります。
 二条家は公家ですので、「氏素性」の知れないものを養育することはありません。
 この当りが、土州幡多の一条家か、南予の西園寺家がからんでいると見ています。
 どちらも「公家氏」です。
 「大野備後」の中和門院女房となるのもこれらの人脈の中にあると見ています。

 なお蛇足ながら、「元和元年大坂夏の陣」と書いてある記事は後世の「孫引き記事」と思っていますので
 その文章の信頼性は、私は「下」としています。

 ご承知のように「元和元年」に「大坂夏の陣」はありません。
 「大坂夏の陣」は慶長20年(1615)5月7日豊臣秀頼と淀殿の自害、大坂城落城により終ります。

 元和元年(1615)改元はその後の7月13日に後水尾天皇の代始改元とされます。
 「東大史料編纂所」のデータベースもこの当りは間違っています。
 東京大学のブランドに引きづられてはなりません(笑い)

長くなりますので、このへんで。

追伸

大野家末裔たちは伊豫で離散したのちも「文通」し合っていたと思われます。
大野直尚が150年以上前に分れた親族の住所やまた「文通」の記録をみると一族意識は強かったと
思われます。
明治以降の文明開化の影響により、一族よりは個人の考え方が広まっていって
現在では一門が疎遠になっているものと思われます。一族意識は日本よりも、朝鮮、朝鮮よりも中国
に現代でも強固です。彼等は未だに子供が生れるたびに系図に書き込みます。
これを几帳面にするのは日本では「皇統譜」です。

あっ、蛇足の蛇足・・。どうでもいいことですが・・・・。

「乳母」は2つ意味があります。
 文字通りおっぱいを飲ます係りは「乳母(うば)」とされます。
 別の意味は帝王学を教える意味で教育係りとしての乳母は「乳母(めのと)」です。
 「大野系図」に出てくる乳母は「めのと」の方と思われます。でないと周りへの影響力がありません。
 この乳母(めのと)で一番有名なのはこのサイトの常連、徳川家光の乳母、河野系「春日局」
 です。よって「めのと」はおっぱいが出なくてもいいのです。男をさす場合もあります。
 余談ですが、皇室は代々「めのと」によって皇太子を養育してきたとされます。
 この慣習を破り、みづから「子育て」をしたのが美智子妃殿下とされ、当時賛否両論渦巻きました。


  • [117]
  • Re: 大坂夏の陣に於ける大野直載討死を考える

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 4月12日(木)19時25分4秒
 
>>116
呑舟師へのお返事です。

●大野関係者が一人抜けていました。それを含め少し詳しく述べましょう。
NAOKOさん検証を御願いします。いずれもすべて徳川方です。

  ◎大坂の陣から大野関係者を検証していく視点は、私にとっては新鮮な話題です。
    系図を時系列に見ていくのがせいぜいで、横軸の関連まで検証する余裕がなかったので
    勉強になります。

①土居大炊頭 (総大将徳川秀忠の側陣) 【天王寺の戦い】(土井家臣大野直綱参陣か?慶長10年以降の仕官)

   ◎大野直綱は直之の息で、天正5年誕生(1577)、寛永11年(1634)卒ですね。
    上司の土井利勝(1573~1644)は、以前呑舟師がご教示くださったように慶長10年(1610)に
    大炊助叙任、慶長15年徳川秀忠の老中拝命ですから、慶長10年以降15年前後の仕官という推   測ですね。
    大野直綱は慶長5年(1600)に奥州会津へ赴きますが、会津で卒したとする大野系図と、そう記   録していないものがあって断定できませんが、徳川軍と一緒に引き返してきて(これは私の想像
   です)、武州で浪人していた(紀州菅田家譜)とあるので、土井家臣として大坂の陣(慶長19~2   0年)へ参戦した可能性はあります。

②紀州徳川家 (土居家臣大野から別れ紀州徳川藩大野直椿 参戦は時期的に不明)

  ◎大野(菅田)直椿は上記の大野直綱の息で、直椿の室は紀州徳川二代藩主光貞(1627~)にお    乳を あげていた乳母の娘です。紀州徳川初代藩主頼宣は大坂冬の陣(1614)で初陣(天王寺    付近布陣)。 翌年の夏の陣の天王寺・岡山の戦いでは後詰めで活躍(Wiki情報)。
   土佐大野系図では、直椿の仕官は天和3年2月(1617)なので、紀州徳川家臣下として大坂の    陣参戦はないでしょう。ちなみに徳川頼宣の紀州転封は1619年7月19日です。
   直椿はこの時紀州へ移ったのではと想像します。それ以前の紀州は浅野家の所領だったと記憶    します、どうでしょう。

③井伊掃部頭 (彦根井伊家家臣大野清兵衛利盛(時期的には参戦)【天王寺の戦い】

  ◎「侍中由緒帳」に載る差出年譜では『大坂の陣において、利盛(直昌の養子、実父は舎弟直     光)は 井伊家家臣の松居清勝方にあり、陣小屋にて井伊直孝(二代藩主)に召出され参陣』    とある。

   同書の解説文では、『初代利盛は慶長18年(1613)に彦根に来て、松居清満方(ママ)におり、    冬の陣(ママ)の節、小屋拝領を願い出、直孝に陣場で対面した』とある。

   また、土佐大野系図では、利盛の参陣は元和元年(=慶長20年、1615)とし、夏の陣のこと    としています。細部にそれぞれ異同がありますが、利盛の参陣は史実のようです。蛇足情報で    すが、利盛(前名直盛)は、京の二条家で成人したようです。

④黒田筑前守 (黒田藩士大野家三兄弟・直生、氏重、吉乗、参戦の可能性あり)
  【天王寺の戦い】

  ◎井上家の動きに不案内ですので、残念ながら何ともいえません。⑤から⑦についても私は不案    内です。

⑤総大将徳川秀忠  (秀忠室奉仕大野河内(慶長15年以降の奉公と思われる)
  【茶臼山決戦】

⑥浅野長政  (大野直載が浅野家家臣亀田大隈と組んでいたなら、後の浅野分家赤 穂浅野家家老大野九郎兵衛との流れもやはり不思議ではない)
  【小松山から天王寺合戦まで】

⑦藤堂大学頭 (藤堂家家臣大野文右衛門直次(直之の子)参戦の可能性あり。
  【八尾の戦い】

  ◎直次は直之の子ですが、卯右衛門と称したのではなかったですか?
   直尚覚書では、大野文右衛門の親は半左衛門というらしいので、直綱のことになりませんか?
   とすると大野文右衛門と直椿は兄弟になりますが・・・直尚の覚書もあてになりませんので、か   えって混乱してしまいます。

⑧松平隠岐守定之(初代松山藩主)

  ◎土佐大野系図からの引用ですが、大野五右衛門直昭は永禄元年(1558)生まれ。宮の谷城主。
   利直の弟城戸六郎伊賀崎城主の孫です。直光の孫なのでしょうか?
   慶長19年(1614)に大坂の陣で鉄砲疵を受けて帰国後、松平隠岐守に仕え知行四百石 代々物   領。 大坂の陣で松平隠岐守定之に属していたかどうかはわかりません。
   直光も伊賀崎城主とありますが、城替えがあったのでしょう。

  ◎「浅野家分限帳」と「親類書」が出てくれば、新しい展開が期待できますね。


  • [116]
  • Re: 大坂夏の陣に於ける大野直載討死を考える

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月12日(木)04時31分12秒
 
> > 前述のように「道明寺合戦に於いて亀田大隅と組(一緒)に戦い討死した」と解釈すれば
> > 大野家断絶後の末裔達のその後の軌跡と辻褄があってきます。
> >
> > 上記の各合戦は「大坂夏の陣」の中でも大坂南部から大坂城を目指す一隊で他にも各方面から攻撃されています。
> > 大野家末裔達が仕官したとされる主君家がすべて、この南方勢の中にいます。各主君は・・・。
>
> ●大野関係者が一人抜けていました。それを含め少し詳しく述べましょう。
>  NAOKOさん検証を御願いします。
>
>  いづれもすべて徳川方です。河野家系稲葉家、一柳家も徳川方ですのでやはり総て「アンチ豊臣」です。
>
>  ①土居大炊頭(総大将徳川秀忠の側陣) (土井家臣大野直綱参陣か【慶長10年以降の仕官】)
>                        【天王寺の戦い】
>
>  ②紀州徳川家   (土居家臣大野から別れ紀州徳川藩大野直椿(参戦は時期的に不明))
>
>  ③井伊掃部頭 (彦根井伊家家臣大野清兵衛利盛(時期的には参戦))
>             【天王寺の戦い】
>
>  ④黒田筑前守 (黒田藩士大野家三兄弟・直生、氏重、吉乗、参戦の可能性あり)
>             【天王寺の戦い】
>
>  ⑤総大将徳川秀忠  (秀忠室奉仕大野河内(慶長15年以降の奉公と思われる)
>             【茶臼山決戦】
>
>  ⑥浅野長政  (大野直載が浅野家家臣亀田大隈と組んでいたなら、後の浅野分家赤穂浅野家家老
>          大野九郎兵衛との流れもやはり不思議ではない)
>             【小松山から天王寺合戦まで】
>
>  ⑦藤堂大学頭 (藤堂家家臣大野文右衛門直次(直之の子)参戦の可能性あり。
>             【八尾の戦い】

 ●大坂冬の陣に参戦の大野家末裔がもう一人いました。

  ⑧松平隠岐守定行【家康の甥】初代松山藩主 龍王城主大野直光の孫、大野五右衛門
   【夏の陣の時は京都二条城を警固】

 大野直載は彦根井伊家家臣大野清兵衛利盛の兄ですのでやはり徳川方浅野長政に属していたと解釈するのが
 自然と思われます。直載も利盛も五右衛門も龍王城主大野直光の子や孫達になります。
 松平定行は家康の生母「於大の方」の嫡孫ですから、大野河内が徳川秀忠の室「江」に奉仕したとするのも
 このあたりのコネクションかもしれない。

 「浅野家分限帳」及び「親類書」を探さなくてはならなくなった。
  この中に大野直載がいてその数代後に大野九郎兵衛知房
  が赤穂浅野家に仕官していれば、出自不明とされる「赤穂藩家老大野九郎兵衛」は
  伊豫大野家末裔と証明される。

  • [115]
  • Re: 大坂夏の陣に於ける大野直載討死を考える

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月11日(水)12時39分33秒
 
> 各大野系図は「道明寺合戦に於いて亀田大隅と組(一緒)に戦い討死した」とした記事が元ではなかった
> かと思われます。讃岐屋本は具体的ですが、大野家が仇敵に雇われる理由はありません、後世の加筆と
> 思われます。
>
> ここでキーワードは亀田大隈です。
>
> 「亀田大隈」は亀田大隈高綱のことで当時は「浅野長政」に仕える部下で、慶長20年4月29日から始まる
>  「大坂夏の陣」の初戦「樫井の合戦」(泉佐野市付近)で豊臣方の塙団右衛門直之と淡輪重政と対峙し
>  午前8時ころに始まった戦いも昼過ぎに直之を討ち取って徳川軍は勝利した時の猛将とされます。
>  彼は、亀田隊の大将ですので、【大野系図】が語るように大野直載と(直接組み合い)する位置にいません。
>  塙団右衛門直之も足軽の「多古助左衛門」の矢で落馬した所を筆頭家老浅野左衛門の足軽「八木新左衛門」
>  が槍にてしとめるとあります。
>
>  戦いはこの後、
>  5月6日午前4時~から始まる、「小松山の戦い」(柏原市片山町付近)
>
>  5月6日正午~        「道明寺の合戦」(藤井寺市付近)
>
>  5月6日           「若江の戦い」 (東大坂市玉串から八尾市西部付近)
>
>                「誉田(コンダ)の戦い
>
>  5月6日午前4時~      「八尾の戦い」
>
>  5月7日           「天王寺の合戦」
>                「茶臼山の接戦」
>
>  と間断なく続きます。「天王寺の合戦」大勢は決します。
>
> 黒川さん提供の「合戦図」は5月7日の「天王寺の合戦」と思われます。
> ここに書かれる大野修理はよく見ると「大野修理旗本」とあり、右上に別の「大野修理鉄砲隊」が
> 書かれていますので、大坂城内で戦況を伺う、大野修理大夫治長の家来たちの一団と思われますので
> 大野直載ではないと判断されます。
>
> 前述のように「道明寺合戦に於いて亀田大隅と組(一緒)に戦い討死した」と解釈すれば
> 大野家断絶後の末裔達のその後の軌跡と辻褄があってきます。
>
> 上記の各合戦は「大坂夏の陣」の中でも大坂南部から大坂城を目指す一隊で他にも各方面から攻撃されています。
> 大野家末裔達が仕官したとされる主君家がすべて、この南方勢の中にいます。各主君は・・・。

●大野関係者が一人抜けていました。それを含め少し詳しく述べましょう。
 NAOKOさん検証を御願いします。

 いづれもすべて徳川方です。河野家系稲葉家、一柳家も徳川方ですのでやはり総て「アンチ豊臣」です。

 ①土居大炊頭(総大将徳川秀忠の側陣) (土井家臣大野直綱参陣か【慶長10年以降の仕官】)
                       【天王寺の戦い】

 ②紀州徳川家   (土居家臣大野から別れ紀州徳川藩大野直椿(参戦は時期的に不明))

 ③井伊掃部頭 (彦根井伊家家臣大野清兵衛利盛(時期的には参戦))
            【天王寺の戦い】

 ④黒田筑前守 (黒田藩士大野家三兄弟・直生、氏重、吉乗、参戦の可能性あり)
            【天王寺の戦い】

 ⑤総大将徳川秀忠  (秀忠室奉仕大野河内(慶長15年以降の奉公と思われる)
            【茶臼山決戦】

 ⑥浅野長政  (大野直載が浅野家家臣亀田大隈と組んでいたなら、後の浅野分家赤穂浅野家家老
         大野九郎兵衛との流れもやはり不思議ではない)
            【小松山から天王寺合戦まで】

 ⑦藤堂大学頭 (藤堂家家臣大野文右衛門直次(直之の子)参戦の可能性あり。
            【八尾の戦い】



  • [114]
  • 大坂夏の陣に於ける大野直載討死を考える

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月11日(水)10時16分44秒
 
本スレッドの黒川さんの「後藤又兵衛」大坂夏の陣、道明寺合戦記事から、同時期に討死したとする大野直昌
の息(二男?)直載について考えます。

私は大野直載は豊臣方として後藤又兵衛とともに徳川方と対峙したと思い込んでいましたが、現場状況を
を集めると徳川方として逆に後藤又兵衛勢と対峙したとも考えられます。

大野直載について【大野系図上川村本】は
『直載
・甚内  後忠太夫
・慶長年中兵乱之時属大阪方
 阿州道明寺合戦興亀田大隅組
 討死卆 』
【大野系図讃岐屋本】は
『某
忠太夫直常別腹之兄也 与宇都宮元教因契約
直常為惣領 慶長年中兵乱之時秀頼公諸牢人
被召依之大坂之為味方 河州道明寺表合戦
与亀田大隈組而討死』

【大野家譜上田本】は

『直戴
・甚内 忠太夫
・慶長年甲兵乱の時、大阪方阿州道明寺合戦の時、
 亀田大隅と組打ち死す。』

いづれも大坂方(豊臣方)としていますが、歴史的経緯を考えると豊臣方につく必然性は何もありません。
そもそも大野家も河野家も毛利家も秀吉に煮え湯を呑まされ、大野、河野は秀吉により亡ばされます。

戦国時代は大野家でも三グループに別れ、河野家に仕える直昌一統と長曾我部元親に属す大津(大洲)
大野直之一統、村上武吉に属す大野直秀一統ですが、いづれも秀吉により没落しました。

よって、よって牢人が溢れた就職灘の時期とは云え大野直昌の息が敵方にノコノコ仕官に行くとは考え
にくいし豊臣方も就職面談でかって秀吉が亡ばした家の息子を雇い入れることはいつ裏切るか分らないし
深読みすれば敵の回し者かもしれない人物まで合格させる必要もありません。

各大野系図は「道明寺合戦に於いて亀田大隅と組(一緒)に戦い討死した」とした記事が元ではなかった
かと思われます。讃岐屋本は具体的ですが、大野家が仇敵に雇われる理由はありません、後世の加筆と
思われます。

ここでキーワードは亀田大隈です。

「亀田大隈」は亀田大隈高綱のことで当時は「浅野長政」に仕える部下で、慶長20年4月29日から始まる
 「大坂夏の陣」の初戦「樫井の合戦」(泉佐野市付近)で豊臣方の塙団右衛門直之と淡輪重政と対峙し
 午前8時ころに始まった戦いも昼過ぎに直之を討ち取って徳川軍は勝利した時の猛将とされます。
 彼は、亀田隊の大将ですので、【大野系図】が語るように大野直載と(直接組み合い)する位置にいません。
 塙団右衛門直之も足軽の「多古助左衛門」の矢で落馬した所を筆頭家老浅野左衛門の足軽「八木新左衛門」
 が槍にてしとめるとあります。

 戦いはこの後、
 5月6日午前4時~から始まる、「小松山の戦い」(柏原市片山町付近)

 5月6日正午~        「道明寺の合戦」(藤井寺市付近)

 5月6日           「若江の戦い」 (東大坂市玉串から八尾市西部付近)

               「誉田(コンダ)の戦い

 5月6日午前4時~      「八尾の戦い」

 5月7日           「天王寺の合戦」
               「茶臼山の接戦」

 と間断なく続きます。「天王寺の合戦」大勢は決します。

黒川さん提供の「合戦図」は5月7日の「天王寺の合戦」と思われます。
ここに書かれる大野修理はよく見ると「大野修理旗本」とあり、右上に別の「大野修理鉄砲隊」が
書かれていますので、大坂城内で戦況を伺う、大野修理大夫治長の家来たちの一団と思われますので
大野直載ではないと判断されます。

前述のように「道明寺合戦に於いて亀田大隅と組(一緒)に戦い討死した」と解釈すれば
大野家断絶後の末裔達のその後の軌跡と辻褄があってきます。

上記の各合戦は「大坂夏の陣」の中でも大坂南部から大坂城を目指す一隊で他にも各方面から攻撃されています。
大野家末裔達が仕官したとされる主君家がすべて、この南方勢の中にいます。各主君は・・・。
①土居大炊頭 (土井家臣大野)
②徳川家   (土居家臣大野家から別れ紀州徳川藩大野)
③井伊掃部頭 (彦根井伊家家臣大野家)
④黒田筑前守 (黒田藩士大野家)
⑤徳川秀忠  (秀忠室奉仕大野河内)
⑥浅野長政  (大野直載が浅野家家臣亀田大隈と組んでいたなら、後の浅野分家赤穂浅野家家老
        大野九郎兵衛との流れもやはり不思議ではない)

        【浅野長政とは大野直昌の甥、能島村上家家老大野直政と姫路会談で面識があるので
         長政は予州大野家のことは知っている。また、大野直政と村上武吉を切腹させるために
         備後まで出張してきたのは彼であった】


  • [113]
  • 訂正

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月17日(土)06時50分49秒
 
この文書は鎌倉末期から室町にかけての熊野神社の旦那に関する文書である。
⇒平安末期から室町期にかけて・・・

  • [112]
  • 宮尾克彦講演録 「伊豫菅田の大野家」

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月16日(金)22時55分57秒
 
2月21日、菅田公民館で行なわれた宮尾克彦氏(城郭研究家)の講演録を月初に入手しました。
テーマは「戦国期の菅田地区」であったが、同時期であれば菅田直之こと大野直之
にも言及していた。同氏は講演の中で大野下向時の新説を唱えていた。

大野氏は室町期に三河を経由して伊豫に下向してきたと述べる。
証左として「大野家家紋が三河冨永家の紋と同じであること」と
「熊野「米良(めら)文書」に『おた(小田)の大野殿・・・・』と
旦那の名が書かれていること」によるらしい。

三河冨永や米良文書は史実であるのは間違いないが、下向時を室町期にするには少し短絡的
である。

各「大野系図」は下向時を天慶二年(939)「純友の叛乱鎮圧」のため下向し土着したとする。越智好方とともに鎮圧に加わるとも書く。

これをなんら証左もなく宮尾氏は否定した。

三河の冨永は大伴系図によると大伴安麻呂の弟、、御行流で、大伴国道の時代の、
823年大伴を伴と改め、次代の善男の時、「応天門の変」失脚し、中央政界の座
を藤原氏にとって代わられた家で、三河時代に設楽、と冨永と称するが、同一
人物が両方を使っている。
「木瓜ニ引両紋」の由来は設楽資兼が『多々良浜』の合戦で軍功を挙げたことに
より、足利尊氏から足利二引両を賜り、大伴伝来の「木瓜紋」と合成したとされる。この時の設楽資兼流の後裔(設楽、冨永、大野、伴姓三木氏)等に引き継がれる。
ただ此の時、設楽、冨永、大野一族は必ずしも三河に集中しているわけではない。
全国にバラバラでいるが、連携しあっている。連携した一族が「木瓜ニ引両」を
共有しているが、先日、三河冨永家の子孫に連絡がとれ、家紋を確認したら
「丸に横木瓜」であると答えられ、本来の大伴家家紋を継承し、「二引き」は
附加されていなかった。また設楽家は全くの別紋であった。
よって、設楽氏や冨永氏も同族であるが家紋を全家共有しているわけではなかった。

よって尊氏軍に連携していた伊豫大野家も「木瓜ニ引両」に改紋が正しい
と思われます。
ただし、伊豫大野は御行流ではなく安麻呂の嫡男旅人流と系図は記す。

また、「熊野米良文書」の記述で室町期下向と判断したようであるが、
この文書は鎌倉末期から室町にかけての熊野神社の旦那に関する文書である。
小田の大野として登場し冨永一族であるとしている。
同族の立花(橘)、石原、宇津氏の名も見える。
この文書の東大史料編纂所の現物写本を見ると、年月日は入っていないが、
文書の状況からすると、宝徳二(1450)の津野之高退治の後、報告のため都に
登り、帰路兵庫で死んだ、大野宮内少輔繁直の遺児二人を小田の城に引き取って
養育した、伯父の冨永安芸守時義の時代のものと思われ、
こんな時に大野氏は伊豫下向などしていないことは明白である。

宮尾氏ももう少し調査して講演して頂きたいと考える。
聞いた人間は「ああそうか」と信用し又誤伝が流布していく。
訂正して頂きたいと携帯電話にTELしてみたが、何度かけてもお出にならなかった。




  • [111]
  • Re: 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月 7日(水)09時49分11秒
 
修正⇒「黒田騒動」は寛永九年です。寛永十年は江戸召喚の年です。

  • [110]
  • Re: 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月 7日(水)05時41分26秒
 
ようやく赤穂市市史編纂係より返答が来ました。
ご丁寧に質問事項をワープロできちんと整理され、関連資料まで
添付して頂き自宅に郵送して下さいました。

結論的には「出自は資料がなく全く分らない」とのことでした。
逆に何か分ったら教えて下さいとのことでした。

資料等については公表されている物ばかりなので新しい発見はありませんでした。

逆説的に言えば、新発見すればこちらが正しくなることも考えられます。

赤穂藩家老大野九郎兵衛は家紋として「抱茗荷」としていますが厳密には抱茗荷ではなく
よく間違えられる豊後大友家の家紋と思われます。

とすれば、赤穂藩家老大野九郎兵衛知房が伊豫大野家末裔とするならば、大友家と友好関係にあり
且つ、天正13年に秀吉軍の四国侵攻時に家族の一部を大友家に避難させた大津城主大野直之の縁者
と見るのが妥当と思われます。この時、なんらかの事由で大友家家紋を頂戴したとすれば辻褄は
合います。

赤穂市の資料においても突然現れて、貧乏な赤穂藩を塩田開発を推し進め裕福な藩にした
有能なテクノクラートです。開発するための資金が無いため彼は赤穂藩で始めて藩札を発行して
資金調達に成功します。今様で言えば、株式の発行か、国の国債発行の資金調達に似ています。
「殿中松の廊下」事件が無ければ平和な生涯であったでしょう。

面白いことに福岡藩大野家を探索していますが、同様な経営手法が大野忠右衛門貞勝が行なっています。
福岡県史によると、彼は元禄十六年糟屋郡奈多浜(福岡市東区)塩田開発を成功させ、同年、資金調達の
ための藩札発行に関与しています。

大野九郎兵衛知房と大野忠右衛門貞勝は同年代の人物であるので、双方伊豫出身の親族と認識していたなら
ば文通しあって、貞勝より知房のほうが先輩であるので塩田開発のノウハウを赤穂から福岡へ伝えていたと
も考えられます。
通常、武士の商法は上手くいかないなのが通例で誰かが教えたと考えるのが普通でしょう。

このあたりの助言は大坂・天野屋利兵衛(大野九郎兵衛直之・直治)がからんでそうだが?

また寛永十年の「黒田騒動」の時、黒田忠之公(長政の次代)は江戸幕府に召喚され、3月6日に
土井大炊頭の屋敷で詰問を受けます。
ここでもまた伊豫大野家子孫、大野直綱の子、直次が土井家家臣であり、この状況を知りえる立場にあります。
黒田藩は一歩間違えば「断絶」になりかねない状況ですので、必死に延命工作をしたことが想像され、
ここでも黒田家大野と土井家大野が接触していてもおかしくありません。

史料によると、伊豫出身の曽我部五右衛門は二千石の高禄で筑前に入国し、黒田忠之の時代に五右衛門の子と
思われる徳蔵(後藤又兵衛婿)が逐電したとあります。
「黒田騒動」に関与したのが原因かもしれません。
小録ながら曽我部家は黒田藩に居ますので灘を逃れた曽我部もいたことになります。


  • [109]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月 4日(日)21時43分58秒
 
「筑前大野家譜」によると

初代 大野勘右衛門直生
   (1556~1642.9/9)

二代 大野清左衛門直幸
   (1583~1637.2/27)

三代 大野惣兵衛直種
   (1604~1672.7/26)

四代 大野小兵勝直基
   (~1686.8/6)

五代 大野十郎大夫直賢
   (1676.5/6~1740/26)

六代 大野惣大夫直供
   (1712.3/4~1738.11/4)

七代 大野十郎大夫直恒
   (1718~1787.8/6)

八代 大野十郎大夫直寛
   (1735.10/4~1777.4/17)

九代 大野小大夫直室
   (1761~1816.5/13)

十代 大野十郎大夫直方
   (1771.3/22~1823.7/4)

十一代 大野十郎大夫直敬
   (1814.6/12~)

と判明しました。

この系図により下記の大野十郎吉の古地図住所は五代直賢の家(現存する極楽寺に位置より、今の日銀福岡支店の近辺)
であることが判明した。

且つ、下記、「黒田藩分限帳」の(大野十郎大夫は千七百石となっており、加増された後の
六代目大野直供時代の分限帳と判明した。ただし加増の功は先代の直賢らしく系図上は中興の祖とある。

尚、大野忠兵衛家の本家筋で別家である。







  • [108]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月27日(月)10時53分52秒
 
NAOKO氏の「筑前大野家譜」送着の御陰で探索が進みました。
この「大野家譜」は長男大野直生家のものと判明しました。
以前UPした金竜寺墓誌は直生の弟、大野吉乗家と分りました。
親の左馬右衛門直吉は出自が複数あり、まとめると下記のようになります。

① 【村上図書系図】【宮窪町史】等は
   村上水軍の宗家能島村上系とします。

②【予州大野系図(上川村本)】は大野直幸の子とします。

 私は①が正しいと今のところ見ています。

 筑前大野忠右衛門は出自を混乱して認識している可能性があります。
大野忠右衛門家は大野左馬右衛門直吉の三男吉乗流と認識します。
福岡県立図書館蔵の「大野家譜」は、直吉の長男直生家の系譜でした。
即ち筑前大野家本家の系図となります。

この系譜によると直生の母は村上通康の妹としていますので、直吉は通康の子では
ありません。忠右衛門は母親の実家を遠祖と取り違えたものと思われます。
当時は三島村上内部で婚姻は盛んでしたから能島村上の男が 来島村上の女を娶るのは
普通です。

「筑前大野家譜」の記述を元に先ほど長男の大野直生の菩提寺をようやく探しあてました。
 10年かかりました。

 たぶん弟 吉乗の墓もここと思われます。
 私が探している養父 大野隆直(直秀)の墓はここには有りませんでした。

 確認の意味でその寺に電話しましたら住職が大野直生が建立した寺で墓もあり
 今は檀家ではないが子孫の大野家の方がお参りに見えられるそうです。

【筑前大野家譜】
 「寛永年中 大野直生創建 遠賀郡利松村 正願寺」

 現・福岡県北九州市八幡西区東筑2丁目8-35
 浄土宗 正願寺                でした。

 また、長男直生家は予州大野家「通字」の「直」を踏襲していました。

 大野左馬右衛門家は出自は複雑で
 家紋は河野家家紋(折敷縮三文字)と大野家家紋(堅木瓜ニ引両)と村上家家紋(丸に上紋)を
 継承し使いわけているようです。
 通字は大野家の「直」と村上家の「吉」を使用しますが河野家の「通」は契約外なのか使用した形跡
 がありません。
 河野家から「通」を契約して「通」を使えるのは信濃守村上(来島)通昌の直系のみに限られている
 のかもしれません。契約することは一族とは認めるが本来の親族ではないと認識されていたのかも知れません。
 来島は外戚だからの制限なのでしょう。
 三男吉乗家は村上系を踏襲しています。長男直生は大野系を使用しています。
 二男直成(氏重)情報はまだつかめていません。

 代が三代以上離れると同根でも伝承が変化するものですね。




 

  • [107]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月24日(金)15時16分39秒
 
> ◎神谷様、呑舟様、福岡藩の大野家についての情報を色々と有難うございます。
> 小田留義氏の著書から関係する部分を3枚UPします。
> ただ、この文章で加賀守直義=村上(大野)左馬右衛門としているのは後世の二次史料や大野系図からの引用だと思います。
>
> 東大史料の「大野三郎左衛門 吉乗」条についてですが、
> 慶長6年11月11日付けで黒田長政より知行宛行状により五百石賜ったとされるのは、大野勘右衛門 直生でしょうね。刊本「福岡藩初期(下)」に大野家文書として取り上げられています。
> この文書が東大史料の「筑前大野文書」とは別物なのかどうか、私にはわかりませんが・・・。
>
> また、UPした小田留義氏の文章では、深江の首を取ったのは九太夫(休也)氏重のことになっていますね。

●この小田留義氏の文章の元々の底本は大野系図上川村本ですよね。
 それを転写した土佐大野系図にも引き継がれると思われます。
 ここは大野系図の中でも混乱しています。NAOKO氏は比較考証「大野系図」をお持ちですから
 すぐ分ると思います。上川村本以外の情報は「大洲旧記」「伊豫温故録」石垣原の話等は市販の「黒田家譜」
 からと思われます。上川村本は大野直幸の子供として乗せます。大洲珍丸本は直幸を直好としますのでこちらを
 加賀守大野直義としているのかも知れません。直幸も直好も直義も本姓は村上ではありません。」
 いづれの大野系図も大野朝直の子として一致します。他の人には分りませんのでUPします。

 小田留義氏は上川村本より土佐桐見川大野系図をベースにした可能性が高いと思います。

 【土佐桐見川大野系図】
直幸
明応四乙卯年(1495)八月十二日誕生
徳壽丸 右近 加賀守
石手滝城代 大洲城主近江守
天正十三年筑前国退 大野左馬衛門ト改

 【土佐桐見川大野系図】
直生
勘右衛門 後黒田長政仕士五百石領

 【土佐桐見川大野系図】
氏重
久大夫 黒田長政仕士知行七百石

 【土佐桐見川大野系図】
吉乗
三郎左衛門 黒田如水仕士300石領

傳云 天文三(1534)申牛年 太田中
田渡邑 新田八幡宮父直幸再興
天正十三年(1585)小早川隆景 賜於
当国小早川興大野兼而神文有
約使僧来曰高松弓箭之時援兵
之芳志不可忘却者不及退城
秀吉愠其可解之因而恵瓊領之内
領之居士居城
仝十五年(1587)小早川賜於筑前国
恵瓊移彼州也
直幸男直生 二男氏重 四男吉乗
供而移干同州 文禄元年(1592)
父 九十八才趣 高麗陣有戦功
男直生高麗陣中有高名
慶長五年(1600)黒田如水為兵衆
豊後石垣原合戦、大友家司打取
又左衛門賜五百石
氏重 高麗陣有高名 慶長五年
石垣原合戦大友義龍之先陣
霞ノ母衣武者討取 深江善左衛門
賜七百石
吉乗 高麗合戦有軍功、慶長五年
石垣原合戦有戦功、賜三百石
三十一代々黒田家奉仕
子孫繁 干 筑前也

 

  • [106]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月24日(金)13時07分4秒
 
>
> ●この三兄弟については「東京大学史料編纂所]
>
> 越智姓
> 大野左馬右衛門 直吉
> 本領ハナシ 浪人 安国寺ニ腹従ス
> 本姓村上氏大野跡ヲツグ
> 家紋(折敷波三文字)
>
>                永禄ノ比(1558~1570) 病死
>
> 大野勘右衛門 直生
>  豊州中津ニ住ス
>
> 同九太夫 氏重
>  安国寺東福寺住山ノ時隠遁シ休也ト号ス
>  豊州中津ニ住ス
>
> 同三郎左衛門 吉乗
>  今筑前ニ住居
>  慶長五年関ケ原ノ陣ノ時黒田如水公ニ組シ
>  大友義統ト合戦シ小田原又左エ門ヲ討取
>  沓懸村ニヲイテ四百七石賜フ
>  翌年長政公感状アリ采地五百石
>  深江七右エ門組打ニシ首ヲトル
>  翌年采地七百石
> とあります。「筑前大野文書」と合致します。
>
◎神谷様、呑舟様、福岡藩の大野家についての情報を色々と有難うございます。
小田留義氏の著書から関係する部分を3枚UPします。
ただ、この文章で加賀守直義=村上(大野)左馬右衛門としているのは後世の二次史料や大野系図からの引用だと思います。

東大史料の「大野三郎左衛門 吉乗」条についてですが、
慶長6年11月11日付けで黒田長政より知行宛行状により五百石賜ったとされるのは、大野勘右衛門 直生でしょうね。刊本「福岡藩初期(下)」に大野家文書として取り上げられています。
この文書が東大史料の「筑前大野文書」とは別物なのかどうか、私にはわかりませんが・・・。

また、UPした小田留義氏の文章では、深江の首を取ったのは九太夫(休也)氏重のことになっていますね。
ところで、福岡藩の大野家譜は達筆すぎて解読が進みません。
せめて紀州菅田家くらいならと思います(笑)。
ただ、大野直秀(隆直)との関係には触れられておらず、左馬右衛門直吉と村上通康との関係も今のところ不明。でも、大野勘右衛門 直生は村上通康の孫かもしれない・・・?
資料整理が追いつかず、解読も進まず、気ばかりあせっています。もうしばらくお待ちください。


  • [105]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月23日(木)18時17分2秒
 
●ご返答有り難うございます。
 霧の彼方になんとか山の端が見えそうな感じですね。

福岡市大名町(現在、中央区大名2丁目)から何度か転居しましたので、その後系図を含め資料がどうなったかは分かりません。

●残念ですね、その後大野家の方達との交流は全くないのでしょうか?
 金竜寺の副住職によると風の噂では佐賀県の方に引っ越して近年音沙汰ないとのことでしたが?
 (尚、個人名が特定できる直近の人物の名はUPされなくてもNET上は結構です。私信で御願いします)

> > ③村上直吉が通康の子とする記述がありますでしょうか?
> 「大野忠右衛門展」の寿像の板書に「通康五代之末葉大野忠右衛門」と貞勝本人が書いていますので、通康、直吉、吉乗、吉勝、貞勝となります。ですから、直吉は通康の子になります。

●これがよく分りません。江戸中期に大野貞勝自身が書いているなら混乱かも知れません。
 所謂、来島(村上)出雲守通康ではなく単に村上家末裔に当時大名家だった久留島家先祖を借用した
 可能性があります。
 通康の後裔と言わず村上家末裔とするなら正しいので来島系の吉清(通清)からはクレームは
 つかないと思えます。吉清はすぐ黒田藩を去って紀州徳川家へ行ったと記憶します。

 一応村上系図は村上左馬右衛門については来島村上系ではなく能島村上系と系図線がなっています。
 「萩藩閥閲録」村上図書家系図(能島村上武吉系)及び「宮窪町史資料編の北畠(村上)正統系図」
 も同一な系図線です。(もっとも両系図は同根ですが)
 曰く
  (村上義統 右衛門尉 河内守→義任 和泉守・伯耆守→吉枝 但馬守→某  村上又右衛門
 →某  村上又兵衛(大野隆直付添家司)寛永二年黒田筑前守ニ奉公 村上左馬右衛門ト云、知行五百石ニ有付
  其後立身千五百石之分限也)

 と記します。
> > ④直吉の長男、勘右衛門直生、二男、九大夫氏重のその後はなにか書かれていませんか?
> 系図のことはわかりませんが、二人とも関ヶ原のとき、大友義統と戦い、感状を得て、黒崎で代官となったとインターネットの記事にありました。直吉の息子3人とも黒崎に墓が有るのではないでしょうか。福岡市の貝塚駅の近くに休也橋という橋があります。直吉の次男の久弥(久太夫)氏重と関係があるのかも知れません。

●この三兄弟については「東京大学史料編纂所]

越智姓
大野左馬右衛門 直吉
本領ハナシ 浪人 安国寺ニ腹従ス
本姓村上氏大野跡ヲツグ
家紋(折敷波三文字)

               永禄ノ比(1558~1570) 病死

大野勘右衛門 直生
 豊州中津ニ住ス

同九太夫 氏重
 安国寺東福寺住山ノ時隠遁シ休也ト号ス
 豊州中津ニ住ス

同三郎左衛門 吉乗
 今筑前ニ住居
 慶長五年関ケ原ノ陣ノ時黒田如水公ニ組シ
 大友義統ト合戦シ小田原又左エ門ヲ討取
 沓懸村ニヲイテ四百七石賜フ
 翌年長政公感状アリ采地五百石
 深江七右エ門組打ニシ首ヲトル
 翌年采地七百石
とあります。「筑前大野文書」と合致します。

私は「豊州中津ニ住ス」が気になっています。

ご承知のように豊州中津は黒田勘兵衛(如水)が初めて領地を貰ったところです。
この時、大野隆直以下直吉や三人の子供は中津(現・福岡県行橋市今元)あたりに居を構えたのでは
ないかと思っています。近くには村上家ゆかりの寺も現存します(ただしこの時代のものではなく相当
古くからありますから、以前からこの辺りを含め村上水軍の影響が及んでいた土地と思われます)
> > ⑤大野隆直の卒年と葬った寺は分りませんか?
> 分かりませんが、黒崎に有るのではないでしょうか。

●わかりませんか?!系図か過去帳を探すしかなさそうですね?

 大野三兄弟は慶長五年の「石垣原の戦い」で武功を現し、上司の井上周防守が慶長八年
 黒崎城を築城を開始した時から黒崎に移動したものと思われます。
 黒崎の古地図によると新開地の黒崎では、今の黒崎駅の近くで黒崎城の麓の「浄蓮寺」しか
 見当たりませんので、通常であればここが大野隆直と直吉等の菩提寺ではないかと想定しています。
 墓や過去帳が残っていればよいのですが・・・・・。

遊水のことだと思います。昌次郎の父(私の曾祖父)は明治になって未来と名乗りました。

●と言うことは昌次郎さんは大野貞正さんの子供ですか?

●参考までに直吉の養父とされる大野直秀(隆直)の条を「屋代島大野家譜」よりUPしましょう。

 隆直 (直秀) (1530~1595)
・備前介  左近大輔  久万王
・一ニ直秀トモ云フ
・流浪後傳兵衛ト称ス (加筆)
・妻ハ曽根信孝娘 後妻大友氏ノ娘 輝元公ノ
 妾竹ノ丸殿 牧村九左衛門母十三人兄弟也
・天文十一年(1542)大内従二位義隆卿
 依裁許受領ス應大内ノ命軍功有リ
・受領證文天文十一(1542)七月廿ニ日ナリ
 小湊後語守ノ書翰有之
・此時迄久万小田ノ地古給六千貫ヲ領ス
・伊豫久万山ノ城ニ住ス
・法名一露上珍居士藝□文禄四年(1595)
 己未十月二日歿
一、傳云 永禄年中四国乱逆
大野久万山ハ土佐境故一条家伊予働ニハトカク
取掛ケ毎時戦勝無之候 其頃毛利元就公御
御武勇強御座候 故加勢ヲ頼ム為メ親交秀之時節
一族相談ノ上大野左近太夫嫡子兵庫久万王ト
申十四才ノ霜月ニ藝州ヲ志シ海上ニ而風波強ク
島ニ漂白ノ折柄 野島倹使船出相候
其時代海上一円能島掌握ニ付荼巾ト云丸ノ内ニ
上文字付其長印ヲ船一艘ヘ一本宛用申候 此印
有之ヲバ無碍無此船ヲ糾明ノ時節ニ而左近乗船
右ノ方使無之ニ付及問答候 兎角ハ能島ニ行向候
而可相断トテ父子共ニ能島ヘ参入スノ所能島村上
大和守武吉 掃部頭元吉丁寧ニ饗応有之
数日逼留久万王能島ニテ元服 兵庫助ニ
戌申候 則武吉ノ三女元吉ノ妹ヲ兵庫助ヘ縁結之
所望辞許諾畢 浅野長政御取持ニテ相済候
然レハ大野近代ハ一家ノ内曽祢ト互ニ縁結他姓ヲ
不求時節流筏也 時節右ノ分殊更藝州ニバ指置
能島ニ滞在ノ儀偏ニ一族ヲ離シ悪心ヲ企候トテ
一族蜂起怨成候 左近驚立帰意趣ヲ可理トテ
帰帆ノ所 直重其外出張シテ不近(在)
左近矢文筆談ヲ以一族ニ野心不挟能島ニ而急雖
黙止ニ依而右ノ落着也ト被書在藤看之被書送弥
別心無之候バ帰城迄無之弥毛利方ヘ之親交
御方便候ヘ其内ノ義ハ少モ御気遣無之様ニ篭城可
仕ト有之故左近又能島ヘ被参候兎角ノ間月日
押移本国大乱ニ相成此時ヨリ久万城弟
甚内山城守居住ナリ
一、左近能島ヘ滞在ノ留守ニ天正元年酉弟直之
敵方ヘ内通シ左近弟直昌ハ不足ヲ云立不和成リ
土佐エ欠込ミ仝ニ年八月元親ヨリ大野ヘ使者ヲ
偽リ和解ヲ為ス 同二年閏八月廿五日両方
伊予土佐境笹ケ峠ニテ出合ノ約束ニ成 双方
五十丁ヲ隔テ互ニ礼儀ノ使者アリ
其時元親方ヨリ急ニ伏兵起ル戦争ニ及ヒ
味方歴々ノ侍大将惣頭七十余人討死
及ヒ味方歴々ノ侍大将惣数七十余人討死
此ヨリ大野家モ大ニ落弱ス
一、左近能島ニ滞留上下百八十人程ナリ 大友家
黒田家懇切ニテ方々遊旅ノ内筑前黒崎ニテ
病死ス 此時付添家司大野左馬右衛門
本姓ハ村上氏ナリ大野ノ名跡ヲ継テ大野領ヲ受ル
黒田家ヨリ五百石給ル所々ニ戦功アリ
子孫彼地ニ住ス左馬右衛門長男大野勘右衛門
直主次男久太夫氏重三男三郎左衛門吉乗トアリ




  • [104]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:神谷杖治メール
  • 投稿日:2012年 2月23日(木)00時35分55秒
 
「100」でお尋ねの件にお答えします。

> ①祖母様の実家には今も系図をお持ちでしょうか?
私が大野家と付き合いが有ったのは、祖母の弟の大野昌次郎(大叔父)さんと一人娘(母の従妹)の大野綾さんまでです。私の又従弟ふたりとは年が離れていて交際がありません。大叔父が健在のときに系図を見せてもらっておけば良かったのですが、当時は家系に興味が無く、見る機会を逃しました。大叔父は「系図は有る」と言っていました。綾さんが福岡市大名町(現在、中央区大名2丁目)から何度か転居しましたので、その後系図を含め資料がどうなったかは分かりません。
> ②舅大野隆直(直秀)のことは系図に書かれているのでしょうか?
これも、系図を見ていませんので分かりません。
> ③村上直吉が通康の子とする記述がありますでしょうか?
「大野忠右衛門展」の寿像の板書に「通康五代之末葉大野忠右衛門」と貞勝本人が書いていますので、通康、直吉、吉乗、吉勝、貞勝となります。ですから、直吉は通康の子になります。インターネットで見る通康の系図には正室の子だけで、直吉を含め、村上武吉後妻となった娘、福島正則の弟の正晴の正室となった娘のことが出ていません。直吉は黒田如水に仕え、正室の次男吉清(通清)は長政に仕えました。直吉が通康の子でないなら、吉清から文句が出る筈ですから、「子」であることに間違いは無いでしょう。子であっても系図に無いのですから、側室の子であるか、養子か猶子になる筈です。
> ④直吉の長男、勘右衛門直生、二男、九大夫氏重のその後はなにか書かれていませんか?
系図のことはわかりませんが、二人とも関ヶ原のとき、大友義統と戦い、感状を得て、黒崎で代官となったとインターネットの記事にありました。直吉の息子3人とも黒崎に墓が有るのではないでしょうか。福岡市の貝塚駅の近くに休也橋という橋があります。直吉の次男の久弥(久太夫)氏重と関係があるのかも知れません。
> ⑤大野隆直の卒年と葬った寺は分りませんか?
分かりませんが、黒崎に有るのではないでしょうか。
> ⑥黒田藩大組大野忠右衛門のフルネームは分りませんか?
初代忠右衛門吉乗は初め三郎左衛門と名乗りました。このことは、「忠右衛門展」を担当された博物館職員の方から教えて貰いました。以降、忠右衛門を代々名乗りました。大叔父の話では一人だけ忠右衛門を名乗らず、内記を名乗ったと言いました。遊水のことだと思います。昌次郎の父(私の曾祖父)は明治になって未来と名乗りました。
福岡市の金龍寺の墓には吉乗の名は無く(多分、黒崎にあるのでしょう)、その子の吉乗以降が書かれています。この墓は綾さんに入り婿した和之さんの名で建てられています。(広い墓地を返上して今の場所に改葬)
 秀吉によって河野家が廃され、その家臣である大野直昌も広島に追放され、直昌の腹違いの兄である直秀(隆直)が家名の続くことを願って娘婿の直吉に家督を譲ったのでしょう。家督と言っても、名字と家紋しか譲るものは無かったと思います。直吉の長男が来島村上の通康(一時河野家督を継承し、内紛で元の村上に戻ったが河野家門と認められて系譜と家紋も受け継ぐ)の縁で河野氏の家紋を受け継ぎ、三男の忠右衛門は村上家の家紋を請けついだので、私は確認出来ないでいますが、次男の久弥氏重が大野家の家紋を受け継いでいると思います。
 村上左馬衛門直吉を越智姓とされていますが、通康が河野家門と認められたので、河野の本姓の越智と成っているのでしょう。通康の三男の通総が秀吉の家臣として大名に取り立てられ、名字を来島とし、その次男の長康がのちに久留嶋と名乗って越智姓を称しているのも通康からの由来でしょう。久留嶋氏は後に「本来は村上氏だから源氏に復姓したい」と幕府に願ったけれど認められず、そのまま明治に至りました。

  • [103]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月22日(水)07時58分58秒
 
>>102
> > 私の祖母は黒田藩大組大野忠右衛門の子孫です。福岡市博物館の大野忠右衛門展が話題になっているので、知っていることをお話します。・・以降、吉勝、貞勝と続きました。
>
> ●下記の情報と合致することを確認しました。
>
> 【筑前大野家墓誌】 (福岡市今川金竜寺内)
> 元禄元年(1688) 8月19日 ●筑前大野家 大野吉勝没 法名 浄善院殿貴榮宗富居士
> 生徳4年 (1714) 9月17日 ●筑前大野家 大野貞勝没 法名 寳際院殿珠峯貞勝居士
> 亨保15年(1730) 10月19日 ●筑前大野家 大野氏勝没 法名 清流院殿山月秋水居士
> 元文4年 (1741) 8月25日 ●筑前大野家 大野貞廣没 法名 円成院殿正雲自覚居士
> 天明5年(1785) 4月7日 ●筑前大野家 大野遊水没 法名 観雲院殿法悟遊水居士
> 文化2年(1805) 6月23日 ●筑前大野家 大野貞幹没 法名 戒音斉却山節外居士
> 文政9年(1826) 8月29日 ●筑前大野家 大野昌貞没 法名 寛光院殿泰岳俊量居士
> 嘉永7年(1854) 3月17日 ●筑前大野家 大野貞明没 法名 覚林院殿華隠常春居士
> 明治4年(1871) 3月17日 ●筑前大野家 大野貞正没 法名 ■松院殿鶴翁退無居士
>

「私の先祖の三男の忠右衛門(初め三郎左衛門)吉乗」とありますが金竜寺墓誌に名がありません。
彼は何処で死んで何処に葬られ法名が何であったか知りたいものです。
長男や二男、実父、及び養父大野直秀(隆直)の墓所や法名も知りたいところです。
多分、博多に移動する前の黒崎城下かその近郊でないかと想定はしているのですが分かりません。

  • [102]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月22日(水)07時44分59秒
 
> 私の祖母は黒田藩大組大野忠右衛門の子孫です。福岡市博物館の大野忠右衛門展が話題になっているので、知っていることをお話します。・・以降、吉勝、貞勝と続きました。

●下記の情報と合致することを確認しました。

【筑前大野家墓誌】 (福岡市今川金竜寺内)
元禄元年(1688) 8月19日 ●筑前大野家 大野吉勝没 法名 浄善院殿貴榮宗富居士
生徳4年 (1714) 9月17日 ●筑前大野家 大野貞勝没 法名 寳際院殿珠峯貞勝居士
亨保15年(1730) 10月19日 ●筑前大野家 大野氏勝没 法名 清流院殿山月秋水居士
元文4年 (1741) 8月25日 ●筑前大野家 大野貞廣没 法名 円成院殿正雲自覚居士
天明5年(1785) 4月7日 ●筑前大野家 大野遊水没 法名 観雲院殿法悟遊水居士
文化2年(1805) 6月23日 ●筑前大野家 大野貞幹没 法名 戒音斉却山節外居士
文政9年(1826) 8月29日 ●筑前大野家 大野昌貞没 法名 寛光院殿泰岳俊量居士
嘉永7年(1854) 3月17日 ●筑前大野家 大野貞明没 法名 覚林院殿華隠常春居士
明治4年(1871) 3月17日 ●筑前大野家 大野貞正没 法名 ■松院殿鶴翁退無居士


  • [101]
  • Re: 福岡藩の大野家 訂正

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月17日(金)19時30分25秒
 
> ⑥黒田藩大組大野忠右衛門のフルネームは分りませんか?

と書きましたが大野忠右衛門は生徳四年卒の大野貞勝のことですよね?
合致していれば返答は無用です。あしからず。

  • [100]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月17日(金)19時12分55秒
 
神谷様ようこそ「喫茶室ゆづき」はお越しくださいました。
予州大野家の直接の後胤の方はNAOKO氏以来二人目です。
今後とも宜しく御願いいたします。

さて順番にお尋ねいたします。
①祖母様の実家には今も系図をお持ちでしょうか?
②舅大野隆直(直秀)のことは系図に書かれているのでしょうか?
③村上直吉が通康の子とする記述がありますでしょうか?
④直吉の長男、勘右衛門直生、二男、九大夫氏重のその後はなにか書かれていませんか?
⑤大野隆直の卒年と葬った寺は分りませんか?
⑥黒田藩大組大野忠右衛門のフルネームは分りませんか?

分る範囲で結構です。

こちらの情報とそちらの情報を突合すると史実がよりはっきりするかもしれませんね?
後に土井家家臣大野家や、紀州徳川藩家臣大野家や彦根井伊家家臣大野家や、播州赤穂大野家、
大坂天野屋、中和門院の女房大野備後、将軍徳川秀忠の室、江に仕えたとされる大野河内らは
どうも連携しあっているような気がしてなりません。

神谷さんの見のがしている記述で新たな発見があるかもしれませんね。
今後が楽しみです。




  • [99]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:神谷杖治メール
  • 投稿日:2012年 2月17日(金)00時49分15秒
 
私の祖母は黒田藩大組大野忠右衛門の子孫です。福岡市博物館の大野忠右衛門展が話題になっているので、知っていることをお話します。来島の村上右衛門大輔通康(一時、伊予河野家の家督を舅の通直から譲られて河野出雲守通康と名乗り、内紛の結果村上出雲守に復姓。河野家門として家紋も使うことを認められる。豊後森藩主久留嶋氏祖)の子の左馬衛門直吉が舅の大野直秀(隆直)から家督を譲られ大野左馬衛門直吉として1500石で黒田如水に使えました。通康の系図は正室の物しか見つからないので、直吉の名はみつかりませんが、正室の次男の村上吉清は黒田長政に使えていますので、「通康子」ということがウソならすぐ露見します。通康の庶子か猶子である筈です。猶子なら、能島の家督騒動で通康の所にに逃げ込んだ村上吉益(義益)の子の可能性があります。直吉の長男の勘右衛門直生は河野の家紋を嗣いだようですが、私の先祖の三男の忠右衛門(初め三郎左衛門)吉乗は村上家の家紋を受け継ぎました。(村上師清のとき北畠親房から北畠の猶子と認められて、村上氏は清和源氏から村上源氏の系譜に繋がりました。)以降、吉勝、貞勝と続きました。

  • [98]
  • Re: 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月11日(土)17時24分28秒
 
> ○赤穂市に大野九郎兵衛の地元情報は如何かと問合せをかけています。
>  返事がくればUPしましょう。

●赤穂市からはまだなんら返事がありません。
 赤穂市民の殆どは「仮名手本忠臣蔵」が史実と思っていますから城代家老大野九郎兵衛が有能な経済官僚で
 貧乏藩赤穂を裕福藩にしたなどとは思いたくないのかも知れませんね(笑い)
 あくまで悪者にしないと大石内蔵助以下の浪士が光りませんので(笑い)

 彼の遺品をUPして見ましょう。一つは九郎兵衛が使い込んだ算盤(大石神社蔵)と
 彼が発行した赤穂藩藩札です。(これが後に断絶の時の回収交換率を廻る話となります)

  • [97]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月11日(土)07時13分30秒
 
> > 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。

●上記の大野直尚覚書を直尚手記と思って見直して見ましたが、同文はありませんので別物ですね?

 手許に覚書が手許にあるのかないのかよく分りませんので、宜しければ「覚書」部分をメール
 して頂けませんか?

  • [96]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)21時15分58秒
 
> 大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。
> これは、慶長5年正月、大阪城西の丸の徳川家康に諸大、小名が新年の祝儀に参上したのに、上杉景勝だけ本人が上洛しなかったので、評議によって会津攻撃が決定した。
> 随行大名は黒田長政~山内一豊~等々、家康の直臣、井伊直政、本多正信~等、5万5800余人だったそうです
> 。
> 大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。

●やはり勘違いされているのではないでしょうか?

 上川村本の直綱の条の会津行きは家康の会津征伐に同行したのではなく、物見遊山で会津に行きそこで
 病死したとされ、時は寛永11年(1634)4月22日とされますから、徳川軍の会津征伐ではないと思います。
 しかも途中で石田三成が徳川討伐に動いたので行軍の途中、栃木県小山市で軍議を開きUターンしたと
 記憶します。

> 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。
> この人物は、呑舟様がご教示くださった土井遠江守利隆(1619~1685)の父親で土井利勝(1573~1644)ですね。土井利勝は徳川秀忠が誕生したときからの傳役(もりやく)で、大老にまで出世します。

●下記ですね。

【小田上川庄屋大野直尚の覚書に
『 直之に一女二男あり、女子備後、一男直綱、二男直次、紀州へ有付云々、亦江州彦根との文通に江戸屋敷土井(土居?)大炊頭殿に相勤候。菅田吉右衛門は直之の子ノ由。旗本安藤伊賀守、安藤九左衛門は直之の娘の子ノ由。藤堂大学頭御内、大野文右衛門の親は半左衛門といい、これも直之の子ノ由。安藤対馬守(重信?)御内、大野忠兵衛は文右衛門の弟ノ由。其後、御所院寄騎に相成申候由 』とある。

 これは直尚が若干混乱していると思われますが、大筋では事実なのではないでしょうか?
ニ男とは長男直隆で二男が直綱の間違いと思われます。
直次は大洲本・屋代本が記すように直綱の息と思われます。
菅田吉右衛門と半左衛門は同一人物で直綱のことと思われます。
文右衛門は息子の直次のことと思われます。
となると直綱と直次親子が土井家家臣で土井大野として続き、
直綱の次男で直次の弟の直偆が紀伊徳川家に仕官できたものと思われます。

流れからすると直綱は慶長5年に主家断絶により、浪人となり、江戸に赴くもしばらく浪人で
慶長10年に土井利勝が従五位下大炊助に叙任された以降の仕官と思われます。
この時点に於いては土井利勝は下総小見川1万石なので、秀忠が将軍に就任後慶長15年に利勝が下総佐倉
三万二千四百石となり老中となった前後の仕官が自然と思われます。
大野河内とのからみを見る必要がありそうです。

また慶長10年には大野備後が中和門院女房となりますのでこちらの方の口利きの可能性もあります。
同年は秀忠が将軍になりますので、中和門院からの口添えとすると秀忠も丁寧にとり扱わなければなりません。

大野備後、大野河内、大野直綱の糸が繋がり始めましたね。

あとは徳川家の一次史料が出てくればOKなのですが・・・・。



  • [95]
  • 訂正です

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)13時38分41秒
 
大野直綱が「会津で卒す」とするのは伊予史談会本でした。

  • [94]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)12時51分9秒
 
>>93
> > 大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。
>
> ●これは何に書いてましたっけ?

◎大洲本では、たしか直綱は「会津で卒」することになっていたはずですが?
桐本では「会津に赴く」という記述だけです。


> > 大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。
> >
> > 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。
>
> ●これは「覚書」のどの部分でしたっけ?
>  近頃、ボケの神様がするよりますので(はあ)
>
> この後長々書きましたがワンクリックでどこかに飛びましたので止めろ!との「天の声」して中座します。
> あ~あ一時間かけたのに。

◎わ~残念!大野直尚の覚書は、このスレッドの[No61]を見ていただけますか?

  • [93]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)00時26分17秒
 
> 大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。

●これは何に書いてましたっけ?

> これは、慶長5年正月、大阪城西の丸の徳川家康に諸大、小名が新年の祝儀に参上したのに、上杉景勝だけ本人が上洛しなかったので、評議によって会津攻撃が決定した。
> 随行大名は黒田長政~山内一豊~等々、家康の直臣、井伊直政、本多正信~等、5万5800余人だったそうです
> 。
> 大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。
>
> 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。

●これは「覚書」のどの部分でしたっけ?
 近頃、ボケの神様がするよりますので(はあ)

この後長々書きましたがワンクリックでどこかに飛びましたので止めろ!との「天の声」して中座します。
あ~あ一時間かけたのに。



  • [92]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月 9日(木)18時38分26秒
 
直綱は
> > 慶長三年に長束大蔵大輔に召出されて父直之の堪忍料として江州栗田郡駒井中村を賜ったとされます。
> > 故あって同所を去り武州江戸に出て浪人とあるので、なにか不始末があったのかも知れません。


>  長束大蔵大輔は長束正家のことらしく彼は豊臣政権の五奉行の末席奉行で主に経済面や兵站部分を
>  担当していた人物です。

○長束大蔵大輔の情報を有難うございます。
大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。
これは、慶長5年正月、大阪城西の丸の徳川家康に諸大、小名が新年の祝儀に参上したのに、上杉景勝だけ本人が上洛しなかったので、評議によって会津攻撃が決定した。
随行大名は黒田長政~山内一豊~等々、家康の直臣、井伊直政、本多正信~等、5万5800余人だったそうです

大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。

小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。
この人物は、呑舟様がご教示くださった土井遠江守利隆(1619~1685)の父親で土井利勝(1573~1644)ですね。土井利勝は徳川秀忠が誕生したときからの傳役(もりやく)で、大老にまで出世します。

土井家中の伊予大野氏もたぶんいい役儀をもらったことでしょう。
案外、この土井家中の大野氏が重要な役回りを担ったのかもしれません。
同時代の福岡筑前、紀州和歌山、江州彦根、江戸、加えて浅野家中の大野氏を探索しなくてはなりませんね。気が遠くなりそうです。



  • [91]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 8日(水)14時39分29秒
 
> ここで黒田如水の名が出てきて大政所(ねね?)を通じて秀吉の耳に入ったとされますが、事実か誇張かは
> 分りませんが黒田如水と絡むところが黒田家士大野家を連想します。
> 慶長三年に長束大蔵大輔に召出されて父直之の堪忍料として江州栗田郡駒井中村を賜ったとされます。
> 故あって同所を去り武州江戸に出て浪人とあるので、なにか不始末があったのかも知れません。
>
> ただ「屋代島本」によると彼は土井遠江守に仕えて六百石とありますので一時牢人したのかそれとも
> 土井家へのトラバーユで揉めたのか面白いところです。土井遠江守は徳川直参重臣と思われますので
> トラバーユのようです。

●と書きましたがトラバーユではなさそうですね。
 長束大蔵大輔は長束正家のことらしく彼は豊臣政権の五奉行の末席奉行で主に経済面や兵站部分を
 担当していた人物です。
 紀州菅田系譜が語る「秀吉より長束大蔵大輔(正家)をして(彼の領知の内)江州栗田(太)郡駒井中村
 を知行」とあるのは史実と思われます。
 慶長三年知行と「上川村本」は書きますが、知行の秀吉の口利きが慶長元年の朝鮮征伐の武功とされるので
 当時長束は近江水口城五万石の城主でうすが、慶長二年に十二万石に加増さらますのでこの時の仕官かと
 思われます。少なくても慶長三年八月十八日に秀吉は死にますので此処までの間と思われます。
 秀吉は慶長三年は殆どモウロクしてますから仕官は慶長二年と思っています。

 この秀吉の死から雲行きが長束家は雲行きがおかしくなり、徳川家との交渉役との経緯から徳川家康にも
 近く徳川秀忠を質として迎えるのも彼であり、ここで秀忠と接触するので後に「大野河内」が秀忠室に上がる
 とされるのもこれ等が縁かもしれない。
 結局長束は石田三成に味方して関ヶ原の戦いで西軍となり敗北し、敗走したが、本領安堵に騙されて
 ノコノコ出て行って池田軍に捕まって切腹させられた。

 よって慶長五年の長束家断絶により大野直綱は江戸に向ったと思われます。
 この時「河内」も行動をともにしていると思われます。
 大野備後は慶長十年に中和門院の女房となりますからこの五年間になんらかの経緯が
 あったものと思われます。
 大野河内、大野備後、大野直綱、大野(大坂・天野屋)はすべて同時代なので
 一族として連絡を取り合っていた可能性が高い。



  • [90]
  • 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 8日(水)07時57分14秒
 
ひとまず、黒田福岡藩大野家探索はNAOKO氏に御願いするとして
紀州徳川 大野(菅田)を探索してみます。

まず紀州大野(菅田)が予州大野から分かれるのが、菅田城主(のち大津城主)大野直之(直行)
別名菅田直之の息子直綱を祖とします。兄直隆は土州大野(小野)家の祖ですね?

この直綱は天正8年誕生、天正13年大津城落去の時、豊後の大友家を頼って渡海しますが、わづか五歳ですから
誰が連れていったのでしょうか?
系図により姉とも叔母ともされる「大野備後」もこの時十一歳ですから誰か付添家司が付いていたと思われ
ます。母は河野氏女とありますから、直之室の宇都宮の娘の子ではありませんね。
慶長元年に大友家に属して朝鮮征伐に出かけています。十七歳で勲功ありとされます。
ここで黒田如水の名が出てきて大政所(ねね?)を通じて秀吉の耳に入ったとされますが、事実か誇張かは
分りませんが黒田如水と絡むところが黒田家士大野家を連想します。
慶長三年に長束大蔵大輔に召出されて父直之の堪忍料として江州栗田郡駒井中村を賜ったとされます。
故あって同所を去り武州江戸に出て浪人とあるので、なにか不始末があったのかも知れません。

ただ「屋代島本」によると彼は土井遠江守に仕えて六百石とありますので一時牢人したのかそれとも
土井家へのトラバーユで揉めたのか面白いところです。土井遠江守は徳川直参重臣と思われますので
トラバーユのようです。

直綱の息子は「大洲本」によると
 長男 大野文右衛門直次 土井遠江守仕 六百石
  (「予陽大野軍談」は菅田吉郎直政、土井遠江守家来 □□石)と記しますので彼は土井家臣として残ったの
    でしょう。ここでまた土井家臣大野家が発生します。土井遠江守は利隆と思われます。)

 二男 大野(菅田)吉右衛門直偆
    「紀州家中系譜」によると彼は母方の祖母のコネで紀州徳川家に仕官できたとされます。
    となると直綱の室は徳川家に近い家から嫁いできたものと思われます。
    ここでまた徳川秀忠の室「江」のそばに上がったとされる「大野河内」との関係が連想
    されます。単純に皆、知り合いだった可能性があります。
    直偆の長男が紀州大野家祖として記される「菅田吉右衛門豊直」でここから紀州大野系図は
    始まります。
    また「紀州家中系譜」に出てくる「大伴姓 菅田氏 初代 本国伊豫、生国武蔵 菅田直久は
    菅田吉衛門豊直の甥であると書いてますので分家もしくは新家となります。
    いづれかは石高の変遷を見ないと分りません。

 三男 大野九郎兵衛直広
    (大野家惣領の名乗りの九郎兵衛をもらってますので一番出来が良かったのかも?)

 四男 大野市右衛門直秀

---------------------

よって紀州大野は二男系で長男は土井大野家と思われますのでこちらも探索に出なくてはなりません。

少し気になるのは
「紀州家中系譜」には大野姓は居ないことになってますが、
 同書は
 菅田豊直の二男 大野吉左衛門は「御本丸御書院番与力 大野九郎兵衛直榮の養子」となっていますから
 大野直榮の跡を継いで大野姓に戻っています。
 この直榮が誰かを探索する必要も出てきました。

 和歌山県文書館に確認しないと分りませんがこの本丸とは和歌山城本丸ではなく江戸城本丸ではないかと
 思われます。紀州菅田家の歴代の当主が代々生国武蔵と書くのは、江戸詰の家臣で和歌山には家はなかった
 と思われます。江戸時代は同じ藩内でも勤務地の移動は殆どなかったと思われます。
 参勤交代か使い番でしか本領和歌山を見ることはなかったのではないでしょうか?
 甲府に使番で度々行ってますが、これは和歌山からではなく江戸からと思われます。

 今のところこんな按配です。

 まだまだ歴史制度の勉強が足りません。

     

  • [89]
  • 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 5日(日)20時06分29秒
 
> 元禄14年当時の赤穂藩城代家老大野九郎兵衛の出自を
> 調べていますが今ひとつはっきりしません。

○赤穂市に大野九郎兵衛の地元情報は如何かと問合せをかけています。
 返事がくればUPしましょう。

 その間、大野九郎兵衛の屋敷跡をUPしてみましょう。
 以前行った時は塩屋門(ボロボロ)の内側の更地のままで、すぐそばの現大石神社(隣りは大石内蔵助の役宅)
 でした。いまは相当整備されているものと思われます。
 一大観光資源ですから。

  • [88]
  • 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 4日(土)20時14分15秒
 
元禄14年当時の赤穂藩城代家老大野九郎兵衛の出自を
調べていますが今ひとつはっきりしません。

「仮名手本忠臣蔵」が彼を善玉「大石内蔵助」に対して悪玉「大野九郎兵衛」
 としているのは芝居上の演出で信用のおけるものではありません。

史実としてわかっているのは
①正保2年(1645)6月22日浅野長直が笠間から赤穂移封後の
 仕官で普代ではなく新参者であること。
②同年8月には早くも大坂高砂の町人に対し赤穂東濱の塩田
 開発の条件を近藤正純、奥野将監らと連名で提示していること。
③延宝3年(1675)藩主浅野長矩の許可を得て初めて藩札を
 発行していること。
④元禄時代の屋敷は城内塩屋門口にあったこと。

⑤赤穂藩断絶に伴い流浪の身となる。

ぐらいしかつかめていない。
所謂、新封地五万石の経済官僚として招聘され、赤穂塩田の開拓に手腕を発揮して
塩石高三万五千石を上乗せして赤穂藩を実質九万石近い実高にしたのは彼の功績
である。藩札発行もその一環です。所謂有能な経済官僚で「悪玉」ではありません。

私は「大野九郎兵衛」は伊豫の大野家の末裔ではないか
と調べています。赤穂浅野仕官は本家広島浅野家の
口利きではないかと思っています。
「九郎兵衛」は伊豫大野家の本分家を問わず惣領の
代々の名乗りです。
 伊豫大野家家紋は「木瓜ニ引両」「左巴」幕紋に
 「向鳩」を使用します。これらのいづれかを使用し
 ていないかと調べています。
 ただ「通字」が大野は「直」であるので彼が「房」使用
 しているようなので伊豫宇都宮家の影響を受けて
 いる可能性もあります。

 大坂の天野屋利兵衛と連携してやはり討入りの後方
 応援をしたのではないかと思っています。

 天野屋利兵衛は実在の人物ではないと主帳する人が
 いますが、実在の人物で大坂南町の惣年寄であり
 岡山池田公の出入り商人です。
 かつ、天野屋は赤穂大野と親族の可能性もあります。
 天野屋利兵衛の本姓は「大野九郎兵衛直之(直治)」
 で、伊豫大野家の子孫です。

 なんとか上記の関係を証明したいと思っています。

 赤穂市内に大野九郎兵衛の子孫を名乗る家がある
 ようですので連絡が取れればと思っています。



  • [87]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月31日(火)06時03分2秒
 
追伸

川岡レポートは右上の「プレビュー」をクリックしないと見れません。

  • [86]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月31日(火)05時42分43秒
 
> 家紋、替紋、幕紋について、紀州菅田家に比較的正確に継承されていることは、私も興味深く思っていました。やはり武門の家はさすがと感じています。

●家紋、替紋、幕紋で大伴以来のすべての由緒紋を正しく継承しているのは紀州大野(菅田)家のみです。
 これには驚きました。屋代大野系図には巴紋は利直時代に裏紋としていますから、宇都宮家巴紋より
 やはり八坂神社神紋の流れと思われます。
 紀州大野(菅田)系譜書を見ると、数ある大野系図の中で、今伊豫で一番流布されている「上川村大野系図系」
 が一番怪しいと感じてきました。
 元々上川村庄屋大野家にはきちんとした系図なるものは伝わっていない。
 よって江戸中期に当主大野和五郎が系図の資料集めに奔走している姿が彼の「手記」により明らかです。
 しかし、彼の彼の研究とまったく違う内容の「正統大野系図」なるものが上川村本として現在に伝わって
 います。内容的には和五郎の後の代の人が他の大野系図から転写の上、後の世を書き加えた感じです。
 よって上川村本を転写した、土州大野系図もこの系列になります。
 よって江戸中期の編纂と思われるので、信頼性が屋代島大野や、紀州菅田家より落ちるのは否めません。

>
> 直之の女「備後」足跡についても、戦国末期の大友氏の戦歴とその没落に連動していることと考え合わせると理解できます。ただ、大友氏の重臣・入田氏の宗家は、豊後・薩摩の合戦では主家を裏切って島津氏に内通し、合戦後は島津氏に仕えたらしい。そうすると文禄の役後、毛利家に蟄居した大友義統(よしむね)に随行したと思われる「備後」の夫・入田両庵は入田宗家とは別流でしょうね。

●これはよくわかりません、関係するともしないとも。当時は兄弟親子で敵味方に分かれるのは不思議では
 ありません、大野(菅田)直之と兄、直昌は対立しています。また直昌は兄直秀【隆直】とも対立したか
 のように「上川村本」は伝えます。曰く、大野家相続争いに負けた直秀が出奔した、としますが屋代島本
 は全く違う記述です。直昌も村上武吉も仲間同士でそこに行った、兄について上川村本は言及しません。

 永禄年中は伊豫はゴタゴタ続きです。川岡 勉先生のレポートがその一旦を垣間見させてくれます。
 ここにも菅田(直之系)と大野(直昌系)の対立が見えます。今度の宮尾氏の講演も同様な流れで
 大野直之を語るものと思われます。講義録か講義録音が欲しいところです。

http://ci.nii.ac.jp/els/110001046079.pdf?id=ART0001211296&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1327948786&cp=
>
> さて、すでにご存知のことと思いますが、「福岡藩・初期(上)」を見ていたら『収録史料の解題』に大野家文書の解説があったので、写真をUPしてみました。なお、私が入手したのは上巻であって、下巻の『大野家譜』はまだ見ておりません。この家譜は、東大史料編纂所の「土佐諸氏系図」の元祖が『越智姓、大野左馬右衛門直吉』の系譜と同じものかもしれませんね。

●有り難うございます、初めてみました、できれば下巻の「大野家譜」が是非とも見たいものですね。
 「土佐諸氏系図」の内容は「比較考証版」に記載の通りですが、家紋が河野家の「傍折敷波三文字」と
 なっていますね。これは下述の大野忠右衛門貞勝の像の羽織の紋所は村上家の紋の「丸に上」紋ですね。
 黒田藩士大野家の幕紋も「丸に上」の村上家紋です。紀州菅田家のように他に「堅木瓜ニ引」紋も使って
 いたのかもしれません。筑前大野家譜を見ないとわかりません。

> 大野左馬右衛門直吉の本姓は村上氏だそうですが、以前に福岡市博物館が取り上げた「大野忠右衛門の像」の由緒には、『村上天皇廿八代之苗裔村上右衛門/太輔通康五代之末葉大野忠右衛門/尉貞勝五十八歳之壽像也』とあるそうです。

●本姓は村上氏で間違いはありませんが、通康の系列とは思えません。
 本姓村上氏や安国寺との関連を「黒田家臣傳(大野傳)」【東大史料編纂所】で記録しています。
 著者は貝原益軒と思います。黒川さんちの「曽我部五衛門」も書かれています。
 私は筑後大野の上司「井上周防守」の動向に注目しています。
 筑前大野三兄弟は彼に従属しているからです。
 彼は今の福岡県黒崎に黒田藩の支城を築き、黒崎と命名します。大野三兄弟も移住したものと思います。
 大野直秀(隆直)はこの黒崎で死んだと屋代島本は記します。ただ没日が文禄4年としますが、黒崎城が
 できるのは1603年ですから系図の錯誤と思われます。今、直秀の墓を探しています。
 当時の寺とすれば、今のJR黒崎駅そばの「浄蓮寺」の可能性が高いと考えています。

>
> 村上通康は来島村上家の人ではありませんか?
> 大野直秀(隆直)が能島村上武吉の扶助を受けたのなら、直秀(隆直)の家司を務めた大野(村上)左馬右衛門直吉は能島村上家の人では?と浅学な私は?です。

●なぜ来島通康をもってきたのか「筑前大野家譜」を見ないとわかりません。
 私は村上左馬右衛門は村上隆勝の弟の村上河内守義統(吉和)の系列で来島村上系ではないと
 思っています。分りにくいですから「能島村上大連枝図」をメールしましょう。
 ついでに「河野家大連枝図」もつけておきますので「大野家大連枝図」とあわせて比較してください。
 「大野家大連枝図」は現存の赤ちゃんまで書いてますので他見無用に願います。

 ただ彼が来島通康に属していたかもしれません。村上三家は人と嫁のやり取りは頻繁にしていますから。

 この村上左馬右衛門を家来として後の大野の名跡を譲ると屋代島本は書きますから、名が大野、本姓村上で
 おかしくはありません。ただ福岡市でこの前「大野展」を開いたのは三兄弟の末弟と思われます。
 「大野家大連枝図」参照願います。

  • [85]
  • 福岡藩の大野家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 1月30日(月)12時32分52秒
 
呑舟様へのお返事です。
紀州菅田氏の系譜についてのご教示有難うございました。
家紋、替紋、幕紋について、紀州菅田家に比較的正確に継承されていることは、私も興味深く思っていました。やはり武門の家はさすがと感じています。

直之の女「備後」足跡についても、戦国末期の大友氏の戦歴とその没落に連動していることと考え合わせると理解できます。ただ、大友氏の重臣・入田氏の宗家は、豊後・薩摩の合戦では主家を裏切って島津氏に内通し、合戦後は島津氏に仕えたらしい。そうすると文禄の役後、毛利家に蟄居した大友義統(よしむね)に随行したと思われる「備後」の夫・入田両庵は入田宗家とは別流でしょうね。

さて、すでにご存知のことと思いますが、「福岡藩・初期(上)」を見ていたら『収録史料の解題』に大野家文書の解説があったので、写真をUPしてみました。なお、私が入手したのは上巻であって、下巻の『大野家譜』はまだ見ておりません。この家譜は、東大史料編纂所の「土佐諸氏系図」の元祖が『越智姓、大野左馬右衛門直吉』の系譜と同じものかもしれませんね。
大野左馬右衛門直吉の本姓は村上氏だそうですが、以前に福岡市博物館が取り上げた「大野忠右衛門の像」の由緒には、『村上天皇廿八代之苗裔村上右衛門/太輔通康五代之末葉大野忠右衛門/尉貞勝五十八歳之壽像也』とあるそうです。

村上通康は来島村上家の人ではありませんか?
大野直秀(隆直)が能島村上武吉の扶助を受けたのなら、直秀(隆直)の家司を務めた大野(村上)左馬右衛門直吉は能島村上家の人では?と浅学な私は?です。

なお、曽我部家に関する文書は残念ながら「福岡藩・初期(上)」「同 (下)」の目次には見当りませんでした。


  • [84]
  • 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月28日(土)09時16分1秒
 
>>72
> No.7085の元祖についての記事が興味深いです。
>
●ようやくこちらも届きました。御三家の紀州徳川家の家臣録とは思えない、簡単なものですね。
 たぶん正式で且つ詳細なものは焼却したか、秘蔵され表に出ないようにされた可能性がありますね。
 幕末に官軍の討伐を受け、敗軍となった徳川家が家臣に類が及ばないように正式なものは隠匿された
 可能性があります。「今あるのは簡単なものと幕末のものだけでそれ以前を処分した」とのことから
 後に「在藩証明書」を発行する目的で簡便なのを残したとも考えられます。
 今、残っているのもよく見ると役職の履歴と禄高の履歴が殆ど消されています。
 これは職務の内容とその立場を隠匿する必要があったとも考えられます。

 ひまなときに文書館に聞いてみましょう。


> ①大野直之の子の直綱が「宇都宮、毛利と一戦の節」から数行、わからない文字がありますが、
> *豊綱が生け捕られたが、直綱は一類の儀に付き・・(う~む?)・・直綱が豊綱の領地を譲与され宇都宮の継養子になって・・・ですか?

●この条は直之を直綱と誤っていますね。伊豫の大野系図にも同様な記述がありますが、ニュアンスが違いますね
 「宇都宮豊綱が生け捕られて芸州につれて行かれたのを直之が相手の見張りを切り崩して連れて帰り、
  その恩で宇都宮の養氏となり宇都宮領を受領して、大洲(大津)城に移った」かのような記述ですが
  これは直之の条であって、豊綱を奪還した事実はないともされるところです。
  やむ得ないとは思いますが、「大津」を「大洲」と江戸期の表記にしてありますから
  原本はすでに江戸期に作られていたと思われます。

>
> 直綱は桐本では天正5年生まれ、上川本では天正8年生まれだから年代があわないですね、直之のことと混同していますね?

 ●はい そうですね。

> ②繁直が足利義政よりのご教書数通、並びに直行(ママ)までに諸家よりの来書、神文等18通を所持とある。菅田家はすごいかも?神文というのはどんな書簡をいうのでしょうか。

 ●これが史実ならすごいですね。
  大野家にとって一番重要な将軍の御教書等の文書18通を大事に所持しているならすごいです。
  もし原本なら宗家となります。
  繁直から数えて七代目として直之の前をすべて飛ばしますが、文書の秘蔵と云い、本来の大野家の伊豫の
  本貫地菅田を領有していることから、大野家再興の主繁直の直系筋が系図上正しいのかも知れません。
  ひょっとするとこちらが本家の可能性がでてきました。

  分家筋が小田に移り、さらに久万大除城に移ったとも考えられます。
  伊豫系系図にトリックがあるのかもしれません。
  嫡男を系図上、二男以下に取り替えれば済むだけで簡単に改竄できます。

  18通が出てきてそれが原本ならトリックが解明でいきるかもしれません。
  原本は宗家が引き継ぎます。分家はその写しがもらえる程度です。
  内容の文章は系図に書き込まれることが多いですが、その系図の所蔵者が主家とは限りません。

  「神文」は単なる「誓約書」です。
  「貴方を必ずお守りします」だの「必ずお味方します」等の「誓約書」で文の最後に必ず全国の有名な
   神様の名を羅列してこれらの神に誓って、と結びますから「神文」とよばれます。有名なのは熊野三社
   の牛王宝印(誓紙)を使うもので「神文」とか「起請文」とか呼ばれます。
   この用紙は今では熊野三山に行けばおみやげで売っています。烏が一杯刷られています(笑い)
   三社それぞれデザインが違いますから集める人もいます。

   この烏は指が1本多い烏で日本サッカー陣の旗にも使われます。
   この烏は「日本書記」にある神武天皇東征の時、熊野から大和を目指す道案内の烏とされます。

   なんてことはありません、大野家遠祖、大伴家の「道臣命」のデフォルメです。
   「道臣命」はカラス(烏)にされて今は全国のサッカー上ではためいて、選手の胸にも
   描かれています。良いことなのか?馬鹿にされているのか?複雑です。


 早い話が「嘘ついたら針千本飲みま~す」と書いて戦国時代は簡単に裏切りますので形式的なもののように
 なってしまいました。よって戦国期は神文は濫発していますから沢山残っています。


> 直綱、直偆父子が江戸で浪人(仕える主人はいなかった?)していたとありますが、四谷左門町のことは記載がない。
>

●これは今後の研究課題です。紀州の報告者は大昔のことを伝承でもわかって居なかったと思います。

> ③紀州菅田系譜では、大野吉左衛門豊充は菅田豊直の次男とあります。
> 桐本(名野川本も同じ)では、直綱の三男直廣の孫になっているので、桐本を書き換えなければなりません

●これはもう少し精査してからでいいでしょう。

●今回の「菅田吉右衛門豊直」家系譜で興味深いのは、
 家紋が「立木瓜ニ引」とあり、これは「堅木瓜ニ引両」紋と同じで伊豫大野家の本来紋です。
 慶長十三年の大野壽慶が日野林彦四郎に内緒で教えた「二引きが上」の説はやはり勘違いでしょう。

 替紋として「三ツ頭左巴」と「横木瓜ニ引」とあります。
 「三ツ頭左巴」は大野家裏紋として「屋代島大野系譜」(九州帝大蔵版)にも出てきます。
 伊豫系の大野系図には出てきません。
 由緒は二つ考えられます。「宇都宮家」家紋を引き継いだ。あるいは遠祖大伴家の神社である
 京都八坂神社の神紋を使用。(こちらは河野家が大山祇神社の神紋を家紋としているのと同じ理由)
 「横木瓜ニ引」は三河の大伴姓冨永家が使用しています。堅木瓜のように上下に細くしない
 通常の木瓜形と思います。

 幕紋に「黒併ニ向鳩」とありますが、これは大野系図の直義(たぶん直仲と同一人物)が大野家に養子に
 来た時の持参紋と思われます。彼は武州熊谷の熊谷家分家の芸州熊谷家から養子に来たとされ、熊谷家の
 家紋が「向鳩」です。又、彼から熊谷家通字の「直」が大野家でも踏襲されます。

 ●こちらも始祖を天智天皇 大友皇子から始まりますから、間違いは戦国以前からとなりますね。

 ●直之の女「備後」の足跡が理解できました。彼女は
 天正13年に早くも豊後大友家に12歳で預けられています。
 天正18年に17歳で結婚します。同年上洛しますが翌年豊後に帰ります。
 文禄二年に大友家没落で防州山口に移ります。(これは大友家を庇護した毛利によるものです)
 慶長10年に中和門院の女房となりますが、これは有力なコネが作用していると思われます。
 山口で庇護されていた大友は慶長5年に毛利から武器と兵を借りて豊後奪還を試みますが
 黒田如水によって石垣原の戦いで負けます。
 皮肉なことにこの如水軍に黒川さんちの曽我部五右衛門さんと大野隆直養子大野(本姓村上)左馬右衛門
 の子、長男勘右衛門直主、二男久太夫氏重、三男三郎左衛門吉乗は大活躍をして黒崎を経て博多に屋敷を
 移し明治を迎ます。(以前の福岡市博物館の大野家展はこの家です)曽我部さんは残念ながら討死しました。
 (別スレッド参照)
 これは豊後の「関ヶ原の戦い」と呼ばれるもので、同時に伊豫の関ヶ原の戦いとされる「松前の戦い」も
 行っており、こちらは隆直の嫡男、直政が河野牛福通直後継の河野太郎を総大将として、村上元吉の家老
 の立場で参戦し、敵方の差し入れの酒に油断して、元吉は討死して、直政は頬に大怪我をして、平岡さんが
 別働隊で頑張ってくれたのですが、本戦場の関ヶ原で毛利側西軍はあっさり負けたのでほうほうの体で
 竹原にかえります。
 豊後も松前も豊臣秀頼の朱印状を持って、徳川家謀反による城引渡しの正使の形を整えての「進行」で
 「侵攻」ではありません。
 秀吉の甥っ子(小早川養子)が裏切らなかったら、歴史は変わって河野家は四国すべてを領有していたかも
 しれません。この裏切りをそそのかしたのも河野家縁者とするのも皮肉なものです。

 江州栗田郡駒井中村領有の経緯はわかりましたが、故あって江戸で牢人は今後の調査対象ですね。

 江州井伊家に仕えているのはこの系列の可能性がありますね。

 紀州徳川家には村上吉継の子孫も仕官してますし、黒川さんの縁者も仕官とされますので
 結構 就職戦線は売り手市場と思われます。
 江戸期の固定化した身分制度による就職戦線より慶長年間までは就職自由の状態が見られます。
 「ニ君に見えず」などと「滅私奉公」を美徳にするのは江戸中期以降の考えに囚われると危険です。

しかし、一つ分ると次々と別の疑問が湧いてくるのが難儀です。


 


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