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  • 河野家文書を見る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)12時46分8秒
 
河野家伝来の文書もいろいろありどれが史実かよく分らない。
一次史料の証拠と思われる書簡も全体を検証をすると?????の連続である。
それぞれの管見に入ったものを信じる傾向にあり、より多くの史料が求められます。
合理的な検討を加えて検証するスレッドとしたい。
出来るだけ出典を明示して他文書と検証することで史実に近付きたいと思います。
全国の河野関係者だけでなく歴史ファンの投稿をお待ちします。

もっとも河野家文書だけと限りません。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [4]
  • Re: 河野家出自~興味津々!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 9月16日(金)12時31分32秒
 
呑舟師、この度のご教示の儀真に庵主としても興味深き感也。感謝~かんしゃ。南無


  • [3]
  • 河野家出自

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 9月16日(金)03時43分40秒
 
南朝系子孫と思われる河野家に残る文書は
遠祖をニヒハヤヒ系の国造家とする、河野家はその女を娶り、越智国造家を襲う(継承)と読めるから養子のようである。
漢文は弱いので、一部UPしみなさんの解釈をお聞かせ願えればと。


  • [2]
  • 天正15年牛福通直高野山登山は誰の加筆か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)18時33分27秒
 
「予陽河野家譜」が語る天正十五年通直湯築城を出て三津より出帆し有馬温泉で
湯治し後、高野山へ登った後、芸州竹原に隠居するとされる。

実態は全く是にそぐわない。
有馬温泉にも高野山にも行っていないはほぼ確実である。
この伝承の元が何であるか以前から不思議である。

有馬温泉湯治伝承は「得能予章記」の末尾に南明の奥書として
「天正十五年通直病気ゆえ有馬に湯治に行き、帰国の途中 安芸竹原で逝去」
とする。
この文書も史実ではないのだが、南明はそう受け止めているようだ。
なら南明も河野家系譜を整理しなおすのだから、「予陽河野家譜」の高野山登山
説は彼以外のものか若しくは南明禅師以降の創作となります。
「予陽河野家譜」は南明時代最終編纂と考えていたがもっと時代が下るのかも
しれない。

独り言ながら、古代から天皇が参湯される最古の湯治湯のど真ん中(道後温泉)にいた通直をなぜ有馬温泉に連れて行かねばならなかったのでしょうかね?
当時の効能が道後温泉より有馬温泉の方が通直に適していたのですかね?

現在の有馬温泉CMのキャッチコピーに使えますね。
『道後温泉の殿様 最後に有馬温泉に頼る!』と
(笑)

  • [1]
  • 細川頼之書簡

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)14時21分23秒
 
このスレッドの立ち上げは本スレッドに黒河さんがUPした康安二年の細川頼之が
河野對馬入道への書簡がきっかけです。
この書簡の出所は書かれてないので不明ですが手許の資料内では底本は「河野家譜
築山本」の系統と思われる写しの書簡と思われます。
なぜか「予陽河野家譜」には見当たりません。
「予章記長福寺本」「予章記上蔵院本」にはあります。
他の多くの関連系図や先祖伝来文書も有ったり無かったりするのでしょう。

同じ所だけ観測することを定点観測と言われますが、同手法で検証すると
①同一文書が同一系統文書に有るか否か?
②有った場合それは同一か?
③あった場合、それが他の第三者の史実資料と矛盾しないか?
で見ていくのも面白いものです。

①’なぜ「予陽河野家譜」に所収されていないか?
  考えられるケースは
  編集時の「底本」に元々ない。
  関係文書が手許にない。
  他文書が持っていて収集されていない。
  他文書が偽書等
  と思われます。

②’これは比較考証すれば分ることですがどれが本物かは
  当時の書式形態と書いた本人のくせと花押が決めてとなります。

 1)この文書の原本はもはや失われ謄写文だけが残っていると思われます。

 2)この書簡の謄写した時の著者のくせが残ってすべて微妙に違います。

   a)久枝入道が何者か分らないので(元阿叓歟)と注釈を入れるのが
    「築山本」ですが 両予章記は注釈なしです。
   b)意味は同じですが、「江」を「へ」とし。「叓」を「事」とし
     「畢」を「了」とししていることは時代を想像できます。
   c)比較すると、本文の脱落文字があります、只、「後信」後の「候」の
     脱字は共通しますのでどれも「原本」ではない証明となります。
   d)年号は一部文書が康安三年としていますがこれは間違いとして
     月を卯月を四月としている文書があり、c)と比較し古い使用方法
     がその文書の成立順位と思われます。
   e)黒川up文書は差出人を「頼之」とのみ記入します。
     これは明らかな謄写メモです。
     本来は「頼之 在判(花押)」か「在判(花押のみ」でしょう。
     「頼之」も同年七月一日の同じ河野對馬入道宛には
     「右馬頭頼之」としているので「右馬頭」任官がいつかが気になります
   f)up書に「謹上」書かれているのは「河野家譜築山本」の(東大史料編纂     所)の謄写本で、景浦勉氏の「河野家譜 築山本」にはありませんので
     同じ「築山本」でも底本が違うのかもしれません。

このように黒川さんupの文書一枚で解釈もまた異なります。

3)この文書の背景には
 南朝に降伏した細川清氏が康安二年に河内国から阿波国に移り勢力の回復を
 計った。義詮は細川頼之に命じて討伐に当たらせるとともに、河野通盛(對馬
 入道)に対しても頼之と協議して行動するよう指示している時です。

これらにより各文書の成立順(年)を確認することで資料の親・子・孫の関係
が分り、これらを認識しないと史実研究はトンチンカンとなります。





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