• [0]
  • 平岡氏の家系

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月18日(金)23時49分57秒
 
はじめて投稿いたします。
最近先祖の関係を調べはじめて行き詰っていたところ、こちらのサイトを見つけ
管理人様に相談の上で投稿させていただいた次第でございます。
当方の先祖は長州毛利氏の家臣飯田氏(毛利水軍)で、江戸時代は周防大島(屋代島)の一部を領していたようですが、江戸末期には同じく周防大島を領していたと思われる平岡家から室を迎えたようです。
つまり平岡家とは遠い血縁関係になると思われますが、詳しい出自などが判りません。
親戚のメモによると平岡通明-通政-通義-通元(江戸後期から幕末)等の名前が確認出来ます。
この方々を辿ると、喫茶室内のスレッド「牛福通直と平岡氏」内に掲載されている平岡通倚氏などに家系として繋がるのでしょうか?
初めてのスレッドで相談するのも大変恐縮なのですが、
もしご存知の方がいらっしゃれば色々と教えていただければ幸いです。

また、家系図などを所有されている方で、それを控えを頂くか見せていただくことは可能でしょうか。
または、調べる方法や掲載されている書籍を教えていただけないでしょうか。
以上、ご指南の程、よろしくお願い申し上げます。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [37]
  • Re: 飯田家の回答

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月28日(木)17時14分53秒
 
> ところで毛利家の最盛期は織田家と領地境界を接するようになるころで因幡や美作にまで及んでいた思っていましたが、やはり宇喜多や山名など各国人領主達が傘下に入って毛利方だっただけで、実質の直轄地は豊臣政権時代とそんなに変わらないのでしょうか?
> 例えば、伯耆や美作や備中半国は元々毛利家の直轄領を織田家に削り取られたという認識だったのですが。

○色々変遷がありますからなんとも言えませんね。

> ●村上家の最盛期というのは竹原に居た頃ですか?ちなみに竹原時代は何石ほど治めていたのですか?

○竹原時代は没落時代です。
 色んな説があります概ね3500石から5000石ぐらいが能島村上でしょう。
 因島村上は1800~2500石と時期や出典により変遷しますが、海賊衆にとっては領地は
 あまり意味がありません。

 勘違いする人が多いのですが、海賊衆と言うのは古来、特定の殿様の家来ではありません。
 よって、「一所懸命」なる領地は貰えません。

 領地を貰うと特定の殿様の臣下となり仕えなくてはなりません。
 殿様の方も都合の良い時だけ使用できればいいだけなので、自分の所領を分けてまで臣下には
 しませんでした。頼めば動くとする支配的関係のみでした。

 今で言うと警備会社と運送会社のようなもので、必要だからと言って、愛媛県が日本通運や
 アルソックを県職員(公務員)として直下雇いしないようなものです。

 ですから、どの海賊も生産に適した処に居住していません。
 殆ど海関の近くで、領主からすれば農耕の生産性のない不毛な地ですので目くじらは
 立てません。

 瀬戸内海には沢山の海賊がいます。三島村上はその一部にしかすぎません。
 彼等は殆ど、零細な漁民の集団で喰うや食わずで特定の殿様から生活費はもらえません。
 不漁のときは海賊をするしかありませんでした。

 村上家にも時折、仕事のオファーがかかります。殆ど近隣の殿様からの水運警固の臨時の仕事
 です。村上家に一番オーダーをだしたのは大友家と言われています、次が大内家、次が武田家、
 伊豫の河野家も時折仕事を呉れたとされます。

 因島村上と野嶋村上と来島村上は同じグループ会社ですが、オファーは個別にきます。

 全部に行く大仕事は大内の朝鮮や中国への渡航の時くらいです。
 有名なのは「厳島合戦」のオファーです。
 これはクライアントが大内系陶と新興の毛利ですので色んな説があり確定していません。

 各殿様も下請けとしか見ていませんし、正式の臣下とはしません。

 よって村上海賊は「河野水軍」であり「大友水軍」であり「大内水軍」であり「武田水軍」であり
 最後には「小早川水軍」で隆景卒後、「毛利水軍」となります。
 格好よく言えば「全方位外交」ですが、所詮、安定収入がなかったからです。
 後世の関係者は格好の良いところは「水軍」と表現し、かっぱらいをしていた処は無視する傾向
 があります。フロイスも朝鮮の使節団長も「かっぱらいほうの海賊」と記録しますが、「水軍」の
 言葉に酔いたい人もいるようです。人それぞれですのでどうでも良いことです。

 その都度一回限りの請負ですので、生活は安定しません、
 そこで考えだしたのは、「帆別銭」「櫓別銭」なる瀬戸内航路の安全を保証する「パイロット料と
 安全を保証する通行料」による安定収入でした。これは瀬戸内の海賊が皆、カルテルを結ばないと
 機能しません。村上武吉の時が一番安定したカルテル組織になったとされます。

 この通行料は時期によって違いますが、積荷の一割とされます。
 現金ではなく現物支給ですので、海賊みづから売り捌かないと食い物になりません。
 村上海賊営業部は各地を販売して歩きます。
 相手も貧乏ですから、全額払えません。仕方ないので、割賦(クレジット)にしました。
 日本のクレジットシステム(割賦販売)の元祖は瀬戸内海賊営業部と言われる所以です。

 このことは陸の人間から見れば、海賊衆を取り込まなければ、瀬戸内に船一艘独自に動かせない
 強大な組織となり、ようやく沿岸の領主や中央政府までも海賊の取り込みを始めます。

 よって臣下の礼を取らすべく領地を戦国期になり与え始めます。

 海賊衆は所領を呉れることはあまり求めていません。
 何故なら領地支配のノウハウ(代官や庄屋等の統治組織)が無かったからです。
 当初は呉れるなら貰ってやろう程度でしかありません。

 彼等が一番大事な収入源を断たれたのは秀吉の「海賊禁止令」により本業が立ち行かなくなって
 からで、そこから没落が始まります。

 秀吉に狙われるほど、財政面と政治面では村上水軍は大大名と同じ扱いとなっていました。
 それが、豊後の大友、中国の大内、毛利、伊豫の河野と結んでいるとなれば、村上衆分裂を
 画策するのは、自然の成り行きです。

 これが成功したのは、河野家家督相続内紛による、来島村上の取り込み成功でした。
 この時から伊豫河野家は滅亡への道を歩み始めました。
 連鎖して因島村上、能島村上、小早川、毛利家の対秀吉(信長)へのパワーバランスが崩れ
 る元ともなりました。

> ●毛利家の庇護を受けていたようなので、萩藩に加わってるのかなとは思っていましたが、幕末に数十人もいたのですね。寄組や大組にもあったのですか?

○寄組、大組、陪臣の足軽まで含みます。


> ●おっしゃっている内容のことを指しているか判りませんが、
> 1740年の系図には清和天皇の後胤の・・・というような表記で書かれているので、①のことでしょうか。
> ②では、飯田信基の後は時代が飛んで飯田義武の父(?)藤左衛門から書かれています。下向の経緯や代々譜代・・などは書かれていません。
> 毛利家に世話になった始祖からということであれば、やはり飯田義武から仕え始めた、ということもありうるということでしょうか。
> ④の母、妻の出自は書かれていますが、③は一部の他の系統の石高が載っているくらいで本家の石高ことは特にかいてありませんでした。

○同じ家でも時期により何回も由緒書(系図等)を提出します。

 皆がバラバラで出してくるので、事前に「提出原稿手引書」を渡して
 そのように統一して書いて来いとしたもののようですから、江戸中期以降の
 物のようです。所謂、役所の提出書類の「書式統一文書」ですね。

 江戸中期編纂の「防長風土注進案」も統一書式で書かれていますが、例外的に岩国支藩は
 統一されてないようです。

 「風土注進案」の(大島宰判)の部には飯田家のことは沢山載っていると思われますが
 今、手許にありませんので分りません。

 暇があればお調べください。

  • [36]
  • Re: 飯田家の回答

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 6月27日(水)20時11分39秒
 
呑舟様>
>八箇国時代の分限帳と言うのは天正19年前後の分限帳といわれています。
 その時代は毛利家の風上に立つ、秀吉の指示で毛利家領検地(財産調査)を天正19年3月にしました
 ので、これはこの頃の知行で毛利家最盛期のものでしょう。
 この時毛利家は百十二万石でしたが、関ヶ原以降、知行高は触らないとの約束を家康に
 反古にされ、防長二国の三十七万石弱と三分の一にされます。
 この時の恨みが明治維新まで続きます。
 三蒲の知行は防長二国に押し込められたときのものでしょう。
 飯田家は毛利家普代の重臣ですから、それでも家格に準じた石高を維持したものと思われます。
 この時は大半が暇を出されて、出身地に帰るか、帰農するかで失業しています。
●なるほど、そういうことなのですね。むしろ飯田家は待遇が良かったと。
 今回の分限帳を見るまでは他家と同じく大幅に減らされたのだと思っておりました。
ただ所有している文書によると飯田義武は自身の領地の大島久賀村に退隠し、文禄元年7月7日に没し、その退隠跡に洞松寺を立てて菩提を弔ったと記載されているので、1592年には大島に領地があったはずです。
天正末期の1590年前後に本州のみの知行だったとするとその後、転封ないし加増されて本拠を大島に移したのでしょうね。

ところで毛利家の最盛期は織田家と領地境界を接するようになるころで因幡や美作にまで及んでいた思っていましたが、やはり宇喜多や山名など各国人領主達が傘下に入って毛利方だっただけで、実質の直轄地は豊臣政権時代とそんなに変わらないのでしょうか?
例えば、伯耆や美作や備中半国は元々毛利家の直轄領を織田家に削り取られたという認識だったのですが。

>海賊の棟梁、「能島村上分限帳」もこの時の最盛期の分限を記録しますが、その後の防長二国
 への減石は悲惨を極め、故郷の伊豫に帰る者、別の大名に仕官するもの、帰農する
 者、残った者達も地獄で俸禄返上や大幅カットされています。
●村上家の最盛期というのは竹原に居た頃ですか?ちなみに竹原時代は何石ほど治めていたのですか?

>七代目となると江戸中期ではなく、幕末と思えます、七代目の時代の元号はありませんか?
 幕末以降は明治の「廃藩置県」に繫がりますので藩としての系図の継続報告はなくなります。
 管理主体が消滅するからです。
●元文5年(1740)の提出だそうです。
 平岡ヒデさんが再婚した飯田義著は十代当主ですので、三代前の方ですね。
 ちなみに七代目は先代の娘婿という立場で、出自は福間彦右衛門政晨の三男とのことなので、
 詳しくは知りませんが萩藩の江戸留守居役の福間彦右衛門就辰や、吉川元春の命令で山中鹿之助を暗殺した福間彦右衛門元明の一族の人かもしれませんね。

>すべての譜録を見たわけではありませんのでよく分りません。
 伊豫河野家通字の「通」を使っているところをみると、戦国時代に毛利家の禄を食みだした
 伊豫河野家の末裔のその又分流と思われます。
 この場合、伊豫河野家末裔毛利家家臣の河野家と思われます。
 伊豫河野家末裔で毛利家で直臣や陪臣として明治を迎えるのは数十人います。
●毛利家の庇護を受けていたようなので、萩藩に加わってるのかなとは思っていましたが、幕末に数十人もいたのですね。寄組や大組にもあったのですか?

>家名の許に
 ①姓氏の部(本来の氏素性の説明、遠祖、源平藤橘等より始)
 ②世統の部(毛利家に世話になった始祖から報告者までの歴代当主の説明)
 ③禄格の部(②の歴代当主の禄高の変遷記録)
 ④母妻子女の部(②の歴代当主の母、妻の出自、子女の婚姻関係の説明)
が書かれています。
飯田家もあると思うのですがが、たくさん有りすぎて根気よく捜さないと分らないかもしれません。
膨大な藩政記録の中の一部でしょうから、その中で活字化されているのは1%もありません。

●おっしゃっている内容のことを指しているか判りませんが、
1740年の系図には清和天皇の後胤の・・・というような表記で書かれているので、①のことでしょうか。
②では、飯田信基の後は時代が飛んで飯田義武の父(?)藤左衛門から書かれています。下向の経緯や代々譜代・・などは書かれていません。
毛利家に世話になった始祖からということであれば、やはり飯田義武から仕え始めた、ということもありうるということでしょうか。
④の母、妻の出自は書かれていますが、③は一部の他の系統の石高が載っているくらいで本家の石高ことは特にかいてありませんでした。

>> 先日文書館からの回答が届きました。
> この間に調べてくれていたようです。
●よかったですね、文書館員も努力していたのですね?

●はい、お陰様で。
提出された系図以降の細かい捜索はさすがに無理でしたが
それ以前の確認出来る資料は色々見ていただけたようです。
普段の業務の合間にやられていたのだと思います。



  • [35]
  • Re: 飯田家の回答

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月27日(水)09時56分26秒
 
> 呑舟様>
> 先日文書館からの回答が届きました。
> この間に調べてくれていたようです。

●よかったですね、文書館員も努力していたのですね?

> まず、分限帳に関しては八箇国時代のを活字化した資料を頂き、
> 安芸、備後など4ヶ所に延324石の知行を治めていたようです。
> その4ヶ所に大島三蒲は無いようですので、三蒲は戦国末期からの知行でしょうか。

●八箇国時代の分限帳と言うのは天正19年前後の分限帳といわれています。
 その時代は毛利家の風上に立つ、秀吉の指示で毛利家領検地(財産調査)を天正19年3月にしました
 ので、これはこの頃の知行で毛利家最盛期のものでしょう。
 この時毛利家は百十二万石でしたが、関ヶ原以降、知行高は触らないとの約束を家康に
 反古にされ、防長二国の三十七万石弱と三分の一にされます。
 この時の恨みが明治維新まで続きます。

 三蒲の知行は防長二国に押し込められたときのものでしょう。
 飯田家は毛利家普代の重臣ですから、それでも家格に準じた石高を維持したものと思われます。
 この時は大半が暇を出されて、出身地に帰るか、帰農するかで失業しています。

 海賊の棟梁、「能島村上分限帳」もこの時の最盛期の分限を記録しますが、その後の防長二国
 への減石は悲惨を極め、故郷の伊豫に帰る者、別の大名に仕官するもの、帰農する
 者、残った者達も地獄で俸禄返上や大幅カットされています。

 今で言うと倒産会社で、なんとか会社更正法の適用を受けた社員の処遇のイメージと似ています。

 この経緯を知らない歴史学者は「能島村上分限帳」によればと、時代錯誤の解釈で本を出したり
 している人もいます。それを読んだ読者がまた誤解の連鎖を引き起こします。

 よって情報氾濫社会は史実を見極める前に出典の真贋を見極めるのに時間がかかります。


> またマツノ書店発行の萩藩諸家系譜から船手組家の部分だけ抜粋してもらいました。江戸中期に七代目が藩に提出した系図を元に活字化したようです。
> それ以降の追加された譜禄は無いそうです。

●七代目となると江戸中期ではなく、幕末と思えます、七代目の時代の元号はありませんか?
 幕末以降は明治の「廃藩置県」に繫がりますので藩としての系図の継続報告はなくなります。
 管理主体が消滅するからです。

> ところで、系図に六代目の兄弟通昭の横に「継河野正左衛門通慶家」と書いてありましたが、伊予河野家の家系に養子に入ったのでしょうか。

●すべての譜録を見たわけではありませんのでよく分りません。
 伊豫河野家通字の「通」を使っているところをみると、戦国時代に毛利家の禄を食みだした
 伊豫河野家の末裔のその又分流と思われます。
 この場合、伊豫河野家末裔毛利家家臣の河野家と思われます。

 伊豫河野家末裔で毛利家で直臣や陪臣として明治を迎えるのは数十人います。

尚、萩藩各家『譜禄」は時代により、いろんなバージョンがあり、
一番整理されているのは

家名の許に
 ①姓氏の部(本来の氏素性の説明、遠祖、源平藤橘等より始)
 ②世統の部(毛利家に世話になった始祖から報告者までの歴代当主の説明)
 ③禄格の部(②の歴代当主の禄高の変遷記録)
 ④母妻子女の部(②の歴代当主の母、妻の出自、子女の婚姻関係の説明)
が書かれています。

飯田家もあると思うのですがが、たくさん有りすぎて根気よく捜さないと分らないかもしれません。
膨大な藩政記録の中の一部でしょうから、その中で活字化されているのは1%もありません。

  • [34]
  • 飯田家の回答

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 6月26日(火)13時23分52秒
 
呑舟様>
先日文書館からの回答が届きました。
この間に調べてくれていたようです。
まず、分限帳に関しては八箇国時代のを活字化した資料を頂き、
安芸、備後など4ヶ所に延324石の知行を治めていたようです。
その4ヶ所に大島三蒲は無いようですので、三蒲は戦国末期からの知行でしょうか。

またマツノ書店発行の萩藩諸家系譜から船手組家の部分だけ抜粋してもらいました。江戸中期に七代目が藩に提出した系図を元に活字化したようです。
それ以降の追加された譜禄は無いそうです。
ところで、系図に六代目の兄弟通昭の横に「継河野正左衛門通慶家」と書いてありましたが、伊予河野家の家系に養子に入ったのでしょうか。


  • [33]
  • Re: 飯田家の出自

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 6月19日(火)00時15分8秒
 
呑舟様>
返信遅くなってすみません。
今回の憶測は仰せの通り、それらのサイトから拝借したような情報が多いです。
確かに鎌倉時代まで遡るのは想像が行き過ぎました。
元就の時代に武田家の家臣だったとするならば、下向の経緯など思っていたのと違う可能性も色々とあり得るのでは、と考えた結果です。
義武以前は不明となっており、知る限り萩藩の史料で飯田家が武田旧臣だったなどという記述は見たことがないですが、逆に何らかの事情で情報が意図的に削除されたか、武田家滅亡による資料紛失などにより止むを得ず系図が描けなくなったか、などの可能性について見解を伺いたかったのです。
史料が無いことに対する推測なので、一次史料を絶対とすれば無意味な推測になるかもしれませんが・・。

>現物を確認していませんから断定はできませんが、それぞれを別流とするのは
「萩藩譜録」あたりが根拠ではないかと想像します。
●宿老飯田家は義基が信濃飯田に起こり・・在名により飯田と号したとあり、義基を祖とするとは記載されていませんでした。
水軍の飯田家は信基を祖とすると記載されていますが、義基と信基は親子なので
仰せの通り同根で、元祖も同じかもしれません。
書店より、萩藩諸家系譜のそれぞれの書き始めだけ見せていただきました。
ただ、呑舟様の仰せの通り、なぜ鎌倉郡飯田が発祥の地なのでしょうね。
系統は同じなのに。同じ一族でそれぞれの飯田荘を持っていたということもありますか?
飯田姓自体は信濃飯田で名乗り始めたのでしょうけど、息子の信基は鎌倉郡の飯田荘を領していて、それを元祖としたために鎌倉郡発祥と言うように別系統のように記載されて混乱が生じているのではないでしょうか。難しいですね。

>東京都庁の件
参考にさせていただきます。ありがとうございます。
随分前に最上階へは登ったような気がしますが・・・記憶が・・。
近いと用事が無いとなかなか行かず、また用事の件でしか入らないので最上階へは行かず、気づかずにいたようです。


  • [32]
  • Re: 飯田家の出自

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月16日(土)08時19分14秒
 
> 高所が苦手なので赤い東京タワーで充分です。
> しかしながら、昔で言うところの江戸城天守閣のような眺めなのでしょうね。

●別にスカイツリーに登ったわけではありません。

 江戸城天守閣跡の土台は登ったことはありますが、それにせいぜい20M程視線が
 上になっても丸の内のビルの旧の高さ制限時代のビル眺望でしかないでしょう。

 もっとも江戸時代なら最高峰で前に江戸湾、右に富士、左後方に筑波山等の武蔵野平野が
 見渡せたでしょうね。

 東京タワーも善いですが、有料なので敬遠しがちです。

 そこで無料で同様な気分が満喫できるのは、バベルの塔(別名税金の塔)の東京都庁ですね。
 昼も夜も無料開放で最上階のラウンジからの眺めは東京タワーよりいいですね。

 うまくいけば石原都知事と握手できるかも?

 同様な穴場は神戸の神戸タワーより、隣りの市役所展望台の方が、100万ドルの夜景(現在インフレ
 で現地では1000万ドルと表現)を無料で満喫できます。


> >平岡は牛福通直の重臣として現れます。何故重用されたかの経緯は今の所よくわかりません。
>  毛利・小早川家と河野家の間を取り持つメッセンジャーの立場のようです。
> ●なるほど、パイプの役割でしたか。
>  毛利側に取っても馴染みのある一族だったのでしょうね。

●一族と言うより個人です。

> >毛利(大江)の安芸国人時代はあまりよく知りませんが、別におかしくはないのではないでしょうか?
>  調べてみないと分りませんが、武田信玄や熊谷直実がイメージにあるのではないでしょうか?
>  確か安芸の武田や熊谷は時代が違います。
>  どちも甲斐や埼玉県熊谷市を本貫とする名門で分流と思われます。
>  安芸への移動の時は大江も武田も熊谷もいつれも同等の国人と思われます。
>  後に大江毛利が段々回りを占領して臣下化していきます
>
> ●呑舟様はそう思われますか。それでは可能性は無くはないかもしれないですね。
> 紙ベースで見たわけでなく、ネットでいくつか発見しただけなので、
> 信憑性やいかにと思っておりましたが。
> 逆にそれで根拠になり得ると思えることもいくつかあります。
> 以下はあくまで私の憶測です。
>
> ①まず、飯田義武が毛利家下向の時からの譜代なら、武田氏滅亡後に初めて編成した水軍の指揮をいきなり任せたのではなく、元々武田氏の川内衆に属していて、元々ある程度の規模の水軍は率いた経験があったのではないか。
> それ故に顧問的に提督児玉就方のブレーンに付けたのではないか。
> 武田家旧臣の山縣氏や福井氏を配下に付けたと言うが、飯田家も武田家の旧臣なのではないか。
>
> ※村上武吉の説明のサイトに、武田家滅亡後に武田方にいた飯田水軍らを傘下にいれて編成し家臣団として育成していた・・との表現されていました。。
>
> ②飯田義武系統の元祖はどの資料も一貫して源頼信九代孫の飯田信基を祖として、鎌倉郡飯田荘を領して居住していた・・とは書いてありますが、
> どれも飯田義武以前の系譜は不明、となっています。
> 他の毛利家臣の系図や代々の将はある程度判明しているのに、同じ譜代なら水軍飯田家のみ義武以前の系譜が全く不明というのは不自然で、
> 実は武田家の家臣だったが故に、武田家が滅亡して伝承の資料などを消失し、元祖以外大半の代々の系図を書けなかったか、
> 主君が滅んだのは不名誉なので武田家での履歴を削除したか、活躍の場が沢山あった毛利家の家臣になってからの記録のみ萩藩の資料に残ったか(残したか)。
> 毛利家は系譜に関してはきちんと整理されている大名家だと思うのですが、こと義武以前の飯田家に関しては譜代の割りには(譜代の場合は)記録がお粗末な気がします。義武の父や兄弟、祖父の名前も全く出て来ません。
>
> ③一部の資料には毛利家下向の際に同行とありますが、
> 毛利家譜代の宿老の家系の飯田元親系統の先祖(飯田師貞)の伝承が正にそうなっており混合されてしまったのではないか。
> 一応、どちらも河内源氏頼清流で、村上為国や祖としている飯田信基も共通の先祖ではありますが。ちなみに飯田元親の系統の祖は一代前の飯田義基だそうです。
>
> その場合、飯田家の下向のタイミングはいつか。
> 毛利家は建武年間に下向し、飯田家もそれに従ったと思っていましたが、
> 単独の豪族として下向した可能性もあれば、武田家の配下として下向した可能性もありますね。またはその他か。
> そうなると、飯田家は毛利家よりも早い時期に安芸に下向していた可能性もあります。
>
> 安芸武田氏に関して全く予備知識が無かったので検索程度ですが昨日辺りから情報を漁っていましたが、元々鎌倉時代の承久の乱の辺りから安芸守護に任じられ、甲斐本国から一族が度々派遣されるような形で統治していたようです。
> 南北朝の頃には武田家は足利尊氏側につき、安芸守護を安堵されて以来本家の信玄の系統から兄弟が分家して完全に土着したようです。
>
> 私のはどれも資料に基づかない憶測が多いですが、
> 根拠の無い推理という範囲でも構いませんので、
> 良ければ思うところ、考察があればお願いいたします。

●上記は「ウイキペディア」や「武家家伝」のサイト情報をベースにしているのではないでしょうか?

 以前にも言いましたが「サイト情報」は参考にしても良いですが、信用してはいけません。

 あくまで一次史料かそれに準ずるもをベースにしないと誤解します。

 私は毛利家家臣飯田家が長野飯田庄出身とするものと神奈川飯田庄出身とする2系統あると
 する解釈は疑問に思っています。
 一次史料が出てこないとわかりませんが、どちらも「同根」と私は想定しています。
 現地情報を捜したほうが早いのかもしれません。(この場合、それぞれの飯田庄)

 現物を確認していませんから断定はできませんが、それぞれを別流とするのは
 「萩藩譜録」あたりが根拠ではないかと想像します。

 「萩藩譜録」は明治以降に各家に伝わる「系図」より信頼性が高いとされるだけで
 史実を記録しているわけではありません。
 江戸中期と幕末に編纂された「譜録」ですので書いた時代より四代前以前は不確実です。
 ましてや出自は他の文書と比較検証しないと信用できません。

 例えば、私が調べている伊豫大野家末裔で毛利家家臣(一部陪臣)の系図も「萩藩譜録」に
 収録されてますが、本家と分家では「出自」が変わって上奏されています。
 長藩大野本家の出自は「本性大伴、伊豫大野家流」としほぼ「伊豫大野系図」を伝承します。
 これに対し長藩大野分家は「本姓清和源氏、関東七党の末裔」と上奏します。
 (この大野分家初代は大野本家の家族です)

 これは本家は出身はアフリカと言っているのに分家はアメリカと報告しているのと同様です。

 このような現象が「萩藩譜録」に発生しています。

 同様なことが各藩「譜録」や「江戸幕府」の「寛永の譜」以降の『譜録』流れにも見受けられます。

 系図は「二次史料」です。必ずある目的をもって書かれますので、それが書かれた時代と
 その背景と書いた人の素養により余計な「徐加筆」および改ざんが発生します。
 それを検証するのが「他家文書」ですが、その「他家文書」も同様なプロセスを踏んでます
 のでより厄介になります。

 無邪気に自家の伝承と系図、古文書等を奉賛するだけなら簡単なのですが・・・・・。

  • [31]
  • 飯田家の出自

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 6月16日(土)00時38分8秒
 
呑舟様

東京にいらしていたのですね。ようこそ。
私はまだスカイツリーは行ってません。
高所が苦手なので赤い東京タワーで充分です。
しかしながら、昔で言うところの江戸城天守閣のような眺めなのでしょうね。
一度は機会があれば。

バベルの塔・・・上手いことをおっしゃいますね。
ちなみに贅を尽くして建設された新宿都庁はバブルの塔だそうです。

>平岡は牛福通直の重臣として現れます。何故重用されたかの経緯は今の所よくわかりません。
 毛利・小早川家と河野家の間を取り持つメッセンジャーの立場のようです。
●なるほど、パイプの役割でしたか。
 毛利側に取っても馴染みのある一族だったのでしょうね。

>毛利(大江)の安芸国人時代はあまりよく知りませんが、別におかしくはないのではないでしょうか?
 調べてみないと分りませんが、武田信玄や熊谷直実がイメージにあるのではないでしょうか?
 確か安芸の武田や熊谷は時代が違います。
 どちも甲斐や埼玉県熊谷市を本貫とする名門で分流と思われます。
 安芸への移動の時は大江も武田も熊谷もいつれも同等の国人と思われます。
 後に大江毛利が段々回りを占領して臣下化していきます

●呑舟様はそう思われますか。それでは可能性は無くはないかもしれないですね。
紙ベースで見たわけでなく、ネットでいくつか発見しただけなので、
信憑性やいかにと思っておりましたが。
逆にそれで根拠になり得ると思えることもいくつかあります。
以下はあくまで私の憶測です。

①まず、飯田義武が毛利家下向の時からの譜代なら、武田氏滅亡後に初めて編成した水軍の指揮をいきなり任せたのではなく、元々武田氏の川内衆に属していて、元々ある程度の規模の水軍は率いた経験があったのではないか。
それ故に顧問的に提督児玉就方のブレーンに付けたのではないか。
武田家旧臣の山縣氏や福井氏を配下に付けたと言うが、飯田家も武田家の旧臣なのではないか。

※村上武吉の説明のサイトに、武田家滅亡後に武田方にいた飯田水軍らを傘下にいれて編成し家臣団として育成していた・・との表現されていました。。

②飯田義武系統の元祖はどの資料も一貫して源頼信九代孫の飯田信基を祖として、鎌倉郡飯田荘を領して居住していた・・とは書いてありますが、
どれも飯田義武以前の系譜は不明、となっています。
他の毛利家臣の系図や代々の将はある程度判明しているのに、同じ譜代なら水軍飯田家のみ義武以前の系譜が全く不明というのは不自然で、
実は武田家の家臣だったが故に、武田家が滅亡して伝承の資料などを消失し、元祖以外大半の代々の系図を書けなかったか、
主君が滅んだのは不名誉なので武田家での履歴を削除したか、活躍の場が沢山あった毛利家の家臣になってからの記録のみ萩藩の資料に残ったか(残したか)。
毛利家は系譜に関してはきちんと整理されている大名家だと思うのですが、こと義武以前の飯田家に関しては譜代の割りには(譜代の場合は)記録がお粗末な気がします。義武の父や兄弟、祖父の名前も全く出て来ません。

③一部の資料には毛利家下向の際に同行とありますが、
毛利家譜代の宿老の家系の飯田元親系統の先祖(飯田師貞)の伝承が正にそうなっており混合されてしまったのではないか。
一応、どちらも河内源氏頼清流で、村上為国や祖としている飯田信基も共通の先祖ではありますが。ちなみに飯田元親の系統の祖は一代前の飯田義基だそうです。

その場合、飯田家の下向のタイミングはいつか。
毛利家は建武年間に下向し、飯田家もそれに従ったと思っていましたが、
単独の豪族として下向した可能性もあれば、武田家の配下として下向した可能性もありますね。またはその他か。
そうなると、飯田家は毛利家よりも早い時期に安芸に下向していた可能性もあります。

安芸武田氏に関して全く予備知識が無かったので検索程度ですが昨日辺りから情報を漁っていましたが、元々鎌倉時代の承久の乱の辺りから安芸守護に任じられ、甲斐本国から一族が度々派遣されるような形で統治していたようです。
南北朝の頃には武田家は足利尊氏側につき、安芸守護を安堵されて以来本家の信玄の系統から兄弟が分家して完全に土着したようです。

私のはどれも資料に基づかない憶測が多いですが、
根拠の無い推理という範囲でも構いませんので、
良ければ思うところ、考察があればお願いいたします。

  • [30]
  • Re: 厳島神社大鳥居

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月15日(金)06時52分43秒
 
2、3日野暮用で上京していました。
スカイツリーは雲の上でしたので、あまりにも高すぎて一年の半分近くは下界が見えない可能性
がありますね。現代のバベルの塔ですね。
昨日は寛仁様の葬儀でしたね。昭和天皇のご快癒の記帳や葬儀の記帳には皇居まで
足を運びましたが、今回は失礼しました。

> ●河野家時代には重臣クラスだったために平岡家は客人扱いで領地を多く与えられて厚遇されたということはありますか?
> 平岡家はどんな扱い、どんなタイミングで長州藩に加わったのでしょう?

●平岡は牛福通直の重臣として現れます。何故重用されたかの経緯は今の所よくわかりません。
 毛利・小早川家と河野家の間を取り持つメッセンジャーの立場のようです。
 直接毛利ではなく小早川氏が毛利の対河野家の窓口のようです。
 毛利家の家臣に組み入れられたのは小早川没落により編成替えされているようです。
 村上水軍家も同様です。

 よって飯田家と立場が違います。

> ●余談ですが、先日しばらくぶりに親戚と会う機会があり、昭和に入ってからも平岡家と交流があったことを聞かされました。

●ありうるでしょうね。婚姻関係や養子縁組等で密接になっていると思われますので、双方とも
歴史は別として親族と思っていてもおかしくありません。

> ●ところで、最近見つけたのですが、毛利家がまだ安芸の国人の一人だった頃、
> 武田信和が熊谷信直と対立し、熊谷家の居城を攻めた際(横川表の戦い)、その武田勢の中に加わった将として飯田義武の名前がありました。
> 例のウィキペディアなどの情報なので真実かどうか判りませんが、ただの同姓同名の別人なのか、毛利家の前に武田家に仕えていた可能性があったのか、単なる誤記か間違いか気にはなります。
> もし何らかの古文書に記載されていたものならいったいどういう意味なのでしょう・・。
> 毛利家の下向の際に同行したと聞いているのでこれでは辻褄が合わない気がします。
>
> 最も飯田義武の名前がよく出てくるのは警固衆編成後で、それは武田家が滅亡した後の話なので義武一人だけを見ると順序は間違っていませんが、毛利家の譜代だったかはずが、武田家滅亡後の家臣ということになってしまいますよね。もしご存知か、記載された資料があれば教えてください。
> ネット情報ということで余り気にしない方が無難でしょうか?

●毛利(大江)の安芸国人時代はあまりよく知りませんが、別におかしくはないのではないでしょうか?
 調べてみないと分りませんが、武田信玄や熊谷直実がイメージにあるのではないでしょうか?

 確か安芸の武田や熊谷は時代が違います。
 どちも甲斐や埼玉県熊谷市を本貫とする名門で分流と思われます。
 安芸への移動の時は大江も武田も熊谷もいつれも同等の国人と思われます。
 後に大江毛利が段々回りを占領して臣下化していきます。

 小早川も毛利とは元々関係はありません。
 息子を養子に送り込まれて一門化されます。

 婚姻関係は重要なお家乗っ取り作戦です。
 河野宗家も牛福通直の母親や室(嫁)を毛利側から送り込まれ傀儡化されたとされます。

 予州大野家も平岡家と婚姻関係を政略的に行なわれ微妙な均衡を保っています。

 戦国時代の婚姻関係は仲良しグループであることを意味してはいません。
 

  • [29]
  • Re: 厳島神社大鳥居

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 6月14日(木)21時09分2秒
 
呑舟様

>先日、天皇皇后両陛下をお迎えして植樹祭をしていましたが、県知事の言葉にも活力低下県の苦悩が滲んでいました。
●私もたまたまテレビで拝見していました。途中からでしたので儀式と催し物は見れましたが、挨拶は見れませんでした。
個人的に、山口県の調べごとをしている最中に放送を見たので、不思議な縁を感じました。

>伊予河野家に仕えて後、毛利家の臣となる平岡家よりははるかに格上となる筈なのですが。
●河野家時代には重臣クラスだったために平岡家は客人扱いで領地を多く与えられて厚遇されたということはありますか?
平岡家はどんな扱い、どんなタイミングで長州藩に加わったのでしょう?
●余談ですが、先日しばらくぶりに親戚と会う機会があり、昭和に入ってからも平岡家と交流があったことを聞かされました。

●ところで、最近見つけたのですが、毛利家がまだ安芸の国人の一人だった頃、
武田信和が熊谷信直と対立し、熊谷家の居城を攻めた際(横川表の戦い)、その武田勢の中に加わった将として飯田義武の名前がありました。
例のウィキペディアなどの情報なので真実かどうか判りませんが、ただの同姓同名の別人なのか、毛利家の前に武田家に仕えていた可能性があったのか、単なる誤記か間違いか気にはなります。
もし何らかの古文書に記載されていたものならいったいどういう意味なのでしょう・・。
毛利家の下向の際に同行したと聞いているのでこれでは辻褄が合わない気がします。

最も飯田義武の名前がよく出てくるのは警固衆編成後で、それは武田家が滅亡した後の話なので義武一人だけを見ると順序は間違っていませんが、毛利家の譜代だったかはずが、武田家滅亡後の家臣ということになってしまいますよね。もしご存知か、記載された資料があれば教えてください。
ネット情報ということで余り気にしない方が無難でしょうか?



  • [28]
  • Re: 厳島神社大鳥居

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月 8日(金)22時59分51秒
 
> 山口県文書館の方ですが、まだ返信も無い状態です。
> 流石に現地に赴いて直接対応しないと難しいかもしれません。

山口県文書館は少しサービスが悪いですね。
萩本藩の三蒲の飯田家なら毛利家譜代の臣となりますので簡単に見つかるのですがね。
伊予河野家に仕えて後、毛利家の臣となる平岡家よりははるかに格上となる筈なのですが。
「毛利文庫」に嫌というほど出てくる家なのですが。

山口県もご多分に漏れず人口減少の貧乏県になっていますから職員配備の充実する予算がないのでしょうね。

近代日本を切り開いたのは長州であるとのプライドは今でも高いのですが、ない袖は振れないのかもしれません。

幕末以降、中央の政治改革に防長の若者を多く投入しましたが、
田舎を後にする時、残される家族たちは「郷里のことは考えず、天下国家・万民のために奉仕せよ!」
と送別の辞を贈るのが常でした。
遠崎の僧 月性の「漢詩」がそれを象徴しています。

後の大学への進学も、関西ではなく関東を目指す傾向もその流れです。
結果的に有名な政治家、軍人は排出しましたが、商売を卑下する傾向がありますので
あまり有名な財界人は出ませんでした。

先日、天皇皇后両陛下をお迎えして植樹祭をしていましたが、県知事の言葉にも
活力低下県の苦悩が滲んでいました。

  • [27]
  • 厳島神社大鳥居

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 6月 8日(金)20時36分38秒
 
呑舟様

山口県文書館の方ですが、まだ返信も無い状態です。
流石に現地に赴いて直接対応しないと難しいかもしれません。

新しい情報をありがとうございます。
厳島神社に名前が出てくるとは、何とも興味深い内容ですね。
1541年に武田氏が滅亡し、その後飯田家も川ノ内警固衆を任されたようですから、1546の話であれば辻褄が合いますね。
義という字が気になります。
もし一族ならば元祖義武の兄弟ではないかという気がしました。

>「隆義」とありますから小早川が直属上司の感じがします。
●そうかもしれませんね。

>徳山藩分限帳(天保年間)に
「弐百参拾五石 出頭 飯田与一右衛門」とあり家老に次ぐ大身です。
三蒲の飯田氏は「萩本藩」の所属ですが、別に「支藩の徳山藩」に飯田分家があっても不思議ではありません。
●それは凄いですね。
親戚から頂いたコピーの家系図には(諸家系譜か何かの)代々の当主の兄弟に毛利秀元家臣や吉川広家家臣と記載されている人もいましたから、大島に限らず長州の色々な藩に一族が仕えていたのでしょうね。

>厳島神社大鳥居建立に吉田時代の毛利家家臣飯田が記録されますから
「萩藩譜録」の飯田家はすべて「同根」の可能性がありますね。
●別系統の宿老飯田元親の系統も江戸時代に続いていたか気になります。
 元親も児玉家から養子に来たようですが、1500年代の途中からその子孫という人物の名前が見えません。もし続いていなければ、大半は船手組の方と同根かもしれませんね。

>越智系山野井氏
存じ上げませんでした。検索してみたら昔のこちらのスレットを発見しましたので少し読ませていただきました。





  • [26]
  • 厳島神社大鳥居

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月 8日(金)10時59分30秒
 
気になりましたので現在の厳島神社の大鳥居が何代目か調べてみました。
厳島神社に電話すると八代目ですと仰いました。
通常の記録もそうなっているようです。
しかしながら四代を天文16年建立とし、五代を永禄4年としているようです。
わづか15年で壊れるようなものを毛利元就、輝元が建立したとは思えないのですが。
その間に台風があったとも聞きません。

よって四代と五代は同じものではないかと想像しています。
となると厳島神社公表の現在八代目は七代目と修正されるかも知れません。

今、厳島神社からの調査結果を待っています。
判ればまたUPしましょう。

  • [25]
  • Re: 飯田家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月 8日(金)09時55分21秒
 
Kenkenさんへ

山口県文書館はなにか言ってきましたか?

まともに読めないのに「古文書漁り」をしていますと
「厳島神社大鳥居建立棟札」関連文書と
「長州・徳山藩分限帳」に飯田氏の名を見出しました。

今の厳島神社の大鳥居が何代目かは知りませんが、飯田氏が出てくる建立記録は永禄4年(1561)
の毛利一族建立時です。

大願寺住職から建立の依頼を受けて大旦那吉田の毛利は一族を挙げて依頼に応えようとしたようです。
発起は天文15年(1546)のようですから竣工するまで15年もかかっています。
まだ大内氏も健在で、毛利一族も彼方此方でドンパチしながらも着実に建立準備をしているのは
ある意味では冷静な日常生活をしていたとも思われます。
大東亜戦争のように戦争以外は考えられないとの「ヒステリー状態」とは趣きを異にします。

古文書がきちんと理解できないので間違っていたらごめんなさい。

「飯田六郎右衛門尉 隆義」なる人物が大鳥居の用材を輸送(海運)する役目のようです。
 これは天文15年の段取り準備の話のようです。

と言うことはこの時期にはすでに飯田家は「船方」のようですね。
「隆義」とありますから小早川が直属上司の感じがします。

永禄4年の「竣工大宴会」の酒肴寄付に「飯田彦左衛門 一貫文」との記事がありますので
こちらも飯田一門でしょう。

徳山藩分限帳(天保年間)に
「弐百参拾五石 出頭 飯田与一右衛門」とあり家老に次ぐ大身です。

三蒲の飯田氏は「萩本藩」の所属ですが、別に「支藩の徳山藩」に飯田分家があっても
不思議ではありません。

厳島神社大鳥居建立に吉田時代の毛利家家臣飯田が記録されますから
「萩藩譜録」の飯田家はすべて「同根」の可能性がありますね。

たわいのない「棟札」関連古文書一つで先祖は子孫に訴えようとしています。
現代の我々は少ないヒントを汲み取らねばなりません。

余談ながら、この「棟札」記録により以前から伝承でしかなかった、能美島の「越智系山野井氏」
が「大鳥居大建立」にかかわっていたことが証明されました。
大鳥居の左右の真柱2本はこの時、山野井氏所領、能美島大原から積み出されています。
たぶんこれを輸送した責任者は「飯田氏」でしょう。

「談話室ゆづき」の時代から「喫茶室ゆづき」いたる諸処の変遷が、点と点を結び、一つの史実と
して繋がる例ですね。
長年「ゆづき」を解放してくれる今城さんの御蔭ですね。

さて次は、広島の山野井さんに「新情報」を教えてあげなくては。

  • [24]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月27日(日)02時28分29秒
 
呑舟様
ご説明ありがとうございます。
ご助言の通りと思います。
焦っていたというか、先を急ぎ過ぎていたかもしれません。
先祖を辿るには知識も教養も身に付けながら、時間と労力をかけてじっくり探すものですね。
すぐに見つかれば有難いことではありますが、古文書の解読が出来なかった時に感じました。
長期戦も覚悟して根気良く頑張りたいと思います。

> データベースでも発見しましたが、何故か広島時代の分限帳のようには閲覧出来ませんでした。
広島時代の分限帳の前に別の分限帳がありませんでしたかね?
●毛利家八箇国時代分限帳というのが確かに前にあり、それはダウンロードして見ております。こちらが書体が難しく解読出来なかったものです。
後にある分限帳はデータが見れなかったです。

>ただ「分限帳」は家臣の「給与台帳」ですからその時代のポジションがわかるだけで
先祖のことはわかりませんので安価ならいざ知らず購入するほどでもありません。
●承知いたしました。購入は先送りにいたします。
 山口県文書館の方にアクセスしてみましたら、複数の分限帳を発見出来、
 中には比較的読みやすいものもありましたので眺めておりました。
 300石など100石以上の所領の飯田の苗字はいくつか発見出来ましたが、
 名前の方が七郎右衛門や弥七郎と読めるか微妙なものや、明らかに違う名前の方だったりしたので、先祖とイコールかはまだ確信は持てませんでした。また足を運んでみます。

>こちらは以前から言ってますが、「山口県文書館」に相談することですね。
 私もどの史料がどうなっているか詳しくは知りません。
 刊本の中に収録されているのか?、映写本の中にあるのか?
 それらが現在、購入できるのか否かもわかりません。
●遅ればせながらこちらに相談のメールを送りました。
 どのような返事があるかはまだ解りませんが、
 史料探しのヒントか何かをもらえればと期待しています。
 マツノ書店様にも問い合わせたら目的の史料などを紹介されるでしょうか。

>一次史料、ウィキペディア
なるほど、手に入る(または見られる)大抵の史料は二次資料になるのですね。
ウィキペディアのことも詳しくは知りませんでしたが、
誰でも編集出来るというイメージでいました。特殊なルールがあるのですね。公式本が間違った記述であったらどうしようもないですね。
確かに直接関係者が手を加えられないなど、おかしい気がします。
本当は一次資料などを分析して認められれば情報として更新出来るようにする機関がウィキペディアにあれば良いのですよね。



  • [23]
  • Re: 追伸

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月26日(土)10時51分12秒
 
●老婆心ながら

> 手元に一次資料がないのので第一歩として購入も考えています。

一次史料とは原本のことで「唯一無比」の史料のことです。一次史料から書き写した資料は
内容が同じであっても「二次史料(資料)」となります。

紙の素材、筆跡、墨の濃淡が変わり形式鑑定ができないからです。
いまはやりの「なんでも鑑定団」の本物と模写の違いと言えばわかり易いですね。

よって現在歴史的に貴重な「一次史料」は手に入ることは殆どありません。

系図は転記と編纂を重ねていますので、いくら古くても「一次史料」にはならないのです。
いま話題の「萩藩閥閲録」「同譜録」も同様です。

ウイキペディアやあまり専門ではない人が編纂した「市町村史」よりははるかに史実性が高い
だけです。

そう言った意味ではネットサーフィンの検索資料は「出典」が明かで確認できるものでなければ
信用すると混乱します。ネット社会は「自己責任」です。誰も保証しません。

「ウイキペヂア」はブリタニカ百科事典を廃刊に追い込んだそうですが、それは利便性と経済性
が優れていただけで、真実性、責任性に根ざしたものではありません。
ですから私は同記事は参考にしますが信用しません。

ウイキペディアは面白い編纂方針で該当項目の直接関係者が出稿しても受け付けてくれません。
なにかの本か記事、公記録がないとダメみたいです。
真実性を担保する手法のようですが、当事者が出稿、変更できないのも変ですね?

河野関係も記事も間違いがたくさんあるのですが、訂正しようとすると一般大衆が見れる
本に書いてないからダメとされます。この場合秘伝の一次史料は無視される変なシステムです。



  • [22]
  • Re: 追伸

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月26日(土)02時02分34秒
 
> 書名: 萩藩分限帳
> 著者:萩郷土文化研究会
> 出版社:改訂復刻版
> という書籍を見つけましたが、これが呑舟様おっしゃられた防長時代の
> 分限帳のことでしょうか?

●上記の史料はよく判りません。

> データベースでも発見しましたが、何故か広島時代の分限帳のようには閲覧出来ませんでした。

広島時代の分限帳の前に別の分限帳がありませんでしたかね?

ただ「分限帳」は家臣の「給与台帳」ですからその時代のポジションがわかるだけで
先祖のことはわかりませんので安価ならいざ知らず購入するほどでもありません。


> また、明治まで追加されたという萩藩譜録が見当たらないのですが、
> これは最新の復刻版などには含まれているものなのでしょうか。
> それとも、あくまで萩藩閥閲録とは別冊で独立して販売されているのでしょうか。何か手がかりでも判る範囲で教えてください。

●こちらは以前から言ってますが、「山口県文書館」に相談することですね。
 私もどの史料がどうなっているか詳しくは知りません。
 刊本の中に収録されているのか?、映写本の中にあるのか?
 それらが現在、購入できるのか否かもわかりません。

 文書館に行けば「見れる」ことは確実なのですが。

 平岡家は刊本の中にも収録されてますからたぶん飯田家も刊本の中にあると思うのですが。

 先祖探しが目的と言うとどこの図書館も文書館も目的に公共性がないので嫌がりますから
「歴史の研究の一環として」等の枕詞がないと彼等も公務員ですから対応してくれません。

 活字刊本と映写本と二通りあると思いますが、どちらも数百部の限定出版でしょうから
 購入は難しいでしょうね。マツノ書店も殆ど限定出版で、予約部数が原価を上まった段階
 で作製を始める珍しい受注生産の書店ですから、注文外の在庫を殆ど置きません。
 よって直接注文しか受け付けない書店です。

 ですから予約品も中古品も高価なのです。それなりの貴重な価値はあるのですが、
 一般大衆には興味のない代物ですから、通常の版元のような一般書店への委託配本は
 しません。お客は専門学者か、図書館かマニアに限られます。
 私も「萩藩閥閲録」や「風土注進案」が個人的にほしいのですが高価なので指を咥えています。
 しかしながら、山口県では各自治体の図書館は常備しているのですが。

 専門的すぎるのです、今様で言うとマニアックなのです。

  • [21]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月26日(土)01時01分9秒
 
>  毛利家で検索をかけましたら広島御時代分限帳を見つけられました。
>  一通りダウンロードして見ていますが、飯田の苗字は出てきますが、
>  古文書は見たことがなく、恥ずかしながら大半は読めません。
>  活字の書籍を探した方が良いかもしれません。

●江戸時代以前にタイムスリップをしようとすると活字や刊本で導いてくれるものは
殆どありません。先祖探しをしようとするとどうしても筆書体の史料と
なってきます。ある程度漢文の素養と時代時代の書の形式と せめて楷書体は読めるように
努力しないと前に進ませてくれません。
最大の難関なのです。
誰も買って呉れませんから殆ど「古文書」は刊本などにはなっていません。

コンピュータの御蔭で、デジタル処理された貴重な「古文書」がデータベース化され始めたのも
最近のことです。ややこしい手続きをして且つ上京して東京大学まで行って且つ膨大なと史料目録
の中から探してようやく見れるのがいままででしたので、様代わりしています。

読めませんなどと贅沢は言えませんので私は年から年中睨んでます。
不思議なもので少しづつ見えてきます。まだまだですが・・・・。

歴史を遡るのは苦難の連続です。デジタル活字化されているものならネット検索で根気よく
すれば出てきますが、殆どは直接古文書に当るしかありません。
見れるだけありがたいのです。

「萩藩譜録」の「飯田系図」も東大と同様な形態です。
 先祖が与えた試験と思って挑戦してみて下さい。

  • [20]
  • 追伸

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月26日(土)00時32分45秒
 
呑舟様

書名: 萩藩分限帳
著者:萩郷土文化研究会
出版社:改訂復刻版
という書籍を見つけましたが、これが呑舟様おっしゃられた防長時代の
分限帳のことでしょうか?
データベースでも発見しましたが、何故か広島時代の分限帳のようには閲覧出来ませんでした。
これを手に入れることが出来れば一次資料として先祖の実態だいぶ明らかになるのでしょうか。
手元に一次資料がないのので第一歩として購入も考えています。

また、明治まで追加されたという萩藩譜録が見当たらないのですが、
これは最新の復刻版などには含まれているものなのでしょうか。
それとも、あくまで萩藩閥閲録とは別冊で独立して販売されているのでしょうか。何か手がかりでも判る範囲で教えてください。

  • [19]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月25日(金)13時14分18秒
 
呑舟様

>●これはどちらの洞松寺でしょうか?
  久賀の洞松寺です。

>東大史料編纂所で検索して、DBで毛利家と再検索すると該当「分限帳」は簡単にみれます。
 少し史料が多いですけど。
●ありがとうございます。
 アクセスして覗いてみたのですが、検索の仕方が間違っていたようです。
 毛利家で検索をかけましたら広島御時代分限帳を見つけられました。
 一通りダウンロードして見ていますが、飯田の苗字は出てきますが、
 古文書は見たことがなく、恥ずかしながら大半は読めません。
 活字の書籍を探した方が良いかもしれません。

>私の言う長州大野家は伊豫大除城の大野の末裔のことで、貴殿は大野毛利家と勘違いしている
のではないかと思われます。
●大変失礼いたしました、その通りです。
 教えていただいた通りに検索したら説明が出てきました。
 もう少し勉強いたします。

>能島村上系図にはそう書いてありますが、一次史料がないのです。
 よって現在ではまだ伝承の域を出ていません。
●そうでしたか。
 DBでたまたま分限張を調べながら村上家系図を発見しましたが、
 村上天皇からの系譜が載っていました。
 では、これが事実かどうかは判らないのですね。

引き続き、何か手がかりがないかデータベース検索で探してみます。
ご指導ありがとうございました。



  • [18]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月25日(金)01時20分49秒
 
> 飯田家の菩提寺洞松寺も四境戦争で全焼していると聞いています。

●これはどちらの洞松寺でしょうか?

●これは今後見解をお聞きしたい内容ですが、村上氏も長州藩になってから毛利家に系図を届け出た時、北畠顕家を祖としているとどこかで見ましたが、
> これが事実からの記述からなのか、ただの伝説なのか気になっています。

●能島村上系図にはそう書いてありますが、一次史料がないのです。
 よって現在ではまだ伝承の域を出ていません。

> 平岡家も河野家の庶流だとか、そうではないとか、掲示板での対談で拝見させていただきましたが、平岡家の戦国以前の家系も定かではないのでしょうか。

●長州平岡家は河野家末裔と系図上は書き始めますが、こちらも一次史料がありません。
 予州平岡家は古い家系で美濃土岐家の伊豫分領を強奪したあたりから頭角を現してきます。
 私は河野家の末裔とは見ていません。

>
> >長州大野家
> 予備知識が無かったので調べてみましたが、
> 吉川広家の家系の三男の家系と記載されていましたが、こちらの家系のことでしょうか?

●私の言う長州大野家は伊豫大除城の大野の末裔のことで、貴殿は大野毛利家と勘違いしている
のではないかと思われます。

> ご説明のように、兄弟の家系で元祖が変わるのは驚きますね。
> 何故書き換える必要があったのでしょう。
> 嫡男が情報を独占して、分家は誰が祖であったかも教えてもらえなかったものなのでしょうか。

●代が4代もたつと親戚付き合いをしなくなりますからどこに系図があるかも判らなかったのでしょう。

> >とてもではありませんが毛利最盛期で飯田家が一萬石を領していたとは思えません。
>  一万石以上は江戸時代では大名扱いとなります、毛利家では一万石以上は一門(親族)に 限られています。毛利分限帳をみれば簡単にわかります。
> ●なるほど、そう思われますか。
>  私も口伝いで半信半疑でしたので、
>  その方面の知識に明るい方にご指摘頂いてよかったです。
>  1万石の件は手持ちの資料などに記載されている訳ではなく、
>  唯一人の先祖が発言していただけなので何の根拠もありません。
>  とにもかくにも分限長の類から探すしかないのですね。

●あれ?まだ該当の分限帳を見てないのですか?
 東大史料編纂所で検索して、DBで毛利家と再検索すると該当「分限帳」は簡単にみれます。
 少し史料が多いですけど。

  http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html

> >河野水軍と来島氏
> ●ご説明ありがとうございます。
> 家督相続で気になったのですが、儀式をするということは
> 来島氏も牛福通直も一度は家宝を所有したというこですよね。
> 先に来島が家督を相続したのなら、後に奪取されたか、何らかの話し合いで譲渡された可能性はあるのでしょうか?
> もしくは神器のない状態で即位した天皇のように、
> 例外的に家宝無しで代替品か何かで儀式を行って相続したとか。

●このあたりはよくわかりません。
 これが判れば、伊豫史のエポックメーキングなこととなります。



  • [17]
  • (無題)

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月24日(木)20時09分36秒
 
呑舟様
> 先に遠祖、元祖を固定しますと辻褄の合わない一次史料が出てきますとすべてを捨て去らなくては
 ならなくなり大変難儀な決断が必要となります。
 伝承や古系図は重要ですが、現代から逆に過去に遡る手法も同時に検証していかねばなりません。
 貴家は明治維新まではほぼ確定しています。
 これに「萩藩譜録」の飯田系図を繫ぐと江戸時代はほぼ間違いないでしょう。
 問題はこれより先です。
●家系図に関する詳しいご説明ありがとうございます。
義武までの流れが、ほぼ間違いないということで
お陰様で今までより一歩前進した感じがします。。
平岡家を辿って相談してみて本当によかったです。
飯田弥七郎付近の接続が不明だった中で、親戚のメモを手に入れ、
それを掲示板で相談した結果、だいぶ明らかになってきました。
代々伝わるような古文書などがない分、
やはりご助言の通り萩藩の書籍類を閲覧・購入する必要がありますね。
飯田家の菩提寺洞松寺も四境戦争で全焼していると聞いています。
もし焼けなければこちらに何らかの資料が保存されていた可能性があったでしょうね。

>以前にも書きましたが「萩藩譜録」の記述は戦国期以前は各家とも結構いい加減に書いています。
●これは今後見解をお聞きしたい内容ですが、村上氏も長州藩になってから毛利家に系図を届け出た時、北畠顕家を祖としているとどこかで見ましたが、
これが事実からの記述からなのか、ただの伝説なのか気になっています。
平岡家も河野家の庶流だとか、そうではないとか、掲示板での対談で拝見させていただきましたが、平岡家の戦国以前の家系も定かではないのでしょうか。

>長州大野家
予備知識が無かったので調べてみましたが、
吉川広家の家系の三男の家系と記載されていましたが、こちらの家系のことでしょうか?
ご説明のように、兄弟の家系で元祖が変わるのは驚きますね。
何故書き換える必要があったのでしょう。
嫡男が情報を独占して、分家は誰が祖であったかも教えてもらえなかったものなのでしょうか。

>とてもではありませんが毛利最盛期で飯田家が一萬石を領していたとは思えません。
 一万石以上は江戸時代では大名扱いとなります、毛利家では一万石以上は一門(親族)に 限られています。毛利分限帳をみれば簡単にわかります。
●なるほど、そう思われますか。
 私も口伝いで半信半疑でしたので、
 その方面の知識に明るい方にご指摘頂いてよかったです。
 1万石の件は手持ちの資料などに記載されている訳ではなく、
 唯一人の先祖が発言していただけなので何の根拠もありません。
 とにもかくにも分限長の類から探すしかないのですね。
 後、土地のご説明はとても参考になりました。
 ご先祖様方は生きるため経営に苦労していたのですね。

>河野水軍と来島氏
●ご説明ありがとうございます。
家督相続で気になったのですが、儀式をするということは
来島氏も牛福通直も一度は家宝を所有したというこですよね。
先に来島が家督を相続したのなら、後に奪取されたか、何らかの話し合いで譲渡された可能性はあるのでしょうか?
もしくは神器のない状態で即位した天皇のように、
例外的に家宝無しで代替品か何かで儀式を行って相続したとか。


  • [16]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月24日(木)10時54分58秒
 
訂正 彼方此方に言葉の変換間違いがあります、適当に読んでください。

  • [15]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月24日(木)10時38分2秒
 
> ●所有している資料をよく見てみると、
>  初メ相州鎌倉ニ居る、と記載がりました。
>  検索などで出てくる飯田家の説明では、飯田元親などのいるもう別の飯田家があり、こちらの祖は飯田義基(基国の子で、三蒲の飯田氏とも同じ先祖) で、義基が信濃飯田を領していたため改姓したとあります。
>  呑舟様のおっしゃる通りかと思います。
>  ただ、義武(三蒲)の系統の祖は鎌倉郡飯田荘を領していた信基(先の義基 の子)とあります。これは後の代なので改姓の由来はやはり信濃の飯田でしょうね。

●まだ一気にそこまで走らなくてもよろしいのではいかと思います。
 ルーツの一候補ぐらいでよいと思います。

 先に遠祖、元祖を固定しますと辻褄の合わない一次史料が出てきますとすべてを捨て去らなくては
 ならなくなり大変難儀な決断が必要となります。

 伝承や古系図は重要ですが、現代から逆に過去に遡る手法も同時に検証していかねばなりません。
 貴家は明治維新まではほぼ確定しています。
 これに「萩藩譜録」の飯田系図を繫ぐと江戸時代はほぼ間違いないでしょう。
 問題はこれより先です。
 以前にも書きましたが「萩藩譜録」の記述は戦国期以前は各家とも結構いい加減に書いています。

 私が調べている長州大野家の「同譜録」内の記述3本あり、本家に近いほど「古系図」に類似します。
 逆に言えば分家の分家が差し出した「系図」ほどいい加減で「元祖」まで変わります。
 例えば長男の系統は「大伴の家持」を元祖とし、二男の系統は「関東衆の系統」を元祖とし
 三男の系統系図は「清和源氏」を元祖として藩に差し出しています。
 これでは全く出自が変わってしまいます。

 これでは同根の現在の子孫たちが同じ「萩藩譜録」を論拠に大昔から別家のように主帳して
 しまいます。
 伝承系図が怖いのはこのようなことが頻発していることです。
 兄弟家で違うことを書き始めるからです。
 原因は下記の河野家相続でも示すように、嫡男に情報独占がされるからと思っています。

 能島村上家も嫡男家(図書家)と二男家(一学家)では引き継ぐ情報量が全くちがいます。
 図書家の資料は現在「山口県文書館」に一学家の資料は今治市の村上水軍博物館にありますが
 継承の経緯を見失うと判断を誤ります。結構間違った解説も出ています。

 一次史料でひとつづつ確認していかないと危険です。

> >屋代島の領地
> ●当方の資料には足利高氏、毛利師親(先日記載した時親ではなく曾孫の方でした)に従って安芸高田に下向した後は「佐東郡の国士なり」と記載がありました。屋代島加増以前は代々佐東郡で知行を受けていたのかもしれません。
> 後、先祖からの口伝いなので確証はありませんが、毛利家全盛期には飯田家は1万石与えられていたと伝え聞いており、その後長防長減封の際に500石程度に減らされたと言われていました。
> 主君の毛利家は豊臣政権時代は120万石、その前は備中よりも広範囲で、一時的に北九州や四国にも領地があったでしょうから、最盛期で150~200万石程は領していたのではないかと思いますが、言い伝えが事実ならばその頃の知行でしょうか。

●これも前述と同じ意味で一次史料から検証のプロセスが必要かと思われます。
 幸いにも毛利藩は明治まで生き残りましたのでなんとか「古文書」は引き継いでいます。
 最盛期が広島時代ですので、広島時代の「分限帳」と防長時代の「分限帳」を見る必要が
 あります。

 これらは「毛利文庫」に現蔵されていると思いますが、一部は東大史料編纂所にも所収されて
 いますのでアクセスすれば簡単に見れます。飯田家は双方に複数でてきますので いまの所
 どの家が本家かわかりません。
 とてもではありませんが毛利最盛期で飯田家が一萬石を領していたとは思えません。
 一万石以上は江戸時代では大名扱いとなります、毛利家では一万石以上は一門(親族)に
 限られています。毛利分限帳をみれば簡単にわかります。

 問題は貴家伝承に上記のような誇張があるとするなら、他の記事も同様なことが行なわれて
 いる可能性があることです。伝承や系図は無視してはいけませんが慎重に取扱う必要がある
 所以です。

 尚、石高はサラリー(給料)ですが、支給形態は現物支給(浮米)と領地支給に分かれるようです。
 例えば飯田家は三蒲村で約400石の生産があるとされる土地を貰っています。
 これらを毎年生産するために自家の庄屋(この場合給庄屋)を置き、その下に数百名の百姓や亡土
 を置き生産させます。生産したうち400石の内だいたい6割の240石を上納します。
 藩財政が逼迫しましすと、これが7割や8割にUPしますので手取りは減りすけど家来や使用人の
 数は同じですので生活は苦しくなります、解決策は現在と同じで解雇か副業するしかありません。
 副業で手っ取り早いのは農地開発です。屋代島では山を開墾して田にします。
 そうすること段々畑が上へ上へと延びていきます。
 勿論簿外財産(隠れ田)ですのでその分副収入が得られます。
 藩も暫らくは見てみぬふりをしますが、適当に家来達が太ったところで再検地をすることが
 あります。
 この場合税金(上納金)を安くするため測量用の縄を緩ませてはかり面積を少なく登録します。
 これが現在も田舎の田畑山林のデータベースとなっており実測すると大幅に面積が広がること
 がままあります。これを業界用語では「縄伸び」と云います。「縄緩み」の反対です。
 余談ですが、田舎の田畑山林で厳密な実測をしていないところは「登記簿面積」で取引するのが
 有利ともされますがケースバイケースです。
 1000坪が1800坪になるケースもあります。

> >来島家
> ●来島氏が河野家を継ぐかもしれなかった話は知らなかったのですが、河野家は戦国期にも独自の水軍は編成していたのですか?それとも、水軍としては来島氏が全て担っていたのでしょうか。

●これは実態はよく判りません。
 来島家が河野宗家を継いだのは事実だと思います。
 河野家は大体三日ぐらいかけて家督相続儀式を行なうと聞いています。
 その儀式手順も残っているようです。
 その儀式の中で一番重要なのが、現当主から時期当主のみへ引き渡されるとされる家宝
 (歴代什器)=宗家を証明する古文書原本や下賜された現物の引渡し式です。
 この式を来島も行い、牛福通直も行ったようですが、伝来什器は一つしかありませんので
 この歴代什器を所持する家が本家を証明します。(これがどれかかわかりません)

 来島はこれを引き継いだ可能性が高いのです。

 什器の中に系図原本がありそれを証明する書が添付されるのは当たり前です。

 「萩藩閥閲録」はこの系図と一緒に文書の写しを添える形態となっています。

「河野水軍」は来島だけでなく能島村上も含まれていると思われますが、どの程度の実行支配権が
 あったかよくわかりません。
 能島村上武吉は結構河野家の意に反する勝手な動きをしています。
 都合の良いときだけ河野家家臣となり実態はフリーの感じです。
 TBSや朝日新聞の名刺をもって仕事をする契約制フリージャーナリストのようです。

 村上家伝来の「水軍書」によると河野の殿様(屋方)の命令で軍律を決めたから全海賊衆は
 守るようにとの文書は残っていますから二面性があったとみています。

 河野家滅亡後の江戸時代にメモられたと思われる「河野家分限帳」なるものに臣下として
 村上たちは記されてはいますが、これらは本来の「分限帳」の体裁を整えていませんので
 私は参考にはしていますが「一次史料」とは思っていません。



  • [14]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月23日(水)21時48分57秒
 
呑舟様
●所有している資料をよく見てみると、
 初メ相州鎌倉ニ居る、と記載がりました。
 検索などで出てくる飯田家の説明では、飯田元親などのいるもう別の飯田家があり、こちらの祖は飯田義基(基国の子で、三蒲の飯田氏とも同じ先祖) で、義基が信濃飯田を領していたため改姓したとあります。
 呑舟様のおっしゃる通りかと思います。
 ただ、義武(三蒲)の系統の祖は鎌倉郡飯田荘を領していた信基(先の義基 の子)とあります。これは後の代なので改姓の由来はやはり信濃の飯田でしょうね。

>これに対し、村上海賊の信濃村上末裔説はイマイチ確証のないままです。
 これは説明すると長くなりますのでまたの機会にしましょう。
●今後、是非語ってくださいませ。

>屋代島の領地
●当方の資料には足利高氏、毛利師親(先日記載した時親ではなく曾孫の方でした)に従って安芸高田に下向した後は「佐東郡の国士なり」と記載がありました。屋代島加増以前は代々佐東郡で知行を受けていたのかもしれません。
後、先祖からの口伝いなので確証はありませんが、毛利家全盛期には飯田家は1万石与えられていたと伝え聞いており、その後長防長減封の際に500石程度に減らされたと言われていました。
主君の毛利家は豊臣政権時代は120万石、その前は備中よりも広範囲で、一時的に北九州や四国にも領地があったでしょうから、最盛期で150~200万石程は領していたのではないかと思いますが、言い伝えが事実ならばその頃の知行でしょうか。

「記録に厳島合戦以降に屋代島に知行地を持っていたのは緒方、小形、高井、長崎、矢野、原、栗田、吉井、守友、内藤、桑原、沓屋、櫛辺、白井、飯田、であり・・・・」
、の資料はとても詳しく書かれていますね。
これだけ沢山の領主が居たのは知りませんでした。

>来島家
●来島氏が河野家を継ぐかもしれなかった話は知らなかったのですが、河野家は戦国期にも独自の水軍は編成していたのですか?それとも、水軍としては来島氏が全て担っていたのでしょうか。
後、来島で思い出しましたが、毛利秀元の母親は来島通康の娘でしたね。
その血脈が、輝元流が途絶えた本家に長府毛利氏(秀元流)が養子を出し、幕末の敬親公などを輩出し倒幕に向うのですから、やはり中国地方の歴史は近代まで三島村上氏の縁を深く感じますね。


>村上水軍の説明
●とても判りやすい説明をありがとうございます。
村上水軍に関しては余り詳しくなく、仕組みや実態など勉強になりました。
取り分け大内氏の繁栄の要因が大陸での強奪も大きかったというのが驚きですね。
ずっと貿易で成功し、京都を上回る文化都市を築き上げたと思っていたので。

>ともあれ、来週のNHKの大河ドラマは「保元の乱」で武士の地位が大幅に上がるきっかけの
戦いでもあり、貴家の先祖が導いているのかもしれませんね。
単なる偶然ではありません。
●嬉しいコメントですね、ありがとうございます。
 村上為国は崇徳上皇の判官代を勤めていたそうで為国・基国親子は上皇方だったそうです。
 南家出身の信西は、古くから北家の摂関家独占体制に不満を持っており、藤原北家を支える源氏一派を排除しようという目的があったらしく、保元の乱もその要素が大きいのかもしれませんね。
それ故に処刑を復活させ、源為義ら上皇方の源氏一族は徹底的に処罰されたそうです。
ということは、上皇方の源氏である為国・基国親子も当然処刑されてしかるべき立場でしたが、
囚われた後、赦免されたそうです。
このエピソードには、為国親子が信西の婿や孫であるという一門としての情のようなものも感じられ、
信西のお陰で家系が存続し、信西は自身の先祖なのではないかと信じられる要因となっています。


  • [13]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月23日(水)02時05分52秒
 
●朝コメントを書いたのですが送信忘れをしてパーにありました。
 再度、その後の問合せを含め愚見を述べさせて頂きます。

> それでは大島三蒲を領している家系(弥七郎や孫七郎も?)が本家なのですね?

●本家か否かはわかりませんが、貴殿がお探しの家と思われます。

> >1592年領地の久賀で没と記録されているなら、大内氏・陶氏の代からの領主の可能性と
>  1554年に屋代島を安堵される、来島通康の関係者の可能性も出てきましたね。

> ●義武以降の情報は余り持っておりませんが、安芸に来た経緯は少し伝わっております。
> 源頼信の九代孫、飯田信基を祖とする系統のようです(清和源氏頼清流)。
> それを辿ると保元の乱にも登場する信濃村上氏の祖・村上為国やその子基国も系図の通過点で発見出来ます。基国の母は保元の乱で後白河天皇側の実権を握った藤原信西の娘です。
>
> 基国は平家追討の際に義経に従い、一の谷の戦いの鵯越えの逆落としに参加したとの情報が調べると出てきますが、どこまでが事実かは判りません。
> その後、基国孫の飯田信基は飯田荘を領したことから村上から飯田に改姓したと思われます。
> 飯田一族は建武時期に毛利時親と足利高氏に従って安芸高田に下向したとのことです。それまでは信濃ないし鎌倉に居住していたのではないでしょうか。

●貴家が信濃村上の流れだとすると、能島村上と同根とも考えられますが、いづれも複数の説があり
 よく判りません。飯田を領したから飯田と称したのであれば、長野県飯田市が考えられますね。
 信濃村上の本貫地更科郡村上郷と連携して統治していたことが考えられます。
 これに対し、村上海賊の信濃村上末裔説はイマイチ確証のないままです。
 これは説明すると長くなりますのでまたの機会にしましょう。

> 毛利元就が水軍を編成する際に、児玉就方と飯田義武に川ノ内警護衆を任せたとあります。飯田義武は毛利水軍創成期の大将の一人です。
> 毛利氏は内陸の国人なので、武田氏攻略後に水軍の重要性を悟った元就が編成させ、小早川氏や村上氏を味方に付けて毛利水軍が大きくなっていったと思いますので、陶氏滅亡前は屋代島は毛利氏の領土ではないと思われます。

●勿論、陶氏滅亡前は屋代島は大内氏の領地です。陶氏は主家を滅亡に追い遣った反逆者ですから
 毛利氏に攻撃の口実を与えてしまいました。陶氏と毛利氏が雌雄を決する戦いが厳島合戦ですから
 双方ともに村上水軍にラブコールを送ります。毛利は来島通康に協力してくれて勝てたら
 「屋代島をあげるよ」と約束しました。

 村上水軍の援軍により毛利は勝利を得ますので、屋代島の一部を通康に渡します。
 この時、飯田家も移った感じがします。
 毛利や小早川と関係しているなら毛利家か小早川家の家臣として安堵されたようです。

 古い記録に厳島合戦以降に屋代島に知行地を持っていたのは緒方、小形、高井、長崎、矢野
 原、栗田、吉井、守友、内藤、桑原、沓屋、櫛辺、白井、飯田、であり
 関ヶ原の戦いで毛利側が負けて、防長二国に押し込められる時、
 内藤、桑原、沓屋、櫛辺、白井、飯田らの数軒を残し、他の武士は知行を召し上げられて帰農
 させられます。召し上げられたのは旧大内時代からの領主たちのようです。
 こうして余ったところへ、村上、平岡、御郷、橋本、友沢、浦らの諸家が安芸や備後から
 移ってきます。

 となると飯田家は屋代島以外に領知を持っていた可能性があります。
 「毛利家八箇国時代分限帳」を調べる必要がありそうですね。

尚、水軍を毛利側は警固衆と呼び、伊豫側では海賊衆と呼びます。

 三島村上水軍は海賊衆です。

 三島村上で安芸に近い因島村上は古くから小早川氏の影響下にあり、伊豫の来島村上は伊豫河野家
 と深い関係で、戦国期には伊豫河野家を相続しますが、それを認めない、河野牛福通直を担ぐ一派
 と対峙して結局、秀吉に走り、後に久留島と改名した大名となりますが、逆に河野宗家は滅亡します。

 警固衆と海賊衆は似ているように思われますが中身は全く違います。

 毛利(小早川)警固衆は海上専門の武士団ですがこの中に戦闘員として舟子や船頭は入りません。
 これに対し海賊は当たり前ですが、漕子から船頭、大将に至るまで全員戦闘員です。

 単機能集団と多機能集団ですから、同一規模、同一人数なら海賊が圧倒的に有利です。
 このことを知っていた、小早川隆景は臣下の乃美に命じて、厳島合戦の合力を取り付けようと
 懸命に動いたのです。

 三島村上ともに領地を持っていませんでしたから経済的には年貢に頼る組織体ではありません
 でした。海上を利用したい者への請負経済で生活をしていました。
 本来は運送業ですが、戦いに関連すると武装して出かけました。請負仕事がないときは
 アルバイトに海賊(強盗)もしていました。
 能島村上家はこれらの号令権を有していたと思われます。

 請負ですので条件が合えば何処へでもでかけます。クライアントは長門の大内、伊豫河野、豊州大友
 安芸毛利氏が主で、一番派手に稼いだのは大内家との契約とされます。
 これは誉められたことではありませんのであまり公式には記録を残していません。
 内容的には、室町幕府を経済的に支えた大内氏の命で、隣国朝鮮国に借金を申し込む使節団に
 随行します。カツアゲと同じですので朝鮮国王は断ります。
 そうすると俄に武装集団と化し、相手の食料庫や、めぼしいものを略奪し帰国します。
 これらを大内氏は何度も繰り返します。
 朝鮮国は抗議してきますが、正式な臣下たちがしたことではないので知らぬ存ぜぬで押しとうし
 ます。一般に「倭寇」とも言われます。

 これらの強盗及び殺戮を禁止したのは能島村上武吉です。本業の通運業と航海の安全を保証する
 帆別銭制度の確立や、水軍業で村上水軍の生業を成立させようとしました。


ともあれ、来週のNHKの大河ドラマは「保元の乱」で武士の地位が大幅に上がるきっかけの
戦いでもあり、貴家の先祖が導いているのかもしれませんね。
単なる偶然ではありません。



  • [12]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月22日(火)13時18分11秒
 
呑舟様
>源頼信の九代孫、飯田信基を祖とする系統・・・
●こちらは親戚筋の残した手書きの文章にて最初確認出来ました。
その後、何らかの活字書籍の控えで系図などを親戚からもらいまして、そちらにも同じような記載がありました。恐らく萩藩諸家系譜などの一部かと思うのですが・・。
また、口頭でも源氏の誰々が先祖で・・などとは直系の先祖から伝え聞いています。当方の資料には残念ながら信西や村上氏のことは記載されていません。
気になってそれ以前や、中間の人物の名前などを検索で調べていたところ、頼清の系統であること、途中まで村上氏と同じであったことなどが判り、村上氏系図等は複数あったので概ね整合しているのではないかと考えておりました。
実際の古文書などを自身で見て確認しているのではないので、そういう意味では果たして根拠になるのかどうか判りませんが・・。

しかしながら、今の時期に保元の乱をドラマで放送するというのは何とも言えない縁を感じます。
信西なども去年まで知らなかったのですから、凄い偶然です。
信西に関係があるかもしれないと思うだけで、お陰で関心が高まり、
ほとんど知らないこの時代を概略学ぶことが出来ました。
こういうのも歴史の魅力の良さだと感じています。
それに派生してどんどん時代や地域、人物を遡って探求することが出来ます。
こちらのサイトの方々との出会いもありましたし、自身にとって良い年となりました。

ところで、水軍の話などはとても参考になったのですが、
私も興味があって村上水軍の家系図や文章を検索で見ていましたが
(きっかけは平岡家に村上氏から室を迎えたと当サイトに記載されていたので)、
前期村上水軍と後期村上水軍があるということを知りました。
前期は村上為国弟の定国が元祖で、南北朝時代の義弘という名将がいたとか。
その後は子がなく、南朝の計らいで北畠顕家の子・師清を嫡男に迎えたとか、元祖の兄の村上為国の末裔を信濃から呼び寄せたとか、色々説があるようなのですが、どのように見られておりますか?
師清の数代後まで、三島村上氏の当主がそれぞれ顕や房など北畠家ゆかりの字を使っているのも気になります。
この件は今、とても関心があります。もし良ければ見解をお聞かせください。







  • [11]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月22日(火)01時11分54秒
 
呑舟様
>今回は平岡家、飯田家と言う鏡を通して屋代島大野家と徳山藩大野家を検証することが出来て 私も勉強になっています。
 教えているようですが、教えられてもいるのです。

●呑舟様もご先祖探しでしょうか。
 お話いただいていることは大変光栄です。
 今後とも勉強させてください。

>こちらの飯田氏は浮米ですから領地を持っていません 別の飯田氏でしょう。
 飯田氏は16家ありますのでその中の大島宰判三蒲の飯田でないと別家となります

●飯田家は16家もあるのですね?驚きました。
何家かはあるとは思いましたが、そんなにあるとは・・。
それでは大島三蒲を領している家系(弥七郎や孫七郎も?)が本家なのですね?

>1592年領地の久賀で没と記録されているなら、大内氏・陶氏の代からの領主の可能性と
 1554年に屋代島を安堵される、来島通康の関係者の可能性も出てきましたね。

●義武以降の情報は余り持っておりませんが、安芸に来た経緯は少し伝わっております。
源頼信の九代孫、飯田信基を祖とする系統のようです(清和源氏頼清流)。
それを辿ると保元の乱にも登場する信濃村上氏の祖・村上為国やその子基国も系図の通過点で発見出来ます。基国の母は保元の乱で後白河天皇側の実権を握った藤原信西の娘です。

基国は平家追討の際に義経に従い、一の谷の戦いの鵯越えの逆落としに参加したとの情報が調べると出てきますが、どこまでが事実かは判りません。
その後、基国孫の飯田信基は飯田荘を領したことから村上から飯田に改姓したと思われます。
飯田一族は建武時期に毛利時親と足利高氏に従って安芸高田に下向したとのことです。それまでは信濃ないし鎌倉に居住していたのではないでしょうか。

毛利元就が水軍を編成する際に、児玉就方と飯田義武に川ノ内警護衆を任せたとあります。飯田義武は毛利水軍創成期の大将の一人です。
毛利氏は内陸の国人なので、武田氏攻略後に水軍の重要性を悟った元就が編成させ、小早川氏や村上氏を味方に付けて毛利水軍が大きくなっていったと思いますので、陶氏滅亡前は屋代島は毛利氏の領土ではないと思われます。

>毛利文庫の萩藩譜録
●こちらの書籍も探してみます。
マツノ書店で言う毛利家文庫目録 全5冊山口県文書館史料目録などは
また違う書籍なのでしょうか。
これらの書籍には平岡家の系図(戦国期から通して)も確認出来るものなのでしょうか。

>二次史料の系図から出発するとある程度はわかりますが、次々と矛盾点が生れて
 きます。このような時に他家情報は「裏取り」として有効です。
●なるほど、他家から攻めるのも有効なのですね。
 勉強になりました。飯田家→平岡家に関心を持ったことで、これだけの情報を教えていただいたのですから幸運でした。

  • [10]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月21日(月)23時28分20秒
 
> 呑舟様のおっしゃる譜録とは、マツノ書店にある「近世防長諸家系図綜覧」のことでしょうか?サンプルのPDFを見ると目次があり、確かに飯田家もありました。

●こちらの飯田氏は浮米ですから領地を持っていません 別の飯田氏でしょう。
 飯田氏は16家ありますのでその中の大島宰判三蒲の飯田でないと別家となります。

 詳しくは「山口県文書館」に問い合わせればわかると思います。
 毛利文庫の萩藩譜録にあると思うのですが、

> >蒲野村(三蒲)旧領主飯田氏の先祖は飯田越中守といふ
>
> ●飯田越中守義武のことも存じております。 情報ありがとうございます。
>  1592年に領地の久賀で没したとのことで、豊臣政権時代はもう少し広い範囲を領していたのかもしれませんね。

●1592年領地の久賀で没と記録されているなら、大内氏・陶氏の代からの領主の可能性と
 1554年に屋代島を安堵される、来島通康の関係者の可能性も出てきましたね。

 どちらにしろ、系図に書かれていると思われます。

 飯田家は地元の公式記録に残る名家ですので先祖探しは難しくありませんが
 それ以外の家は常状はとても大変です。

> しかしながら、呑舟様は凄まじい情報量・知識量でらっしゃいますね。
> 掲示板に参加する前から(今年から)皆様の会話を度々楽しく読ませて頂いておりましたが、
> 当方の家系までもこれほどご存知とは、ただただ脱帽するばかりです。
> こちらは大した知識もなく対話していただいて恐縮です。
> どこかに書かれていたら見落として申し訳ないのですが、
> 大変失礼ですが、呑舟様は歴史研究のお仕事をされてらっしゃる方なのでしょうか。

●私は歴史関係とはなんら関係はありません。

 ただ伊豫大野家を探索中の徒にしか過ぎません。伊豫の中世の歴史を教えて頂くため
 今城氏のサイトにお邪魔しています。

 歴史は相手が有って初めて記録されますので、周囲情報を知ることが目的情報を得る近道でも
 あります。二次史料の系図から出発するとある程度はわかりますが、次々と矛盾点が生れて
 きます。このような時に他家情報は「裏取り」として有効です。

 今回は平岡家、飯田家と言う鏡を通して屋代島大野家と徳山藩大野家を検証することが出来て
 私も勉強になっています。
 教えているようですが、教えられてもいるのです。

 今後ともよろしく 呑舟拝

  • [9]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月21日(月)22時02分31秒
 
呑舟様
>飯田系図を見るまでは判りませんね。弥と孫の読み間違い可能性もあるし、別名の可能性も あります。当時は一人で10以上名前を持っていたり、親兄弟と同じ名を使う人もいましたので
 明治維新の人物は注意深く読まないと判らなくなります。

●なるほどですね、出来うる限り資料を手に入れないと確証は得られませんね。
 所有しているいくつかの資料は、没年が記載されていなかったり、
 おっしゃる通り代々名前が同じだったりして、人物の識別が難解です。

>調べてみますと、やはり屋代口で戦ったのは、平岡通義ではなく養子の甲太郎通三のようですね。
となると飯田孫七郎と弥七郎は別人の可能性がありますね。

●資料の扱いは大変難しいですね。私が載せたサイトなどは詳しかったのでだいぶ信用していたのですが、名前が少し違って掲載されるだけで想定とだいぶズレてしまいます。
●梅さんのことはこちらの所有している手書きの系図にも書かれていました。
最初に書かれているので通政の長女なのでしょうね。

>七郎右衛門 は通義の義父のようです。七郎右衛門 も養子のようです。

●七郎右衛門は飯田ですよね?平岡通義の義父ということはどういう関係なのでしょう。通義→義著のことでしょうか?

>萩藩閥閲録は江戸中期の編集ですが、譜録は明治期まで増補されていると思いますので 貴家が探す「飯田系図」そのものがあると思います。

●ご紹介ありがとうございます。希望の持てる資料ですね。
最近知ったのでマツノ書店はサイトと名前だけは存じております。
扱ってる本は手にとって読んでみたいタイトルが沢山ありますが、
遠方なのが大変残念です。僅かな解説とタイトルで憶測するしかありません。

呑舟様のおっしゃる譜録とは、マツノ書店にある「近世防長諸家系図綜覧」のことでしょうか?サンプルのPDFを見ると目次があり、確かに飯田家もありました。
目次の前の解説には譜録のことが書いてありました。
これとはまた違う書籍なのでしょうか?
http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimage/1147.pdf

>蒲野村(三蒲)旧領主飯田氏の先祖は飯田越中守といふ

●飯田越中守義武のことも存じております。 情報ありがとうございます。
 1592年に領地の久賀で没したとのことで、豊臣政権時代はもう少し広い範囲を領していたのかもしれませんね。

しかしながら、呑舟様は凄まじい情報量・知識量でらっしゃいますね。
掲示板に参加する前から(今年から)皆様の会話を度々楽しく読ませて頂いておりましたが、
当方の家系までもこれほどご存知とは、ただただ脱帽するばかりです。
こちらは大した知識もなく対話していただいて恐縮です。
どこかに書かれていたら見落として申し訳ないのですが、
大変失礼ですが、呑舟様は歴史研究のお仕事をされてらっしゃる方なのでしょうか。
また、お住まいは西国の方でしょうか。
沢山教えていただき、ありがとうございます。





  • [8]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月21日(月)20時16分1秒
 
> 先のサイトに書かれた飯田弥七郎は→飯田孫七郎の間違いなのでしょうね。
> この飯田孫七郎という名前に見覚えがあります。
> 親戚が恐らく戸籍を元に書いたと思われる略系図に、私の直系の先祖を孫七郎と記載されていました。
> 最初は弥七郎の読み間違いではないかと思っていましたが、孫七郎という方も実在しているのですね。

●飯田系図を見るまでは判りませんね。弥と孫の読み間違い可能性もあるし、別名の可能性も
 あります。当時は一人で10以上名前を持っていたり、親兄弟と同じ名を使う人もいましたので
 明治維新の人物は注意深く読まないと判らなくなります。

> ただ、大島口の戦いに参加したのは平岡ヒデさんの最初の夫でしょうか。
> 先祖の伝いで聞いたので資料などの根拠は全く手元にありませんが、
> 大島口の戦いでは養子の男児が出陣出来なかったので、義父が代わりに出陣したという話を聞かされました。
> それぞれの生没年などの資料は全て揃っていないので推測の域を出ませんが、
> それが事実なら、もしや大島口で戦っていたのは平岡ヒデさんのお二人の夫のどちらかではなく、先代の九代飯田信和ではないか、という気もしてきました。

●これも飯田系図と「改姓原戸籍」を見ないとわかりません。

 平岡通義は養子で張内記良道の次男が平岡梅さんと結婚して平岡家を相続します。

 ヒデさんは梅さんの妹のようです。
 四境の戦いの時は平岡通義は35歳前後です。

 この時の屋代島防衛軍編成は
 ①屋代進撃軍 ②沖浦進撃軍 ③三蒲椋野進撃軍の三隊に別れ、安下庄及び久賀の幕軍に向い
 ます。このうち

 ③三蒲椋野口進撃軍の編成は

  浦 一小隊
  村上亀之助(村上宗家図書家・兼助) 五小隊及び砲隊
  村上河内(一学家)三小隊
  村上太左衛門(因島)飯田孫七郎 各一小隊
  平岡甲太郎 一小隊

 とされます。

 あれ?平岡の名が違いますね。

 調べてみますと、やはり屋代口で戦ったのは、平岡通義ではなく養子の甲太郎通三のようですね。
 平岡甲太郎通三は村上太左衛門二男となっていますから、通義の養子のようですが明治5年に
 逝去しますので通義の兄の次男、通元が平岡家を相続したようです。

 通義はやはり石州口で戦い石州占領後町方となっているようですね。

 となると飯田孫七郎と弥七郎は別人の可能性がありますね。

 平岡通義も妻の梅も甲太郎通三もいづれも東京本郷駒込「吉祥禅寺」に葬られていることに
 なっていますから、空襲や区画整理が無ければ、墓は残っていると思われます。

> 呑舟様もおっしゃる通り七郎右衛門を名乗っていましたし、記載はありませんが孫七郎も名乗っているかもしれません。
> 没年も明治に入ってからのようです。

●七郎右衛門 は通義の義父のようです。七郎右衛門 も養子のようです。
> 萩藩諸家系譜という書籍にも何かヒントがあるのではないかと期待していますが、
> こちらは幕末までは載っていないものでしょうか。

●萩藩閥閲録は江戸中期の編集ですが、譜録は明治期まで増補されていると思いますので
 貴家が探す「飯田系図」そのものがあると思います。

 手許に「譜録」が無いので、案内できませんが、
 原本は「山口県文書館」写しの刊本は「マツノ書店」が発行していると思います。
 マツノ書店は山口県関係書の宝庫です。マニアックなため貴重書は高価です。
 図書館での閲覧か、貴殿が住んでいる図書館で図書を指名して取り寄せサービスを利用する
 手が一番経済的です。マツノのアドは・・・・・

 http://www.matuno.com/

尚、「大島郡大観」によると

「蒲野村(三蒲)旧領主飯田氏の先祖は飯田越中守といふ、その墓碑は現在久賀町 洞松寺の
 境外に存すといふ」

とあります。久賀町は現在の周防大島町久賀地区です(旧久賀町)

  • [7]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月21日(月)13時13分54秒
 
呑舟様
詳しいご説明ありがとうございます。
平岡兵部の件は納得いたしました。
先のサイトに書かれた飯田弥七郎は→飯田孫七郎の間違いなのでしょうね。
この飯田孫七郎という名前に見覚えがあります。
親戚が恐らく戸籍を元に書いたと思われる略系図に、私の直系の先祖を孫七郎と記載されていました。
最初は弥七郎の読み間違いではないかと思っていましたが、孫七郎という方も実在しているのですね。

ただ、大島口の戦いに参加したのは平岡ヒデさんの最初の夫でしょうか。
先祖の伝いで聞いたので資料などの根拠は全く手元にありませんが、
大島口の戦いでは養子の男児が出陣出来なかったので、義父が代わりに出陣したという話を聞かされました。
それぞれの生没年などの資料は全て揃っていないので推測の域を出ませんが、
それが事実なら、もしや大島口で戦っていたのは平岡ヒデさんのお二人の夫のどちらかではなく、先代の九代飯田信和ではないか、という気もしてきました。
呑舟様もおっしゃる通り七郎右衛門を名乗っていましたし、記載はありませんが孫七郎も名乗っているかもしれません。
没年も明治に入ってからのようです。

>単純に考えますと周りくどい調査はしなくても、
飯田家は三百石取りの萩藩直臣ですから、「萩藩閥閲録・同譜録」に『届け出系図』が
あると思います。

情報ありがとうございます。未知の世界がまだまだありそうですね。
折を見て萩藩閥閲録などの書籍を探してみます。
萩藩諸家系譜という書籍にも何かヒントがあるのではないかと期待していますが、
こちらは幕末までは載っていないものでしょうか。

  • [6]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月21日(月)08時21分39秒
 
追伸

単純に考えますと周りくどい調査はしなくても、
飯田家は三百石取りの萩藩直臣ですから、「萩藩閥閲録・同譜録」に『届け出系図』が
あると思います。

これが見つかれば千五百年代までは遡れると思います。
それより先はまた別です。

  • [5]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月21日(月)02時20分50秒
 
> >平岡兵部とともに戦ったのであれば、四境の戦いの内 「石州口の戦い」でしょう。
>  平岡はこの時、軍監参謀を兼ねていますから指揮者の立場です。
>
> 私は資料を持っている訳ではないのですが、最近こちらのサイトを見つけまして、
> 大島口の戦いが詳しく書かれています。
> 大島奪還作戦で世良修蔵の指揮のもと、飯田弥七郎・平岡兵部隊が行動を共にしていたことは記載されており、大島口の戦いの後は、飯田・平岡隊は残留して大島の防衛にあたっているようです。

●概ねご紹介のサイトの内容は合っていますが、色んな参考本のつなぎ合わせのためか所々、変です。

 村上と平岡と飯田がグループで行動していたのは事実です。

 平岡兵庫通義が石州口へ出張したのは系図の記述によると

「慶應二年五月十七日 幕軍四境ヘ迫ルヲ以テ精鋭隊軍監ト成 石州出張」とありますので
 大島口の戦いは同年六月七日とされますから、石州から帰ってきて大島防衛軍に合流した
 ようですね。


> >ヒデさんは飯田弥七郎の妻になった後、弥七郎が死んだので義著の妻となり家を守り、
>  明治二十六年三月十五日に亡くなっていると思われます。
>
> 弥七郎の死去後に、義著の妻になるとありますが、
> 十代当主は飯田弥七郎義著と言い、弥七郎と義著は同一人物との認識を持っていましたが。
> もしや、私の所持しているメモにある義賢(ヒデさんの最初の夫)も弥七郎という名を持っていたのでしょうか?
> 元祖の義武から何代も皆、弥七郎を名乗っていたようですし充分有り得るでしょうか。
> だとすると大島口で戦ったという飯田弥七郎とは平岡ヒデさんの最初の夫(義賢)と、2番目の夫(義著)のどちらなのでしょう。ご存知でしょうか?

●よく判りませんが、系図の記述からするとヒデさんは最初は長男に嫁ぎ、夫は逝去したので
 相続のため弟と再婚したのではないでしょうか?
 昔はよくある話です。
 同じ名は「通し名」と言って代々家督相続予定者が引き継ぎます。
 ヤクザや歌舞伎の世界の「襲名」と同じ原理です。

 それはさておき地元の記事には大島口の戦いに参加したのは「飯田孫七郎」と記されています。

> 私は首都圏在住です。
> 今のところはインターネット等で探すことで終始していますが、やはり限度があるようです。
> 首都圏にも山口県の歴史を大量に扱っている書店などがあれば良いのですが。
> 例えば、その養子や縁組の殿様の許可などが書かれた書物などは、山口県の博物館などに行かないと無いでしょうか?それとも現地の書店などには普通に置いてあるものなのでしょうか?

●首都圏なら一番簡単なのは「国会図書館」で探せばたいていのものは出てきますが、ピンポイントで
 押えないと余計時間がかかるかも知れません。
 ある程度古文書が読めれば「東大史料編纂所」にアクセスしても関連史料はあります。
 明治期に先祖が役人になっていれば「国立公文書館」に記録があることもあります。

 手短かに調べるなら貴家の「改姓原戸籍」を取り寄せることでしょうね。
 幕末から明治の先祖までは遡れます。ただしこれは本家の血筋の方でないと取り寄せできません。

 それと明治の名は判っていますから、「萩藩閥閲録」「同譜禄」「萩藩風土注進案」なら大きな図書
 館ならならたいていありますからそこから見るのが一番早いかも知れません。

 多分、貴家は天保十三年時点で三蒲に二百九十四石を領していた「飯田七郎右衛門」家と思われま  す。
 この時の平岡家は「平岡八右衛門」で屋代北迫で四百九十九石を領していました。
 この時三蒲の村上吉之進が三百九十八石ですので、因島村上の当主家と思われます。
 能島村上家本家は図書家と云いこの時は二千八十八石の大身です。弟の一学家は
 千四百八十一石と記されています。
 飯田家は三百石近い家ですから大身となります。領内では殿様とも呼ばれます。

 多分、三蒲の飯田家と屋代北迫の平岡家は、現在なら車で10分程度の距離しかないと思われます。

  • [4]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月20日(日)12時50分8秒
 
呑舟様
>平岡兵部とともに戦ったのであれば、四境の戦いの内 「石州口の戦い」でしょう。
 平岡はこの時、軍監参謀を兼ねていますから指揮者の立場です。

私は資料を持っている訳ではないのですが、最近こちらのサイトを見つけまして、
大島口の戦いが詳しく書かれています。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/bakutyouwar/oshima.htm
大島奪還作戦で世良修蔵の指揮のもと、飯田弥七郎・平岡兵部隊が行動を共にしていたことは記載されており、大島口の戦いの後は、飯田・平岡隊は残留して大島の防衛にあたっているようです。
平岡兵部が会津まで攻め上った軍監参謀というのは知りませんでしたが、上記サイトの内容が事実なら、大島口の後に石見に派遣されたのでしょうか?

>ヒデさんは飯田弥七郎の妻になった後、弥七郎が死んだので義著の妻となり家を守り、
 明治二十六年三月十五日に亡くなっていると思われます。

弥七郎の死去後に、義著の妻になるとありますが、
十代当主は飯田弥七郎義著と言い、弥七郎と義著は同一人物との認識を持っていましたが。
もしや、私の所持しているメモにある義賢(ヒデさんの最初の夫)も弥七郎という名を持っていたのでしょうか?
元祖の義武から何代も皆、弥七郎を名乗っていたようですし充分有り得るでしょうか。
だとすると大島口で戦ったという飯田弥七郎とは平岡ヒデさんの最初の夫(義賢)と、2番目の夫(義著)のどちらなのでしょう。ご存知でしょうか?

私は首都圏在住です。
今のところはインターネット等で探すことで終始していますが、やはり限度があるようです。
首都圏にも山口県の歴史を大量に扱っている書店などがあれば良いのですが。
例えば、その養子や縁組の殿様の許可などが書かれた書物などは、山口県の博物館などに行かないと無いでしょうか?それとも現地の書店などには普通に置いてあるものなのでしょうか?



  • [3]
  • Re: 飯田家・平岡家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月20日(日)05時41分39秒
 
> 於秀さんは、こちらで所有しているメモで言うヒデさんのことかもしれません。

●於秀はオヒデと読みますのでヒデさんの愛称ですね。

> 最初は九代飯田信和の養子という形で入った信賢(浅沼家との記載あり)と平岡ヒデさんとの間に生まれた娘が、当方の先祖になります。
> 弥七郎さんは継父ということになります。
> 飯田弥七郎義著(出羽家との記載あり)は信賢の後に飯田家に入ってきた養子で、同じく平岡ヒデさんと結婚され、マキさんという女性の方が誕生し、平岡通義(通政の婿養子、別名兵部)の子・通元に嫁ぎ代々続いています。
> このように、こちらのメモの系図にも書かれています。
> 飯田弥七郎さんと平岡兵部は共に四境戦争で幕府軍と戦っているようです。

●平岡兵部とともに戦ったのであれば、四境の戦いの内 「石州口の戦い」でしょう。
 平岡はこの時、軍監参謀を兼ねていますから指揮者の立場です。

 ちなみに「大島口の戦い」は能島村上最後の当主、村上兼助が指揮します。
 こちらに攻め込んできたのは伊豫軍です。
 伊豫軍は後に和平の使者と賠償金を持ってきますが長州軍は追い返します。

 ヒデさんは飯田弥七郎の妻になった後、弥七郎が死んだので義著の妻となり家を守り、
 明治二十六年三月十五日に亡くなっていると思われます。

> ※ヒデさんと結婚した飯田家のお二方の出生先の浅沼家、出羽家はどんな家系なのでしょう。こちらには資料がありません。

●浅沼・出羽家は調べましたがいまの所よくわかりません。
 当時は養子や結婚、家督相続、隠退はすべて殿様の許可が必要ですのでどこかに資料はあると
 思います。
 ましてや、戊辰戦争を戦っているのであれば資料もふんだんに出てきます。
 平岡兵部は「干義隊」を卒い萩より海路、越後に上陸し、憎き会津若松鶴ヶ城を落城させるまで
 転戦しますので飯田氏も従軍していた可能性が高いですね。

 平岡、飯田は三田尻(現・防府市)の御船手組に属していたと思われますので、
 ここの組頭が能島村上兼助で番頭が平岡兵部です。

 また三蒲地区に領知を与えられたのは因島村上の人たちが多いので遠祖は因島村上の関係者
 が考えられます。

 貴殿がどこに住んでいるかにより見れる資料が変わってきそうですが、
 山口県なら資料はたくさんありますから先祖探しはそんなに難しくはないと思います。


  • [2]
  • 飯田家・平岡家

  • 投稿者:KenKen
  • 投稿日:2012年 5月19日(土)19時05分48秒
 
呑舟様>
初めまして、早速のレスをありがとうございます。
飯田家に関しては、全て仰せの通りです。三蒲地区の飯田氏の家系です。
これだけの情報をお持ちの方がいらっしゃるとは、大変驚きました。
お話出来て光栄です。
於秀さんは、こちらで所有しているメモで言うヒデさんのことかもしれません。

最初は九代飯田信和の養子という形で入った信賢(浅沼家との記載あり)と平岡ヒデさんとの間に生まれた娘が、当方の先祖になります。
弥七郎さんは継父ということになります。
飯田弥七郎義著(出羽家との記載あり)は信賢の後に飯田家に入ってきた養子で、同じく平岡ヒデさんと結婚され、マキさんという女性の方が誕生し、平岡通義(通政の婿養子、別名兵部)の子・通元に嫁ぎ代々続いています。
このように、こちらのメモの系図にも書かれています。
飯田弥七郎さんと平岡兵部は共に四境戦争で幕府軍と戦っているようです。
※ヒデさんと結婚した飯田家のお二方の出生先の浅沼家、出羽家はどんな家系なのでしょう。こちらには資料がありません。



  • [1]
  • 長州 平岡家外戚

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月19日(土)17時31分33秒
 
KenKenさん ようこそ

明治期に飯田弥七郎が先祖にいらっしゃれば、ご指摘のように
伊豫の河野通直の重臣、長州平岡家につながります。

以前、「談話室ゆづき」に平岡家の本家の方と分家の」方が登場したので
今回説明してくれるかと見てましたがおいでになりませんね。

平岡家系図によると平岡通義の妹、クリ、後に於秀が飯田弥七郎の妻
となっています。於秀が生んだ娘を今度は平岡家に戻し、平岡通元の
妻としているようですね。

平岡通義は工部省営繕局長を務めた人物で、明治15年皇居造営の責任者の一人です。
大正6年になくなります。

飯田氏は複数、長州藩士にいますが、周防大島に領地があったとするなら、
現在の周防大島町三蒲地区の飯田氏と思われますがそのような伝承はございませんか?


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