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龍馬と大山祇神とイージス艦

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 6月20日(水)12時59分20秒
  龍馬と大山祇神の取り合わせを眺めておりますと
龍馬は日本水軍の産みの親
日本水軍の守護神は大山祇神
ゆえに、龍馬と大山祇神は日本水軍の守護神

また、大山祇神の総本社の宮司さん曰く
日本水軍イージス艦の守護神に大山祇神が祀られている
なんでも艦橋の基礎に大山祇神が鎮座ましましておられる

龍馬と大山祇神
日本水軍と大山祇神
イージス艦と大山祇神

が、まてよ?
イージス艦のイージスは美女アテネ神が持たれし楯
ということはー
アテネ神の美貌に大山祇神の目がくらみ・・・
国の守り・・・大丈夫かなー
娘の木花之開耶姫と磐長姫がやきもきしてるだろーなー
 
 

Re: 清盛の里・呉水軍に空母なり

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月19日(火)19時57分18秒
  > No.3704[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

> maru阿弥さんのご覧になった空母・?・らしき船型は、ヘリを『越』えた『智』力の結晶・今沖縄米軍に配置計画の垂直離着型最新鋭の両翼に大きなプロペラを着けた~なんとか?何とか!型の飛行機なら小型の空母の甲板から発艦も着艦も可能なれば~辻褄が合うようなmaru阿弥陀師の目にした日本国・海上自衛隊・古来よりの瀬戸内海軍の本拠呉(くれ・で・ご・とは読まないで)の見事な風景のレポートかと! 南無
 

Re: 清盛の里・呉水軍に空母なり

 投稿者:今城  投稿日:2012年 6月19日(火)19時00分2秒
  > No.3703[元記事へ]

maru阿弥さん

> 潜水艦が多々並びし中になにやら空母・・・ミニ空母が
> やや、日本水軍は空母部隊を復活せしなりや

 maru阿弥さんがご覧になったのは、ヘリ空母でしょう。海自はまだ空母は持っていません。
 

清盛の里・呉水軍に空母なり

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 6月19日(火)14時39分42秒
  やぼようで、安芸の国へ
早舟で伊予から安芸は約半時ほどなり
途中清盛殿の造りし音戸の瀬戸には、いつも頭がさがり
つづいて、呉の水軍湊へ
日本水軍はかつての呉の水軍力にあやかって、本拠地を呉と名付けられたとか・・・
潜水艦が多々並びし中になにやら空母・・・ミニ空母が
やや、日本水軍は空母部隊を復活せしなりや
我が目を疑う
かつて、世界最強の空母部隊を揃えしも、ミッドウェーの大敗にて空母部隊は弱小
米国水軍に制空権を奪われし、苦い思い出が蘇るなり

空母で何をするなりや・・・
対・高句麗のテポドン、新羅対策か
はたまた、唐の新空母対策か
あるいは増強される新バルチック水軍への対策か

真珠湾の戦いのトラウマか、日本水軍の空母計画には
米国水軍の注文が多いとか

清盛の里・呉水軍の夢何処・・・
 

Re: 龍馬の銅像近くに大山祇神社が・・・

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月15日(金)21時15分0秒
  > No.3687[元記事へ]

> maru阿弥さんへのお返事です。
>
>今城先師・ 師匠~早速地図に書き込んで見ましたよ!・・実に面白き配置図でする。大笑い 南無
序に以前お送りした庵治の番屋の水軍丸5世(今は昔~廃船置き場)に為ってます。
 

Re: 龍馬の銅像近くに大山祇神社が・・・

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月15日(金)20時43分22秒
  > No.3685[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。

師匠、しょうまっこと面白い発見ですね!・・讃岐の国でも~源平合戦の屋島檀の浦と船隠しの突先の岬にも中世の古城跡と・大山祇神社が在る是よ~庵主の庵治の番屋の対岸よ(小屋から見えるがやき不思議じゃねや?!)
まあ~一回今度来た時に案内するきに・・・来て見~や。(待ちゆうぜよ)笑い 南無
 

Re: 龍馬の銅像近くに大山祇神社が・・・

 投稿者:今城  投稿日:2012年 6月15日(金)19時49分35秒
  > No.3685[元記事へ]

maru阿弥さん、面白いものを見付けましたね。

 龍馬記念館と山祇神社と大山祇神社がほぼ等間隔で一直線に並んでいる。

 桂浜の東端の岬に海津見神社竜王宮がある。

 浦戸湾に入ると厳島神社があり、更に西法寺がありました。

馴染みのある名前の神社と寺。いや大変に面白い。
 

龍馬の銅像近くに大山祇神社が・・・

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 6月15日(金)18時04分47秒
  龍馬の銅像ならびに龍馬記念館の地図を眺めておりますと、なんと大山祇神社が
日本海賊ではなくて、日本海軍は大山祇の神を守護神としておりますが
日本海軍産みの親の横に大山祇神社、なるほどなるほど
がしかし、龍馬よりも大山祇神社の方がはるかに古い
大山祇神社ある所、河野水軍が必ず居る
河野水軍往く所、大山祇の神も往く
鎌倉・室町の頃とも言われているよし
はて、浦戸湾の入り口に、大山祇の神を祀られた御仁はどなたでありましょうや・・・
河野水軍、浦戸湾で何をやっちょりましたかな???
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて④

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月10日(日)15時40分56秒
  > No.3661[元記事へ]

そいそう~北島さまに御案内する『湯築城』の歴史塾のことを忘れておりました。
来る7月21日(土)から~来年1月までの毎月土曜日に開かれる『人物をたどる河野氏の歴史と湯築城』の諸先生方の講話がありますので是非・・時間が有ればご参加ください。南無
 

阿波の河野氏由縁の地を訪ねて④

 投稿者:北島  投稿日:2012年 6月10日(日)01時22分23秒
  阿波国の板野郡上板町に「大山祇神社」の名の神社があることを知り、訪ねてみました。
(徳島市西大工町にある大山祇神社は河野通久の関係らしいですが、それとは別の神社です)
写真のように、少しさびれた感じのとても小さな神社でした。残念ながら、河野家につながる由緒書などはなく、近所の方に由来を聞いてみてもわかりませんでした。
「愛媛の大山祇神社と何か関係は?」と問えば「さあ~関係ないんちゃう?」とのさみしいお返事でした。
ということで、今回は収穫なくからぶり(?)なので、投稿をためらっていたのですが、
やはり「大山祇神社」の名前だけでは、河野家とつながりがあるかどうかはわかりませんよね?

ただ、この神社がある場所は、旧吉野川と吉野川の合流地点なので、もしかして・・・、
伊予から船でやって来た河野氏が「ここに地の利あり」と判断して上陸したのでは?
と想像するとちょっと面白い気もいたしました。(ご参考までとして)

*地図のURLです↓
http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%BE%B3%E5%B3%B6%E7%9C%8C%E6%9D%BF%E9%87%8E%E9%83%A1%E4%B8%8A%E6%9D%BF%E7%94%BA%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A5%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE&lat=34.1108290&lon=134.4505502&type=scroll&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%A5%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE&idx=33&v=2&sc=3
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 6月 7日(木)12時49分36秒
  > No.3652[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

庵主様の真意はは従来より承知しております。
「談論風発」を許可されております今城さんのブログにてのことです。
「喫茶室ゆづき」はネット上に公開されておりますので万人が見ることが可能となっています。
河野家等を含む「伊豫史」に興味のある「物言わぬ閲覧者」が少なからずいらっしゃるので
敢えて他見を挿んでおります。その点ご容赦頂きたいと思います。

当方が専門で探索中の「伊豫大野家」の出自も、いつの頃からか「誤伝」「改竄」されています。
不思議なことに、これらの経緯も「予章記」や「予陽河野家譜」の変遷と「軌を同一」にしている
感じがします。よって「諸河野家系図」と「諸大野家系図」を成立の過程を時系列に並べた上で
記述内容を比較すると、どうも双方が影響している形式が見られます。

河野関係系図は多すぎて大変です。出来るだけ江戸初期以前に成立したと思われるものに
絞っています。江戸中期以降は「亜流」ですので割愛します。それでも大変です。

最近備後地域に残る「河野系図」を見つけました。
まだ比較していませんが通常の「河野系図」とは違った内容が含まれている可能性があります。

こうした埋れていた文書を掘り起こすことも異議深いものです。
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月 7日(木)11時34分45秒
  > No.3651[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟師、呉越同舟のスピリッツなればお解りいただける義為らんかな?
『五月雨をあつめて早し最上川』の歌心でしょう!
先ずは、保元・1156年(丙子四月二十七日)~平治・1159年(巳卯四月二十日)の両乱の政変に想いを寄せて~その後・永暦~・・・・・・・・・・文治・1185年(乙巳八月十四日・壇ノ浦にて源平の雌雄を決する戦況)から、正冶~建仁・・・・・承久之乱・への変遷は、真に伊予の河野氏にても難儀~難儀の人の世の定めの流れの激流の時代ではなかったのか?!・・。
検めて、共に想いを寄せて、もしも大野氏がその先祖を尊び偲ぶ仏心が導く侭の姿なれば、必ず大願成就成されるものと。南無
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 6月 5日(火)15時12分15秒
  海遊庵主さんへのお返事です。

> (1)  「百合文書」には「ムラグミ」なる海上輸送業者のことが伊豫弓削の物資運搬者として
> >  記録されています。
> >  民族学者 宮本常一氏はこの「ムラグミ」が「村上」と訛り伝えられ
> >  信州村上系としてして系図を創作したらしいとしています。
> >  よって「村上水軍」家、特に宗家とされる「能島村上」の系図の出自にも???が
> >  ついてしまう所以です。
> (2)  よって景浦勉先生は通清、通信以前の「河野関係文書」は荒唐無稽で信用できない
> >  とされます。またこの親子以降の記事も「偽書簡」等を多用しているので史料として
> >  信用することは注意が必要とします。確かにその要素が認められます。
> >
> (3)  越智氏の遠祖は「ニギハヤヒ」系「左京神別」であり、これを「皇別」にすべく
> >  「孝霊天皇」系の「伊豫親王」なるものを捏造したと 栗田寛博士は『越智氏族考証』
> >  で指摘しています。

> 1、2、3項目共に、呑舟師のご案内の事項も~今少し慎重に私見をお願いします。
> 何故ならば、夫々の見解も此れにて定まらざる故の流れにて、学者先生の学識の尊き検証の諸説です。(字体文書の表現には多少の差異を感じております)

● 1,2,3はいづれも私の私見ではありません。
 1)は宮本常一氏の見解で
 2、3)は景浦勉氏の見解です。

 これらは発表されてから相当経っていますが」、それらに関する学術的反論を見たことがない
 のです。
 よってこれらは、一つの問題提議程度のものでしかありません。

 学術的な反論を待ちたいと思っています者です。
 まあ、時間はかかりそうですが、。
 

土佐之国の古道・関所を訪ねる

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月 5日(火)14時16分31秒
  行って参りました!・・土佐から伊予への古道の関所へ・・その場所は江戸時代の参勤交代の折にも盛んに行き来が在った国境の奥山の峠の在所です(大豊町立川・立川関番所書院)
その風景を少しでも湯築城の皆様にもご案内させていただきますのでご覧下さい。 南無
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 6月 5日(火)13時52分57秒
  > No.3647[元記事へ]

呑舟さんと~黒川さんへのお返事です。
(1)  「百合文書」には「ムラグミ」なる海上輸送業者のことが伊豫弓削の物資運搬者として
>  記録されています。
>  民族学者 宮本常一氏はこの「ムラグミ」が「村上」と訛り伝えられ
>  信州村上系としてして系図を創作したらしいとしています。
>  よって「村上水軍」家、特に宗家とされる「能島村上」の系図の出自にも???が
>  ついてしまう所以です。
(2)  よって景浦勉先生は通清、通信以前の「河野関係文書」は荒唐無稽で信用できない
>  とされます。またこの親子以降の記事も「偽書簡」等を多用しているので史料として
>  信用することは注意が必要とします。確かにその要素が認められます。
>
(3)  越智氏の遠祖は「ニギハヤヒ」系「左京神別」であり、これを「皇別」にすべく
>  「孝霊天皇」系の「伊豫親王」なるものを捏造したと 栗田寛博士は『越智氏族考証』
>  で指摘しています。
暫く留守にしている間に~少し騒々しい雰囲気ですね?・・呑舟師の何時もながらの『鋭いご指摘』には
庵主はじめ~今城先師も、一連の移ろいを少しばかり 気を使っております。
1、2、3項目共に、呑舟師のご案内の事項も~今少し慎重に私見をお願いします。
何故ならば、夫々の見解も此れにて定まらざる故の流れにて、学者先生の学識の尊き検証の諸説です。(字体文書の表現には多少の差異を感じております)
伊予の越智姓(かばね)の流れを辿れば~奥山の谷川の出水から~さらさらと流れ落ちる谷川を連ねて~在る時は滝の落ちる風情を醸して~あらゆる山々の谷間にその源流を生む『水』の流れが~諸々の山間をかき分けて流れる小川の流れが分岐支流から~本流に沿って~小川~川~河~大河に夫々の源の『水』を相い合わせて下流(子孫)に集って~瀬戸内海に注ぎ越し~大海に注ぐは自然の定理ならん哉・・穏やかに御ゆるりと参りましょう。南無
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 6月 4日(月)10時25分27秒
  > No.3646[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

>   「清和源氏」は為朝の事を解説していると思います。

●そうですね、清和源氏の説明は為朝にかかってますね。私の早トチリです。

>   また、為朝は何年か後の脱出と思いますから、
>   通清の時代位もしくは、その上の時代
>  (手持ち系図は親経。余談ですが鈴姫さんとこも同じ?)

●これもよく分らないないのです。孝霊天皇系の「河野関係文書」以外に記録が無いのです。

>   「河野水軍」については、風早辺を縄張りとしていたと思われますので、
>   それなりの操船技術を持った船団は型を成してたのでは無いでしょうか?

●この時代海賊(盗賊)はいるのですが、水軍と言えるものは見あたらないのです。
 それにこの海賊の名が何かも分らないのです。村上を想定しがちですが未だ不明です。
 「百合文書」には「ムラグミ」なる海上輸送業者のことが伊豫弓削の物資運搬者として
 記録されています。
 民族学者 宮本常一氏はこの「ムラグミ」が「村上」と訛り伝えられ
 信州村上系としてして系図を創作したらしいとしています。
 よって「村上水軍」家、特に宗家とされる「能島村上」の系図の出自にも???が
 ついてしまう所以です。

>   越智氏については、私には不明ですが、呑舟さんの言われる通り
>   あまり出てきません。その頃になるとも、既に力が無く
>   なっていて河野の台頭に影が薄かったのかもしれません。(想像ですが)

●これは認識が逆と思われます。
 正史には越智氏は連綿として出てきますが、河野氏は全く出てこないのです。

 よって景浦勉先生は通清、通信以前の「河野関係文書」は荒唐無稽で信用できない
 とされます。またこの親子以降の記事も「偽書簡」等を多用しているので史料として
 信用することは注意が必要とします。確かにその要素が認められます。

 越智氏の遠祖は「ニギハヤヒ」系「左京神別」であり、これを「皇別」にすべく
 「孝霊天皇」系の「伊豫親王」なるものを捏造したと 栗田寛博士は『越智氏族考証』
 で指摘しています。

 この捏造者は初期の「古予章記」の作者と思われます。
 時代的にははっきりしませんが、同本は室町期に編纂し始めたと思われます。
 これが最終編纂されたのが江戸中期で現在の流布本の元と思われます。

 よって、「河野記録」を鎌倉期や平安期まで遡ることが出来ないのです。

 現在、「予章記」や「予陽河野家譜」の派生本が大量に出回り、あたかも「通説」のように
 なっていることが認識を誤らせる元とも言われます。

 現代の河野家子孫達には難儀な話です。
 先祖伝来の伝承を出自に於いても「否定」されるのですから・・・・。

 私も通清、通信あたりからは若干の混乱はあるにしろ、史実を伝承していると見ています。

 今回の話題は端境期の微妙な時期です。

 「予章記」や「予陽河野家譜」の前半部分を補強する「一次史料」が無いのが
 混乱の元なのです。

 他文献に河野氏が始めて記されるのは治承5年(1181)閏2月12日の条の「吾妻鏡」が初見と
 されます。この日の8日前の閏2月4日に平清盛が逝去しますので、源平合戦が始動しはじめた
 と思われます。この時は河野通清ですから、平家時代に長年「冷や飯」を食わされたものと
 思われます。

 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 6月 4日(月)05時38分26秒
  呑舟さんへのお返事です。

  「清和源氏」は為朝の事を解説していると思います。
  また、為朝は何年か後の脱出と思いますから、
  通清の時代位もしくは、その上の時代
 (手持ち系図は親経。余談ですが鈴姫さんとこも同じ?)
  「河野水軍」については、風早辺を縄張りとしていたと思われますので、
  それなりの操船技術を持った船団は型を成してたのでは無いでしょうか?
  越智氏については、私には不明ですが、呑舟さんの言われる通り
  あまり出てきません。その頃になるとも、既に力が無く
  なっていて河野の台頭に影が薄かったのかもしれません。(想像ですが)


> 黒川さんへのお返事です。

> なかなか面白い解説文ですね。
> 河野家出自はこの解説によると「清和源氏」になってしまいましたね。
>
> 為朝の時代にはまだ河野家は成立していないと思っているのですが、為朝を匿った
> 河野家当主は誰なのでしょうね?
> 親清あたりとするのでしょうか???
> 河野家はまだ無いのですから「河野水軍」も無いはずなのですが ?
> 不思議な記事です。
>
> この時代は正史によると、伊豫は伊豫大掾としては越智貞吉の名が見えます。【徐目大成抄】
> 「河野家譜」とは関係のない方の「越智家の支配時代」と思われます。
>
> 正史に出てくる伊豫越智家の人物を「河野家譜」は全く取り込みません。
> 伊豫越智家末裔を称しながらその素振りも見せない「河野家譜」は不思議でなりません。
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 6月 4日(月)01時32分15秒
  > No.3644[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

> 本日、現地に行って来ました。お墓らしき物は見当たらず、
> お堂がありました。解説の看板をUPしておきます。

●ご苦労様でした。

なかなか面白い解説文ですね。
河野家出自はこの解説によると「清和源氏」になってしまいましたね。

為朝の時代にはまだ河野家は成立していないと思っているのですが、為朝を匿った
河野家当主は誰なのでしょうね?
親清あたりとするのでしょうか???
河野家はまだ無いのですから「河野水軍」も無いはずなのですが ?
不思議な記事です。

この時代は正史によると、伊豫は伊豫大掾としては越智貞吉の名が見えます。【徐目大成抄】
「河野家譜」とは関係のない方の「越智家の支配時代」と思われます。

正史に出てくる伊豫越智家の人物を「河野家譜」は全く取り込みません。
伊豫越智家末裔を称しながらその素振りも見せない「河野家譜」は不思議でなりません。
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 6月 3日(日)20時16分44秒
  > No.3637[元記事へ]

本日、現地に行って来ました。お墓らしき物は見当たらず、
お堂がありました。解説の看板をUPしておきます。
 

Re: 鎮西為朝は伊予で没したのか

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 6月 1日(金)20時02分26秒
  > No.3635[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

> されど、徒然なるままに一歩一歩と奥の細道を~辿る喜びを授かっております。同名異人の様相も否めず~源氏と河野氏との今は昔の縁故の真偽も~なかなかの難儀なる久遠の旅路かとも・・庵主は只管にのんびりと導かれるままの明日も旅の宿に~身を委ねる諸行です。(いずれ早々に我が家の系図と手許の永年の資料にて呼応させて頂きます)・・明日から土佐之国に出立の義ありて) 南無

●「同名異人」とするとさらにややこしくなりますね。

 江戸期の「予陽河野家譜」の作者は辻褄が会わない事は気が付いいたと思われます。
 子を親の養子とし自分の兄弟にしたのは辻褄あわせの創作と思われます。

 黒川さんちの南明禅師も江戸期に相当悩んでいます。

 面倒くさいので河野家出自を羅列して「いろいろあります」とする「河野家文書」も
 九州大学にも残されています。

 最終的には先祖伝来の伝承の信仰になるしかないのかもしれませんね。
 これもやむ得ません。

 史実を知りたいとする欲求と、遠祖崇拝の尊い欲求が相反するときの心の揺れでしょう。

 その意味では景浦親子氏や川岡勉氏や西尾和美氏は学者らしく冷静ですね。
 中でも西尾和美氏の着眼点は今後が楽しみです。

 土佐の土産話を待ってます。この件は別スレッドに移しました。
 

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