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阿波の河野氏由縁の地を訪ねて③

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月16日(水)23時59分39秒
  (つづき→)
突然の訪問にもかかわらず、14代目当主の長老様と奥様が出てこられ、
快く、「まあお上がりください」と歓待していただき、いろいろお話しをうかがえました。
(同じ石井町在住の義父も同行したこともあり、ローカル話題でも盛り上がってしまい・・)

長老様のお話で興味深かったのは、武市常三の主君の蜂須賀家はもともとキリシタンだった(?)そうで、
その関係で、武市家もキリシタンだったため、後にお上のお咎めを受けて、
孫にあたる三代目当主が処刑されてまう、という悲しい秘話があったとのことです。

↓関連の記事です
http://www.topics.or.jp/nie/117307666665/125842212363.html

なお、当方所有の「折敷三文字の鎧」と何か関係がないか、写真をお見せたしたところ、
武市家に残る一番古い家紋がつく品として、写真の「たれ幕」を拝見できました。
これは常三の何代か後の子孫が、江戸中期頃に当神社に奉納したもので、
代々、祭りの時に使用されてきたもののようで、3~4畳ほどもある、とても大きなものでした。
家紋を比較すると、「三」の文字の書体は少し違うので、残念ながら一致には
いたりませんでしたが、当方のものと本当に良く似ており、不思議なご縁を感じました。

あと、孝霊天皇から続く河野家の系図など、古文書を伝承されているとのことで、
後日にまた今度、ゆっくりみせていただける、というお約束をさせていただきました。
また、後日その報告をしたいと思います。
(海遊庵主さま、私では心もとないので、できれば機会をみて同行いただけると助かりますが・・)
 
 

阿波の河野氏由縁の地を訪ねて③

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月16日(水)23時35分25秒
  嫁の実家が阿波の石井町でして、毎月のように行っておりますが・・・
そのすぐ近所の田んぼの真ん中に、
河野氏子孫の武市常三(蜂須賀家家老)を祀る社があることをネットで知りました。
写真で見ると、なんと写真石碑の家紋が「折敷三文字」でしかも「三」が毛筆書体!
これは行かずにはおれまいと、早速訪ねてみましたので、写真をUPいたします。

この付近には、ご子孫の武市氏が固まって住んでおられるようで、
近所の方に「この社のことを伺いたいのですが・・」と聞くと、
「あそこの家へ行くとよろし」と教えていただき、とんとん拍子で14代目のご当主様に
お会いすることができました。(つづく)


 

Re: 阿波踊りと河野通純と一遍・・ほれて通えば千里も一里~

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月16日(水)17時56分24秒
  > No.3583[元記事へ]

> maru阿弥さんへのお返事です。

> 師匠、庵主も齢・日頃マスコミにて喩えられる・八の倍数云十・二歳~湯築城にて今城先師と見えて早~10数余年になろうかかと?
思い浮かべば、真に不思議な御縁でしたなあ~。(偏に師匠とのご縁も摩訶不思議なり)
さて、明日は讃岐の国の憧憬の深き・庵主の教科書の或るサイトでのご縁で、恰も湯築城に導いて頂いた『ゼニス』恩師の導きの如く~水軍丸船長から~遊行笑人を名乗れし時代を思い返して~何とか無難に打ち過ぎて・・この度、明日の午後には讃岐に国の新たなる先師にお目にかかる機会を得ましたので~庵主も我に小豆島隠遁生活を前にしてに~続く仏縁ゆえに厳しく自ら『激』を飛ばして~チャレンジ(挑戦)に歩みを進める覚悟為らんか哉~!~?・・。 南無
 

Re: 阿波踊りと河野通純と一遍・・ほれて通えば千里も一里~

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月16日(水)10時09分42秒
  > No.3582[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。
竹原さんへのお返事です。
>
師匠、並びに竹原さま~一遍上人の最後の涅槃への旅路は~阿波之国の道筋に足跡を残して最後の我身を委ねて悟りの遊行の終焉の道筋を病の身を極限まで神仏に委ねて~淡路から~明石への海路の風景は観音菩薩(堂)への真魂のご利益、今の世に生かされる・・その面影を偲ぶのも真の先祖への尊き供養かと。南無
 

Re: 阿波踊りと河野通純と一遍・・ほれて通えば千里も一里~

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 5月15日(火)18時55分24秒
  > No.3581[元記事へ]

竹原さんへのお返事です。

> 大三島の供養塔とは 初めて聞いたのですが どのようなものでしょうか?

大三島では一遍奉納と伝えられているようですが
時代のづれから、河野通純奉納がもっとも有力だろうと言われています
ご参考に
http://www.geocities.jp/kawai24jp/ehime-ooyamazumijinjya-2.htm

>  松山の大林寺の五輪塔も 通純のものでないかとされているようですが
これも銘文が消え、得能一族の歴史も闇のかなたへ
言い伝えにて、かろうじて河野通純の墓であろうと伝わっています。
松山城の元が味酒山城として、南朝の牙城でありましたから、河野通純の墓説は説得力があります。

>  通秀の時から 得能庄 から 道後平野へ進出(又は返却された)と考えて良いのでしょうか?
得能庄は河野通信の最初の奥さんの実家の地であり、資料に残る唯一の越智氏とのつながりを伝えています。
平家の時代より行ったり来たりの親密な仲
ほれて通えば千里も一里~
 

Re: 阿波踊りと河野通純と一遍・時宗と・・・

 投稿者:竹原  投稿日:2012年 5月15日(火)15時30分28秒
  > No.3579[元記事へ]

> 昔、一遍研究家から阿波踊りと一遍の念仏踊りに深い関係があるとお聞きしたが・・・
> ひようたん島の中心に河野通純がおられたということは、
> 通純は一遍と仲が良かったようで(大三島の供養塔)、


◎すみません 大三島の供養塔とは 初めて聞いたのですが(入門者ですから当然ですが)
 どのようなものでしょうか?

 松山の大林寺の五輪塔も 通純のものでないかとされているようですが !

 通秀・通純も 在道後館あるいは湯築城主となっているものもあります

 通秀の時から 得能庄 から 道後平野へ進出(又は返却された)と考えて良いのでしょうか?
 

Re: 阿波踊りと河野通純と一遍・時宗と・・・

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月15日(火)12時45分2秒
  > No.3579[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。

師匠、まっこと『瓢箪から駒』かも!!!~実に面白き展開でする。(道理が通る感なり)
細川・三好の勝瑞城も~其れ以遠上流の細川氏は秋月城にも面影を残し~この各所も吉野川(四国三郎)の水辺の名城~藍染め本場藍住町ですから~楽しい話題が次から継ぎに。(導かれるままに嬉しき想いなり) 南無
 

阿波踊りと河野通純と一遍・時宗と・・・

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 5月15日(火)11時36分13秒
  昔、一遍研究家から阿波踊りと一遍の念仏踊りに深い関係があるとお聞きしたが・・・
ひようたん島の中心に河野通純がおられたということは、
通純は一遍と仲が良かったようで(大三島の供養塔)、
通純の居られる所、時宗が盛んだった可能性がある・・・
時宗が盛んであったなら、念仏踊りも盛んであった可能性が大きい
どんちゃかどんちゃか、踊り跳ねるさまは、一遍の跳ね踊りを再現しているのか・・・
阿波踊りにも通純・一遍の影響が残ったのやもしれない・・・
面白いですなー
 

Re: 徳島市中心に河野通純の名城跡

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月14日(月)15時13分24秒
  > No.3576[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。

師匠、大分お忙しい様子にて~久々にお目にかかりました。
さて、阿波之国富田庄は、添付写真の地理状況の如く、通信の嫡男にて後世の南朝方得能の祖にして、
通俊殿のその後継の通秀の子・通純『得能又太郎・文永年中(1254~1275年)六波羅探題史部討伐の戦功にて阿波之国富田庄を賜る』と記す・その後文永~弘安の役後・武勇を歴史の舞台に残す伊予河野家47代通有在りし後継の兄弟の面々は、得能・土居氏の者方・共々~南朝方にて天皇家に忠義を尽くしたる誇り高き家系の血筋
にて候也。
河野家承久の変以後~宗家45代通久殿も同じく『阿波之国・富田之庄』に北条時政の娘の血縁にて地頭職を幕府から賜ったのも周知の史実かと。
中州がひょうたん島とは~実に面白きことかな!・中身は阿波之国の四国三郎吉野川清流の美酒でしょうなぁ~
伊予でも~阿波でも~土佐でも・まして讃岐の国でも夫々の国々で=多分にご先祖様も酔い痴れたのでは。南無
 

徳島市中心に河野通純の名城跡

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 5月14日(月)13時27分25秒
  やぼようで徳島に仕事
地図をつらつら眺めていると、現徳島市の中心はひょうたん島の中州なり
そこへ城を築きし河野通純、さすが水軍の将、天然の水軍城を築きしや
天然の外堀がぐるりと囲み、湯月城外堀の3~4倍の水路なり
後に細川頼之に攻め取られしも、頼之もこの名城がいたくお気に入り
唐の風景になぞらえ、賛美したとか・・・風流人なり
後、転々と家主がかわり、蜂須賀さまの手に入りしとか

まずは、河野通純の目のつけどころのすばらしさをご堪能有れ
参考に同倍率の湯月城の地図も添付
 

昨日は土佐之国の歴史民俗資料館へ

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月13日(日)18時08分40秒
  真夜中に讃岐の国に無事帰館しました。昨日は故郷の長宗我部氏の居城の『土佐・源平の動きと平家の落人』の特別講演シリーズセクション1』の受講に行ってまいりました。
テーマは『清盛のめざしたもの』でしたよ~館長様に仰ることには当館でのこの様な一般の募集にて開催される歴史講座は最初だとのご挨拶には庵主も~ちょっくら耳を疑いました・なんで?・南無
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月13日(日)09時55分40秒
  北島さんへのお返事です。

> > 尚、江戸期以降の「公的届出書」は遠祖を故意か過失か「偽るもの」が増えてきます。
> > 背景には徳川幕府や各藩主に擦り寄ろうとする当時の保身が垣間見られます。
> > もうひとつは一族がバラバラになり根拠となる伝承や伝来の古文書を失った、分家の分家のまた
> > 分家の家の届け書の「系図」や「親類書」に多くみられる傾向です。

> 俗にいう「もぐり」というやつですね・・・
> 逆に、名を語る偽物が多いことは、「河野家ブランド」の価値の高さを示していますね。

●河野家末裔たちの名誉のために申し上げますが、大半は「もぐり」ではありません。
 正しい、ルーツの伝承や、それを示す文書を失った末裔たちが、結果として混乱と錯誤
 の「由緒書」や「親類書」を作成し「届け出た」結果が原因と思われます。
 もっとも、よく見せようとする「スケベー」心はあったのでしょう。

 江戸時代の各藩資料はこの傾向が強いですね。

 明治になって士族と平民の届けや姓の復帰や創生の時期に所謂、「系図屋」なるもの
 が暗躍して出鱈目な系図を作成して売っていった時代のものは「もぐり」「えせ」「加冒」「仮託」
 と表現される、偽系図がたくさん作られたとされます。
 明治維新により、それまで特権階級であった、武士や名家は一挙に没落し、資産の投売り
 で生活を支えた中で、最後の財産であった、「系図・文書」類まで売ってしまいます。
 一部では販売を目的に宗家から持ち出してしまう輩も多出しています。

 これらの系図を「系図屋」から買った家は、系図の中身は正しいので結果的に「名家ブランド」
 を手に入れることになります。
 実態はエセ(偽り)です。

 この流行は「大正デモクラシー」の反動として「ルーツ探し」がはやり、色んな系図が作られ
 ます。

 現在の系図の大半がこの時代に「編集」されたものと感じていますので、それ以前の江戸期やその
 前の「古系図」を見る必要があると思っています。

 「上蔵院本河野系図」を見ますと、いわゆる、「予陽河野家譜」等とは
 違う、系図の形態です。
 上蔵院本も問題があるともされますが、戦国期の「古系図」と思われますので、江戸期の河野
 系図よりは肉付けが少ないもの特徴です。

 まだまだ研究が必要です。

 明後日から世界遺産、海印寺の「八萬大蔵経」が見たくて渡海してきます。
 面白いことがありましたら又報告しましょう。(笑い)
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月12日(土)12時06分0秒
  > No.3569[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟さま、こんにちは。いつも詳しく解説いただき感謝です。
私、根が素直なもので(笑)・・・、
自分で見つけたものは事実だと思い込んでしまい、後で間違っていた・・なんてことが
しょっちゅうなんです。
また、黒川さまから質問されても詰まってしまい、安直な情報発信を反省したのですが、
おかげさまで勉強になりました。

> 河野関連は大きく二つの流派
>  ①ニギハヤシを祖とする物部系越智族流【神別】
>  ②孝霊天皇を祖とする越智流河野【皇別】

なるほど、「木を見て森を見ず」、
点の情報に気を取られて全体を見失うべからず・・・ですね。


> 尚、江戸期以降の「公的届出書」は遠祖を故意か過失か「偽るもの」が増えてきます。
> 背景には徳川幕府や各藩主に擦り寄ろうとする当時の保身が垣間見られます。
> もうひとつは一族がバラバラになり根拠となる伝承や伝来の古文書を失った、分家の分家のまた
> 分家の家の届け書の「系図」や「親類書」に多くみられる傾向です。
俗にいう「もぐり」というやつですね・・・
逆に、名を語る偽物が多いことは、「河野家ブランド」の価値の高さを示していますね。


> > これに気付くまでに数十年費やしました。馬鹿ですよね、考えれば当り前なのに、
> 【手許の古文書(系図類)を信じて疑わない、呪縛がそうさせます。】
私も肝に銘じたいと思います。
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月12日(土)10時23分27秒
  > No.3566[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

> すると、江戸時代、阿波を支配した蜂須賀家には、多くの河野家の子孫が士官していたことがわかり、
> ちょっと感動しました。
> (これも既知の情報なのかもしれませんが)
>
> ①家紋でたどるあなたの家系

●情報有り難うございます。
「家紋でたどるあなたの家系」はある意味では人騒がせですね。

 この本は家紋が判明できる「古文書」を家紋形態別に羅列していますから
 同じ一族でも時期や分家等により家紋も出自も変容しています。
 このような例は多いのです。これに無関係の族が「加冒」してが加わりますので
 実態は丁寧に調べていかなくてはわかりません。

 この本の各家の紋の出典が江戸期の「藩」への届け書の場合は殆ど伝承に基づいて
 いますので、混乱が相当みられるのも事実です。

 家紋帳で一番信頼できるのは今のところ「見聞諸家紋」です。
 以後時代が下るにつれ変容していきます。

 判りやすく河野家を例にとれば

 河野関連は大きく二つの流派に出自を求めます。

 ①ニギハヤシを祖とする物部系越智族流【神別】
  この本では「物部流越智家」と分類されている家の伝承と思われます。

 ②孝霊天皇を祖とする越智流河野【皇別】
  この本では「越智姓河野」と表現される家の伝承と思われます。

 古い書物ほど①で説明されます。江戸期以降では②が主流となる傾向があります。

 家紋の意匠も古くはスハマ(州浜)に求められるようですが

 後に大山祇神社(三島神社)の神紋を流用するようです。
 「元寇」時に河野家が持ち出す「三島神紋流れ幡」がその根拠とされます。
 このデザインは「河野湯築城」古紋ともしているようです。

 別スレッドで展開しましたがこの時はまだ「折敷」(ひし形)です。

 河野家家紋の変遷は折敷(ひし形)にするか、傍折敷(変形八角形)にするのかと
 中の「三」を(漢数字の三)にするか、(縮(ちじみ・ゆれ・波))にするか
 (算木の三)にするかの組み合わせが大半です。
 一部に折敷の直前形態の「山野井家紋」や「州浜」や「三階松」も散見されます。

 出典の成立年とデザインの共通性を時系列に並べていきますと伝承の流れが見えてきます。

よって「家紋でたどるあなたの家系」は同族間で不毛な論争を巻き起こすだけの
人騒がせな書物ともみれます。
又、ある意味ではこの「複雑なクイズを解いてごらん」と投げかけているとも見えます。

尚、江戸期以降の「公的届出書」は遠祖を故意か過失か「偽るもの」が増えてきます。
背景には徳川幕府や各藩主に擦り寄ろうとする当時の保身が垣間見られます。
もうひとつは一族がバラバラになり根拠となる伝承や伝来の古文書を失った、分家の分家のまた
分家の家の届け書の「系図」や「親類書」に多くみられる傾向です。

やはり一次史料とその成立年により真贋が変化します。

これに気付くまでに数十年費やしました。馬鹿ですよね、考えれば当り前なのに、
【手許の古文書(系図類)を信じて疑わない、呪縛がそうさせます。】

 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月12日(土)00時13分35秒
  > No.3567[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

>かなりの河野氏が見受けられますが、初世は違う苗字から始まる家が殆ど?
>やはり、仕官時に有利に作成したのでしょうか?
>麻植郡の地域は、江戸時代は武士でしたのでしょうか?
>あの辺は富田の地名はありますか?

黒川さん、誠に申し訳ありませんが、
私の今の知識では、正直、どの質問にも確かな返答ができかねる状況で・・・
推測でものを言ってもいけませんので、お許しください。
でも、今後何かわかりましたら、ご報告させていただきたいと思います。
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 5月11日(金)06時26分25秒
  北島さんへのお返事です。

  北島さん。
  おはようございます。
   ご紹介のデーターベース少し拝見しました。
    かなりの河野氏が見受けられますが、初世は
    違う苗字から始まる家が殆ど?
    (昔は河野の出とは感じますが)
    ちなみに黒川姓もありました。(何故か初世は大野です?)
    やはり、仕官時に有利に作成したのでしょうか?
    とはいえ、麻植郡の地域は、江戸時代は武士でしたのでしょうか?
    蜂須賀で禄を歯んでなく、百姓でも十分調べる価値はあります。
    本で紹介されている位ですので、それなりに調査された物が
    図書館あたりで見つかると思います。
    また、情報ありましたら、教えて頂ければ幸いです。
    追伸、あの辺は富田の地名はありますか?市内の富田地区では
    なく、麻植郡あたりで判れば教えて頂ければと思います。



> 呑舟さん、黒川さん、海遊庵主さん、へのお返事です。
>
> >河野家承継は現在信じられているものとは実態は違う可能性が捨てきれません。
>
> 折敷三文字の家紋から何かつながらないか?とかをインターネットで調べてみました。
>
> すると、江戸時代、阿波を支配した蜂須賀家には、多くの河野家の子孫が士官していたことがわかり、
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月10日(木)22時43分59秒
  > No.3565[元記事へ]

呑舟さん、黒川さん、海遊庵主さん、へのお返事です。

>河野家承継は現在信じられているものとは実態は違う可能性が捨てきれません。

汗顔ながら、私には皆様の議論が高度すぎてついていけてないのですが・・・。


そんな、とんちんかんの私ですが、ちょっと背伸びをしてみて、
呑舟さまの記事からヒントを得て、阿波の行政機関の文書データに何かないだろうか?とか、
折敷三文字の家紋から何かつながらないか?とかをインターネットで調べてみました。

すると、江戸時代、阿波を支配した蜂須賀家には、多くの河野家の子孫が士官していたことがわかり、
ちょっと感動しました。
(これも既知の情報なのかもしれませんが)

①家紋でたどるあなたの家系
http://books.google.co.jp/books?id=F1VdUz1RUosC&pg=PA40&lpg=PA40&dq=%E6%AD%A6%E5%B8%82%E6%B0%8F%E3%80%80%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F&source=bl&ots=LWfZQwHfWg&sig=zHNsX7kZYtmEDc5gEcxTqppW0RY&hl=ja&sa=X&ei=8TupT_rWNO2ZiAek392eAw&ved=0CG4Q6AEwBA#v=onepage&q&f=false

ここでは、折敷三文字の家紋が蜂須賀家家臣の
有岡、河野、陶山、武市、宮本、木村、広田・・の各家が使っていたことがわかります。
次に・・・

②蜂須賀家臣データベース(徳大付属図書館)
http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/dbhachi/hachi.html

このデータベースから、上の有岡、河野・・・の各家の家系図を検索してみると
「河野四朗通信末葉」というのが目立ちます。
(*簡易検索でキーワード検索が使いやすいです)

これらから思うに・・
河野家の面々は、山奥にひっそりと隠れ住んだ一族もあれば、
新しい支配者の蜂須賀家に、おそらくは自分の能力を売り込んで士官を乞い、
たくましく生き抜いていった家など、それぞれに家に秘話があったのだろうな・・と。

それと、私が調べ続けている「折敷三文字の鎧」に関しては、
もしかしたら、蜂須賀家臣の物かも(?)という気もしてきました。




 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 8日(火)20時28分16秒
  黒川さんへのお返事です。

>>  この、戒名を再度見てみますと、弘化三年の年号がありますので、
>  かなり後の御人(久留嶋)と思われます。俗名は書いていません。

●弘化3年なら江戸も後期ですね。江戸時代もずーと上蔵院と付き合っていた証拠ですね。
 別の意味で興味があります。できれば開示願いたいものです。

 久留嶋家は河野家継承を任じていますので、正統な河野家家督相続の手続きをふんだもの
 としています。江戸中期までは、牛福通直の菩提寺、安芸竹原長生寺に法要の名代を
 九州から舟で派遣し霊を慰めた記録は残っていますので、先祖法要もきちんとしたもの
 と思われますが、伊豫の河野家関連の寺に使者を派遣したことは管見に入っていません。
 面白い現象ですね。

 河野家承継は現在信じられているものとは実態は違う可能性が捨てきれません。

 
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 5月 8日(火)19時15分18秒
  > No.3561[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

この、戒名を再度見てみますと、弘化三年の年号がありますので、
 かなり後の御人(久留嶋)と思われます。俗名は書いていません。


>> >   上蔵院の過去帳を見ると、
> >    「大通院殿前豫州太守道崇徳有大居士」も見えます。
> >     久留嶋関係でしょか?
>
>
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 8日(火)14時15分18秒
  > No.3561[元記事へ]

呑舟師・黒川師並びにNaokoさまにも広くお尋ねしたき庵主の現の戯言あり。(お心当たりが無ければ無視成されて消去ください)
土佐之国の或る道筋にて縁故ある後輩のサイト(ブログ)にて、阿波の河野氏ではなく、表題とは聊か不都合あれど『岩崎弥太郎』の家系の身上書に関する出自の投稿の共通の『シグナル』を受信しております。
只今は、その人物のハンドル名前は・?!・U~民とも(男児か女御とも煩わしく)?・名乗る御仁・広く政治問題のテーマを添えて、旧知の後輩の人為と健康上の状況を庵主の想いは暫く『のんびりと』としていただく事が善処かと?・・!・・察して~もしもお心辺りが在れば互助勢の程を。南無
 

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