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Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 8日(火)11時39分51秒
  > No.3549[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

>   上蔵院の過去帳を見ると、
>    「大通院殿前豫州太守道崇徳有大居士」も見えます。
>     久留嶋関係でしょか?

●いまの段階ではよくわかりません。
 「上蔵院過去帳」も転写時期によってバージョンが複数あるようで
 黒川さんが認識している「過去帳」と私が見ているものは違うようです。
 前後の書き方や、筆跡を確認したいと思いますのでメール添付か
 DATA量が少なければ「喫茶室」にUPしてもらえませんか?

 河野家「上蔵院過去帳」なるものは転写時期により分類が微妙に違うようです。

 ご承知のように上蔵院は明治期に焼失したため現在はありませんが、一部の史料が
 親寺の「金剛三昧院」に留置されていますが、現代の学者の再調査では、本来の
 金剛三昧院文書と混同分類されてレポートがなされている感じがしますので
 なんとも曖昧なものになっている気がします。

 先年写真謄写を愛媛県の公的機関がされたとか?
 ただグルーピングを編纂者が間違うと混乱の元です。
 そこのレポートが出されているようですがよく判りません。

 河野家の「上蔵院過去帳」は江戸期の久留島の手が入っている気がします。
 本当の意味での「伊豫河野宗家」の過去帳形態とは思えません。

 今に伝わる河野「上蔵院過去帳」は事情をよくわからない江戸期の「久留島家」の担当者が
 膨大な過去帳の中から 伊豫河野家に関係しそうなものをリストUPした表現と思われます。

 過去帳は受付順(檀徒の卒年順)に書かれます。家毎には記録されませんので
 寺の過去帳の調査は大変です。俗名と戒名しか書かれていないのが大半ですので
 今でもどの家の関係者かわかりません。
 当たり前ですが地域によっては「姓」が殆ど同じです。
 太郎の子、次郎と言った表現が複数出てくるばかりですので????の連続です。

 これに対し個人家が伝承する過去帳は同じ「時系列」ではありますが、
 同一親子兄弟関係はなんとか分かります。
 しかし親戚(親の兄弟・叔父家)はわかりません。祭主家が違うからです。


 よってすべてを照合しないとはっきりしたことはわかりません。
 しかし現在は個人家に過去帳がある家の方が稀です。


 この時のキーワードは卒年日、俗名、戒名の合致DATAのみでしょう。

 昨年、高野山上蔵院跡地を探しに行きましたが、誰も地元の人は知りませんでした。
 ならばと親寺で承継寺の「金剛三昧院」に行きましたが答えは同じでした。
 資料によると同じ部落なのですがこの有様です。

 同寺に「伊豫河野家」についてたづねましたら「伊豫河野家って何ですか?」と
 言われましたので馬鹿馬鹿しくて帰りました。
 
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 8日(火)09時34分21秒
  > No.3558[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟師お早う御座います~今朝の目覚めは心地よい感なり。
何だか『絆』の一時が太く見得て参ります。
庵主の身の回りには次から次に、導かれるまま・・『六無斎』の如き奥の細道を歩いている時々にも『絆』の赤い糸で結ばれて只管に前に~前に歩みを進めることの我が身を重ねて嬉しきにて候也。 南無
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 8日(火)01時05分42秒
  海遊庵主さんへのお返事です。

成る程少し端折りすぎて短絡的と見られたようですね。
少々、三段論法的にすぎましたね。
順序からすれば庵主様の仰る通りですね。
その手順は当然踏まれるものとしてはしおってしまいました。

そこで現代風に実態を見てみますと、

一族内でこの什器は惣領家が本来護持すべきものですが、核家族化が進み、本家分家の認識も
ましてや所領を一族で護持する、所謂、「一所懸命」(所領の護持に命をかける)時代
でもなくなり価値観も多様化してしまったのも現在の風潮ですね。
系図上の本家分家よりも所謂、出世頭や、高位高官に付いた家が巾を効かす世ですね。

次に「菩提寺」ですが、この言葉が何を意味するか判らない若者が増えているのも事実です。
しかも現在の寺の大半は「家格」によって檀徒総代を決めるわけではなく出資額の高い家を
檀家総代としがちです。よって金銭以外の物を奉納されても管理責任が発生するので
あまり喜びません。

最後の手段が公的機関収納ですが、こちらも無条件には引き受けてくれません。
税金を使って管理保存するのですから、史料的価値の無いものは受け付けてはくれません。

上記の例証は数多く見てきました。次に最後の預託先ですが、

河野家は伊豫が発祥の地です。河野家文書を一番理解してくれるのは他県ではなく
愛媛県と思い「伊豫史談会」を紹介したまでです。別に公的機関ならどこでもかまわない
のですが、多の比較対照文書がある機関が適していると思ったまでです。

たとえば、河野家文書は、広島県文書館、山口県文書館にもありますが、あくまでメインでは
ありませんので研究は全く進んではいません。

山口県文書館の「萩藩閥閲録・同譜禄」の河野関係文書をさかんに引用するのは、川岡さんや西尾さんらの伊豫史専門の人たちばかりです。

山口県史談会の人たちは「伊豫河野家」には殆ど関心を示しません。彼等にとって
伊豫の人達は幕末の「四境の戦い」の時に幕府に味方し
長州征伐の軍を起こし、大島口に攻め込んだ「敵国」との認識が
古老の意識の中にありますので「伊豫河野家」は研究テーマにはしたがりません。

よって河野文書は讃岐や阿波よりは伊豫の機関のほうがベターではと思ったまでです。

上記の内容をすべて端折ましたので誤解を与えたのであればお許し願いたいものです。

呑舟拝

 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 7日(月)15時33分17秒
  > No.3556[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

御応答の義、誠に一理あるご説と存じ上げます。
がしかし、今一度熟慮の労を申し上げさせて頂きます。南無
河野氏の御子孫の流れには、他家とも共通する先祖の生き様が永き時代を越えて各地にその面影を刻むは仰せの通りと想いを重ねております。
だけれども~今一度この際に一言申し添えさせて頂ければ、この度の北島さまのご先祖も庵主の察するところ阿波の国にその家系の始祖の源流を辿る由縁の方と受け止めております。
それ故に、呑舟師なればこそ当然ながらお分かり頂けるのでは無いでしょうか?
土佐にも、我等以外にも各所の先祖を伊予の国・越智姓河野氏に先祖の源を夫々の家系にて夫々の地縁にて今の世に、同族逢いより手その同族の御子孫が集って、この度の如く阿波の国の山間部にも神仏の祭祀を永く受け継いで居ることこそ尊き所以かと。
されば、例えば土佐之国の我等三族の同族にての永年の伝統の仕来りにも<阿波の国の河野氏の同族の方々も、阿讃山脈の懐・その奥山に先祖の菩提を祭り弔うその存在こそ尊きものでは無いでしょうかね・?・!・。
例えば、同族でも未だに土佐之国の我等一族は本家筋と分家筋との区分を尊び、菩提寺も代々の菩提を弔って同族相集っております。
当然ながら、その現状は夫々の生活圏の相違の在り様は多岐~多様の姿かと理解するも、たとえば、北島様のレポートの一報に即~『伊予史談会』への誘いは少々『則』を越えられているのではないでしょうか?
人里はずれたその場所には取りも直さず伊予の河野氏の御子孫がある時代から同族相会い携えてその一族の総代の御仁の方々一族郎党の方々がその村落に足を踏み入れてその奥山を拓いて~遠く伊予の国の先祖の菩提の面影をその場所にて残され~累々と安住に住処を受け継いできたのでは無いでしょうか!?・・。
その一所に同族の生計を建てられたご先祖の方々の想いは、当然ながらその地に眠る菩提を祭祀されることが本道(大道)と考えております。(幸いにして河野氏末裔の御一族のその古文書・什器・史料・文化財等々受け継がれているとすれば、本来の阿波の国の行政機関の歴史資料館・施設など)にて保存成されるのであれば、先ずは同族の総代・本家筋の御家系(継いで御分家でも其れなりに同族会の選択にて決められた御仁が受け継がれて保存なされるのが最良の歴史資産であり)~次いで大切な落ち着き先保存方法は、先祖由来の菩提寺・信仰の神社への寄託であり~
その先にて初めて、行政機関や適切な歴史資料保主節へのご案内が最も本道・大道への御提案ではないでしょうか
呑舟師の卓越してご見識には日頃より敬意を以って拝見して居りますが、この度の北島様の折角の奥の細道をご報告して頂いた記事のみにて、未現地の河野氏の方々に会う事も無き段階にて、短慮かな~今後北島氏や同志の方々にて機会をへて時間と諸般の現状のご意向を検証して、そのごに置いて、同氏族・親族の方々のご意向沿って~その一つの善処策とのご案内が道筋ではないでしょうか。
其れまでの道のりは、呑舟師のご指導には聊か短直にして、大道(仏心)に及ばない学者先生の思考傾向かとも感じ取るのは庵主のそれとは少しばかり距離があるのも摩訶不思議なる感なり。南無
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 7日(月)09時43分30秒
  > No.3555[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

> 呑舟師、則を越えては為りませぬ。
> 此れまでの道筋には、今城先師の阿波と讃岐にその足跡を綴った・知る人ぞ知る・ご兄弟の存在と~御先祖の方々の自然の侭の導きの流れの水の一滴~一筋の流れですから。南無
> 伊予と阿波と讃岐と土佐も~同じ舞台での歴史物語の場面かと受け止めております。
> 伊予の国への中心帰一を御案内していただく道筋には、この河野氏の最後の居城・湯築城を守られた一所懸命の本願に添って是非、恩顧の念に準じて古の道筋に大道を真義としてご教示頂ける事を期待しております。

●仰っている趣旨が私にはよくわかりません。
 「知る人ぞ識る」と言われても私はその中には入っていないと思われます。

 系図・古文書等の永久預託のいざないが則(法)を越えていると判断されたのであれば
 趣旨が違います。

 今の時代は歴史的に重要なものこそ「公的機関」へ納めるのが「自家の歴史を守る」
 最大の防衛策と確信しています。
 価値があると判断した子孫がいる場合は「系図・古文書・什器」等は子孫達により
 相続争いの対象となり結果的に散逸した例は枚挙にいとまがありません。
 また反対に家系に興味のない子孫に引く継がれた場合はもっと悲惨です。
 丸ごとごみとして捨てられるか、散逸するのみです。

 私の研究している「伊豫大野家」の史料も殆ど現在の子孫達に伝わっていません。
 本来在った筈のものが途中で持ち去られたり、価値の分からない子孫により反古として捨てられたり
 しています。

 結果的に研究の中心が公的機関が保存してくれた「大野・河野・村上」関係文書の写本でしか
 ありません。当たり前ですが殆ど「原本」を見ることが出来ません。
 なら「原本」が子孫家に在るかとたづねてもこれも代が三代代わると散逸しています。

 公的機関にはこの散逸を怖れる「旧家」は親族会議の上、預託や寄付が行なわれています。
 賢明な判断です。

 私も蒐集した史料で価値があると学芸員が認めたものはすべて最後には預託するつもりです。

 当家にも江戸期以前の古文書らしきものが数点ありますが、こちらは「文書館」に寄付する
 予定でリストは作ってあります。

 永久預託は所有権を移すことではありませんので、親族の理解は得やすいのです。
 ただ公開が原則ですから「個人情報」とのからみは残ります。

 以前、広島県三原の郷土史家とようやく連絡がとれ、彼は「牛福通直」やその家族、また
 河野遺臣団の竹原における活動の研究では第一人者です。
 西尾和美氏もアプローチしている人物です。
 惜しむらくは高令を理由に集めた資料をすべて処分されていました。
 「処分前ならすべて差し上げた」との言葉が未だに耳に残ります。

 私も同様な心境になる日が近づいていますので、私のつたない資料を必要とする人が
 いればその時はすべて差し上げるつもりです。

 史料(資料)は個人のものではなく適切な者にバトンを引き継ぐものと心得ます。

 
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 6日(日)13時52分41秒
  > No.3554[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟師、則を越えては為りませぬ。
此れまでの道筋には、今城先師の阿波と讃岐にその足跡を綴った・知る人ぞ知る・ご兄弟の存在と~御先祖の方々の自然の侭の導きの流れの水の一滴~一筋の流れですから。南無
伊予と阿波と讃岐と土佐も~同じ舞台での歴史物語の場面かと受け止めております。
伊予の国への中心帰一を御案内していただく道筋には、この河野氏の最後の居城・湯築城を守られた一所懸命の本願に添って是非、恩顧の念に準じて古の道筋に大道を真義としてご教示頂ける事を期待しております。
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 6日(日)11時59分1秒
  > No.3552[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

> 本文石碑の左下部に「清積竹翠書」という文字がありました。
> 呑舟さま推測のように、おそらくは江戸中期以降にこの方が記されたものなのでしょうか。
> その部分の写真も続きでUPいたします。
> 地元の方に伺った話では、この「樋山地」の集落は廃村になって久しいとのことですが、
> 山の中腹に、この地を守っている最後の「河野さん」が今も住んでいるとお聞きしました。
> かなりご高齢の老夫婦とのことで、行けば話が聞けるかも?とのことで、
> 思い切って訪ねてみたのですが、残念ながらお留守でした。
> もしかしたら家系図を引き継いでおられるかもしれませんね・・。
> 呑舟さまより、現地情報のリクエストをいただいたかも(?)のようですので、
> いつかまた機会をみつけて、再チャレンジしてみたいと思います。
> ちょっと今回は、四方山中のドライブで肝を冷やしたのですが・・・(^_^;)

●老夫婦の河野さんなら急ぐ必要がありそうですね。
 もし系図や古文書をお持ちなら愛媛県立図書館内の「伊豫史談会」に永久貸与を
 持ちかけてもらえませんか?現在は子孫が引き継ぐより安全ですから。

> なお、集落あとの写真も掲載いたしますので、ご覧ください。
> 大昔に、伊予の国から河野氏の一派が阿波に逃れ、
> この山深いこの地に、隠れ住んでいたのだろうか・・・、と想いを馳せてみました。

●三枚目の石垣の写真は興味を覚えました。
 この石積みの工法は伊豫の戦国時代の城(掻揚げ)に残る石組みと同じですね。
 文章には残らなくても技巧伝統に残っているようですね。
 造ったひとは昔からのやり方としか認識していないのでしょうが。

 今でもハワイの旧サトウキビ畑の灌漑用の水路は石組みですが、これを造ったのは
 日本移民です。工法は伊豫から山口県屋代島(現周防大島町)に移住した大島石工
 とされます。屋代島の灌漑水路とハワイの灌漑水路は工法は同じです。

 同様なことが写真から見てとれます。戦国時代の伊豫からの移住の傍証にもなります。

 新鮮な情報ですね。





 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 6日(日)11時31分15秒
  > No.3550[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

> ご指摘のように、この碑は子孫の方により、昭和八年に建立されたもののようです。
> 石碑の横に小さな碑があり、写真のように、先祖碑寄付者のお名前が記されていました。
>
> やはりここにも、河野家の子孫の方々に共通する、ご先祖への熱き想いが感じられますね・・。

●やはり新しいものでしたか。

 昭和八年ですとこの碑の世話人の子孫はたくさん健在でしょうね。
 寄付金総額が100円を越えているようですから、当時の相場では300円で家が建ちますので
 なにかお社を建てた残り金で記録を残そうとした記念碑の感じがします。
 100円以上かけてこの碑を造ったものとは思えません。
 昭和ですから経緯や奉加帳の記録は筆頭世話人方に残っていると思われます。
 またそこに伝承や古文書が残されていると思われます。

 機会があれば探索を御願いしたいものです。
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月 6日(日)11時23分31秒
  > No.3548[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟さま、追伸としまして・・
本文石碑の左下部に「清積竹翠書」という文字がありました。
呑舟さま推測のように、おそらくは江戸中期以降にこの方が記されたものなのでしょうか。
その部分の写真も続きでUPいたします。

> この碑を制作もしくは管理している河野家末裔家の伝承や文書、系図等が公開されれば
> 新発見が出てきそうですね。
> また現地情報を御願い致します。

地元の方に伺った話では、この「樋山地」の集落は廃村になって久しいとのことですが、
山の中腹に、この地を守っている最後の「河野さん」が今も住んでいるとお聞きしました。
かなりご高齢の老夫婦とのことで、行けば話が聞けるかも?とのことで、
思い切って訪ねてみたのですが、残念ながらお留守でした。
もしかしたら家系図を引き継いでおられるかもしれませんね・・。
呑舟さまより、現地情報のリクエストをいただいたかも(?)のようですので、
いつかまた機会をみつけて、再チャレンジしてみたいと思います。
ちょっと今回は、四方山中のドライブで肝を冷やしたのですが・・・(^_^;)

なお、集落あとの写真も掲載いたしますので、ご覧ください。
大昔に、伊予の国から河野氏の一派が阿波に逃れ、
この山深いこの地に、隠れ住んでいたのだろうか・・・、と想いを馳せてみました。
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月 6日(日)11時00分2秒
  > No.3548[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

呑舟さま、興味を持っていただき、また詳しい解説を有難うございます。
私の知識では、到底たどり着けない分析内容に大変驚いております。

> まずこの碑の制作年は相当新しいのではないでしょうか?
> この碑の裏面に制作主旨等の但し書きはありませんでしたでしょうか?
> 碑面上の文章は江戸中期以降の文面のように思われます。

ご指摘のように、この碑は子孫の方により、昭和八年に建立されたもののようです。
石碑の横に小さな碑があり、写真のように、先祖碑寄付者のお名前が記されていました。

やはりここにも、河野家の子孫の方々に共通する、ご先祖への熱き想いが感じられますね・・。

 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 5月 6日(日)10時16分21秒
  > No.3548[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。
北島さんへのお返事です。

  上蔵院の過去帳を見ると、
   「大通院殿前豫州太守道崇徳有大居士」も見えます。
    久留嶋関係でしょか?



> ④「大通院殿」で連想させるのは「大通寺殿光山道恵大居士」の法名をもつ
>  河野六郎近江守通朝ですね。遠祖として院号部分を同じにしたのか、子孫が混乱したのかは
>  今後の研究が必要でしょうね。
>
>
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 5月 6日(日)02時30分31秒
  北島さんへのお返事です。

> 取り急ぎ、本日のご報告としまして、河野家の碑の写真をUPさせていただきます。

●これまた興味の湧く「河野家の碑」の案内有り難うございます。
この碑の文面は

『人皇第七代孝霊天皇末葉元伊豫国城主
 従五位上越智伊豆守萬五郎通吉

 大通院殿前豆大守天叟長運大禅定門

 天正十八年寅三月二十九日逝去 』

と見ました。

まずこの碑の制作年は相当新しいのではないでしょうか?

この碑の裏面に制作主旨等の但し書きはありませんでしたでしょうか?

碑面上の文章は江戸中期以降の文面のように思われます。

孝霊天皇を祖とする河野系ですね。
伊豫国の城の名前が不確かなようでこちらも後世の不分明記憶と思われます。
従五位上を受けているなら相当な人物ですね。
伊豆守に任じられたようですが、萬五郎通吉が誰か今のところはっきりしません。

黒川さんは池原通吉系と睨んでいるようですね。
私もこの人が池原通吉なら新発見と見ています。
池原通吉は河野家最後の当主牛福通直の出自のはっきりしない父親の一人とされます。
西尾和美氏はこの説を否定していますが、牛福通直の父親説は根強くあります。
唯、通吉はある系図では近江守で伊豆守ではありません。

通吉の父親は河野明生でその父親は河野兵部少輔通生とされ、
この通生の兄弟が河野(通直・道治・教通)と河野刑部大輔通秋とされます。
河野系図も系図により異同が発生していますのでどれが正しいかはわかりません。
私が調べている「伊豫大野家」の関連文書には河野通生、通吉は頻繁に出てきますので
どうも「古文書」の編纂の流れが複数あるようです。

江戸中期最終編纂とされる「予章記」や「予陽河野家譜」よりも戦国時代の史実に近い
文書が断片的に書残されているような気がしてなりません。

また、この碑文が新しいの思われるのは
①戒名が長たらしく、孫子のの代で修飾した感じがします。よくあることです。
②「大通院殿」とあり当時の他の河野家当主は「寺殿号」が多く「院殿号」と「寺殿号」は一応
 「寺殿号」を上とします。また「大禅定門」と禅宗の最高位をつけています。
③惜しむらくは伊豆守通吉としているのに戒名の方は「前豆太守」としてしまいます。
 「伊豆守」を表現したいのであれば「前豆(州)太守」とあるべきと思われます。
④「大通院殿」で連想させるのは「大通寺殿光山道恵大居士」の法名をもつ
 河野六郎近江守通朝ですね。遠祖として院号部分を同じにしたのか、子孫が混乱したのかは
 今後の研究が必要でしょうね。


だからと言って出鱈目と言う意味ではありません。
この碑を制作もしくは管理している河野家末裔家の伝承や文書、系図等が公開されれば
新発見が出てきそうですね。

少し複雑になりましたが、また現地情報を御願い致します。

 

Re: 藤田達生教授の講演

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 5月 5日(土)20時47分2秒
  今城さんへのお返事です。

 こんばんは、今度はこちらの記事を少し考えてみました。
 私も、愛媛新聞に掲載されたのを当日目にしまた。
 はじめは、そうであれば新発見かとは思います。
 藤堂家と加藤家がかなり仲が悪いのは添付の本にも紹介されています。
 ただ湯月を改修して見張った記事は見られませんでした。
 「左馬介殿は、勝山と申す所に御在城である。大変仲が悪く、互いに
  領分に罪人が足を踏み入れると、かくまって出さないようになってゆき、
  百姓なども年貢が少し重くかかると、走って互いにあちらこちらへ参る
  為に、処罰が難しく、役人どもは苦労した。
  灘の城は左馬介殿殿の居城へ二里余りあり、この堺目は一層難しく思い
  藤堂新七郎に御領地を堂々厳しく申付たとの事。
  灘の者は人の妻を盗んで逃げたのを、新七郎が聞かれて、馬上に長刀を持って
  、追いかけほのぼのと夜が明けるときに、勝山の大手口で、男も女も首をはね
  斬り捨てて帰るのを、後から大勢で追いかけて来たけれど、馬を一目散に走らせ、
  何事もなく灘へお帰りになった。灘の城は破損しているが、御修理もないまま
  していると度々ご意見していた。高虎は灘城を廃止する意見であり、灘城は
  作事無用の返事をしている。城の数が多いのは無用とまで書いています。」
  愛媛新聞記事の資料は紹介されてませんでしたが、湯築ですと、あまりにも
  近すぎるのと、加藤家の領内なので疑問を感じます。今後の進展を期待しています。


>  愛媛新聞に掲載された記事に注目すべき話が載っていましたので、ご紹介します。
>
>  30日に西条市で開かれた西条歴史文化講演会で、三重大学の藤田達生教授が「藤堂高虎と伊予」と題し講演をなさいました。藤田教授は藤堂高虎と、同時期に伊予を支配した加藤嘉明との間に「強い軍事的緊張関係があり、嘉明が松山城を築いた当時、高虎が嘉明側を監視するため道後の湯築城を改修して重臣を送り込んだとする資料を紹介し、両者が一触即発状態になっていたと解説したそうです>  この説は昨年の湯築城歴史塾でもちらりと聞きました。それは第三回の歴史塾で、松山城が湯築城に対する守りを意識して造られたと言う講演の時でした。藤田教授はその説は頷けると評し、上記高虎の話を述べられたそうです。
藤田教授の説が正しいなら、湯築城が解体されたのは今まで考えていたよりかなり後のこととなり、多くの点で見直しが必要となりそうです。



 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 5日(土)18時22分10秒
  > No.3544[元記事へ]

> 北島さんへのお返事です。
本日のびっくりDでの四方山話~讃岐での密談・・伊予と土佐と阿波と讃岐の過ぎ去りし『河野氏』の先祖の面影を偲ぶ談義は真に導かれるままのご縁と厚く感謝申し上げます。
さて、色々と古文書や話題も多くて~時間のたつのも失念する程でしたね!
さて、讃岐の国と阿波の国境の石塔の義は~庵主の独断的昔話を聞き止めて頂き御礼申し上げます。
其れには~それなりの庵主の探索の旅(遊行)の足跡にメモられた・・・情報の貯金箱があるのですよ(笑い)
その人物は、讃岐の塩江の内場の藤沢道信と百相の河野三郎との源氏方の義経の軍勢の誼が伺うことが夢に幻の如く見え隠れするのです!
何れその内に検めてお目にかかる時に~ご期待下さい。 南無
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 5日(土)10時15分52秒
  > No.3543[元記事へ]

北島さんへのお返事です。
黒川さんへのお返事です。
>
お早う御座います~北島様この度の訪問記のレポート見せていただきました!
庵主も新しい興味をそそられるご訪問の風景は素晴らしですね~早速阿波の国のご存知の河野様にもご案内させていただきました。
さて、もしご関心があれば『土佐史談会』のさいとに、枯れ草の中に埋もれ隠れている『文保二年の石塔』の現状を憂い~何とか保存が地元(阿波)の貴重な史跡(文化財保護)が出来ればと~土佐国に発信しておりますので参考までに見てください!・・此れも本日、阿波の国の河野様にもご案内させていただいております。
また機会があれば坂田万蔵さまもご一緒しましょう。 南無
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月 5日(土)09時27分32秒
  > No.3542[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

黒川さま、はじめまして。河野氏関連書籍のご紹介、ありがとうございました。

私が河野氏に興味を持った理由は・・
亡くなった叔父から譲り受けた「折敷三文字」のついた鎧がきっかけでした。
いろいろ自力で河野氏について調べていたところ、湯築城の皆様に出会えたという次第です。
(詳しくは、昨年11月15日の投稿、現在のページであれば12,13頁あたりです)

>徳島の摩植郡(オエグン)とよむのでしょうか?
はい、そのように読みますが、
現在は市町村合併で吉野川市になっており、摩植郡の地名はなくなっています。

>タイミング良く北島さんの投稿でしたので、驚いてます。かなり、山奥みたいですね!
奇遇ですね! 実は黒川さまと同じく「風早歴史文研究会」のHP記事から知りました。
老婆心ながら、もし樋山地に行かれる場合は一人ではいかないほうが良いかもしれません。
山深いひと気のないところで、何かあれば大変ですので・・。(^_^;)

> 通吉は池原近江守の父のことでしょうか?
汗顔ながら・・・、私はまだまだ勉強不足で、しかも全く知識ない状態で訪問しましたので、
できましたら、私も識者の方に解説していただけますと幸いです。
 

Re: 阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 5月 5日(土)07時15分48秒
  > No.3540[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

北島さん、皆様おはようございます。
  徳島の摩植郡(オエグン)とよむのでしょうか?
  の今回の訪問ですが、私も丁度この本を読んでいて
  タイミング良く北島さんの投稿でしたので、驚いてます。
  かなり、山奥みたいですね!
  私もきっかけは、今城さん書き込みの河野通久の富田庄は
  何処であったかの書き込みで少し調べていました。
  通吉は池原近江守の父のことでしょうか?
  どのような経緯で阿波に行ったのか等が気になります。
  また、以前、海遊庵主さんが紹介してくださった、徳島の
  河野さんの先祖と関係してくる?のでしょうか?
  また、色々とそちらの情報もUPしていただけるのが楽しみです。
  読んでいた本の表紙UPしておきます。+最近購入した本の紹介
  (表紙のみです)




>>
> 本日、阿波の国、昔、伊予の河野氏がこの地に移り住んで集落があった場所を訪ねました。
> 既にご存じかと思いますが、場所は吉野川市鴨島町樋山地(ひやまじ)です。
> 車で行けるとはいえ、想像以上に山の奥地にあり、細く険しい道なので、
> かなりひやひやものの運転でした。
> しかもナビは役に立たないので、道に迷いこんだらやばいような場所でした・・。
>
>
 

阿波の河野氏由縁の地を訪ねて(続き)

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月 4日(金)21時58分41秒
  先の記事の続きですが・・
同じ吉野川市鴨島町に由緒ある古刹の「西麻植八幡神社」があり、その敷地内に
「河野大明神」があることをネットで知り、こちらも訪ねてみました。


多くの阿波の河野家子孫の方々が、近年に先祖の御霊を祀るために建立されたもののようですね。
こちらも既知の情報かと思いますが・・、現地へ実際に訪ねてみると、
河野家の家系が今も延々脈々と続いているんだなあ、ということを実感しました。
また、子孫の方々の河野家先祖への熱い想いを感じずにはいられません。

写真は、河野大明神の社、寄進者名(あたりまえですが河野さんばかり・・)と、
「西麻植八幡神社」の由緒書きです。

以上、拙い内容で恐縮ですが、ご報告まで。
 

阿波の河野氏由縁の地を訪ねて

 投稿者:北島  投稿日:2012年 5月 4日(金)21時32分17秒
  湯築城の皆様、こんにちは。いつも楽しく記事を拝見しております。
折敷三文字でお世話になりました北島です。

本日、阿波の国、昔、伊予の河野氏がこの地に移り住んで集落があった場所を訪ねました。
既にご存じかと思いますが、場所は吉野川市鴨島町樋山地(ひやまじ)です。
車で行けるとはいえ、想像以上に山の奥地にあり、細く険しい道なので、
かなりひやひやものの運転でした。
しかもナビは役に立たないので、道に迷いこんだらやばいような場所でした・・。

幸運にも、たまたま通りがかりの地元の方に出会え、道を教えてもらえたのは
河野家御霊のお導きかもしれません・・・。

もしかして、阿波の国の河野氏のルーツはここから始まったのでは・・・と、
古の昔を想像し、歴史ロマンに浸ることができました。

取り急ぎ、本日のご報告としまして、河野家の碑の写真をUPさせていただきます。
 

Re: 導かれる侭の遭遇も~重ねて

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 5月 2日(水)22時00分36秒
  > No.3538[元記事へ]

今宵のひと時~デジカメの画像を整理して居りました。
其れでは取り合えず、数枚の南朝の宝蔵院極楽寺の風景をご紹介させていただきますのでご覧下さい。南無
 

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