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五色姫と屋島の姫の涙

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 4月17日(火)13時14分37秒
  先日伊予市の某宮司さんとお話しの折り
讃岐の崇徳上皇をお参りとのこと
その際、屋島の戦いは伊予市の戦いが狼煙上げ、
河野通信が平家本体の3分の2を伊予に引きつけたことにより
義経の奇襲が始まった旨をお話し
すると宮司氏驚かれ
その出典はと聞かれるので
平家物語にもちらりと描かれ
伊予の予章記と突き合わせると、屋島の戦いの全貌が観えて来る旨をお伝え
伊予市は平家ゆかりの五色姫伝説を大事にされているが
これからは、屋島の戦いの前哨戦となったことも顕彰されて行くことでありましょう

五色姫
屋島の姫と
すすり泣く
 
 

Re: 黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月12日(木)08時52分51秒
  > No.3498[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

>   「早川主馬」に見えます。どうでしょうか?

●そうですね、改めて拡大して見ますと早川に見えますね。
 配置位置からすると真田一統のような感じですね。
 

Re: 黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 4月12日(木)05時07分47秒
  > No.3496[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

  おはようございます。
  宗ですね、私も気が付いていますが、良く見ると
  「早川主馬」に見えます。どうでしょうか?
  夏の陣の配置で、黒川姓は一名みいだせます。
  この地図は断片なので載ってませんが、徳川方
  で黒川○○忘れましたが居ます。
  この黒川は伊予の出ではなく、多分、滋賀の黒川
  では無いかと思っています。
  徳川家臣で黒川姓で有名な人は、幕末にペリーの相手
  をした黒川嘉兵衛、長崎奉行をした黒川(忘れました)
  などが有名です。

> 黒川さんへのお返事です。
>
> 合戦図の中で茶臼山で陣取る中に「黒川主馬」がいますが何者でしょうね?
>
>  
 

Re: 黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月12日(木)03時14分27秒
  > No.3491[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

合戦図の中で茶臼山で陣取る中に「黒川主馬」がいますが何者でしょうね?

 

河野水軍の櫂練りと伊予漫才の不思議さよ

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 4月11日(水)19時02分55秒
  河野水軍が海のシルクロードを快走していたとすると・・・
平家を滅ぼし不思議なお祭り、櫂練り
あの櫂の操り、まさしく大陸の剣の刀法とすこぶる似たり
くるくる回す櫂は剣に、海のシルクロードの香りなり
河野通清、通信も太刀をあのようにふるい奮戦か

はたまた、風早の地に伝わりし伊予漫才
越前舞との由来を伝えしが、はて越前とは河野氏南朝の悲劇も伝わり・・・胸騒ぎ
この伊予漫才、動きにこれまた大陸の武術と瓜二つ
この絡みの探求モ面白なれど、衣装がまた不思議なり
まるでシルクロードのどこかの民が付けたかと思われしいでたち
はて、伊予漫才とシルクロードの関わりはいかに・・・

日夜、頭が悩まされつつ
歴史の旅は楽しけれ
 

Re: 海洋民族に何故・・・倭国の文化、不思議なリー

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 4月11日(水)12時26分59秒
  > No.3489[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。

> 海遊庵主さんへのお返事です。
> 瀬戸内海の操船お疲れさまです
> その瀬戸内海、海のシルクロードの終着点と申されますが
> さすれば、古代よりイラク・イランとは腐れ縁
> 伊予の水軍衆、アラブのダウ船に乗り移り、
> シンドバットと、花見の酒盛り、念仏踊り~
*師匠、真に伊予の国の古の面影は、奥のその奥~フィールドが徒然なる侭にて語り草の多葉(敢えて
根っ子と~幹と~枝葉と~花咲く)~姿は・・倭国の幻への誘い毎年春に爛漫の櫻花哉!!~??~。
未だ庵主も、荒海に小船を浮かす心地なれど、唯只管に「凡人の人生の道標です」から。南無
 

Re: 黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月11日(水)08時16分40秒
  > No.3490[元記事へ]

黒川さんへのお返事です。

 合戦図の提供ありがとうございます。

 どうも私は大きな勘違いをしてたようです。
 メインスレッドですと色んな情報が混在して分りにくいので、
 「大野家スレッド」で説明します。

 

Re: 黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月 9日(月)18時53分12秒
  黒川さんへのお返事です。

又々、悩まなくてはならない合戦配置図のご提供有り難うございます。
この合戦原図の出自はなんでしょうか?
「どこの誰がいつ作製した合戦絵図で何処の家に伝わるもの」でしょうか?

この絵図は天王寺が書かれていますので、これは慶長20年(1615)5月7日の「天王寺・岡山合戦」時
の配置図絵と思われます。
「道明寺の合戦」は天王寺からもっと南の「河内国志紀郡道明寺村」で前日の5月6日の戦いです。
じわじわと徳川勢に攻められ大坂城へ後づさりする戦いです。

黒川さん提供の絵図が史実の配置なら、次の疑問が始まります。

①後藤又兵衛基次は前日の「道明寺の合戦」での「討死説」は翌日のこの配置に有るので、誤りとなります。

②又大野修理が大野直載であるなら、これも前日の「道明寺合戦」討死説も誤りとなります。

③大野修理が大野直載である根拠はありませんが、当時の布陣は親族や気心の知れた仲間を周りに
 配置しますので、私は伊豫とのからみで大野直載と思いたいものです。

 ただ大野修理は大野長治と絵師が勘違いした可能性があると思っています。
 大野長治はこの時は豊臣家の大幹部ですので、天王寺の前線に居るとは考えられず、大坂城内で
 全体の趨勢を見ていたと思われますので大野を修理と書き込んだ可能性があります。
 今の所、直載が修理を称した記録に行き当りません。

一つの絵図で悩まされます。(はあ~)

両大坂の陣で徳川方として豊臣家を攻める中に、河野家末裔と思われる、一柳直盛、稲葉典通、稲葉紀通が
見出されます。

  「天正13年の恨み晴らさでおくものか!!」と言ってがどうかはわかりません。
 

Re: 海洋民族に何故・・・倭国の文化、不思議なリー

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 4月 9日(月)15時25分58秒
  > No.3484[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

瀬戸内海の操船お疲れさまです
その瀬戸内海、海のシルクロードの終着点と申されますが
さすれば、古代よりイラク・イランとは腐れ縁

伊予の水軍衆、アラブのダウ船に乗り移り、
シンドバットと、花見の酒盛り、念仏踊り~

倭国の非去勢文化は、倭国の成り立ちの重要なヒント
シナや朝鮮のちんぽこ切りは、受け付けず
すっぽんぽんで相撲とり
これは、シュメール文化のなごりかや
古代海のシルクロードでどんぶらこ
のこったのこった、どんぶらこー
竹の弓がまた珍しや
アーチェリー式の弓は受け付けず
かたくなに、竹の大弓守りけり
騎馬民族もガッカリかー

倭国の文化、不思議なリー
 

Re: 黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 4月 8日(日)22時58分23秒
  > No.3487[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

 詳細な説明有難うございます。色々と判ればよいのですが。。
 なかなか資料が乏しいので調べようもありません。
 助かります。
 夏の陣の大野さんは、この地図の大野修理さんですか?天王寺に
 なっていますが?地名?寺名私には土地勘がありません。

> >
>  面白いのはこの「道明寺の合戦」では大除城主大野直昌の息、直載も討死したと「上川村大野系図」は
>  書きます。
>   
 

黒田藩士 後藤又兵衛(基次)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月 8日(日)22時04分45秒
  黒川さんへのお返事です。

●貴重なヒント有り難うございます。

 先月、後藤某なる知人が転勤辞令を受け、震災の傷跡冷めやらぬみちのくへ旅立って行きました。
 送別会の席で彼は「私の先祖は後藤又兵衛と親父も爺さんも言うが私はそんなスケベーな名の先祖
 はよく分らない」と全く遠祖には興味がないと発言し、歴史好きな同僚から大ブーイングで、「今回
 の転勤は「栄転」だと思っていたが、先祖のお叱りとして「左遷だ」と云われキョトンとしていました
 のが記憶に新しい時に今回の黒川さんの「後藤又兵衛」の話で驚いています。
 何か因縁じみたものを感じました。それで少し調べてみました。

 ●結論から言いますと後藤又兵衛の嫁さんを世話したのは黒田如水時代の曽我部五右衛門ではないかと
  思われます。後藤又兵衛(基次)は播磨姫路近郊の産ですが、嫁さんは伊豫の人で墓は伊豫松前町
  の金蓮寺にあるとされますので、嫁さんは松前町出身かもしれません。

  後藤又平衛が黒田藩を出奔するのは慶長11年(1606)とされます。
  原因はこの年は如水の死後2年目で長政と折り合いが悪くとされます。
  この時、真っ先に向かったのは本貫の地伊豫は松山近郊「長泉寺」とされます。
  この「長泉寺」に身を寄せたのは又兵衛の嫁の叔父の藤岡九兵衛が住僧であったことによると
  されますので、嫁の姓は藤岡かも知れません。
  この後藤又兵衛が出奔した時に同行したのが、曽我部五右衛門の子、徳蔵で又平衛の娘婿として
  同行したと思われます。
  よって福岡曽我部家は福岡に留まり、黒田藩に仕え続けたものと思えます。
  桃女はこちらに寄宿していて福岡で往生を遂げ、それを受けて、南明禅師は後に供養したものと思われ
  ます。

 【曽我部五右衛門の子、徳蔵は父の録二千石を相続、孤弱により、後藤又兵衛の婿となる。
  又兵衛、福岡を去るとき、徳蔵も同じく大坂の城の戦い(大坂の陣か)で落城の後、紀州太守に
  仕え采地千石あり【黒田家家臣伝】】

 この時、又兵衛と一緒に黒田藩を出奔するのは「吉村武右衛門」と云われ、彼は、後藤又兵衛が
 伊豫を出て、豊臣秀頼の招きにより大坂城に入った慶長19年「大坂の陣」の直前に又平衛に誘われ
 豊臣方となったとされます。

 翌慶長20年「大坂夏の陣」の「道明寺の合戦」に於いて又兵衛は討死、同行した吉村武右衛門は
 又平衛の頸を切って隠し、後、掘り出して、故郷の長泉寺に葬ったとされます。
 別説はそれはカムフラージュで生き延びて「松山・天徳寺」に隠れるともあります。

 面白いのはこの「道明寺の合戦」では大除城主大野直昌の息、直載も討死したと「上川村大野系図」は
 書きます。
 ご承知のように「松山・天徳寺」は本来河野家ゆかりの寺で、後に「大坂天野屋」の養子となる
 大野直昌嫡男、直常も竹原で父が逝去の後、帰って来て養育されたとされます。

 又、曽我部五右衛門の子で後の後藤徳蔵は紀州徳川家に仕えます。別スレッドのように大野家からも
 紀州徳川家に仕官します。

 亦、大野家は同時期に徳川方の彦根井伊家に仕官します。

 どうも皆、線で繋がっているような気がしてなりません。

『さて話は変わりますが、以前、後藤又兵衛が伊予に来たと言う話を書きました。
 私は松山(伊予市?)のお寺の住職からこの話を聞きましたが、
 今度、その事わ書いた本がありましたので紹介します。
 著作は喜代吉さんと言う新居浜市の住職さんで、「奥の院仙龍寺と遍路日記」と言う  題で出されています。 昔、千足の黒川村善光寺調査で1回だけ同行させて頂いた事があります。
 この本の中で、後藤又兵衛は一時期松山の加藤公に身を寄せていたが、加藤公は会津に転封に
 なった後に川之江に移住したとあります。


●下記の記事を【播州・後藤家系図】を参照しながら見てみましょう。

 *後藤又兵衛某=玄哲-元徳-玄超-玄隆-与兵衛

 ⇒「後藤又兵衛某=玄哲」とあるのでこれは後藤又平衛基次の五男、基芳と思われます。
   医師として法橋玄哲を名乗ります、

 *後藤又兵衛基次 嫡男吉右ェ基芳
  二女 松山大買豊前屋小左エ門ニ嫁ス

 *吉右ェ門基芳 醫官法橋玄哲ト改

 吉右ェ門基芳、父ト共ニ加藤家ニ遊客タリシヲ、慶長十九年甲寅、父元次
 大阪ニ入城ス。依テ松山ニ居住スベキ所拾四年之後、寛永四丁卯年加藤喜明奥州会津ヘ
 所知替ニ相成ル。依之ニ松山ヲ去リ東豫川之江ニ住ス。学醫術ヲ、遊京都ニ近衛殿ニ
 奉仕ス。宦居法橋コト十五年、ニ男玄篤ニ譲醫業ヲ、又川之江ニ帰ル。寛文元年辛丑年
 十二年廿八日卒。(レ点が入れれないので話が判らないかも)

 ⇒ほぼ系図と同様です。
  また、系図上は又兵衛基次の娘は四人いて
  長女は鳥取、深田七郎兵衛の妻
  二女は野村大学の妻
  三女は伊豫、小出権大夫の妻
  四女は松山、豊前屋小左衛門の妻

 とあります。
 もっと周辺調査をすると思いがけない所に発見があるかもしれませんね。

 私は「大野直載の慶長年中道名寺合戦の刻、討死」の時期と内容にたどり着けて幸いでした。

 黒川さんのチョットしたヒントで色んなものが線で繋がっているなと確信しました。

  
 

Re: 地元有志が大除城を調査

 投稿者:黒川  投稿日:2012年 4月 7日(土)21時05分16秒
  > No.3485[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

●Yahoo BoXは便利な機能です。送りたい資料を共有出来るのでとても重宝してます。
 以前、資料のやり取りはメール添付では容量などの制限で難しく、郵送しか手段がありません。
 また、近年は著作の関係で掲示板UPも制限されます。今後も必要な資料?はこの方法で
 共有したいとおもいます。
 さて話は変わりますが、以前、後藤又兵衛が伊予に来たと言う話を書きました。
 私は松山(伊予市?)のお寺の住職からこの話を聞きましたが、
 今度、その事わ書いた本がありましたので紹介します。
 著作は喜代吉さんと言う新居浜市の住職さんで、「奥の院仙龍寺と遍路日記」と言う
 題で出されています。昔、千足の黒川村善光寺調査で1回だけ同行させて頂いた事があります。
 この本の中で、後藤又兵衛は一時期松山の加藤公に身を寄せていたが、加藤公は会津に転封に
 なった後に川之江に移住したとあります。

 *後藤又兵衛某=玄哲-元徳-玄超-玄隆-与兵衛

 *後藤又兵衛基次 嫡男吉右ェ基芳
  二女 松山大買豊前屋小左エ門ニ嫁ス

 *吉右ェ門基芳 醫官法橋玄哲ト改

 吉右ェ門基芳、父ト共ニ加藤家ニ遊客タリシヲ、慶長十九年甲寅、父元次
 大阪ニ入城ス。依テ松山ニ居住スベキ所拾四年之後、寛永四丁卯年加藤喜明奥州会津ヘ
 所知替ニ相成ル。依之ニ松山ヲ去リ東豫川之江ニ住ス。学醫術ヲ、遊京都ニ近衛殿ニ
 奉仕ス。宦居法橋コト十五年、ニ男玄篤ニ譲醫業ヲ、又川之江ニ帰ル。寛文元年辛丑年
 十二年廿八日卒。(レ点が入れれないので話が判らないかも)

  とあります。残念ですが肝心の黒川金右衛門は出てきません。




> ●現地情報に基づき久万高原町教育委員会にこの報告書はいつごろ出ますか?と問合せましたら
>  そんなたいそうな物は出さず、測量した平面図を整理するだけ、とのことでした。
>  関連の発掘調査等はなされてないようで、少しガッカリしましたが、正確な測量図が出るだけでも
>  良しとせざるを得ません。
>  確かに発掘するとなると、人手と経費と地主の了承が必要ですから教育委員会の予算では難しいでしょうね。
>  今後に期待しましょう。
>  測量図はコピーを送ってくれるそうなので助かりました。
>
>  黒川さん  該当新聞記事の切り取り送付有り難う御座いました。
>  御蔭で関係した大野の人の名前が分りました。
>  教育委員会の担当者も大野さんでした。(笑)
 

Re: 地元有志が大除城を調査

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月 7日(土)07時03分7秒
  今城さんへのお返事です。

>  今回の調査は、久万高原町教育委員会が保全活動を視野に入れた基礎調査として住民に呼び掛けて実施し、愛媛考古学研究所の長井数秋所長が指導したと記されています。
>
>  城は曲輪が七つあり、全長約300m、本丸付近の幅は二十数mあると確認されたとのことです。

●現地情報に基づき久万高原町教育委員会にこの報告書はいつごろ出ますか?と問合せましたら
 そんなたいそうな物は出さず、測量した平面図を整理するだけ、とのことでした。
 関連の発掘調査等はなされてないようで、少しガッカリしましたが、正確な測量図が出るだけでも
 良しとせざるを得ません。
 確かに発掘するとなると、人手と経費と地主の了承が必要ですから教育委員会の予算では難しいでしょうね。
 今後に期待しましょう。
 測量図はコピーを送ってくれるそうなので助かりました。

 黒川さん  該当新聞記事の切り取り送付有り難う御座いました。
 御蔭で関係した大野の人の名前が分りました。
 教育委員会の担当者も大野さんでした。(笑)
 

Re: 海洋民族に何故去勢文化は広まらなかったのか

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 4月 6日(金)22時50分26秒
  > No.3483[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。

舳先に立って~面舵一杯の操船の様子・早速の・ハードウエザーの老練のキャプテンの操船術かな!
(本日天気晴朗なれど波高し)の先師の巧みかと。 南無
 

Re: 海洋民族に何故去勢文化は広まらなかったのか

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 4月 6日(金)22時00分22秒
  > No.3482[元記事へ]

maru阿弥さんへのお返事です。

師匠、なんの~なんの・湯築城の風景に映る岩崎山の祠は・見ての通り・海の一族の縄張りですら!
長い航海~~~自然の真間に大波・小波~潮待ち・風待ち渡海の操船には海族衆は長けておりまする。
山ノ神~海ノ神・倭国の海域なれば百戦錬磨の海戦には長けて御座る。 南無
 

海洋民族に何故去勢文化は広まらなかったのか

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 4月 5日(木)09時52分44秒
  倭国に何故、去勢文化が広まらなかったのか・・・
隣国には、金玉切りの宦官なる制度がひろまれどもはて?

つらつら考えるに、サメを相手に去勢する訳にいかず
サメの金玉は何処なりや・・・わからんですなー
海洋民には去勢の発想が、思いつかなかったのでしょうなー
海に浸かっていると、ただでもちぢこまりますからなー
 

大蛇神話と大岩神話と古代倭人

 投稿者:maru阿弥  投稿日:2012年 4月 4日(水)14時38分2秒
  大きな岩を信仰するのは、天孫族以前の信仰のなごりでしょうなー
大山祇神も先住民族の代表格ですから
古代の鬼たちは、道後の湯につかり、
この見事な大岩を祭ってどんちゃんさわぎをされていたのでしょうなー

天孫族が侵入してくるまでは、伊予の温泉界隈は出雲族の楽園
大山の神を祭ったり
熊野の神を祭ったり
鬼の楽園そのもの

古代の鬼たちは、蛇が特に白い大蛇が大好きで
古事記にまで神さまとして登場しておりますが
道後の湯にも見事な大蛇が大岩にどぐろをまかれて
雨の恵みをもたらされておられましたなー

大蛇への信仰は、しめ縄を巻いて
大しめ縄と変じて現代へ受け継がれ
倭人は大蛇が好きですなー

大蛇信仰と大岩信仰を眺めていると
古代倭人の鬼たちが
湯につかり月をながめ
どんちゃん騒ぎをしているかわいい鬼たちが目に浮かんでまいりますなー
 

訂正

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月 4日(水)14時09分51秒
  > No.3479[元記事へ]

通有と通信を混同しています。
 よって通高は弘安の役の時に存在している可能性はありますが
 居ても幼稚(子供)ゆえ参戦はしてないと思われます。


 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 4月 4日(水)08時39分3秒
  > No.3478[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

返信ありがとうございます。
仰る通り色んな資料と色んな説がありどれが史実かよく分らないのが実態です。

私のこの記事の参考資料は、「予章記」(複数)「予陽河野家譜」「築山本河野家譜」「河野系図」(諸本)
「石手寺縁起」「河野土居系図」「一遍上人絵巻」「越智稲葉系図」「大濱八幡宮系図」「萩藩閥閲録・同譜録」
「越智得能系図」「南海治乱記」「愛媛面影」「愛媛県史談」「諸家系図」「美濃諸家系図」「予陽盛衰記」等で す。
 そのほか
 沢山の資料がありますが、それぞれ皆好き勝手に書いていてもちろん辻褄はあいません。

 共通するのはすべて「一次史料」ではないと言うことです。

 どの資料も一部を除いて数百年前の古資料ですが、その人物の記述はさらにその編者の代から数百年前前
 の記述ですのでその根拠を証明するものではありません。

 今回に限らず歴史文書は殆ど、玉石混淆です。

 その中から丁寧に「玉」だけを選別して拾い集めなければなりません。

 そういった意味では歴史の解明は半分「クイズ」のようであり、
 その証明手続きは裁判所に於ける一定のルール(法)と証拠に基づき論証するプロセスと似ています。
 ルールは決まっているのですが証拠(一次史料)が絶対的に不足しています。

 そう言った意味ではまだまだ本当の意味での断定は出来かねます。

 それを前提に話を進めます。


> >  土居・得能は建武4年(1337)戦死とされますので、そうすると、建長年中(1249~1256)の
> >  河野流別府家の当主は、一遍上人の父か兄となりそうです。(系図により異論あり)
> >
> >  父ですと河野・別府家初代河野(別府)七郎通広で兄ですと別府通真か通秀と思われます。
>
>  以前、別府弥七郎を見たのは右衛門三郎伝説でした。石を握って生まれて来たのが弥七郎通秀と伝えられています。右衛門三郎伝説については、右衛門三郎再誕の事(与陽盛衰記 230頁より)  などを参照して下さい。

●このあたりは「越智稲葉系図」を論拠としています。稲葉系図も予陽盛衰記も後世江戸期の編纂ものですので
 建武4年の話はどちらもあやふやと思われます。複数の説ですので私の優先順位は「軍記物」ではなく
 どちらかと言えば大名家が金をかけて筋の良い文書を収集したと思える「稲葉系図」を上としました。
 合っているか否かは分りません。

>  案内板には弥七郎の後に扁が光で旁が秀」と言う字が記されていますが、これを「光秀」と二字にすると「みつひで」と読めます。「通秀」は「みちひで」ですので、何か匂います。しかし上記伝説は、「七郎左衛門通広は、河野四郎通信の末子五郎通尚の子なリ。この生子、幼名徳寿丸と云い、後に別府弥七郎通秀とて、即ち通信の孫にて、その頃、執権北条家へも親戚の因あリ。その後、二男出生す。七郎通高と申して、筑前長淵の庄を賜わりしなり。」とあり、人物相互の関係が混乱していて信用できません。
>
>  そこで通秀や通眞らを、美川村(現在は久万高原町)土居家に伝わる系図にどのように記されているかを見てみます。合わせて、建長年中とその前後の承久の変と元寇との時期的関係を見てみます。
>
>  河野通廣  承久元年(1219)3月 没            (七郎左衛門尉)
>  【承久の変】 承久3年(1221)
>  【建長年中】 1249-1256
>  河野通眞  文応元年(1260)9月2日 承久年中属鎌倉方於大井渡高名  (源次)
>  河野通秀                            (次郎左衛門尉)
>  河野通朝  通廣五男也継兄通眞之跡住風早別府   (七郎左衛門)
>  【文永の役】 文永11年(1274)
>  【弘安の役】 弘安4年 (1281)
>  河野通高  弘安年中依蒙古合戦之賞賜筑前長淵庄  (七郎)
>  一遍上人  延応元年(1239)~正応2年(1289)

●このあたりもどれが虚か実かよく分りません。ひとつづつ潰していきたいものです。
 「河野土居系図」も江戸末期に最終編纂されてますの細かく検証しなくてはならないと思っています。
 別スレッドで書いたようにこの系図は家紋を「現代の流布河野家紋」をわざわざビジュアルに初代の所で
 書いていますので加筆修正なされた系図と見ています。


>  これから言えることは、岩崎神社を建長年中に創建したのは通廣では有り得ず、通眞か通朝か通秀のうちの一人と思われますが決定打がありません。なお、同系図では弥七郎は見当たりません。 更に通高の可能性も0ではありません。
>
> >  この時伊豫の南軍を攻めたのは河野通盛とされ、彼が同年帰国後、道後湯築城の建設を始めると
> >  されますので、岩崎神社の土地は確かに創建時には北朝河野には関係なさそうですが、南朝系
> >  河野(土居・得能・別府を中心とするグループ)が押えていたと思われます。
>
>  「この時」とはどの時期ですか。岩崎神社の創建は南北朝争乱より遥か前のことです。別府弥七郎がこの神社を創ったのは、時期から見て承久の変までの河野氏累代の麗を祀ったと見るのが妥当でしょう。

●はっきりとしたことは分りませんが応仁の乱以前で別府氏の所領と推定しました。
 よって考えられるのは通信の子別府初代通広と思われます。そのように書いてある「河野系図」は違うと
 云われればそれ以上は分りません。

> >  建武4年に南朝方として雪の北陸で戦死するのは得能通綱と土居彦九郎通増と別府家では別府七郎通高
> >  と記憶しますので、岩崎神社の地は彼等の内の別府家の領地と考えれば辻褄があいますね。
> >  しかし何故祭神に別府通高を加えてないのか理解に苦しみます。
> >  後に得能、土居を合祀するときの人達が別府七郎通高を失念していたとしか思えません。
>
>  土居氏系図では通高は元寇で活躍し、筑前長渕庄を賜ったとあります。これが真実なら南北朝期よりかなり前の人物となります。北陸で戦死とは時期が違いすぎますが、どうでしょうか。

●確かに「河野土居系図」は『通高 七郎 弘安年中依蒙古合戦之賞賜筑前長渕庄」と書いてありますが
 通高が主語とは他の文書比較からそうは思えないのです。
 彼を系図に落としますと諸河野系図により違いますが、弘安の役の通信から数えて4代もしくは五代後
 の人物となり、もちろん弘安の役時代にはいません。
 私も最初は今城さんと同様な解釈をしました。系図にプロットすると他系図と比較して時期が合わない
 ことに気がつきました。どの河野系図を信用するかによりますが・・・・。
 「河野土居系図」の意図は「弘安年中の元寇打ち払いに功のあった先祖河野通信の遺領のうち筑前
  長渕庄を相続した」と書いたつもりなのでしょう。
  体言調の文書は主語・述語・助詞を端折りますので解釈が複数できます。
  文章としては韻を踏んで格好は良いのですが関係者以外ではこれに限らず解釈が分かれます。

 私の記事はどの河野系図かは失念いたしましたが「別府七郎通高は 「金ヶ崎討死」の記事により
 得能通綱と土居彦九郎通増と別府七郎通高は南朝の功臣として雪の北陸で皆最後を遂げたと解釈しました。
 よって後世別府氏が得能・土居を合祀するなら、何故別府通高も祀らないのか不思議に思った次第です。

 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:今城  投稿日:2012年 4月 3日(火)23時32分20秒
  > No.3474[元記事へ]

呑舟さん

>  土居・得能は建武4年(1337)戦死とされますので、そうすると、建長年中(1249~1256)の
>  河野流別府家の当主は、一遍上人の父か兄となりそうです。(系図により異論あり)
>
>  父ですと河野・別府家初代河野(別府)七郎通広で兄ですと別府通真か通秀と思われます。

 以前、別府弥七郎を見たのは右衛門三郎伝説でした。石を握って生まれて来たのが弥七郎通秀と伝えられています。右衛門三郎伝説については、右衛門三郎再誕の事(与陽盛衰記 230頁より)  などを参照して下さい。

 案内板には弥七郎の後に扁が光で旁が秀」と言う字が記されていますが、これを「光秀」と二字にすると「みつひで」と読めます。「通秀」は「みちひで」ですので、何か匂います。しかし上記伝説は、「七郎左衛門通広は、河野四郎通信の末子五郎通尚の子なリ。この生子、幼名徳寿丸と云い、後に別府弥七郎通秀とて、即ち通信の孫にて、その頃、執権北条家へも親戚の因あリ。その後、二男出生す。七郎通高と申して、筑前長淵の庄を賜わりしなり。」とあり、人物相互の関係が混乱していて信用できません。

 そこで通秀や通眞らを、美川村(現在は久万高原町)土居家に伝わる系図にどのように記されているかを見てみます。合わせて、建長年中とその前後の承久の変と元寇との時期的関係を見てみます。

 河野通廣  承久元年(1219)3月 没            (七郎左衛門尉)
 【承久の変】 承久3年(1221)
 【建長年中】 1249-1256
 河野通眞  文応元年(1260)9月2日 承久年中属鎌倉方於大井渡高名  (源次)
 河野通秀                            (次郎左衛門尉)
 河野通朝  通廣五男也継兄通眞之跡住風早別府   (七郎左衛門)
 【文永の役】 文永11年(1274)
 【弘安の役】 弘安4年 (1281)
 河野通高  弘安年中依蒙古合戦之賞賜筑前長淵庄  (七郎)
 一遍上人  延応元年(1239)~正応2年(1289)

 これから言えることは、岩崎神社を建長年中に創建したのは通廣では有り得ず、通眞か通朝か通秀のうちの一人と思われますが決定打がありません。なお、同系図では弥七郎は見当たりません。 更に通高の可能性も0ではありません。

>  この時伊豫の南軍を攻めたのは河野通盛とされ、彼が同年帰国後、道後湯築城の建設を始めると
>  されますので、岩崎神社の土地は確かに創建時には北朝河野には関係なさそうですが、南朝系
>  河野(土居・得能・別府を中心とするグループ)が押えていたと思われます。

 「この時」とはどの時期ですか。岩崎神社の創建は南北朝争乱より遥か前のことです。別府弥七郎がこの神社を創ったのは、時期から見て承久の変までの河野氏累代の麗を祀ったと見るのが妥当でしょう。

 この時期、土居氏はまだ成立していませんので、神社創建には無関係です。そして承久の変の後、道後平野の支配者は金沢氏や大仏氏ら北条一門であって、別府氏が今の湯築城の地を領していた可能性は全く無いでしょう。風早郡の別府の地を安堵されただけでも幸運と言うべきだと思います。なお、風早郡を領したのは赤橋氏と見ています。

>  建武4年に南朝方として雪の北陸で戦死するのは得能通綱と土居彦九郎通増と別府家では別府七郎通高
>  と記憶しますので、岩崎神社の地は彼等の内の別府家の領地と考えれば辻褄があいますね。
>  しかし何故祭神に別府通高を加えてないのか理解に苦しみます。
>  後に得能、土居を合祀するときの人達が別府七郎通高を失念していたとしか思えません。

 土居氏系図では通高は元寇で活躍し、筑前長渕庄を賜ったとあります。これが真実なら南北朝期よりかなり前の人物となります。北陸で戦死とは時期が違いすぎますが、どうでしょうか。

>  後にこの地を北朝系の河野通盛に奪われ、同族ゆえ社は存続はしますが、
>  見るからに大切にはされていたとは思えない感じですね。
>  河野家の異端児との伝承があったのこも知れませんね。

 岩崎神社は河野氏全体の先祖を祀るために創られたのであって、別府氏や土居・得能氏の先祖のみを祀った神社ではありません。ですから河野宗家が軽んじる理由はありません。土居備中守と得能備後守を合祀したのはずっと後のことです。南北朝の戦乱の最中の可能性は考えられません。河野宗家が湯築城を完全に支配下に置いたのは1400年前後であり、二人を合祀したのはそれ以後です。ひょっとしたら遥か後世かも知れないと考えています。

>  得能通綱と土居彦九郎通増と別府七郎通高らが歴史上名誉回復するのは明治天皇が修史局長に命じて
>  古文書を総覧させた結果の。

 その結果、二人を合祀することになったのかも知れませんね。
 

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