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Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:今城  投稿日:2012年 3月31日(土)11時11分42秒
  > No.3474[元記事へ]

呑舟さん

 述べたいことが色々とありますが、今書く間がありません。少々遅れますがご勘弁下さい。
 
 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 3月30日(金)20時53分43秒
  > No.3472[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

●ご丁寧な返答有り難うございます。

>  創建時の祭神は「小千命」と「河野家累代」でしょうね。「土居備中守」と「得能備後守」は後世に追加して祀られたのではないでしょうか。

●河野関連年表(私の勝手な整理年表)を見直してみました。

 私の勘違いです。建長を慶長と書いたりして、ボケも静かにしかも確実に進行中です。(ハア~)

 創建が南朝の功臣、土居と得能の戦死後と思い込んでいました。
 土居・得能は建武4年(1337)戦死とされますので、そうすると、建長年中(1249~1256)の
 河野流別府家の当主は、一遍上人の父か兄となりそうです。(系図により異論あり)

 父ですと河野・別府家初代河野(別府)七郎通広で兄ですと別府通真か通秀と思われます。

 この時伊豫の南軍を攻めたのは河野通盛とされ、彼が同年帰国後、道後湯築城の建設を始めると
 されますので、岩崎神社の土地は確かに創建時には北朝河野には関係なさそうですが、南朝系
 河野(土居・得能・別府を中心とするグループ)が押えていたと思われます。

 建武4年に南朝方として雪の北陸で戦死するのは得能通綱と土居彦九郎通増と別府家では別府七郎通高
 と記憶しますので、岩崎神社の地は彼等の内の別府家の領地と考えれば辻褄があいますね。
 しかし何故祭神に別府通高を加えてないのか理解に苦しみます。
 後に得能、土居を合祀するときの人達が別府七郎通高を失念していたとしか思えません。

 後にこの地を北朝系の河野通盛に奪われ、同族ゆえ社は存続はしますが、
 見るからに大切にはされていたとは思えない感じですね。
 河野家の異端児との伝承があったのこも知れませんね。

 得能通綱と土居彦九郎通増と別府七郎通高らが歴史上名誉回復するのは明治天皇が修史局長に命じて
 古文書を総覧させた結果の。

 確か河野関連文書を愛媛県令(県知事)から公式文書として修史局に提出させ、不備を理由に数度
 再提出させて、その最終報告書に朱を入れて添削しつくした結果と思われます。
 修史局長は確か勅任官で天皇から直接任命される総理大臣と同等の地位にあったと記憶します。
 県令よりは位が上だったと思います。

>  白蛇が岩崎神社の御使いとされていますが、昭和に入っても太い白蛇が家の中に入って来たそうです。湯築城の直ぐ近くで生まれ育ち、今もそこに住む老婦人から聞いた話です。

●そうですか、現実的には白い蛇はいますからね。

 一番有名なのは周知の通り毛利三川(サンセン)の吉川(キッカワ)家の岩国城下の白蛇ですね。
 これは青大将蛇の突然変異ですが、目が赤くて可愛いですよ。子蛇でも二つに割れた舌を
 ペロペロしますので、これを気味が悪いとするか、「キャー可愛い」とするかは
 人間の主観でしょうね。「虫愛ずる姫君」の伝承のある国ですから色々でしょう。
 よって白蛇は中四国ではかっては結構居たようですので見た人がいてもおかしくはないでしょうね。

 昔は岩国の白蛇はタダで見せてくれたのに近頃は金を取ります。
 白蛇は神の使いとされますので、いわばエンゼルを見世物にするのは罰当たりです。

 尚、吉川を先月2/21日の講演会で宮尾克彦先生は「ヨシカワ」と発音されましたので
 このブロブを先生や関係者が見ているでしょうから、できれば次からは「キッカワ」と発音して
 頂きたくルビをふりました。
 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:今城  投稿日:2012年 3月30日(金)15時31分59秒
  > No.3472[元記事へ]

 訂正です。

> ここで判らないことが幾つかあります。先ず、岩崎神社は拝殿だけで本殿に相当する建物はありません。後ろの丘が本殿なのかと思いますが、方向は丘の最高峰ではなく、昔、伊佐爾波神社があったと伝えられている中段を向いています。

 これが気になったので確かめに行って来ました。その結果完全に間違っていたことが判りました。勘でものを言ってはだめですね。反省。

 岩崎神社の真後ろは湯築の丘の本壇でした。と言うことは、拝殿の前に立てば丘の最高峰である本壇を向くことになります。つまり本壇がご神体と言うことでしょう。木が茂っているので本壇が見えませんので、拝殿の方角で見当をつけ、資料館にある図面で確認しました。
 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:今城  投稿日:2012年 3月30日(金)12時22分46秒
  > No.3468[元記事へ]

呑舟さん

> ●つまらないことで一々気になる私の性分で自分自身で難儀しています。

 緻密な分析をなさると言うことでしょう。

>  ご案内の説明板と岩崎神社に掲げられてる河野家家紋が気になりました。
>
>  まず掲げられている家紋は「傍折敷縮(波・揺)三文字」ですね。
>  一番直近とされる河野家家紋と思われます。
>  現代の人が設えたのでしょうからやむ得ないとは思います。

 或る寺の住職から聞いた話ですが、幕は一々造るわけに行かず、出来合いのものを使うことが多いので、それに描かれている紋は当てにならないとのことでした。岩崎神社の幕もつい何年か前のものでしょうから新しく、仰る通り本来の紋と同じという保証はないと考えています。

>  となるとこの杜は説明文にある「河野家累代」の霊が主祭神と認識しているのでしょうね。

 創建時の祭神は「小千命」と「河野家累代」でしょうね。「土居備中守」と「得能備後守」は後世に追加して祀られたのではないでしょうか。

>  慶長年中(1249~1256)創建したとされる別府弥七郎とはどのような人でしょうね?
>  別府氏は河野通信の子、河野七郎通広が始祖とされますので別府七郎通榮か、別府弥三郎通孝が
>  考えられますが地元ではこの創健者の別府は、どのように伝わっていますでしょうか?

 「慶長」でなく、「建長」です。ミスタイプですね。
 以前別府弥七郎の名を偶然見たことがあるのですが、どこで見たのか忘れてしまいました。河野通廣の孫だったような覚えがありますが、判りません。

 建長年中というと、承久の変と元寇の中間ですので、創建時には承久の変までに亡くなった河野家累代の霊を祀ったものと推測します。

 ここで判らないことが幾つかあります。先ず、岩崎神社は拝殿だけで本殿に相当する建物はありません。後ろの丘が本殿なのかと思いますが、方向は丘の最高峰ではなく、昔、伊佐爾波神社があったと伝えられている中段を向いています。

 今一つは、神社創建の頃、ここは河野氏の所領ではありません。誰の所領であったか判然としませんが、この丘は当時は聖なる丘と崇められていた場所だったと思われます。岩崎神社はそのような丘に創られたものと推測しています。それにしてもこの地の支配者の承認なしで創ることは出来ないでしょうから、岩崎神社創建一つを見ても関連することが色々と推測されます。

 私はこの地で生まれ育った人間ではありませんので、地元の伝承は殆んど知りません。若い人に聞いても知らないでしょう。何か判ったらまた報告します。

>  しかし北朝側の河野宗家の縄張りに南朝側の土居氏・得能氏を祭神とする神社があったとは
>  驚きです。河野宗家を家督した得能氏の縁でしょうか?

 岩崎神社創建は湯築城より100年近く前ですし、土居氏・得能氏を合祀したのはずっと後のことでしょうから、私は特に不思議には思いません。それより成る程なと思うことすらありますが、長くなり過ぎますので、別の機会に譲ります。

>  岩崎神社の「大蛇伝説」も興味深く拝見しました。

 白蛇が岩崎神社の御使いとされていますが、昭和に入っても太い白蛇が家の中に入って来たそうです。湯築城の直ぐ近くで生まれ育ち、今もそこに住む老婦人から聞いた話です。

 今回もお返事が遅くなりましたが、色々杜立て込んでいて、暫くの間、応答が遅れると思います。ご容赦下さい。
 

Re: 「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 3月30日(金)06時39分13秒
  > No.3470[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

> 2点の両方とも「折敷三文字」だった(?)と思います。
> もしも、その願いがかなえば、こちらにご報告させていただきます。

●状況は概ね分りました。有り難うございました。
 「折敷三文字」(菱形)であるなら甲冑としてはとても珍しいですね。
 河野家と関係ないかもしれません。
 まさか室町時代のものとも思えませんが・・・。

 また何か分りましたらご教示願御願いいたします。
 

Re: 「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月30日(金)01時01分4秒
  > No.3466[元記事へ]

呑舟さんへのお返事です。

「折敷三文字」について詳細な分析や考え方、とても勉強になります。有難うございます。
ご質問の井伊美術館の甲冑についてですが・・・

その前に、この井伊美術館、民家を利用していることもあり、ところ狭しと鎧や武具、仏像など
さまざまな品を、ぎっしり直置きで並べていました。(普通の展示イメージとは異なります)
特に鎧の数が膨大で、ざっと70~80くらいの数があったと思います。
また、井伊家ゆかりのものだけでなく、まったく関係ないものもいろいろありましたので、
おそらく館長さんが個人的に収集したものだと思われます。(鎧の鑑定士もされているようです)
私が知っているのでは、蜂須賀の「卍」、一柳の「◇」の紋がついた品もありました。

それでは、本題ですが、
> この「折敷三文字」は「傍折敷三文字」の間違いではないでしょうか?
> 来島河野であるなら紋所は稲葉家とは違い「傍折敷縮三文字」紋と思われますが
> そのような紋ではなかったでしょうか?

2点の両方とも「折敷三文字」だった(?)と思います。

■1点目
三の字が真っ直ぐ・・・これは麟祥院と同じ字体で、兜の両サイドに紋がついていました。
説明書の紙札に、たしか「稲葉家伝来、五枚胴具足?」と書いておりました。
なお、鎧櫃のうえにポンと兜だけのせてあった状態で、本体は出しておらず、残念ながら
見ることができませんでした。
(奥様にお願いしたら、次の機会に館長(ご主人)に相談してほしい、と言われ断念・・)

■2点目
三の字が揺れ(縮?)三文字・・・積みあげていた黒い鎧櫃に大きな「三文字紋」があるのを見つけ、
これも中身を見せてほしいとお願いしましたが、上記と同じで残念ながら本体は見れず・・。
うろ覚えですが、外観は海遊庵主さま所有の鎧櫃と非常によく似ていたと思います。

・・ということでした、今報告できるのはここまでとなります。
次回に、機会をみて館長さんに事前に申し入れして、「折敷三文字の鎧」をぜひ拝見できるよう
お願いしてみようと思っています。
もしも、その願いがかなえば、こちらにご報告させていただきます。
 

Re: 小豆島の桟敷のことは

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月29日(木)23時45分48秒
  > No.3465[元記事へ]

海遊庵主さんへのお返事です。

> 小豆島には、備前の国・島・領主佐々木信胤の悲運の古城郭・内海の北方・「星ヶ城」
> 讃岐の国の細川定禅との勢力争いの戦場であり~また・・女人にも深く関わる伝承

またまたご教示いただき、ありがとうございます。
少しネットで「信胤とお才の局」の記事を拝見しましたが、お膝もとの小豆島に、
このようなドラマチックな秘話があったとは存じませんでした。
二人は許されぬ恋仲で、最後は毒を飲んで心中してしまうんですね・・・。
 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 3月29日(木)13時55分41秒
  今城さんへのお返事です。

「岩崎神社です。石段の右側は桟敷で、小豆島に同じ構造の桟敷が幾つか有ると聞いています。写真の右下に神社 の由緒を記した説明版があります。写真2がその説明版です。」

●つまらないことで一々気になる私の性分で自分自身で難儀しています。

 ご案内の説明板と岩崎神社に掲げられてる河野家家紋が気になりました。

 まず掲げられている家紋は「傍折敷縮(波・揺)三文字」ですね。
 一番直近とされる河野家家紋と思われます。
 現代の人が設えたのでしょうからやむ得ないとは思います。

 となるとこの杜は説明文にある「河野家累代」の霊が主祭神と認識しているのでしょうね。

 白蛇の生まれ変わりとされる河野家元祖「白人大明神」の小千御子ならば「予章記」等が伝える
 「イチスハマ」紋でもありませんね。別の祭神で南朝の功臣の土居氏と得能氏の家紋でも
 ありませんね。

 慶長年中(1249~1256)創建したとされる別府弥七郎とはどのような人でしょうね?
 別府氏は河野通信の子、河野七郎通広が始祖とされますので別府七郎通榮か、別府弥三郎通孝が
 考えられますが地元ではこの創健者の別府は、どのように伝わっていますでしょうか?

 しかし北朝側の河野宗家の縄張りに南朝側の土居氏・得能氏を祭神とする神社があったとは
 驚きです。河野宗家を家督した得能氏の縁でしょうか?


 岩崎神社の「大蛇伝説」も興味深く拝見しました。

 石出寺の「大蛇伝説」の変形のような気がしないわけでもありません。

 大本は「予章記」(上蔵院本)の親清の妻が「石女(ウマズメ)」であったことから大蛇と交わり「通清」を
 生むとしている話の亜流とも思われます。

 この大蛇との交わる「密通」の「通」の字が後の河野家「通字」の「通」として喧伝されるのは
 周知の通りですね。

 この「予章記」の河野通清の大蛇の子伝説は、別に種本があり、また更にその「種本」があるようです。

 長くなりますのでこの話は別スレッドに移します。

 
 

訂正

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 3月29日(木)07時11分35秒
  > No.3466[元記事へ]

 施主(この場合妙心院)⇒妙心寺
 

Re: 「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:呑舟  投稿日:2012年 3月29日(木)01時53分28秒
  > No.3452[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

妙心寺の案内有り難うございます。

> ・「智勝院」・・三文字が筆文字の字体

 ●こちらが本来の稲葉家伝承の家紋ですね。

> ・「麟祥院」・・三文字が真っ直ぐな字体

 ●こちらは近代修復時に瓦屋さんにお任せで作らせたのでしょうね。
  たぶん筆記体の三文字も真っ直ぐな三も同じと施主(この場合妙心院)は思ったのでしょうね。
  まだ三の真ん中の線が短いですから瓦屋さんも漢数字の三とは認識して作ったのでしょう。
  このようにして「家紋」は変容していくのでしょうね。
  真ん中の三が短くなく、同じ長さにしてしまうと「算木の三」となり
  現在の土居河野家家紋のように変容します。土居家家紋も本来は
  漢数字の三であったものを後の子孫が誤り伝えていったものと思われます。

 「智勝院」は稲葉一鉄の菩提のために子の稲葉貞道が建立しますし、
 「麟祥院」は徳川家光乳母「春日局」のためとか、彼女の子の稲葉正勝の菩提とか言われてますので
 どちらにしろ戦国期の稲葉一鉄の系流となりますね。

 ここで面白いのはこの三文字は同時期の河野宗家牛福通直が使用したとされる。
 「縮」でも「波」でも「揺れ」三文字ではありません。

 となると「縮」でも「波」でも「揺れ」三文字は戦国末期から江戸期に伝播して行ったと
 考えられますね。歴史上一番新しい河野家家紋と考えるのが妥当かもしれません。


> ***
> また、「井伊美術館」という日本唯一の武具専門美術館にも行ってきました。
> 主に井伊家のゆかりの品と、膨大な数の甲冑を展示しており、「折敷三文字」の甲冑が

 ●この、『「折敷三文字」の甲冑』は気になります。

  この「折敷三文字」は「傍折敷三文字」の間違いではないでしょうか?

  折敷は菱形、傍折敷は変形八角形ですが・・・・。

  折敷なら河野家古紋で、傍折敷なら河野家新紋と思われます。
  戦国大名の井伊家ゆかりですから「傍折敷」と思うのですが。

  もし井伊家ゆかりの甲冑であるなら、持ち主の可能性は河野宗家を家督したとする来島通康の
  縁者が井伊家に仕官していますからそこから出た可能性が高いですね。

  説明書はどのように書いてありましたでしょうか?

  来島河野であるなら紋所は稲葉家とは違い「傍折敷縮三文字」紋と思われますが
  そのような紋ではなかったでしょうか?
 

Re:小豆島の桟敷のことは

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 3月28日(水)19時53分57秒
  > No.3461[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

何だか?!^返信がミスったかも?。
小豆島には、備前の国・島・領主佐々木信胤の悲運の古城郭・内海の北方・「星ヶ城」が在るのです。
この城の歴史は、讃岐の国の細川定禅との勢力争いの戦場であり~また・・女人にも深く関わる伝承を田舎歌舞伎の舞台に長き時代を経て地元の方々のご尽力にて保存文化財として現存しております。
毎年庵主もこの桟敷で雨天であっても高い神社の石段の頂上で観ておりますよ!是非ご一緒に 南無
 

shoudoshima

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 3月28日(水)19時41分52秒
  > No.3461[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

> 先の私の2つの投稿で、誤って、記事と関係ないホームページ「井伊美術館」のURLを
> 掲載してしまいました。関係ありませんので無視してください。
> (紛らわしくなり申し訳ありません)
 

訂正

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月27日(火)07時59分45秒
  先の私の2つの投稿で、誤って、記事と関係ないホームページ「井伊美術館」のURLを
掲載してしまいました。関係ありませんので無視してください。
(紛らわしくなり申し訳ありません)
 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月26日(月)21時43分55秒
  > No.3454[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

> 岩崎神社です。小豆島に同じ構造の桟敷が幾つか有ると・・

ご丁寧に解説いただき、ありがとうございました。
目立たない、小さな社ではありますが、知られざることがあって興味深く読ませていただきました。
やはり、河野家の御霊を祀るとともに、おもしろい由来があるのですね。

折敷三文字を、また追ってみたいと思いました。

http://www.ii-museum.jp/

 

Re: 「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月26日(月)21時31分27秒
  > No.3455[元記事へ]

海遊庵主さま

> 讃岐・坂出市宇多津の郷の「郷照寺」さぬき市津田の「光西寺」
> 阿波の国の「勝瑞城と秋月城」

ぜひまた、機会をみつけて各所を訪ねて歩いてみたいと思います。
(勤めの関係もありまして、ぼちぼちにはなろうかと思いますが・・。)


追伸といたしまして、話のタネになるかどうか(?)、参考までに以下の写真もアップします。

・妙心寺館長さんの書籍コーナー(花園会館)
・若一神社の平清盛像

なお、大河ドラマでも紹介ありましたが、道路にはみ出すほど成長した若一神社の楠は圧巻でした。
本当に道がゆがんでいましたので・・。
清盛公が、太政大臣に任ぜられた感謝を込めて植えたとのことです。

ちなみに、この木を工事でどけようとすると、工事関係者に次々と不幸になり工事を断念したとか・・。

http://www.ii-museum.jp/

 

Re: 「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 3月26日(月)11時12分48秒
  > No.3453[元記事へ]

> 北島さんへのお返事です。
>
>ご熱心さに想いを添えて~阿波の国との深き古縁は鎌倉時代の一遍さんの時代から~室町~戦国の時代まで世の移り変遷の渦の中に歴然と、その面影を刻んで居ますから!
さて、讃岐の国の河野氏の家紋を甍や幕や山門に先祖の面影を尊び~永~永と刻む神仏への崇敬の念は全国各所に及んで居るものと庵主のささやかな遊行の日めぐりの日記に綴っております。
その箇所は、鎌倉時代の讃岐・坂出市宇多津の郷の「郷照寺」一遍上人の時宗の古寺と~戦国時代の阿波の国河野氏の面影を継ぐ~さぬき市津田の「光西寺」でしょう!是非機会があれば訪ねてください。
重ねて、阿波~讃岐国の歴史においても。伊予の国・土佐の国に関しても、管領家・四国守護職細川氏との深き因縁が各所~各所にその歴史背景を善きにつけ~悪しき付け関わりの深きついて参ります。
その一環として、阿波の国の「勝瑞城と秋月城」の地元の史跡の書籍の項目をご案内させて頂きますのでご覧下さい。南無(この書物は予めNET上への掲載の主旨を問うて居ります)

 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:今城  投稿日:2012年 3月26日(月)10時54分3秒
  > No.3451[元記事へ]

北島さん

> 湯築城を散策中に、展望台へ登る道の途中に写真の社がありました。
> 祀っている対象は存じませんが・・。

 写真1の石段を登った右手の神社ですね。岩崎神社です。石段の右側は桟敷で、小豆島に同じ構造の桟敷が幾つか有ると聞いています。写真の右下に神社の由緒を記した説明版があります。写真2がその説明版です。
 

Re: 「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:海遊庵主  投稿日:2012年 3月26日(月)08時33分49秒
  > No.3452[元記事へ]

北島さんへのお返事です。

今朝~目が覚める朗報を拝見させていただきました!
北島さまの精力的な行動の敬服し~庵主も真に感動を感じ取っております。
今後共に各所の伊予と讃岐と阿波と土佐の河野氏の史跡探求の遊行を期待しております。南無
 

「折敷三文字」を訪ねて(京都の旅)

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月26日(月)00時58分28秒
  海遊庵主さまの投稿で、阿波の三島神社の写真、特に興味深く拝見いたしました。
というのは、昨日、今日と「折敷三文字」を訪ねて、京都に行ってきたからでして・・。


写真は、妙心寺の「智勝院」と「麟祥院」の屋根瓦の「折敷三文字」です。
稲葉氏の関係のため、屋根瓦にズラーっと並んだ「折敷三文字」は壮観で、嬉しくなって
写真を撮りまくってしまいました。
よく知られていることとは思いますが、一応ご報告を兼ねてご披露いたします。
・「智勝院」・・三文字が筆文字の字体
・「麟祥院」・・三文字が真っ直ぐな字体


また、妙心寺の館長さんは河野家のご子孫とのこと、先日、海遊庵主さまにご教示いただきました。
さすがにお会いすることは無理でしたが、花園会館(ホテル)に著書のコーナーがあり、
本を立ち読みで拝見いたしました。
河野家にはすごいお方がいるもので、やはりお名前に「通」の字があるんですね・・。


***
また、「井伊美術館」という日本唯一の武具専門美術館にも行ってきました。
主に井伊家のゆかりの品と、膨大な数の甲冑を展示しており、「折敷三文字」の甲冑が
2点あることがわかりました。(撮影はできず)
これのゆかりついて、詳しくうかがおうとしたのですが、館長さんが不在だったため、
残念ながらかないませんでした。
また改めて訪ねてみる予定ですので、何かわかればまた、ご報告させていただきます。

http://www.ii-museum.jp/

 

Re: 讃岐の国では~今・・・仏生山

 投稿者:北島  投稿日:2012年 3月25日(日)23時39分2秒
  > No.3431[元記事へ]

今城さんへのお返事です。

いつかまた、松山におじゃましたいと思います。

> > また「折敷三文字」が
> > 森の中の小さな社に今も残っていたのを見つけ、嬉しかったです。
>
>  どこの社でしょうか。

湯築城を散策中に、展望台へ登る道の途中に写真の社がありました。
祀っている対象は存じませんが・・。

 

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