• [0]
  • 自分が善と考えることを中心としない、良心を中心とした共有の場の設定とは?

  • 投稿者:管理人
  • 投稿日:2011年 6月18日(土)17時39分43秒
 
>統一原理を信じる人は、統一原理の示す善が本物の善なのだと信じているわけですが、
それはあくまでその人の信仰の上に成り立つ論理であるということをわきまえることが大切だと思います。

>自分が善と考えることを中心とするのではなく、
「共有できる善」、「共通の目的」、「共感できる理想」をまず設定するべきなのだと思います。


それでは具体的にどのように設定していけばいいのでしょうか?

「公序良俗」に反しないとか、判決文などでは「社会通念」に照らしてなどと言われ判断の基準が国家や政治、時代背景などによって微妙に変わりうる社会に我々は生きているわけです。

原理を学んだ立場から見れば、私はこれこそサタンの策略の一線のようにも感じます。そのような常識から離れたものに対しては反社会というレッテルを貼る根拠にする。

様々な法律を作る際に、「業界・団体の利益」や「保身」などの自己中心性が潜んでいるのも事実で、このあたりは「るいネット」では盛んに意見交換がなされ打開策を見出そうとしているように見えます。


「共有できる善」、「共通の目的」、「共感できる理想」をどのように提示し認識するのか?

「良心のポータルサイト」のめざす、核心部分でもありますので活発な議論をお願いします。

投稿者
題名
*内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
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sage

  • [146]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 9月 1日(木)22時28分2秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

>そうですね。教義が違うだけなら、新興宗教とは言っても、カルトとは言いません。

浄土真宗のなかで、異端だけど社会問題を起こしていない団体があります。

浄土真宗華光会は浄土真宗親鸞会、真流一の会の分派元の団体です。教義が正統派と少し違うけど、特に社会的問題は起こしていません。親鸞会の元幹部が「カルトと言っていいのかどうか微妙な所」と言っていました。統一教会もキリスト教の中で異端と言われているので、統一教会が目指すべき団体かもしれません。

http://homepage3.nifty.com/keko-kai/

教義が異端でも社会問題さえ起こさなければ誰も何も言わないと思います。教義が違うからってうるさい人はいると思いますが、異端であろうが正統派であろうが、「良いものは良い。悪いものは悪い。」です。

>一方、聖書に出てくるモーセの十戒は以下のようなものです。

現統一原理はキリスト教をベースにしているのですよね。そうなると、

2.偶像を造ってはならない。
6.殺してはならない。
9.嘘をついてはならない。

は守れていないのではないでしょうか?

2.偶像を造ってはならない。
統一信者は文鮮明氏の写真を神様として拝んでいる印象を受けるのでに、これに引っ掛かるような気もします。

6.殺してはならない。
「摂理の為の殺人は善」はあり得ないですね。北上君が統一原理を間違えて解釈していることも、モーセの十戒から分かります。

それと、殺してはいけないのは人間だけなのでしょうか?動物も含めると我々は動物を殺して食べてます。「6.殺してはならない。」に引っ掛かります。仏教では「動物を食べるな」と言っているのではなく、「毎日食べてる動物も生命で、生命を殺して食べている自分を自覚しなさい」と説いているのです。

9.嘘をついてはならない。
摂理の為に嘘をつくことは善です。摂理の為に嘘がつけない人は信仰が足りません。

by 北上哲、山いも、ニコライ

「このネタ2回目」と言わないでください。僕は統一原理がキリスト教ベースだから問題が起きると思っていましたが、元のキリスト教でも禁じてるのですね。

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [145]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 9月 1日(木)16時27分22秒
  • 編集済
  • 返信
 
>[142]の件了解です。むしろ私も大歓迎です。

ありがとうございます。

>[140]のコメントはとてもよくまとまっていて分りやすいですね。

ありがとうございます。そういっていただけると嬉しいです。



>「カルト」が敬遠され忌避される理由としては、単に教義的に既存の宗教と対立するということが本質ではなくて、むしろこのような普遍的な徳目の一部をことさらに強調する一方で、別の一部の徳目を一定の理論的正当化のもと敢えて破らせてしまうところにあるのではないかと思います。

そうですね。教義が違うだけなら、新興宗教とは言っても、カルトとは言いません。
暴力や詐称や搾取など個人や社会に被害を与えるようだとカルトと言われます。
そのような団体は、ある徳目を強調する一方で別の徳目を破るような行為を正当化してしまっているわけですね。



>例えば統一教会では
>純潔、節制、勤勉、忍耐は強調される一方で、
>信:信頼すること、偽らないこと
>は軽視されて来なかったか?

その通りだと思います。
統一教会の純潔、節制、勤勉、忍耐はすごいと感心しますが、その一方で、信や誠(うそ、偽りのないこと)を軽視する側面もあったと思います。


>人間として如何にあるべきかという徳目の、洋の東西や宗教の違いを越えた共通要素を模索する議論を是非継続していきましょう。

そうですね。

東西の宗教の戒律にも共通要素は見られますね。


たとえば、先に言及した仏教の五戒は以下のようなものです。

1.不殺生戒:生きものを殺してはならない。
2.不妄語戒:嘘をついてはならない。
3.不偸盗戒:盗んではならない。
4.不邪淫戒:姦淫してはならない。
5.不飲酒戒:酒を飲んではならない。


一方、聖書に出てくるモーセの十戒は以下のようなものです。

1.神以外のものを神としてはならない。
2.偶像を造ってはならない。
3.神の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を守りなさい。
5.父母を敬いなさい。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.嘘をついてはならない。
10.隣人のものをむさぼってはならない。


また、イスラム教のクルアーンに示されている主な戒律は以下のようなものです。

1.神以外のものを神としてはならない。
2.預言者を否定してはならない。
3.神の名において偽りの誓いを立ててはならない。
4.礼拝を怠ってはならない。
5.父母を敬いなさい。
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.嘘をついてはならない。
10.酒を飲んではならない。


このように、東西の宗教は、神への言及の有無を除けば、戒律や教義には共通点がかなりあります。
大雑把に言ってしまえば、宗教の違いとは、孔子、ブッダ、モーセ、イエス、ムハンマドなどの思想家のうちの誰を一番の師匠とするかの違いだと思います。
文鮮明氏を師匠とするのが統一教会ですね。

戦争や魔女狩りや免罪符(贖宥状)販売や霊感商法などの問題を解決すれば、各宗教の目指す方向性や理想というものはかなり一致しているものだと思います。

  • [144]
  • (無題)

  • 投稿者:ENOCKメール
  • 投稿日:2011年 9月 1日(木)12時24分57秒
  • 返信
 
ご無沙汰していました。[142]の件了解です。むしろ私も大歓迎です。

エイドリアンさん

[140]のコメントはとてもよくまとまっていて分りやすいですね。

>このように、東洋でも西洋でも古代から近代にいたるまで人間の持つべき徳目が論じられてきており、空間的・時間的・文化的距離を超えて、そこには一定の共通性が見られるように思います。

私もそう思います。

また、「カルト」が敬遠され忌避される理由としては、単に教義的に既存の宗教と対立するということが本質ではなくて、むしろこのような普遍的な徳目の一部をことさらに強調する一方で、別の一部の徳目を一定の理論的正当化のもと敢えて破らせてしまうところにあるのではないかと思います。

例えば統一教会では
純潔、節制、勤勉、忍耐は強調される一方で、
信:信頼すること、偽らないこと
は軽視されて来なかったか?

というふうに、分析指標としても活用できるかもしれません。

徳目の各種指標が極端に突出することも欠けることもなく、バランスよく保たれた状態が「健全」と評価できるのではないでしょうか。


人間として如何にあるべきかという徳目の、洋の東西や宗教の違いを越えた共通要素を模索する議論を是非継続していきましょう。

http://plaza.rakuten.co.jp/enock


  • [143]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月31日(水)02時13分35秒
  • 返信
 
そうですね。
もしENOCKさんがよろしければお願い致します。
無理にとは言いませんが。

  • [142]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)21時32分4秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

すみません。論文の方はまだ読んでません。

提案ですが、サライさんの掲示板とエイドリアンさんの掲示板もENOCK家庭教会のリンクに入れてもらうのはどうでしょうか。サライさんの掲示板とエイドリアンさんの掲示板には、もっと多くの良識的な食口さんに参加してもらったらいいと思います。ENOCK家庭教会には良識的な食口さんが集まると思うから、サライさんの掲示板とエイドリアンさんの掲示板を知ってもらうには良いと思います。ENOCKさんの同意があればの話ですが。

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [141]
  • (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)19時02分14秒
  • 返信
 
サライさん、掲示板への書き込みありがとうございます。

返信を書いておきましたのでご覧下さい。

http://adrian2011.bbs.fc2.com/



  • [140]
  • Re: 「誠」

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)18時03分4秒
  • 編集済
  • 返信
 
サライさんが紹介してくださった論文では、西洋のキリスト教におけるConscienceと東洋の儒教における良心との共通点や相違点について論じており、日本における良心の最も際立った体現の一つが「誠」(自己や他者に対して誠実であること)であると述べていますね。


論文では良心という言葉を最初に使ったのは孟子であると言っています。孟子は性善説を唱えました。
あらゆる人には善の兆しである、以下の四端の心が先天的に備わっているとする説です。

惻隠:他者の苦境を見過ごせない憐れみの心
羞悪:不正を羞恥する心
辞譲:謙譲の心
是非:善悪を分別する心

ここから仁・義・礼・智の4つの徳が生まれるとされています。


また、儒教ではさらに4つの徳目を加えた、以下の八徳というものも有名ですね。

仁:慈しみを持つこと、愛すること
義:人道に従うこと、道理にかなうこと
礼:礼儀、作法に従うこと
智:物事を知り、善悪を弁えること
信:信頼すること、偽らないこと
忠:心の中に偽りがないこと
孝:父母を敬うこと
悌:兄弟仲良くすること


一方、キリスト教以前の古代西洋世界では、プラトンの著作「国家」などで以下の4元徳が論じられていました。

知恵、勇気、節制、正義


新約聖書の中では御霊の実として以下が述べられています。(ガラテヤ人への手紙5章22節)

愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制


4世紀のスペインの詩人クレメンスは「プシュコマキア」という詩の中で7つの徳を詠いました。

純潔、節制、慈愛、勤勉、慈悲、忍耐、謙譲


これらは、6世紀のローマ教皇グレゴリウス一世による7つの大罪(枢要罪)の対比にもなっています。

色欲、暴食、強欲、怠惰、憤怒、嫉妬、傲慢


アメリカ合衆国の独立に貢献したベンジャミン・フランクリンの13徳も有名ですね。

節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙譲


このように、東洋でも西洋でも古代から近代にいたるまで人間の持つべき徳目が論じられてきており、空間的・時間的・文化的距離を超えて、そこには一定の共通性が見られるように思います。

「共有できる善」、「共通の目的」、「共感できる理想」というのは、そのあたりにあるのではないでしょうか。

「誠」というのもその表現の一つだと思います。

  • [139]
  • 「誠」

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)09時15分53秒
  • 返信
 
このスレッドのテーマは
「自分が善と考えることを中心としない、良心を中心とした共有の場の設定とは」

分かるよう分からないようなタイトルですが

先の論文を読んでみると

「共有できる善」、「共通の目的」、「共感できる理想」

は、 「誠」 かな?

と思うようになりました。



  • [138]
  • 良心と福音--誠によるインカルチュレーション

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)08時59分36秒
  • 返信
 
先の論文の結論

「良心は、人格的存在としての人間の深奥に生得的に刻み込まれている。それは存在論的に人間存在を根拠づけ、倫理的に人格の成長を促す。「善をなし悪を退けよ」--これは私たちに対する良心の要請である。良心はただ単に、正・不正や善悪の識別・判断に尽きるものではない。むしろ人間が人間として生きるための根本的あり方を開示してくれる。それゆえ良心において人間は、自らの究極的な根源(神)の声を聴きそれと語り合うことができる。この神との人格的関係が人倫的関係の根拠をなす。誠は良心の最も際立った体現の一つである。この誠を通して良心の深い意味に立ち帰るならば、私たちはまた日本の福音化・インカルチュレーションの新たな可能性を見出すことができる。福音が由来するのは神の愛であり、福音が向かうのは隣人への愛である。神の愛は他者への愛において体現されなければならない。この真実は一人キリスト教のみに制限されるものではない。むしろそれは、あらゆる人々に投げかけられている招きである。」


みごとに良心と神を結び付けてくれたと感じます。

特に日本において創造主を聖書を根拠として説こうとしてもかなりギャップを感じるのはクリスチャンといえども我々と同じ課題を抱えていることは自明です。

「・・この誠を通して良心の深い意味に立ち帰るならば・・」
はまさに私が考える方向と一致している。


本文に
「キリスト教において、コンシャンスは直接神の声ではない。むしろそれは、神の声を聴きそれに応えるための、人間の深奥にある実存的な場である。」

とあり、原理と矛盾しないと思いますがいかがでしょうか?



  • [137]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)05時35分1秒
  • 返信
 
エイドリアンさん
チェ・サンウさん

ご理解ありがとうございます


  • [136]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月30日(火)00時08分50秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

>そうですね。

ありがとうございます。

>サライさんは何を提示されたから統一原理を信じるようになったのか?

真理と感じさせた何かがあったわけですよね。サライさんは、それをはっきりさせた方がいいと思います。そして、統一原理の中で真理と感じさせたものの説得力を、他の思想の説得力と比べたら面白いと思います。思想の説得力は僕のサイトで扱います。

>エイドリアンさんの〔126〕のような質問に対してはサンウさんの掲示板がふさわしいと思いますが、いかがでしょうか?
今後はそちらで議論したいのですがよろしいでしょうか?
サンウ さんがOKしてくだされば、そちらでやりましょう。
でなければ、ご自分で掲示板を立ち上げるなり、適当な場を提供ください。

O.Kです。議論用のスレを立てました。

http://choisangwoo.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=4100859

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [135]
  • (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)18時44分20秒
  • 編集済
  • 返信
 
サライさんの目的は統一教会の改革ではなかったのですか?

統一教会の改革について話し合うのに、統一教会の問題点について触れてはいけないというのはおかしいのでは?

問題があるから改革するわけでしょう?

サライさんは統一教会の何を改革したいのですか?

  • [134]
  • (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)18時39分48秒
  • 返信
 
これはサライさんの言葉です。

>信じない人をどのように信じさせるか?
>これが大問題です。今も昔も。

>お金でしょうか 女でしょうか 権力や法律でしょうか
>暴力や軍事力でしょうか 理論や研究データでしょうか

>何を提示されれば人は信じるようになるのでしょうか?


これは私も興味あります。

何を提示されれば統一原理を信じるようになるのか?

信じない人をどのように信じさせるのか?

私の問いはサライさんの問いと同じなのです。

サライさんは何を提示されたから統一原理を信じるようになったのか?

お答えお待ちしています。

http://adrian2011.bbs.fc2.com/





  • [133]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)17時05分37秒
  • 編集済
  • 返信
 
>●どうして真理と感じたのか
>●統一原理のどこを真理と感じたのか

>自分の心を内省する必要があります。エイドリアンさんが言う通り、内省して統一原理を信じた理由を知れば統一原理を共有するための方策も見えてくるかもしれません。

そうですね。




サライさんが統一教会や統一原理についてはここでは話したくないというので、


○神を信じない人でも共有できる統一原理(初期仏教的統一原理)とは?

○霊感商法などの統一教会の諸問題を解決するためには?

○統一原理を信じるようになった理由は?


こうした話題に関して、

http://adrian2011.bbs.fc2.com/

こちらのスレッドで引き続き話し合いましょう。

お待ちしています。



  • [132]
  • 本当に議論したいのはこのへんです

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)09時32分4秒
  • 返信
 
「良心と福音--誠によるインカルチュレーション」
http://ci.nii.ac.jp/naid/110001039525

食口の皆さん、この論文をお読み下さい。

このサイトの目的と方向性に一致しています。

感想・ご意見お待ちしています。




  • [131]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月29日(月)05時33分39秒
  • 返信
 
チェ・サンウさん

エイドリアンさんの〔126〕のような質問に対してはサンウさんの掲示板がふさわしいと思いますが、いかがでしょうか?

今後はそちらで議論したいのですがよろしいでしょうか?



エイドリアンさん

統一教会の諸問題に関すること、統一原理に関することについては、これ以上この掲示板でお答えするつもりはありませんのであしからず。

サンウ さんがOKしてくだされば、そちらでやりましょう。
でなければ、ご自分で掲示板を立ち上げるなり、適当な場を提供ください。





  • [130]
  • Re: エイドリアンさんへ

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月28日(日)20時34分40秒
  • 返信
 
横レス失礼します。

サライさん、エイドリアンさん

>サライさんは何の理由もなく、誘われるまま、薦められるままに、なんとなく統一原理を信じてしまったということですか?

サライさんは統一原理を真理と感じたから信じているのですよね。エイドリアンさんの質問は感情面に関することだから回答は難しいと思います。だから、ここは、

●どうして真理と感じたのか
●統一原理のどこを真理と感じたのか

自分の心を内省する必要があります。エイドリアンさんが言う通り、内省して統一原理を信じた理由を知れば統一原理を共有するための方策も見えてくるかもしれません。

>ですから、統一原理を信じた理由を知ることにより、統一原理を共有するための方策も見えてくる可能性があります。

僕はサライさんが統一原理を信じた理由を知っても、現段階の統一原理は信じたくありません。摂理の為に逮捕される覚悟や人を殺す覚悟はありません。それに結婚相手を無理やり決められたらたまったものではありません。

>ただその場合、神を信じていない人にとっては、統一原理は説得力のないおとぎ話のようなものに過ぎないということです。分かりますよね?

そうですね。無神教ならば神を信じていない人にも受け入れられると思います。僕も時々生活の中で「神様っているんじゃないか」って思うこともあります。でも、客観的には、いるかどうかは分からない。だから、僕の神観は無神教的だと思っています。

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [129]
  • Re: エイドリアンさんへ

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月28日(日)02時01分57秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>私は神の存在を前提としない統一原理がどのようなものか、理論だけでも示してほしいと言ったのです。

>これは、心の存在を前提としないで人間を説明せよと言われているに等しいと思います。
>体の構造や臓器の働きを示したところで「人間」を示したことにはならないのではないでしょうか?

>「心」の存在を理論的に証明できますか?
>もし証明しようとすれば、脳や臓器などに起こる反応というものを前提にしなければ難しいでしょう?

人間を説明するには、心も説明すれば良いでしょう。
サライさんは知識や感情や意志を持っていませんか?持っているでしょう。それが心です。
脳や臓器の反応を使えばより客観的に証明できます。


それで、サライさんの意見は、統一原理における神の存在は人間における心のようなものである、つまり、統一原理には神の存在が不可欠であるということですね。




>エイドリアンさんが示した発明や発見は「体」に関する部分ばかりだとは思いませんか?もっと言えば優れた理論や真理の発見は、神様の体にあたる一部分を発見、利用、法則を証明したと言うことになると言えます。

相対性理論やトランジスタやDNAは、それぞれ物理学や電子工学や生物化学の分野の発見、発明です。
宇宙の一部分を発見、利用したと言うことはできますが、神は存在すら証明できないので、神の体の一部分であるということは証明できません。
それとも、サライさんなら証明できるとか?ならば、どうぞ証明してください。



統一原理が優れた理論や真理の発見ならば、どうして世界の0.001未満の人にしか受け入れられていないのでしょうか?



>原理は、物質と精神は統一されていて、別々ではなく一つだと言っているのです。

既に説明したように、私も物質と精神は別々ではないと言っています。
もう、お忘れになられましたか?


>まあ、「神」という概念自体がこれまでのパラダイムと違うということに気づいてほしいわけです。
>超越的神ではなく内在的「存在」であり、神と人間との「関係」は主体と対象の相対的関係という理論です。

では、どのようなパラダイムなのか分かりやすく説明してください。
「心の中にいる神様」であれば、それは新しくもなんともありません。




>>サライさんが、統一原理を信じた理由は何ですか?

>やっぱりこういう方向に行きたいのですね。

こういう方向とは?

統一原理を中心とした価値観を共有するためには統一原理を信じてもらうのが一番の近道です。
実際、サライさんは統一原理を信じたのですよね?
ですから、統一原理を信じた理由を知ることにより、統一原理を共有するための方策も見えてくる可能性があります。

ENOCKさんには以前、統一原理を信じるようになった過程をお聞きして、丁寧に答えていただきました。
サライさんは、答えられませんか?

サライさんは何の理由もなく、誘われるまま、薦められるままに、なんとなく統一原理を信じてしまったということですか?



神の存在を前提としない統一原理については、私だけでなく、サンウさんやENOCKさんも興味を持ってくださっていますが、サライさんは統一原理は神の存在抜きには成立しないとお考えなのですね。
それならばそれで構いません。
ただその場合、神を信じていない人にとっては、統一原理は説得力のないおとぎ話のようなものに過ぎないということです。分かりますよね?



さて、統一教会は霊感商法などの問題を解決しない限り犯罪集団だと言われても仕方ありません。
一日、数百万円以上のペースで被害が生まれています。
可及的速やかに問題を解決することが、社会のためでもあり、食口のためでもあります。
良心のある食口はまだ見つかりませんか?

  • [128]
  • Re: エイドリアンさんへ

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)22時49分22秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

>私は神の存在を前提としない統一原理がどのようなものか、理論だけでも示してほしいと言ったのです。

横レス失礼します。無神教というのはどうでしょうか?無神教は生活の中で共にいる神様です。サライさんとENOCKさんの神観は無神教ですよね。

それで、神の存在を前提としない場合は、「その神が宇宙を作った」とか「人間を作った」とは考えないことです。ただただ、生活の中に神様がいる。宇宙、人間は誰が作ったのかは「分からない」とするのです。

そもそも統一原理で言う二性性相も例外があるから、神様が二性性相とは言えません。それに、キリスト教の神様が統一原理の神様なら、創世記1章と2章では人間と動物が作られた順番が違うから信用できません。

霊感商法等の社会問題の他にも、このような神様を信じているから「統一原理はデタラメ」と言われるのです。だから、キリスト教の神様も二性性相の神様も棄てて、「分からないものは分からない」として、ただ、生活の中で感じる神様だけを信じるのです。

神様を像か何かにして祭ることも御法度です。文鮮明氏の写真を神様とすることも無神教ではありません。

神の存在を前提としないには反しますが、このような無神教ならば神の存在を前提としない統一原理に近い統一原理ができると思います。

>サンウさんのお許しが出ればサンウさんの掲示板でお答えしてもいいですよ・・と言うか以前散々答えてきたように記憶しています。

O.Kです。活発な議論をしてください。エイドリアンさんも以前のようなことが無ければ書き込みO.Kです。論文で少し忙しいのですが、管理はします。

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [127]
  • エイドリアンさんへ

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)21時12分21秒
  • 返信
 
>私は神の存在を前提としない統一原理がどのようなものか、理論だけでも示してほしいと言ったのです。

これは、心の存在を前提としないで人間を説明せよと言われているに等しいと思います。
体の構造や臓器の働きを示したところで「人間」を示したことにはならないのではないでしょうか?


エイドリアンさんは「心」の存在は否定しませんでしたが
「心」の存在を理論的に証明できますか?
もし証明しようとすれば、脳や臓器などに起こる反応というものを前提にしなければ難しいでしょう?それと同じです。


エイドリアンさんが示した発明や発見は「体」に関する部分ばかりだとは思いませんか?もっと言えば優れた理論や真理の発見は、神様の体にあたる一部分を発見、利用、法則を証明したと言うことになると言えます。

原理は、物質と精神は統一されていて、別々ではなく一つだと言っているのです。

まあ、「神」という概念自体がこれまでのパラダイムと違うということに気づいてほしいわけです。
超越的神ではなく内在的「存在」であり、神と人間との「関係」は主体と対象の相対的関係という理論です。



>統一教会の霊感商法に携わっている部署の人たちは全部で何人くらいいるのでしょうか?
世界を変えようと思うなら、まず手始めにその問題を解決してみるのも良いですね。
そんな問題すら解決できないなら、世界を変えることなど到底無理です。

>しかし、実際には統一教会の信者数は公式発表を信じるとしても世界で150万人しかいません。世界のわずか0.001未満の人々しか受け入れていないのです。これはおそらくUFOを信じる人よりもはるかに少ないでしょう。

>サライさんが、統一原理を信じた理由は何ですか?


やっぱりこういう方向に行きたいのですね。

どこか他の掲示板でもご紹介下さい。
サンウさんのお許しが出ればサンウさんの掲示板でお答えしてもいいですよ・・と言うか以前散々答えてきたように記憶しています。




  • [126]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)11時33分59秒
  • 返信
 
アインシュタインの相対性理論は世界を驚かせました。それまでの世界観を根底から覆すものだったからです。その理論は今や世界中に知られ、実際に利用されています。例えば、原子力発電もそうです。
ショックレーらによるトランジスタの発明も世界を大きく変えました。電子機器もコンピュータもトランジスタなしにはありえず、現代の情報社会の礎となっています。この掲示板もそうです。
ワトソン・クリックによるDNAの発見も世界に衝撃を与えました。現代の医療やバイオテクノロジーは彼らの功績の上に成り立っています。

優れた理論や真理の発見は、このように世界に多大な影響を与えるものです。
ましてや今はインターネットによる世界レベルでの情報発信が非常に簡単にできる時代です。
統一原理も本当に素晴らしい理論なのであれば、もっと世界に影響を与えても良いのではないでしょうか?

しかし、実際には統一教会の信者数は公式発表を信じるとしても世界で150万人しかいません。世界のわずか0.001未満の人々しか受け入れていないのです。これはおそらくUFOを信じる人よりもはるかに少ないでしょう。

サライさんが、統一原理を信じた理由は何ですか?

  • [125]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)11時06分4秒
  • 返信
 
> これは、前にも少し触れましたが、原理で言われる、個人・家庭が現れ具体的な国が実現するしかないと思います。
>
> 結局、思想・信条を言葉で伝えても限界があり、「信じる」と言うことが必要になるわけです。

私は神の存在を前提としない統一原理がどのようなものか、理論だけでも示してほしいと言ったのです。
信じるかどうかは関係ありません。
言葉(ロゴス)によっても示すことは不可能ですか?

サンウさんによれば、仏教は「信じる」ことなくしても機能するようです。
私は神の存在を前提としない統一原理があれば、ぜひ学びたいのですけどね。
結局、そんなものは作れないということでしょうか。
良心によって理想を作っていくなら統一原理は必要ありませんよね。



> 米心理学者マズローは、人間の基本的欲求を5段階に分けてその欲求を説明しています。
> マーケティング業界では有名な理論です
>
> これは自己実現に向かう心の志向性を段階的に示しているわけですが
>
> これを「良心」に置き換えて段階的に示すことによって良心の働きを客観的に認め合うことができるのではないかと思うのです。

マズローの欲求段階説はマーケティング業界に限らず有名ですよ。
心理学の初歩ですから。
しかもそれはただの仮説に過ぎません。


> 先日コメントしたように内部告発に対しても、告発者の良心をくんで後押ししたり、代弁をしていく。そうゆう良心の団結と発信をしていくことによって「力」をもつことができれば「良心を大切にする」ことができるのではないでしょうか?

良心の団結と発信ができれば良いですね。
いきなり世界60億人を変えることは難しいでしょうから、まずはもっと小さな集団を対象にするのが良いでしょう。

統一教会の霊感商法に携わっている部署の人たちは全部で何人くらいいるのでしょうか?
世界を変えようと思うなら、まず手始めにその問題を解決してみるのも良いですね。
そんな問題すら解決できないなら、世界を変えることなど到底無理です。

先ず隗より始めよです。

  • [124]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)07時21分50秒
  • 返信
 
>神の存在を前提としない統一原理を早く示して頂きたいものです。

これは、前にも少し触れましたが、原理で言われる、個人・家庭が現れ具体的な国が実現するしかないと思います。

結局、思想・信条を言葉で伝えても限界があり、「信じる」と言うことが必要になるわけです。

しかし、そのような国で暮らした人にはもはや、「信じる」ではなく「感じる」ようになり、原理や神を伝える必要はないわけです。


私は、そのような国が実現されていく道筋を考える時

「良心」と言うものは万民が共通に持ち合わせ、善の方向を指し示す指標になり、目に見えないけれどその存在を確実に「感じる」ものであろうと考えたのです。


>良心にいろいろな形があるとは言っても、基本的な部分は似通っているのではないかと思います。
人々がその良心をもっと大切にできれば、犯罪や戦争は減るかもしれません。

エイドリアンさんが言われる上記の部分をもう少し深めて行けば良いのではないかと思います。


基本的な部分とはなにか?

>人々がその良心をもっと大切にできれば

大切にするにはどうすれば良いのか?

ということを具体的に考えて行くことが必要だろうと思っています。


たとえば、いまアイディアとしてあるのは

米心理学者マズローは、人間の基本的欲求を5段階に分けてその欲求を説明しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
マーケティング業界では有名な理論です

これは自己実現に向かう心の志向性を段階的に示しているわけですが

これを「良心」に置き換えて段階的に示すことによって良心の働きを客観的に認め合うことができるのではないかと思うのです。

また

良心をもっと大切にするには

上記の共通認識が確立すればそれを土台に

一人一人の良心の叫びを拾い上げ、分析し、一つの総意として情報発信や糾弾していくオンブズマン的なコミュニティを創り上げれば良いのではないかと思います。(世の中には本当に良心的活動をしているところがありますが、力がないというのが現実ではないかと思います、そのような個人・団体が糾合できる場をつくることも重要ではないかと思います)

先日コメントしたように内部告発に対しても、告発者の良心をくんで後押ししたり、代弁をしていく。そうゆう良心の団結と発信をしていくことによって「力」をもつことができれば「良心を大切にする」ことができるのではないでしょうか?



  • [123]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)14時51分4秒
  • 返信
 
良心にいろいろな形があるとは言っても、基本的な部分は似通っているのではないかと思います。
人々がその良心をもっと大切にできれば、犯罪や戦争は減るかもしれません。


統一教会の信者は統一原理は素晴らしいものだと言います。

近代以降、神を信じない人は増えています。科学が目覚ましい発展を遂げる一方、神はその存在すら証明できないのですから当たり前です。

神の存在を前提とした統一原理では、神を信じない人々には説得力がありません。神の存在を前提としない統一原理であれば、それはより多くの人々に受け入れられることができます。

神の存在を前提としない統一原理を早く示して頂きたいものです。

  • [122]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)14時35分48秒
  • 返信
 
>幸福だと思う状態がさまざまであれば、平和や理想という言葉は現実性に乏しく、いつまでたってもそういう状態は生まれないのではないでしょうか?

人には好みがありますから、幸福だと思う状態を一つに揃えることはできないと思います。
山に住みたい人は山に住めば良いし、海に住みたい人は海に住めば良く、和食が好きな人は和食を食べれば良いし、洋食が好きな人は洋食を食べれば良いのです。

そのように人に迷惑や危害を与えない範囲で自由にやれば良いわけです。
他人と利害関係が衝突したときには、暴力ではなく話し合いによって解決するべきで、話し合いによる解決が難しいときは裁判を利用すれば良いと思います。

政治的な利害の衝突においても、暴力ではなく選挙によって解決することが望ましいので、選挙制度の確立が大切になります。そのためには、独裁政権を終わらせて民主政治を確立する必要があるので、今回のアラブ諸国の騒乱はその過程という側面もあるかもしれません。

共産主義も、それ自体は悪ではないと思います。
聖書に出てくる教会では、皆が財産を出しあって平和に生活していました。

共産圏の不幸の原因は、スターリンや毛沢東による独裁、知識人の粛清、農業計画の失敗、労働者の意欲の低下、官僚のモラルの低下などが直接的な原因だろうと思います。

資本主義国にも問題は多いです。
先進国の経済的植民地となっているアフリカ諸国もいまだ貧困に喘いでいます。


さまざまな価値観があるこの世界で、平和や幸福を実現するにはどうすれば良いとサライさんはお考えですか?

他の皆さんはいかがでしょうか。

  • [121]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)13時34分23秒
  • 返信
 
>平和や理想という言葉は現実性に乏しく、いつまでたってもそういう状態は生まれないのではないでしょうか?

> ある基準の平和が実現したと思ったら新たな不幸の種が芽を出してくる。
> 我々は、東西冷戦が終結すれば平和が訪れると思っていましたが時が過ぎてみれば、また深刻な事態が世界各地で勃発していますね。

一難去ってまた一難ともいうように、人の人生も、人類の歴史も、その時々にさまざまな問題が起きてくるものです。

病気、災害、事故、争い、飢餓、抑圧、搾取、犯罪、などさまざまな問題が起こり、それに対して、医療技術、科学技術、交通ルール、法律、農業技術、経済学、政治制度、革命、警察、司法などにより、問題の改善や克服が成されてきたわけです。

ある日を境に理想世界が達成され、その日以降は争いも病気も怪我も災害もなくなるなどということは、まさに絵にかいた餅だと思います。

現実的には、その時々に起こりうる問題に対して、対処し学んでいく努力を続けることが大切であると思います。

病気にはさまざま種類があり、その一つ一つに対して治療法を確立していく必要があるように、社会も「これひとつで全ての社会問題が解決できるよ」などという単純なものではなく、解決のためには一つ一つの問題に向き合っていく努力も必要だと思います。

宗教というのもその努力の一環であったと思います。
殺すな、盗むな、姦淫するな、嘘をつくななどと、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも仏教でも教えられてきたのはそういうことだと思いますし、愛や慈悲の大切さをキリスト教や仏教が教えてきたのもそうだと思います。

しかし、逆にさまざな宗教団体による社会問題も繰り返されてきたのも事実で、現在も進行中です。その一つ一つの問題に対しても、きちんと向き合って対処していく努力が必要であると思います。

統一教会の霊感商法も非常に大きな問題です。
内部からしかそれを止められないとのことですので、良識的な信者さんたちに立ち上がってもらいたいものです。

  • [120]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)12時56分11秒
  • 返信
 
> お二人の結論は結果が「幸福」になるか否かが善悪を規定し良心も規定していると・・

そうですね。
私は、結果が不幸なら善とは言えませんし、結果が幸福なら悪と言う必要はないと思います。
善を指向する心の働きを良心と定義するなら、良心も結果が幸福であるかによって規程されることになるでしょう。
生まれつき人間が持っている憐れみや愛情や正義感のようなものを良心と呼ぶとしても、結局、何が愛なのか、何が正義なのかという話になり、その具体的内容は時代や文化や対象となる人によって変わりうるものかもしれません。

しかし、社会のルールにおいては混乱を避けるために公平な一定の規準を設けなくてはなりませんから、法律や団体の規則においては、あらかじめ何をしたらどんなペナルティを受けるということを規程することも必要になるわけです。


>幸福だと思う状態というものも人それぞれで不確定だと思うのですがいかがでしょうか?

もちろん具体的には人それぞれでしょうね。


> 幸福だと思う状態がさまざまであれば、平和や理想という言葉は現実性に乏しく、いつまでたってもそういう状態は生まれないのではないでしょうか?

幸福の形がさまざまであっても、不幸を減らし幸福を増やす努力はできると思います。
むしろ、「これが幸福だ!」と一方的に決めつけてそれを他人に押し付けることは争いの元になると思います。
いろいらな価値観を尊重することが大切です。
私が統一教会の信者に対して脱会しろ解散しろと言わないのもそのためです。


サライさんは、いつまでたっても平和の実現は不可能だと思いますか?


> 我々は、東西冷戦が終結すれば平和が訪れると思っていましたが時が過ぎてみれば、また深刻な事態が世界各地で勃発していますね。リビアはどうなるのでしょう?

統一教会の人は東西冷戦が終結すれば平和になると思っていたのですか?

リビアはしばらく混乱が続くでしょう。
その後、民主主義政権が生まれるのか、別の独裁者が生まれるのか、イスラム原理主義者や欧米がどれくらいの影響力を持つようになるのか、石油利権が誰の手に渡るのかなどは、まだ分かりませんね。

  • [119]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)07時41分51秒
  • 返信
 
エイドリアン さん チェ・サンウさん

お二人の意見は以下のように結論付けてよいですか?

>何を基準に善悪を判断するかですね。「良心」と言っても10人いれば10通りの良心があると思います。

>皆が幸福になれるのなら嘘も善となり、不幸になる人がいるのなら悪になると思います。


お二人の結論は結果が「幸福」になるか否かが善悪を規定し良心も規定していると・・

それでは、幸福だと思う状態というものも人それぞれで不確定だと思うのですがいかがでしょうか?サンウさんは、「都合の良い状態」と言う言葉で表現しますが、この幸福だと思う状態がさまざまであれば、平和や理想という言葉は現実性に乏しく、いつまでたってもそういう状態は生まれないのではないでしょうか?

ある基準の平和が実現したと思ったら新たな不幸の種が芽を出してくる。
我々は、東西冷戦が終結すれば平和が訪れると思っていましたが時が過ぎてみれば、また深刻な事態が世界各地で勃発していますね。リビアはどうなるのでしょう?

いかがですか?



  • [118]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月25日(木)10時21分18秒
  • 返信
 
>良識的な食口さんが書き込んでくるといいですね。僕は統一教会に反対していますが、問題さえおこさなければ何も言いません。信教の自由です。

>サライさん、ENOCKさんと議論していて統一教会による問題を無くすためには、統一教会を潰そうとするのではなく良識的な食口さんと共に統一教会による問題を無くすにはどうしたら良いかを議論した方が建設的だと思いました。

そうですね。
私も統一教会が霊感商法などの問題を起こさなければどんな教義であれ活動して良いと思います。
しかし、毎年数十億円の霊感商法被害を出している現状では、反社会的集団やカルトと言われても仕方ないと思います。
霊感商法などの問題点を無くすことは、社会のためでもあるし、食口のためでもあります。
良識的な食口さんがたくさん集ってくださることを願います。


  • [117]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)23時20分40秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

>その通りですね。
厳密にいえば、嘘をつくこと自体は善でも悪でもなく、嘘をついた意図や結果が問題なのではないかと思います。
嘘をついた結果、皆が幸福になれるのなら嘘も善となり、不幸になる人がいるのなら悪になると思います。

ありがとうございます。

>結果を何処まで見るか?いつまで見るかと言う基準は何かありますか?

特に基準については考えていません。でも、あえて言うなら、期間はいつまでということはなく、目的の現実性だと思います。

例えば、「摂理の為の嘘は善」については、「摂理」そのものは客観性が無いため信じるか信じないかの問題で、現実性がありません。摂理が本当かどうかも分からないのに、嘘をつくことには問題があります。本当かどうかも分からない摂理の為に殺されたらたまったものではありません。

>エイドリアンさんやチェサンウさんには申し訳ないですが、当初このサイトの対象は食口を想定していました、その後に一般の人にアプローチしていこうと計画していたのですが、何を恐れているのか食口の書き込みがあまりありませんね。良心が叫んでいる食口が集まることを望んでいます。これから少し宣伝して行こうと思います。

良識的な食口さんが書き込んでくるといいですね。僕は統一教会に反対していますが、問題さえおこさなければ何も言いません。信教の自由です。

サライさん、ENOCKさんと議論していて統一教会による問題を無くすためには、統一教会を潰そうとするのではなく良識的な食口さんと共に統一教会による問題を無くすにはどうしたら良いかを議論した方が建設的だと思いました。

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [116]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)20時14分35秒
  • 編集済
  • 返信
 
>原発問題と統一教会問題が似ているなと思っているとは
>以下のようにです。

>原発(原子力)=原理(愛)
>原発技術者・管理者=統一教会信徒

>という関係ではないかと思っています。

そうですね。
原子力自体は善でも悪でもないけれど、扱う人間次第で善にも悪にもなります。
包丁も自動車もインターネットもそうですね。

統一原理も扱う人間次第で善にも悪にもなるのでしょう。



>我々が伝道しようとする動機は、統一教会という団体に入ってもらうことではなく、メシヤを通じて幸せになってほしいと言うものです。
>私は今も統一教会が問題の多い団体だと認識していますが、原理を伝えメシヤを信じてもらうようアプローチすることに良心の呵責は感じません。
>そういう意味で自己矛盾で悩んでいるともいえます。教会に問題がないにこした事はありません。
>簡単に言えば、原発の安全性を過信して大災害を引き起こした原発推進者たちが、倫理的にも、技術的にも未熟だったように
>統一教会信者も未熟だったということです。

そうでしょうね。

実際、統一原理はすごい力があると思います。
真夏の暑い日に朝から晩まで駅前で勧誘している信者を見かけますし、
マイクロバスに餃子寝しながら珍味やハンカチを売り歩いたりするのも大変だなと思います。
1000億円もの霊感商法被害を出すことは、やろうと思っても簡単にできることではありません。
それほど力を持っている統一原理だからこそ、その扱いには高度な倫理性が要求されるのでしょう。

原発推進者の倫理性が不十分であれば原発を推進するべきではないように、
統一原理推進者の倫理性が不十分であれば統一原理を推進するべきではないのでしょうね。



>食口の書き込みがあまりありませんね。良心が叫んでいる食口が集まることを望んでいます。

そうですね。

  • [115]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)19時28分39秒
  • 返信
 
エイドリアンさん 分析ありがとうございます。

話しはスレから少しそれますが

原発問題と統一教会問題が似ているなと思っているとは
以下のようにです。


原発(原子力)=原理(愛)

原発技術者・管理者=統一教会信徒


という関係ではないかと思っています。


原子力自体は、善でもなく悪でもありません

扱う人間の動機しだいで、爆弾にもなれば、有益なエネルギーにもなります。

また、原理も動機しだいで、人間を不幸にもするし、幸福にもする

原理を利用して人間を破滅に追い込むのがサタンで
幸福に導こうとするのがメシヤです。・・・これは理解できないでしょうけど(^_^;)


また、もうひとつ

我々が伝道しようとする動機は、統一教会という団体に入ってもらうことではなく、メシヤを通じて幸せになってほしいと言うものです。
私は今も統一教会が問題の多い団体だと認識していますが、原理を伝えメシヤを信じてもらうようアプローチすることに良心の呵責は感じません。
そういう意味で自己矛盾で悩んでいるともいえます。教会に問題がないにこした事はありません。

簡単に言えば、原発の安全性を過信して大災害を引き起こした原発推進者たちが、倫理的にも、技術的にも未熟だったように

統一教会信者も未熟だったということです。

しかし、これは政治・経済・医療・福祉などあらゆる分野でその危険性は潜んでいるのであって、第二第三の原発事故は明日にでも起こりうる。そういえば島田伸介が突然芸能界引退しましたね、いつも偉そうなことを言ってましたが・・


様々な業界・領域で明日起こるかもしれない不幸に対して「良心」はもっと力を発揮すべきではないかという気持ちです。

原発も今日まで来る間に様々な嘘や歪曲があったはずで「良心」はブレーキをかけ続けてきたと思うんです。関係者一人一人に。

統一教会にも、いまだに暴走責任者がいます、信徒も一般人も不幸に陥れるようなことを平気でやる人が。

エイドリアンさんやチェサンウさんには申し訳ないですが、当初このサイトの対象は食口を想定していました、その後に一般の人にアプローチしていこうと計画していたのですが、何を恐れているのか食口の書き込みがあまりありませんね。良心が叫んでいる食口が集まることを望んでいます。これから少し宣伝して行こうと思います。



  • [114]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)14時38分0秒
  • 返信
 
サライさん


>このような不幸を招く結果を見たのは数十年たってからと言うことになるわけです。

>このことは、統一教会問題ととても似ているなと私は感じています。

>良心は何処にあったのか?良心はいかに捻じ曲げられてきたのか?
>と 問わざるを得ないのです。


原発の安全性を心の底から信じ切っていた人は、原発推進に良心の呵責を感じなかったでしょう。
原発の危険性を認識していた人は、原発推進に少なからず良心の呵責を感じていたことでしょう。

同じように、

統一教会を問題の無い団体だと信じ切っていた人は、統一教会への勧誘に良心の呵責を感じなかったでしょう。
統一教会を問題の多い団体だと認識していた人は、統一教会への勧誘に少なからず良心の呵責を感じていたことでしょう。

また、統一教会が良い団体だと思っていても、嘘をつくことは良くないことだと思っている人は、嘘をついて勧誘することに良心の呵責を感じることもあったのではないでしょうか。


  • [113]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)14時37分18秒
  • 返信
 
サンウさん


>嘘をつくこと自体には善も悪もないと思います。

>結果、皆が幸福になれるのなら嘘も善となり、不幸になる人がいるのなら悪になると思います。
>嘘が善か悪かは、その嘘の結果を問題にするべきだと思います。

>「嘘には善も悪もない」という発想が大事です。嘘をついた結果を問題にするべきだと思います。

その通りですね。

モーセの十戒には「あなたは隣人について、偽証してはならない」とあり(出エジプト20:16、申命記5:20)、
仏教の五戒にも不妄語戒(嘘をついてはならない)がありますが、
厳密にいえば、嘘をつくこと自体は善でも悪でもなく、嘘をついた意図や結果が問題なのではないかと思います。
嘘をついた結果、皆が幸福になれるのなら嘘も善となり、不幸になる人がいるのなら悪になると思います。



>正体隠しの勧誘が善か悪かは、結果的に騙されて良かった人と不幸になった人がいます。
>ENOCKさんにとっては、正体隠しの勧誘が良かったわけです。
>でも、正体を隠した勧誘を受けて不幸になる人がいる問題は何とかしなければいけません。

これもその通りだと思います。

正体隠しの勧誘を受けて、良かったと思える人もいれば、悪かったと思う人もいるわけです。
正体隠しの勧誘を受けた人全員が良かったと思えるならば、正体隠しの勧誘は善といえるかもしれませんが、
実際には正体隠しの勧誘を受けて悪かったと思う人も多いのですから、正体隠しの勧誘は悪の部分も大きいということになると思います。

また、勧誘を受けた本人が悪かったと思っていなくても、正体隠し勧誘された結果、統一教会に入信し、さらには霊感商法を手を染めてしまったとすれば、
長い目で見たときに、正体隠しの勧誘は悪だったということになると思います。
霊感商法で有名な統一教会であると最初から分かっていれば、そういう団体と関係を持たないように最初から勧誘を断るという選択もできたからです。




>統一教会に入信させても、その人が幸福になれる確信が無いからなのではないでしょうか?サライさんも感じているように現在の統一教会は問題を起こしていて、入って不幸になる人がいます。「本当は統一原理は素晴らしいのに、それを教える教会に問題があって、堂々と人を勧誘できない」がサライさんの葛藤なのではないでしょうか?

そうですね。
サライさんがどうかは知りませんが、統一教会に問題があると認識していれば、そこに人を勧誘することに葛藤が生じるのはあり得ることだと思います。




>ここで感じる呵責のようなものは執着です。人間は誰でも死にたくありません。そして、家族にも死んでほしくはありません。家族が死にゆく時は執着から呵責のようなものは感じますが、パラダイスに行けるという信仰が執着をごまかすと思います。でも、客観的にパラダイスに行けるかどうかは分からない。「文鮮明氏がメシヤかどうか分からない。」、「統一原理で言う霊界があるかどうかも分からない」と同じです。

世界中の宗教に見られる「死んだら天国へ行く」という話自体、死の恐怖をやわらげるための方便だったのかもしれませんし、
「悪いことをしたら地獄へ行く」という話も、悪いことを抑制するための方便だったのかもしれませんね。


  • [112]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)08時02分54秒
  • 編集済
  • 返信
 
チェ・サンウさん ありがとうございます
あとで皆さんの主張をまとめるつもりですが、一つだけ質問させてください

>嘘をついた結果を問題にするべきだと思います。

結果が現れるには時間が必要で、直後だったり、5年先10年先に現れる事だって嘘の内容によってはあると思います。また、いったん悪く出たとしてもその後を見つづけていくと良くなったということだってあると思います。

結果を何処まで見るか?いつまで見るかと言う基準は何かありますか?


私がこのサイトを立ち上げたきっかけになったのが東日本大震災ですが、原発事故に対する関係者の対応や国民感情を見ながら、「良心」について考えさせられたからです。

原発事故が起こってから、原子力政策に対する甘さが指摘されるようになりましたが、最初から危険性を訴えていた人も沢山いたわけで、原発推進派は地域住民に対して、極端に言えば「うそ」をついていたと言うことになると思うのです。関係者の中には良心の呵責を感じていた人もいるだろうし、そうでない人もいるだろうと思います。

しかし、このような不幸を招く結果を見たのは数十年たってからと言うことになるわけです。

このことは、統一教会問題ととても似ているなと私は感じています。

良心は何処にあったのか?良心はいかに捻じ曲げられてきたのか?
と 問わざるを得ないのです。


  • [111]
  • (無題)

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)00時26分9秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

何か嘘をつくことが善か悪かを巡って議論してるようですが、摂理の為につく嘘は善です。摂理の為につく嘘を悪と思う人は信仰が足りません。人を殺すことも摂理の為だったら善になるのです。

by 北上哲、焼いも、ニコライ

失礼しました。こんなこと言ったらK統一原理では、サライさんとENOCKさんは信仰が足りない人になりますね。真面目にレスすると、嘘をつくこと自体には善も悪もないと思います。

「嘘も方便」。結果、皆が幸福になれるのなら嘘も善となり、不幸になる人がいるのなら悪になると思います。お釈迦様も弟子を良い方向へ導くために嘘をついたそうです。「嘘も方便」とは仏教から生じた言葉です。嘘が善か悪かは、その嘘の結果を問題にするべきだと思います。

正体隠しの勧誘が善か悪かは、結果的に騙されて良かった人と不幸になった人がいます。確か、ENOCKさんは騙されて良かったようなことを北上君の掲示板で言ってましたよね。この場合、ENOCKさんにとっては、正体隠しの勧誘が良かったわけです。ENOCKさんがあの時に騙されて、現在幸せなら、それは否定しません。でも、正体を隠した勧誘を受けて不幸になる人がいる問題は何とかしなければいけません。嘘も方便。「摂理の為の嘘は善」という発想も、「嘘も方便」に起因すると思います。

「統一教会ですか?」と聞かれて、「違います」と答えることに良心の呵責を感じる人は、信仰が足りないのです。

・・・というか、統一教会に入信させても、その人が幸福になれる確信が無いからなのではないでしょうか?サライさんも感じているように現在の統一教会は問題を起こしていて、入って不幸になる人がいます。「本当は統一原理は素晴らしいのに、それを教える教会に問題があって、堂々と人を勧誘できない」がサライさんの葛藤なのではないでしょうか?

それとも呵責は嘘をつくことそのものを悪と決め付けているからなのでしょうか?「嘘には善も悪もない」という発想が大事です。嘘をついた結果を問題にするべきだと思います。

>たとえば、エホバの人たちの輸血の問題ですが、輸血できずに死にゆく家族を見て本当に「呵責」を感じていないのだろうか?という疑問です。

多少、呵責のようなものは感じると思います。でも、エホバは輸血をしないで死ねば、パラダイスに行けると信じています。

ここで感じる呵責のようなものは執着です。人間は誰でも死にたくありません。そして、家族にも死んでほしくはありません。家族が死にゆく時は執着から呵責のようなものは感じますが、パラダイスに行けるという信仰が執着をごまかすと思います。でも、客観的にパラダイスに行けるかどうかは分からない。「文鮮明氏がメシヤかどうか分からない。」、「統一原理で言う霊界があるかどうかも分からない」と同じです。

>>何を基準に善悪を判断するかですね。「良心」と言っても10人いれば10通りの良心があると思います。
>その通りだと思います。

ありがとうございます。

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [110]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)16時41分49秒
  • 編集済
  • 返信
 
>>ビデオセンターで統一教会の名前を出さなかった場合も、嘘はついていないわけです。

>統一教会ではないですか?と聞かれて「違います」と言えば嘘になり呵責を受けるのではないでしょうか?

>目的は伝道であり最終的には教会員にしようと言う目的をもっているからです。本来統一教会の伝道所というべきところを、カルチャーセンターとか、なんとかかんとかごまかしています。

統一教会ではないですか?と聞かれて「違います」と言えば、もちろん嘘になります。
私が言ったのは、統一教会ではないですかと聞かれもせず、自分からもあえて統一教会の名前を出さなかった場合のことです。
これは嘘にはなりませんが、相手にとって大事であろう情報をあえて出さなかったということになります。
それは、サライさんが書いている通り「ごまかし」の部類に入ることでしょう。
この「ごまかし」についても、それが悪いことだと思っていれば良心の呵責を感じるし、良いことだと思っていればあまり良心の呵責を感じないと言うことです。



ですから、私はサライさんにこう質問したのです。

「サライさんは、ビデオセンターで統一教会との関係を否定したことについては良心の呵責を感じたとのことですが、統一教会の名前を出さなかったことについては良心の呵責を感じましたか?」

サライさんは、ビデオセンターで統一教会ではないですかと聞かれて「違います」と言った時には良心の呵責を感じたわけですよね。その時には嘘をついていたわけです。一方、統一教会ではないですかと聞かれず、本来統一教会の伝道所というべきところをカルチャーセンターとかなんとかごまかしていた時には、サライさんは良心の呵責を全く感じなかったのでしょうか?




>話が拡大しないようにするために、あえて「うそ」に絞って良心について考えほしいと思ったのです。

「うそ」に絞って良心について考えてほしかったというのであれば、
うそをつくことが悪いことだと思っていれば、うそをついたとき良心の呵責を感じるでしょう。
しかし、うそをついたほうがその人のためになると思えるような状況においては、良心の呵責も幾分弱まると思います。






良心の呵責を感じるか感じないかは100か0かではなく、程度の問題があります。
良心の呵責を強く感じて苛まれることもあれば、うっすらと弱くしか感じられないこともあるわけです。

悪いことだと思っていればいるほど良心の呵責は強くなり、良いことだと思っていればいるほど良心の呵責は弱くなります。
また、良いことのための犠牲として生じる悪が大きいほど良心の呵責は強くなり、小さいほど良心の呵責は弱くなると思います。

目的は良いことであっても犠牲として生じる悪が大きければ、葛藤が生じます。
たとえば、1人を殺せば100人の命が助かる、というような状況の場合、数の論理でいえば100人が死んで1人が助かるよりも、1人が死んで100人が助かるほうが良いので、1人を殺して100人を助けるということは全体としてはベターな選択のはずですが、そうと分かっていても1人を殺すときにはやはりものすごい葛藤や良心の呵責を感じると思います。

目覚まし時計が鳴って目が覚めたときに、「もう時間だから起きなきゃだめだ」という思いと同時に「でも、あと5分だけ寝ていたい」という思いが生じたりするように、
人間の心というものは同時にひとつの意見だけをもつものではなく、相反する複数の思いが沸いてきて、それらが葛藤したりするものです。



>事実を話せば教会のビデオセンターのスタッフをしている時でも、常にこの葛藤(呵責)が私にはありました。
>同時に、他人にとっては問題のあることも分かっていたし、自分が「良かれ」と思ってやっていることも客観的に分かっていたわけです。

ビデオセンターのスタッフは受講させることを「良かれ」と思ってやっていると思います。
しかし、サライさんは嘘をつくやり方には問題があるとを感じていたわけですね。
問題があると思うことをやっているわけですから、葛藤や良心の呵責を多少なりとも感じたことでしょう。
多かれ少なかれ、他のビデオセンターのスタッフも良心の呵責を感じていたのではないでしょうか。
しかし、正しいことをしているのだと自分に言い聞かせて、そうした気持ちを抑え込んでいたのかもしれません。

同じことを繰り返せば人間というものは慣れてしまいます。
良心の呵責を抑え込みながら行動を続けていれば、だんだんと良心の呵責を感じなくなっていくこともあるでしょう。
戦争に駆り出された兵士が初めて人を殺す時にはものすごい葛藤を感じていたのに、10人、20人と殺すうちに感覚が麻痺していったということもあるようです。




>たとえば、エホバの人たちの輸血の問題ですが、輸血できずに死にゆく家族を見て本当に「呵責」を感じていないのだろうか?という疑問です。
>ただ、良かれと思い込もうとしているだけなのではないだろうか?と言う疑問です。

おそらく想像を絶する葛藤があったのではないでしょうか。自分の子供が死んで行くのです。
葛藤を感じない家族などいなかったと思います。しかし、それが正しいことであると信じて苦渋の決断したのではないかと思います。
良くも悪くも、信仰とはときにものすごい決断力や行動力を生み出すものだと思います。



>本当の良し悪しは「良心」は既に知っていて、だだ呵責の度合いやその感受性において個人差がありまた、理屈や常識でねじ伏せていて表面化しないのではないだろうか?ということです。

おそらく誰でも良心は多かれ少なかれ生まれつき持っていると思います。生きる過程で身について行く部分もあるでしょう。
呵責の度合いやその感受性においてはもちろん個人差があると思います。
理屈や常識でねじ伏せてしまうこともあるでしょうし、輸血問題やテロや偽装勧誘や霊感商法のように信仰でねじ伏せてしまうケースもあるわけです。




  • [109]
  • (無題)

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)15時44分3秒
  • 返信
 
>いやいや、私が言いたかったのは、大切なものと分かってからの感情のことではありません。腕時計を捨てた時の感情のことです。
同じ行動でも、それが悪いことだと分かっていれば良心の呵責が生じるし、悪いことだと分かっていなければ良心の呵責が生じないということを言っただけですよ。

分かりました、誤解してましたすいません。


>祝福において統一教会の名前を出さなかった場合、嘘をついていたかといえば、嘘はついていないでしょう。

こちらは、ついていません

>ビデオセンターで統一教会の名前を出さなかった場合も、嘘はついていないわけです。

統一教会ではないですか?と聞かれて「違います」と言えば嘘になり呵責を受けるのではないでしょうか?

目的は伝道であり最終的には教会員にしようと言う目的をもっているからです。本来統一教会の伝道所というべきところを、カルチャーセンターとか、なんとかかんとかごまかしています。


>しかし、良心の呵責というのは嘘をついたときにだけ起こるものではないと思います。

そうですが
話が拡大しないようにするために、あえて「うそ」に絞って良心について考えほしいと思ったのです。


>このように、他人にとっては問題のあることでも、自分が「良かれ」と思ってやっているなら良心の呵責は起きないということです。


もう一つ提起したい問題が実はここなんです

事実を話せば教会のビデオセンターのスタッフをしている時でも、常にこの葛藤(呵責)が私にはありました。

同時に、他人にとっては問題のあることも分かっていたし、自分が「良かれ」と思ってやっていることも客観的に分かっていたわけです。

もうひとつ付け加えるなら、このような状態は原理的なのだろうかと疑問も持っていた(教義として正しいと思い込もうとしていた)んですね。

一つの「うそ」を起点として。



たとえば、エホバの人たちの輸血の問題ですが、輸血できずに死にゆく家族を見て本当に「呵責」を感じていないのだろうか?という疑問です。
ただ、良かれと思い込もうとしているだけなのではないだろうか?と言う疑問です。
これは、当事者(教義を信じている当人)しか分かり得ないことであり
私もいわゆるカルト教団に在籍しているので私にしか分かり得ないことであろうと思うので、まな板に乗ってみたんです。

もっと大きくいえば、共産主義革命時のスターリンや毛沢東やチャウセスクは粛清の命令を下す時、良心の呵責を感じなかっただろうかと言う疑問です。


また

以下のブログ記事をご覧下さい
http://ameblo.jp/hitosujiniiku/entry-10992820803.html#main

ここに

「 大好きだったおばあちゃんは、ずいぶん前に死んでしまったのだけれど、イエス様を受け入れないで死んでしまいました。今からでも救う方法はないのでしょうか? 」

というクリスチャンの本音があります。

私もクリスチャンの母親から相談を受けたことがあります

自分の子供は小さくして死んだのだけれど、キリスト教では供養はいけないと言われていてる、けれど何かしてあげないと気がすまない、心が休まらないと言うのです。

このようなことは教義としての限界を露呈していると見ることもできるでしょうが、人間の良心は一つの教義・思想には拘束されないということを表しているのではないかと思うのです。

本当の良し悪しは「良心」は既に知っていて、だだ呵責の度合いやその感受性において個人差がありまた、理屈や常識でねじ伏せていて表面化しないのではないだろうか?ということです。

いかがでしょうか?





  • [108]
  • Re: みなさんいろいろな見解ありがとうございます

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)11時43分6秒
  • 編集済
  • 返信
 
>エイドリアンさんの「103」のコメントとは後悔であり、実際に大切なものと分かった時、「ごめんなさい、知らなかったの」と言えば呵責は生じないのではないでしょうか?
>ここで、「汚いし必要ないと思ったから・・」と言い訳をしたときに良心の呵責を感じるのではないでしょうか。


いやいや、私が言いたかったのは、大切なものと分かってからの感情のことではありません。腕時計を捨てた時の感情のことです。
同じ行動でも、それが悪いことだと分かっていれば良心の呵責が生じるし、悪いことだと分かっていなければ良心の呵責が生じないということを言っただけですよ。




>私の先のコメントの良心の判断基準は「うそ」をついていたか否かです。

>我々が日常的に良心の呵責を感じるのは「うそ」をついたときです。
>信仰観や善悪の基準以前に、自分の認識している事実と違うことを他人に伝えると言うこと。


祝福において統一教会の名前を出さなかった場合、嘘をついていたかといえば、嘘はついていないでしょう。
ビデオセンターで統一教会の名前を出さなかった場合も、嘘はついていないわけです。


しかし、良心の呵責というのは嘘をついたときにだけ起こるものではないと思います。

たとえば、自分の不注意で子供を車でひいてしまったとき、良心の呵責が起きると思いますが、これも嘘はついていません。
また、ポケットから財布が落ちたのに気付かないで歩いている人を見かけて、財布が落ちたことを教えてあげなかったときにも良心の呵責が起きると思います。
この場合も嘘はついていませんが、その人にとって大事な情報を教えてあげなかったということで良心の呵責が起きるわけです。


これは、財布を落とすということがその人にとって悪いことだと思うから、それを教えてあげなかったときに良心の呵責が起きるのです。
もし、財布を落とすことは良いことだと思っていれば、それを教えてあげなくても良心の呵責は起きません。むしろ逆に「良かったね」と思うわけです。

つまり、統一教会の講義や祝福を受けている人を見たとき、
統一教会の講義や祝福を受けることが悪いことだと思っていれば、それは統一教会だよと教えてあげることができなければ良心の呵責が起こります。
しかし、統一教会の講義や祝福を受けることが良いことだと思っていれば、統一教会の名前を出しても出さなくても、良心の呵責は起きないということです。むしろ逆に「良かったね」と思うわけです。

サライさんは統一教会の祝福を受けることが悪いことだとは思っていないので良心の呵責が起きなくて当然です。
しかし、世間の多くの人にとっては統一教会の祝福を受けてしまったということは嫌な感情を引き起こすものなわけです。実際、1000人以上の人から苦情があったようです。まして、講義を受けることは統一教会への入信につながる可能性があるわけで、自分が霊感商法の加害者になってしまう可能性にもつながるので、世間の多くの人は統一教会の講義を受けることは危険なことだと認識しているのです。
このように、他人にとっては問題のあることでも、自分が「良かれ」と思ってやっているなら良心の呵責は起きないということです。




サライさんの祝福の件については私は重大な問題とは思っていないので、まな板に乗せるには小さすぎると思います。
その件については「200組もよくがんばった!感動した!あんたはエライッ!」という結論でいかがでしょうか?




>エイドリアンさんの提起された問題は良い題材になるのではないでしょうか。

とENOCKさんも言ってくださっていますし、スレのタイトルにも合っているので、良心や善の基準や共有について議論できると良いかもしれませんね。

  • [107]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)10時47分6秒
  • 返信
 
サンウさん

>良心の呵責の感じ方にはその人の善悪判断が関係してきます。例えば「摂理のための殺人」が善か悪かは、その人の善悪判断ですね。北上君は善と考えて、サライさん、ENOCKさんは悪と考える。

>何を基準に善悪を判断するかですね。「良心」と言っても10人いれば10通りの良心があると思います。

その通りだと思います。



ENOCKさん

>エイドリアンさんの提起された問題は良い題材になるのではないでしょうか。

ありがとうございます。


>カルトの問題はつまるところ、何が善であるのかについて、ある教えを学んだ結果、「善」について一般の感覚から著しく外れた価値体系を身につけ、一般には「悪」とされるようなことを、善と信じて「良心」に従って実行してしまうことなのではないかと思います。

まさしく、その通りだと思います。


>カルト対策においても、既存の宗教がより本来の活力を取り戻すという目的においても、「常に良心に従って行動する」という姿勢と「何が善であるかについての探求を止めない(人任せにしない)」という意識のあり方を持つように推奨することが非常に有効なのではないかと思われます。

そうですね。
善とは何かというのはこのスレッドの最初の方でも議論しましたが、私の思う一つの答えは「人々の幸せのために貢献すること」です。
問題は、そのための実現方法にいろいろな考え方の違いがあることです。

人々の幸せを実現するためには、自民党に投票する事が善だと考える人もいれば、民主党、社民党、公明党、共産党に投票する事が善だと考える人たちもいます。
資本主義を広げることが善だと考える人もいれば、共産主義を広げることが善だと考える人もいます。
キリスト教を布教する事が善だと考える人もいれば、仏教、イスラム教、創価学会、エホバ、その他の新宗教を布教する事が善だと考える人たちもいます。
地下鉄にサリンを撒くことが善だと考えた人もいれば、原住民を攻撃して領土を広げること、息子を特攻隊員として万歳で送り出すこと、広島長崎に原爆を落とすこと、貿易センタービルに飛行機で突っ込むこと、瀕死の子供への輸血を断固拒否することなどを善だと考えた人たちもいたわけです。

このように、他人から見て悪だとされることでも自分自身が善だと確信している場合には良心の呵責が起きないこともあるわけで、逆にいえば、自分としては良心の呵責など感じず「良かれ」と思ってやってあげた行動でも、別の価値観から見れば良くないことである可能性も大いにあるわけですから、自分の考える善が本当に普遍的なものであるのかどうかを探求していくことも大切ですし、自分が善だと思うことを一方的に相手に押し付けるのではなく、相手の意見を尊重しつつ行っていくことが大切なのではないかと思います。


  • [106]
  • みなさんいろいろな見解ありがとうございます

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)09時12分6秒
  • 返信
 
整理するために一つだけ質問させてください

「嘘をつく」ことについてです

私の先のコメントの良心の判断基準は「うそ」をついていたか否かです。

我々が日常的に良心の呵責を感じるのは「うそ」をついたときです。
信仰観や善悪の基準以前に、自分の認識している事実と違うことを他人に伝えると言うこと。

 2・3歳の小さな子供でも嘘をつきます(明らかに分かる幼稚な「うそ」ですが)、そしてそれを問い詰めると泣き出します。確かに呵責の力が働いているのを我々は経験的に知っています。彼らに信仰観や善悪の基準があるとは考えられませんよね。

エイドリアンさんの「103」のコメントとは後悔であり、実際に大切なものと分かった時、「ごめんなさい、知らなかったの」と言えば呵責は生じないのではないでしょうか?
ここで、「汚いし必要ないと思ったから・・」と言い訳をしたときに良心の呵責を感じるのではないでしょうか。

いかがでしょうか?



  • [105]
  • (無題)

  • 投稿者:ENOCKメール
  • 投稿日:2011年 8月22日(月)23時57分33秒
  • 返信
 
エイドリアンさんの提起された問題は良い題材になるのではないでしょうか。


>大きな善のためなら、小さな悪はやむを得ないということです。
>ただ、少し違う点があるとすれば、車にひかれそうな子供を助けることはほぼ疑い無く大きな善なのに対して、ビデオ講義の契約をさせることや、40日の合宿の参加の決断をさせることが善かどうかは、それぞれの信仰次第で変わってくるものだということです。

>こうしたことは、霊感商法や、エホバの輸血問題にも言えることですね。

大きな善のためなら小さな悪はやむを得ない、あるいは、善の中にも優劣があって、より優先して追求すべき善があるということについては、個々のケースについてどちらがより優先かということについては争いはあったとしても、総論として異論がある方はいないのではないかと思います。

カルトの問題はつまるところ、何が善であるのかについて、ある教えを学んだ結果、「善」について一般の感覚から著しく外れた価値体系を身につけ、一般には「悪」とされるようなことを、善と信じて「良心」に従って実行してしまうことなのではないかと思います。

一方で、脱会者の手記や現役信者の悔恨記などを読めば、善と信じ込んで活動した時期が一時的にはあったにせよ、それは永続したわけではなく、むしろやがて良心の呵責を感じるようになりながらも、集団心理や社会から隔離された特殊な環境下において「やむなく」続けざるを得なかったというケースも多かったということが見てとれます。

と、するならば、やはりカルト対策においても、既存の宗教がより本来の活力を取り戻すという目的においても、「常に良心に従って行動する」という姿勢と「何が善であるかについての探求を止めない(人任せにしない)」という意識のあり方を持つように推奨することが非常に有効なのではないかと思われます。

http://plaza.rakuten.co.jp/enock


  • [104]
  • Re: 私の思考を題材に議論しましょう まな板に載ってみます

  • 投稿者:チェ・サンウ
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)23時16分7秒
  • 返信
 
サライさん、ENOCKさん、エイドリアンさん

横レス失礼します。

>私同じ行動でも、信仰次第で、良心の呵責を感じたり、感じなかったりするということです。
こうしたことは、霊感商法や、エホバの輸血問題にも言えることですね。
皆さんはいかがお考えでしょうか。

そうですね。良心の呵責の感じ方にはその人の善悪判断が関係してきます。例えば「摂理のための殺人」が善か悪かは、その人の善悪判断ですね。北上君は善と考えて、サライさん、ENOCKさんは悪と考える。

>ここで考えたいのが「良心」です
私は教会の活動の中で様々な場面で「良心」を押し殺した活動をしてきました。

何を基準に善悪を判断するかですね。「良心」と言っても10人いれば10通りの良心があると思います。

初期仏教は人間は悪の塊で、良心の欠片もないと説きます。結局、良心とは自分と他人にとって都合が良いことを願う心で欲望になります。統一原理の目指す理想世界も、自分と他人にとって都合が良い世界です。だから、自分と他人にとって都合が良い状態を願う心が、良心になって、これは欲望です。

良心をこのように考えると、

>わたしの良心は麻痺していたのでしょうか?

サライさんの良心は麻痺していたとは言えません。結局、これをやることによって自分も他人にとっても都合が良い状態になれると考えたのですね。「摂理の為の殺人は善」も、北上君は一時不幸になっても、最終的には、自分も殺される人にとっても都合が良いが良い状態になれると考えたからだと思います。

良心を追求するためには、初期仏教を学んだみたらいいと思います。初期仏教は人間を根本から説いています。

>「不倫や離婚は絶対いけない、家族仲良くしましょう、神様の祝福がありますように!」と言って祝福するのはどこか間違っているでしょうか?

「神様の祝福がありますように」は神様がいるかどうかは分からない以上、人によって正しかったり間違ったりします。

でも、「不倫や離婚は絶対いけない、家族仲良くしましょう」は正しいです。結局、これらを守らないと自分も他人にとっても都合が悪い状態になります。

現統一原理では、ただ単に、「不倫や離婚は絶対いけない、家族仲良くしましょう」と言ってるだけではないでしょうか?それに対して、初期仏教は人間がどうして不倫、離婚、浮気をしたがるのか、そして、どうして家族が仲良くできないのかを説いています。

結局、人間は皆が皆、自分の都合が良くなることを最優先に考えるからです。統一原理ではこのような心を無くすことを推奨しているのではないでしょうか?初期仏教では無くそうとしないで、このような欲望といかに付き合っていくかを説いています。

不倫、離婚、浮気したがる心を無くすのか、いかにこのようなことを望む心と付き合っていくのか。意見の分かれ目だと思いますが、僕は自分からこのような心は無くせそうにないと判断したので、付き合っていく道を選びました。浄土真宗の話になりますが親鸞も、このように言っています。歎異抄第2章です。

>いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

親鸞は、自分は悪の塊でどのようなことをしても悪なる心は無くせないので、「自分は地獄しか行き場がない悪人である」と自己内省しています。客観的には地獄があるかどうか分かりませんが・・・。ここで悪人が救われる道として浄土真宗を開いたのです。浄土真宗が悪人正機といわれる所以です。

悪人とは人間そのものです。この観点から見れば、霊感商法を正当化する統一信者や、北上君、焼いも君だけが悪人ではなく、僕もサライさん、ENOCKさん、エイドリアンさんも悪人なのです。皆が皆、お互いに悪人と自覚することで平和が生まれるというのが、初期仏教、浄土真宗による平和へのアプローチだと思います。

現統一原理では皆が皆、「神の子」と自覚することで平和を目指しているのですよね。ここから愛し合いましょうと。でも、神の存在は皆が皆信じるわけではありません。それに対して、自分が悪人であることは誰でも簡単に自覚できると思います。

だから、平和へのアプローチには、皆が皆、神の子と自覚するよりも、自分が悪人であることを自覚する方が説得力があると思います。浄土真宗には阿弥陀仏など本来の仏教には無い妄想的要素がありますが、初期仏教に近いと思っています。 

http://choisangwoo.web.fc2.com/toppage.html


  • [103]
  • Re: 私の思考を題材に議論しましょう まな板に載ってみます

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)21時48分23秒
  • 返信
 
また、こうしたこともあると思います。


例えば、家の古い倉庫が汚いガラクタで一杯なので、うんざりして倉庫のガラクタを処分することにしたとします。
ガラクタの中に古い汚い壊れた腕時計もありましたが、他のガラクタと共に捨てました。
その時には、良心の呵責などは全くありませんでした。

しかし、後になって、実はそれが、母がものすごく大切に保管していた、祖父の形見の腕時計であったことが分かり、大変に後悔しました。

はじめからそうだと分かっていれば、とても捨てることなどできなかったのに、知らなかったから平然と捨ててしまえたのです。


このように、本当は良くない行動だったとしても、その時に本人がそのことに気がついていなければ、良心の呵責は生じないということもあるのではないかと思います。

  • [102]
  • Re: 私の思考を題材に議論しましょう まな板に載ってみます

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)21時29分33秒
  • 返信
 
途中、ミス入力がありました。

ビデオセンターで統一教会との関係を否定したことについては良心の呵責を感じなかったとのことですが、

良心の呵責を感じたとのことですが、

  • [101]
  • Re: 私の思考を題材に議論しましょう まな板に載ってみます

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)21時25分1秒
  • 返信
 
> ところがエイドリアンさんから見れば問題行動と見られているわけです。
>
> わたしの良心は麻痺していたのでしょうか?
>
> 皆さんの意見を聞かせてください。

私の発言も一緒にまな板に乗っているようなので補足しておきます。
まず、私はサライさんがアメリカに住んでいたことを知りませんでしたので、日本での活動を想定して話していました。
日本では、文鮮明氏を信じる人たちの集団として統一教会という名前が使われ世間に認知されており、家庭連合という名前はほとんど知られていないわけですが、アメリカではどうなのか詳しく知らないのでアメリカでは問題ないことかも知れません。

日本では、統一教会との関連を教えられないまま予備祝福を受けて後悔した人がたくさんいたようなので、そのような思いを与えてしまうような行動には多少問題があった可能性があります。

オウム真理教はサリン事件後にアーレフと名称変更しました。そして、世間によく知られたオウムの名前を出さないで勧誘した結果、入信後にそこがオウムの後継団体であることを知ってショックを受けたり後悔した人が続出しました。
同じように、家庭連合という名前で予備祝福を受けた人にも、それが霊感商法で多大な社会問題を巻き起こしてきた統一教会と密接な関係のある祝福であったことを知り、ショックを受けたり後悔した人も多かったのではないかと思います。

ENOCKさんも、やましいことがなければ正々堂々とやるべきだと言っていますが、私もそうだと思います。


そして、良心の呵責についてですが、これはその人のその時点での信仰や価値観が関わってくる問題だと思います。


サライさんは、ビデオセンターで統一教会との関係を否定したことについては良心の呵責を感じなかったとのことですが、統一教会の名前を出さなかったことについては良心の呵責を感じましたか?

予備祝福については、統一教会ですかと聞かれたときはちゃんと答えていたそうですが、受ける側にとっては、統一教会の名前を出されなければ、もしかして統一教会じゃないですか?と質問をすることすら思い付かないことが多いわけなので、サライさんの側が「聞かれたらちゃんと答えていたのだから、隠していた訳ではない」のだとしても、受ける側にとっては名前を出されなかったことは隠されていたのと大きな違いがないわけです。

充分に相手の気持ちを思いやることができていれば、そうした事情は理解できていたかもしれません。


サライさんはしていないかもしれませんが、ワインの味見だと言って聖酒を飲ませていた信者もいたようです。それは、おそらく180組という数字を達成しなければという思いもあったかもしれませんし、全てを正直に明かして祝福を断られるより、多少の情報をオブラートに包んででも祝福を受けさせてあげた方がその人のためにもなる、と考えていたのではないでしょうか。
そのように思えれば、良いことをしているという確信が持てるので、良心の呵責もその時には感じられないと思います。

サリン事件の実行犯も、一人一人の細かい心境には違いがあるでしょうが、これは善いことなのだ、日本の人々の魂を救うための方法なのだと、強い確信や信念や信仰を持っていた人は、その時には良心の呵責を感じなかったのだと思います。

ビデオセンターで統一教会の名前を出さない信者の中にも、良心の呵責を感じている人もいれば感じていない人もいるのではないかと思います。
それは、統一教会の名前を出してビデオ講義を断られるよりも、統一教会の名前を出さないでビデオ講義を受けさせたほうが、神様のためになるし、その人のためにもなる、その人の先祖のためにもなるという、強い信仰を持っていれば、悪いことをしているとは思わないので良心の神様を感じないだろうからです。

これは、交差点で車にひかれそうな子供がいるとき、信号無視して駆け寄って助けるか、信号を守って見殺しにするか、という場合、子供を助けるためならば、
信号を無視することに良心の呵責を感じないことと似ています。

大きな善のためなら、小さな悪はやむを得ないということです。


ただ、少し違う点があるとすれば、車にひかれそうな子供を助けることはほぼ疑い無く大きな善なのに対して、ビデオ講義の契約をさせることや、40日の合宿の参加の決断をさせることが善かどうかは、それぞれの信仰次第で変わってくるものだということです。
ある人の価値観にとっては、大きな善であり、別の人の価値観にとっては、対した善ではなかったり、むしろ悪だったりするわけです。

同じ行動でも、信仰次第で、良心の呵責を感じたり、感じなかったりするということです。
こうしたことは、霊感商法や、エホバの輸血問題にも言えることですね。


皆さんはいかがお考えでしょうか。

  • [100]
  • 私の思考を題材に議論しましょう まな板に載ってみます

  • 投稿者:管理人メール
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)20時29分14秒
  • 返信
 
以下は別スレで、私がエイドリアンさんから弁解だと言われた内容です。

>サライさんも統一教会の名前は出さず、世界平和家庭連合の名前で説明したわけですね。

出す必要がありますか?
すでに解散した団体名でやることの方が問題だと思います。(日本だけが諸般の事情で法人格として残してあるようですが・・)
日本の組織は二重組織になっていて、家庭連合の長と統一教会の長は別々です。(これも問題の種だとは思いますが)

また、全世界的規模でやったものであって、そこにはキリスト教の牧師なども自分の教会の信徒を祝福した事例があるように統一教会という一つの宗教団体の次元を超えた立場で超宗教超国家という次元やったブレッシング活動です。現場でやる我々はそいう意識でやっていました。ちなみに我が家はほとんどがアメリカでのブレッシングです、写真も沢山あります。

「不倫や離婚は絶対いけない、家族仲良くしましょう、神様の祝福がありますように!」と言って祝福するのはどこか間違っているでしょうか?


>統一教会の行動が「悪いことをしている」という自覚なしに、むしろ「善いことをしている」と自負しつつ行われてきたことは百も承知です。だって宗教ですからね。オウムの信者だって、善いことだと信じてサリンを撒いたのです。サンウさんの書き込みに出てくる「摂理の為の殺人」というのもおそらくそのようなことでしょう。


ここで考えたいのが「良心」です

私は教会の活動の中で様々な場面で「良心」を押し殺した活動をしてきました。

例えば、
ボランティアといいながら物売りをし、そのほとんどは献金にまわしていたり。
ビデオセンターで統一教会でしょう?と聞かれて「違います」と言わなければならなかったり。

一緒に寝泊りしている兄弟を、この先生は修行を積んだ霊界の分かる先生だとか

など、責任者から言われ自分や他人に嘘をつき良心の呵責を感じながらやってきました。

これらは、>善いことだと信じてサリンを撒いたのです<
と、程度は違うにせよ同じことだと思います。

しかし上記の私のコメントは当時を今振り返ってみれば「良心の呵責」はなかったんですね。むしろ嘘をつかないで堂々と活動ができることに喜びを感じながらやっていた記憶があります。

ところがエイドリアンさんから見れば問題行動と見られているわけです。

わたしの良心は麻痺していたのでしょうか?

皆さんの意見を聞かせてください。












  • [99]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 7月12日(火)17時34分6秒
  • 返信
 
>ものすごく情熱をもって宗教間の対話を推し進め、世界を飛び回って争いをやめるように説き、人々の間にある差別感情や恨みを結婚を通して夫婦愛・家族愛で溶かしていき、地球上の人類を観念的にではなく現実に一つの家族のように感じられる世界を実現し、それを通してこの世の中から一切の貧困や孤独を解消しようとしている宗教団体

というような理想を掲げている宗教団体はいくらでもあると思います。

宗教間の対話を目指している団体としては、世界宗教者平和会議(WCRP)というものもあります。
http://saas01.netcommons.net/wcrp/htdocs/

仏教、神道、キリスト教、バハイ教、儒教、ヒンドゥー教、イスラム教、ジャイナ教、ユダヤ教、シーク教、道教、ゾロアスター教など、世界中の様々な宗教者が参加しているようです。
以前紹介した国際自由宗教連盟(IARF)と同じくこちらも国連公認NGOのようです。


>ミッション完了後はその団体そのものを解散させることを予定しているようなところ

統一教会はミッション完了後に解散を予定しているのですか?
そもそも、ミッション完了とは具体的にどのような時点を指すのでしょうか?



>私を伝道した霊の親は、私に対して何の要求もせず、
>ただ神さまを知って欲しいという願いだけでした。
>自分のために手料理を準備し、裏切られても態度を変えることなく、
>最大のポイントは、自分が信仰を受け入れた後も態度が変わらなかったことです。
>私に対して尽くしていたその姿勢が、
>私を伝道するための見せかけではなかったことを知り感銘を受けたのです。

ありがとうございます。
信仰を受け入れた途端に態度が変わったらショックですよね(笑)

普通のキリスト教や仏教でも信仰を受け入れた途端に態度が変わるようなことはないと思います。

  • [98]
  • (無題)

  • 投稿者:ENOCKメール
  • 投稿日:2011年 7月12日(火)15時32分31秒
  • 返信
 
そこでエイドリアンさんにお願いです。
私は現状統一教会以外の宗教をよく知らないので、
私が挙げた条件にあう宗教があったら紹介して頂けるとありがたいです。

私が考える移籍の条件とは、
ものすごく情熱をもって宗教間の対話を推し進め、世界を飛び回って争いをやめるように説き、人々の間にある差別感情や恨みを結婚を通して夫婦愛・家族愛で溶かしていき、地球上の人類を観念的にではなく現実に一つの家族のように感じられる世界を実現し、それを通してこの世の中から一切の貧困や孤独を解消しようとしている宗教団体で、なおかつ、ミッション完了後はその団体そのものを解散させることを予定しているようなところがあれば是非教えて下さい。


>自分で相手を選びたいのに親が統一教会でのマッチングを強要するということで悩み苦しんでいる2世も多いようですが、それについてはどう考えますか?

以前別の掲示板でも話題になり、その時も表明したのですが、マッチングは人に強要されるべきものではありません。祝福の二世が、本人が嫌がっている時点で、既に父母の「敗北」です。好きにさせるべきです。

>確かに強力な影響力ですが、それは宗教や親による人権侵害ではないかとも思えるのですが。

紙一重でしょう。だからこそ、有形無形の強制は一切あってはならないと思うのです。霊界をちらつかせて脅かすなど言語道断です。あくまで志願することが重要だと思います。

統一教会への愛着というよりは、むしろ、自分自身への不利益がないことの方が大きいです。私はこんな調子で教会でも自由にやっていますので、私自身にとっての弊害はないのです。ただ、統一教会があまりに使い物にならないならば、統一教会に投入する時間をもっと効果的な集団に投資すべきだと考えます。事実、私の同志の中にはそうしてどんどん外に出て行って、教会以外の方との連携を準備している方もいます。私は今は小さな三人の子を抱えた身であり、現状自分の所属教会についてはある程度変革ができつつあるので、とどまっているに過ぎません。もしも仮に、ある日突然にうちの教会長が強制人事になってコチコチ頭の責任者がやってきて傍若無人に振る舞い始めればその時は反旗を翻すでしょう。


私を伝道した霊の親は、私に対して何の要求もせず、
ただ神さまを知って欲しいという願いだけでした。
自分のために手料理を準備し、裏切られても態度を変えることなく、
最大のポイントは、自分が信仰を受け入れた後も態度が変わらなかったことです。
私に対して尽くしていたその姿勢が、
私を伝道するための見せかけではなかったことを知り感銘を受けたのです。


http://plaza.rakuten.co.jp/enock


  • [97]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:エイドリアン
  • 投稿日:2011年 7月12日(火)13時21分51秒
  • 返信
 
>コメントを頂いたとおり、統一原理はおおむね誰にでも受け入れられる「当然」のことを「当然」に教えています。

当然のことを教えているだけなら、統一原理にこだわる必要もないと思うのですが。
既に世界的に広がり社会的実績のあるキリスト教や仏教などを使った方が早いのではないですか?
カルト団体の教義として認知されている統一原理にこだわることが建設的でしょうか。


>私はそのような教会を是正するには批判や反対などの「外圧」ではなく彼らの教理であるところの「統一原理」で内側から生みかえるのが最善だと考えています。

統一教会の内部を改善するためには統一原理を使うのが効果的でしょうね。


>ただ私からしてみれば、相手を選ぶ目がすごいというよりは
>自分の決めた相手を受け容れさせるその影響力のほうがすごいと思うのです。
>ごく身近な幹部だけではなく大々的に末端信者まで行うわけですから。

自分で相手を選びたいのに親が統一教会でのマッチングを強要するということで悩み苦しんでいる2世も多いようですが、
それについてはどう考えますか?
確かに強力な影響力ですが、それは宗教や親による人権侵害ではないかとも思えるのですが。


>そんなこんなで私にとって統一教会は「できの悪い息子」のようなものです。
>私自身はキリスト教会だってイスラム教会だって仏教だってどこだって構いません。
>どこに行ったとしてもそれなりにやっていくでしょう。
>けれど、誰かが何とかしなくちゃならんと思って捨てられないでいるようなものです。

ENOCKさんは統一教会にかなりの愛着があるようですね。

ENOCKさんは原研で愛を受けたことが入信の大きなきっかけになったようですが、それはどのようなことだったのでしょうか?



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