• [0]
  • 越智河野氏の出自や如何に?

  • 投稿者:管理者
  • 投稿日:2010年 7月12日(月)03時54分19秒
 
「談話室、喫茶室」で長年に亘り越智・河野家出自は決着しません。
決着」しないから面白いのですが(笑い)

ここでアンケートを取ります!

越智・河野の出自は?

?孝霊天皇第三の王子からです。(皇別論)

?ニギハヤヒ系の物部氏からです(神別論)

?どちらでも有りません土着の豪族です(国造論)

?その他(越智と河野氏は関係ありません)

?その他のその他

みなさんはどれに拠ってますかね?

根本が違えば理論展開と価値観が変わります。

長年、喧々諤々やってますが元の認識が根っこで違うのでは?

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [100]
  • 訂正

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 2月 1日(火)20時34分25秒
 
島田吉国→野島吉国

  • [99]
  • もう少し探索が必要かと・・・

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 2月 1日(火)20時31分1秒
 
海賊衆の中に野島がいたこと自体は間違いいありませんが、
野島家となりますので、家族親族等複数いたであろうことは想像に難く
ありません。出自は河野家後裔と思われます。
歴史上出てくるだけでも、先回の稲葉家系図の野島以外で
河野通尭の子、野島掃門通茂
河野通存子で通宣の弟とされる野島直信
1600年卒の因島尚吉の子、村上八郎右衛門こと野島吉忠
野島吉忠の子、島田吉国で因島吉充の嗣
小早川隆景に従軍し朝鮮征伐に村上弾正と共に出陣した野島掃部(弾正と
ともに地位は組頭で3千の兵の指揮官とされます。
ただ系図線がはっきりせず、断片的情報です。
これら以外にも野島姓はたくさんいたと思われます。
なぜか、因島村上に近い感じがするのでそちらを当ります。

丞は本来は官途名で古代は
八省の第三等官で輔の下で録の上となっています。
意味的には補佐です。
ただこの時代は自称もいれば、主君から貰ったのも多く
本来官途名は天皇家から頂戴するものですが、あまり守られてはいません。

  • [98]
  • Re: 仮屋口討死の能嶋(野島)の墓はどこ?

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 2月 1日(火)15時41分43秒
 
>>97
> 野島民部と野島内匠は別人かもしれません。

お手数をおかけします。徳川幕府のピラミッド型構造を当たり前と思っておりましたが、
戦国時代には河野伊豫守の配下に村上氏が居ても、能島、因島、来嶋村上はそれぞれ必ずしも
支配・被支配構造ではなかった、能島村上に於いても村上掃部頭がアタマ一つ抜け出て
いたけれども、瀬戸内の島々の城主は比較的独立を保っていた、と考えるのは妥当でしょうか?
そうすると、野嶋を名乗る人々が複数居た(当時は村上だったかもしれませんが)としても
不思議はないですね。

初代野嶋掃部「丞」忠時、次代野嶋民部「丞」通豊ともに「頭」ではないので、村上掃部頭は「官位」
のようですが、「丞」は官位ではないのでしょうか?3代目はだたの民部で「丞」でも「頭」でもありません。
どうやってミドルネーム?がついたのか判りません、初歩的な疑問でスミマセン。

以前「ゆづき」の掲示板で河野ー江戸氏は既に議論されていたようですが、3代目民部忠由は
父通豊が真崎で戦死し、八王子の石川、萩原氏の親戚を頼っていった、とありますが、江戸氏の
女(達)は河野通有の室になったと共に長男通忠にも嫁いでいるので、河野氏と江戸氏は壇ノ浦の
戦い以来非常に親しい間柄にあったようですね。
そこで、3代目忠由は江戸氏の有力家臣石川氏一族、同じく家臣に戸倉の萩原五兵衛の名が見られますので
河野ー江戸氏の縁で親族石川・萩原氏を頼ったのではないでしょうか。以前呑舟師は通忠の没年に
疑問がある、とのことでしたが1300年前後として真崎の戦いの1600年までは300年ほどありますから、
通忠の庶流なりと書いてありますが、一代50年として5,6代後の野嶋通豊は河野家から遠く離れていった
ということはなかった、と考えるのは如何なものでしょうか。

  • [97]
  • Re: 仮屋口討死の能嶋(野島)の墓はどこ?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月30日(日)19時02分20秒
 
野島民部と野島内匠は別人かもしれません。
両人とも松前の合戦での討死としてい、野島(のしま)を名乗っているので、別人であってもなくても
同族でしょうね。この後、野嶋掃部が村上弾正と小早川の組頭として秀吉の朝鮮征伐に動員されていますのでこの野嶋掃部との関係も探求しなければならなくなりました。

  • [96]
  • Re: 仮屋口討死の能嶋(野島)の墓はどこ?

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 1月28日(金)20時46分49秒
 
>>95
ちゃんと調べずに書き込みまして申し訳ありません、反省しきりです。

確かに、2代目通豊まで誰かの臣下だったら父が戦死してもあとを継げると考えるのは現代的でしょうか。3代目の民部忠由が父戦死後に伊豫近辺から武州八王子まで親族を頼って行く必要はないですね。

禅定門はネットで検索したら、時代によって居士、信士の下か信士の上の格の戒名だが最近はほとんど用いられないとありました。

防具も納得です、小手から腕の部分まで同じ模様でした、汗。

  • [95]
  • Re: 仮屋口討死の能嶋(野島)の墓はどこ?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月28日(金)18時43分28秒
 
> 色々申し訳ありません。私の記憶に誤りがなければ毛利臣下になったものと思われますね。
> 初代(厳島の戦い)から3代目(2代目が真崎の戦いで戦死)までの間が知りたいものです。

●初代が1555年10月1日厳島にあって、
 二代目が1600年9月17日前後に松前で討死、
 となると毛利の臣下になったのはいつ誰の代でしょうか?
 広島時代の毛利家の分限帳をざーと見ましたが該当する姓が見付かりません。
 ひょっとすると陪臣かもしれませんね。
 陪臣とは家臣の又家臣のことで、この場合考えられるのは小早川隆景の家臣となったと
 考えられます。本来、能嶋にいた村上水軍は独立しており、河野家分限帳には記録されますが臣下
 の礼を正式にとった形跡はなくケースバイケースで対応しています。毛利とも同じで個別請負契約
 ような活動をしています。これに対し因島村上は小早川に近く、来島村上は河野家にほぼ属しており
 三島村上は一枚岩で団結をしていたわけではありません。
 能嶋の村上武吉も独立が危なくなって、小早川の配下に入り」、小早川隆景逝去に伴い、初めて毛利
 の臣下となります。
 三代目が関ケ原の戦い以降も毛利についていたなら、長州のどこかに領地を拝領していると思うの
 ですが。

> 4代目からは京都(月橋院、月橋寺ともいう)→亀山→館林→江戸(善性寺)と菩提寺が変化しています。
> 善性寺に昨年行って参りましたが、野嶋家の墓には館林藩の松平清武公に出仕した野嶋忠暁の戒名
> 「徹性院匡郭日眞禅定門」が彫られていました。住職のお話ではこの戒名は善性寺のつけたものでは
> ないとのことです。父方の墓に入っている祖母以外はこのお墓に入っているとのことでした。
> 善性寺は日蓮宗ですから野嶋忠億の「雙照院黙翁日中居士」の様に院~居士の間に「日」の字が
> 入ります。確かに「日」は入っていますがちょっと変わった戒名ですね。祖父~父方は曹洞宗ですので
●禅定門と戒名に入ってますから「禅宗(曹洞宗かも?」ですね。

> やはり院~居士か信士です。私の知り合いでは浄土宗の法名「釈~」くらいしか知りませんが。

●「釈・・」は浄土真宗ですね。浄土宗は「釈・・」は使いません。

> メインスレッドで師が解読しておられた蒙古襲来絵図の絵詞のひらがなもろくに読めずです、汗。
> 嫡男八郎(千宝丸)の左肩の紋所?は丸に2本線ずつ2組書かれていますがこれは単なる模様でしょうか。

●これは多分「肩当」でしょう。コテの所にも同じ防具がしてあります。
 弓を射る時に弦が衣服に当って的を外すことのないようにする物と思われます。
 高校の弓道部の女性部員は乳房に弦が当るのを防ぐために同様な防具を今もつけます。

> 下士の真っ白な「流れ旗」も何だか不思議ですね、消えたのか消したのかそれとも意図的に写さなかったか?

●原図には描いてあったと思われますが絵詞の経年劣化で消えたのでしょう。
 今回話題の紋も消えて薄くなったのを模写したから不明瞭になったと思われます。
 他の人も紋が書かれていたのでしょうが同様に消えたのだと思います。
 白い「流れ旗」を持って歩いても当時はなんの意味もありません。
 多分、現在でも大山祇神社宝物館にある河野家寄贈の流れ旗がが書いてあったと思われます。
 その時の大山祇神社の神紋をUPしておきましょう。
 これは「見聞諸家紋」所収の越智河野の家紋とされてますので、現在の変形八角形ではなく
 正四角です。これを紋名上「折敷三文字」と云い、変形八角形の現在ポピュラーな方を「傍折敷三文
 字」と使いわけます。三の文字が~となっていたら、波、若しくは  縮三文字と区別します。

 現在の大山祇神社の関係者は「傍折敷縮三文字」が昔からの神紋と主帳しますが、宝物館の流れ旗
 の説明を求めると言葉をつまらせます。
 あと証拠の現物紋が神社内の建物に刻まれているのですが、
 知っていませんでした。観光施設になったのでしょうかね?


  • [94]
  • Re: 仮屋口討死の能嶋(野島)の墓はどこ?

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 1月28日(金)15時10分1秒
 
色々有り難う御座います。私の方は何かと雑用に取り紛れ進捗せずで申し訳ありません、汗。
1999年に買ったデジカメ(ごく初期のカメディア)が壊れて、一期一会、と以前書きましたが
結局先週安いデジカメを買って家系図をJPEGにした位です。値段が1/10でCCD性能50倍とは
驚きです。

> 彼は天正13年の河野家敗戦を受け河野家関係者総下城の措置により能島を去り鞆に移動したことに
> なっていますので鞆のどこかの寺に墓があると思います。
> 捜してますが未だ分りません。そうすると、貴家の先祖か否かはっきりすると思うのですが。

色々申し訳ありません。私の記憶に誤りがなければ毛利臣下になったものと思われますね。
初代(厳島の戦い)から3代目(2代目が真崎の戦いで戦死)までの間が知りたいものです。

4代目からは京都(月橋院、月橋寺ともいう)→亀山→館林→江戸(善性寺)と菩提寺が変化しています。
善性寺に昨年行って参りましたが、野嶋家の墓には館林藩の松平清武公に出仕した野嶋忠暁の戒名
「徹性院匡郭日眞禅定門」が彫られていました。住職のお話ではこの戒名は善性寺のつけたものでは
ないとのことです。父方の墓に入っている祖母以外はこのお墓に入っているとのことでした。
善性寺は日蓮宗ですから野嶋忠億の「雙照院黙翁日中居士」の様に院~居士の間に「日」の字が
入ります。確かに「日」は入っていますがちょっと変わった戒名ですね。祖父~父方は曹洞宗ですので
やはり院~居士か信士です。私の知り合いでは浄土宗の法名「釈~」くらいしか知りませんが。

「崩れ」とか「馳走」とか随分現代とは変わった意味なのですね!

メインスレッドで師が解読しておられた蒙古襲来絵図の絵詞のひらがなもろくに読めずです、汗。
嫡男八郎(千宝丸)の左肩の紋所?は丸に2本線ずつ2組書かれていますがこれは単なる模様でしょうか。
下士の真っ白な「流れ旗」も何だか不思議ですね、消えたのか消したのかそれとも意図的に写さなかったか?

万葉仮名は、やまと言葉の音と漢字がほぼ1対1で対応していると昔読んだことがありますが、
漢字仮名交じり文が成立したお陰で、ひらがな書きがないと当時の音が判らなくなってしまいしたね。
校注を見ると「当て字は正しい漢字に改めた」とありますが、万葉仮名の音を引きずって当て字にしている可能性はないのでしょうか?枕草子では「木丁」→「几帳」等があげてあります。

> 中国はこのことを見通していて密に日本国債を買っています。
> 現在、日本国債の海外依存率は5%程度ですが10%を超えると危険水域です。
> 慌てるとギリシャのようになります。

ニュースなどを見ると、都内のマンションから果ては北海道の水源地まで買いあさって
居るようですね。私個人は国粋主義者ではなく科学に携わってきましたので、国境など
なくなれば民族紛争も戦争もなくなるのではと夢見たいな事を考えておりますが・・・
現実はなかなか難しいですね。

掲示板の趣旨にはずれた不規則発言で申し訳ありませんでした。

  • [93]
  • 仮屋口討死の能嶋(野島)の墓はどこ?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月28日(金)09時17分31秒
 
松前(まさき)の戦いで討死した幹部はそれぞれ、遺体を芸州に持ち帰り葬儀の後、その時一緒に討死した臣下と葬られたと思われます。
村上元吉もなんとか死んだ後、首を取られず(この件は後に加藤家では問題となりますが)遺体は
芸州竹原に帰り、珍海山に葬られ、臣下の墓とともに永遠の眠りについていて現在もあります。
同じく討死した野島は村上の臣下ではなく同列の大将の一人らしく、元吉臣下の討ち死に者名簿にはありません。
彼は天正13年の河野家敗戦を受け河野家関係者総下城の措置により能島を去り鞆に移動したことに
なっていますので鞆のどこかの寺に墓があると思います。
捜してますが未だ分りません。そうすると、貴家の先祖か否かはっきりすると思うのですが。
天正13年の河野の伊予支配体制が崩れた時、たくさんの家臣がレイオフされたことを毛利側は
「河野崩れ」と古文書では表現し、天正15年の通直自害により河野家再興の芽が無くなった時の
最後の家臣群の離散を「竹原崩れ」と表現し一大事件であったのでわざわざこう呼んでます。
「崩れ(くづれ)」と私が引用すると、河野家を馬鹿にするのか!との非難する人がいましたが
「くづれ」は現代人には蔑視の意味と解釈されてますが、当時は「崩壊するはずのない大きな山が崩れた」とする意味で信じられない大事件を意味しています。
言葉も現代の常識と当時の常識が同じかどうか確認しながら進まないと知らない内に誤解します。
同様な間違いが「馳走」です。
現代では「ご馳走(ごちそう)」とは上の者が下の者に豪華な食事を提供する意味で使われていますが
戦国時代は部下が上司に労力を提供することで、上司への無償の献納です。
部下が金や資材や兵を提供するのは当たり前と主君は思っていました。
今と全く行為が逆です。
この「馳走制度」は「ねずみ講」の集金システムとよく似ています。
現在でも組織を支える基本システムです。
例示しますと
①政治政党が下部組織を通じて本部に軍資金を集める方法。
 (共産党だけは機関紙赤旗運営の末端の労務提供が軍資金と聞いています)
②寺を含む宗教法人の運営資金集金システム。
③各労働組合の活動資金の集金システム。
④やくざ社会の上納金システム。
⑤民間企業に於ける(主に大企業)の本部・本社の末端事業所の負担金システム
と枚挙に暇がありません。

例外は上から交付税金で運営されている、公務員と呼ばれる方達の所属する組織とその外郭団体の
の組織です。
現在名古屋市長選で河村候補が主帳しているのはこの対立の構図ですね。

国内の国民の総預金が1050兆円で早晩、国地方の公共団体の借金(国債・地方債)の発行残高が
1000兆円を越えます。昨日アメリカの格付け会社が日本国債の格付けを1ランク落として、中級国並
にしました。菅直人総理はこの問題定義に「その問題は疎いので分らないから又・・・」とコメントしました。このような発言してるともう1ランクさがります。
国内預金総額を越えると国債は外国に買って貰わなくては国家予算の現状維持ができなくなります。
今、日本に金を貸す(国債を買える)国は中国だけです。
中国はこのことを見通していて密に日本国債を買っています。
現在、日本国債の海外依存率は5%程度ですが10%を超えると危険水域です。
慌てるとギリシャのようになります。
日本の国債の10%所有が中国の当面の目標でしょう。
10%握ると金主としての立場が強くなり日本を属国として扱えます。
日本は「卑弥呼の時代」に逆戻りです。
そんなことはないと財務省や政府要人は発言しますが、
国債発行は借金です。
貸主の中国が「分りました、なら貸した金100兆円をすぐ耳を揃えて返して呉れませんか?」
と言われたらOUTです。100兆円は現在の国家予算の2年分です。
平和ボケの現在の日本人が多く、この問題は
「年金支給半額カット、健康保健5割自己負担、消費税30%導入」してもすぐには健全化しないほどの
構図ですが、みんな見て見ぬフリをして増税や負担増の政党には票を入れません。
よって国民全体が奈落の底に落ちて行きますが、個人個人は自分だけは別としています。
子供と孫達を悲惨目に合わせて老人達は生きていきます。

なにか変ですよね。
脱線しました、失礼!

  • [92]
  • Re: 色々有り難う御座居ます

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 1月12日(水)06時39分14秒
 
>
> ●イメージが湧かないようですね。
>  連名文書の末尾をUPしてみましょう。

古文書をお見せ頂き深謝です!
「右船(?)法御提書者(ハ)当伊豫国太守河野屋形より作り(?)出サレシ(被)者ニ付 堅くお守ルベク者也」と読めますね(その前ははっきりとは読めず、涙)。
成る程、です。こういう場合の指示書というか誓詞は写しを八幡宮に納めて誓うようで、現代の政教分離では考えられないほど八幡宮始めとする寺社の「政治」に果たす役割は大きかったのですね。

  • [91]
  • Re: 色々有り難う御座居ます

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月11日(火)21時48分19秒
 
村上水軍二分とは恐れ多く、能嶋で村上武吉、元吉親子に仕えていた、あるいはどこか他の島(々)を任されていた、という位置関係になるのではという気がしております。

●イメージが湧かないようですね。
 連名文書の末尾をUPしてみましょう。
 河野家からは双方同格の旗頭であり、本城を元吉が支城のすべてを内匠が仕切っていることが
 分かります。
 彼方此方に散らばる配下の者どもを警固衆と呼んでますから、毛利系の影響がこの段階では
 使用されています。

  • [90]
  • 色々有り難う御座居ます

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 1月11日(火)20時52分56秒
 
メインスレッドで海遊庵主師が細川家と河野家との関わりを論じておられますが、「野島家の流れを汲む『某』を見た記憶が有りますね」とのこと、大きい細川家の系図と共に併せて有り難く存じます。あちこちに出没しては今城師のお叱りを被るかとここで厚く御礼申し上げます。細川通政~通董(~元通)と名前の1字「通」が共通している点などから細川家と河野家との関係を類推するのは素人考えでしょうか。それにしても細川家の系図は膨大のようですね。呑舟師からご教示された稲葉家に現れる野嶋某と共に今年の調査課題とさせて頂きます。

ネットで調べた情報ですが、肥後細川家の家紋九曜は「伝によれば、信長使用の小柄に付いていた九曜紋を見た忠興(1563―1645)が自分の衣服に使用したいと信長に願い出たところ、しからば定紋にせよとの言葉をそえて与えられた」とのことですが、野嶋家家譜の冒頭に定紋「九曜」家紋「オモダカ」とあるので、あるいは肥後細川家とも関係か!と思いましたが、野嶋家の初代掃部丞忠時の故事は天文20年の「厳島の戦い」(1555)ですので忠興の出生前であること、また、たまたま昨晩のチェリスト秋津智承氏の無伴奏組曲を聴いて(見て?)居りましたところ、秋津氏が副住職を勤める広島の浄土真宗本願寺派の願船坊と思われる(演奏は京都の臨済宗宝厳院の庭で行われましたが)の本堂に上がる階段横の石柱にも「九曜」紋が・・・・、ウウウウ、涙、ありふれた紋所だったようですね。

呑舟師にはまたまた貴重な情報を有り難う御座います。お礼を申し上げること位しかできず、せいぜい先祖の霊に祈念させて頂きます。天正13年というと1585年でしょうか、手許の水理玄義では「牛福河野通直は1587年に竹原に渡海し早世する」とありますので亡くなる2年ほど前に通達を出したことになりますね。元吉は野嶋内匠(野嶋家2代の民部丞通豊と同一人物とすると)と共に1600年に戦死ですから、村上水軍二分とは恐れ多く、能嶋で村上武吉、元吉親子に仕えていた、あるいはどこか他の島(々)を任されていた、という位置関係になるのではという気がしております。




  • [89]
  • Re: 野嶋内匠義忠と野嶋民部は同一人物か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月11日(火)15時42分29秒
 
念ずれば糸口となる手掛かりを関係霊がポロリと落とすことがある。
貴殿にもたぶん先祖の霊が応援していて手掛かりを少しづつ与えてくれているのかも知れませんよ。

野島内匠と野島民部探求していると、野島(能島)内匠の立場のヒントを霊が与えてくれたと思われます。

関係古文書を探していると、天正13年の内匠の名のある文書(但し写)を見つけました。

天正13年正月時点で能島内匠は上島御旗頭で努司外四ケ城主でした。
この文書は河野通直(牛福)より命じられた水軍定め31ケ条を各地の配下に通達した文章に能島掃部
頭(元吉)と連名で出した物です。
よって当時は村上武吉は健在であるが実験は元吉に移りつつある時期なので、能島内匠は能島水軍を
二分して統括していた人となります。
前年の12月から河野家総領が取れず、秀吉側に走った来島通総が、秀吉の後押しの元、狼藉・賊船
行為を始めた時期であるので河野家側が水軍の軍規の引き締めにやっきとなっていたのであろう。
今から、通直通達を読み解いていこうと思います。

  • [88]
  • Re: 野嶋内匠義忠と野嶋民部は同一人物か?

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 1月11日(火)08時25分28秒
 
86で師のお名前のまま投稿して申し訳ありませんでした。

>  もっとも山口県(長州、周防・長門)の関する史料の文書館ですからローカル性は否めません。

やはり地元の資料が質量共に圧倒しているのでしょうね。

> ●これも(九大資料、matthew註)一部はネットで見れます。

あ、そうでしたか。最近アクセスしてないので気づきませんでした。
河野関係だけでなくて長沼文庫の資料は読んでみたいものが多いですね~。

> > 初代、野嶋掃部丞忠時、次代、野嶋民部丞通豊とその息子民部忠由(これは父親が
> > 通豊と明記されていますが)は「厳島の戦い」と「刈屋口の戦い」の故事の記述
> > だけで、父親や母親、室の記載が無く名前も含めてどれほど信頼性がありますか?
> > 疑問ですね~。
>
> ●いいえ!真実を伝承していると思いますよ。

他の記述と違っているのでついつい、どこから「ハクをつけるために」
持ってきたのでは、と懐疑的になります。

>  このあたりは「村上流古法伝記」等が実態を教えてくれます。

以前読んだ「村上水軍」でもそのようでしたね。私の友人は日本水泳連盟の
役員ですが、村上泳法も又有名だそうですね。操船、戦闘に加えて
海に落ちたときに最も重要でしょうから。

>
> > 村上方からの「刈屋口の戦い」の記述は他にあるのでしょうか。
> ●沢山有ると思います。
>  私が掴んでないだけだと思います。
>  関係者の家譜や文書には書かれていると思います。
>  この関連文書を集めきれてないだけです。

なるほど。東大史料編纂所の村上系図でも元吉の項に付記されていますが
内容の厚みは野嶋系譜の方が厚いですね、真偽は別として。
やはり、加藤氏側と村上氏側からの資料をつきあわせて初めて
実像が見えるような気がするのですが。加藤氏側は戦功を誇示し、
村上氏側は負け戦ですから余り詳しく触れたくないと、笑。

>  所謂、疵物の怖い顔をして終生を過ごした有様が想像できます。

リアルですね!迫力があります!

> > メインスレッドの海遊庵主師のご教示である通忠の嫡子(?)通貞は越後国
> > 上田之庄小栗山の郷を拝領しているとのことですが、もし通貞の子孫とすれば
> > 「通貞の庶流」と書くような気もしますが・・・。
>
> ●こちらは少しづつ紐解けばと思います。

通忠の子供が何人いたかも未だ疑問です。嫡男と思われる通貞の
他にも子供がいたのでは、と? 男子は戦乱で戦死したり
女子は他家に嫁に出たりで1代平均3人としても4代もすれば
3の4乗で81人、本家が一人ずつ継いだとしても80人は
他家の養子になったりでしょうからねずみ算式に増えてとても
一家系の系図には書ききれないでしょうね。せいぜい次の1代の
名前が乗っているだけなのは宜なるかな、ですね。

>  ともあれ本年も宜しくお願い申し上げます。

とりあえずは、以前ご教示頂いた稲葉家系図を東大史料編纂所から
読み始めております、かなり異本?もあるようですね。こちらこそ
宜しくご指導の程何卒宜しくお願い申し上げます。

  • [87]
  • Re: 野嶋内匠義忠と野嶋民部は同一人物か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月10日(月)19時35分19秒
 
> 情報を有り難う御座います。そんなに沢山ありますか、調べ方が足りませんで、汗。

●沢山あるのは宍戸(完戸)家の史料です。
 村上も本家、分家とこれも山口県文書館の保存されてます。
 毛利の配下となった河野家末裔の史料も同館にあります。
 量と質と蒐集年代に於いては地方の機関としては国内トップクラスです。
 原本を所有しているだけに、山口県文書館史料は同じ史料でも東大史料編纂所の謄写本より
 同一史料の場合は質が上となります。
 もっとも山口県(長州、周防・長門)の関する史料の文書館ですからローカル性は否めません。

> 以前呑舟師がゆづきの掲示板で九大の先生の収集された図書館資料の欠本をお探しでしたが
> 九大の資料もネットで見られると遠隔地に居住するものにとっては有り難いのですが、

●これも一部はネットで見れます。
九州大学で検索して図書館の項目で文化史料部門があります。そこの長沼文庫が、瀬戸内海を中心とした海賊関係史料の宝庫です。こつこつと足で集めてますので、現代の他人の論文を寄せ集めたものでは
ないのでとてもすばらしい。
ただ、ここは予算がないらしく、なかなかデジタルUPしてくれません。少しづつ増えては来てるの
ですが、近頃は系図関係は「個人情報」のからみがあるのか公開してくれません。
3年前から電話してUPを要請している文書があるのですが、「そのうちに」と云われ未だです。
行けば見れるのですが博多は遠い・・・。

> 初代、野嶋掃部丞忠時、次代、野嶋民部丞通豊とその息子民部忠由(これは父親が
> 通豊と明記されていますが)は「厳島の戦い」と「刈屋口の戦い」の故事の記述
> だけで、父親や母親、室の記載が無く名前も含めてどれほど信頼性がありますか?
> 疑問ですね~。

●いいえ!真実を伝承していると思いますよ。
 「厳島の戦い」も「仮屋口の戦い」(松前)も村上水軍は総動員ですから。
 貴家はこの時、旧河野海賊衆に属していたのだと思います。
 水軍と言う言葉は近世の表現で所謂、因島、能島、来島の三島村上は海賊衆と呼ばれており
 毛利の水軍衆は「警固衆」と呼ばれています。
 近頃これを混乱して海賊は海の強盗のパロットと誤解されるから水軍(海上保安庁か海上自衛隊)の 概念を持ち込もうとする人がいますがこれは間違いです。

 余計な話ですが、警固衆と海賊衆は呼び名が違うだけでなく機能が違います。
 警固衆は操船する人と戦う人(兵)は別人です。
 これに対し村上海賊は、戦う人が操船も攻撃も両方こなします。
 今様の人間工学の単語を使えば、警固衆は「単能工」で海賊衆は「多能工」となります。
 このあたりは「村上流古法伝記」等が実態を教えてくれます。

> 村上方からの「刈屋口の戦い」の記述は他にあるのでしょうか。加藤方からは
> 常山紀談と共に今回お教え頂いた資料でも野嶋内匠ですね。ウチの系譜では
> 「曽根、村上、野嶋」の順序で記載されています。
●沢山有ると思います。
 私が掴んでないだけだと思います。
 関係者の家譜や文書には書かれていると思います。
 この関連文書を集めきれてないだけです。

 例えば私が研究している、伊予大野家の史料の「屋代島大野家系図」には
 この仮屋口の合戦(松前合戦)に総大将村上元吉の家老として大野直政がもちろん同行し、
 元服して間もない直政の嫡男直房も参戦しており、敵と合戦の時、鑓を口に受け
 その後、口の周りの大きな疵跡が残ったとされておりリアルです。
 所謂、疵物の怖い顔をして終生を過ごした有様が想像できます。

 この「屋代島大野系図」は公開されてませんから、歴史家の記事にはなりません。で活本にはなりま せん。
 このような史料はまだまだあるのです。
 又、謄写されても活字化されてない古文書の方が多いのです。

> メインスレッドの海遊庵主師のご教示である通忠の嫡子(?)通貞は越後国
> 上田之庄小栗山の郷を拝領しているとのことですが、もし通貞の子孫とすれば
> 「通貞の庶流」と書くような気もしますが・・・。

●こちらは少しづつ紐解けばと思います。

 ともあれ本年も宜しくお願い申し上げます。 呑舟拝

  • [86]
  • Re: 野嶋内匠義忠と野嶋民部は同一人物か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月10日(月)16時52分24秒
 
>  これが又、沢山有りすぎて、東大史料編纂所分だけでも大変です。
>  山口県文書館史料はもっと大変・・・・。

情報を有り難う御座います。そんなに沢山ありますか、調べ方が足りませんで、汗。
以前呑舟師がゆづきの掲示板で九大の先生の収集された図書館資料の欠本をお探しでしたが
九大の資料もネットで見られると遠隔地に居住するものにとっては有り難いのですが、
東大も科研費かJSTの資金援助を得ているようですので難しいですね~。

初代、野嶋掃部丞忠時、次代、野嶋民部丞通豊とその息子民部忠由(これは父親が
通豊と明記されていますが)は「厳島の戦い」と「刈屋口の戦い」の故事の記述
だけで、父親や母親、室の記載が無く名前も含めてどれほど信頼性がありますか?
疑問ですね~。

村上方からの「刈屋口の戦い」の記述は他にあるのでしょうか。加藤方からは
常山紀談と共に今回お教え頂いた資料でも野嶋内匠ですね。ウチの系譜では
「曽根、村上、野嶋」の順序で記載されています。

メインスレッドの海遊庵主師のご教示である通忠の嫡子(?)通貞は越後国
上田之庄小栗山の郷を拝領しているとのことですが、もし通貞の子孫とすれば
「通貞の庶流」と書くような気もしますが・・・。

江戸時代の記述はそれなりに裏が取れそうですので、呑舟師の仰るように
ゆるりとカメの如く今年も通忠から野嶋の始祖までたぐりたいと思っております。
今年も宜しくお願い申し上げます。

  • [85]
  • 野嶋内匠義忠と野嶋民部は同一人物か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月 8日(土)14時23分23秒
 
> 「村上掃部頭武慶(村上武吉)の子孫一門悉く天正十三年九月、同年七月より九月に至る間に河野屋形予州没落に依りて、芸州沼田竹原へ退去につき、同時に隋從退去す、…村上掃部頭武慶、備中守義光、築山左近其の外諸大将悉く芸州賀茂郡竹原え退去す。其の余の諸士は思い思い諸国に分離流居す。而して後、備中守義光、同野島内匠頭義忠(義久或いは吉政ともある)は備後鞆に退去」

●松前(正木、真崎)の戦いによる、野嶋内匠と野嶋民部が以前から気になります。
どうも同一人物かそれとも余程近い関係かとしか考えられない。

「続武将感状記」なる後世すぎてあまり信頼性は置けない江戸時代の書に、

 「輝元ノ臣、村上掃部(元吉) 能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門、時ヲ得テ松崎ヲ攻メトレント ス。能島 村上ハ河野ノ一族・・・・(中略)
 大将掃部、内匠、兵庫、三人討死ス・・(後略)

 文の内容は正木を攻めて、佃が了承したから宴会して待っていたら奇襲されて散々な目にあったと
 される従来の内容と同じであるが、この書は加藤側が情報源らしく、後に嘉明が関が原から帰って
 来た時の褒賞吟味の時、敵の大将村上元吉を討ったとしているが、証拠の首がないのでもめたが
 一件落着して久万地方の六千石を佃に与えたとしている。
 (この久万地方は元大野家の領地である・・・)

 このことから村上元吉の遺体は首付きで竹原の連れて帰ることが出来て珍海山に葬ることが
 できた。
 (この珍海山の元吉の墓を「河野家分限録」は父親の武吉の墓と記しているから「河野家分限録」の
  記述の信頼性はあまり高くない所以の一つともされます)

 能島は河野一族、松前攻めの副将級の人、討死していることが、貴家の伝承と合致します。
 早い段階で海賊部隊に合流していた河野一族の可能性が高いとも取れます。
 名前と官途名は時期により変わりますので同一人物とも考えられます。

 同じ大将級の宍戸(完戸)善右衛門は討死していないようですから、宍戸家文書を探すと
 出てくるかも知れません。
 これが又、沢山有りすぎて、東大史料編纂所分だけでも大変です。

 ぼちぼち行きますか(笑い)

 山口県文書館史料はもっと大変・・・・。




  • [84]
  • いつも温かいお言葉に感謝です

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月27日(月)05時43分50秒
 
>>82
> > > >  茨城では15分あればどこでも受け入れてくれたのですが。
> > >  ●都内のたらい回しはひどいようですね?
> > >  水戸か日立あたりならスムーズでしょうね?
> > 最初に(判らずに咳と呼吸困難で)救急センターに電話したら
> > 紹介された病院中6カ所目でようやく見て貰えましたが、
> > 10月と同じく行ったときには収まっていました・・・涙。
> > 水戸も日立も「都会」ですから少しはマシでしょうがやはり
> > 時間はかかりそうですね。前住地のつくば市の病院では
> > ドクターヘリで水戸の隣の笠間市あたりから救急患者を運ぶ
> > ようになっていました。車でも小1時間はかかります。
>
> *喘息の義~他人事ではありません!・・庵主の母も享年97歳で13回忌を本年12月・・讃岐国・先祖由来の仏縁の古寺にて無事法要を済ませました。(安堵の境地・南無)
> さて、喘息の発作の病状の苦しみは、母親の在りし姿にも~庵主自身にも~相通じる感也。

御存知でしたか!親兄弟親戚にも喘息は居りませんので、この咳と呼吸困難は何だろう、
と最初はびっくりしました。寝ているよりは座って前屈みでいる方が楽でしたが、
後で考えますと気道を広げるからなのですね、苦しくて自然に前屈みになって居りました。

> だが!・・ご安心くだされ・・最近の医学の進歩によって対処療法の薬効果も、呼吸気科専門医に拠って、アドエアーや・テオロング剤や・プランルカストや~・プレド二ゾロンの薬効にて抑止出来・・又緊急の発作処置薬にはサルタノールインへラー呼吸器にて、常に身近の主治医の定期的診療・処方に信頼を委ねて、喘息の病状に~長く付き合うのも~ある種の先祖から受け継いだ遺伝子(DNA)かなと?
> 思いを一にしております。(予防医学と対処療法に、余分なストレスを予防・排除為されて穏やかに備えて頂ければ善ろしいかと)

最初はX線とCTをとって風邪薬!が出ただけでしたが、二度目からは
アドエアです。咳が出だして風邪ではないな、と判断して吸うと呼吸が
苦しくなることはまずありませんでしたが、10月は油断してアドエアを
持たずに外出したために駅から出たところで発作?になり往生しました。

色々なお薬が出ているのですね!ご教示有り難く存じます。私の場合は
多少は気管も弱っているのでしょうが、心臓病持ちで降圧剤を飲まされており
それが喘息と禁忌だったのが主因では、と考えております。丁度10月に心臓の
定期通院があり、主治医が降圧剤を替えたらその後は今まで起きません。ただ
出歩くときはアドエアを持っていくことにしております。

* 本年は仏縁が取り持つ由縁にてお目にかかり嬉しく想い・今後とも宜しく・良いお年をお迎え下さい・南無。

図々しくゆづき城に登城させて頂いたにも拘わらず庵主様には温かいお言葉を戴き大変有り難く存じます。今年はインフルエンザも流行とのことです、くれぐれもお身体ご自愛の程を願い上げます。
今後とも何卒ご指導の程をお願い申し上げます。

  • [83]
  • ご教示に深謝です: 長いばかりでスミマセン

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月27日(月)05時17分38秒
 
>>81
> > 両親がおおざっぱだったのか、野嶋家に祖母以外の男子が
> > 居なかったか早世したためなのか、実家の過去帳には
> > 父方と一緒に野嶋家の系譜3代目以後とその室の本名と戒名が
> > (日めくりで命日毎に、それが過去帳なんでしょうか、無知だもんで、汗)
> > 記載されております。系譜には更に墓所が記載されていますが、
> > 本名と戒名は3代目以降は系譜と過去帳は同一です。1代目の野嶋忠時、
> > 2代目の野嶋通豊は過去帳にはありません。

三男坊ですから法事には疎くて、母から呼び出しがかかれば
お寺さんに行くだけ、という具合でした、汗。今年は
父の33回忌、長兄の7回忌で母が亡くなったのには
多少の因縁を感じないこともないのですが・・・。

> ●日めくり命日毎の過去帳の形態なら、多分家の過去帳ですね。
>
>  所謂、過去帳のフォーマットは個人家と菩提寺によって異なります。
>
>  信頼性の高い過去帳と言うのは寺にあるもので、こちらは卒年日毎に先着順に書かれていますので、
>  家毎には書かれてはいません。田中Aさん、佐藤Bさん、山田Cさん・・・・。と言うようにばらばらに書かれていますから、ある人が自家の過去帳を調べようとすると、見せてもらっても大変です。
>  よって、近頃は個人情報云々で閲覧できません。

成る程。実家の仏壇のは完全に個人過去帳ですね。父方祖父が
次男坊で明治時代に分家の届(それも野嶋家の箱に入ってました?)
がありますので過去帳の父方は祖父から始まっています、従って過去帳の
名前の数は野嶋家の方が圧倒的に多いです。あとから野嶋家の
3代目から書き加えたのですね、そちらは系譜に依っているのでは
思っております。

>  しかし、キチンと回向法要をしているか してくれる家は重要な檀家ですので、別に住職が家毎の
>  法事予定表を作って、時期がくれば、今年の法要は誰と誰ですがどうしますかとセールストークの
>  基礎資料となります。伝統のある家は100回忌200回忌300回忌の分以上まで提案されますので、
>  誰かの法要と併せてまとめてせざるを得ません。

300回忌ですかぁ!母はキリスト教徒で洗礼も受けておりましたが
父の何回忌だ、というのはマメにやりましたし、実家には神棚もあり
兄が亡くなったときには半紙で神隠しもやりました、正月は
お榊をそなえて・・・・、こうなるともう八百万の神を信心?ですね!
父の33回忌も、兄の7回忌が主でして、お寺さんの方でも
33回忌までやるところは少ないと言っていました。
まあ、東京は大都市ですが地方と違って300年続く
旧家はほとんど無いでしょうから33回忌でも希なり、ですね。

>  寺の過去帳が原本であれば卒時の状況が大体分かります。
>  寺の過去帳は現在の除籍謄本の役割を果たしていたからです。
>  だいたい、卒日と戒名、俗名と続納が書かれています。
>  大事件に関係すると注釈文が付くこともあります。
>  続納で近親関係がわかり、戒名で、卒時の地位、身分、資産の程度が推測されます。
>  ただこれは喪主も意向ですので本人の意向が反映されているとは限りません。

これも成る程です、家系図や系譜と補完関係、あるいはそれ以上
だったのですね。↓の「哀しい」のもう一つの意味は、家系図は
嫡子の系列は連綿と書かれているのに、庶家の方は1代限り
記載されていることですね。そちらの系列でも出家でもしない限り
それぞれの家系が連綿と又続いていったろうにと言うのも哀しいですが、
でもまあ実用上?は分家、庶家の系列まで一緒に書いていたら
とてもじゃないが1枚の系図に収まらない、100畳ほどの
紙が必要になるからですね、笑。

>  すこし格好が悪いと思った子孫は後から金を払って、立派な戒名にする人は多いのです。
>  よって戒名がその時代の常識からして立派であればあるほど、その戒名を記入している
>  その家の系図は後世に編集された証拠となりますので、信憑性は逆に落ちてしまいます。
>  「旧○○太守」とか家格と不釣合いな院殿号の戒名は後に子孫が贈名したものが多いのです。

「現代無要物事典」(朝日ジャーナル編)という文庫本の最初が
戒名だったと思います。野嶋家は「院、居士」ですが祖父方は信士で
通してます。私は勝手に自戒して偏屈不實「居士」とつけました!

>  これに対し各家にあるのは通常、分家してから(初代)から記録を始めますので、
>  兄や叔父たちの家の過去帳から出だしが違ってきますので、
>  系図とは記載事項が違うので一致しません。
>
>  当たり前ですがまだ「仏さま」を出していない家には「過去帳」はありません。
>  親が死んでも本家にはあっても分家には未だないと言う意味です。

私が過去帳初代になるわけですね。どうも不信心ですし
子供達に余分な面倒も掛けたくないのでお迎えが来たあとは
一切無、です。

  • [82]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2010年12月27日(月)03時31分29秒
 
茨城では15分あればどこでも受け入れてくれたのですが。
●都内のたらい回しはひどいようですね?
水戸か日立あたりならスムーズでしょうね?
> 最初に(判らずに咳と呼吸困難で)救急センターに電話したら
> 紹介された病院中6カ所目でようやく見て貰えましたが、
> 10月と同じく行ったときには収まっていました・・・涙。
> 水戸も日立も「都会」ですから少しはマシでしょうがやはり
> 時間はかかりそうですね。前住地のつくば市の病院では
> ドクターヘリで水戸の隣の笠間市あたりから救急患者を運ぶ
> ようになっていました。車でも小1時間はかかります。
*喘息の義~他人事ではありません!・・庵主の母も享年97歳で13回忌を本年12月・・讃岐国・先祖由来の仏縁の古寺にて無事法要を済ませました。(安堵の境地・南無)
さて、喘息の発作の病状の苦しみは、母親の在りし姿にも~庵主自身にも~相通じる感也。
だが!・・ご安心くだされ・・最近の医学の進歩によって対処療法の薬効果も、呼吸気科専門医に拠って、アドエアーや・テオロング剤や・プランルカストや~・プレド二ゾロンの薬効にて抑止出来・・又緊急の発作処置薬にはサルタノールインへラー呼吸器にて、常に身近の主治医の定期的診療・処方に信頼を委ねて、喘息の病状に~長く付き合うのも~ある種の先祖から受け継いだ遺伝子(DNA)かなと?
思いを一にしております。(予防医学と対処療法に、余分なストレスを予防・排除為されて穏やかに備えて頂ければ善ろしいかと) 本年は仏縁が取り持つ由縁にてお目にかかり嬉しく想い・今後とも宜しく・良いお年をお迎え下さい・南無。

  • [81]
  • Re: 長いばかりでスミマセン

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年12月26日(日)19時19分12秒
 
> 両親がおおざっぱだったのか、野嶋家に祖母以外の男子が
> 居なかったか早世したためなのか、実家の過去帳には
> 父方と一緒に野嶋家の系譜3代目以後とその室の本名と戒名が
> (日めくりで命日毎に、それが過去帳なんでしょうか、無知だもんで、汗)
> 記載されております。系譜には更に墓所が記載されていますが、
> 本名と戒名は3代目以降は系譜と過去帳は同一です。1代目の野嶋忠時、
> 2代目の野嶋通豊は過去帳にはありません。

●日めくり命日毎の過去帳の形態なら、多分家の過去帳ですね。

 所謂、過去帳のフォーマットは個人家と菩提寺によって異なります。

 信頼性の高い過去帳と言うのは寺にあるもので、こちらは卒年日毎に先着順に書かれていますので、
 家毎には書かれてはいません。田中Aさん、佐藤Bさん、山田Cさん・・・・。と言うようにばらばらに書かれていますから、ある人が自家の過去帳を調べようとすると、見せてもらっても大変です。
 よって、近頃は個人情報云々で閲覧できません。

 しかし、キチンと回向法要をしているか してくれる家は重要な檀家ですので、別に住職が家毎の
 法事予定表を作って、時期がくれば、今年の法要は誰と誰ですがどうしますかとセールストークの
 基礎資料となります。伝統のある家は100回忌200回忌300回忌の分以上まで提案されますので、
 誰かの法要と併せてまとめてせざるを得ません。

 寺の過去帳が原本であれば卒時の状況が大体分かります。
 寺の過去帳は現在の除籍謄本の役割を果たしていたからです。

 だいたい、卒日と戒名、俗名と続納が書かれています。
 大事件に関係すると注釈文が付くこともあります。
 続納で近親関係がわかり、戒名で、卒時の地位、身分、資産の程度が推測されます。
 ただこれは喪主も意向ですので本人の意向が反映されているとは限りません。

 すこし格好が悪いと思った子孫は後から金を払って、立派な戒名にする人は多いのです。
 よって戒名がその時代の常識からして立派であればあるほど、その戒名を記入している
 その家の系図は後世に編集された証拠となりますので、信憑性は逆に落ちてしまいます。
 「旧○○太守」とか家格と不釣合いな院殿号の戒名は後に子孫が贈名したものが多いのです。

 これに対し各家にあるのは通常、分家してから(初代)から記録を始めますので、
 兄や叔父たちの家の過去帳から出だしが違ってきますので、
 系図とは記載事項が違うので一致しません。

 当たり前ですがまだ「仏さま」を出していない家には「過去帳」はありません。
 親が死んでも本家にはあっても分家には未だないと言う意味です。

  • [80]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月26日(日)18時27分25秒
 
>>79
> > 水戸も日立も「都会」ですから少しはマシでしょうがやはり
> > 時間はかかりそうですね。前住地のつくば市の病院では
> > ドクターヘリで水戸の隣の笠間市あたりから救急患者を運ぶ
> > ようになっていました。車でも小1時間はかかります。
>
> ●そうですかそれはそれは・・・。
>  つくば市も学園都市指定から急に開発されたので大変なのかもしれませんね。
>  元々新治村でなにも無かった所で、今の筑波線ができるまでは陸の孤島でしたね。
>  仕事先があったので、取手、筑波、笠間、下妻、下館等はよく行ってましたからイメージは
>  分かります。

あ、それでは「日本のチベット」も御存じで。私が移住した頃は一面
茅の原と松林でしたが、そこにバスセンターや西武百貨店ができるのは
遙か後のことでした。つくばエキスプレスができるまでは東京に出るのも大変、
市内移動では当時から今でも車無しでは生きていけません。

>
> > あ、そうですか!河野系図の昔を見ますと親子だか兄弟だか読み取れない時がありますが
> > 算数的に合いそうですね。野嶋越中守=通忠として、確か1288年?が没年だったと思いますが、
> > 野嶋越中守様からウチの初代の野嶋忠時の1550年頃までの間が知りたいですね~、
> > 「庶流ナリ」だけではチト哀しいです。
>
> ●この1288年没は少し気になっているのですが、1288年だと野嶋越中守と時代が合わなくなりますので
>  代数的には合うのですが年数が合わなくなるのです。
>  1288年が正しいとすると別人と思われます。
>  1289年に通信の次の通継の没年で、次の通有が1311年卒で、その次の通盛が1364年卒となっていますので、代数と没年がかみ合わないのです。これらの没年は「予陽本」が根拠ですが、どちらの系図が
> 正しいかは分かりません。
>
>  庶流を悲しむ必要はありません。逆に庶流だったから現在まで生き延びられた可能性があるのです。
>
>  戦いに負けると嫡流は殆どと言っていいぐらい処分されますが、庶流は目こぼしすることが多いのです。
>  そうい云った意味では河野家宗家と雖も途中から庶流です。
>  嫡流をみんな処分されて、庶流の得能家から宗家を継がさせた経緯もあります。
>  まあこれより前の、河野親清あたりは養子とされていますので、大元は庶流でもないようです。
>
>  これも古代越智家とは繋がっていない傍証の一つみているのですが。
>
>  現在河野末裔とする家は殆ど庶流か途中に養子が入り、所謂、万系一世の嫡孫はいません。

有り難う御座います。仰る通り嫡流は腹を切らされても庶流で生き延びるということは
良く聞きますね。男子が産まれなければ養子でつなぐことも少なくないですし。

まあ、それよりは、1300年前後から1550年頃までの間の情報が全くないというのが
「哀しい」という意味でした。今から間を埋めるのが大変です!もっと後世のことを考えて
ちゃんと間を埋めておいてくれたらなぁ、とサボリンです。同時に、判らないことを調べるのも
私にとっては「ロマン」ですから・・・・・・矛盾ですねぇ。

  • [79]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年12月26日(日)17時53分19秒
 
> 水戸も日立も「都会」ですから少しはマシでしょうがやはり
> 時間はかかりそうですね。前住地のつくば市の病院では
> ドクターヘリで水戸の隣の笠間市あたりから救急患者を運ぶ
> ようになっていました。車でも小1時間はかかります。

●そうですかそれはそれは・・・。
 つくば市も学園都市指定から急に開発されたので大変なのかもしれませんね。
 元々新治村でなにも無かった所で、今の筑波線ができるまでは陸の孤島でしたね。
 仕事先があったので、取手、筑波、笠間、下妻、下館等はよく行ってましたからイメージは
 分かります。


> あ、そうですか!河野系図の昔を見ますと親子だか兄弟だか読み取れない時がありますが
> 算数的に合いそうですね。野嶋越中守=通忠として、確か1288年?が没年だったと思いますが、
> 野嶋越中守様からウチの初代の野嶋忠時の1550年頃までの間が知りたいですね~、
> 「庶流ナリ」だけではチト哀しいです。

●この1288年没は少し気になっているのですが、1288年だと野嶋越中守と時代が合わなくなりますので
 代数的には合うのですが年数が合わなくなるのです。
 1288年が正しいとすると別人と思われます。
 1289年に通信の次の通継の没年で、次の通有が1311年卒で、その次の通盛が1364年卒となっていますので、代数と没年がかみ合わないのです。これらの没年は「予陽本」が根拠ですが、どちらの系図が
正しいかは分かりません。

 庶流を悲しむ必要はありません。逆に庶流だったから現在まで生き延びられた可能性があるのです。

 戦いに負けると嫡流は殆どと言っていいぐらい処分されますが、庶流は目こぼしすることが多いのです。
 そうい云った意味では河野家宗家と雖も途中から庶流です。
 嫡流をみんな処分されて、庶流の得能家から宗家を継がさせた経緯もあります。
 まあこれより前の、河野親清あたりは養子とされていますので、大元は庶流でもないようです。

 これも古代越智家とは繋がっていない傍証の一つみているのですが。

 現在河野末裔とする家は殆ど庶流か途中に養子が入り、所謂、万系一世の嫡孫はいません。





  • [78]
  • 長いばかりでスミマセン

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月26日(日)16時33分39秒
 
どうも冗長な書き込みで申し訳なく存じます。

あるいは呑舟師が「姓」で混乱されたかと思われる過去帳の件です。

両親がおおざっぱだったのか、野嶋家に祖母以外の男子が
居なかったか早世したためなのか、実家の過去帳には
父方と一緒に野嶋家の系譜3代目以後とその室の本名と戒名が
(日めくりで命日毎に、それが過去帳なんでしょうか、無知だもんで、汗)
記載されております。系譜には更に墓所が記載されていますが、
本名と戒名は3代目以降は系譜と過去帳は同一です。1代目の野嶋忠時、
2代目の野嶋通豊は過去帳にはありません。

  • [77]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月26日(日)15時51分50秒
 
>>75
> > 茨城では15分あればどこでも受け入れてくれたのですが。
> ●都内のたらい回しはひどいようですね?
>  水戸か日立あたりならスムーズでしょうね?

レスが前後してスミマセン。
最初に(判らずに咳と呼吸困難で)救急センターに電話したら
紹介された病院中6カ所目でようやく見て貰えましたが、
10月と同じく行ったときには収まっていました・・・涙。
水戸も日立も「都会」ですから少しはマシでしょうがやはり
時間はかかりそうですね。前住地のつくば市の病院では
ドクターヘリで水戸の隣の笠間市あたりから救急患者を運ぶ
ようになっていました。車でも小1時間はかかります。

我が「集合住宅」の隣を幹線国道が走っておりますが、
夜中にしばしば「救急車が間に合いません、道を空けて
下さい」と怒鳴ってます!
東京ではあきらめが肝腎かと・・・・・・、苦笑。

>
> > > 『河野某 野嶋越中守 住野嶋  』とポツリと書かれています。
> > >
> > > 親は「河野九郎土佐介通頼」となっていて、兄は「河野某 東條修理進」となっています。
> > > この時の河野家惣領は「河野九郎左衛門對馬守通盛(法名善恵)」となっています。
> > > 通頼は彼の弟のような系図線ですが、官途名が介で低く、二人の男の子が東條と野嶋を名乗ってますので
>
> ●河野親清から九代後が野嶋家始祖なら代数的にはこの野嶋越中守が通忠でもおかしく有りませんね。
>  また、親の河野九郎通頼が宗家通盛(通治)の弟とするなら、通時の別名を持っていた可能性もあり
>  ます、この時、九郎の名乗りは河野通時とする系図があり。

あ、そうですか!河野系図の昔を見ますと親子だか兄弟だか読み取れない時がありますが
算数的に合いそうですね。野嶋越中守=通忠として、確か1288年?が没年だったと思いますが、
野嶋越中守様からウチの初代の野嶋忠時の1550年頃までの間が知りたいですね~、
「庶流ナリ」だけではチト哀しいです。

>  この人は肥前の尾崎に住んでいたことがありますので、河野家が元寇の戦いの時の戦勝地として
>  初めて九州に領地を得るのですが、ここの管理者に任命されていたのでしょう。
>  肥前と肥後は隣りですから河野関係者の拠点が残っていてもおかしくはありません。

知りませんでした、汗。地理的に見ても北九州から大分、メインスレッドにあった
宮崎(西都原は1回行ったことがあります)は遠くはないですね。古田史観をさっ引いて
見ても九州と河野との関係は浅くないような気がするのですが・・・。

>
> > 系譜も野嶋で通しておりますので明治以後に島を使っているだけのようですね。
> > 野嶋亨(曾祖父)が熊本で亡くなったというのも実家の過去帳の
> > 記載からでして、野嶋ではなくて野島と書かれています。現在の
> > 過去帳は昭和になって書き直されたものですから「島」にしてしまったのかもしれません。
> >
> > 瀬戸内海の能島は能嶋の他にも野嶋や野島も使われるのでしょうか。
> ●細かく決めていたわけではないので嶋も島も併用したでしょう。
>  本来は能島なのですが。

なるほど。学生時代だったでしょうか、昔は日本人はhaとfaが区別できた、
haha(母)は古くはfafaであり、もっと前はpapaだったという一見笑い話を
読んだことがあります。万葉仮名はちゃんと区別して漢字を当てていると
聞いておりますが、音が一緒なら当てる漢字はそれほど厳密ではなくなっていったのかも
しれませんね。

  • [76]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月26日(日)15時09分29秒
 
>>74
> > それ以前に、私が実家に帰った折に「(毛利)元就」だったと
> > 思うのですが、名前と花押の書かれた手紙のような文書が
> > あったので毛利の家臣だったのかと思ったのを覚えておりますが
> > 今回実家から持ってきた野嶋家の箱の中にはありませんでしたので
> > 散逸しているかもしれず、併せてその方面での探求は不可能に
> > なってしまいました、残念です。
>
> ●実家の場所はどこですか?そこでも野嶋と名乗っていたのですか?
> 「毛利元就」の文書が気になります。

今度行ったときにきちんと母の遺品を整理するつもりですが、
結論から先に申し上げますと無いのではないかと思います。

直前のことはすぐ忘れる情けない昨今ですが、涙、古いことは
結構覚えておりますのであったことは間違いないと思います。
但し当時は花押の真偽の確認まではしておりません。

>  コピーでも残っていないのでしょうかね?
>
>  文面の内容が分かれば、当時の貴家の立場がわかるのですが?
>
>  多分、元就が出した「手紙」の可能性があるのですが?
>  元就の花押ならすぐ分かります。
>  手紙なら月日が入っていると思われます。
>  臣下に出す文書と臣下以外に出す場合は、確か差出人の表現が違っていたかと記憶します。
>
>  無いですかね?重要な史料です。
>  写しでも善いのですが・・・・。

残念ながら、で申し訳ありません。私も野嶋家と書いてある
菓子箱を持ってきたときにまずは探したのですがありませんでした。

母は「引越魔」でしたので、母のすぐ下の妹(叔母)の話では
亡くなるまで11回だそうです。生まれは東京市牛込区
市谷甲良町、それから母方が蒲田に越して、父に嫁いりで
祖母(野嶋)が存命中だった市谷薬王寺町(甲良町の隣)
の家に戻って、多分祖母が亡くなった昭和12年までそこに、
あとは下落合やら上高田、・・、私の生まれた荻窪から練馬、
世田谷など都内を点々として現在は相模原市に実家があります。
引越魔の通例として、笑、引っ越しするたびにうまくモノを捨てます。
が、大正初めの生まれですから姑にはしっかり尽くしたそうで、
野嶋家のモノも簡単には捨てなかったと思うのですが、
戦争中は私の生家である荻窪の家に、焼け出された蒲田の
母方実家の祖母や母の末妹、上記の叔母夫婦を引き取って
おりましたので、どこまできちんと保存されていたか不明です。
当時は東京中焼けると思われていた時代ですから、両親とも
東京近郊の出で「田舎」が無くどうにでもなれ、という心境では
なかったかと考えております。

父方は野嶋姓ではありません。そこで、私の生まれる前、
敗戦直後に野嶋家を継がせるつもりだった次兄が
2才で亡ってしまいましたので、私に野嶋家を継がせることを
諦めたのではないでしょうか。本家か分家か判りませんが、
野嶋忠時から始まる野嶋家の名前は父方祖母で途絶えた次第です。

(初めて投稿させて戴く前に、今城様にメールをお出しして
ご許可を戴きましたので、今城様には本名と学生用ではない
メールアドレスでお出ししております。必要でしたら
今城様におたずね下されば有り難く存じます。こちらの
メルアドはシラバスを通じてネット公開されてしまいましたので
通常使うメルアドと切り離しております。まさかネット上に
公開されるとは思っても居ませんでしたので質問や連絡用に記入
してしまいました、汗)

たぶんにプライベートなことを書きまして申し訳ありませんが
もし私の記憶違いではなくて存在していたら、結構名もない処にも
古文書のお宝があったのかもしれませんね。


  • [75]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年12月26日(日)14時49分0秒
 
> 茨城では15分あればどこでも受け入れてくれたのですが。
●都内のたらい回しはひどいようですね?
 水戸か日立あたりならスムーズでしょうね?

> > 『河野某 野嶋越中守 住野嶋  』とポツリと書かれています。
> >
> > 親は「河野九郎土佐介通頼」となっていて、兄は「河野某 東條修理進」となっています。
> > この時の河野家惣領は「河野九郎左衛門對馬守通盛(法名善恵)」となっています。
> > 通頼は彼の弟のような系図線ですが、官途名が介で低く、二人の男の子が東條と野嶋を名乗ってますので

●河野親清から九代後が野嶋家始祖なら代数的にはこの野嶋越中守が通忠でもおかしく有りませんね。
 また、親の河野九郎通頼が宗家通盛(通治)の弟とするなら、通時の別名を持っていた可能性もあり
 ます、この時、九郎の名乗りは河野通時とする系図があり。
 この人は肥前の尾崎に住んでいたことがありますので、河野家が元寇の戦いの時の戦勝地として
 初めて九州に領地を得るのですが、ここの管理者に任命されていたのでしょう。
 肥前と肥後は隣りですから河野関係者の拠点が残っていてもおかしくはありません。

> 系譜も野嶋で通しておりますので明治以後に島を使っているだけのようですね。
> 野嶋亨(曾祖父)が熊本で亡くなったというのも実家の過去帳の
> 記載からでして、野嶋ではなくて野島と書かれています。現在の
> 過去帳は昭和になって書き直されたものですから「島」にしてしまったのかもしれません。
>
> 瀬戸内海の能島は能嶋の他にも野嶋や野島も使われるのでしょうか。
●細かく決めていたわけではないので嶋も島も併用したでしょう。
 本来は能島なのですが。


  • [74]
  • Re: 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年12月26日(日)14時03分54秒
 
> それ以前に、私が実家に帰った折に「(毛利)元就」だったと
> 思うのですが、名前と花押の書かれた手紙のような文書が
> あったので毛利の家臣だったのかと思ったのを覚えておりますが
> 今回実家から持ってきた野嶋家の箱の中にはありませんでしたので
> 散逸しているかもしれず、併せてその方面での探求は不可能に
> なってしまいました、残念です。

●実家の場所はどこですか?そこでも野嶋と名乗っていたのですか?
「毛利元就」の文書が気になります。

 コピーでも残っていないのでしょうかね?

 文面の内容が分かれば、当時の貴家の立場がわかるのですが?

 多分、元就が出した「手紙」の可能性があるのですが?
 元就の花押ならすぐ分かります。
 手紙なら月日が入っていると思われます。
 臣下に出す文書と臣下以外に出す場合は、確か差出人の表現が違っていたかと記憶します。

 無いですかね?重要な史料です。
 写しでも善いのですが・・・・。

  • [73]
  • 有り難う御座います: 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月26日(日)12時27分2秒
 
>>72
> 近頃、御出馬されないのでどうされたのかと案じておりました。

ご心配をおかけして申し訳ありません。これでも
結構しつこいほうでして、苦笑。どこから攻めるか
悩んでおりまして、村上水軍かと絞り込みかけておりました。
35年ぶりに東京に戻って、やっぱり空気が悪いんでしょうか、
咳喘息になりました、汗。10月にQQ車に乗りましたが
受け入れ病院を探す1時間の間に直ってしまいました。
茨城では15分あればどこでも受け入れてくれたのですが。

> 気になる記事を見つけましたがお出ましにならないので、投稿しませんでした。

いつもながらに気に掛けて頂き有り難う御座います。

> 「河野系野嶋氏」は気になっていましたので、過去の史料を見直してみました。
> 100%問題なしとの史料ではありませんが、
>
> 河野支族「稲葉氏」の系図の中に
>
> 『河野某 野嶋越中守 住野嶋  』とポツリと書かれています。
>
> 親は「河野九郎土佐介通頼」となっていて、兄は「河野某 東條修理進」となっています。
> この時の河野家惣領は「河野九郎左衛門對馬守通盛(法名善恵)」となっています。
> 通頼は彼の弟のような系図線ですが、官途名が介で低く、二人の男の子が東條と野嶋を名乗ってますので
> 妾腹系の可能性があります。
>
> 野島ではなく野嶋です。


稲葉家も有名ですね。流石は呑舟師のご知識と調査能力と感服しきりです。

系譜も野嶋で通しておりますので明治以後に島を使っているだけのようですね。
野嶋亨(曾祖父)が熊本で亡くなったというのも実家の過去帳の
記載からでして、野嶋ではなくて野島と書かれています。現在の
過去帳は昭和になって書き直されたものですから「島」にしてしまったのかもしれません。

瀬戸内海の能島は能嶋の他にも野嶋や野島も使われるのでしょうか。
ま、「常山紀談」一つを見ても結構固有名詞の字も厳密に使っているわけでもないようですね。

> 残念ながら野嶋越中守から次に伸びる系図線がありませんので、その後は
> この系図からは分かりませんが、この人が河野支族野嶋家の初代の可能性が高いので、他文献のどこかに記録されていると思います。
>
> よってこの系列ならば海賊の村上(野嶋)ではありませんね。

う~む、残念、私の性格は海賊の末裔の所以かと得心しておりましたが、笑。

> 戦国時代よりはるかに遡ります。
> 伊予の河野関連系図に見られませんので、伊予河野家滅亡以前に伊予を離れた
> 河野支族の系図関連を捜す必要がありそうです。
>
> 伊予の河野関係者は河野家滅亡後に書かれた(それも100年以上後の編纂)記録をバイブルとしていますので、そうとうそれらの記録は散逸と加纂の結果と思われますが、宗家系として岩のようになってしまいました。
>
> ただ、河野家滅亡前の記録と思われる、伊予を去った支族家に伝わる「系図」も科学的、且つ、時代考証的なメスを常に入れる必要はありますが。
>
> 古くは「和州越智系図」「河野系林系図」「河野系稲葉系図」「河野系三木」系図等です。
>
> 一つの手がかりですね。この野嶋は村上水軍の本拠地の野嶋のようです。
> ややこしい筈です。

なるほど、野嶋(島?)に住んでいて村上水軍ではなく?
且つ河野家の傍流ですか!本当にややこしそうですね!

越智家のように、このスレッドの当初の問題提起である
孝霊天皇から連綿と現代の鈴姫様まで続く系譜だと
調査も少しは楽でしょうが、河野親清以後でも嫡子以外はねずみ算式に
増えていくでしょうし、女子が他家に嫁に出たりすると野嶋系譜の
初代のように「伊豫権之助親清ヨリ九代河野八郎通忠ノ庶流ナリ」と
姓は違っても河野の血筋だと主張することになって、これだけでは
余りにも手がかりがなさ過ぎですねぇ、涙。オマケに初代の記事は
厳島の戦いですから「河野九郎左衛門對馬守通盛(法名善恵)」
より時代は相当下りそうですね。

江戸時代の記載は私が読めないだけで、汗、そこそこ
「裏が取れそう」ですし、本当に知りたい(面白そう!)のは
今のところ私には何の記録も見つけられていない
河野通忠から野嶋(村上?)掃部丞忠時の間ですので、
ヒントを有り難う御座いました。あちこちにちらばった
河野家の系譜を丹念に調べる必要がありますね。

母と同居していた兄嫁の話ですと、どこか(越智さんと言って
いたような気がすると申しておりますが)から母に電話があって、
系譜の話をしていたとのことです。
過去を振り返らない母でしたから、苦笑、系譜の修復と表装
(一度ばらして、薄い美濃紙か何かで裏打ちして虫食いを補正し、
再度袋とじして和装の新品になってます。13万6500円也!)
した、平成13年頃ではないかと推測しております。
それ以前に、私が実家に帰った折に「(毛利)元就」だったと
思うのですが、名前と花押の書かれた手紙のような文書が
あったので毛利の家臣だったのかと思ったのを覚えておりますが
今回実家から持ってきた野嶋家の箱の中にはありませんでしたので
散逸しているかもしれず、併せてその方面での探求は不可能に
なってしまいました、残念です。

今般、野嶋家の解読は全て呑舟師にやって頂いたような結果になり
ただひたすら感謝申し上げます次第です。本当に有り難う御座いました。
新たなヒントも戴きましたので来年は私なりに頑張るつもりです、
懲りずに何卒ご指導の程をお願い申し上げます次第です。

  • [72]
  • 河野系野嶋氏 発見!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年12月26日(日)10時48分46秒
 
近頃、御出馬されないのでどうされたのかと案じておりました。

気になる記事を見つけましたがお出ましにならないので、投稿しませんでした。

「河野系野嶋氏」は気になっていましたので、過去の史料を見直してみました。
100%問題なしとの史料ではありませんが、

河野支族「稲葉氏」の系図の中に

『河野某 野嶋越中守 住野嶋  』とポツリと書かれています。

親は「河野九郎土佐介通頼」となっていて、兄は「河野某 東條修理進」となっています。
この時の河野家惣領は「河野九郎左衛門對馬守通盛(法名善恵)」となっています。
通頼は彼の弟のような系図線ですが、官途名が介で低く、二人の男の子が東條と野嶋を名乗ってますので
妾腹系の可能性があります。

野島ではなく野嶋です。
残念ながら野嶋越中守から次に伸びる系図線がありませんので、その後は
この系図からは分かりませんが、この人が河野支族野嶋家の初代の可能性が高いので、他文献のどこかに記録されていると思います。

よってこの系列ならば海賊の村上(野嶋)ではありませんね。
戦国時代よりはるかに遡ります。
伊予の河野関連系図に見られませんので、伊予河野家滅亡以前に伊予を離れた河野支族の系図関連を
捜す必要がありそうです。

伊予の河野関係者は河野家滅亡後に書かれた(それも100年以上後の編纂)記録をバイブルとしていますので、そうとうそれらの記録は散逸と加纂の結果と思われますが、宗家系として岩のようになってしまいました。

ただ、河野家滅亡前の記録と思われる、伊予を去った支族家に伝わる「系図」も科学的、且つ、時代考証的なメスを常に入れる必要はありますが。

古くは「和州越智系図」「河野系林系図」「河野系稲葉系図」「河野系三木」系図等です。

一つの手がかりですね。この野嶋は村上水軍の本拠地の野嶋のようです。
ややこしい筈です。

  • [71]
  • ささやかな進捗ですが

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年12月26日(日)08時19分52秒
 
すっかりのご無沙汰で大変恐縮です。

10月に咳喘息の一時的悪化、今は来年の夏学期に向けてのノートの改訂など一向に「先祖探し」は進捗せずですが、汗、中間のご報告を。

「九代河野八郎通忠(1250~1311)ノ庶流」から初代野嶋掃部丞忠時の「厳島の戦い」の記述(弘治元乙卯年(1555年))までは呑舟師のご指摘の如く、5,6代はあるので探索は相当難儀かと、村上水軍を少し調べました。むしろ野嶋家にとっては本筋かもしれません。「常山紀談」中の「刈屋口の戦い」で討ち死にした「野島内匠が2代目の野嶋民部丞通豊」と仮定すると、『森本繁著、「村上水軍全史」、新人物往来社、2008』には「能嶋内匠とあるが能島村上には居ない、因島で村上八郎右衛門義忠が内匠頭を名乗った。因島村上5代、尚吉の実子ではなく能嶋村上の左近将監隆泰の子で因島へ養子に入った(中嶋忠由)」との説が紹介されていました。少なくとも2代目あたりまでは、後世に「野嶋」に書き換えたのであり村上水軍を調べれば河野から(村上)野嶋へつながらないかと期待するのですが・・・特に本家筋でないと河野家もそうですが文献は少なそうです。過日下谷の三島神社と鶯谷の元三島神社を参拝してきました事はご報告しましたが、社務所で伺うのも一つの方法でしょうか。こちらの掲示板を拝見しただけでも、越智、林、伊藤、正岡家他、だんだん様の三木家と、河野家の広がりは凄いものですね!

呑舟師のご指摘のように、嶋原の乱で板倉周防守重宗公から弟重昌公への援軍中の18人中「野嶋佐右衛門」は、東大の史料編纂所の文書で見つけました。この時代には村上ではなく野嶋だったのかもしれませんね。板倉公が移封された勢州亀山藩の分限録があると良いのですが。ただ、野嶋系譜には天和2壬戌年8月(1682)に重宗公に従って朝鮮人来朝の折りに江戸に下ったとありますが、朝鮮通信史の記録を見ますと重宗公は8月7,8日に御接待役を勤めておりますので間違いないようです。

検索してみると江戸時代末期か?上州館林藩の藩士の名前と禄高を調べた資料があるので次はここを当たろうと思っております。この時代には野嶋になっていた可能性が高いと思います。

野嶋の名前が祖母で切れたので、谷中の善性寺のお墓を返納して参りましたが、その折りに、祖母の父が野嶋亨(恒)であること、「明治13年2月14日、熊本花岡山ニテ神葬」ということが判りました。何故熊本で神葬か?良く判りませんが、松平公について浜田藩に行ったのではないかもしれませんね。これは上記資料にあたれば、亨の父、野嶋平右衛門忠誠か祖父の野嶋平馬忠良の名前が館林藩士に載っていて上州に残ったかどうか確認できそうです。江戸時代からさかのぼってそろりそろりと調査を進めたく思っております。今後とも宜しくご指導をお願い申し上げます。

私の咳喘息は2時間も咳と呼吸困難を我慢すればけろっとしてしまうのですが、メインスレッドを拝見すると海遊庵主様もお風邪を召されたとか。お大事になさって下さい。武州江戸(笑)も昨日あたりから最高気温が10℃を切りました。ニュースを見ますと徳島で小雪が舞ったとか。伊豫の國は如何なものでしょうか。皆々様もくれぐれもお身体ご自愛の程を切に願い上げます。

喪中ですので新年のご挨拶も遠慮すべきところですが、今城様、呑舟師始め諸先輩の温かいご指導に心より厚く御礼申し上げますと共に、来年も皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

  • [70]
  • 徳川和子入内と板倉家と日野家の関係は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年10月 4日(月)14時14分27秒
 
徳川が天下を取った時、天皇家への影響を強めるべく家康は孫娘を天皇家に入内させる
工作を開始します。この時の徳川方の現地窓口が板倉勝重及び重宗親子で、天皇家側の
窓口が日野家でした。
大野の娘が奉公に上がり女房(備後)となり乳母となるのは天皇の生母である中和門院でこれも
近い関係となります。即ち、和子の義理の祖母となります。
時系列に記録を並べてみますと、天皇家と将軍家の攻防が垣間見られます。

慶長12年(1607) 10月4日 秀忠の第五女「和子」生る
慶長19年 (1614) 3月8日  勅使広橋兼勝、三条西実条、及び広橋兼賢、日野光慶等、駿府に至り、是日家康を見て孫女入内の命を伝へ、また、家康、太政大臣若くは准三后宣下の内旨を告ぐ、家康、進官を辞す
元和4年 (1618) 6月21日 ○京都所司代板倉勝重、伝奏広橋兼勝を訪ひ、秀忠の女、和子入内のことを議す。
元和6年(1620) 3月19日 幕府、秀忠の女和子入内の日時を定め、是日、之を諸大名に告げ、且祝儀進上等のことを停む
元和6年(1620) 4月22日 ○京都所司代板倉重宗、関白九条忠栄を訪ひ、秀忠の女、和子入内のことを議す。
元和6年(1620) 5月8日 秀忠の女和子、京都に之く、是日、江戸を発す、酒井忠世、土井利勝、松平「大河内」正久「正綱」等扈従す
元和6年(1620) 5月28日 秀忠の女和子、京都に着し、二条城に入る
元和6年(1620) 6月2日 御生母近衛前子を三宮に准じ、院号を上りて、中和門院といふ
元和6年(1620) 6月18日 従三位徳川和子入内す、禁裏及び女院御所に進献あり、また公家衆に物を賜ふ
元和6年(1620) 8月20日 秀忠、中和門院に、御料二千石を献ず 元和9年(1623) 10月4日 女御徳川和子、着帯の儀あり
寛永元年(1624) 11月28日 女御徳川和子を立てて、中宮と為し、中宮職を置き、権大納言三条西実条をして、中宮大夫を、権中納言中院通村をして、同権大夫を兼ねしむ
寛永3年(1626) 12月4日 秀忠・家光、大沢基宿・吉良義弥を京都に遣し、皇子の降誕を賀し奉る、秀忠、鬼切の太刀を、高仁親王に献ず
寛永5年(1628) 3月28日 若宮、御病あり
寛永5年(1628) 6月11日 高仁親王、薨じ給ふ
寛永5年(1628) 6月14日 高仁親王薨去の報、江戸に達す、是日、常陸水戸城主徳川頼房等、登城す
寛永5年(1628) 6月16日 幕府、所司代板倉重宗に、故高仁親王の御葬儀のことを命ず、尋で、武家伝奏権大納言三条西実条・同権中納言中院通村にも亦、之を令す
寛永6年(1629) 5月7日 御不予に依り、女一宮「興子内親王」に譲位あらせられんとす、久しく女帝の例無きに依り、中和門院、之を公家衆に諮詢あらせらる
寛永6年(1629) 11月8日 俄に興子内親王に譲位あらせられ、太上天皇と称し給ひ、関白一条兼遐を摂政と為し、内大臣三条西実条を院執事別当に、
権大納言中御門宣衡を院執権に、権大納言西園寺公益を院御厩別当に補す、明日、中宮、使を江戸に遣し、之を幕府に急報し給ふ
寛永6年(1629) 11月9日 中宮を東福門院と号し奉る、仍りて、中宮職を罷む

以上が家康が孫娘を天皇家に送り込み、男の子を生ませて、ただちに天皇に譲位をせまり
徳川の世を磐石にしようとしたいきさつですが、肝心の男の子が相次いで亡くなることでその野望が潰えた瞬間で、親王崩御の知らせに江戸城は大騒ぎとなり、ただちに葬儀の段取り
を京に送っている。わずか二日で東海道を駆け上っている。

次の工作をされる前に宮中は天皇は突然退位し、娘に譲位し徳川の野望を絶った。まさか
今度は婿殿を送り込むわけにはいかない。
宮中の作戦参謀は中和門院であったのであろう。

  • [69]
  • Re: 日野家側室?←怪しいですね

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年10月 2日(土)08時00分51秒
 
>>68
> >
> > 原典不明の母の書写もまじえて恐縮ですが、この前後の野嶋家では
> >
> > 野嶋与右衛門忠明
> >  永禄9年(1566)~元和5己未年(1620)12月15日 伏見之御屋敷ニテ54歳病死
> >  板倉伊賀守勝重公江戸町御奉行之時(二千石ナリ)十五石三人扶持京都御取締之時御仕ス
>
> ●江戸町奉行の時とありますから、勝重江戸町奉行就任が1590年8月からで、
>  京都所司代就任が1601年ですから、貴家系譜の記述が正しいのであれば、
>  1600年通豊討死、よって、息、忠由、父の討死の後、八王子に移住したことに
>  なっていますから、辻褄上は(1600・10月~1601年)が忠明の仕官時期とならなければなりません。
>  忠明35歳の時の仕官となり、忠由が親ではなく、兄弟もしくは従弟のようです。年齢が
>  あまり違わない人物ですが・・・。

なるほど。野嶋ではまま、あるようですね。金太夫忠英が33歳で早くなくなったので、弟宗忠を
次代に据えてます。こう言うときも「養子」にするんですね。母手書きのメモですが、野嶋家では
代々嫡子の兄弟は他家の養子に出していたようで「忠」がついていますが「系在別」で結んであります。
野嶋家の分家にはしない方針だったようです。

>
> > 野嶋金太夫忠英
> >  文禄3年(1594)~寛永丙寅3年(1627)4月2日  33歳病死
> >  元和4年(5年己未の誤り、1619) 家督相続 十五石三人扶持
> >
> >  女子 日野中納言資弘(弘資の誤り)ニ勤
> >      日野中納言資茂公ヲウム故ニ奥方トナル
> >
> > 野嶋六郎左衛門宗忠
> >  慶長5年(1600)~万治3年(1660)2月2日 与右衛門の第二子 60歳
> >  寛永3丙寅年(1626)家督相続 与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
> >  板倉周防守重宗公ニ仕ル
> >
> > とあります。金太夫の娘が日野中納言弘資の側室となって資茂公を産んだとすると、
> >
> > 『公卿類別譜(公家の歴史)-名家-日野〔後編・資実孫〕』に依れば
> >  日野資茂[ 慶安3(1650)年4月27日 ~ 貞享4(1687)年7月29日 ]
> >  弘資男。母家女房。
> >  浄心院本空知覚〔系図纂要〕。
> >  延宝2(1674)年2月8日任参議。
> >  従二位・権中納言。
> >
> > の様ですので、
> >
> ●野嶋さんちの娘さんが日野家32代の奥方になれたかどうかは現在確認は取れていません。
>  日野家系図にあるように、「母、家の女房」と書かれていますから、父、弘資の側室で
>  あることには間違いないのですが、俗名が分かりません。
>  側室が何人いたかもわかりません。
>  日野家は系譜を見ると、側室の子が当主になっているケースが多いので、武家のように
>  嫡子にこだわる必要はなかったのだと思います。
>  家業が和歌とか笛とか香道とかといった一芸ですので、一族郎党を束ねて勢力拡大を
>  計る必要のある家柄ではないからだと思います。
>  日野家は和歌が家業とされますから、嫡子よりも庶子に才能があればそちらに承継させた
>  のでしょう。通常は母親に正室の名を書いて(実は家の女房(妾))と記入するのですが
>  この場合その形跡がありませんので正室は居なかった可能性があります。
>
>  ただ父の母は「加藤嘉明の女」とありますので、これが伊予の加藤嘉明なのかどうか?
>  別譜は「侍従藤原嘉明の女」同名異人か同一人物か現在不明です。

色々有り難う御座いました。日野家では結構「家女房」が見られますね。資茂公は歌人として有名のようですね。

> ●15石3人扶持の娘が日野家に上がるには別な実態があるような気がします。
>
>  ①15石3人扶持ではなくもっと出世していて石高は高いのではと思われます。
>   江戸町奉行に出仕した時が15石3人扶持で、当主は2000石しか予算がありません
>   から、これはそうなのでしょう。
>   京都所司代は原則3万石以上で所司代手当が別に1万石ついたとされますから
>   忠明時代はもっとあるでしょう。115石と書きかけてますがその位では?

はい、最初は15石3人扶持なんですが、後はどうも「百」と読めますんで115石まで
行っていたかもしれません。

>
>  ②板倉氏も日野氏も後の春日局と交友があったと思われます。
>   日野家に上がるのであれば、こちらの筋かと思われます。
>   もちろん河野支族稲葉家が絡むでしょう。

なるほど、です。

> > 第2は年齢の問題で、
> >
> > 金太夫の娘とすると、当時は何歳位で結婚(側室となる)して子供を産んだのか素人には
> > 判らないのですが、ぎりぎり金太夫が30歳前後の娘とすると1624年頃の生まれ、で、
> > 日野資茂は1650年生まれですから母が25,6歳の頃の子供。金太夫の25歳頃の子供とすると
> > さらに30歳前後の子供という事になります。どうも年齢の整合性が取れない気がします。
> > 一般に結婚も出産ももっと若いのではと思うのですが?写し間違いか虚構か?
>
> ●だいたい、奉公も嫁入りも10代でしますので、金太夫が15~16歳の時の子供が
>  13~14歳で身篭れば辻褄はあいます。
>
>  今様であれば高校生が娘を産み、その子が中学生ぐらいで妊娠することが普通の時代
>  ですから。
>  一般的には、人生50年(実態は40年)の時代ですからそんなものなのでしょう。
>  10代を娘、
>  20歳を越えると年増、
>  30歳を越えると大年増(一般的に妻妾含めて、お床下がりで同衾はしない)
>  40歳を越えると婆
>  と言われていますので推して知るべしかと。

そうですか!人生40年ですか。ま、行儀見習いで出仕してうまくいけば(?)武家の側室に、
というのは落語の世界でもあります、殿様と兄の長屋の八っつぁんの会話のとんちんかんさが
くすぐりどころなのですが。20歳を超えると年増だったんですね~。

>  現在は「熟女」が流行ってますが、
>  当時は資生堂もマックスファクターもありませんし、お歯黒つけて、皺のよった
>  30代の女性が、「にゃ~」と流し目をすれば、そそられるどころか背筋が寒くなるでしょう。(笑)

たしかに!、笑。野嶋家の中には60歳とか80歳とか居ますが当時としてはとんでもなく
長生きだったんですね!明治大正でも人生50年、私など長生きしすぎました、汗。

師には深夜どころかいつも早朝まで本当に申し訳なく存じます。色々ご教示誠に有り難う御座居ました。

  • [68]
  • 日野家側室?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年10月 2日(土)04時34分0秒
 
> 所司代の命を受けて色々蔭で暗躍していた、笑、とか。

●暗躍する必要はないでしょう表の組織ですから。
>
> 原典不明の母の書写もまじえて恐縮ですが、この前後の野嶋家では
>
> 野嶋与右衛門忠明
>  永禄9年(1566)~元和5己未年(1620)12月15日 伏見之御屋敷ニテ54歳病死
>  板倉伊賀守勝重公江戸町御奉行之時(二千石ナリ)十五石三人扶持京都御取締之時御仕ス

●江戸町奉行の時とありますから、勝重江戸町奉行就任が1590年8月からで、
 京都所司代就任が1601年ですから、貴家系譜の記述が正しいのであれば、
 1600年通豊討死、よって、息、忠由、父の討死の後、八王子に移住したことに
 なっていますから、辻褄上は(1600・10月~1601年)が忠明の仕官時期とならなければなりません。
 忠明35歳の時の仕官となり、忠由が親ではなく、兄弟もしくは従弟のようです。年齢が
 あまり違わない人物ですが・・・。

> 野嶋金太夫忠英
>  文禄3年(1594)~寛永丙寅3年(1627)4月2日  33歳病死
>  元和4年(5年己未の誤り、1619) 家督相続 十五石三人扶持
>
>  女子 日野中納言資弘(弘資の誤り)ニ勤
>      日野中納言資茂公ヲウム故ニ奥方トナル
>
> 野嶋六郎左衛門宗忠
>  慶長5年(1600)~万治3年(1660)2月2日 与右衛門の第二子 60歳
>  寛永3丙寅年(1626)家督相続 与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
>  板倉周防守重宗公ニ仕ル
>
> とあります。金太夫の娘が日野中納言弘資の側室となって資茂公を産んだとすると、
>
> 『公卿類別譜(公家の歴史)-名家-日野〔後編・資実孫〕』に依れば
>  日野資茂[ 慶安3(1650)年4月27日 ~ 貞享4(1687)年7月29日 ]
>  弘資男。母家女房。
>  浄心院本空知覚〔系図纂要〕。
>  延宝2(1674)年2月8日任参議。
>  従二位・権中納言。
>
> の様ですので、疑問は2つ、第1は
>
> 大野さんちが夭死させられたのに、野嶋さんちは公卿の32代当主の母となれたのか?

●大野家より出仕の乳母が夭死させられたのではなく夭死させたのではないかとの疑惑
 です。徳川和子が天皇家と婚姻し高仁親王ならびに第三王子を産みますが、この時の
 乳母のことです。(詳しくは談話室ゆづき#6197参照願います)

●野嶋さんちの娘さんが日野家32代の奥方になれたかどうかは現在確認は取れていません。
 日野家系図にあるように、「母、家の女房」と書かれていますから、父、弘資の側室で
 あることには間違いないのですが、俗名が分かりません。
 側室が何人いたかもわかりません。
 日野家は系譜を見ると、側室の子が当主になっているケースが多いので、武家のように
 嫡子にこだわる必要はなかったのだと思います。
 家業が和歌とか笛とか香道とかといった一芸ですので、一族郎党を束ねて勢力拡大を
 計る必要のある家柄ではないからだと思います。
 日野家は和歌が家業とされますから、嫡子よりも庶子に才能があればそちらに承継させた
 のでしょう。通常は母親に正室の名を書いて(実は家の女房(妾))と記入するのですが
 この場合その形跡がありませんので正室は居なかった可能性があります。

 ただ父の母は「加藤嘉明の女」とありますので、これが伊予の加藤嘉明なのかどうか?
 別譜は「侍従藤原嘉明の女」同名異人か同一人物か現在不明です。

●15石3人扶持の娘が日野家に上がるには別な実態があるような気がします。

 ①15石3人扶持ではなくもっと出世していて石高は高いのではと思われます。
  江戸町奉行に出仕した時が15石3人扶持で、当主は2000石しか予算がありません
  から、これはそうなのでしょう。
  京都所司代は原則3万石以上で所司代手当が別に1万石ついたとされますから
  忠明時代はもっとあるでしょう。115石と書きかけてますがその位では?

 ②板倉氏も日野氏も後の春日局と交友があったと思われます。
  日野家に上がるのであれば、こちらの筋かと思われます。
  もちろん河野支族稲葉家が絡むでしょう。
>
> 第2は年齢の問題で、
>
> 金太夫の娘とすると、当時は何歳位で結婚(側室となる)して子供を産んだのか素人には
> 判らないのですが、ぎりぎり金太夫が30歳前後の娘とすると1624年頃の生まれ、で、
> 日野資茂は1650年生まれですから母が25,6歳の頃の子供。金太夫の25歳頃の子供とすると
> さらに30歳前後の子供という事になります。どうも年齢の整合性が取れない気がします。
> 一般に結婚も出産ももっと若いのではと思うのですが?写し間違いか虚構か?

●だいたい、奉公も嫁入りも10代でしますので、金太夫が15~16歳の時の子供が
 13~14歳で身篭れば辻褄はあいます。

 今様であれば高校生が娘を産み、その子が中学生ぐらいで妊娠することが普通の時代
 ですから。
 一般的には、人生50年(実態は40年)の時代ですからそんなものなのでしょう。
 10代を娘、
 20歳を越えると年増、
 30歳を越えると大年増(一般的に妻妾含めて、お床下がりで同衾はしない)
 40歳を越えると婆
 と言われていますので推して知るべしかと。

 現在は「熟女」が流行ってますが、
 当時は資生堂もマックスファクターもありませんし、お歯黒つけて、皺のよった
 30代の女性が、「にゃ~」と流し目をすれば、そそられるどころか背筋が寒くなるでしょう。(笑)

  • [67]
  • Re: 気遣いは無用です。

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月30日(木)14時30分33秒
 
>>66
> > 呑舟師にはいつも深夜まで本当に申し訳ありません。大分以前(24)に野嶋家の流れと時代背景を実に要領よく解説して頂き改めて厚く御礼申し上げます。私が次代に残せるとしてもこれで十二分です。まあ、私の代で全てなくなってしまうかもしれませんが仕方ないと。最近は全て一期一会の心境です。野嶋の件はもし時間がおありでご興味がおありでしたら、で、ご専門の方にご専念をお願い致します。野嶋家のために多大のお時間とエネルギーをお使い頂き、再度心から御礼申し上げます。管理人、今城様始め皆様方にも再三にわたりますがお詫び申し上げます次第です。
>
> ●気遣いは無用です。

有り難う御座居ます。小心者で何の取り柄もないので気遣いだけが取り柄かと、汗。

>
>  自分の専門の一環でやっていますし、「喫茶室」はもともと、煙草を燻らせながら
>  ダベリングの場です。スレッドが長くなってますがメインスレッドではありませんので
>  他の方に迷惑は及びません。このスレッドも元々私が立ててますので問題はない筈です。
>
>  専門の一環と言うのは、私は伊予大野家を調べてますが、関係する河野Gや村上G、毛利
>  小早川Gの情報は所謂「鏡」で検証と新事実のためです。
>
>  大野家側資料の裏づけと新たな発見のためどうしても他家の史実が必要で、裏づけが確認
>  出来ないと資料か史料の判断がつきません。
>
>  野島氏の記録は「松前の戦い」で、大野、村上が徒党を組んでいるから情報の掘り下げが
>  必要と感じたからです。

呑舟師のお陰様で野嶋家ローカルな話題から色々広がりを勉強させて頂き有り難く存じます。

初代、野嶋掃部丞忠時の最後で「(厳島の戦いで)時ニ 掃部丞勇戦ス」とありますのも、
『吉見・浦・両村上略系譜』(東大史料編纂所)の村上武吉の項を見ておりますと、天文18年に
筑前に黒船来航の折は来嶋信濃守通康、因島新蔵人吉克(?)等と、また、厳島の戦いでは
豫州野嶋勢や来嶋右衛門太夫通康ヲ始(村上)一族と事に当たっていたようで、「姫路会談」
以前はそれぞれある程度独立していたようですが、一朝事あるときは村上一族として行動して
いたようでまんざら虚構でもないのでは思ったりしております。

>  この写真の中身は林羅山の三男が、スポンサー、若狭小浜藩主酒井忠勝の注文で編纂した
> 「日本王代一覧」の一部だと思われます。同書は1652年上梓され、1834年フランス語に
>  訳されパリで発行されました、日本書物の海外翻訳本のさきがけとして有名です。

鎖国時代に何故フランス語、と思って調べたら出島に出入りしていたオランダ人から
ドイツ人の東洋史研究家に渡ってそこでフランス語に翻訳されたようですね。
それにしても1834年とは凄いものです。

>  春日局は、ご承知のように徳川家光の乳母で、家光の「乳母コンプレックス」で後世
>  ドラマに度々登場します。
>  同女は父は斉藤利三、母は河野家支族とされる、稲葉一鉄の娘(あん)とされています。
>
>  慶長9年竹千代の乳母となります。
>
>  ここで野嶋さんちとニヤミスが報じられます。
>
>  以前にも書きましたが、野嶋さんの先祖が板倉勝重に仕えていますが、勝重は公募した
>  竹千代(家光)の乳母にこの稲葉あん(後、春日局)を推挙し見事乳母に送りこみます。
>
>  野嶋忠明が江戸町奉行の板倉勝重に出仕していますので、春日局推挙については知って
>  いたと思われますし、「先祖親類由緒書」と言われる、いまで云う「履歴書」を目にしていた
>  なら、河野家を遠祖と認識していたでしょうから、同族の娘、稲葉あんをを強く上司に推薦した
>  ことでしょう。
>
>  家康に絶対の信頼を受けていた板倉勝重の推薦ならほぼOKです。
>
>  もっとも別の見方をすれば、推薦理由にあんの家柄、良人の戦功、最大の功は関が原の
>  合戦で小早川秀秋の家老、平岡頼勝とともに、秀秋の徳川方への寝返りを工作した功労者
>  ともされています。海千山千の女なのでしょう。
>
>  家康の目の上のたんこぶの信長を殺して呉れた、明智光秀の縁故に繋がる家柄は
>  徳川家にとっては功臣の部類でしょう。まして小早川裏切りを成功させたとするなら
>  他家の推薦を排除する理由に十分です。
>
>  結果として毛利西軍は負け、河野家を庇護をしていた毛利をして、河野家再興の夢は
>  消えてなくなります。事実であるなら、毛利及び河野家からすれば「一級戦犯」と
>  なりますが、・・・。
>  河野家の末裔達にとってはあまり誇れる女性ではないはずなのですが、よく話題にでます。

板倉勝重が京都所司代になるのは慶長6年(1601)ですから、野嶋与右衛門忠明が
いつ出仕できたのか判りませんがまさにニアミスですね。

>
>  大野家にとってはこの女性は、「談話室ゆづき」で書きましたが、大野の娘が
>  同時期宮中に入り、春日局の差し金とされる、徳川家の娘の天皇家への入嫁で、徳川の
>  血が入る子が生まれますが、なぜか乳母として夭死させます。
>
>  推測ですが、徳川の権力が宮中に入り込むことを嫌った、天皇家の指図と思われます。
>
>  この時「公家諸法度」を制定し天皇以下公家を監視したのが、京都所司代板倉さんですので
>  野嶋さんもかかわっていたと思われます。
>
>  林羅山は同じく武家諸法度の制定に尽力していますから、板倉さんは両法度の法の番人
>  で野嶋さんは実務を担当していたと思われます。

所司代の命を受けて色々蔭で暗躍していた、笑、とか。

原典不明の母の書写もまじえて恐縮ですが、この前後の野嶋家では

野嶋与右衛門忠明
 永禄9年(1566)~元和5己未年(1620)12月15日 伏見之御屋敷ニテ54歳病死
 板倉伊賀守勝重公江戸町御奉行之時(二千石ナリ)十五石三人扶持京都御取締之時御仕ス

野嶋金太夫忠英
 文禄3年(1594)~寛永丙寅3年(1627)4月2日  33歳病死
 元和4年(5年己未の誤り、1619) 家督相続 十五石三人扶持

 女子 日野中納言資弘(弘資の誤り)ニ勤
     日野中納言資茂公ヲウム故ニ奥方トナル

野嶋六郎左衛門宗忠
 慶長5年(1600)~万治3年(1660)2月2日 与右衛門の第二子 60歳
 寛永3丙寅年(1626)家督相続 与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
 板倉周防守重宗公ニ仕ル

とあります。金太夫の娘が日野中納言弘資の側室となって資茂公を産んだとすると、

『公卿類別譜(公家の歴史)-名家-日野〔後編・資実孫〕』に依れば
 日野資茂[ 慶安3(1650)年4月27日 ~ 貞享4(1687)年7月29日 ]
 弘資男。母家女房。
 浄心院本空知覚〔系図纂要〕。
 延宝2(1674)年2月8日任参議。
 従二位・権中納言。

の様ですので、疑問は2つ、第1は

大野さんちが夭死させられたのに、野嶋さんちは公卿の32代当主の母となれたのか?

第2は年齢の問題で、

金太夫の娘とすると、当時は何歳位で結婚(側室となる)して子供を産んだのか素人には
判らないのですが、ぎりぎり金太夫が30歳前後の娘とすると1624年頃の生まれ、で、
日野資茂は1650年生まれですから母が25,6歳の頃の子供。金太夫の25歳頃の子供とすると
さらに30歳前後の子供という事になります。どうも年齢の整合性が取れない気がします。
一般に結婚も出産ももっと若いのではと思うのですが?写し間違いか虚構か?

どうも素人の質問で申し訳ありません。

  • [66]
  • 気遣いは無用です。

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月30日(木)07時53分57秒
 
> 呑舟師にはいつも深夜まで本当に申し訳ありません。大分以前(24)に野嶋家の流れと時代背景を実に要領よく解説して頂き改めて厚く御礼申し上げます。私が次代に残せるとしてもこれで十二分です。まあ、私の代で全てなくなってしまうかもしれませんが仕方ないと。最近は全て一期一会の心境です。野嶋の件はもし時間がおありでご興味がおありでしたら、で、ご専門の方にご専念をお願い致します。野嶋家のために多大のお時間とエネルギーをお使い頂き、再度心から御礼申し上げます。管理人、今城様始め皆様方にも再三にわたりますがお詫び申し上げます次第です。

●気遣いは無用です。

 自分の専門の一環でやっていますし、「喫茶室」はもともと、煙草を燻らせながら
 ダベリングの場です。スレッドが長くなってますがメインスレッドではありませんので
 他の方に迷惑は及びません。このスレッドも元々私が立ててますので問題はない筈です。

 専門の一環と言うのは、私は伊予大野家を調べてますが、関係する河野Gや村上G、毛利
 小早川Gの情報は所謂「鏡」で検証と新事実のためです。

 大野家側資料の裏づけと新たな発見のためどうしても他家の史実が必要で、裏づけが確認
 出来ないと資料か史料の判断がつきません。

 野島氏の記録は「松前の戦い」で、大野、村上が徒党を組んでいるから情報の掘り下げが
 必要と感じたからです。

 同様なことを今、メインスレッドで庵主様がしてますが作業的には同じなのです。

 あちらは先祖が江戸時代に書き残したとされる古文書からアプローチしていますが、
 早い話が先祖探索と検証をしていますので、同じ作業です。

 今の所、あちらは林羅山の三男の著書が何故書き残されているか、林家は河野一族の林家では
 ないかとの仮説をお立てのようです。

 メインにUPされている写真は写真の細密の例示としてUPされてますので、あえて
 まだ、コメントしていませんが・・・・。

 この写真の中身は林羅山の三男が、スポンサー、若狭小浜藩主酒井忠勝の注文で編纂した
「日本王代一覧」の一部だと思われます。同書は1652年上梓され、1834年フランス語に訳されパリで発行されました、日本書物の海外翻訳本のさきがけとして有名です。

 写真の書の内容は一条兼良と後に土佐一条家の祖となる息子の話ですが、

 多分庵主様先祖は、美濃土岐家と其の家臣斉藤家(蝮の異名で有名な家柄)と、河野一族
 稲葉家とその関連で出てくる徳川家光の乳母、春日局と河野家の関連を説明したいのだと
 思われます。

 春日局は、ご承知のように徳川家光の乳母で、家光の「乳母コンプレックス」で後世
 ドラマに度々登場します。
 同女は父は斉藤利三、母は河野家支族とされる、稲葉一鉄の娘(あん)とされています。

 慶長9年竹千代の乳母となります。

 ここで野嶋さんちとニヤミスが報じられます。

 以前にも書きましたが、野嶋さんの先祖が板倉勝重に仕えていますが、勝重は公募した
 竹千代(家光)の乳母にこの稲葉あん(後、春日局)を推挙し見事乳母に送りこみます。

 野嶋忠明が江戸町奉行の板倉勝重に出仕していますので、春日局推挙については知って
 いたと思われますし、「先祖親類由緒書」と言われる、いまで云う「履歴書」を目にしていた
 なら、河野家を遠祖と認識していたでしょうから、同族の娘、稲葉あんをを強く上司に推薦した
 ことでしょう。

 家康に絶対の信頼を受けていた板倉勝重の推薦ならほぼOKです。

 もっとも別の見方をすれば、推薦理由にあんの家柄、良人の戦功、最大の功は関が原の
 合戦で小早川秀秋の家老、平岡頼勝とともに、秀秋の徳川方への寝返りを工作した功労者
 ともされています。海千山千の女なのでしょう。

 家康の目の上のたんこぶの信長を殺して呉れた、明智光秀の縁故に繋がる家柄は
 徳川家にとっては功臣の部類でしょう。まして小早川裏切りを成功させたとするなら
 他家の推薦を排除する理由に十分です。

 結果として毛利西軍は負け、河野家を庇護をしていた毛利をして、河野家再興の夢は
 消えてなくなります。事実であるなら、毛利及び河野家からすれば「一級戦犯」と
 なりますが、・・・。
 河野家の末裔達にとってはあまり誇れる女性ではないはずなのですが、よく話題にでます。

 大野家にとってはこの女性は、「談話室ゆづき」で書きましたが、大野の娘が
 同時期宮中に入り、春日局の差し金とされる、徳川家の娘の天皇家への入嫁で、徳川の
 血が入る子が生まれますが、なぜか乳母として夭死させます。

 推測ですが、徳川の権力が宮中に入り込むことを嫌った、天皇家の指図と思われます。

 この時「公家諸法度」を制定し天皇以下公家を監視したのが、京都所司代板倉さんですので野嶋さんもかかわっていたと思われます。

 林羅山は同じく武家諸法度の制定に尽力していますから、板倉さんは両法度の法の番人
 で野嶋さんは実務を担当していたと思われます。

 余談ながら板倉さんは江戸町奉行の時、数々の「名裁き」をして、大岡越前に比較されますが
 実態は全くの逆で、板倉さんの名裁きを後の人たちが大岡越前の功績としてパクってます。
 有名な「三方一両損」は大岡の判例ではなく、板倉勝重の裁きです。

 ドラマや講談でどんどんやるので、「大岡裁き」になってしまいました。

 同様なことが、水戸と江戸しか知らない徳川光圀こと黄門様が全国を漫遊しますが
 これも全くの出鱈目ですが、子供たちと老人は歴史の事実として信じて疑いません。

 このように「常識」は作られます。

 もっとも、助さんは実際に神社仏閣の古文書を漁っています。

 長州藩の公式記録にも残っています。
この時「お上の御用」と各藩に協力を指示した
 ことが、後に権力的な「この紋所が目に入らぬか!」とのキャッチフレーズとして
 転訛したのでしょう。ドラマは悪者をやっつけますからこの言葉は爽快ですが、

 実態は権力をかさに門外不出の文書まで提出させたので、皮肉的な言葉のようです。

 もちろんこれは光圀が藩の財政の大半を傾けて、「大日本史」編纂の基礎資料収集
 活動の一環なのですが。

 東大史料編纂所はこの史料を引き継いで、六国史以来の「日本国正史」を作ろうとした
 機関の現在の姿です。
 よって史料は一級を集めている所以です。完成はしていませんが。

●庵主さまもこの記事を見ると思いますので、付け加えますと、林羅山家は加賀の山林の
 地主(百姓)と伝わり、羅山は養子の後、紀伊に行き牢人となり、後に寺に入れられ
 ますが得度を拒みます。
 よって、伊予河野系とされる林家とは関係ないと思います。

  • [65]
  • Re: 野島は能島の一統か? 野島内匠義忠は

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月29日(水)07時47分15秒
 
>>64
> > 東大史料編纂所の資料で『吉見・浦・両村上略系譜』と言うのを見つけましたが、これも後年の編纂のようですので2次資料で信頼性はあまりありませんか。奥付の前2ページに「野嶋ハ 村上図書家筋 因嶋ハ 村上太左衛門家筋 来嶋ハ 今江戸ノ久留嶋□ (来嶋ハ伊豫ノ河野ノ分レノ様 系ニ見ヘタリ 紋所モソバヲシキ チヂ三 三ノ字然レハ 来嶋ハ 越智ナリ) 但来嶋茂 本村上ニテ 本家ハ村上図書(能嶋ナリ) 二男ハ 来嶋 三男ハ村上太左衛門(因嶋ナリ)」などとありますが如何なものでしょう。野嶋と能嶋と入り交じっています、区別していなかったのか後世に写し間違えたか(通豊の項でも、曽我、曽根、曽根とあり、最初の1つは明らかに写し間違いです)。村上隆勝の没年は、4月に呑舟氏が天文2年(1533)卒を発見される以前の大永7年(1527)9月3日になっています。刈屋口についても記載はありますが、敵将だけのようで野嶋通豊に相当するような名前は見あたりませんでした。
>
> ●よくこの史料を見つけましたね。

最初に出会った「刈屋口の戦い」がひっかかっておりますので、加藤・佃側の資料だけでは片手落ちですから村上からの文書がないかと確か「村上家譜」か何かでデータベースにかかった3つのうちの一つです。予州でしたら或いは地元の図書館にも写本などおありかと思うのですが。

>
>  この史料は最終頁に書いてあるように毛利家家令井関義晴が史料編纂所に寄贈したものです。
>  井関氏が編纂したのか別人が編纂したものかは判明致しませんが、どちらにしろ毛利家の
>  史料管理者の誰かが書いたものと思われます。
>
>  出典の殆どは「萩藩閥閲録」「同譜録」「各家差出古文書」と毛利家の自身の文書を
>  ベースにしてあるものです。
>
>  よってそれぞれの家の略譜は各家が差し出した譜に他家と毛利一門の関係記録を照合し
>  補強してありますので、閥閲録の内容や同譜禄の内容と若干違いますが一級の史料です。
>  原則、親引きです。
>  後世の我々にはこちらの方が分かり易いですが、原本と違う處の出典をまた確認する
>  必要がありますが、殆ど閥閲録の中のどこかにありますから安心です。

やっとまともな資料にあたりましたか、苦笑。

> ●能島と野島、野嶋は文書により適当に書かれて居ますので全部同じと判断しても
>  差し支えないと思います。
>  ただし正式にはすべて村上と書きます。

なるほど、そのあたりの区別はさほど厳密ではなかったのですね。
確かに私信ではフルネーム全て書くとは限りませんね。

>
> ●曽我は曽根の間違いです。

はい、これは流石に私にも判りました。曾我兄弟の仇討ち話でも読み過ぎたんでしょう、笑。

> ●村上隆勝の没年は村図書家の報告書を書いてあるだけです。
>  この報告書は18世紀中頃の提出物ですので、16世紀のことは曖昧だったのだと思います。
>
>  私の天文二年没説は、大野直政の息子で松前の陣で大怪我をした大野直房(号・是水)
>  が、後に村上家家老の時、村上家菩提寺の大龍寺の変遷について総本山永平寺に説明
>  した報告書の写しです。18世紀の村上図書家の報告書より、1600年初頭の文書の方が
>  信頼性があります。もちろん村上武吉もまだ生きています。

そうですね、この種の文書は「ゆづき」で師がご指摘のように、虫食いなどで書き直すでしょうから、古いものほど信頼性は高いですね。

> ●野嶋さんも段々深みに嵌まりつつありますね(笑い)
>  その内、知りたいことがはっきりしてきます。
>  継続は力です。それとRoots探しの母上の遺伝子を引き継いでますね(笑)

以前書きましたように「過去のない」母が何故野嶋の系譜を手書きで写していたかは謎のままです。自分の代で名前が途切れたので何か残しておこうと思ったのかもしれません。私の方は、武吉、元吉の項の慣れない毛筆を集中して読んでいるともう目がチカチカしています。老いを感じます。

> ●一時前に書き始めてもう三時間近く経ちました。年をとると書き間違いがないか確認するのに手間取ります。それでも字や出典や助詞を間違って投稿してしまいます。
> ボケはじわじわと忍び寄ってきます。おやすみなさい。

呑舟師にはいつも深夜まで本当に申し訳ありません。大分以前(24)に野嶋家の流れと時代背景を実に要領よく解説して頂き改めて厚く御礼申し上げます。私が次代に残せるとしてもこれで十二分です。まあ、私の代で全てなくなってしまうかもしれませんが仕方ないと。最近は全て一期一会の心境です。野嶋の件はもし時間がおありでご興味がおありでしたら、で、ご専門の方にご専念をお願い致します。野嶋家のために多大のお時間とエネルギーをお使い頂き、再度心から御礼申し上げます。管理人、今城様始め皆様方にも再三にわたりますがお詫び申し上げます次第です。

  • [64]
  • Re: 野島は能島の一統か? 野島内匠義忠は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月29日(水)03時53分13秒
 
> 東大史料編纂所の資料で『吉見・浦・両村上略系譜』と言うのを見つけましたが、これも後年の編纂のようですので2次資料で信頼性はあまりありませんか。奥付の前2ページに「野嶋ハ 村上図書家筋 因嶋ハ 村上太左衛門家筋 来嶋ハ 今江戸ノ久留嶋□ (来嶋ハ伊豫ノ河野ノ分レノ様 系ニ見ヘタリ 紋所モソバヲシキ チヂ三 三ノ字然レハ 来嶋ハ 越智ナリ) 但来嶋茂 本村上ニテ 本家ハ村上図書(能嶋ナリ) 二男ハ 来嶋 三男ハ村上太左衛門(因嶋ナリ)」などとありますが如何なものでしょう。野嶋と能嶋と入り交じっています、区別していなかったのか後世に写し間違えたか(通豊の項でも、曽我、曽根、曽根とあり、最初の1つは明らかに写し間違いです)。村上隆勝の没年は、4月に呑舟氏が天文2年(1533)卒を発見される以前の大永7年(1527)9月3日になっています。刈屋口についても記載はありますが、敵将だけのようで野嶋通豊に相当するような名前は見あたりませんでした。

●よくこの史料を見つけましたね。

 この史料は最終頁に書いてあるように毛利家家令井関義晴が史料編纂所に寄贈したものです。
 井関氏が編纂したのか別人が編纂したものかは判明致しませんが、どちらにしろ毛利家の
 史料管理者の誰かが書いたものと思われます。

 出典の殆どは「萩藩閥閲録」「同譜録」「各家差出古文書」と毛利家の自身の文書を
 ベースにしてあるものです。

 よってそれぞれの家の略譜は各家が差し出した譜に他家と毛利一門の関係記録を照合し
 補強してありますので、閥閲録の内容や同譜禄の内容と若干違いますが一級の史料です。
 原則、親引きです。
 後世の我々にはこちらの方が分かり易いですが、原本と違う處の出典をまた確認する
 必要がありますが、殆ど閥閲録の中のどこかにありますから安心です。

 逆に言えば毛利家が保管している文書以外からの引用はないと思われますので、
 来島(久留島)のところで「河野家の一族では?」とチョット現代ではピントが
 づれたことを記入してありますが、そのような断片的な文書しか無かったことを
 意味します。
 何故なら、来島は毛利、河野を裏切って秀吉に付き、さっさと大分の大名になりました
 ので、当たり前ですが、萩藩に先祖由来書を出してないからです。

●能島、来島と秀吉の「姫路会談」については、29ページに書かれてある通りです。
 大野兵庫直政の名があると思います。これは村上図書家(元吉系)の譜の引用です。
 別に元吉の弟、景親系の譜を「一学家」と云います。混乱するので、村上武吉の二人の
 息子の家を「萩藩閥閲録」編纂時の当主の官途名を付け区分しただけです。

 別に同じ「御船手組」に因島村上家も居ますので、これと能島村上家を区別する時には
 萩藩は前者を「大村上」後者を「小村上」と分けます。ややこしいですね。

●能島村上が提出した系図では村上師清の三人の子がそれぞれ、宗家能島、分家来島、因島
 村上になったと書いてありますのでそれを鵜呑みにしていますが、実態は全く別々の
 出自と私考えています。来島は河野家に近く、河野通直(先代)の娘等と婚姻関係を
 繰り返し、河野家の発言力を確保しています。
 これに対し因島村上は小早川に近く、小早川グループと看做された形跡があります。
 よって、姫路会談に秀吉は因島村上を呼んでません。小早川と一体と判断されていた
 か、影響力がなかったかのどちらかでしょう。

 牛福通直(河野家最後の当主)は来島の子とされてます。
 これもややこしいのですが、来島に嫁いだ、毛利家家臣宍戸氏の娘が、通直を生み
 後に河野家当主通宣と再婚し通直を連れ子にして河野家に入り、通宣の家督を継いだ
 ことになっています。この通直はまた毛利家系の吉見家の娘を室にし、その室は天正15年通直
 自害のあと別の毛利分家に嫁していることも、同じ、吉見系譜に書いてあるでしょう。

 通直室は俗名「矢野」と呼ばれていたらしく、通直母は古文書では、春松院OR春禅院
 通直没後は永寿として登場します。書簡では「おもし」「大方」と表現されることもあります。一人の人間が色々表現されるのでややこしいこと限り有りません。
 逆に河野通直のように同名異人が複数いると、幼名か法名かを枕詞につけないと
 分かりません。ああ、ややこし、ややこし!

話がそれましたが、来島は河野家の家督を継いだ立場にありますが、牛福通直を抱える
家臣団により拒否され、これが秀吉に走った最大の原因と言われています。

よって来島(後、豊後森藩二代目により、久留島と改名、秀吉の命ではありません)は
その系譜も村上の譜を捨て、河野家末裔と公言して憚らなかったので、毛利家家令は
江戸時代のそのような認識を踏襲して書いたのでしょう。

実際に「家督の儀」は行われた可能性は高いのですが・・・・。

別スレッドで話題になった「高野山河野家過去帳」の出所は江戸時代の久留島(河野)と
思われる節があります。

●能島と野島、野嶋は文書により適当に書かれて居ますので全部同じと判断しても
 差し支えないと思います。
 ただし正式にはすべて村上と書きます。
 村上家内部の人は自分達のことを、能島とか因島とか来島とかは使わず「村上」のみです。逆にどの村上か分かりにくいのですが、しかも、当時の書簡は、
たとえば「村上山城守武吉」は「村山武殿」と云う様に略しますので、誰宛か分かりません。しかも武吉は掃部頭の時代もありますから、「村掃武殿」と表現されます、息子の元吉
も掃部頭時代がありますから、村掃殿では誰なのか全く分かりません、差出人も同様に三文字程度に略しますので、後世の歴史家は頭を悩ませます。おまけに書簡に年号のないのが
多く、いつ誰が誰に何の話で送った書簡か分からないものも多いのです。
文章の内容と花押等で現物なら大体判断してるみたいですが、書写したものは真贋を含めて
判断が困難となります。
「予陽河野家譜」にも沢山の書簡の写しが証拠物件のように書かれていますが、偽書も相当
 紛れ込んでいます。
私の専門の大野家譜にも同じことが起っています。
たとえば、「予陽河野家譜」に載っている書簡があて先名だけ入れ替えて「大野家正統譜図」なるものに載っています。どちらかが偽書か両方偽書でしょう。

「愛媛県編年史」は判断できず注釈を入れずにそれぞれ載せてますので、慌て者は
「愛媛県編年史」によると・・・などと「間違いない」と説き始めます。

●曽我は曽根の間違いです。

●村上隆勝の没年は村図書家の報告書を書いてあるだけです。
 この報告書は18世紀中頃の提出物ですので、16世紀のことは曖昧だったのだと思います。

 私の天文二年没説は、大野直政の息子で松前の陣で大怪我をした大野直房(号・是水)
 が、後に村上家家老の時、村上家菩提寺の大龍寺の変遷について総本山永平寺に説明
 した報告書の写しです。18世紀の村上図書家の報告書より、1600年初頭の文書の方が
 信頼性があります。もちろん村上武吉もまだ生きています。

●野嶋さんも段々深みに嵌まりつつありますね(笑い)
 その内、知りたいことがはっきりしてきます。
 継続は力です。それとRoots探しの母上の遺伝子を引き継いでますね(笑)

●一時前に書き始めてもう三時間近く経ちました。年をとると書き間違いがないか確認するのに手間取ります。それでも字や出典や助詞を間違って投稿してしまいます。
ボケはじわじわと忍び寄ってきます。おやすみなさい。

  • [63]
  • Re: 野島は能島の一統か? 野島内匠義忠は

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2010年 9月28日(火)21時54分1秒
 
>>62
>  ●一生懸命頑張っていらしゃるのに冷や水かけて申し訳ありません。
>
>  私も当初は鵜呑みにしてまして、相当回り道をしました。
>

いえいえ、闇夜に鉄砲を撃っているようなもので、呑舟師のように広範な知識がないと時間の空費ですね~。ま、取りかかって一月も経っていませんので仕方ありません。

東大史料編纂所の資料で『吉見・浦・両村上略系譜』と言うのを見つけましたが、これも後年の編纂のようですので2次資料で信頼性はあまりありませんか。奥付の前2ページに「野嶋ハ 村上図書家筋 因嶋ハ 村上太左衛門家筋 来嶋ハ 今江戸ノ久留嶋□ (来嶋ハ伊豫ノ河野ノ分レノ様 系ニ見ヘタリ 紋所モソバヲシキ チヂ三 三ノ字然レハ 来嶋ハ 越智ナリ) 但来嶋茂 本村上ニテ 本家ハ村上図書(能嶋ナリ) 二男ハ 来嶋 三男ハ村上太左衛門(因嶋ナリ)」などとありますが如何なものでしょう。野嶋と能嶋と入り交じっています、区別していなかったのか後世に写し間違えたか(通豊の項でも、曽我、曽根、曽根とあり、最初の1つは明らかに写し間違いです)。村上隆勝の没年は、4月に呑舟氏が天文2年(1533)卒を発見される以前の大永7年(1527)9月3日になっています。刈屋口についても記載はありますが、敵将だけのようで野嶋通豊に相当するような名前は見あたりませんでした。

  • [62]
  • Re: 野島は能島の一統か? 野島内匠義忠は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月28日(火)20時28分18秒
 
> 伊豫史談会の豫章記の中程に「河野分限録」がありましたので眺めていたら、総大将に村上掃部頭武慶がありました。越智郡能嶋城、国分山城、務司城三カ所城主と有りますが、これが「村上武吉」ですね。「備中守義光」は最初は「村上備前守由光」、御船大将の所では「備中守」となっていますがこの人でしょうか。

●武慶は村上武吉の前名です。

 義光が内匠かどうか分かりません。


御家老衆には(山方大除城主)大野山城守直昌がみえますが、この方が「大野直政」殿でしょうか。

●大野山城守直昌は河野家筆頭家老で大野直政(ナオマサ)の叔父です。大野直政の親父は直昌(ナオシゲ)の兄で、妾腹のため、家督を得られず、村上武吉に寄宿しました。其の子が直政
で、武吉の娘、村上元吉の姉を嫁にしたことから、親族となり、元吉の家老として、松前の
戦いにも従います。元吉討死により、元吉の嫡男元武(当時五歳)の後見として、老いた
武吉とともに、能島村上宗家の存続に尽力したことになっています。

天正十年四月十日、秀吉の能島村上、来島村上両家を調略のため両家の代表を姫路の
浅野長政邸に招き「伊予河野と安芸毛利、小早川と手を切れ!さすれば能島には伊予国を
与える、元吉、武吉が嫌と断るなら代表の大野直政だけでも味方せよ、さすれば瀬戸内の
制海権(警固権)を与えると」
直政は土産に鑓を1本貰って帰り、この鑓は明治までは屋代島大野家に在ったのですが
いつの間にか消えてしまいました。

これが世に云う姫路会談で、来島は誘いに乗ってホイホイ秀吉についていった。
後に豊後の森城を貰い、明治まで続く大名となった。

片や、能島村上は、河野家と毛利家との恩もあり秀吉(この時は信長)側には付かぬと
きっぱり断ったため、冷や飯どころか、河野家は滅亡、関が原で毛利西軍が負け防長二
国に押込められ、因島村上と能島村上は御船手組に組み入れられ明治まで細々と命脈を
繋ぐ運命となります。


元吉の父の代の分限録でしょうが、つらつら眺めましたが旗下組衆などにも能嶋姓は見あたらないようですので、外様だったのでしょうかね。

●「河野分限禄」は分限帳ではなく、河野家滅亡後に河野家同窓会を開いた時に作ったもの
 と思われます。
 内容からみると1700年前後の「思い出メモ」と思われます。

 理由は単純で、「分限帳」というのは今で言う給与台帳ですので、毎年更新するのが
 建前です。相続で名前が代わった者、降格、昇格による分限(給与)の変更が毎年あるからです。
 給料である石高を集計すると、其の藩の総石高に合致する必要があります。
 もちろんこれは表石でアルバイトした分は別収入です。

 「河野家分限禄」は給与明細を書かず、
  河野家組織の組織構成図を書いているに過ぎません。
  それも記入時代がバラバラと、「ほんまかいな?」と思われる記述と、明らかに勘違い
  事実と異なるもののオンパレードです。

  面白いので、参考にしても結構ですが、鵜呑みにしてはいけません。

  無理もないのです、河野家滅亡後、記憶を頼りに当事者ではない子孫達が一所懸命
  残した文書ですから。

  たとえば河野家御一門に大野直昌、両村上、平岡の名が有りますが、彼等は河野家
  一門ではありません。

  「村上武吉の墓所を芸州竹原珍海山古城にあり」と書いて有りますが、これは元吉
  の間違いで武吉の墓は周防屋代島(写真UP済)にあります。

  このサイトの管理人の今城さんの先祖も外様の西園寺公を通じて家来(陪臣)とされて
  いますが、はてはて?

  ことほど左様に詳しいのですが、信憑性は丁寧に時系列に整理しないと、おっかない
  文書です。

> 「防長将星録」というHPには

●このHPは、歴史上の人物を扱っていますが、管理人が言うように「頑張ります」
 と記述しているだけで、虚実混淆で、私は参考にもしていません。
 出典の記述がないのが最大の理由です。

 以前にも別サイトで話題になりましたが、一次史料に基づくものと二次史料に基づく
 ものでは全く信用度が異なりますので。

 たとえを簡単に書きますと、

 野島さんのお母様が○○学校を何年何月何日に卒業したと我が家の系図に書いてあると
 主帳しても、厳密に言えばこの系図は二次史料です。
 証拠として、卒業証書の現物が添付されれば一次史料に変化します。
 無ければ二次史料です。

 世の多くの系図はこの一次史料の書簡等を添付するか、謄写して信憑性を高めようと
 努力します。
 現物が一次史料です。

 一次史料に基づく書を「親引き」と言います。この親引きしたものに基づいて書かれた
 ものを「孫引き」の書と言って信憑性は下がります。

 裁判所における証拠の真偽も同様な手続きをとります。
 大阪地検の様に原史料を改ざんされると困るのですが、実際には沢山改竄文書はあります。
 詔勅の改竄や偽詔勅もたくさん有りますから、人間することいつの世も同じです。

 ●一生懸命頑張っていらしゃるのに冷や水かけて申し訳ありません。

 私も当初は鵜呑みにしてまして、相当回り道をしました。

 ボケないうちに死なない内にできるだけ真実を掴んで後世に残さないと、と思うと
 廻り道は勉強にはなりますが時間の浪費ともなります。

  • [61]
  • Re: 野島は能島の一統か? 野島内匠義忠は

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月28日(火)10時52分24秒
 
>>60
> 野島は能島(村上宗家)の一統か?
>
> 野島さんのことは、大野直政に聞けばすぐ分かるのでしょうが・・・・?

色々お調べ頂き感謝に堪えません。大野直政殿がご存命でなくて残念です、笑。

談話室ゆづきに出てくる山野井[越智家末裔]を拝見しましたが山野井家の方の広がりも凄いものですね!

常山紀談では村上掃部、能嶋内匠、曾根兵庫、宍戸善右衛門と4人の名前が挙げてありますが、能嶋内匠通高=野嶋民部丞通豊だとしたら「能嶋→野嶋」「内匠→民部丞」「通高→通豊」と誤写?もすざましいですね。

伊豫史談会の豫章記の中程に「河野分限録」がありましたので眺めていたら、総大将に村上掃部頭武慶がありました。越智郡能嶋城、国分山城、務司城三カ所城主と有りますが、これが「村上武吉」ですね。「備中守義光」は最初は「村上備前守由光」、御船大将の所では「備中守」となっていますがこの人でしょうか。御家老衆には(山方大除城主)大野山城守直昌がみえますが、この方が「大野直政」殿でしょうか。元吉の父の代の分限録でしょうが、つらつら眺めましたが旗下組衆などにも能嶋姓は見あたらないようですので、外様だったのでしょうかね。

「防長将星録」というHPには『能島吉忠:村上尚吉の子(一説には能島左近将監隆泰の子)。通称・八郎右衛門。兄・吉充と共に因島水軍の一員として各地で武功を上げる。慶長五(1600)年、河野通軌率いる河野家再興軍の援軍として加藤嘉明領伊予松前城攻撃に参加するも、古三津刈屋口合戦(加藤軍が深夜油断していた河野軍に行った奇襲戦)において村上元吉・曾根兵庫らと枕を並べて討死した。』とありますのでこの人でしょうか。何だか疑惑、笑、ばかりです。出来たらゆっくり能島=野嶋or not を検証していこうかと考えております。

  • [60]
  • 野島は能島の一統か? 野島内匠義忠は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月28日(火)06時23分37秒
 
野島は能島(村上宗家)の一統か?

能島村上が天正13年に下城する時の記事は

「村上三家由来記」によると

「村上掃部頭武慶(村上武吉)の子孫一門悉く天正十三年九月、同年七月より九月に至る間に河野屋形予州没落に依りて、芸州沼田竹原へ退去につき、同時に隋從退去す、…村上掃部頭武慶、備中守義光、築山左近其の外諸大将悉く芸州賀茂郡竹原え退去す。其の余の諸士は思い思い諸国に分離流居す。而して後、備中守義光、同野島内匠頭義忠(義久或いは吉政ともある)は備後鞆に退去」

(鞆は先ごろ話題となった「景観論争」の地。)

とあり野島は能島村上一統である。竹原に行かず鞆に退去とあるので、能島村上宗家の
武吉の直接の家族ではなかった可能性がある。

もっとも大所帯であるから親族各家分散して寄宿したのであろう。

さきごろ流行った、ボートピープルの魁です。

親父の武吉は竹原へ、嫡男元吉は能美島へ、野島は鞆へ、他の伝手のあるものはそれぞれ
自由に分散していったと思われます。(二男がどこに行ったかいま捜してます)

私の専門の大野家関係文書によると、元吉付け家老、大野直政は、家が無かったのか
能美島の山野井家(談話室ゆづきに出てくる山野井[越智家末裔]に寄宿している。)
天正16年(1588)に同家で嫡男直房が生まれ、直房13歳で親に連れられ、総大将村上元吉
とともに、慶長5年松前に出陣し、敵の鑓を頬に受け大怪我をしています。

野島内匠も同行している筈ですが・・・。

これらのことから松前(まさき)の陣に当たり、関係諸侯は一旦竹原に集結をし、総決起大会を開いた【15年ぶりの一同団結!】
後、船団を連ねてまづ興居島に陣を構え、三津に前進したと思われます。

野島さんのことは、大野直政に聞けばすぐ分かるのでしょうが・・・・?

  • [59]
  • Re: 戊辰戦争に於ける館林藩

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)20時23分50秒
 
>>57

「会津口」を見落としてスミマセン。呑舟師は野嶋家が石見に行かずにそのまま館林藩に残った可能性もお考えなんですね。

忠誠と恒(亨)の墓所は手許の古文書にはありません。祖母のかめの小学校からの修了証書があるので生まれたのは岡山県かもしれませんが幼いうちに東京に出てきていたと思われ、墓所は日暮里の善性寺だと思います、母が檀家の勤めをしておりましたので。

  • [58]
  • Re: 戊辰戦争に於ける館林藩

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)20時10分57秒
 
>>57
> ●館林藩は所謂、賊軍となりて、官軍と一戦交えるわけであるが、
>  戦闘参加者名簿をみると、野島を名乗る者は2名記録されている。

凄いですね!古代から近世まで呑舟師はあらゆる資料をお持ちのようで驚嘆です!

>
>  一人は 野島八太郎、本営隊附、通称、穀撃隊所属、会津口へ出兵する。
>  總隊長は斉田源蔵、後に功労賞として五十五両を拝領している。
>
>  他の一人は徒士隊所属、野島林八である。
>
>  通称、八太郎や林八を名乗った先祖はいないでしょうか?

ボロボロの野嶋恒が書いたと思われる細分限帳しかないのですが、文政12年(1829)に亡くなっている平馬忠良が八十郎(祖父の名を次ぐ)→長八→平馬、次代の忠誠は平左(吉?)郎→左?仲□→□□、でこの人の代の天保7年(1836)に石見浜田藩へ君主が移封になって居るんですが、どうもその記載がないようです。天保6年に左?仲□と改名した事、天保9年に寺社□□云々と淡々と自分の事だけ?記載されてます。かなりボロボロですが。亡くなっているのは明治元年か2年のようです。

次代が野嶋恒で、平佐(吉?)郎→一雄→亨で、□年丙寅となってますので干支から慶応2年11月に益田着?と書かれているようですが上がボロボロで読めません。細分限帳は家督相続の年から書かれているようなので、多分安政6年(1859)に忠誠から家督相続していると思います。慶応4年と小さく書いてありますが、本文は「野嶋一雄 用人役申付ク 五十石加増ノ事」の辞令があります。加増辞令は年号を書かないとどこかにあったと思いますので「慶応4年」は後で書き足したのでは思います。誰から貰ったのか?

で、忠誠も恒にも戊辰戦争らしき記載が見られません?ま、かなりの草書風ですので私には読みにくいのですが、汗。戊辰戦争時に存命したと思われる忠誠も恒も「八」を含む名前は使っていたとは記録にありません。

主君について行ったとすれば祖母の出生地とは近くなるんですが、分限帳とはいえ主君が移封になれば書きそうなもんですが、どうでしょう。又主君を変えたか?それとも江戸屋敷に詰めっぱなしで大政奉還を迎えたか?どうも謎と疑惑の宝庫、笑、ですね~。

  • [57]
  • 戊辰戦争に於ける館林藩

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)18時51分20秒
 
●館林藩は所謂、賊軍となりて、官軍と一戦交えるわけであるが、
 戦闘参加者名簿をみると、野島を名乗る者は2名記録されている。

 一人は 野島八太郎、本営隊附、通称、穀撃隊所属、会津口へ出兵する。
 總隊長は斉田源蔵、後に功労賞として五十五両を拝領している。

 他の一人は徒士隊所属、野島林八である。

 通称、八太郎や林八を名乗った先祖はいないでしょうか?

  • [56]
  • どうも怪しげな系譜で

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)16時45分16秒
 
呑舟師には色々広範囲にわたってお調べ頂き感謝に堪えません。

河野諸家に伝わっていると思われるような一貫した系譜でもなく、刈屋口の戦いで戦死して途切れ、板倉周防守に再就職できたものの忠次の代で閉門(よく読めないのですが諫言して許されなかったので隠居を申し出たのですが子供と共に閉門となったようです)、松平館林藩に10人扶持で拾って貰って大政奉還までなんとか食べて行けた、と言うところでしょうか。いくつかは歴史に残る様な戦いに参画したようですが、それも或いは後世の「読み物」か何かで付け加えたのかも?紋所も板倉公のところでクビになったので、松平公に再就職できたから「この際名前も紋所も変えちゃおうか」ってぇな具合だったかもしれません。

刈屋口の戦いでは佃大成の言い訳が「女子供を逃すから」ではなくてどうも「嘉明公が東国にいるので指示を仰ぐから」というように読める口実で明日は城が明け渡されると安心して酒盛り、と加藤公の側の文書と多少は違いがあるようですが、まあ負け戦の流れは同じです。いくつか正史に残るような事件に拘わっている可能性はありますので、その辺から少しずつ調べて参ります。全くの素人ですからどこから攻めていったら良いやら判りませんでしたが、呑舟師のご教示のお陰で少しずつポイントが絞れそうですので、その辺を手がかりに勉強していきたいと思っております。

呑舟師のご指導に改めて感謝申し上げますと共に、掲示板を長々と占拠したにも拘わらず温かく見逃して?下さった今城様始め皆様方にも感謝申し上げます次第です。

  • [55]
  • Re: 家紋

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)15時51分22秒
 
>>54
> >>53
> > 呑舟師のご調査に改めて感服しました。島原の乱について少し判りました、奥が深いですね~。
> >
> > >>51
> > > > 「オモダカ」と系譜の最初にあります。
> > > > 張り付けさせて戴きましたが、オモダカは白抜きです。
> > >
> > > ●何時ごろから使われてるのでしょうね?
> >
> > 今回初めて知ったので判りません。父方のポピュラーな「下がり藤」しか知りませんでした。
> >
> > 師からご教示頂きましたように、忠暁が出仕できた上州館林藩(松平)清武公については「清武公二出仕スル」とだけあり、且つ1826年に系譜の記載が無くなるまで館林藩ですから、「板倉周防守」のように書く必要はなく、「松平公」であることは自明であった。とすると、系譜の筆者は館林藩時代で且つ石見浜田藩への移封以前ではないでしょうか。系譜の標準的な書式が判りませんが、最初に定紋と家紋を書き、ついで野嶋掃部丞忠時の名前と事績(孝霊天皇からの出自)が書かれていますが、この紋所は忠暁以後の館林藩時代に始まったのではないでしょうか。
> >
> > 閉門になった忠次は最終的に400石の石高です。遠山金四郎が500石と見えますのでまあそれほど低い禄高ではないようです。でも主君板倉重冬公に直言出来たのか?或いは藩の重役に諫言したのかもしれませんが、閉門になるような事件?だったら伊勢亀山藩の藩史のようなものがあれば記載があるのではと考えております。
>
> ●河野家の傍折敷三文字系ではないのですね。
>  村上(能島)を意味する、幡印、丸上紋でもないし、
>  村上水軍遠祖を意味する、北畠家の笹竜胆紋(能島村上家の家紋はこちらです)でもなし、・・・・うーむ。
>
>  ただ、河野家末裔がすべて傍折敷三文字ではないので、紋の変遷調査も必要かも知れませんね。九曜の幕紋を持ってますから、古いのは古いのですが、戦国までは遡れないと思います。


22日に最後の残暑の中を下谷の三島神社と鶯谷の元三島神社を参拝してきました。「傍折敷三文字」を実際に見て参りました。全然違う紋所ですね。紋所は系譜の最初に書いてありますが、これからも系譜の書かれた時期が内容ほど古くないという事ですね。なんだか何回も他家から養子を入れて引き継いでますのでぐちゃぐちゃですね、笑。

忠次の前代、宗忠は39で呑舟師が島原の乱で板倉内膳正重昌公に従った18人のうちの能島佐左衛門と比定できるとの事ですので、忠次も能島かもしれませんね。忠次は天和2年(1682)に朝鮮人来朝の折に江戸に下った、ともありますので饗応役の一人、板倉重常公に従って行ったものと思われます。ネットでは大名の名前しか判りませんが、こちらも従者の名前が判れば能島か野嶋かが判るのではと考えております。

  • [54]
  • 家紋

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)13時00分27秒
 
>>53
> 呑舟師のご調査に改めて感服しました。島原の乱について少し判りました、奥が深いですね~。
>
> >>51
> > > 「オモダカ」と系譜の最初にあります。
> > > 張り付けさせて戴きましたが、オモダカは白抜きです。
> >
> > ●何時ごろから使われてるのでしょうね?
>
> 今回初めて知ったので判りません。父方のポピュラーな「下がり藤」しか知りませんでした。
>
> 系譜の文字は忠億の次代の忠昌(1753-1798)から明らかに違っていますので、私は少なくとも2人以上の人が書いたものと考えております。師からご教示頂きましたように、忠暁が出仕できた上州館林藩(松平)清武公については「清武公二出仕スル」とだけあり、且つ1826年に系譜の記載が無くなるまで館林藩ですから、「板倉周防守」のように書く必要はなく、「松平公」であることは自明であった。とすると、系譜の筆者は館林藩時代で且つ石見浜田藩への移封以前ではないでしょうか。系譜の標準的な書式が判りませんが、最初に定紋と家紋を書き、ついで野嶋掃部丞忠時の名前と事績(孝霊天皇からの出自)が書かれていますが、この紋所は忠暁以後の館林藩時代に始まったのではないでしょうか。
>
> 閉門になった忠次は最終的に400石の石高です。遠山金四郎が500石と見えますのでまあそれほど低い禄高ではないようです。でも主君板倉重冬公に直言出来たのか?或いは藩の重役に諫言したのかもしれませんが、閉門になるような事件?だったら伊勢亀山藩の藩史のようなものがあれば記載があるのではと考えております。六郎左衛門忠次の姓が村上か、能島か、野嶋かが判れば野嶋への改姓の時代が少し絞り込めます。尤も藩主重冬公のご乱心?であれば闇に葬られた可能性もありますが。ネット情報では見つかっていませんので図書館で調べようかと考えております。

●河野家の傍折敷三文字系ではないのですね。
 村上(能島)を意味する、幡印、丸上紋でもないし、
 村上水軍遠祖を意味する、北畠家の笹竜胆紋(能島村上家の家紋はこちらです)でもなし、・・・・うーむ。

 ただ、河野家末裔がすべて傍折敷三文字ではないので、紋の変遷調査も必要かも知れませんね。九曜の幕紋を持ってますから、古いのは古いのですが、戦国までは遡れないと思います。

  • [53]
  • Re: 確認させてください。

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)08時48分48秒
 
呑舟師のご調査に改めて感服しました。島原の乱について少し判りました、奥が深いですね~。

>>51
> > 「オモダカ」と系譜の最初にあります。
> > 張り付けさせて戴きましたが、オモダカは白抜きです。
>
> ●何時ごろから使われてるのでしょうね?

今回初めて知ったので判りません。父方のポピュラーな「下がり藤」しか知りませんでした。

系譜の文字は忠億の次代の忠昌(1753-1798)から明らかに違っていますので、私は少なくとも2人以上の人が書いたものと考えております。師からご教示頂きましたように、忠暁が出仕できた上州館林藩(松平)清武公については「清武公二出仕スル」とだけあり、且つ1826年に系譜の記載が無くなるまで館林藩ですから、「板倉周防守」のように書く必要はなく、「松平公」であることは自明であった。とすると、系譜の筆者は館林藩時代で且つ石見浜田藩への移封以前ではないでしょうか。系譜の標準的な書式が判りませんが、最初に定紋と家紋を書き、ついで野嶋掃部丞忠時の名前と事績(孝霊天皇からの出自)が書かれていますが、この紋所は忠暁以後の館林藩時代に始まったのではないでしょうか。

閉門になった忠次は最終的に400石の石高です。遠山金四郎が500石と見えますのでまあそれほど低い禄高ではないようです。でも主君板倉重冬公に直言出来たのか?或いは藩の重役に諫言したのかもしれませんが、閉門になるような事件?だったら伊勢亀山藩の藩史のようなものがあれば記載があるのではと考えております。六郎左衛門忠次の姓が村上か、能島か、野嶋かが判れば野嶋への改姓の時代が少し絞り込めます。尤も藩主重冬公のご乱心?であれば闇に葬られた可能性もありますが。ネット情報では見つかっていませんので図書館で調べようかと考えております。

  • [52]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月26日(日)03時09分9秒
 
> > > 十五石三人扶持ですから雑兵でしょう、正史には残っていないのではないでしょうか。相変わらず読めませんが、重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張したようです、命がけですが。で、翌15年正月元日に「嶋原有馬浦」(で合ってますかね)「原之城」の「石垣」の下で「馬ヲ馳セ敵兵 櫛?山又○ガ首ヲトル」(○は「真崎」の「崎」に似ています)「同時ニ○嶋○○守元?茂之家来○川太○(上と同じ字)と云者と同時?ニ・・・敵兵ノ首ヲ取」とあります。
> >
> > ●『重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張』
> >  とヒントを頂きましたので、名簿を見直しました。
> >
> >  板倉周防守様よりの加勢人員の中に(毛筆の写本のため分かりにくいですが)
> >  有りました。
> >
> >  能島佐左衛門と読めます。
> >  他に、周防守よりの派遣者は
> >  加勢は総勢18人ですね。

●島原の乱が気になりましたので、関係古文書をあたってますが、「ピンポーン」になりませんね。加増されてますから、記録が有るはずなんですが。

 おかげでここ数日島原の乱に嵌まってます。

 面白いもので刊本情報と古文書情報は相当開きがあります。

 世にある歴史出版物は、真面目にこつこつ現物を当りながら書いたものと、
 他人が書いた刊本を繋ぎ合わせて書かれて物とに大きく分類されます。

 後者を私は「本から本を作る」と呼んでいますが・・・・。

 それも商売ですからさておき、

 野嶋氏は主君の弟の加勢に刈り出されたみたいですね。

 この弟は無理やり正月に総攻撃をして死んでしまいました。
 勲功はたてましたが大将をやられましたね。

 これ以降、戦いに板倉の名が出ませんので、遺骸を持って江戸に主従は帰ったみたいですね。野嶋さんは多分、大坂で別れて京都に戻ったと思われます。
 弟は江戸で改葬されて、長たらしい戒名と、辞世の句まで記録されてます。

 おかげで島原の乱は少し詳しくなりました。

 百姓一揆は一揆なのですが本格的な内乱ですね。

 旧松下電器産業提供の「水戸黄門」風に説明すると、

 飢饉で飢えているところに、重税を課して、よって不穏な談合があるとの情報に
 小役人が出張し、出かけた先がバテレンのミサの最中で、事情が分からぬ役人が
 拝んでいるキリストの聖絵を破り捨てた。

 このことが飢えと殉教心に火をつけた。
 キリシタン大名の領地であった領民はキリスト教は邪教の認識は元々ない。

 飢えた人たちと信教を守る人達が合流した抵抗の戦いであったと。

 最後まで黄門様のお出ましがないので悲劇で終わりますが。

 在郷の男女37000人が叛旗を翻しているが、城篭城の折は2万数千に減っているのは
 バテレンとは関係ない人たちが付いていかなかったのであろう。

 しかし、2万数千人が物理的にあの城で篭城できるのであろうか?
 備蓄米が5000石としているから半端ではない。
 しかし飢饉で飯が食えないのにどこから調達したのかしら?

 幕府は四郎に降参するように四郎の母と姉の連名の説諭状を矢文させているが、
 浅間山荘事件の時に犯人の母親を連れてきて説諭させた場面を思い出しました。

 いつの世も日本人はワンパターン。

 母は洗礼名、マナタ、姉は、レシイナと記入してあります。

 乱の結果は幕軍は凡そ140000人動員して、戦死者1902人、負傷者10499人とあり

 天草四郎方は内通者1名を除いて37000人とありますから、ほぼ当初の人員は全部殺されたことになります。

 よって島原の周りの百姓はみんな居なくなったので近隣各藩から募集して入植してもらったともあります。

 裏で援助したと目される紅毛人も幕府の尋問を受け、その調書も残っています。

 しかし、百姓一揆の動機が有るので、ローマ法王庁はいまでも殉教者として認めて
 くれないそうです。

 踏んだり蹴ったりです。合奏 NOT、アーメン。

  • [51]
  • Re: 確認させてください。

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月25日(土)22時45分2秒
 
> 「オモダカ」と系譜の最初にあります。
> 張り付けさせて戴きましたが、オモダカは白抜きです。

●何時ごろから使われてるのでしょうね?

  • [50]
  • Re: 確認させてください。

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月25日(土)20時52分44秒
 
>>49
> > > 野嶋平馬忠暁(タダアキ)
> > >  元禄4年(1691) 藝州ニテ誕生
> > >  享保元年(1716) 『ここから細分限帳 記載有り』
> > >  享保4,6,8
> > >  享保11年(1726) 180石
> > >  享保12年(1727) 御用人
> > >  享保18年(1728) 「板倉」の字有り
> > >  亨保19年(1734)12月1日 44歳没
> > > 野嶋八十郎忠億(タダヤス)
> > >  亨保6年(1721)12月23日 藝州亀山ニテ誕生
> > >  亨保17年(1732) 忠暁養子
> > >  享保20年(1735) 家督相続
> > >  寛政2年(1790) 御用人
> > >  寛政12年(1800)7月29日 80歳没
>
> ●二人の誕生地は藝州ですか?勢州ですか?

スミマセン、以前(上記)の書き込みが間違いで、二人とも勢州(伊勢)亀山生まれです。忠暁の祖父?で元禄11年(1698)7月15日頃に閉門になった忠次は天和3年(1683年)に伊勢(勢州)亀山を立って江戸に下りまた戻ってきています(出張か?)ので、上記二人が生まれる前に板倉重常公に従って京都から亀山に移動したと思われます。

「板倉の字有り」とは、忠暁が祖父忠次の主君の板倉重常・重冬公の家来(同僚か)の田部村勘之助?の三男を養子にした、それが忠億です。忠暁が上州館林藩に出仕できたあとも亀山とはつながりがあったようですね。

>
> ●現在の野嶋家の家紋はなんでしょうか?

「オモダカ」と系譜の最初にあります。
張り付けさせて戴きましたが、オモダカは白抜きです。

  • [49]
  • 確認させてください。

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月25日(土)19時25分55秒
 
> > 野嶋平馬忠暁(タダアキ)
> >  元禄4年(1691) 藝州ニテ誕生
> >  享保元年(1716) 『ここから細分限帳 記載有り』
> >  享保4,6,8
> >  享保11年(1726) 180石
> >  享保12年(1727) 御用人
> >  享保18年(1728) 「板倉」の字有り
> >  亨保19年(1734)12月1日 44歳没
> > 野嶋八十郎忠億(タダヤス)
> >  亨保6年(1721)12月23日 藝州亀山ニテ誕生
> >  亨保17年(1732) 忠暁養子
> >  享保20年(1735) 家督相続
> >  寛政2年(1790) 御用人
> >  寛政12年(1800)7月29日 80歳没

●二人の誕生地は藝州ですか?勢州ですか?

●現在の野嶋家の家紋はなんでしょうか?

  • [48]
  • Re: 改正原戸籍

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月24日(金)16時23分39秒
 
>>47
> > 80年たっているはずですが残ってました。
>
> ●80年以上経っているのではなく、該当、原戸籍の当主が逝去して、まだ80年経っていない
>  からだと思われます。(1930年以降の逝去では?)当人の両親の記述が必要なので、親の名を記述しますが、その人達
>  の逝去日から80年は経っていると思われます。

あ、そういうことですか!殆ど×で消してありますが、母と同年の従兄弟がその時は未だ80歳にならず存命していたので残っていたんですね。今取ろうとしたらきっとありませんね、その従兄弟が本家戸主ですから彼からの記述になっているのでしょう。昭和の終わりに母が取っていてくれたのはラッキーでしたね。

>
> ●三親等ぐらいまで書いてあるのでしょう?
>  大家族と言うより、家長制度の時代ですので、全員家長の養育の範囲で同居していたので
>  しょう。
>  出戻りの兄弟や子供達、又その連れ子、
>  親や自分の妾、等も養育しておれば記入されます。
>  大地主のようですから、相当の経済力があったからだと思われます。
>
>  別に、使用人や家来も記入することもあるようです。
>  他の養育者があれば、これも記入されます。
>  是らは「附籍」と呼ばれ、記入順が後になります。
>  壬申戸籍の記入方法の名残りのようです。
>  もちろん現在はこの方法は執りません。

なるほど、記載の順序も何やら今のもの異なっているので何故かと思いましたが、そう言う理由ですか。

>
> > さて、昨日伊予史談会様から豫章記他が届きまして読み始めました。山内譲・景浦勉両先生の解題によると親清前後で他の信頼できる資料の有無から信頼度が全く違うとの事ですね。
>
> ●入手できましたか。良かったですね。

なんのご連絡もなくいきなり届いたので驚きました、笑。有り難う御座います。

>  伊予河野家入門の最初のテキストですね。次は「予陽河野家譜」「築山本河野家譜」
>  でしょうか、「予陽盛衰記」あたりになるとグチャグチャになります。
>
>  必ず対照本との対比で検証しながら読み進めて行くことをお勧めします。
>
>  たとえば
>
>  予章記(越智時代)←→「古事記」「日本書記」「続日本紀」「日本霊異記」等
>
>  予章記(河野時代)←→「吾妻鑑」「太平記」「平家物語」等や
>              他の「予章記」「河野家譜」一族他家の系譜等と係争相手側
>              の記録。
>
>  河野家譜(戦国時代)←→関係隣国や中央政府の記録。
>              河野一族記録、(土居、黒川、林、稲葉、等)
>
>  河野家は親戚の数と自称河野家末裔の数ほど「系図」がありますので、
>  一つづつの点検は不可能です。
>
>  どの系統か(底本は何か)を見極めながら進んで行く必要があります。
>  底本そのものが出鱈目の場合はその系譜は切り捨てないと時間の無駄です。

ご教示有り難う御座います、筋道が判って大助かりです。豫章記の最初の上蔵院本はシンプルですが(未だ途中です)次の長福寺本はかなり増補してあるようですね。あげて頂いた本の題名はほぼ知っていますが読んだ事もなく、汗、岩波の古典文学大系にほぼ入っているのではと思います。枕草子と今昔物語は持っておりますが。

> ●あまり先走って、私の解釈を書き込むのも、予見と誤解を与えるのと、調べる楽しみを
>  奪うことになりかねませんので、流れや方向性のみに留めたいと思っています。
>  それらを念頭に置きながら、
>
>  「予章記」(上蔵院本)の越智時代の話は荒唐無稽です。
>
>  ①紀元前の孝霊天皇(実在か否かも不明)を始祖に持ってきて、実在が確認されない伊予
>  皇子から始めたのがそもそもの間違いと思われます。
>
>  ②越の国の弟伝説は、「白村江の戦い」で負けた倭軍の抑留の話を聞きかじっています。
>   数十年振りに伊予人が抑留を解かれ故国に帰ってきた話「日本霊異記」のエピソード
>   を挿入しますが、これらは、越智郡に展開した国造家の越智族の話で「続日本紀」あり
>   風早、河野郷の(越智・)河野家とは関連を認められません。
>
>   国造家越智氏の伝承の仮冒と言われる所以です。
>
>   あとは謎解きの楽しみですね(笑)

有り難う御座います。父母の家系図調べも一種の謎解きで楽しめました、笑。こちらは比較にならないほど広く深いので少しずつ、ですね~。荒唐無稽ですかぁ、ちょっと残念です、笑、わずかでも真実はあるのではと期待しました。

> ●野嶋(能島)掃部の宿題を頂きましたので、関係文書を探してますが、まだ見付かりません。
>  能島(民部)記述は「明公秘録」や「加藤嘉明伝」に見えるのみで、まだ他文献からの確認が取れません。上記2本は加藤家の家臣が江戸時代の中頃書いたと思われますので、詳しくはありますが、その分信憑性は落ちます。
>
>  河野家記録か三島村上記録か、毛利・小早川・吉川記録から見出せれば信憑性が高まる
>  のですが。

有り難う御座います。河野-毛利-村上(となると文献はぐっと少なくなるのではありませんか)とこちらもそれなりに広そうですね、スミマセン。
>
>  面白いことに調べている過程で河野家最後の当主、通直の正室は通直が竹原で生害の後
>  さっさと再婚しているので、良人に義理立てして髪を下ろして菩提を弔うなんてセンチメンタルな考えは当時はなかったのでしょうね。
>
>  さすがに母親は子供の死を悼み、生害の翌年、高野山に登り、自分と息子の供養塔を
>  建立し(これが現在高野山奥の院にあります)宿坊、上蔵院に滞在しています。
>
>  この話が、「予陽河野家譜」では最終章で「お家断絶に至った当主、通直は家族・主従を
>  連れ、天正15年、兵庫・有馬の湯で傷ついた心を癒し、更に高野山に登り、代々の祖に
>  お家断絶の報告とその不明を詫びると」、涙を誘う場面として華麗に書き筆を置きます。
>
>  さりながら、この記述は全くの演出で嘘であることが後世の研究で明らかになっています。
>
>  河野家正譜とされる「予陽河野家譜」ですらこのような有様ですから注意深く関係文書を
>  読み進めてください。

そうですか!虚実入り混じってのようですねぇ。少しずつ読み進めて参ります。一般に成立年が下るに連れて「脚色」が加わり演出過剰になっていく傾向があるようですね。

その後野嶋家の仕えた主君をネットで調べて転変が大分判りましたのでご報告までに。

板倉周防守勝重は江戸町奉行として大岡越前守の前は名奉行として有名だったようですね。で、京都町奉行から所司代に取り立てられたそうですがその時に士官かなって京都へ。板倉家の次代重宗も京都所司代ですが、次代重常は初代伊勢亀山藩主ですので墓所からすると野嶋の祖は殿について伊勢国へ移ったと思われます。ところが、次代の重冬公の時に殿ご乱心があったようです。これはネット情報では見あたりませんでしたが、野嶋忠次の記載では「諫言したが許されず」とあります。加増をねたまれてではなくてこれが理由で息子と共に閉門になったようです。でも70歳で天寿を全うしたので打ち首にはならなかったようです、笑。
次々代の野嶋忠暁はどういうツテか館林藩に出仕できました。で、以後代々の松平公に仕えるわけですが、野嶋忠誠の代で松平公が石見の国浜田藩に伊封になりましたので、どうも殿について浜田へ行ったと思われます。その次代が曾祖父の野嶋恒(亨)になるわけですが、明治維新の際に松平公が長州勢に破れて浜田を逃げ出し、飛び地である美作国鶴田で鶴田藩を起こします。現在の岡山市北部のようで(北条郡鶴田=たずた=村、日本語の読みは難しいですね、汗)、祖母の生まれた岡山県北条郡津山村とは近距離。これで岡山県との繋がりの謎?が解けました。その後どうやって江戸(東京)に出てきたのかは未だ判りません。或いは岡山県津山市に行くと野嶋の親戚が一杯居るかもしれませんね!

また野嶋の話に持っていってすみませんが、河野→村上?、能島→野嶋と変えた時期も課題に残っています。呑舟師ご指摘のように江戸末期に「さかのぼって」野嶋に統一するように書き換えた可能性も大ですね。

  • [47]
  • Re: 改正原戸籍

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月24日(金)09時52分21秒
 
> 80年たっているはずですが残ってました。驚いたのは大戸籍でして戸主からその父母(前戸主)弟妹、孫、甥、姪まで一つの戸籍に記載されている事で3,4枚に渡り、且つ各人の記載事項が足りない場合には短冊?を上に貼って書き足している事です。母は次兄に野嶋を継がせるつもり(まだ家督相続が残っていましたから)でしたが昭和21年に2歳で亡くなってますので、それで諦めて私にまわってこなかったようです。で、野嶋の姓は祖母で切れてしまいました。母方の祖母の系統も調査不能です。母は「過去のない人」、笑、でしたので昔話を聞いた事が無くて、亡くなって初めて母の出生地を知った次第です。両親の家はご近所という感じでした。まあ、父方は昔は牛込から現在の新大久保あたりに広い土地を持っていたようで一族がそこに住んでいたようですが士族ではないそうです。

●80年以上経っているのではなく、該当、原戸籍の当主が逝去して、まだ80年経っていない
 からだと思われます。(1930年以降の逝去では?)当人の両親の記述が必要なので、親の名を記述しますが、その人達
 の逝去日から80年は経っていると思われます。

●三親等ぐらいまで書いてあるのでしょう?
 大家族と言うより、家長制度の時代ですので、全員家長の養育の範囲で同居していたので
 しょう。
 出戻りの兄弟や子供達、又その連れ子、
 親や自分の妾、等も養育しておれば記入されます。
 大地主のようですから、相当の経済力があったからだと思われます。

 別に、使用人や家来も記入することもあるようです。
 他の養育者があれば、これも記入されます。
 是らは「附籍」と呼ばれ、記入順が後になります。
 壬申戸籍の記入方法の名残りのようです。
 もちろん現在はこの方法は執りません。

> さて、昨日伊予史談会様から豫章記他が届きまして読み始めました。山内譲・景浦勉良先生の解題によると親清前後で他の信頼できる資料の有無から信頼度が全く違うとの事ですね。素人考えで恐縮ですが、天照大神の天の岩戸隠れ(私もmaru阿弥様の仰るように、アメノウズメのハダカ踊りは見てみたかった、笑)や卑弥呼の呪術と過去の日食との関係の議論、更には5月の「吉備大臣入唐絵巻の謎」と言うテレビ番組では絵巻の順序復元でしたが、私はその中で「日月を封ずる、唐土大混乱」に注目すれば吉備真備の帰国前年の皆既日食と一致すること、等天文学的な記載が豫章記に有れば結構面白そうだと思いましたがなさそうですね。
>
> 新羅の鉄人ははっきり攻め込まれたと書いてありますが、新羅への派兵(土器から茶碗へ)或いは越の国の庶子の蒙古征伐の申し立てなど、攻めたのか攻められたのか(自分に都合良く書く可能性はありますから)は別として何らかの交渉の事実があった、そう言うあたりから「みんな神話で~す」と言いきれず、豫章記の古い部分を解釈する端緒があるように思えるのですが。旧「ゆづき」書庫を拝見しておりますと、「越」の国の名が中国の記録にも現れるなど活発な議論が展開されていたのは拝見しておりますが如何なものでしょうか。

●入手できましたか。良かったですね。

 伊予河野家入門の最初のテキストですね。次は「予陽河野家譜」「築山本河野家譜」
 でしょうか、「予陽盛衰記」あたりになるとグチャグチャになります。

 必ず対照本との対比で検証しながら読み進めて行くことをお勧めします。

 たとえば

 予章記(越智時代)←→「古事記」「日本書記」「続日本紀」「日本霊異記」等

 予章記(河野時代)←→「吾妻鑑」「太平記」「平家物語」等や
             他の「予章記」「河野家譜」一族他家の系譜等と係争相手側
             の記録。

 河野家譜(戦国時代)←→関係隣国や中央政府の記録。
             河野一族記録、(土居、黒川、林、稲葉、等)

 河野家は親戚の数と自称河野家末裔の数ほど「系図」がありますので、
 一つづつの点検は不可能です。

 どの系統か(底本は何か)を見極めながら進んで行く必要があります。
 底本そのものが出鱈目の場合はその系譜は切り捨てないと時間の無駄です。

●あまり先走って、私の解釈を書き込むのも、予見と誤解を与えるのと、調べる楽しみを
 奪うことになりかねませんので、流れや方向性のみに留めたいと思っています。
 それらを念頭に置きながら、

 「予章記」(上蔵院本)の越智時代の話は荒唐無稽です。

 ①紀元前の孝霊天皇(実在か否かも不明)を始祖に持ってきて、実在が確認されない伊予
 皇子から始めたのがそもそもの間違いと思われます。

 ②越の国の弟伝説は、「白村江の戦い」で負けた倭軍の抑留の話を聞きかじっています。
  数十年振りに伊予人が抑留を解かれ故国に帰ってきた話「日本霊異記」のエピソード
  を挿入しますが、これらは、越智郡に展開した国造家の越智族の話で「続日本紀」あり
  風早、河野郷の(越智・)河野家とは関連を認められません。

  国造家越智氏の伝承の仮冒と言われる所以です。

  あとは謎解きの楽しみですね(笑)

●野嶋(能島)掃部の宿題を頂きましたので、関係文書を探してますが、まだ見付かりません。
 能島(民部)記述は「明公秘録」や「加藤嘉明伝」に見えるのみで、まだ他文献からの確認が取れません。上記2本は加藤家の家臣が江戸時代の中頃書いたと思われますので、詳しくはありますが、その分信憑性は落ちます。

 河野家記録か三島村上記録か、毛利・小早川・吉川記録から見出せれば信憑性が高まる
 のですが。

 面白いことに調べている過程で河野家最後の当主、通直の正室は通直が竹原で生害の後
 さっさと再婚しているので、良人に義理立てして髪を下ろして菩提を弔うなんてセンチメンタルな考えは当時はなかったのでしょうね。

 さすがに母親は子供の死を悼み、生害の翌年、高野山に登り、自分と息子の供養塔を
 建立し(これが現在高野山奥の院にあります)宿坊、上蔵院に滞在しています。

 この話が、「予陽河野家譜」では最終章で「お家断絶に至った当主、通直は家族・主従を
 連れ、天正15年、兵庫・有馬の湯で傷ついた心を癒し、更に高野山に登り、代々の祖に
 お家断絶の報告とその不明を詫びると」、涙を誘う場面として華麗に書き筆を置きます。

 さりながら、この記述は全くの演出で嘘であることが後世の研究で明らかになっています。

 河野家正譜とされる「予陽河野家譜」ですらこのような有様ですから注意深く関係文書を
 読み進めてください。

  • [46]
  • Re: 改正原戸籍

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月22日(水)08時10分18秒
 
>>45
> 余談ながら、「改正原戸籍」は直系の人間であれば請求可能ですから、本家筋の人間が居れば、その人に頼んで、区役所で請求可能です。
> 80年経つと廃棄しますからお急ぎください。

有り難う御座います。話の都合上私の個人情報を色々書き込んでしまっておりますが、まあ特定されない範囲で位は考えております、笑。何を考えたのか分かりませんが、母が昭和63年に父方、母方両方の改製原戸籍を取ってありましたので、そこから父母の系図の謎解き、笑、が始まったのですが、昭和の改製原戸籍というもので(平成にも行われていますね)戸主が父方は私の3代上、母方は4代上まで書かれています。東京市牛込区は戦災に遭っていないので残ったのでしょう。安政(1854)から文久(1861)年間の戸主とその両親まで記載されているので父方が文政10年(1828年)生まれの姉、母方が天保2年(1832年)生まれの弟であったと判ったわけです。ただ祖母関係になりますと母が亡くなった今は私の代では完全に父方も母方も親戚関係が途切れていますので困難かなぁと残念ですね。

80年たっているはずですが残ってました。驚いたのは大戸籍でして戸主からその父母(前戸主)弟妹、孫、甥、姪まで一つの戸籍に記載されている事で3,4枚に渡り、且つ各人の記載事項が足りない場合には短冊?を上に貼って書き足している事です。母は次兄に野嶋を継がせるつもり(まだ家督相続が残っていましたから)でしたが昭和21年に2歳で亡くなってますので、それで諦めて私にまわってこなかったようです。で、野嶋の姓は祖母で切れてしまいました。母方の祖母の系統も調査不能です。母は「過去のない人」、笑、でしたので昔話を聞いた事が無くて、亡くなって初めて母の出生地を知った次第です。両親の家はご近所という感じでした。まあ、父方は昔は牛込から現在の新大久保あたりに広い土地を持っていたようで一族がそこに住んでいたようですが士族ではないそうです。

> 尚、「壬申戸籍」は現在は無いことになってますから、入手は不可能です。
> アングラ情報によると、法務省がすべて封印し、100年間未公開としているそうですから
> 我々が生きているうちには見れません。
>
> 昭和も後半までは見れたのですが、興信所を使って盛んに、大企業の就職担当者が氏素性
> を調べたり、婚約予定の相手の氏素性を調べたりしましたので、閉鎖となりました。
>
> 目的は差別民か否かを調べることでしたので、現在の同和の方達の反発もありました。
>
> もっとも東京ですと、戦災で相当焼かれてますので、出てくれば、ラッキーです。

「壬申戸籍」は同和問題で封印されたとネット情報にありますのでこちらも不可能のようですね。

さて、昨日伊予史談会様から豫章記他が届きまして読み始めました。山内譲・景浦勉良先生の解題によると親清前後で他の信頼できる資料の有無から信頼度が全く違うとの事ですね。素人考えで恐縮ですが、天照大神の天の岩戸隠れ(私もmaru阿弥様の仰るように、アメノウズメのハダカ踊りは見てみたかった、笑)や卑弥呼の呪術と過去の日食との関係の議論、更には5月の「吉備大臣入唐絵巻の謎」と言うテレビ番組では絵巻の順序復元でしたが、私はその中で「日月を封ずる、唐土大混乱」に注目すれば吉備真備の帰国前年の皆既日食と一致すること、等天文学的な記載が豫章記に有れば結構面白そうだと思いましたがなさそうですね。

新羅の鉄人ははっきり攻め込まれたと書いてありますが、新羅への派兵(土器から茶碗へ)或いは越の国の庶子の蒙古征伐の申し立てなど、攻めたのか攻められたのか(自分に都合良く書く可能性はありますから)は別として何らかの交渉の事実があった、そう言うあたりから「みんな神話で~す」と言いきれず、豫章記の古い部分を解釈する端緒があるように思えるのですが。旧「ゆづき」書庫を拝見しておりますと、「越」の国の名が中国の記録にも現れるなど活発な議論が展開されていたのは拝見しておりますが如何なものでしょうか。

  • [45]
  • 改正原戸籍

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月22日(水)05時43分37秒
 
余談ながら、「改正原戸籍」は直系の人間であれば請求可能ですから、本家筋の人間が居れば、その人に頼んで、区役所で請求可能です。
80年経つと廃棄しますからお急ぎください。

尚、「壬申戸籍」は現在は無いことになってますから、入手は不可能です。
アングラ情報によると、法務省がすべて封印し、100年間未公開としているそうですから
我々が生きているうちには見れません。

昭和も後半までは見れたのですが、興信所を使って盛んに、大企業の就職担当者が氏素性
を調べたり、婚約予定の相手の氏素性を調べたりしましたので、閉鎖となりました。

目的は差別民か否かを調べることでしたので、現在の同和の方達の反発もありました。

もっとも東京ですと、戦災で相当焼かれてますので、出てくれば、ラッキーです。

  • [44]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月20日(月)21時15分51秒
 
>>43
> > 有り難う御座います。タイトルの孝霊天皇説から刈屋口の戦い、島原の乱と話題をすっかり野嶋家の方にずらせてしまっているので肩身が狭いです。
>
> ●ゆづきの「喫茶室」はこんなものです。本論からどんどんかけ離れていくことは
>  多いのです。通常、横から参入者があるのですが今回は静かですね(笑)

そう言って頂くと少しは心が安まりますが他の方々にはご興味無かったかも、汗、申し訳ありませんでした。

> ●野嶋家の歴代当主の分限帳(職位並に石高帳)を整理しようとしたのでしょうね?
>  結果的に歴代当主の事項整理となっているみたいですね。
>
> ●平馬は歴代の惣領が襲名する名かも知れませんね。
>  通常、先代の引退届けに伴い、家督相続をする時に○○代目、平馬と襲名したのでしょ  う。家督相続すると家の実権は惣領に移り、親父とお袋は隠居部屋に行って、余生を暮します。実権が有りませんから、大切なことは、子供の許可なくしては処理できません。
>  隠居制度が民法上無くなった現在では、分かりにくいでしょうね。

一寸見た範囲では3人平馬を使っているのでご指摘の通り落語家の如く、笑、何代目平馬とは面白いですね!家督相続という事はそう言う事なんですね、現在ではすっかり失われてしまいましたね。

>  結果的にこの文書は1868年以降のものであることが証明されます。
>  多分、野嶋恒さんの労作でしょうね。

慶応年間に「陰徳太平記」を探してきたりで、先祖の事に興味を持っていたと思われますね。とすると、能島→野嶋の時期は相変わらず不明のままになりました、呑舟師には長時間にわたりお調べ頂き感謝です。系譜に出てくるような事件や板倉公、松平公など色々これからゆるりと調べて参ります。

>  次代からがないのは息子が興味なかったからでしょう。

野嶋恒の生没年は実家に行けば判るかもしれませんが、年齢を推測し祖母が明治4年生まれである事、野嶋家の系譜が我家に伝わっている事を考えますと、恒には息子がいなかったか亡くなってしまったかではないでしょうか。父は明治39年生まれでしたが3人の兄は皆1歳にならずして亡くなっておりますので明治時代の幼児生存率は相当低かったと思います。

> ●明治の身分区分の士族を記録していることは、明らかに士分であり、松平の江戸屋敷
>  詰の可能性は大ですね。

1826年に松平公が配置換えになっているにも拘わらず、1829年に忠誠が家督相続していますから、再就職までの期間が短いような気がしました。これもペンディングです。

> ●慶應4年は正月に鳥羽伏見の戦いが始まり、9月8日の明治と改元されますから
>  ドサクサ加増といえばドサクサですが、すぐ新政府が矢継ぎ早の指示をだしますから
>  実効性はなかったでしょうね。
>  7月には松山藩松平氏も新政府から旧姓の久松氏に復すように指示され、同家は即日実施していますから、同様なことが全国で行われたのでしょう。

成程、野嶋恒の辞令もその前の時代に比べると半分以下の大きさで簡素なものです。
本当に何から何までご教示頂き幾重にも御礼申し上げます。また今城様始め皆様方には改めて深くお詫び申し上げます。

  • [43]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月20日(月)19時37分55秒
 
> 有り難う御座います。タイトルの孝霊天皇説から刈屋口の戦い、島原の乱と話題をすっかり野嶋家の方にずらせてしまっているので肩身が狭いです。

●ゆづきの「喫茶室」はこんなものです。本論からどんどんかけ離れていくことは
 多いのです。通常、横から参入者があるのですが今回は静かですね(笑)

> で、ぽろぽろとお宝?とお叱りを被りそうですが、明?細分限帳とういう上の方がボロボロになった古文書がありまして、これまた内容が読めません。始まりは野島平馬忠暁の享保元年(1716)からでして、この中では「能島」ではなく「野嶋」です。いつも長くて恐縮ですがざっと読める年号を拾いますと
>
> 野嶋平馬忠暁(タダアキ)
>  元禄4年(1691) 藝州ニテ誕生
>  享保元年(1716) 『ここから細分限帳 記載有り』
>  享保4,6,8
>  享保11年(1726) 180石
>  享保12年(1727) 御用人
>  享保18年(1728) 「板倉」の字有り
>  亨保19年(1734)12月1日 44歳没
> 野嶋八十郎忠億(タダヤス)
>  亨保6年(1721)12月23日 藝州亀山ニテ誕生
>  亨保17年(1732) 忠暁養子
>  享保20年(1735) 家督相続
>  寛政2年(1790) 御用人
>  寛政12年(1800)7月29日 80歳没
> 野嶋平馬忠昌(タダマサ)
>  宝暦3年(1753)8月5日 武州江戸麻布御下屋敷にて誕生
>  明和7年(1770)
>  寛政10年(1798)11月11日 46歳(家督相続せずに死亡ですね)
> 野嶋八十郎忠良(祖父の八十郎を継ぐ)
>  天明4年(1784)1月3日 上州○井城内ニテ誕生
>  寛政11年(1799)家督相続
>  享和2年(1802)
>  文化2年(1805)
>  文化10年(1813)
>  文化12年 寺仕○次
>  文化13年 寺仕○次
>  文政7(1824) 御用人
>  文政12年(1829)10月病死
> 野嶋平右衛門忠誠(タダトモ)
>  文化10年(1813) 上州○○城内ニテ誕生
>  享保元年(1715)
>  文政9年(1826)12月26日 系譜の記載が消える
>  文政12年(1829) 家督相続130石
>  弘化3年(1846) 御用人
>  文久2年(1862)
>  元治元年(1864)
>  慶應2年(1866)
>  明治元年(1868)12月 没?
> 野嶋恒(ヒサシ) 一雄、亨と改ム
>  安政6年(1859)
>  慶応2年(丙寅1866)
>
> でおわっています。1826年以降に誰に仕えたのか(松平の江戸屋敷、と言う可能性はないですかね?)読めないので残念です。家督相続もし、御用人になっているのでそれなりの主君に仕えたのではないでしょうか。
> またこれを読もうとして思い出しました、実家の過去帳か母に聞いた話か思い出せないのですが、「曾祖父=祖母の父」の名前の「亨」というのが聞き覚えあります。これからすると、割に早い時期に「能嶋」または「能島」から「野嶋」に改めたようですが・・。

●野嶋家の歴代当主の分限帳(職位並に石高帳)を整理しようとしたのでしょうね?
 結果的に歴代当主の事項整理となっているみたいですね。
 今で言う「給与辞令」を大切に保存している所から名誉なことだったのでしょうね。

> 辞令?も何枚かありまして「其方事 用人役 申付ク 七拾石加増○○○ ○○○○右衛門 可申也 □□十一日 (花押) 野嶋平馬との」が平馬忠暁宛のものと思われます。また「野嶋一雄 用人役 申付ク 五十石加増□□ 慶應?四年」もありますが、これは最後の野嶋恒でしょうか?慶応4年なんてぇのは明治政府への移行の時でしょうから、どさくさに紛れてか、それとも幕府は粛々と、ですかね。

●平馬は歴代の惣領が襲名する名かも知れませんね。
 通常、先代の引退届けに伴い、家督相続をする時に○○代目、平馬と襲名したのでしょ  う。家督相続すると家の実権は惣領に移り、親父とお袋は隠居部屋に行って、余生を暮し ます。実権が有りませんから、大切なことは、子供の許可なくしては処理できません。
 隠居制度が民法上無くなった現在では、分かりにくいでしょうね。

 結果的にこの文書は1868年以降のものであることが証明されます。
 多分、野嶋恒さんの労作でしょうね。

 次代からがないのは息子が興味なかったからでしょう。

●明治の身分区分の士族を記録していることは、明らかに士分であり、松平の江戸屋敷
 詰の可能性は大ですね。

●慶應4年は正月に鳥羽伏見の戦いが始まり、9月8日の明治と改元されますから
 ドサクサ加増といえばドサクサですが、すぐ新政府が矢継ぎ早の指示をだしますから
 実効性はなかったでしょうね。
 7月には松山藩松平氏も新政府から旧姓の久松氏に復すように指示され、同家は即日実施していますか ら、同様なことが全国で行われたのでしょう。

  • [42]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月20日(月)09時55分32秒
 
たびたびの訂正で恐縮です。

#40の名前の中で「野嶋八十郎忠良」の横に小さく「平馬改」とありますので最後の七十石加増通知の野島平馬は「忠尭」「忠昌」「忠良」の3人の可能性が出てきました。#41の「御書」(年号は忠良時代)と併せると「忠良」宛ではないかと思われます。また「野嶋平右衛門忠誠」の項で「享保元年」は書写ミスです。忠昌も何年か家督相続した可能性もあります。
元服すれば名前を変えるのでしょうが、こう色々名前が出てきますと素人の頭は大混乱、錯乱状態にあり、申し訳ありません。

  • [41]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月20日(月)08時03分46秒
 
#40で呑舟師が投稿者になっておりますが、私の間違いです。どうしてそうなったのか判らないんですが、汗。追伸でご参考までに。

昭和5年の国勢調査の下書き(原本は提出したでしょうから)では、祖母、野島かめ(明治時代に「嶋」から「島」へ改めたようです。「かめ」も「亀」と書いたりくずし字の「かめ」と書いたり色々です)の出生地は「岡山縣北条郡津山村」とあります。また尋常小学校の各学年の修了証書には「東京府士族 野島かめ」(第一大學区東京府第四中學区第三番公立小學 礫(砂)川學校」、東京府聴の学業優等表彰、なども「野島かめ」であり、祖母の物持ちの良さにあきれております。
文政七甲申年(1824年)の封書の包みでしょうか「御書」として「野嶋平馬」の字もあります。雑多な文書(相当虫が食った私信もありました)があって手つかずですみません。

  • [40]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月20日(月)07時03分59秒
 
>>39
> ●私への気遣いは必要ありません。自分の勉強のためにしているだけですから。

有り難う御座います。タイトルの孝霊天皇説から刈屋口の戦い、島原の乱と話題をすっかり野嶋家の方にずらせてしまっているので肩身が狭いです。

> > 十五石三人扶持ですから雑兵でしょう、正史には残っていないのではないでしょうか。相変わらず読めませんが、重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張したようです、命がけですが。で、翌15年正月元日に「嶋原有馬浦」(で合ってますかね)「原之城」の「石垣」の下で「馬ヲ馳セ敵兵 櫛?山又○ガ首ヲトル」(○は「真崎」の「崎」に似ています)「同時ニ○嶋○○守元?茂之家来○川太○(上と同じ字)と云者と同時?ニ・・・敵兵ノ首ヲ取」とあります。
>
> ●『重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張』
>  とヒントを頂きましたので、名簿を見直しました。
>
>  板倉周防守様よりの加勢人員の中に(毛筆の写本のため分かりにくいですが)
>  有りました。
>
>  能島佐左衛門と読めます。
>  他に、周防守よりの派遣者は
>  加勢は総勢18人ですね。

野嶋六郎左右衛門が能島佐佐衛門ですか。なんかあり得る感じですね。加勢が総勢18人とするとこの人の可能性大ですね。

> > 本人は「○○本通出水西○入寺町禅宗慈眼寺」、室は「勢州亀山安正寺ニ葬ル」とありますので伊勢の国とは縁が深いようです。
>
> ●古地図を調べないとはっきりしませんが、 「○○本通出水西○入寺町禅宗慈眼寺」、は
>  三重県亀山市両尾町平尾の曹洞宗慈眼寺の方かも知れませんね。
>  正しければ、宗忠、忠次とも没年月日がわかっていますから、過去帳が残っている可能性
>  がありますね。あのあたりは戦災を受けてないと思われますので。

あ、京都在住と思ってましたので、では二人とも亀山に葬られたのですね、順次調査します。

> ●これらの記述が当人であるならば、「野嶋」ではなく「能島」を使用していますね。
>
>  野嶋にしたのは比較的新しく、明治時代の戸籍編成の時、能島(のうしま)と呼ばれるの
>  を嫌い、野嶋に変更した可能性が高いですね。
>  江戸時代の寺の過去帳はどのように記されていますか?
>  館林藩の分限帳でもいいのですが。
>
>  「改正原戸籍」は野嶋にしてしまっているのでしょう。
>
>  上記が事実であれば、明治以降の書き写しとなり、
>  能島を野嶋に遡って統一し、内容も整理し、「陰徳太平記」の河野の条を頭に据えて
>  体裁を整えた可能性があります。
>  となると、字体は祖父か曽祖父のものではありませんか?
>
>  江戸以降の記述はほぼ正確と思われますので、元々の原本か、文書が底本としてあった
>  と思われますが、手文庫は残ってませんか?

母は引越魔でしたので、手文庫など無くて野島と書いた菓子箱に入っております。父母(実は母方も元は同姓で天保年間の姉と弟です)の原戸籍を母が昭和の終わりが取っていたので家系図は解読できましたが、個人情報保護の昨今では野嶋家の原戸籍を取るのは不可能でしょうね。

で、ぽろぽろとお宝?とお叱りを被りそうですが、明?細分限帳とういう上の方がボロボロになった古文書がありまして、これまた内容が読めません。始まりは野島平馬忠暁の享保元年(1716)からでして、この中では「能島」ではなく「野嶋」です。いつも長くて恐縮ですがざっと読める年号を拾いますと

野嶋平馬忠暁(タダアキ)
 元禄4年(1691) 藝州ニテ誕生
 享保元年(1716) 『ここから細分限帳 記載有り』
 享保4,6,8
 享保11年(1726) 180石
 享保12年(1727) 御用人
 享保18年(1728) 「板倉」の字有り
 亨保19年(1734)12月1日 44歳没
野嶋八十郎忠億(タダヤス)
 亨保6年(1721)12月23日 藝州亀山ニテ誕生
 亨保17年(1732) 忠暁養子
 享保20年(1735) 家督相続
 寛政2年(1790) 御用人
 寛政12年(1800)7月29日 80歳没
野嶋平馬忠昌(タダマサ)
 宝暦3年(1753)8月5日 武州江戸麻布御下屋敷にて誕生
 明和7年(1770)
 寛政10年(1798)11月11日 46歳(家督相続せずに死亡ですね)
野嶋八十郎忠良(祖父の八十郎を継ぐ)
 天明4年(1784)1月3日 上州○井城内ニテ誕生
 寛政11年(1799)家督相続
 享和2年(1802)
 文化2年(1805)
 文化10年(1813)
 文化12年 寺仕○次
 文化13年 寺仕○次
 文政7(1824) 御用人
 文政12年(1829)10月病死
野嶋平右衛門忠誠(タダトモ)
 文化10年(1813) 上州○○城内ニテ誕生
 享保元年(1715)
 文政9年(1826)12月26日 系譜の記載が消える
 文政12年(1829) 家督相続130石
 弘化3年(1846) 御用人
 文久2年(1862)
 元治元年(1864)
 慶應2年(1866)
 明治元年(1868)12月 没?
野嶋恒(ヒサシ) 一雄、亨と改ム
 安政6年(1859)
 慶応2年(丙寅1866)

でおわっています。1826年以降に誰に仕えたのか(松平の江戸屋敷、と言う可能性はないですかね?)読めないので残念です。家督相続もし、御用人になっているのでそれなりの主君に仕えたのではないでしょうか。
またこれを読もうとして思い出しました、実家の過去帳か母に聞いた話か思い出せないのですが、「曾祖父=祖母の父」の名前の「亨」というのが聞き覚えあります。これからすると、割に早い時期に「能嶋」または「能島」から「野嶋」に改めたようですが・・。

辞令?も何枚かありまして「其方事 用人役 申付ク 七拾石加増○○○ ○○○○右衛門 可申也 □□十一日 (花押) 野嶋平馬との」が平馬忠暁宛のものと思われます。また「野嶋一雄 用人役 申付ク 五十石加増□□ 慶應?四年」もありますが、これは最後の野嶋恒でしょうか?慶応4年なんてぇのは明治政府への移行の時でしょうから、どさくさに紛れてか、それとも幕府は粛々と、ですかね。

  • [39]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月20日(月)03時49分8秒
 
●私への気遣いは必要ありません。自分の勉強のためにしているだけですから。

> 十五石三人扶持ですから雑兵でしょう、正史には残っていないのではないでしょうか。相変わらず読めませんが、重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張したようです、命がけですが。で、翌15年正月元日に「嶋原有馬浦」(で合ってますかね)「原之城」の「石垣」の下で「馬ヲ馳セ敵兵 櫛?山又○ガ首ヲトル」(○は「真崎」の「崎」に似ています)「同時ニ○嶋○○守元?茂之家来○川太○(上と同じ字)と云者と同時?ニ・・・敵兵ノ首ヲ取」とあります。

●『重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張』
 とヒントを頂きましたので、名簿を見直しました。

 板倉周防守様よりの加勢人員の中に(毛筆の写本のため分かりにくいですが)
 有りました。

 能島佐左衛門と読めます。

 他に、周防守よりの派遣者は

 天野藤右衛門
 牧野□□衛
 渡辺十左衛門
 清水小右衛門
 田上次郎左衛門
 新家清□衛
 新家七郎右衛門
 森川権左衛門
 中田十兵衛
 福枝九大夫
 加賀山市朗□衛
 村井甚左衛門
 小阪井□大夫
 草埜仁兵衛
 杉浦□大夫
 岡村□助

 と読める人たちです。加勢は総勢18人ですね。


●正月一日総責めとありますから、この時の手柄ですね。
 尚、落城は二月二七日とあります。

> 本人は「○○本通出水西○入寺町禅宗慈眼寺」、室は「勢州亀山安正寺ニ葬ル」とありますので伊勢の国とは縁が深いようです。

●古地図を調べないとはっきりしませんが、 「○○本通出水西○入寺町禅宗慈眼寺」、は
 三重県亀山市両尾町平尾の曹洞宗慈眼寺の方かも知れませんね。
 正しければ、宗忠、忠次とも没年月日がわかっていますから、過去帳が残っている可能性
 がありますね。あのあたりは戦災を受けてないと思われますので。

●これらの記述が当人であるならば、「野嶋」ではなく「能島」を使用していますね。

 野嶋にしたのは比較的新しく、明治時代の戸籍編成の時、能島(のうしま)と呼ばれるの
 を嫌い、野嶋に変更した可能性が高いですね。
 江戸時代の寺の過去帳はどのように記されていますか?
 館林藩の分限帳でもいいのですが。

 「改正原戸籍」は野嶋にしてしまっているのでしょう。

 上記が事実であれば、明治以降の書き写しとなり、
 能島を野嶋に遡って統一し、内容も整理し、「陰徳太平記」の河野の条を頭に据えて
 体裁を整えた可能性があります。
 となると、字体は祖父か曽祖父のものではありませんか?

 江戸以降の記述はほぼ正確と思われますので、元々の原本か、文書が底本としてあった
 と思われますが、手文庫は残ってませんか?

  • [38]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月19日(日)07時43分17秒
 
> 重宗公が戦死したので戦功にもかかわらず加増は五十石だったと不満だったようですね。

最初の「重宗公」は「大将重昌公討死」の誤りです、スミマセン。

野嶋家と歴史に残る事件との関わりはこれだけのようです。呑舟師にはすっかり私への個人レクチャーになってしまい申し訳ありません、深謝感謝です。今城様はじめ皆様方には長々とお邪魔してしまい心からお詫び申し上げます次第です。

  • [37]
  • Re: 島原の乱

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月19日(日)07時14分20秒
 
>>36

呑舟師の古今東西に渡る御知識、識見に驚嘆です。

> > > 野嶋六郎左衛門宗忠
> > >  寛永3年(1626)家督相続 - 万治3年(1660)2月7日 60歳病死
> > >  与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
> > >  板倉周防守重宗家来 寛永14年嶋原の乱 五十石加増 明暦3年 重宗公遺言ニテ七十石加増
> > >  禅宗慈眼寺ニ葬ル
> > >  宗忠室 板倉伊賀守家来 多○源?左衛門 娘ナリ
> >
> > ●この人は(1600~1660)の人ですから兄が病死により兄の養子として跡を継いでます。
> >  京都所司代板倉重宗に仕え、墓所は京都の慈眼寺と思われます。
>
> ●具体的に島原の乱の言及がありますので、島原の乱(当時は島原の一揆と言う)に出陣
>  した板倉周防の守配下の「出陣者氏名」を調べてみましたが、「野嶋六郎左衛門宗忠」の
>  名は見出せません。
>
>  考えられることは、出陣していないか、名前が違うかですが・・・・。
>

十五石三人扶持ですから雑兵でしょう、正史には残っていないのではないでしょうか。相変わらず読めませんが、重宗公より加勢(の)兵として「板倉内膳正重昌公」に付けとの命で出張したようです、命がけですが。で、翌15年正月元日に「嶋原有馬浦」(で合ってますかね)「原之城」の「石垣」の下で「馬ヲ馳セ敵兵 櫛?山又○ガ首ヲトル」(○は「真崎」の「崎」に似ています)「同時ニ○嶋○○守元?茂之家来○川太○(上と同じ字)と云者と同時?ニ・・・敵兵ノ首ヲ取」とあります。

また「戦功アル者ハ二人ニカギル」というのは自慢でしょうか。小刀を拝領したようです。そう言えば大正時代に母方の叔父や叔母が(子供です)来て祖母の本身で遊んでいたとの事ですが、この時に拝領した小刀かもしれません。

重宗公が戦死したので戦功にもかかわらず加増は五十石だったと不満だったようですね。でも、明暦3年3月18日に重宗公の遺言で更に七十石昇給したようです。

本人は「○○本通出水西○入寺町禅宗慈眼寺」、室は「勢州亀山安正寺ニ葬ル」とありますので伊勢の国とは縁が深いようです。

余談ですが、次代失脚した忠次は(殆ど読めないのですが、涙)なんだか50石ずつ何回も加増されて居ますので同僚のシットを買い「諫言」されたと見ました。いつの時代も組織では「出る釘は打たれる」ですね、コワイ、コワイ。

>
>  前にも申しましたが、能島村上は、自らは村上としか言いません、周りが因島、来島と
>  区別するために「能島殿」と表現することはありましたが。
>
>  改めて、野嶋民部と能島内匠は同一人物か検証する必要がありますね。
>
>  忠時の時、野島姓はありえません。

とすると、後世に書き写した時に「野嶋」に統一をはかったということでかね。

>  戦後、結果として、「私はバテレンでは有りません!」と証明するため、庶民の名簿を作り
>  宗派を明確にさせた。
>  いわゆる、庶民の戸籍となる「宗門改帳」が整備され、明治まで続く元となった事件でもあります。
>  今も昔も「お上」は巧みに下々を管理する仕組みを作ります。

う~む、成る程です!

>
>  現在はもっと進んで「従基ネット」と言う、とても怖いシステムが動いていて、「住民
>  基本台帳」に記載されている各個人を行政が監視出来るシステムにしています。
>  一部のネットに接続していない市長村をを除いて、国民の個人情報は全国、行政内にいれば誰でも見れます。
>
>  総務省は「ロックをかけて権限者が法で規定した情報のみを取り出すだけ」と、安全
>  性を強調していますが、全くの大嘘で、市町村役場ではみんなが見ています。
>  権限者のパスワードが使い回しされてるか。共通パスワードにしてあるからです。

役人のやる事は建前だけで実際にやる事はずさんですよ!

>  おかげで住所変更の届出をしなくても、固定資産税の領収書も、転居前の自治体の水道局
>  からも郵便物が届きます。住基ネットが稼動する前はこのようなことは有りませんでした。勤務先から、家族構成、収入、財産情報まで、関係ない人が覗いています。

あ!そうなんですか!私の友人も米国支社に5年ほど居たんですが、その時に米国に銀行口座を作ったんでしょう。そこへ後にドルを送金しようとしたら、国税局からしつこく理由を聞かれたと言ってました。彼の解説では住基番号の最後の何桁が銀行やらの出入り管理だ、と言ってますが。納税基本台帳を作るとか騒いでますが、役所の縦割りで情報が共有されていない(これには私も在職中に随分悩まされたものです、涙)だけなんではないでしょうか。コワイコワイ。

  • [36]
  • 島原の乱

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月18日(土)20時38分17秒
 
> > 野嶋六郎左衛門宗忠
> >  寛永3年(1626)家督相続 - 万治3年(1660)2月7日 60歳病死
> >  与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
> >  板倉周防守重宗家来 寛永14年嶋原の乱 五十石加増 明暦3年 重宗公遺言ニテ七十石加増
> >  禅宗慈眼寺ニ葬ル
> >  宗忠室 板倉伊賀守家来 多○源?左衛門 娘ナリ
>
> ●この人は(1600~1660)の人ですから兄が病死により兄の養子として跡を継いでます。
>  京都所司代板倉重宗に仕え、墓所は京都の慈眼寺と思われます。

●具体的に島原の乱の言及がありますので、島原の乱(当時は島原の一揆と言う)に出陣
 した板倉周防の守配下の「出陣者氏名」を調べてみましたが、「野嶋六郎左衛門宗忠」の
 名は見出せません。

 考えられることは、出陣していないか、名前が違うかですが・・・・。

 板倉周防の守は、島原の「百姓一揆」をいち早く、京都から江戸表に報告し、江戸からの
 命令を西国の諸大名に指示する役目をしていたと思われますから、野嶋宗忠がこの時、京 都にいたなら、その事務手続きを裏方として行っていた可能性があり後方支援部隊として
 出陣はしていないと思われます。

 島原の乱は西国の大名を動員して鎮圧するのですが、板倉周防守も家来を動員しています がどうも江戸の武士を動員していますので、京都在住者は武士と言うより文官に近いもの
 だったのかも知れません。

 次に名前が違うと仮定すると、出陣者名簿の中で、唯一、「村上右左衛門」が連想されま す。多くの名前が書かれていますが殆ど、中部地区で戦国時代に展開した家の名です。

 野嶋にいつ改名したかがキーとなりますね。

 前にも申しましたが、能島村上は、自らは村上としか言いません、周りが因島、来島と
 区別するために「能島殿」と表現することはありましたが。

 改めて、野嶋民部と能島内匠は同一人物か検証する必要がありますね。

 忠時の時、野島姓はありえません。

 板倉家の勝重時代(京都所司代時代)の「板倉家分限帳」があればはっきりするのですが
 ?

 余談ですが島原の百姓一揆は、天草四郎によって組織だった叛乱となりますが、やはり百姓一揆
 の域は出ておらず、一揆とすると、担当主君の責任を後に問わなければならないので、
 キリシタン(耶蘇教)による宗教戦争に挿げ替える工作を江戸城内で行った形跡があります。
 初期の段階では板倉周防守は宗教戦争と考え、バテレン系大名、大友の領地豊後を見張 れと近隣諸大名に命令している。

 戦後、結果として、「私はバテレンでは有りません!」と証明するため、庶民の名簿を作り
 宗派を明確にさせた。
 いわゆる、庶民の戸籍となる「宗門改帳」が整備され、明治まで続く元となった事件でも
 あります。
 今も昔も「お上」は巧みに下々を管理する仕組みを作ります。

 江戸時代はこの名簿に記載がないと通行手形(パスポート)を寺が発行してくれません
 ので、お伊勢参りもいけません。ちなみに武士は藩が発行します。

 現在のパスポート発行も戸籍謄本の添付を求めますが、あまり考え方は変わっていません
 ね。

 現在はもっと進んで「従基ネット」と言う、とても怖いシステムが動いていて、「住民
 基本台帳」に記載されている各個人を行政が監視出来るシステムにしています。
 一部のネットに接続していない市長村をを除いて、国民の個人情報は全国、行政内にいれば誰でも見れます。

 総務省は「ロックをかけて権限者が法で規定した情報のみを取り出すだけ」と、安全
 性を強調していますが、全くの大嘘で、市町村役場ではみんなが見ています。
 権限者のパスワードが使い回しされてるか。共通パスワードにしてあるからです。

 コンピューターの無い時代では不可能だったのですが。

 おかげで住所変更の届出をしなくても、固定資産税の領収書も、転居前の自治体の水道局
 からも郵便物が届きます。住基ネットが稼動する前はこのようなことは有りませんでし  た。勤務先から、家族構成、収入、財産情報まで、関係ない人が覗いています。
 これらは、本来検索してはならないとされている役所の部局が自由に検索していること
 を意味している。厚生部局も勝手に見ている。

 「菅さん、知ってるのかね、行政の末端は出鱈目だということを!」

 脱線しましたので、オワリ!

  • [35]
  • Re: 刈屋口の戦い-野嶋系譜

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月17日(金)19時58分3秒
 
>>34
> >>33
> > 画像をアップロードするのは生まれて初めての体験ですのでおそるおそる、ファイルサイズは75KBと52KBにしてみたのですが。お邪魔でしたら削除して頂けたら幸いに存じます。
> >
> > 端の方は原文も薄くなっていてスミマセン。
>
>  ●いえいえきちんとUPされてます。
>  画素数が少し足りないのかズームにしますと細部がボケますがなんとか読めます。

早速にコメントを戴き申し訳ありません。元は1頁1MBありましたんで軽くせねばと思いましたがやりすぎでしたか。

>  これは何時の時代か転記したみたいで、元の字を誤って転記した所が散見されます。
>  ザーと見ましたがやはり読めない箇所があります。

やはりそうですか。月橋「寺」も見直してみましたがやっぱり「寺」ですね。こんな所でも後世の誤写が多いのではないかと思いました。

>  全体の意味は変わりません。宍戸を完戸と書いてあいりますが、別に間違いではありません。完戸と書いてある文書は多いのです。松前は真崎と書いてあるみたいです。

そうですか!「常山紀談」をみてはじめて「宍戸」かと思い至った次第です。酒盛りをした近くの島も湾内のどこかではないでしょうか。嘉明の居城の名前は3カ所ほど出てきますが、どう見ても松前とか正木とかの簡単な字ではないような気がしました。

>  気になるのは、文章の最後が「曽根 村上 野嶋□ 戦テ遂ニ死ス」
>  の□が殿に見えることです。
>
>  殿と言う敬称を使用することは「第三者の文章」と思われ野嶋家の記録ではなく
>  別の記録を挿入した可能性が捨てきれません。

なるほど、ここでも野嶋の祖先がどこからか引っ張ってきた、と言うところですね。こういう場合の「殿」はどこまでかかって居るのか素人は悩みます。「陰徳太平記」でも写真版では「其子・・・・」とあって名前が並んでいると、どこまで「其子」がかかるのか判りません、汗。

>  再度、他の文書と照合してみたいと思います。

お暇な折りにご教示頂ければ有り難く存じます。加藤氏の臣などは「常山紀談」には載っていないようですので私なりに調査を継続してみます。

>  「定山紀談」と照合してみましたが、定山紀談の芝居がかった演出がありませんので
>  紀談の成立より、以前の記述と考えられます。
>
>  人名と地名の変遷が成立時代のヒントと考えます。

やはり地元の地理に詳しくないと固有名詞は駄目ですね、スミマセン。表向きの筋としては「秀吉の旧恩」云々はそれなりに説得力があるように思えます。

またまた野嶋の問題の戻しまして申し訳ありませんでした。

  • [34]
  • Re: 刈屋口の戦い-野嶋系譜

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月17日(金)19時00分9秒
 
>>33
> 画像をアップロードするのは生まれて初めての体験ですのでおそるおそる、ファイルサイズは75KBと52KBにしてみたのですが。お邪魔でしたら削除して頂けたら幸いに存じます。
>
> 端の方は原文も薄くなっていてスミマセン。

●いえいえきちんとUPされてます。
 画素数が少し足りないのかズームにしますと細部がボケますがなんとか読めます。

 これは何時の時代か転記したみたいで、元の字を誤って転記した所が散見されます。
 ザーと見ましたがやはり読めない箇所があります。

 全体の意味は変わりません。宍戸を完戸と書いてあいりますが、別に間違いではありません。完戸と書いてある文書は多いのです。松前は真崎と書いてあるみたいです。

 気になるのは、文章の最後が「曽根 村上 野嶋□ 戦テ遂ニ死ス」
 の□が殿に見えることです。

 殿と言う敬称を使用することは「第三者の文章」と思われ野嶋家の記録ではなく
 別の記録を挿入した可能性が捨てきれません。

 再度、他の文書と照合してみたいと思います。

 「定山紀談」と照合してみましたが、定山紀談の芝居がかった演出がありませんので
 紀談の成立より、以前の記述と考えられます。

 人名と地名の変遷が成立時代のヒントと考えます。

  • [33]
  • 刈屋口の戦い-野嶋系譜

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月17日(金)14時31分40秒
 
画像をアップロードするのは生まれて初めての体験ですのでおそるおそる、ファイルサイズは75KBと52KBにしてみたのですが。お邪魔でしたら削除して頂けたら幸いに存じます。

端の方は原文も薄くなっていてスミマセン。

  • [32]
  • Re: ところで

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月17日(金)05時33分16秒
 
>>31
> > >  野嶋忠誠が何で生計を立てていたかによるでしょうね?
> > >  松平斉厚時代の分限帳を調べれば分かるのでしょうが、チョット、マニアックなんでね?
> >
> > 実は何時の時代か判りませんが、野嶋家分限帳もあります。我が家は幸い戦災に遭っていないのですが、ゴチゴチにひっついています。専門家の手に依らないとはがせないようで中身を見たいのですが外から眺めているだけです。時々放送大学の博物館学?や古文書を読む、というような放送を見てますと、墨書は残るので水につけてはがせるようですが素人ではおっかないですね~。
>
> ●なんだ、お宝があるのですか?
>  確かに専門家でないと難しいかも知れませんね。

しかも、まわりはくずれそうでもあります!

>  山口県文書館は今も旧家の襖の裏張りや、団子になった文書の復元を行っています。
>  山口県史に拘わる、史料なら対応してくれますが、江戸の方の物では?
>  ただアドバイスはしてくれると思いますから、一度問合せたら如何でしょう?

情報を有り難う御座います。大変な作業で且つ2次3次資料のようですから、どうも気が引けますねぇ。高校の同級生にも文科系は居るんですが、思いつくのは福岡でイスラム学、鹿児島でインド哲学くらいで国史をやっているのは居るかなぁ、というところです。

>  田山花袋のようになってきましたね(笑い)

はっはっはっ。私の分野で云うと元素の周期律表というのがあるんですが、呑舟師は周期律表の全元素をくまなく深く御研究、私は周期律表の1つの欄に押し込められた14元素のうちの3,4個しかも一部の特性を40年やってただけ、と言うわけです。「習ヒ性トナル」と言いますが、一つ事にかかると24時間頭を離れなくなり、平行していくつもお出来になる方が羨ましいですね。

>  私の学校の先輩に古文書の権威と言われた小松茂美さんと言う人が居ますが、
>  早く教えを乞うていれば、古文書解読にこんなに苦労することはなかったと
>  いまでもつくづく反省しきりです(シクシク)
>
>  彼は故人となりましたが、彼が読めない古文書はもう誰にも読めないと言われています。

呑舟師なれば十分後継者の資格をお持ちと拝察されますが、書庫の「ゆづき」を拝見していると、鈴姫様のお宅にも家系図他の資料がおありのようで、越智-河野の血統の広がりを考えれば公刊されていない資料が多々あるのではないでしょうか。そう言うものが出てくるとスレッドタイトルの理解も進のでしょうがね~。

  • [31]
  • Re: ところで

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月16日(木)21時16分26秒
 
> >  野嶋忠誠が何で生計を立てていたかによるでしょうね?
> >  松平斉厚時代の分限帳を調べれば分かるのでしょうが、チョット、マニアックなんでね?
>
> 実は何時の時代か判りませんが、野嶋家分限帳もあります。我が家は幸い戦災に遭っていないのですが、ゴチゴチにひっついています。専門家の手に依らないとはがせないようで中身を見たいのですが外から眺めているだけです。時々放送大学の博物館学?や古文書を読む、というような放送を見てますと、墨書は残るので水につけてはがせるようですが素人ではおっかないですね~。

●なんだ、お宝があるのですか?
 確かに専門家でないと難しいかも知れませんね。

 山口県文書館は今も旧家の襖の裏張りや、団子になった文書の復元を行っています。
 山口県史に拘わる、史料なら対応してくれますが、江戸の方の物では?
 ただアドバイスはしてくれると思いますから、一度問合せたら如何でしょう?

 田山花袋のようになってきましたね(笑い)

 私の学校の先輩に古文書の権威と言われた小松茂美さんと言う人が居ますが、
 早く教えを乞うていれば、古文書解読にこんなに苦労することはなかったと
 いまでもつくづく反省しきりです(シクシク)

 彼は故人となりましたが、彼が読めない古文書はもう誰にも読めないと言われています。

  • [30]
  • Re: ところで

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月16日(木)20時22分57秒
 
>>29
>
>  野嶋忠誠が何で生計を立てていたかによるでしょうね?
>  松平斉厚時代の分限帳を調べれば分かるのでしょうが、チョット、マニアックなんでね?

実は何時の時代か判りませんが、野嶋家分限帳もあります。我が家は幸い戦災に遭っていないのですが、ゴチゴチにひっついています。専門家の手に依らないとはがせないようで中身を見たいのですが外から眺めているだけです。時々放送大学の博物館学?や古文書を読む、というような放送を見てますと、墨書は残るので水につけてはがせるようですが素人ではおっかないですね~。

>  本来は身分は士分と思われますが、明治の「壬申戸籍」にどう書かれてあったかですが?

これまたいずれ調査したいですね、祖母の父の名前が判り載っていれば、ですが。

> ●上野のドンパチは江戸開城のわづかな期間だけですから、さほど江戸庶民は気にしてなかったと思われます。
>  それより、黒船以降の幕府のあたふたぶりや、薩長と天皇家の動向に一喜一憂していたと思われます。
>  幕臣、勝海舟がいて江戸市民は救われたと思われます。

成程、でも落語関係の文献を見ていますと江戸っ子の見栄でしょうか、結構庶民はしら~と武士の戦いを眺めていたようですね。

> ●古田史学は現在異端児扱いされてましてね。

あ、そうなんですかぁ。自分の学会事情は多少はわかりますが。確かに引用文献などを見ていると、ゴチゴチの九州王朝説ですね。文庫本の著作をもっていたと思いますが俄には思い出せません。

>  少し、意固地になっているところはありますが、他の迎合的現在の国学者からしたら
>  絶対に認めてならない国史観だからです。
>
>  平たく言いますと、現在の天皇家の出自が否定され、「立憲君主国・日本」の土台が揺らぎかねないからです。
>  現・天皇家は大和王朝の末裔とされています。
>  九州王朝が正等と証明されると、「あんた一体誰?」と云われかねません。
>
>  それでなくても、「熊沢天皇が出てきたり、関門海峡で「三種の神器」を失って、
>  天皇家の正当性を証明するものは何一つないのでは?」と揶揄されてり、
>  戦前は「不敬罪」なるもので口封じをしていましたが、現代はそんなものはありません。

時代が時代なら憲兵にとっつかまって獄中ですね。

>
>  「予章記」の古い形をみますと、九州王朝系の人たちの記述のように思えます。
>  これらは、越智郡の国造家の伝承であったと思われますが、
>  途中で誰かが大きく改竄し現在の「予章記」の形にしてしまったのではないかと思われます。
>
>  何故なら、正史に出てくる、「越智郡の国造家の越智氏」は「予章記」にも「越智・河野
>  系図」にもでてこないからです。
>
>  一部の人物を勝手に比定してますが、裏付けはありません。
>
>  よってこのスレッドを立てた次第です。
>
>  とはいえゆるりと参りますか。

書庫の「ゆづき」を拝見していても「豫章記」の世界は壮大なお話で大変興味深いですね、「新羅」はもとより「越の国」など・・・・。ついつい手元の資料が皆孝霊天皇説ですから偏りがちですがもっと広く見ないといけませんね、是非また色々ご教示下さい。

  • [29]
  • Re: ところで

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月16日(木)18時40分44秒
 
> 一例を挙げれば、1826年で系譜が途切れている理由は呑舟師の解読で良く判りましたが、現代にたとえれば親会社(幕府)の命令で子会社社長(松平斉厚)は「海外移転」を命じられる、そこで野嶋忠誠(タダトモ)は社長についていかない選択をしたのか、はたまたリストラにあったか。

●リストラは原則考えられません。
 徳川ホールディングスの子会社館林藩は総事業費61000石で、転出先の浜田藩も61000石
 と事業費総計を、幕府は同額の予算をつけています。
 コテコテの親藩の扱いで、厚遇されてます。
 よって収入が同じですから社長はリストラする必要がありません。
 野嶋家サイドの事情があったのでしょう。
 島根県浜田なんて田舎は嫌だと言ったのかも。

 野嶋忠誠が何で生計を立てていたかによるでしょうね?
 松平斉厚時代の分限帳を調べれば分かるのでしょうが、チョット、マニアックなんでね?

 本来は身分は士分と思われますが、明治の「壬申戸籍」にどう書かれてあったかですが?

 > で、祖母が産まれるまでには45年余りの時間がありますので2代はあったかもしれませんが、ハナのお江戸へ来てリクルートだったのでしょう。この時期は幕末から明治ですから、江戸落語の中興の祖と云われる三遊亭圓朝の伝記や落語のベースとなったこの時期の庶民の暮らしの文献を見ておりますと、上野の山でのドンパチに庶民は息を潜めて暮らしていたそうで、そう言う中を野嶋家はどう生き抜いたのか、等々です。

●上野のドンパチは江戸開城のわづかな期間だけですから、さほど江戸庶民は気にしてなかったと思われます。
 それより、黒船以降の幕府のあたふたぶりや、薩長と天皇家の動向に一喜一憂していた
 と思われます。
 幕臣、勝海舟がいて江戸市民は救われたと思われます。

> で、「予章記」でネットサーフィンをしていて古田史学会報1999年32号の京都の古賀達也氏の論文「『豫章記の』の資料的批判」にぶつかりました。
> 既に論じられているかもしれませんが、この論文の論点は3つあり、第1は小千御子の子供の天狭貫、孫の天狭介も「天狭」の名前(陰徳太平記も同じです)から天孫族を示す事、次の点は十五代の百男の年号で「端正」の九州王朝年号が出ている事、等から九州王朝から伊豫の國へ勢力拡大が図られたと、私は読みとったのですが、「端正」年号については呑舟師が談話室「ゆづき」の「豫章記の謎、その壱」で取り上げられているのを思い出しました。書庫の談話室「ゆづき」は月別になっていて、新参者の私にはその結果がどうなったのか未だ探し出せておりません。同じく呑舟師の神武東征の御解説は成程と思います(ちなみに私は、も?、邪馬台国九州論者です)。
> 新書版の解説やら清張の「古代史疑」、新聞ニュース程度の知識しかないので恐縮ですが、大和盆地での発掘から全国の土器が見つかった(九州固有のものがあったかは判りませんが、三角縁紳獣鏡などもいくらでも略奪して移動できるわけで、発掘された場所が当初からあった場所とは限らないと思うのですが)事からすると大和にも大国があった事に間違いないでしょう。古くは出雲も大国であったでしょう。

●古田史学は現在異端児扱いされてましてね。
 少し、意固地になっているところはありますが、他の迎合的現在の国学者からしたら
 絶対に認めてならない国史観だからです。

 平たく言いますと、現在の天皇家の出自が否定され、「立憲君主国・日本」の土台が揺らぎかねないからです。
 現・天皇家は大和王朝の末裔とされています。
 九州王朝が正等と証明されると、「あんた一体誰?」と云われかねません。

 それでなくても、「熊沢天皇が出てきたり、関門海峡で「三種の神器」を失って、
 天皇家の正当性を証明するものは何一つないのでは?」と揶揄されてり、
 戦前は「不敬罪」なるもので口封じをしていましたが、現代はそんなものはありません。

 「予章記」の古い形をみますと、九州王朝系の人たちの記述のように思えます。

 これらは、越智郡の国造家の伝承であったと思われますが、

 途中で誰かが大きく改竄し現在の「予章記」の形にしてしまったのではないかと思われます。

 何故なら、正史に出てくる、「越智郡の国造家の越智氏」は「予章記」にも「越智・河野
 系図」にもでてこないからです。

 一部の人物を勝手に比定してますが、裏付けはありません。

 よってこのスレッドを立てた次第です。

 とはいえゆるりと参りますか。

  • [28]
  • ところで

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月16日(木)17時06分15秒
 
呑舟師におんぶにだっこで野嶋の系譜を読み解いて頂きましたが、私個人としては相当たくさんの検討課題があります。
一例を挙げれば、1826年で系譜が途切れている理由は呑舟師の解読で良く判りましたが、現代にたとえれば親会社(幕府)の命令で子会社社長(松平斉厚)は「海外移転」を命じられる、そこで野嶋忠誠(タダトモ)は社長についていかない選択をしたのか、はたまたリストラにあったか。
で、祖母が産まれるまでには45年余りの時間がありますので2代はあったかもしれませんが、ハナのお江戸へ来てリクルートだったのでしょう。この時期は幕末から明治ですから、江戸落語の中興の祖と云われる三遊亭圓朝の伝記や落語のベースとなったこの時期の庶民の暮らしの文献を見ておりますと、上野の山でのドンパチに庶民は息を潜めて暮らしていたそうで、そう言う中を野嶋家はどう生き抜いたのか、等々です。
でも、こうした話題は私の個人的興味で、スレッドタイトルからすれば庶家のマイナー且つローカルな話題になるわけで、またまた前置きが長くなり申し訳ありませんが話題を本題に戻す責任を感じております。

で、「予章記」でネットサーフィンをしていて古田史学会報1999年32号の京都の古賀達也氏の論文「『豫章記の』の資料的批判」にぶつかりました。
既に論じられているかもしれませんが、この論文の論点は3つあり、第1は小千御子の子供の天狭貫、孫の天狭介も「天狭」の名前(陰徳太平記も同じです)から天孫族を示す事、次の点は十五代の百男の年号で「端正」の九州王朝年号が出ている事、等から九州王朝から伊豫の國へ勢力拡大が図られたと、私は読みとったのですが、「端正」年号については呑舟師が談話室「ゆづき」の「豫章記の謎、その壱」で取り上げられているのを思い出しました。書庫の談話室「ゆづき」は月別になっていて、新参者の私にはその結果がどうなったのか未だ探し出せておりません。同じく呑舟師の神武東征の御解説は成程と思います(ちなみに私は、も?、邪馬台国九州論者です)。
新書版の解説やら清張の「古代史疑」、新聞ニュース程度の知識しかないので恐縮ですが、大和盆地での発掘から全国の土器が見つかった(九州固有のものがあったかは判りませんが、三角縁紳獣鏡などもいくらでも略奪して移動できるわけで、発掘された場所が当初からあった場所とは限らないと思うのですが)事からすると大和にも大国があった事に間違いないでしょう。古くは出雲も大国であったでしょう。
記紀を始めとする正史は国の存立を正当化する大事業ではないでしょうか。そうした際に、国内のあちこちの国々と戦闘をした結果統一国家を作り上げ天皇家ができあがったと書くのは万世一系にそぐわなくなる、それでつぎはぎをしようとするとつじつまが合わなくなる、と言うのが現実のような気がします。
豫章記にもそう言う点があるとは呑舟師のご指摘ですが、九州王朝の伊豫への勢力拡大を支持する立場からすると、朝鮮交流に長けていたならば九州平野から関門海峡の急流を乗り越えるのも容易、或いは山を越えて大分から伊豫の國へ進出するのもまた朝飯前だったのではと考えております。

雑駁な知識で、且つもう論じ飽きたわい、と言われると一言もないのですが、これをきっかけにお話を呑舟師の提起された本題に戻してまた皆様のお考えをお聞かせ頂ければ何よりです。

  • [27]
  • こちらも深謝です

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)18時29分39秒
 
>>25
こちらも固有名詞を補って頂き有り難う御座居ました。嘉明の居城は「松前」とも「正木」とも読めなかったのですが、「宍戸」を「完戸」としか読めない位ですから読解力は怪しげです、汗。3500騎を数万騎とは針小棒大ですね!嘉明の臣の名前などは「嘉明伝」などを調べれば判るのではないでしょうか、名前を挙げる位ですからそこそこの身分であったのでは、と思っております。心眼を以て、笑、何回か眺めてみます。有り難う御座居ました。

>
> ●上記は下記のような内容ではと思われます。
>
> >『毛利右馬頭輝元ニ(ノ命)従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月(15日) 伊豫之國(松前(正木))之城主加藤左馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ(従)フ時 石田(三成)蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ(相談シ) 故ニ(松前)之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵 宍戸(善兵衛) 同ク(曽根兵庫) 我兵(者)野嶋民部 村上掃部助 数万騎(参千五百騎)ヲ引率シ 藝州ヲ(発)シ 兵船数十艘 (興居)嶋ニ屯シ 使ヲ(佃十成)ニ(遣シ) 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通(朱印状)ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○攻撃テ軍兵○○○と云 城ヲ守ル臣 加藤ノ弟(忠明) 加藤内記 佃治郎兵衛 中嶋○○ 城○水○立○○邑○○○○○シ 使ニタイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ(渡ス)ベシ ○○○○○事ヲ○○ニ○ルベシト云 使者○○ヲ○ 宍戸 大ニ悦シ 明日○○ニ○戸○ヲ○○ベシ 今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ ○○佃次郎兵衛 軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ(投)シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章(狼狽)(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル 宍戸(善兵衛) 野嶋民部丞 曽根(兵庫孫左衛門) (俄)ニ力戦シテ 宍戸ハ 加藤ノ臣 荒川(神左衛門) 野嶋ハ 加藤ノ臣 井上○之助ヲ 討捕と云 ○○○利之軍 ○○乱シテ 友ヲ敵兵ト過戦○○○シテ 曽根(兵庫) 村上(掃部元吉) 野嶋(内匠頭義久) ○戦テ遂ニ死ス』
>
> 唯、内容からすると事件後の100年以上経った「常山紀談」あたりと記事内容が酷似して
> ますので、信憑性は低くなります。

  • [26]
  • Re: 河野八郎通忠

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)18時08分0秒
 
>>24
> ●さっそくの記述有難うございます。
>  少ない史料(資料)の中から検証してみたいと思います。
>  野嶋家は非常に数奇な変遷を辿られていると云うことが分かります。

早速に結果をお教え頂き深謝です。改めて師の博識と調査の御能力に驚嘆致しております。私一人でしたら生あるうちに系譜のあらすじすらも読み解けなかったろうと、感謝感激であります。誤読等多々ありました事をお詫び申し上げます。

それにしてもいつの時代でも宮仕えの身は辛いものですね。京都に勤めていたかと思えばクビになり(忠次の項には色々言い訳の申立書のようなものが2頁余りに渡って転記?されています)一生無職のホームレス?、越智松平(善性寺は日暮里駅北東徒歩5分の所にあり、越智松平氏の菩提寺となっていますのでその縁で菩提寺が移ったのですね、徳川や松平のお墓がありますが野嶋家の墓は通路の端にぽつんと大谷石で墓石が建っているだけです、母が祖母=母の義母から引き継いで檀家の勤めをやっておりました)に仕官が叶ったものの上州は館林に転勤か出向かはたまた再就職か。確かに仰るように数奇な変遷を遂げておりますね!

>  以上、独断と偏見でコメントしてみました。
>  間違っていたらゴメンナサイ!

いえいえ、師のご解読に間違いはないと思います!あとはゆるりと実績?等を読み解いていきます。改めまして野嶋家のために貴重なお時間を戴きました事に厚く御礼申し上げます。今後とも宜しくご指導の程をお願い申し上げます。

早速に伊予史談会の事務局に予章記他の資料をお願いしておきました、こちらも併せて再度御礼申し上げます(「坊ちゃん」と同じくせっかちなもので、汗)。

  • [25]
  • Re: 激励に深謝です

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)18時01分35秒
 
> 『毛利右馬頭輝元ニ従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月 伊豫之國○○之城主加藤左馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ○フ時 石田○○○○蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ヲ○ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ月 故ニ○○之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵 宍戸○○ 同ク ○○○ 我兵○野嶋民部 村上掃部助 数万騎ヲ引率シ 藝州ヲ○シ 兵船数十艘 ○○嶋ニ屯シ 使ヲ○○ニ○○○ 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通○○ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○攻撃テ軍兵○○○と云 城ヲ守ル臣 加藤ノ弟? 加藤内記 佃治郎兵衛 中嶋○○ 城○水○立○○邑○○○○○シ 使ニタイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ○ベシ ○○○○○事ヲ○○ニ○ルベシト云 使者○○ヲ○ 宍戸 大ニ悦シ 明日○○ニ○戸○ヲ○○ベシ 今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ ○○佃次郎兵衛 軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ○シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章大○(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル 宍戸○○○ 野嶋民部丞 曽根○○助 ○ニ力戦シテ 宍戸ハ 加藤ノ臣 荒川○○○ 野嶋ハ 加藤ノ臣 井上○之助ヲ 討捕と云 ○○○利之軍 ○○乱シテ 友ヲ敵兵ト過戦○○○シテ 曽根 村上 野嶋 ○戦テ遂ニ死ス』

●上記は下記のような内容ではと思われます。

>『毛利右馬頭輝元ニ(ノ命)従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月(15日) 伊豫之國(松前(正木))之城主加藤左馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ(従)フ時 石田(三成)蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ(相談シ) 故ニ(松前)之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵 宍戸(善兵衛) 同ク(曽根兵庫) 我兵(者)野嶋民部 村上掃部助 数万騎(参千五百騎)ヲ引率シ 藝州ヲ(発)シ 兵船数十艘 (興居)嶋ニ屯シ 使ヲ(佃十成)ニ(遣シ) 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通(朱印状)ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○攻撃テ軍兵○○○と云 城ヲ守ル臣 加藤ノ弟(忠明) 加藤内記 佃治郎兵衛 中嶋○○ 城○水○立○○邑○○○○○シ 使ニタイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ(渡ス)ベシ ○○○○○事ヲ○○ニ○ルベシト云 使者○○ヲ○ 宍戸 大ニ悦シ 明日○○ニ○戸○ヲ○○ベシ 今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ ○○佃次郎兵衛 軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ(投)シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章(狼狽)(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル 宍戸(善兵衛) 野嶋民部丞 曽根(兵庫孫左衛門) (俄)ニ力戦シテ 宍戸ハ 加藤ノ臣 荒川(神左衛門) 野嶋ハ 加藤ノ臣 井上○之助ヲ 討捕と云 ○○○利之軍 ○○乱シテ 友ヲ敵兵ト過戦○○○シテ 曽根(兵庫) 村上(掃部元吉) 野嶋(内匠頭義久) ○戦テ遂ニ死ス』

唯、内容からすると事件後の100年以上経った「常山紀談」あたりと記事内容が酷似して
ますので、信憑性は低くなります。

  • [24]
  • Re: 河野八郎通忠

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)17時05分34秒
 
●さっそくの記述有難うございます。
 少ない史料(資料)の中から検証してみたいと思います。
 野嶋家は非常に数奇な変遷を辿られていると云うことが分かります。

> 野嶋掃部丞忠時
>  - 弘治元年(1555)10月晦日 厳島の戦い、生没年不詳

●厳島の戦いに記述は正確ですが、この段階では秀吉と直接拘わりがありませんので
 野嶋ではなく能島の表記が正しいでしょう。
 只、忠時が誰か、村上系図をあたりましたが見出せません。

> 野嶋民部丞通豊
>  - 慶長5年9月(1600) 刈屋口の戦いニテ戦死

●討死の日が分かりませんが、村上元吉と一緒であれば9月16日なのでしょう。
 元吉の配下ではなく、同僚なのではないでしょうか?
 別本に能島内匠頭討死とありますので、この人のことかも知れません。
 この人は異名が多く、義久、吉政、義忠、通高 等が有りますので、
 通高の高の旧字が誤りて通豊になったか、その逆の可能性があります。
 能島村上配下の四城のいづれかの城代の可能性があります。
 努司城あたりかなと思われます。

> 野嶋民部忠由
>  生没年不詳 父戦死す 武州八王子へ移る

●この方の引越しの動機はよくわかりませんが、どちらにしろ所領を失いリクルートの
 旅と思われます。

> 野嶋与右衛門忠明
>  - 元和5年(1620)12月15日 54歳
>  板倉伊賀守勝重 江戸町奉行家来 百?十五石三人扶持
>  伏見月橋寺ニ葬ル
>  忠明室 伏見月橋寺ニ葬ル

●この人は(1566~1620)の人ですから、板倉勝重(1545~1624)が慶長6年に京都町奉行
 (後の京都所司代)に任官の後に、仕官が叶い、京都へ赴任したものと思われます。
 主な仕事は京都朝廷と豊臣家の監視であったと思われます。
 家光の乳母の公募に春日局を推薦した裏方役を同族として支援した可能性があります。
 墓所の伏見・月橋寺は月橋院の誤りではないでしょうか?

> 野嶋金太夫忠英
>  元和4年(1594、己未とあるので元和5年の誤り?)家督相続 - 寛永3年(1627)4月2日 33歳病死
>  伏見月摺院ニ葬ル

●この人は(1594~1627)の人ですから、父の跡を継いで、京都勤番と思われます。

> 野嶋六郎左衛門宗忠
>  寛永3年(1626)家督相続 - 万治3年(1660)2月7日 60歳病死
>  与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
>  板倉周防守重宗家来 寛永14年嶋原の乱 五十石加増 明暦3年 重宗公遺言ニテ七十石加増
>  禅宗慈眼寺ニ葬ル
>  宗忠室 板倉伊賀守家来 多○源?左衛門 娘ナリ

●この人は(1600~1660)の人ですから兄が病死により兄の養子として跡を継いでます。
 京都所司代板倉重宗に仕え、墓所は京都の慈眼寺と思われます。

> 野嶋六郎左衛門忠次
>  万治3年(1660)家督相続 - 宝永5年(1708)8月12日 70歳病死
>  板倉周防守重宗→板倉周防守重冬家来 加増が続いたが元禄11年(1698)諫言により失脚?
>  慈眼寺ニ葬ル
>  忠次室 ○○○守様家来 近藤○○ 娘ナリ

●この人は(1638~1708)の人ですので板倉勝重の孫、重冬に主君替えとなってる感じ
 ですね。重冬(1672~1709)は亀山藩初代藩主板倉重常の養子となり、1688年相続により
 二代目藩主となりますから、養子に行く時に忠次は付け侍とさせられたのでしょう。
 藩主になって10年後になんらかのトラブルがあったのかもしれません。
 墓が京都であることは菩提寺は京・慈眼寺としてたのでしょう。

> 野嶋長右郎?忠恕
>  - 元文5年(1740)病死
>  板倉周防守重冬側人として勤めるが父と共に一門退リ 一生浪人

●この人は父親の失脚に伴い、無職となった可哀相な人となりますね。

> 野嶋平馬忠暁
>  元禄4年(1691) 勢州○山ニテ誕生 - 亨保19年(1734)12月1日 44歳病死
>  清民?公御代 出仕(どこの誰へ?)
>  江戸谷中村善性寺二葬ル(現在の野嶋家の墓所)
>  忠明室ハ(以下解読不能)

●この人は(1691~1734)三重県亀山で生まれていますから、父親は江戸詰ではなく
 地元亀山で仕事をしていたのでしょう。
 この人は、越智松平家(館林藩)に仕官が叶ったものと思われます。
 系図の「清民?公御代 出仕>」は→「松平清武民部」と書いてあるのでしょう。
 谷中の善性寺は関妙山善性寺ではありませんか?
 なら、松平館林藩の菩提寺ですから、この人の代で菩提寺を変更したのでしょう。

 野嶋左仲○忠億
>  亨保6年(1722)12月23日 勢州亀山ニテ誕生 亨保17年 忠暁養子 享保20年家督相続 - 寛政12年(1800)7月29日 80歳病死
>  上州館林城下 象?教寺ニ葬ル
>  忠億室 同家?中根津?右三○娘ナリ
> 野嶋平馬忠昌
>  宝暦3年(1753)8月5日 武州江戸麻布御下屋敷ニテ誕生 寛政6年家督相続 - 寛政10年(1798)11月11日 46歳病死
>  上州館林城下 象?教寺ニ葬ル
>  忠昌室 同家中佐野次右衛門娘
> 野嶋右?仲太忠良
>  天明4年(1784)上州○井城内ニテ誕生 寛政11年家督相続 - 文化10年(1813)
>  文化5年 山田○七娘 婚姻

●上記3名は館林藩士として仕えたのでしょう。

> 野嶋平右衛忠誠
>  文化10年(1813)上州○○城内ニテ誕生
>
> 忠誠の文政9年(1826)12月26日の記載を以て終わる、忠良、忠誠の享年や墓所の記載はなし

●1826年主君松平斉厚は館林から浜田藩へ移封となりますから、野嶋家は浜田へは付いて
 いかず館林藩を放れたのではないかと思われます。
 没年や、墓所の記載がないのは、野嶋家にとって慌ただしい時代になったのではないでし ょうか?

 以上、独断と偏見でコメントしてみました。
 間違っていたらゴメンナサイ!

  • [23]
  • Re: 予章記の入手方法

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)16時44分28秒
 
>>22
> 予章記を見ずして河野を語る無かれ、と皆様にお叱りを被りますが、庶流とはいえ通忠につながるならば予章記は是非手元に置きたいものですが、Amazonやネット古書店では入手不可能、図書館ではコピー許容枚数100頁を越えますので、神田の古書街などを探索しようかなどと考えております次第です。
>
> ●予章記は簡単に手に入ります。
>  掲示板に戻って、メインをクリックしてください。
>  そこに参考図書を今城さんが書いてます。
>  出版社に注文すればすみます。
>
>  別に「正岡子規記念館」松山をネット検索してもらえばそちらでも販売していると思います。1900円です。送料別。

あ!そんなに簡単にですか!国会図書館の図書カードですと、伊予史談会双書第5集、1982.8、217p、他に群書類集なんてぇのは(失礼、江戸落語の大ファンだもんで)752pの一部ですのでこれはかなわんと思っておりました。ではでは早速に。

今日のお昼の某元国営放送で、笑、道後温泉からの中継がありました。夏目漱石の大ファンでもありますが、こちらにお邪魔して一層身近に感じました。

  • [22]
  • 予章記の入手方法

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)15時09分34秒
 
予章記を見ずして河野を語る無かれ、皆様にお叱りを被りますが、庶流とはいえ通忠につながるならば予章記は是非手元に置きたいものですが、Amazonやネット古書店では入手不可能、図書館ではコピー許容枚数100頁を越えますので、神田の古書街などを探索しようかなどと考えております次第です。

●予章記は簡単に手に入ります。
 掲示板に戻って、メインをクリックしてください。
 そこに参考図書を今城さんが書いてます。
 出版社に注文すればすみます。

 別に「正岡子規記念館」松山をネット検索してもらえばそちらでも販売していると思います。1900円です。送料別。

  • [21]
  • Re: 河野八郎通忠の義・・と~三嶋村上氏への変遷は?

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)14時53分43秒
 
>>20
> 江戸時代の御家名のご案内の義、御方母上様の思いを察するに余りあり。
> 野嶋氏の家名を語る際に自然に頭を過ぎるのは、『能嶋』・『野嶋』との奥の所以に関る古籍を感じ得ない想い也。
> さて、通有の嫡男通忠のことは我等土佐国・河野氏の同族に於いても身近に感じ取る由縁にて、二男通茂に続く~三男通種の子孫にて候也。
> 多分に先だっての、伊予小松の郷・長福寺の豫章記の古文書を時下に拝見して、我が家の『豫章記』・・なかなか氏の故御尊父の遺筆の書『愛止比賣國・河野家譜・豫章記』の文章の一文とも酷似の義にてご参考までに素人の腕前で愛機を屈してお送りしておきます。南無

庵主様の勅許を得ずして湯築城にずかずかと登城してしまったにも拘わらず温かいお言葉を頂戴し感謝に堪えません。

愛機でのお写真を有り難う御座いました。拡大しても701×526ピクセルにも拘わらず非常に鮮明で全文が読み取れこれ亦感謝です。呑舟師にご教示頂いた通忠の母は江戸太郎である事、弱冠14歳にして蒙古軍と闘った事など興味深いお話しです。予章記を見ずして河野を語る無かれ、皆様にお叱りを被りますが、庶流とはいえ通忠につながるならば予章記は是非手元に置きたいものですが、Amazonやネット古書店では入手不可能、図書館ではコピー許容枚数100頁を越えますので、神田の古書街などを探索しようかなどと考えております次第です。

野嶋の系譜は手書き文字をろくに読めず誠に情けなく存じます。呑舟師の仰るように何度も見直してもう少し判るようになったらご報告させて頂くやもしれません。系譜によれば、ご紹介したように秀吉によって「能嶋」を「野嶋」に替えたとありますが、このあたりの真偽や経緯もいずれ調査してみたいと考えております。

  • [20]
  • Re: 河野八郎通忠の義・・と~三嶋村上氏への変遷は?

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)13時21分28秒
 
江戸時代の御家名のご案内の義、御方母上様の思いを察するに余りあり。
野嶋氏の家名を語る際に自然に頭を過ぎるのは、『能嶋』・『野嶋』との奥の所以に関る古籍を感じ得ない想い也。
さて、通有の嫡男通忠のことは我等土佐国・河野氏の同族に於いても身近に感じ取る由縁にて、二男通茂に続く~三男通種の子孫にて候也。
多分に先だっての、伊予小松の郷・長福寺の豫章記の古文書を時下に拝見して、我が家の『豫章記』・・なかなか氏の故御尊父の遺筆の書『愛止比賣國・河野家譜・豫章記』の文章の一文とも酷似の義にてご参考までに素人の腕前で愛機を屈してお送りしておきます。南無

  • [19]
  • Re: 河野八郎通忠

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)07時40分17秒
 
深夜まで申し訳ありません。書き込まれて1時間後に起きて今まで家譜と格闘、轟沈か、笑?特に後ろの方は草書みたいです。

呑舟師は以前「嫡子」の問題を提起されておられましたね、私にはとんと理解できませんでしたが。

>
>  野嶋家の野嶋になってからの歴代当主の名と室の出身家がわかりませんか?
>  ヒントは意外とそのあたりにあるかも知れません。

また長くなって管理人様のおしかりを被りそうですが、汗、

野嶋掃部丞忠時
 - 弘治元年(1555)10月晦日 厳島の戦い、生没年不詳
野嶋民部丞通豊
 - 慶長5年9月(1600) 刈屋口の戦いニテ戦死
野嶋民部忠由
 生没年不詳 父戦死す 武州八王子へ移る
野嶋与右衛門忠明
 - 元和5年(1620)12月15日 54歳
 板倉伊賀守勝重 江戸町奉行家来 百?十五石三人扶持
 伏見月橋寺ニ葬ル
 忠明室 伏見月橋寺ニ葬ル
野嶋金太夫忠英
 元和4年(1594、己未とあるので元和5年の誤り?)家督相続 - 寛永3年(1627)4月2日 33歳病死
 伏見月摺院ニ葬ル
野嶋六郎左衛門宗忠
 寛永3年(1626)家督相続 - 万治3年(1660)2月7日 60歳病死
 与右衛門二男ナリ、金太夫 養子トス
 板倉周防守重宗家来 寛永14年嶋原の乱 五十石加増 明暦3年 重宗公遺言ニテ七十石加増
 禅宗慈眼寺ニ葬ル
 宗忠室 板倉伊賀守家来 多○源?左衛門 娘ナリ
野嶋六郎左衛門忠次
 万治3年(1660)家督相続 - 宝永5年(1708)8月12日 70歳病死
 板倉周防守重宗→板倉周防守重冬家来 加増が続いたが元禄11年(1698)諫言により失脚?
 慈眼寺ニ葬ル
 忠次室 ○○○守様家来 近藤○○ 娘ナリ
野嶋長右郎?忠恕
 - 元文5年(1740)病死
 板倉周防守重冬側人として勤めるが父と共に一門退リ 一生浪人
野嶋平馬忠暁
 元禄4年(1691) 勢州○山ニテ誕生 - 亨保19年(1734)12月1日 44歳病死
 清民?公御代 出仕(どこの誰へ?)
 江戸谷中村善性寺二葬ル(現在の野嶋家の墓所)
 忠明室ハ(以下解読不能)
野嶋左仲○忠億
 亨保6年(1722)12月23日 勢州亀山ニテ誕生 亨保17年 忠暁養子 享保20年家督相続 - 寛政12年(1800)7月29日 80歳病死
 上州館林城下 象?教寺ニ葬ル
 忠億室 同家?中根津?右三○娘ナリ
野嶋平馬忠昌
 宝暦3年(1753)8月5日 武州江戸麻布御下屋敷ニテ誕生 寛政6年家督相続 - 寛政10年(1798)11月11日 46歳病死
 上州館林城下 象?教寺ニ葬ル
 忠昌室 同家中佐野次右衛門娘
野嶋右?仲太忠良
 天明4年(1784)上州○井城内ニテ誕生 寛政11年家督相続 - 文化10年(1813)
 文化5年 山田○七娘 婚姻
野嶋平右衛忠誠
 文化10年(1813)上州○○城内ニテ誕生

忠誠の文政9年(1826)12月26日の記載を以て終わる、忠良、忠誠の享年や墓所の記載はなし

以上、ざっと生没年或いは家督相続年、室の出自、墓所など拾い読みした結果です。

  • [18]
  • 河野八郎通忠

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月15日(水)03時20分16秒
 
> >  代の流れは河野三島三郎親清→新大夫通清→四郎通信→九郎左衛門通久→弥九郎通継
> >  →六郎通有→河野八郎通忠→○→○→○→○→○→○→野嶋金大夫忠英
> >  と繋がるのでなかろうかと思われます。
> >  河野通忠と野嶋忠英の間は五代か六代を経ているものと思われます。
> >  通忠を始祖としているなら、通忠の母は江戸太郎の娘となっていますので、父親は通有と
> >  なります。通有の室は通久の娘と思われますので、河野通忠は庶子となり、これにより
> >  庶家となります。

●家を継いでないので庶子(庶家)としましたが、どうも違う気がしないでもない。
 河野通忠については庵主様が「談話室」4377以降で論じられており、嫡男の判断をされて
 ます。
 気になりましたので再度調べてみました。

 河野通有の子、河野通忠は、子供たちの中で唯一、14歳で元寇と戦っていますので、
 1267年生まれの長男と思われます。
 父親の河野通有の17歳の時の子と思いますので、高校生ぐらいから頑張ってたのですね。
 元服すれば大人ですけど。

 長男で有りながら家を継げず、別姓、柚木(谷)の祖となります。
 子供は對馬三郎通貞となり、越後上田庄小栗山郷を賜りますので、
 野嶋家が通忠系であれば、通貞の兄弟から分かれたと考えるのが自然となります。
 なぜなら、新潟に引越しせずに瀬戸内海に留まっているからです。(松前の戦い参戦を根拠として)
 信憑性は若干低いのですが、河野家関係文書に「善功禄」なるものがあり
 これは単なる覚書なのですが、文中に「能島内匠守義忠は我が家中興の祖」とあり
 「野嶋忠英」との関連を暗示してるのかも知れません。

 「忠」を江戸時代のヘンキと云いましたが、ひょとすると、村上水軍系の通字「忠」「義」「吉」の系列かもしれませんね。

「談話室4377」で何故嫡男が跡をとれななったかと、庵主様は首をかしげています。

 私は単純に長男といえども側室が生んだ子だからと解釈しましたが、

 明治政府の「修史館」は非常にややこしい解釈をしております。
 曰く

 『通俊を以て通信の嫡嗣と定め、(中略)又、通信の四男通久、親兄弟を離れ鎌倉方に
  成て宇治川に先陣せし功によりて、阿波の冨田の庄を賜い、後、伊予の石井郷に替え
  賜いその子孫連綿たり。
  故にその子孫通有の子、一は通忠を嫡とし、一は通治を長とす。
  之は通忠は父の後を承ず、通治は尊氏に属し惣領となりし故なるべし。
  其の実、通忠、長にして通治、季なるを正と為すべし。』

 嫡嗣、嫡、長、季、と母親の腹とは関係なしに、その時代で一番一族が生残れる
 選択をしたことが読み取れます。

 一族が敵味方に別れ、勝利した方と負けた方が一族存続を願う本能的な行動なのでしょう。

 こうしたことは歴史上、常にあるので、長老は子供達を敵味方双方に配分します。

 どちらが勝っても一族の血は引き継がれるからです。

 源平合戦のように双方に保険をかけて「ずる~!」といわれる場合は元服前の子供を
 出家させて、寺に避難させます。決着がついた頃に還俗させて一族の命脈を
 保ちます。源義経こと牛若丸がその典型です。
 平家も牛若丸の殺しておれば、歴史が変わったでしょうに。

 野嶋家の野嶋になってからの歴代当主の名と室の出身家がわかりませんか?
 ヒントは意外とそのあたりにあるかも知れません。

  • [17]
  • Re: 激励に深謝です

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月14日(火)19時36分9秒
 
>>16
> > どういういきさつではるか離れた東国の江戸太郎の娘と結婚する事になったんでしょうか、これも興味がありますね、笑。
>
> ●伊予からは遠くは離れていますが、鎌倉幕府の時代ですから、江戸太郎も河野通有も
>  鎌倉幕府の御家人衆でしょうから、それぞれ「やあやあ」の仲で気があったのではないでしょうか。河野家の鎌倉屋敷は確か材木座海岸の近くにあった記憶しますから、由比が浜か材木座浜あたりで夜な夜な酒宴を催して決めた話かもしれません。

なるほど、ロマンチックといういい方は適切ではないかもしれませんが、そう言う場面を想像するのも楽しいものですね!

> 「談話室」にも書かれていると思いますが、河野家由来の三島神社が上野にあると思います。江戸時代は上野寛永寺の敷地の一部と思われますので、このあたりが、江戸氏から
> 通有あたりが借用してたのかもしれませんね。鶯谷から上野に向う常磐線上りですぐコンクリート造りのお宮が見えます。

菱形の中に三が書かれている紋所という話ですね!上野までは自転車で30分余りですのでようやく猛暑も収まるようで是非参拝してみます。

> > 激励に深謝です!色々多岐にわたりご教示頂き大変有り難う御座いました。キーワードを一つずつそろりと調べていくつもりで居ります。いつも長々とスレッドタイトルとはずれた話を書き込み重ねてお詫び申し上げます。
>
> ●タイトルとなんら関係ない話に脱線してり、とりとめのないことを延々展開するのも
>  「喫茶室」の特徴です。
>  「談話室」時代は途中で管理人さんの今城氏が、「長すぎますので、別スレッドを立てて
>  ください!」と水が入りますが。(笑い)
>  今の所、問題ないでしょう。

節度を持って、を心がけます。と言いつつ長くなって申し訳ありませんが、通豊の刈屋口の戦いの件は、常山紀談の固有名詞を参考に見直しました。「佃次郎兵衛」など3文字と間違えそうに詰めて書かれてあったり、「宍戸」は「完戸」に読めたりと相変わらず難渋しておりますが

『毛利右馬頭輝元ニ従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月 伊豫之國○○之城主加藤左馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ○フ時 石田○○○○蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ヲ○ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ月 故ニ○○之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵 宍戸○○ 同ク ○○○ 我兵○野嶋民部 村上掃部助 数万騎ヲ引率シ 藝州ヲ○シ 兵船数十艘 ○○嶋ニ屯シ 使ヲ○○ニ○○○ 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通○○ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○攻撃テ軍兵○○○と云 城ヲ守ル臣 加藤ノ弟? 加藤内記 佃治郎兵衛 中嶋○○ 城○水○立○○邑○○○○○シ 使ニタイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ○ベシ ○○○○○事ヲ○○ニ○ルベシト云 使者○○ヲ○ 宍戸 大ニ悦シ 明日○○ニ○戸○ヲ○○ベシ 今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ ○○佃次郎兵衛 軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ○シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章大○(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル 宍戸○○○ 野嶋民部丞 曽根○○助 ○ニ力戦シテ 宍戸ハ 加藤ノ臣 荒川○○○ 野嶋ハ 加藤ノ臣 井上○之助ヲ 討捕と云 ○○○利之軍 ○○乱シテ 友ヲ敵兵ト過戦○○○シテ 曽根 村上 野嶋 ○戦テ遂ニ死ス』

まで読み解いたと思います。○の中には推測できるものもありますが同定は出来ておりません。加藤の臣の名前や土地の名前などは未だ調査途上です。概要は以前よりはお判りいただけると思いますが、次回は完読出来ましたらご報告させて頂きます。

  • [16]
  • Re: 激励に深謝です

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月14日(火)18時37分1秒
 
> どういういきさつではるか離れた東国の江戸太郎の娘と結婚する事になったんでしょうか、これも興味がありますね、笑。

●伊予からは遠くは離れていますが、鎌倉幕府の時代ですから、江戸太郎も河野通有も
 鎌倉幕府の御家人衆でしょうから、それぞれ「やあやあ」の仲で気があったのではないでしょうか。河野家の鎌倉屋敷は確か材木座海岸の近くにあった記憶しますから、由比が浜か材木座浜あたりで夜な夜な酒宴を催して決めた話かもしれません。

「談話室」にも書かれていると思いますが、河野家由来の三島神社が上野にあると思います。江戸時代は上野寛永寺の敷地の一部と思われますので、このあたりが、江戸氏から
通有あたりが借用してたのかもしれませんね。鶯谷から上野に向う常磐線上りですぐコンクリート造りのお宮が見えます。

> >  これらを「ヘンイ」と云います。

●失礼しました。「ヘンキ」の間違いです。偏諱と書きます。
 「一字を賜る」でも同じ意味です。

> 激励に深謝です!色々多岐にわたりご教示頂き大変有り難う御座いました。キーワードを一つずつそろりと調べていくつもりで居ります。いつも長々とスレッドタイトルとはずれた話を書き込み重ねてお詫び申し上げます。

●タイトルとなんら関係ない話に脱線してり、とりとめのないことを延々展開するのも
 「喫茶室」の特徴です。
 「談話室」時代は途中で管理人さんの今城氏が、「長すぎますので、別スレッドを立てて
 ください!」と水が入りますが。(笑い)
 今の所、問題ないでしょう。

  • [15]
  • Re: 通豊の御名は

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月14日(火)16時34分25秒
 
>>14
> >>13
> > まずは、孝霊天皇や河野家の話題から東夷のお江戸の話題にずらせてしまい、管理人今城様始め皆様にお詫び申し上げます。いやぁ~、呑舟師の東西に渡る該博な御知識に驚嘆です、師と皆様が仰る所以ですね~。
>
> *・・野嶋氏の御子孫を家伝として母上様から御伝承の御仁に是非今後とも湯築城に御登城ください。

「ゆづき」掲示板にてご尊名はたびたび拝見しておりましたが、ご招待大変有り難く存じます。私どもの業界では学会なるものがあって若い頃は春秋と全国に出かけたものですが、四国は香川県三豊市のK化学工業に共同研究の折りに1回伺っただけで、国産旅客機YS-11にて羽田空港へふわりと直帰してしまいました。当時この伊豫の國とのご縁を知って居れば一足のばして湯築城に参上できましたものを、と残念でなりません。

> 通豊の初代を名乗る人物は、通信の叔父とも言い伝えられて居る人物にて候也。
> 嘗て、源平合戦の伊予国での開戦の地・・古城(大洲城とも?)の守備体勢を守ったのが河野通豊(福良氏)と聞く所以です!
> 土佐の国に窪川の地在り・・この地に伊予国の源流に其の先祖の血筋を継承する仁井田郷と云う領域には、奈良~平安にかけての古事に、伊予之河野氏の足跡を明確に継いでおります
> 仁井田5人衆の内3人は伊予之国の河野氏の御子孫也。
> 本城家主東氏と景山城主西氏と志和城主志和氏~並びに西氏から分家された勝賀野城主勝賀野氏は皆様方は夫々先祖を河野家の血筋)難波氏や福良氏を始祖として永~永と継いで居ます。
> 福良通豊殿は其の始祖の所以原点に思いを寄せた母上の御心中なれば、土佐国にも嘗て旧知の野嶋氏(某電気メーカーT社の役職の御仁)と讃岐の国にて懇意に先祖談義に誼を深めた思い出が頭を過ぎります。・・今後とも是非母上の時代に思いを重ねて御探求の念願成就を期待しております。南無

今「ゆづき」6518の庵主様の記事を拝見し、福良通豊殿のお名前を初めて知りました。呑舟師のご教示に依れば、2代野嶋民部丞通豊は紛れ込みではなく「河野」の血筋を意識したものでは、とのことで更には土佐の国ご出身の野嶋様も居られたのかと不思議なご縁を感じます次第です。

「越智宿禰姓 河野氏系図」を掲載した方はまた「越智宿禰姓 拝志(林)氏(伊藤氏)系図」も公開されておられますが、それに依れば河野通有から林家を経て伊藤博文までつながっており、伊藤博文も明治42年松山市での演説で「遠祖は河野通弘の裔、淡路ヶ峠城主 林淡路守通起であった」と述べているそうで、河野家の血筋の広がりに頭がくらむ思いで居ります。

江戸時代の野嶋家のキーワードも多々あり、頭が混乱状態ですが呑舟師のお勧めの如く「一つづつ絡まった糸を根気よく解いて」参りたいと思っております。今後とも宜しくご指導の程を願い上げます。

  • [14]
  • Re: 激励に深謝です・・通豊の御名は

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2010年 9月14日(火)14時23分33秒
 
>>13
> まずは、孝霊天皇や河野家の話題から東夷のお江戸の話題にずらせてしまい、管理人今城様始め皆様にお詫び申し上げます。いやぁ~、呑舟師の東西に渡る該博な御知識に驚嘆です、師と皆様が仰る所以ですね~。
*・・野嶋氏の御子孫を家伝として母上様から御伝承の御仁に是非今後とも湯築城に御登城ください。
通豊の初代を名乗る人物は、通信の叔父とも言い伝えられて居る人物にて候也。
嘗て、源平合戦の伊予国での開戦の地・・古城(大洲城とも?)の守備体勢を守ったのが河野通豊(福良氏)と聞く所以です!
土佐の国に窪川の地在り・・この地に伊予国の源流に其の先祖の血筋を継承する仁井田郷と云う領域には、奈良~平安にかけての古事に、伊予之河野氏の足跡を明確に継いでおります
仁井田5人衆の内3人は伊予之国の河野氏の御子孫也。
本城家主東氏と景山城主西氏と志和城主志和氏~並びに西氏から分家された勝賀野城主勝賀野氏は皆様方は夫々先祖を河野家の血筋)難波氏や福良氏を始祖として永~永と継いで居ます。
福良通豊殿は其の始祖の所以原点に思いを寄せた母上の御心中なれば、土佐国にも嘗て旧知の野嶋氏(某電気メーカーT社の役職の御仁)と讃岐の国にて懇意に先祖談義に誼を深めた思い出が頭を過ぎります。・・今後とも是非母上の時代に思いを重ねて御探求の念願成就を期待しております。南無

  • [13]
  • 激励に深謝です

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月14日(火)10時35分25秒
 
まずは、孝霊天皇や河野家の話題から東夷のお江戸の話題にずらせてしまい、管理人今城様始め皆様にお詫び申し上げます。いやぁ~、呑舟師の東西に渡る該博な御知識に驚嘆です、師と皆様が仰る所以ですね~。


>>12
> > 母が便箋に書き写した「野嶋家系図」がありまして、
> >
> > 孝霊天皇伊豫王子
> > 小千御子ヨリ三十五代
> > 親清 河野冠者 三嶋三郎
> > 通清 女也
> > 通信 東禅寺 若松丸ト云
> > 通俊 得能四郎
> > 通政 河野太郎
> > 通末 河野八郎
> > 通久 河野九郎左衛門
> > 通継 河野弥九郎
> > 忠英 野島金太夫
> >  女子 日野中納言資弘ニ勤
> >      日野中納言資茂公ヲウム故ニ奥方トナル
> >  忠宗 野島六郎左衛門 實ハ 金太夫第二○(養)子故二○子トス
> > 以下、表装された系譜にはない名前がたくさんのっております。原本が見あたらないので資料とは言えないのですが。
> >
> > しかも、通継から忠英(寛永3年、1627、4月2日に33歳にて没)までとんでもなく時代が飛んでいます!祖母(明治4年生まれ)は几帳面な人だったようで、「七十石加増のこと」と言った江戸時代の「昇給通知」や、水道端(現在の東京水道橋)の土地の売買契約書など雑多な(古)文書が残されていますが、この原本は今のところ見つかっておりません。
>
> ●母上のメモは概ね正しいのではないでしょうか?
>  中身を復元してみましょう。
>  底本は「河野系図」に似てますが、
>  『通信 東禅寺 若松丸ト云』と記載されてますので「越智系図」と思われます。
>  「河野系図」だと岩松丸となります。
>
>  代の流れは河野三島三郎親清→新大夫通清→四郎通信→九郎左衛門通久→弥九郎通継
>  →六郎通有→河野八郎通忠→○→○→○→○→○→○→野嶋金大夫忠英
>  と繋がるのでなかろうかと思われます。
>  河野通忠と野嶋忠英の間は五代か六代を経ているものと思われます。
>  通忠を始祖としているなら、通忠の母は江戸太郎の娘となっていますので、父親は通有と
>  なります。通有の室は通久の娘と思われますので、河野通忠は庶子となり、これにより
>  庶家となります。

母は大正5年生まれでしたが、50歳を過ぎて書道師範免状を取ったり、60を過ぎてから裏千家の宗名を貰ったりと多趣味でしたけれども、たいした教育もなく歴史に興味や知識があったとは思えませんので、我が家にあった文書を写しただけではないかと思っております。原本が見あたらず残念です。

ネット上の資料だけで恐縮ですが「越智宿禰姓 河野氏系図」から検索したHPに公開されている系図は、父母の名前などは無いですがとても見やすいです。水里玄義「河野家譜」などを併せて見ますと、越智河野本家は通信→通久→通継(共に、母北条時政女)→通有(母井門長義女)→通盛(-1364)→通朝(-1364)→通尭(-1379)→・・と続いていくようですが、通有→通忠(河野八郎、母江戸太郎女)で切れていますので、ここで庶家になった訳ですね。一代が30~50年とすると「うしなわれた」5,6代が知りたくなります。

どういういきさつではるか離れた東国の江戸太郎の娘と結婚する事になったんでしょうか、これも興味がありますね、笑。

>  ここで重要なキーワードは江戸太郎の娘が母親と言うことです。
>  この段階で関東に親族が発生します。
>
>  江戸太郎は現在の江戸の語源となった人物とされており、千代田区を中心に現在の東京都
>  全域に一族が繁茂したようです。遠祖は秩父の平姓です。
>  太郎を名乗る人物は何人もいるのでにわかに断定しづらいのですが、系図の位置関係から
>  すると娘は通有の初婚の女性と思われます。(庶子の通忠を系図は頭に書いています、
>  本来は庶子扱いではなく嫡子扱いだったのでしょう)
>  後に通久の娘を正室として河野家惣領としての体面を保つ必要があったのかも知れません
> 。
>  「宮城系図」は江戸太郎経重の娘とし
>  「河野系図」は江戸太郎重行の娘としていますが、
>
>  私は時代の流れからすると、江戸家始祖は
>  江戸太郎重継→四郎太郎重長→太郎経重→四郎重光と世代交代します。
>  通有は重長とともに奥州平泉に征伐に出かけますので、同世代となりますから
>  重継の娘か、重長と年が離れていれば重長の娘となります。

一応祖父の代から3代目の江戸っ子のはしくれながら「江戸」の由来を知らず慚愧に堪えません。大変勉強になりました!

> > 現在気になっているのは、初代が野嶋忠時で3代目忠由以下は全て「忠」の一文字を引き継いで命名されています。2代目だけ「通豊」が解せません。また4代目の忠明は元和5年(1620)12月15日に54歳で没すとありますので、1600年頃は34歳前後の筈ですが、2代目の通豊との関係は記されていません。どうも通豊の項目は後世にどこかから引っ張ってきて挿入したのでは、と疑いが残ります。
>
> ●これは別に不思議でもなんでもありません。
>  野嶋家は元来、河野家「通字」の通を認識していたのでしょう。
>  これが「忠」に変わるのは、最初に「忠」の字を名乗った人は、元服の折は通の字を
>  つけ、後、出仕して主君から忠の字を頂戴したのでしょう。
>  「私は先祖伝来の通の字がありますから要りません」とは言えません。
>  これらを「ヘンイ」と云います。
>  通豊でもとに戻したのでしょう。

なるほど、あながち奇異とは言えないのですね。広辞苑で調べた範囲では該当する漢字がありませんが「変位」あたりの専門用語でしょうか。

> ●最初は関東下りは唐突な気がしましたが、関東の親族の縁は切れてなかったのでしょうね。このようなケースは多いのです。
> 多分、石川、荻原は江戸一族と思われます。
> 多摩地区は江戸一族が繁茂していますから、八王子もその一部でしょう。
>
> 一族の名と所領を列挙すると、
> 本貫は武蔵国豊島郡江戸郷(千代田区)→江戸氏
> 武蔵喜多見(小田急沿線)→喜多見氏
> 武蔵国荏原郡御田郷(港区三田)→御田氏
> 武蔵国豊島郡浅草郷(浅草)→浅草氏
> 飯倉(飯倉公館あたり)→飯倉氏
> 渋谷(渋谷区渋谷)→渋谷氏
> 豊島郡江戸郷柴崎村(現在の将門首塚や神田明神を含む地域)→柴崎氏
> 柴崎氏は後に調布市柴崎(京王沿線)にうつるので、野嶋さんちと交流のあった家と
> 思われます。
> ほかに蒲田、目黒、中野、六郷、阿佐ヶ谷、小日向、石浜、石島氏等で東京23区内を
> 網羅します。
> 太田道灌や徳川家康より前の時代です。
> このことにより江戸を開いたのは太田道灌ではなく、文字通り江戸氏となります。
> 東京都の地図が多摩地区へ尻尾のように長いのは江戸氏の縄張りだったからでしょうね。
> ちなみに江戸氏の氏神は神田明神となります。歴代神主は江戸氏の末裔ですが、明治時代
> に祭神を変更しないと潰すと言われて、現在の祭神に単独で変更したことで、氏子から追放
> されます。明治政府はなにが気に入らなかったのでしょうね。徳川家が庇護をしたから
> 徳川憎しかな。

現在の東京都のかなりの部分を占めてますね!「江戸氏」もキーワードに加わりました。

> > 将におっしゃるとおりで、乱世ならば刀1本の実力でのし上がれたのでしょうが、平和な時代になったら皇統につなげて「はく」をつけようとしたのでしょうね。私としては忠時の記述を信用すれば「河野の庶流」ですから、河野本家よりも江戸時代の野嶋家の流れを追うのが本筋なのですが、何分日本史、世界史は半世紀前に教科書で習ったくらいの知識しかなく、ヒヨコどころか卵からかえったばかりの状態ですので、呑舟師からご指摘頂いた諸点を踏まえてそろりとやっていこうかと考えております。それにしても漢字の数は数万とも云い、旧字も入れれば莫大で、くずし方には自然科学と同様に一定の規則があるようですが、手書きくずし文字の系譜との格闘は生あるウチに結論にたどり着けるやら、です。
>
> ●いやいや、ジーと何度も睨んでおれば不思議と読めるようになります。
>  但し、かく云う私もまだまだ読めません。

それはご謙遜ですが、母が亡くなり原戸籍を取る必要が生じて父母の家系図を整理したのがこの道へ入るきっかけでしたが、戸籍の人名のくずし字が読めませんでした。以前に何人かの名前を母に聞きましたら即座に教えてくれたので、大正生まれのせいか書道やったせいか、「くずし字辞典」がないと読めないのは情けない限りです。

>  ファイト!

激励に深謝です!色々多岐にわたりご教示頂き大変有り難う御座いました。キーワードを一つずつそろりと調べていくつもりで居ります。いつも長々とスレッドタイトルとはずれた話を書き込み重ねてお詫び申し上げます。

  • [12]
  • Re: ご指摘有り難う御座居ました

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月14日(火)06時53分9秒
 
> 母が便箋に書き写した「野嶋家系図」がありまして、
>
> 孝霊天皇伊豫王子
> 小千御子ヨリ三十五代
> 親清 河野冠者 三嶋三郎
> 通清 女也
> 通信 東禅寺 若松丸ト云
> 通俊 得能四郎
> 通政 河野太郎
> 通末 河野八郎
> 通久 河野九郎左衛門
> 通継 河野弥九郎
> 忠英 野島金太夫
>  女子 日野中納言資弘ニ勤
>      日野中納言資茂公ヲウム故ニ奥方トナル
>  忠宗 野島六郎左衛門 實ハ 金太夫第二○(養)子故二○子トス
> 以下、表装された系譜にはない名前がたくさんのっております。原本が見あたらないので資料とは言えないのですが。
>
> しかも、通継から忠英(寛永3年、1627、4月2日に33歳にて没)までとんでもなく時代が飛んでいます!祖母(明治4年生まれ)は几帳面な人だったようで、「七十石加増のこと」と言った江戸時代の「昇給通知」や、水道端(現在の東京水道橋)の土地の売買契約書など雑多な(古)文書が残されていますが、この原本は今のところ見つかっておりません。

●母上のメモは概ね正しいのではないでしょうか?
 中身を復元してみましょう。
 底本は「河野系図」に似てますが、
 『通信 東禅寺 若松丸ト云』と記載されてますので「越智系図」と思われます。
 「河野系図」だと岩松丸となります。

 代の流れは河野三島三郎親清→新大夫通清→四郎通信→九郎左衛門通久→弥九郎通継
 →六郎通有→河野八郎通忠→○→○→○→○→○→○→野嶋金大夫忠英
 と繋がるのでなかろうかと思われます。
 河野通忠と野嶋忠英の間は五代か六代を経ているものと思われます。
 通忠を始祖としているなら、通忠の母は江戸太郎の娘となっていますので、父親は通有と
 なります。通有の室は通久の娘と思われますので、河野通忠は庶子となり、これにより
 庶家となります。

 ここで重要なキーワードは江戸太郎の娘が母親と言うことです。
 この段階で関東に親族が発生します。

 江戸太郎は現在の江戸の語源となった人物とされており、千代田区を中心に現在の東京都
 全域に一族が繁茂したようです。遠祖は秩父の平姓です。
 太郎を名乗る人物は何人もいるのでにわかに断定しづらいのですが、系図の位置関係から
 すると娘は通有の初婚の女性と思われます。(庶子の通忠を系図は頭に書いています、
 本来は庶子扱いではなく嫡子扱いだったのでしょう)
 後に通久の娘を正室として河野家惣領としての体面を保つ必要があったのかも知れません

 「宮城系図」は江戸太郎経重の娘とし
 「河野系図」は江戸太郎重行の娘としていますが、

 私は時代の流れからすると、江戸家始祖は
 江戸太郎重継→四郎太郎重長→太郎経重→四郎重光と世代交代します。
 通有は重長とともに奥州平泉に征伐に出かけますので、同世代となりますから
 重継の娘か、重長と年が離れていれば重長の娘となります。


> 拝見しました。「村上宗四郎、宗圓利心信士」ですか!

 ●そうです。

> 現在気になっているのは、初代が野嶋忠時で3代目忠由以下は全て「忠」の一文字を引き継いで命名されています。2代目だけ「通豊」が解せません。また4代目の忠明は元和5年(1620)12月15日に54歳で没すとありますので、1600年頃は34歳前後の筈ですが、2代目の通豊との関係は記されていません。どうも通豊の項目は後世にどこかから引っ張ってきて挿入したのでは、と疑いが残ります。

●これは別に不思議でもなんでもありません。
 野嶋家は元来、河野家「通字」の通を認識していたのでしょう。
 これが「忠」に変わるのは、最初に「忠」の字を名乗った人は、元服の折は通の字を
 つけ、後、出仕して主君から忠の字を頂戴したのでしょう。
 「私は先祖伝来の通の字がありますから要りません」とは言えません。
 これらを「ヘンイ」と云います。
 通豊でもとに戻したのでしょう。

> > > 3代目は
> > > 『野嶋民部忠由
> > > 父戦死シ○○リ後?ニ 関武ニ下リ武州八王子之邑ニ領?居病死 親族石川、萩原皆八王子之邑ニ領?居ス 故ニ忠由ココニ来ル』

> > ●なるほど、石川さんと荻原さんがキーワードですね。
>
> 追々調査したいと思っています。

●最初は関東下りは唐突な気がしましたが、関東の親族の縁は切れてなかったのでしょうね。このようなケースは多いのです。
多分、石川、荻原は江戸一族と思われます。
多摩地区は江戸一族が繁茂していますから、八王子もその一部でしょう。

一族の名と所領を列挙すると、
本貫は武蔵国豊島郡江戸郷(千代田区)→江戸氏
武蔵喜多見(小田急沿線)→喜多見氏
武蔵国荏原郡御田郷(港区三田)→御田氏
武蔵国豊島郡浅草郷(浅草)→浅草氏
飯倉(飯倉公館あたり)→飯倉氏
渋谷(渋谷区渋谷)→渋谷氏
豊島郡江戸郷柴崎村(現在の将門首塚や神田明神を含む地域)→柴崎氏
柴崎氏は後に調布市柴崎(京王沿線)にうつるので、野嶋さんちと交流のあった家と
思われます。
ほかに蒲田、目黒、中野、六郷、阿佐ヶ谷、小日向、石浜、石島氏等で東京23区内を
網羅します。
太田道灌や徳川家康より前の時代です。
このことにより江戸を開いたのは太田道灌ではなく、文字通り江戸氏となります。
東京都の地図が多摩地区へ尻尾のように長いのは江戸氏の縄張りだったからでしょうね。
ちなみに江戸氏の氏神は神田明神となります。歴代神主は江戸氏の末裔ですが、明治時代
に祭神を変更しないと潰すと言われて、現在の祭神に単独で変更したことで、氏子から追放
されます。明治政府はなにが気に入らなかったのでしょうね。徳川家が庇護をしたから
徳川憎しかな。

> 「この本」とは「陰徳太平記」のことですが、ご指摘のように野嶋家の方では予章記までは認識していないでしょう。「陰徳太平記」についてはおっしゃるように「ヨイショ文書」で誤記や脱字も多いとネット上では指摘されています。19ページほどの文書ですから相当にはしょってありますね。筆者も認識していたのかところどころに「平家物語と異なる」と注記しています。例えば玉澄の太宰少弐広嗣征伐は称徳天皇の勅を受けて、と書いてありますが、平家物語では前代の聖武帝の御代に大野東人征伐した、とあるようですね。

●これはどちらもいい加減です、藤原広嗣の乱の時は玉澄ではありません。
 この玉澄も怪しいのですが、この時の越智関係者は越智好方となってますがこれも分かりません。
 大野東人は平安時代の人で、坂上田村麻呂君あたりと東北平定を心血を注いだ大将軍で征伐はされておりません。「陰徳太平記」も「平家物語」も軍記物ですから、真実よりも
読まれることに重点を置いた小説みたいなものです。

史実に近いのは「吾妻鑑」のほうですが、これとて鎌倉に上がってきた報告等を時系列
に書き留めたもので、真違を確認しているものではありません。よって著者は文の最後に
「云々」(だとさ、のようです)と必ず付け加えています。
ただ信憑性は非常に高いのでこの時代の正史の位置付けにあります。

> 将におっしゃるとおりで、乱世ならば刀1本の実力でのし上がれたのでしょうが、平和な時代になったら皇統につなげて「はく」をつけようとしたのでしょうね。私としては忠時の記述を信用すれば「河野の庶流」ですから、河野本家よりも江戸時代の野嶋家の流れを追うのが本筋なのですが、何分日本史、世界史は半世紀前に教科書で習ったくらいの知識しかなく、ヒヨコどころか卵からかえったばかりの状態ですので、呑舟師からご指摘頂いた諸点を踏まえてそろりとやっていこうかと考えております。それにしても漢字の数は数万とも云い、旧字も入れれば莫大で、くずし方には自然科学と同様に一定の規則があるようですが、手書きくずし文字の系譜との格闘は生あるウチに結論にたどり着けるやら、です。

●いやいや、ジーと何度も睨んでおれば不思議と読めるようになります。
 但し、かく云う私もまだまだ読めません。

 ファイト!

  • [11]
  • 訂正

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月13日(月)10時35分8秒
 
元和5年12月1日は1620年1月5日ですから「元和5年12月15日に54歳没」は1620年ですね。
下の「元和五己未年(1619)に54歳で病死」はぎりぎり間違いかと。

  • [10]
  • Re: ご指摘有り難う御座居ました

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月13日(月)09時23分17秒
 
>>8
>
> ●まずもって「様」は必要ございません。浅学菲才の徒なれば・・・・。

いえいえ、該博な御知識をお持ちなれば皆様に倣って呑舟師とお呼びしなければならないのですが・・・・。

>
> ●1800年以前に断片的な文書が残っていたのでしょうね。
>
> ●なら何を持って河野末裔としたのでしょうね?
>  何らかの伝承か文書があったと思われるのですが?

母が便箋に書き写した「野嶋家系図」がありまして、

孝霊天皇伊豫王子
小千御子ヨリ三十五代
親清 河野冠者 三嶋三郎
通清 女也
通信 東禅寺 若松丸ト云
通俊 得能四郎
通政 河野太郎
通末 河野八郎
通久 河野九郎左衛門
通継 河野弥九郎
忠英 野島金太夫
 女子 日野中納言資弘ニ勤
     日野中納言資茂公ヲウム故ニ奥方トナル
 忠宗 野島六郎左衛門 實ハ 金太夫第二○(養)子故二○子トス
以下、表装された系譜にはない名前がたくさんのっております。原本が見あたらないので資料とは言えないのですが。

しかも、通継から忠英(寛永3年、1627、4月2日に33歳にて没)までとんでもなく時代が飛んでいます!祖母(明治4年生まれ)は几帳面な人だったようで、「七十石加増のこと」と言った江戸時代の「昇給通知」や、水道端(現在の東京水道橋)の土地の売買契約書など雑多な(古)文書が残されていますが、この原本は今のところ見つかっておりません。

>
> > 『野嶋民部丞通豊
> >  毛利右馬○輝元ニ従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月 伊豫之國○○之城主加藤右馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ○フ時 石田○○○○蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ヲ○ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ月 故ニ○○(嘉明居城の名?)之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵・・・・我兵○野嶋民部村上掃部助 数万騎ヲ引率シ藝州ヲ○シ 兵船数十艘 ○○嶋ニ屯シ使ヲ○○(嘉明居城の名?)ニ○○○ 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通○○ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○○ヲ攻撃テ○兵ヲ○○と云 城ヲ守ル臣等加藤嘉明ノ弟?加藤内記 佃次郎兵衛?中嶋○○城ヲ?水・・・・使ニ?タイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ○ベシ 唯嘉明・・・・ト云 使者○○○ヲ告 完?戸大ニ悦シ 明日○○(嘉明居城の名?)ニ ・・・・今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ 其○佃次郎兵衛?軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ○シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章大○(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル・・・・・○根村上野嶋○戦テ遂ニ死ス』
> > です。「・・・・」は数文字以上の解読不能ですみません。
>
> ●これは明らかに、刈屋口(松前まさき)の戦いの後、それも相当後の記述ですね。
>  刈屋口の戦いは関が原の合戦直前に発生してるもので、留守を預かる佃は徳川方と豊臣方がどうなったか、この時点では知りません。豊臣家家老の毛利の名代として、村上元吉が豊臣秀頼の「松前城没収」の朱印状をもっての建前上は公務執行であり、佃は素直に使者を迎えた形にし、城明渡しの準備の為、一両日待った貰いたいとの申し出で、気を許して、前祝いをしていた所を襲われたのが事実なのでしょう。後に徳川方が勝ったとの急使により、佃は攻勢を強め、元吉側はほうほうの体で安芸に逃げ帰り」ますが、元吉戦死の時は関が原の結果は知らなかったでしょう。
>
> この時元吉と戦死した元吉配下の者の名と戒名を盆前に投稿してありますから参照願います。貴家譜にこの時戦死したとするなら村上四郎となります。墓は竹原珍海山中腹にあります。

拝見しました。「村上宗四郎、宗圓利心信士」ですか!

現在気になっているのは、初代が野嶋忠時で3代目忠由以下は全て「忠」の一文字を引き継いで命名されています。2代目だけ「通豊」が解せません。また4代目の忠明は元和5年(1620)12月15日に54歳で没すとありますので、1600年頃は34歳前後の筈ですが、2代目の通豊との関係は記されていません。どうも通豊の項目は後世にどこかから引っ張ってきて挿入したのでは、と疑いが残ります。

> > 3代目は
> > 『野嶋民部忠由
> > 父戦死シ○○リ後?ニ 関武ニ下リ武州八王子之邑ニ領?居病死 親族石川、萩原皆八王子之邑ニ領?居ス 故ニ忠由ココニ来ル』
> >
> > が全文です。
>
> ●なるほど、石川さんと荻原さんがキーワードですね。

追々調査したいと思っています。

>
> > この本の底本は「予章記」あたりではないでしょうか?伊豫の王子から(小千)玉澄まで読んでみましたが、「越智宿禰姓 河野氏系図」がWEB上に見つかって河野通有あたりまでそれにほぼ一致しています。
>
> ●貴家の系譜を書いた人は「予章記」は認識していないと思います。
>  主に「陰徳太平記」の記述から「予州河野家」を認識したと考えるのが自然です。
>
>  「陰徳太平記」はご承知のように長州岩国藩(吉川)の家老香川正矩が編纂は始め、
>  その時は「太平記」なる題目が二男、景継が、父の原稿に「筆を入れ」1717年に出版
>  したものです。
>  一般には「軍記物」とされ歴史の史料とはされず「参考文献」とされます。
>
>  出版費を賄うために、主家吉川、宗家毛利に都合のよい所謂「ヨイショ記事」と云う輩もいます。
>
> ●先ほど、改めて「陰徳太平記」の「河野氏先祖之事」を読み返して見ましたが、確かに
>  「予章記」流布本を底本としてあるように見えますが、18世紀に色んな本を猟収して書かれた形跡があります。「予章記」や「予陽河野家譜」に見られない記述が散見されます。
>
>  現在、手許にある史料と当時の史料(資料)が違うのでしょうね。
>
>  当時の資料は今、岩国に殆ど残っているはずなのですが。
>
>  「陰徳太平記」の原本は唯一、山口県文書館にあるはずですが。
>
>  脚色が多いのでそれをそぎ落としていけば事実に近づけると思います。

「この本」とは「陰徳太平記」のことですが、ご指摘のように野嶋家の方では予章記までは認識していないでしょう。「陰徳太平記」についてはおっしゃるように「ヨイショ文書」で誤記や脱字も多いとネット上では指摘されています。19ページほどの文書ですから相当にはしょってありますね。筆者も認識していたのかところどころに「平家物語と異なる」と注記しています。例えば玉澄の太宰少弐広嗣征伐は称徳天皇の勅を受けて、と書いてありますが、平家物語では前代の聖武帝の御代に大野東人征伐した、とあるようですね。

>
> > 野嶋家の系譜について云えば、第4代の野嶋忠明が板倉周防守勝重が江戸町奉行の時に十五石三人扶持で召しかかえられて元和五己未年(1619)に54歳で病死とあり、以後板倉周防の家臣として嶋原の乱に出撃したとかあり、通豊から2代目、慶長五庚子年(1600年)から10数年にして家禄戴けるようになった様です、笑。でも本掲示版の「河野ー越智」とは無関係のお話しですね。
>
> ●直接、関係は有りませんが、実在の人物の証明として史料が残っていると思いますので
>  そちらも調べるべきです。
>  徳川の治世が始まって、世は平和になり、「格式」「序列」を重視する体制になります。
>  そうすると「席順」や「発言順」に軽重をつけようと平和ボケの人たちは考えます。
>
>  現代の「葬式」の席順と「結婚式」の発言順を決める必要が出てきました。
>
> よって、幕府も各藩も家の「由緒書」(系譜)の提出を求め、ランク付けをしました。
>
> 徳川幕府は寛永にこの調査をしましたが、みんな真面目に書いて来なかったので、寛政に
> 凡例を示して提出を求めました。これが世に云う「寛政重修諸家譜」です。これを読まれた
> 方はわかると思いますが、徳川家に対する「ヨイショ文」です。
>
> よってこの2本はその政治的意図から事実以外を消去した文書とみています。
>
> 長州萩藩では「閥閲禄」がこれにあたります。
>
> 野島忠明は必ず、「先祖由緒書」を主家に提出しているはずです。

将におっしゃるとおりで、乱世ならば刀1本の実力でのし上がれたのでしょうが、平和な時代になったら皇統につなげて「はく」をつけようとしたのでしょうね。私としては忠時の記述を信用すれば「河野の庶流」ですから、河野本家よりも江戸時代の野嶋家の流れを追うのが本筋なのですが、何分日本史、世界史は半世紀前に教科書で習ったくらいの知識しかなく、ヒヨコどころか卵からかえったばかりの状態ですので、呑舟師からご指摘頂いた諸点を踏まえてそろりとやっていこうかと考えております。それにしても漢字の数は数万とも云い、旧字も入れれば莫大で、くずし方には自然科学と同様に一定の規則があるようですが、手書きくずし文字の系譜との格闘は生あるウチに結論にたどり着けるやら、です。

20年ほど前に実家でちらっと見た時には、孝霊天皇は実在しないという知識があったので、でっち上げ系図だろうと仕事も多忙で振り返ることもありませんでした。皆様が議論のベースにされている様なちゃんとした資料でもないようですが、我が家にも河野家の出自=孝霊天皇説の文書がありましたのでご紹介させて頂きましたが、長々と失礼致しました。ご容赦下さい。

  • [9]
  • 訂正

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月13日(月)07時12分39秒
 
豊臣家家老→豊臣家五大老の一人

  • [8]
  • Re: ご指摘有り難う御座居ました

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月12日(日)23時32分42秒
 
> 呑舟様、早速のご指摘有り難う御座居ました。掲示板投稿も初心者ですので書き込みも要を得ず、失礼しました。

●まずもって「様」は必要ございません。浅学菲才の徒なれば・・・・。

> 確かにそのようです。野「嶋」のくずし方は、寛政十二庚申年七月二十九日に八十歳(1800)で没した野嶋忠億まで同じように見えます。それ以後は書き足していった過去帳のようなもののようです。

●1800年以前に断片的な文書が残っていたのでしょうね。


> 父の名前や室の出自の記載があるのは6代目の野嶋宗忠(寛永三丙寅年、1626、に家督相続、万治三庚子年、1660、に病死)からで、それ以前は父母や室の名前など記載はありません。

●なら何を持って河野末裔としたのでしょうね?
 何らかの伝承か文書があったと思われるのですが?

> > ●この記述も混乱していると思われます。
> > 刈屋口の戦いの時は毛利輝元は大坂城にあって、関が原の合戦の勝利の吉報を待っており、加藤嘉明は
> > 関が原で徳川軍に組みしていました。まさか分家の小早川が寝返りするとは夢にも思って
> > 居なかったでしょうが。

> 初心者なものでいわゆる村上水軍などに関する知識はゼロですみません、汗。それにしても河野家の出自や系譜についての研究は莫大なようですね!
> 次代の野嶋民部通豊も出自は不明で、第2代目に書かれているだけです。下に書きましたようにくずし字の解読に難渋しておりますので半分も解読できていませんが
>
> 『野嶋民部丞通豊
>  毛利右馬○輝元ニ従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月 伊豫之國○○之城主加藤右馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ○フ時 石田○○○○蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ヲ○ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ月 故ニ○○(嘉明居城の名?)之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵・・・・我兵○野嶋民部村上掃部助 数万騎ヲ引率シ藝州ヲ○シ 兵船数十艘 ○○嶋ニ屯シ使ヲ○○(嘉明居城の名?)ニ○○○ 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通○○ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○○ヲ攻撃テ○兵ヲ○○と云 城ヲ守ル臣等加藤嘉明ノ弟?加藤内記 佃次郎兵衛?中嶋○○城ヲ?水・・・・使ニ?タイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ○ベシ 唯嘉明・・・・ト云 使者○○○ヲ告 完?戸大ニ悦シ 明日○○(嘉明居城の名?)ニ ・・・・今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ 其○佃次郎兵衛?軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ○シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章大○(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル・・・・・○根村上野嶋○戦テ遂ニ死ス』
> です。「・・・・」は数字以上の解読不能ですみません。
> 「常山紀談」では村民の妻を人質にして酒肴を毛利軍に贈って油断させた、とありますがそれでは格好が悪いのか、笑、秀吉の旧恩云々を口実にしております。

●これは明らかに、刈屋口(松前まさき)の戦いの後、それも相当後の記述ですね。
 刈屋口の戦いは関が原の合戦直前に発生してるもので、留守を預かる佃は徳川方と豊臣方がどうなったか、この時点では知りません。豊臣家家老の毛利の名代として、村上元吉が豊臣秀頼の「松前城没収」の朱印状をもっての建前上は公務執行であり、佃は素直に使者を迎えた形にし、城明渡しの準備の為、一両日待った貰いたいとの申し出で、気を許して、前祝い
をしていた所を襲われたのが事実なのでしょう。後に徳川方が勝ったとの急使により、佃は
攻勢を強め、元吉側はほうほうの体で安芸に逃げ帰り」ますが、元吉戦死の時は関が原の結果は知らなかったでしょう。

この時元吉と戦死した元吉配下の者の名と戒名を盆前に投稿してありますから参照願います。貴家譜にこの時戦死したとするなら村上四郎となります。
墓は竹原珍海山中腹にあります。

> > ⑤「3代目の野嶋民部忠時は父が戦死したので武州八王子に移り住み病死したとだけあり、以後江戸時代文政年間(1826年頃)野嶋平右衛忠誠(タダトモ)まで連綿と続いています」
> >
> > ●これは非常に興味ある記述です。
> >
> >  関が原の戦いで世は完全に徳川の世になりますが、それ以前に河野家は天正15年7月断絶、能島村上も能島城等から下城し、竹原に行き、後、周防屋代島へ流浪するのであるが
> > 収入が大幅減となり、多くの家臣を解き放した(レイオフ)
> > 武州八王子への移転はこの前後と思われます。
> > この時、レイオフされた家臣団はほとんど本貫の地、伊予や、先住の安芸、等に行っているのに武州は初めて聞きました。
> > だれか頼っていけるあてがあったのでしょうね?
> > 逆にそれが知りたいところです。
>
> 3代目は
> 『野嶋民部忠由
> 父戦死シ○○リ後?ニ 関武ニ下リ武州八王子之邑ニ領?居病死 親族石川、萩原皆八王子之邑ニ領?居ス 故ニ忠由ココニ来ル』
>
> が全文です。

●なるほど、石川さんと荻原さんがキーワードですね。

> この本の底本は「予章記」あたりではないでしょうか?伊豫の王子から(小千)玉澄まで読んでみましたが、「越智宿禰姓 河野氏系図」がWEB上に見つかって河野通有あたりまでそれにほぼ一致しています。

●貴家の系譜を書いた人は「予章記」は認識していないと思います。
 主に「陰徳太平記」の記述から「予州河野家」を認識したと考えるのが自然です。

 「陰徳太平記」はご承知のように長州岩国藩(吉川)の家老香川正矩が編纂は始め、
 その時は「太平記」なる題目が二男、景継が、父の原稿に「筆を入れ」1717年に出版
 したものです。
 一般には「軍記物」とされ歴史の史料とはされず「参考文献」とされます。

 出版費を賄うために、主家吉川、宗家毛利に都合のよい所謂「ヨイショ記事」と云う輩もいます。

●先ほど、改めて「陰徳太平記」の「河野氏先祖之事」を読み返して見ましたが、確かに
 「予章記」流布本を底本としてあるように見えますが、18世紀に色んな本を猟収して書かれた形跡があります。「予章記」や「予陽河野家譜」に見られない記述が散見されます。

 現在、手許にある史料と当時の史料(資料)が違うのでしょうね。

 当時の資料は今、岩国に殆ど残っているはずなのですが。

 「陰徳太平記」の原本は唯一、山口県文書館にあるはずですが。

 脚色が多いのでそれをそぎ落としていけば事実に近づけると思います。

> 野嶋家の系譜について云えば、第4代の野嶋忠明が板倉周防守勝重が江戸町奉行の時に十五石三人扶持で召しかかえられて元和五己未年(1619)に54歳で病死とあり、以後板倉周防の家臣として嶋原の乱に出撃したとかあり、通豊から2代目、慶長五庚子年(1600年)から10数年にして家禄戴けるようになった様です、笑。でも本掲示版の「河野ー越智」とは無関係のお話しですね。

●直接、関係は有りませんが、実在の人物の証明として史料が残っていると思いますので
 そちらも調べるべきです。
 徳川の治世が始まって、世は平和になり、「格式」「序列」を重視する体制になります。
 そうすると「席順」や「発言順」に軽重をつけようと平和ボケの人たちは考えます。

 現代の「葬式」の席順と「結婚式」の発言順を決める必要が出てきました。

よって、幕府も各藩も家の「由緒書」(系譜)の提出を求め、ランク付けをしました。

徳川幕府は寛永にこの調査をしましたが、みんな真面目に書いて来なかったので、寛政に
凡例を示して提出を求めました。これが世に云う「寛政重修諸家譜」です。これを読まれた
方はわかると思いますが、徳川家に対する「ヨイショ文」です。

よってこの2本はその政治的意図から事実以外を消去した文書とみています。

長州萩藩では「閥閲禄」がこれにあたります。

野島忠明は必ず、「先祖由緒書」を主家に提出しているはずです。

  • [7]
  • ご指摘有り難う御座居ました

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月12日(日)08時52分4秒
 
> ●ようこそ喫茶室へ

呑舟様、早速のご指摘有り難う御座居ました。掲示板投稿も初心者ですので書き込みも要を得ず、失礼しました。

>
> 貴家の家譜を直接見ていませんのではっきりはしませんが、
>
> 失礼を覚悟で勝手に感想と質問を述べさせて頂きますと、現在お持ちの家譜は、江戸時代末期まで
> 家の伝承として、河野家末裔野島家の記録があったのではないでしょうか?

確かにそのようです。野「嶋」のくずし方は、寛政十二庚申年七月二十九日に八十歳(1800)で没した野嶋忠億まで同じように見えます。それ以後は書き足していった過去帳のようなもののようです。

>
> ①野嶋掃部丞忠時(ノシマカモンノジョウタダトキ)の父親は誰になっていますでしょうか?母親の名が書いてあればもっと分かりやすいのですが?
> 河野八郎通忠では時代が合いませんので間に数代居るとおもうのでが?
>
> ②「この忠時はいわゆる厳島の戦いで陶尾張守隆房と戦い勇戦したと結んでいます」
>
> ●この戦いは弘治元年(1555)のことですから、相当代数が飛んでいるように見えますが
>  河野親清から何代後の人物となっていますでしょうか?

父の名前や室の出自の記載があるのは6代目の野嶋宗忠(寛永三丙寅年、1626、に家督相続、万治三庚子年、1660、に病死)からで、それ以前は父母や室の名前など記載はありません。

河野通忠は1268年生まれとWEB上にありましたので、野嶋忠時の天文二十辛亥年(1551)から弘治元年(1555)の厳島の戦いの記事まで300年はあるわけで、野嶋家之系譜(全)の飛躍は激しいですね。

ご紹介した野嶋家系之譜の冒頭の河野親清から「九代河野通忠」は「八代」、また親清の「三嶋三郎」も「三嶋四郎」の誤写でしょうか(水里弦義「河野家譜」、「中世伊予国守護職、河野一族と西瀬戸の氏族の勢力の盛衰」)。

>
> ③「太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉 来嶋ヲ九留嶋ト書カヘ 能嶋ヲ野嶋と書カユベシ トノ事ニテ 夫○野之字ヲ用」
>
> ●来島(九留島)と能島(野島)が混同されて書かれています。
> 秀吉の時代は三島村上家と言って、因島村上家、能島村上家、来島村上家と3つの村上家が
> 鼎立しています。どの村上も出自は村上天皇系で3兄弟がそれぞれわかれたと家譜には書いてありますが、マユツバものです。ましてや、孝霊天皇を祖とする北条河野家とも違います。戦国時代に河野宗家が来島に家督を譲ると言ったとか言わなかったとかで、河野家家臣団に惣領職を拒否された、来島は、さっさと敵方の秀吉側に走り、河野家滅亡の引き金を引いた人物です。秀吉に走ったのは天正10年4月10日と云われます。
> よってこの日を境に来島は河野、能島村上、因島村上、小早川、毛利家からは敵と看做されます。

なるほど、野嶋家系図では秀吉によって姓を書き改められたとありますが、怪しげですね。他の方の掲示板に書き込みましたので二重投稿になるか(私どもの専門分野では禁止です、まあ、オリジナル論文ではないですが)と思いますが忠時の項を全部を書かせて頂きます。○は私には解読不能、?をつけましたのは自信のない解読文字です。括弧内の西暦年数は私が書き加えました。

『野嶋掃?部丞忠時
 孝霊天皇伊豫王子○三小千越智ナリ御子末裔 河野冠者三嶋三郎?伊豫権之助親清 九代河野八郎通忠ノ庶流(ソリウ)ナリ 伊豫國ノ住?人ニテ 太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉 来?嶋ヲ久留?嶋と書カヘ 能?嶋ヲ野嶋と書カユベシトノ事ニテ 夫○野之字ヲ用 天文二十辛亥年(1551年)陶(スヘ)尾張守隆房入道全薑謀叛?○ 弘治元乙卯年(1555年)十月晦日 藝州?佐伯郡厳嶋ニヲイテ合戦ス 全薑利ヲ失ヒ ○浦芦?濱(ハマ)ニオイテ自害ス 時ニ 掃?部丞勇戦ス』

です。

> ④「次代の野嶋民部丞通豊は毛利輝元に従って、刈屋口(三津浦)の戦いで戦死したと書かれております。加藤嘉明軍と闘った様子が3ページ余りにわたって書かれ、常山紀談中の佃大成の武功とは内容的に大きく違っていますが」
>
> ●この記述も混乱していると思われます。
> 刈屋口の戦いの時は毛利輝元は大坂城にあって、関が原の合戦の勝利の吉報を待っており、加藤嘉明は
> 関が原で徳川軍に組みしていました。まさか分家の小早川が寝返りするとは夢にも思って
> 居なかったでしょうが。
>
> ●刈屋口の戦いは能島村上家の村上武吉の嫡男、元吉を総大将として関が原の合戦と同時に
> 踏み込んだ(合戦ではなく松前城受取が目的)ので、佃の甘言を信じて、元吉は戦死します。この時戦死したのであれば、名前は村上四郎だと思われますが?
>
> ●全体的に見て河野系図を江戸末期に継ぎ足したのではないかとおもわれます。
>  中身を詳細に検証しないと断定はできませんが?
>
>  また、河野家を継いだと称する、来島(後の豊後森藩)の伝承と能島村上とを混同しているものと思われます。因島村上も能島村上も自らことを因島とか能島とかは言いません。村上のみです。他人が区別がつかないので分けて云う符牒です。

初心者なものでいわゆる村上水軍などに関する知識はゼロですみません、汗。それにしても河野家の出自や系譜についての研究は莫大なようですね!
次代の野嶋民部通豊も出自は不明で、第2代目に書かれているだけです。下に書きましたようにくずし字の解読に難渋しておりますので半分も解読できていませんが

『野嶋民部丞通豊
 毛利右馬○輝元ニ従ウ 慶長五庚子年(1600年)九月 伊豫之國○○之城主加藤右馬助嘉明 家康公ニ従ヒ 東国ニ○フ時 石田○○○○蜂起ス 毛利輝元大阪ニ地ヲ○ニ居レリ 石田ト天下之成敗ヲ月 故ニ○○(嘉明居城の名?)之城ヲ攻補ントシテ毛利之軍兵・・・・我兵○野嶋民部村上掃部助 数万騎ヲ引率シ藝州ヲ○シ 兵船数十艘 ○○嶋ニ屯シ使ヲ○○(嘉明居城の名?)ニ○○○ 嘉明 家康公ニ随ント云得○ 今更ニ志ヲ 秀頼公ニ通○○ヲ聞キ 輝元ニ叛スベシ ○○ナキ○○○ヲ攻撃テ○兵ヲ○○と云 城ヲ守ル臣等加藤嘉明ノ弟?加藤内記 佃次郎兵衛?中嶋○○城ヲ?水・・・・使ニ?タイオウシテ云 嘉明○○ハ秀吉ノ旧恩ヲ忘ルル事ナシ 秀頼公ニ随ント思 城ヲ○ベシ 唯嘉明・・・・ト云 使者○○○ヲ告 完?戸大ニ悦シ 明日○○(嘉明居城の名?)ニ ・・・・今○○船中ノ兵ヲ慰ント 三ツ浦ニトドマリ 甲ヲ解キ 冑ヲ脱ギ 酒宴開ナリ 偸人コレヲ告グ 其○佃次郎兵衛?軍兵ヲ引率シテ キウニ襲来リ 矢ヲハナチ 炮ヲ○シ攻撃ツ 毛利ノ勢 周章大○(サハイ)テ 一戦利ヲウシナイヒ 敗走ル・・・・・○根村上野嶋○戦テ遂ニ死ス』
です。「・・・・」は数字以上の解読不能ですみません。
「常山紀談」では村民の妻を人質にして酒肴を毛利軍に贈って油断させた、とありますがそれでは格好が悪いのか、笑、秀吉の旧恩云々を口実にしております。

>
> ⑤「3代目の野嶋民部忠時は父が戦死したので武州八王子に移り住み病死したとだけあり、以後江戸時代文政年間(1826年頃)野嶋平右衛忠誠(タダトモ)まで連綿と続いています」
>
> ●これは非常に興味ある記述です。
>
>  関が原の戦いで世は完全に徳川の世になりますが、それ以前に河野家は天正15年7月断絶、能島村上も能島城等から下城し、竹原に行き、後、周防屋代島へ流浪するのであるが
> 収入が大幅減となり、多くの家臣を解き放した(レイオフ)
> 武州八王子への移転はこの前後と思われます。
> この時、レイオフされた家臣団はほとんど本貫の地、伊予や、先住の安芸、等に行っているのに武州は初めて聞きました。
> だれか頼っていけるあてがあったのでしょうね?
> 逆にそれが知りたいところです。

3代目は
『野嶋民部忠由
父戦死シ○○リ後?ニ 関武ニ下リ武州八王子之邑ニ領?居病死 親族石川、萩原皆八王子之邑ニ領?居ス 故ニ忠由ココニ来ル』

が全文です。

>
> まずは、一つづつ絡まった糸を根気よく解いてまいりましょう。

そうですね、仰る通りですが野嶋の系譜はくずし字のヤマですのでついつい敬遠して、原典のある陰徳太平記に取りかかった次第です。

この本の底本は「予章記」あたりではないでしょうか?伊豫の王子から(小千)玉澄まで読んでみましたが、「越智宿禰姓 河野氏系図」がWEB上に見つかって河野通有あたりまでそれにほぼ一致しています。下に書いた「越國の守興か玉興の庶子」の話題は「ゆづき」の8499で海遊庵主様が触れておられるのを発見しました!その結論はどうなったのでしょうか?未だ探し出せておりません。

野嶋家の系譜について云えば、第4代の野嶋忠明が板倉周防守勝重が江戸町奉行の時に十五石三人扶持で召しかかえられて元和五己未年(1619)に54歳で病死とあり、以後板倉周防の家臣として嶋原の乱に出撃したとかあり、通豊から2代目、慶長五庚子年(1600年)から10数年にして家禄戴けるようになった様です、笑。でも本掲示版の「河野ー越智」とは無関係のお話しですね。

>
> 私は河野家とはあまり関係ありませんのでどちらかと言えば刈屋口の3頁に記述の内容の
> ほうが気になります。
>
> 全文UPしてもらえませんか?

おそらく私の代で無くなると思いますので公開する事に全く問題はないのですが、在職中に公費で買ったスキャナーやデジカメなど実験、解析に必要なツールは自宅になく、携帯のデジカメだけです。なんとか工夫して軽いJPEGファイルで公開できるように試みます。文字がはっきり読めると宜しいのですが、先日試みましたところ結構ぼけてしまいますので。

またまた長文になり、申し訳なく存じます。

  • [6]
  • Re: お邪魔致します

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 9月11日(土)21時40分52秒
 
>>5
> こちらには初めて投稿させて頂きますが、河野家の庶流の野嶋家の末裔を父方の祖母に持つ者です。野嶋家の系譜などが私の手許に伝わっておりますのでご紹介させて頂きたく存じます。
>
> 第1は「野嶋家代々之系譜 全」でして、野嶋掃?部丞忠時から始まります。
>  書き出しは『孝霊天皇伊豫王子第?三小千(越智ナリ)御子末裔 河野冠者三嶋三郎伊豫権之助親清 九代河野八郎通忠ノ庶流(ソリウ)ナリ 伊豫國ノ住人ニテ 太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉 来嶋ヲ九留嶋ト書カヘ 能嶋ヲ野嶋と書カユベシ トノ事ニテ 夫○野之字ヲ用』から書きだしてあります。従って①の孝霊天皇説にたっています。「野嶋家」ですが、これを見ますと村上水軍、能島水軍に連なるのでは、と考えています。この忠時はいわゆる厳島の戦いで陶尾張守隆房と戦い勇戦したと結んでいます。親清が三嶋三郎になっている点は他書と違いがあるようです。
>  次代の野嶋民部丞通豊は毛利輝元に従って、刈屋口(三津浦)の戦いで戦死したと書かれております。加藤嘉明軍と闘った様子が3ページ余りにわたって書かれ、常山紀談中の佃大成の武功とは内容的に大きく違っていますが、河野家の問題とは関係がありませんので割愛させて頂きます。
>  3代目の野嶋民部忠時は父が戦死したので武州八王子に移り住み病死したとだけあり、以後江戸時代文政年間(1826年頃)野嶋平右衛忠誠(タダトモ)まで連綿と続いていますが、一個人宅に伝わる原本であり、出自も怪しく、笑、くずし字行書体ですので、40年余り自然科学の研究に従事し、書道のたしなみもない私には解読が非常に困難で、端緒についたばかりです。
>
> 第2は慶応元年の奥付があります古文書で、袋とじで12枚、但し各ページ30~40%は失われておりますが、「陰徳太平記」の70巻に河野の系譜があるので書写したとあります。これまで、閉鎖された「談話室ゆづき」やネット上の諸情報で調べてきましたが「山城攻城記」のHP中「亀山城」のページで内容が一部紹介されております他には余り引用されていないようで、国会図書館で予章記、常山記や河野嘉明に関する書物とともに「陰徳太平記・正徳二年本」を調べてきました。「河野之祖先之事」(巻七十 十六)という項目があり、原典の写真版(902-907頁)と現代漢字書き下し文(313-320頁)の2点のコピーを取り、我が家の古文書断片と比較しましたが、判読できる部分からするとほぼ完璧に書写してあるようです。
>  内容的には、やはり孝霊天皇説です。書き出しは『河野ハ孝霊天皇ノ王子 伊豫皇子ヨリ出タリ』で始まります。越智河野本家に伝わる系譜等とは違い、まさにmaru阿弥様が書かれているように神話の世界でした、笑。和氣姫をめとって三つ子を産んだ事、それを世間に恥じて3艘の船にそれぞれ乗せて流した事。『第三ノ御船與州和介ノ三津ノ浦ニ著 當國ノ主ト奉(レ点)仰 越智親王ト号(旧字)ス』とあります。ちなみに第1船は豆州に着き大宅氏となった、第2船は吉備山下に着き、三宅氏、あるいは『兒嶋モ同流ナリ』、とあります。以下新羅出兵に3年間加わったり、或いは『舟子ノ曰 吾ハ越国ノ彦ニシテ母ハ娼伎ナリ』などおとぎ話としては結構面白いです。
>  河野の家系については、『親孝ノ子河野親經、源頼義ノ末子三嶋四郎親清ヲ婿ニ取リテ家ヲ継シム、河野伊與ノ権ノ介ト称ス』、とあります。この親清には男子がなかったので、ここでまたおとぎ話がでて、御臺所が妊娠し男子を産し、『河野通清始メ河野新太夫後ノ伊豫ノ権ノ介ト称ス』、と書いてあります。通清とともに養和元年二月(1182)にその子の通考も『備後ノ奴可ノ入道西寂』に討ち取られたとあります。西寂への仇討ちの逸話は上記「亀山城」に紹介されています。後継ぎがいないため、相州藤澤の山中に住んでいた僧で生阿彌陀佛を還俗させて通清の子、河野通信としたとあります。童名は若松丸、北条時政の婿、沼田二郎は小舅、河野四郎。親清の出自は別としてこのあたりは水里玄義「河野家譜」と大体合っているようです。
>  通信については別スレッド「河野系図異同は通信以降に始まった?」とも関連するのですが、本書でも『通信子多シ 長子得能冠者通俊 是得能ノ始祖』とあり、以下其子通秀、其子通純、次男通村、三男信綱、四男通方、通村が子通綱、逸話があって、四男九郎左衛門通久(承久の乱、1221)其子通時、次子通継、其子通有(後宇多院の弘安に蒙古来たる時、1281)等々名前が挙げられていますが親子関係が複雑です。
>
> ただ、「陰徳太平記」については評判も芳しくなく、毛利の宣伝文書だ、とか誤字脱字が多いなど資料的価値は少なそうです。筆者も認めているのか、時々「平家物語に異あり」と記入しております。河野系図については、故事の年号などもありますのでそれらを参考にして、正史とも比較しつつ組み立ててみたいな等と考えております。全くの素人ですので忌憚無いご意見を戴ければ有り難く存じます。
>
> いくつかのスレッドにわたる投稿で長々と失礼しました。

●ようこそ喫茶室へ

貴家の家譜を直接見ていませんのではっきりはしませんが、

失礼を覚悟で勝手に感想と質問を述べさせて頂きますと、現在お持ちの家譜は、江戸時代末期まで
家の伝承として、河野家末裔野島家の記録があったのではないでしょうか?

①野嶋掃部丞忠時(ノシマカモンノジョウタダトキ)の父親は誰になっていますでしょうか?母親の名が書いてあればもっと分かりやすいのですが?
河野八郎通忠では時代が合いませんので間に数代居るとおもうのでが?

②「この忠時はいわゆる厳島の戦いで陶尾張守隆房と戦い勇戦したと結んでいます」

●この戦いは弘治元年(1555)のことですから、相当代数が飛んでいるように見えますが
 河野親清から何代後の人物となっていますでしょうか?

③「太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉 来嶋ヲ九留嶋ト書カヘ 能嶋ヲ野嶋と書カユベシ トノ事ニテ 夫○野之字ヲ用」

●来島(九留島)と能島(野島)が混同されて書かれています。
秀吉の時代は三島村上家と言って、因島村上家、能島村上家、来島村上家と3つの村上家が
鼎立しています。どの村上も出自は村上天皇系で3兄弟がそれぞれわかれたと家譜には書いてありますが、マユツバものです。ましてや、孝霊天皇を祖とする北条河野家とも違います。戦国時代に河野宗家が来島に家督を譲ると言ったとか言わなかったとかで、河野家家臣団に惣領職を拒否された、来島は、さっさと敵方の秀吉側に走り、河野家滅亡の引き金を引いた人物です。秀吉に走ったのは天正10年4月10日と云われます。
よってこの日を境に来島は河野、能島村上、因島村上、小早川、毛利家からは敵と看做されます。

④「次代の野嶋民部丞通豊は毛利輝元に従って、刈屋口(三津浦)の戦いで戦死したと書かれております。加藤嘉明軍と闘った様子が3ページ余りにわたって書かれ、常山紀談中の佃大成の武功とは内容的に大きく違っていますが」

●この記述も混乱していると思われます。
刈屋口の戦いの時は毛利輝元は大坂城にあって、関が原の合戦の勝利の吉報を待っており、加藤嘉明は
関が原で徳川軍に組みしていました。まさか分家の小早川が寝返りするとは夢にも思って
居なかったでしょうが。

●刈屋口の戦いは能島村上家の村上武吉の嫡男、元吉を総大将として関が原の合戦と同時に
踏み込んだ(合戦ではなく松前城受取が目的)ので、佃の甘言を信じて、元吉は戦死します。この時戦死したのであれば、名前は村上四郎だと思われますが?

●全体的に見て河野系図を江戸末期に継ぎ足したのではないかとおもわれます。
 中身を詳細に検証しないと断定はできませんが?

 また、河野家を継いだと称する、来島(後の豊後森藩)の伝承と能島村上とを混同しているものと思われます。因島村上も能島村上も自らことを因島とか能島とかは言いません。村上のみです。他人が区別がつかないので分けて云う符牒です。

⑤「3代目の野嶋民部忠時は父が戦死したので武州八王子に移り住み病死したとだけあり、以後江戸時代文政年間(1826年頃)野嶋平右衛忠誠(タダトモ)まで連綿と続いています」

●これは非常に興味ある記述です。

 関が原の戦いで世は完全に徳川の世になりますが、それ以前に河野家は天正15年7月断絶、能島村上も能島城等から下城し、竹原に行き、後、周防屋代島へ流浪するのであるが
収入が大幅減となり、多くの家臣を解き放した(レイオフ)
武州八王子への移転はこの前後と思われます。
この時、レイオフされた家臣団はほとんど本貫の地、伊予や、先住の安芸、等に行っているのに武州は初めて聞きました。
だれか頼っていけるあてがあったのでしょうね?
逆にそれが知りたいところです。

まずは、一つづつ絡まった糸を根気よく解いてまいりましょう。

私は河野家とはあまり関係ありませんのでどちらかと言えば刈屋口の3頁に記述の内容の
ほうが気になります。

全文UPしてもらえませんか?

  • [5]
  • お邪魔致します

  • 投稿者:matthewメール
  • 投稿日:2010年 9月11日(土)14時29分56秒
 
こちらには初めて投稿させて頂きますが、河野家の庶流の野嶋家の末裔を父方の祖母に持つ者です。野嶋家の系譜などが私の手許に伝わっておりますのでご紹介させて頂きたく存じます。

第1は「野嶋家代々之系譜 全」でして、野嶋掃?部丞忠時から始まります。
 書き出しは『孝霊天皇伊豫王子第?三小千(越智ナリ)御子末裔 河野冠者三嶋三郎伊豫権之助親清 九代河野八郎通忠ノ庶流(ソリウ)ナリ 伊豫國ノ住人ニテ 太閤秀吉ニ属セシ時 秀吉 来嶋ヲ九留嶋ト書カヘ 能嶋ヲ野嶋と書カユベシ トノ事ニテ 夫○野之字ヲ用』から書きだしてあります。従って①の孝霊天皇説にたっています。「野嶋家」ですが、これを見ますと村上水軍、能島水軍に連なるのでは、と考えています。この忠時はいわゆる厳島の戦いで陶尾張守隆房と戦い勇戦したと結んでいます。親清が三嶋三郎になっている点は他書と違いがあるようです。
 次代の野嶋民部丞通豊は毛利輝元に従って、刈屋口(三津浦)の戦いで戦死したと書かれております。加藤嘉明軍と闘った様子が3ページ余りにわたって書かれ、常山紀談中の佃大成の武功とは内容的に大きく違っていますが、河野家の問題とは関係がありませんので割愛させて頂きます。
 3代目の野嶋民部忠時は父が戦死したので武州八王子に移り住み病死したとだけあり、以後江戸時代文政年間(1826年頃)野嶋平右衛忠誠(タダトモ)まで連綿と続いていますが、一個人宅に伝わる原本であり、出自も怪しく、笑、くずし字行書体ですので、40年余り自然科学の研究に従事し、書道のたしなみもない私には解読が非常に困難で、端緒についたばかりです。

第2は慶応元年の奥付があります古文書で、袋とじで12枚、但し各ページ30~40%は失われておりますが、「陰徳太平記」の70巻に河野の系譜があるので書写したとあります。これまで、閉鎖された「談話室ゆづき」やネット上の諸情報で調べてきましたが「山城攻城記」のHP中「亀山城」のページで内容が一部紹介されております他には余り引用されていないようで、国会図書館で予章記、常山記や河野嘉明に関する書物とともに「陰徳太平記・正徳二年本」を調べてきました。「河野之祖先之事」(巻七十 十六)という項目があり、原典の写真版(902-907頁)と現代漢字書き下し文(313-320頁)の2点のコピーを取り、我が家の古文書断片と比較しましたが、判読できる部分からするとほぼ完璧に書写してあるようです。
 内容的には、やはり孝霊天皇説です。書き出しは『河野ハ孝霊天皇ノ王子 伊豫皇子ヨリ出タリ』で始まります。越智河野本家に伝わる系譜等とは違い、まさにmaru阿弥様が書かれているように神話の世界でした、笑。和氣姫をめとって三つ子を産んだ事、それを世間に恥じて3艘の船にそれぞれ乗せて流した事。『第三ノ御船與州和介ノ三津ノ浦ニ著 當國ノ主ト奉(レ点)仰 越智親王ト号(旧字)ス』とあります。ちなみに第1船は豆州に着き大宅氏となった、第2船は吉備山下に着き、三宅氏、あるいは『兒嶋モ同流ナリ』、とあります。以下新羅出兵に3年間加わったり、或いは『舟子ノ曰 吾ハ越国ノ彦ニシテ母ハ娼伎ナリ』などおとぎ話としては結構面白いです。
 河野の家系については、『親孝ノ子河野親經、源頼義ノ末子三嶋四郎親清ヲ婿ニ取リテ家ヲ継シム、河野伊與ノ権ノ介ト称ス』、とあります。この親清には男子がなかったので、ここでまたおとぎ話がでて、御臺所が妊娠し男子を産し、『河野通清始メ河野新太夫後ノ伊豫ノ権ノ介ト称ス』、と書いてあります。通清とともに養和元年二月(1182)にその子の通考も『備後ノ奴可ノ入道西寂』に討ち取られたとあります。西寂への仇討ちの逸話は上記「亀山城」に紹介されています。後継ぎがいないため、相州藤澤の山中に住んでいた僧で生阿彌陀佛を還俗させて通清の子、河野通信としたとあります。童名は若松丸、北条時政の婿、沼田二郎は小舅、河野四郎。親清の出自は別としてこのあたりは水里玄義「河野家譜」と大体合っているようです。
 通信については別スレッド「河野系図異同は通信以降に始まった?」とも関連するのですが、本書でも『通信子多シ 長子得能冠者通俊 是得能ノ始祖』とあり、以下其子通秀、其子通純、次男通村、三男信綱、四男通方、通村が子通綱、逸話があって、四男九郎左衛門通久(承久の乱、1221)其子通時、次子通継、其子通有(後宇多院の弘安に蒙古来たる時、1281)等々名前が挙げられていますが親子関係が複雑です。

ただ、「陰徳太平記」については評判も芳しくなく、毛利の宣伝文書だ、とか誤字脱字が多いなど資料的価値は少なそうです。筆者も認めているのか、時々「平家物語に異あり」と記入しております。河野系図については、故事の年号などもありますのでそれらを参考にして、正史とも比較しつつ組み立ててみたいな等と考えております。全くの素人ですので忌憚無いご意見を戴ければ有り難く存じます。

いくつかのスレッドにわたる投稿で長々と失礼しました。

  • [4]
  • 神話ですなー

  • 投稿者:maru阿弥メール
  • 投稿日:2010年 8月30日(月)18時14分43秒
 
神話ですなー
古事記・日本書紀ともに、神話から始まっており
その一族がそう信じているのでありますから、
無粋にダメだと言うのも気の毒でありますなー
天の岩戸の、アメノウズメのハダカ踊りは見てみたかった
人間には、神話が必要なんでしょうなー
それがまた、生きるエネルギーになる
いいもんですなー

  • [3]
  • なぜ越智・河野の遠祖孝霊天皇に拘るのでしょう?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 8月22日(日)20時20分21秒
 
孝霊天皇にこだわると全く古事記・日本書紀・続日本記・日本後記等の
正史とされる記述とますますかけ離れ、後世の伝承文書に依らざるを得なくなると思われます。

「新撰姓氏録考証」の越智氏の条ともまったく合わないのです。

 越智氏はニギハヤシの後裔、石上氏から別れた初代、越智直機貫とされ
 姓氏録上は左京神別にありて、越智家を建てるは延歴18年頃とされる。

 もっともこれは越智郡の国造家の話であり、越智の国造家と風早郡の越智・河野家
 は関係ないと言われればそれまでの話でありますが。

  • [2]
  • 大山祇神とコノハナサクヤヒメ

  • 投稿者:maru阿弥メール
  • 投稿日:2010年 7月12日(月)17時47分30秒
 
ニギハヤヒ系の物部氏では、遅いですねー
神武天皇のヒージイさんのニニギの時代から
コノハナサクヤヒメとのラブロマンスが登場しますから
物部氏の神よりもかなり古い
大山祇神は、アマテラスの神よりも兄にあたりますから
天孫族よりも、先輩にあたりますねー

越智、河野ならびに
伊予のバイキングは大山祇神とコノハナサクヤヒメを抜きには語れません
大山祇神とコノハナサクヤヒメが出てくる所
越智、河野氏のルーツ有りでしょうか
やはり、古代倭国バイキングの一族でしょうなー

  • [1]
  • 管理者

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月12日(月)03時58分5秒
 
投稿は管理者となってますが今城さんではありません。
私、呑舟です。
なれないものですな・・・。


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