• [0]
  • 越智河野氏の出自や如何に?

  • 投稿者:管理者
  • 投稿日:2010年 7月12日(月)03時54分19秒
 
「談話室、喫茶室」で長年に亘り越智・河野家出自は決着しません。
決着」しないから面白いのですが(笑い)

ここでアンケートを取ります!

越智・河野の出自は?

?孝霊天皇第三の王子からです。(皇別論)

?ニギハヤヒ系の物部氏からです(神別論)

?どちらでも有りません土着の豪族です(国造論)

?その他(越智と河野氏は関係ありません)

?その他のその他

みなさんはどれに拠ってますかね?

根本が違えば理論展開と価値観が変わります。

長年、喧々諤々やってますが元の認識が根っこで違うのでは?

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [134]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月24日(土)04時29分1秒
 
> 詳しい解説を有り難う御座居ました。次ぎの記述が[33]の野嶋通豊で1600年頃、450年ほど飛んでおります。以前に詳しい解説を頂いた様に、板倉候に出仕以降は嶋原の乱などへの「出張」など裏が取れるようですので、それ以降に伝承を元に記載されたのでしょうね。

●経緯はそうかもしれませんが、へこむほどのことでもありません。
 先祖がなんの根拠もなく書いてるいるとも思えませんし、史実は以外な所に記録されていることも
 多いのです。板倉公は確か僧籍も持っていて寺社奉行も勤めていたと記憶します。
 部下は旗本からチョイスするわけにいかないので自前で直々の家臣を召抱えたように記憶しますから
 板倉家の家臣書を探した方が近道かもしれませんね。
 どこかに残っていると思います。

  • [133]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2012年 3月22日(木)08時04分7秒
 
>  神経使いますが頭の体操で「ボケ防止」の予行練習です(笑い)

私は既に呆けかかっております、汗。

詳しい解説を有り難う御座居ました。次ぎの記述が[33]の野嶋通豊で1600年頃、450年ほど飛んでおります。以前に詳しい解説を頂いた様に、板倉候に出仕以降は嶋原の乱などへの「出張」など裏が取れるようですので、それ以降に伝承を元に記載されたのでしょうね。

今城先師のおっしゃる「湯月城保存運動を主旨とする」件は以前の「ゆづき」の掲示板から存じ上げております。手許に伝わる野嶋系譜は鈴姫様のように系図線を引いたような系図ではなく、且つ初代でざっと河野家との繋がりを記載しているだけでご参考にもならないようで大変申し訳なく存じます。メインスレッドで述べられておられるように、河野通忠が長男?にもかかわらず家内の内紛を避けてあっさり家督相続を放棄したとしたら、その血を継いでいることを誇りたいと思っております。またまた余分で失礼しました。

  • [132]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月21日(水)16時03分27秒
 
matthew様

UPの文書は多分江戸期のものと思われます。
細かく言うと記憶違い(混乱)が三ケ所あると見ています。

①「伊豫国の住人にて太閤秀吉に属せし時」とあるのは

 村上通総の時と思われます。彼が河野惣家に敵対するのが決定的になるのは
 天正10年(1583)4月10日以降の離反と思われます。よって来島村上に属したようにも
 受取れます。しかし、この時は秀吉が通総を来嶋と呼んだため、名を改めて
 来嶋出雲守と号したことによると思われます。

②「秀吉、来嶋を久留嶋と書きかえ能嶋を野嶋と書きかゆべしとの事」

 秀吉はこんな些細なことまで指図はしていないと思われます。
 来島を久留嶋と改名するのは江戸時代に玖珠で大名家二代目の通春が
 元和2年(1615)に書き改めたのが最初とされます。
 能島村上は元々能島と自らを称してはいません。
 自らはあくまで村上としか称していない筈です。
 周りの人や後世の人が村上三家(三島村上とも云います)を区別するために
 それぞれ、住んでる地名で因島、能島、来島と呼びわけていただけのことです。
 ましてや能島村上は秀吉と敵対関係にありますから彼の指示を受けることはありません。
 この古文書を書いたと思われる「野嶋忠時」もこの経緯がよく分らず、来島改名に
 ことよせ、能島を野嶋としたと報告したと考えるのが妥当と思われます。

③「弘治元年十月晦日芸州佐伯郡厳島において合戦」

 これは有名な陶と毛利の覇権を競う厳島の合戦ですが、
 色んな説はありますが、厳島の合戦が始まったのは九月晦日で翌十月一日には
 毛利軍の勝利で終ります。よってこれは十月晦日ではなく九月晦日でないと合いません。

 原因は単純間違いと言うより、忠時が調査した結果、悩んだ上の記載と思われます。
 多くの「一級史料」とされる古文書も同様なミスをしているのですが、
 元号の扱いは結構神経を使います。

 この合戦の例で云いますと、9月30日および翌10月1日は「弘治元年」ではなく
 「天文24年」が正しいのです。
 弘治への改元は同年10月23日とされますので、この事実に曳きづられて、忠時は
 9月晦日を10月晦日としたとも考えられます。

 このような年号の間違いは日本史の最高権威の一つされる「東大史料編纂所」のデータベースでも
 又、大内、毛利史の最高権威の「山口県文書館」の「山口県史整理年表」でもほとんど間違っています。

 理由は単純です。正確な整理が大変だから、改元日を無視してすべて正月1日から改元されたもの
 とみなし年表を作るからです。西暦と【比較】するのはとりあえずこれしかないようです。
 しかし、西暦と【対比】するにはこれでは不十分で太陽歴と太陰歴の対比をしなくてはなりません。
 確かに気の遠くなる作業です。
 好きな方がこの対比の「変換プログラム」を作成していますがまだバグがあるようです。
 私は改元年の史料はできるだけ原本を見る努力をします。
 見れない場合は同事件の同類の書を比較します。
 これを怠って間違った年号を使用する歴史研究者の論文や著書はあまり信用しないことにしています。
 『私は手抜きの性格です』とタイトルの前に書いてあるのと同様だからです。

 面白いのは「中世の伊豫」を見るときに「フロイスの日記」が引き合いに出され
 ますが、こちらの月日は太陽歴ですから日本のとは当たり前ですが合いません。

 神経使いますが頭の体操で「ボケ防止」の予行練習です(笑い) 

  • [131]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月20日(火)07時00分13秒
 
> *野島直信の消息は、なかなか見付りませんな~。
> 景浦勉先師の『河野家文書』の系譜をご参考に~薄っすらとボケてますが。南無

●庵主様 この河野家文書のボケてないのを再度UPして頂けませんか?
 またこの「河野家文書」はどの河野家が出典となっていますでしょうか?
 系図原本が存在するのでしょうか?それとも景浦氏の整理用の創作系図でしょうか?
 景浦氏の整理用の創作系図の方が殆ど正しいのですが・・・。

 「河野冠者三島三郎伊豫権助親清の九代河野八郎通忠の庶流ナリ」の探索の一助にしたいのですが?

 時代からすれば河野惣家は「河野九郎伊予守通義(能)」で予州家は「河野六郎対馬守通之」
 の代ではと思われます。


  • [130]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月19日(月)20時43分51秒
 
> 豫章記などに依れば、河野親清は三島四郎ですが、野嶋系譜では三島三郎となっていたり、弘治元年の厳島の戦いも簡単な伝承と思われ、相当後年の(おそらく江戸時代の)記載であろうと推測します。資料的価値はないのではないかと危惧します。

●いえいえとても貴重ですよ。
 あともう数ページUPしてもらえませんか?

 書き方の体裁からすれば、系図と言うより、江戸期に主家に家の氏素性由緒と親類書を出したときの
 報告書類の写しのような感じです。
 全文を見れば分るのですが。
 このような書類の提出はたいていの藩が行なっています。
 だいたい代替りの度にしています。
 結婚と養子縁組は藩主の許可がいるので、その書類はその都度出したのでしょう。
 其の他、死亡や結婚などで「親類書」を更新しなければならないからと思われます。
 彦根藩などはこれに人事異動、給与変遷、賞罰記録を藩担当が書き加え、さながら、「人事記録」に
 しています

 体裁からすれば、「野嶋掃部丞忠時」が出したものと推定します。

  • [129]
  • 定紋スレッドから

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2012年 3月19日(月)19時24分42秒
 
定紋のスレッドからです。

豫章記などに依れば、河野親清は三島四郎ですが、野嶋系譜では三島三郎となっていたり、弘治元年の厳島の戦いも簡単な伝承と思われ、相当後年の(おそらく江戸時代の)記載であろうと推測します。資料的価値はないのではないかと危惧します。

不適切でしたら削除頂ければ、と存じます。

  • [128]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)03時15分13秒
 
>>127
>  いえいえさっぱり分らないのは野島直信の消息です。
> *野島直信の消息は、なかなか見付りませんな~。
> 景浦勉先師の『河野家文書』の系譜をご参考に~薄っすらとボケてますが。南無

●上の兄弟全員が通字の「通」を貰っているのに何故直信だけ「通」が貰えず、しかも野島(嶋ではない)
 なのでしょうね?

  • [127]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月13日(金)23時49分55秒
 
いえいえさっぱり分らないのは野島直信の消息です。
*野島直信の消息は、なかなか見付りませんな~。
景浦勉先師の『河野家文書』の系譜をご参考に~薄っすらとボケてますが。南無

  • [126]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月11日(水)18時11分56秒
 
いえいえさっぱり分らないのは野島直信の消息です。

  • [125]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月11日(水)17時16分31秒
 
この度は、偶々、野嶋氏とのご先祖を辿る道程にて、土佐国の歴史研究の士・野島竜馬氏が残された『細川大津天竺落城と越智氏族史料』の著書の内には、我等土佐大津天竺の古史に書き及んでおり。其の史料の内には、我家の系図(原書)の文書が主題として記されております。南無
>
> ●結局、さっぱりわかりません。
*さっぱり分かりません・・とは、呑舟師、お戯れを!
応仁之乱の時代(初期・応仁元年・1467~68年)から~中期(応仁二年・1468~70年)・後半(文明三年・1471~77年)の乱世の四国並びに周辺の国々の世情を知り尽くした、御師なれば、庵主も我等の代々書き込まれた系図の空白期間は正しく、1400年代の記載の文書は、単純に、夫々の官職と名前のみの記載しか無くて、伊予之国今岡氏・諸氏の諸資料を訪ねて、手許に整えながら
今日に至っております。
処で、ご存知の如く、伊予之国も、我々が想いを重ねる以外にも、見据えなければ為らない中央政権・追従する施政の権力争いの関係図(東軍・西軍)は複雑な様相を呈しております。
慎重に奥の細道・・導かれる侭に訪ねましょう! 南無


  • [124]
  • Re: 野嶋民部丞通豊は野島直信ですか?庵主様!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月10日(火)13時38分14秒
 
呑舟師、いよいよ~奥の細道・分かれ道に、差し掛かって参りました。
阿波・讃岐・土佐の『細川氏』の関係と、伊予之湯築城に纏わる細川天竺禅門と~細川頼之と戦慄の真っ只中誘い込まれるも避けて通れず・貞冶年間初頭(1360年)の末から~同じく1500年代(永正1504年~・~から)終焉の天正(1592)年への細川氏を取巻く因果にて、伊予河野氏と土佐の長宗我部元親の戦国時代(あえて言えば阿波の三好氏)への誘いは、矢張り奥の深い拘わりの因果の歴史の妙なる調べの成す『禍』かもと考えております。
是非、皆様方の強力(合力・協力)パワーにて、じっくりと訪ねて見ませんか?・・南無

  • [123]
  • 野嶋民部丞通豊は野島直信ですか?庵主様!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 9日(月)18時34分36秒
 
野嶋家と細川家の具体的な相関関係が当方理解できませんが、

野嶋民部丞通豊は野島直信とお考えでしょうか?

時代的にはこの二人は同じ時代です。しかし直信の詳しい消息を私は知りません。
柱島中富家の俸禄からすれば主君の野嶋家は相当の大身です。
予州家の一族であれば考えられます。
兄弟二人が宗家を継ぐのに直信はその名前からしてあまり重く用いられてないようですね。
庶子なのかなとも思えます。
後に河野宗家を継ぐ通政と通宣は実は弾正少輔通直の子との説もあるそうですが
この時代の河野家は今伝えられているよりも不可解なことが起っていた可能性があります。

細川系文書はどのように伝えていますか?

よって、当方、今、毛利系、小早川系の関係文書を探索中です。豊後の大友も絡むかもしれません。
豊後の大友が絡めば、土佐一条、長曽我部が絡み、必然的に伊予宇都宮と西園寺も絡み、複雑怪奇
となりますね。

  • [122]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 8日(日)21時01分34秒
 
>>121
> 呑舟師、久しゅう御座る。
> 東日本大震災の未曾有の大災害の其の後も~より深刻な原発問題を呼び込み~正しく太平洋戦以後・庵主の記憶に留まる最悪・最大の国難では無いかと心を痛めております。
> さて、お尋ねの義は、以前より、尊敬する川岡・寺川両先生のご研究の諸説の足跡を、多分に今城先師の資料サイトにも書き留められておるようです。
> これ等の繋がりは、我家の系図を道標に只管に~土佐・阿波・讃岐・伊予の遊行の旅すがら庵主の日記の恙無き一説です。 南無
> 其の地~其の地には、夫々の史料・史跡・埋蔵された古書や埋蔵物(発掘)や~固有の伝承や~神社仏閣の古史(縁起)には、其れなりの奥の細道を知る機会が潜在している感が有り、思い掛けず既成概念を覆す機会に巡り会えることも摩訶不思議なり。
> この度は、偶々、野嶋氏とのご先祖を辿る道程にて、土佐国の歴史研究の士・野島竜馬氏が残された『細川大津天竺落城と越智氏族史料』の著書の内には、我等土佐大津天竺の古史に書き及んでおり。其の史料の内には、我家の系図(原書)の文書が主題として記されております。南無

●結局、さっぱりわかりません。


  • [121]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 8日(日)19時30分39秒
 
呑舟師、久しゅう御座る。
東日本大震災の未曾有の大災害の其の後も~より深刻な原発問題を呼び込み~正しく太平洋戦以後・庵主の記憶に留まる最悪・最大の国難では無いかと心を痛めております。
さて、お尋ねの義は、以前より、尊敬する川岡・寺川両先生のご研究の諸説の足跡を、多分に今城先師の資料サイトにも書き留められておるようです。
これ等の繋がりは、我家の系図を道標に只管に~土佐・阿波・讃岐・伊予の遊行の旅すがら庵主の日記の恙無き一説です。 南無
其の地~其の地には、夫々の史料・史跡・埋蔵された古書や埋蔵物(発掘)や~固有の伝承や~神社仏閣の古史(縁起)には、其れなりの奥の細道を知る機会が潜在している感が有り、思い掛けず既成概念を覆す機会に巡り会えることも摩訶不思議なり。
この度は、偶々、野嶋氏とのご先祖を辿る道程にて、土佐国の歴史研究の士・野島竜馬氏が残された『細川大津天竺落城と越智氏族史料』の著書の内には、我等土佐大津天竺の古史に書き及んでおり。其の史料の内には、我家の系図(原書)の文書が主題として記されております。南無

  • [120]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 8日(日)18時14分18秒
 
> > *お久し振りですね!・・さて、石川氏との関係の深さを知るにつけ、毛利家との繋がりより~寧ろ阿波~讃岐之国と土佐国に、其の奥の細道古縁の存在する~細川氏の諸流との縁故を是非想いうかべて語探索の要があろうかと考えております。何故ならば、そもそもは讃岐国細川氏(奉公衆の淡路・野州・天竺細川家)・並びに東予・石川氏と野嶋氏とは河野晴通と細川氏の姻戚関係が奥底に存在しております。是非お心の傍にご記憶下さい。南無

●上記の関係は具体的にはどのような姻戚関係でしょうか?
 相関図をお示し頂ければ分り易いのですが。

 当方の理解として、河野晴通は通政のことで、父は河野通存、養父は弾正少輔通直のことで
 弟は石川通昌、河野通宣(晴通の後の河野宗家惣領)、野島直信のことでしょうか?

 村上通康跡目騒動(来島騒動)時代の人たちのことですか?

 河野家古文書は通政親子は予州家の人とされてますがこの人たちの話でしょうか?

 ならどのような細川家との縁戚関係があったのでしょうか?

  • [119]
  • Re: 奥の細道は、今の世にては

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 5月 8日(日)11時48分56秒
 
>>118
> matthewさま、ご熱心な野嶋氏の時代を越えて~ご先祖を尊ぶ御仁(祖母で遺言ですよね)の義、是非今の世に生命を継いだ御貴殿の大願成就を祈念しております。

有り難う御座います。祖母で途絶えた野嶋家でもあり、また早世した次兄に継がせようとした
亡母の遺志でもあろうかと存じます。ただ、私の探索が子や孫の代まで継がれるか、は或いは
投稿されている皆様の中の方にも通じる危惧では無かろうかとも存じますが・・・南無。

> 野嶋氏と石川氏とを繋ぐキーワードは~細川通政の嫡男・細川通董(みちただ)殿をお訪ね下さい。

貴重なヒントを有り難う御座います。膨大な細川家の系図の中のひとしずくは私の力では
探し得ないもので深謝です。

我が家の系譜の最初、野嶋掃部丞忠時は弘治元乙卯年(1555年)十月晦日の厳島の戦いに
参加しているようですので、細川通董殿の伝・生年天文4年(1535)から没年天正15年(1587)と
重なる時期に生きたようですね。
祖母の出生地は岡山縣北条郡津山村(明治22年西北条郡津山町、現津山市)生となっており、
曾祖父野嶋亨(平馬、一馬、恒)の室房子(墓所は東京谷中善性寺)の出身地かも知れませんが、
野嶋家としては伊豫から京都、伊勢亀山から上州館林(最後の野嶋亨が館林に残ったか、
藩主松平武聰公に従い石見藩に移ったか未だ調査が進んでおりません(館林藩の幕末の家臣禄高の
資料があるようです)と転々としたようですが、細川公の領地であった備中国の隣国美作との関連が
謎で残っております。

  • [118]
  • 奥の細道は、今の世にては

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 7日(土)23時36分22秒
 
matthewさま、ご熱心な野嶋氏の時代を越えて~ご先祖を尊ぶ御仁(祖母で遺言ですよね)の義、是非今の世に生命を継いだ御貴殿の大願成就を祈念しております。
野嶋氏と石川氏とを繋ぐキーワードは~細川通政の嫡男・細川通董(みちただ)殿をお訪ね下さい。

  • [117]
  • 重ねてご進言の義、有り難く存じます

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 5月 6日(金)07時19分15秒
 
>>116
> 時の流れを偲び~想う御心は、一筋の光明を見つめて辿る旅路為るかと。
> 石塔の哀れな姿こそ諸行無常の響きを受け止める庵主の今の仏心『念』為り哉!?。
> 是非、河野氏の古縁の結わく縁故を辿るには今一度、『伊予と讃岐と阿波と土佐』の国々への想いを重ねてくだされ度お願いします。南無

重ねてのご指導に厚く御礼申し上げます。永年の習い性から重箱の隅をつつく方向に行きがちですが、
ご進言の如く、伊予と讃岐と阿波と土佐の国々は将に隣同士。伊豫から始まりまずは近隣諸国、諸家の
歴史ですね。
ご教示頂いた細川通政殿の母上は河野通政殿の娘だったのですね!所領も伊豫國宇摩・温泉郡だった
のをはじめて知りました、汗。諸家との関わりは、単純な私のアタマには相当複雑ですが、少しずつでも
祖先をたどる道を歩みたく存じます。

  • [116]
  • Re:再び重ねてご進言の義

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 5日(木)11時34分12秒
 
時の流れを偲び~想う御心は、一筋の光明を見つめて辿る旅路為るかと。
庵主も水軍丸船長の時代から・今城先師との御縁にて、伊予之歴史を辿って知り得る事柄は、多岐に渉って迷い道に誘い込まれる事、屡なりて~遊行笑人にて先祖由縁の地を只管に諸国漫遊~備前国佐々木盛綱の古縁の領地~その家系を継ぐと聞く・小豆島の佐々木信胤(のぶたね)と~細川定禅(其の弟は皇海にて・・土佐国大津天竺細川禅門と)との由緒を辿ること奥の細道を先祖の仏門(時宗)出家の始祖一遍上人の本願に導かれて、今日に至り、平家の平安から源氏の鎌倉時代に雌雄を決した『源平合戦の古戦場』の地・瀬戸内の古里(庵治・牟礼・讃岐と小豆島)の地に本館・番屋・仮の庵と終の棲家海遊庵を備えて安堵~併せて傷ついたか身体を癒す讃岐之国の奥座敷・行基開祖の塩江温泉郷の湯宿の内場の小里は、源平合戦の阿波から~讃岐之国へ大坂峠を越えた際に、国境までお迎えに行かれた、内場城主・藤沢道信と合い携えた湯の里と、重ねて何故か・讃岐国一宮近くの船岡の里・船山神社の在・百相(百合)城主・河野三郎なる人物の存在が地元の古歴史に見え隠れするのは何故なのか???!!。
阿波と讃岐之国境の山懐に、今に至っては其の面影を日々に朽ちる姿を残す、阿波脇町と讃岐塩江の国境の清水峠を越して、鎌倉時代末期の変遷の時代に耐えて今の世にそのやつれた面影を薄っすらと残す
石塔の哀れな姿こそ諸行無常の響きを受け止める庵主の今の仏心『念』為り哉!?。
是非、河野氏の古縁の結わく縁故を辿るには今一度、『伊予と讃岐と阿波と土佐』の国々への想いを重ねてくだされ度お願いします。南無

  • [115]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 4日(水)15時57分23秒
 
重ねて、誼に呼応さて~ご案内の義也
細川宗家(京兆家)十六代高国殿は、(細川宗家・奉公衆の細川淡路家・野州細川氏・天竺細川氏)の野州家の当主教春~政春~その子・嫡子は高国なる人物也。其の兄弟の末っ子通政殿の家系をお尋ね下され!・・細川氏と河野氏と石川氏と野嶋氏との奇遇の縁故関係が垣間見えますから。南無

  • [114]
  • Re: 厳島の合戦と野嶋氏

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 4日(水)15時33分52秒
 
岩崎山法栄寺さま、お初にお目にかかります。南無
ご案内のサイト~ブログを拝見させて頂きました。
家紋(寺紋)の義、興味深く見させていただきました。
今後とも、ご訪問を願っております。恐惶謹言

  • [113]
  • Re: 厳島の合戦と野嶋氏

  • 投稿者:岩崎山法栄寺
  • 投稿日:2011年 5月 4日(水)02時06分11秒
 
>>107
> ご無沙汰しております。岩崎山法栄寺さま、はじめまして。2009年5月の投稿を拝見しましたが、
> 通信殿の御子孫とのことですね。イラストが大変お上手で絵心のない私には大変羨ましいです。
> 寺紋を拝見すると河野家のものとは少し違っておりますね、90度中身を回転したような。
> 以前書きましたように私の祖母の野嶋家譜は、通信殿の4代あとの通忠の庶流、野嶋掃部丞忠時
> という書き出しです。
>http://item.rakuten.co.jp/sisyukazoku/houeiji/
こんにちは、今夜はフラワーフェィバルにてで牛田山龍蔵院のイベントの手伝いで広島に来ています。
今日はチベットの踊りや音楽を披露しました。残り二日は物品販売に力を入れます。

上記のURLは御縁があって楽天で売ってある法栄寺の家紋です。絵を褒めて頂き物凄く嬉しいです。(^0^)島根の真言宗寺院の河野家の家紋も気になります。あの古い写真のです。

ついでに我が祖父17世河野正真前住職は「あれは縦にして水と読む家紋なのだ!!」と言っていました。

今、日本は未曾有の危機ですが、法栄寺は日本の為に僅かでも力に慣れればと色々思案中です。
夏にチャリティーライブでも行う予定です。その時にこのサイトの皆さんも揃って来て頂けたら幸いです。チベット人歌手のテンジン・ドゥンドゥップさんをゲストに呼ぶ予定です。
http://tenzindhundupmusic.blogspot.com/ この人です。

  • [112]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 3日(火)17時39分5秒
 
庵主師のご進言有り難う御座います。ぐぐっと村上家に引きよられてしまいがちですが、土佐の
> 野嶋様はじめ東予の石川氏との関連もご示唆頂き有り難く存じます。河野-細川家との姻戚関係も
> ベースにあるのですか!瀬戸内海の小島?を拠点に海賊稼業、笑、のご先祖とだけ思って参りましたが
> なかなかその広がりに驚くばかりです。10~15世紀は日本史の空白地帯といっても宜しいのでは?引き続きご指導の程を願い上げます。
*いやはや・何のなんの・庵主も次から継ぎに唯只管に、無心の『業』にて導かれる侭の遊行の道すがらの諸行~平々凡々と何の企ても無く・・日々を生歳生けることに専念・無心に先祖の古の面影を一歩一歩偲んで~歩みを進めることに喜びと生き甲斐を受け止めて居ります。南無

  • [111]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 5月 3日(火)15時25分49秒
 
> *お久し振りですね!・・さて、石川氏との関係の深さを知るにつけ、毛利家との繋がりより~寧ろ阿波~讃岐之国と土佐国に、其の奥の細道古縁の存在する~細川氏の諸流との縁故を是非想いうかべて語探索の要があろうかと考えております。何故ならば、そもそもは讃岐国細川氏(奉公衆の淡路・野州・天竺細川家)・並びに東予・石川氏と野嶋氏とは河野晴通と細川氏の姻戚関係が奥底に存在しております。是非お心の傍にご記憶下さい。南無

庵主師のご進言有り難う御座います。ぐぐっと村上家に引きよられてしまいがちですが、土佐の
野嶋様はじめ東予の石川氏との関連もご示唆頂き有り難く存じます。河野-細川家との姻戚関係も
ベースにあるのですか!瀬戸内海の小島?を拠点に海賊稼業、笑、のご先祖とだけ思って参りましたが
なかなかその広がりに驚くばかりです。10~15世紀は日本史の空白地帯といっても宜しいのでは?引き続きご指導の程を願い上げます。

  • [110]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月 3日(火)11時28分36秒
 
> メインスレッドにて庵主師には系譜をupして頂き、大変有り難う御座いました(これを書いている間に更にupされた系図も凄いものですね!)。
家伝の野嶋系譜の2代目、野嶋民部丞通豊の三津浜の戦いの記述から、当初takubo某様のHPに投稿させて頂き、その後ゆづき城に登城させて頂いた次第です。その折、takubo様より「通高」の記述の記憶があるとのお答えでしたがこの頁だったのですね。
繰り返しになりますが、家伝の野嶋系譜では初代から3代目までは父母室の記載無く家譜の記載としては不完全です、伝聞だけかもしれませんね。初代野嶋掃部丞忠時は孝霊天第3皇子小千命から書き起こし、河野通忠の庶流とした上で、弘治元乙卯年(1555年)の厳島直戦いで善戦したこと、次代野嶋民部丞「通豊」は慶長五庚子年(1600年)に三津浜の戦いで戦死したこと、3代目の野嶋民部忠由は父通豊の戦死により親族石川、萩原氏を頼って関武ニ下リ武州八王子之邑ニ領居ス、とあります
*お久し振りですね!・・さて、石川氏との関係の深さを知るにつけ、毛利家との繋がりより~寧ろ阿波~讃岐之国と土佐国に、其の奥の細道古縁の存在する~細川氏の諸流との縁故を是非想いうかべて語探索の要があろうかと考えております。何故ならば、そもそもは讃岐国細川氏(奉公衆の淡路・野州・天竺細川家)・並びに東予・石川氏と野嶋氏とは河野晴通と細川氏の姻戚関係が奥底に存在しております。是非お心の傍にご記憶下さい。南無

  • [109]
  • Re: 厳島の合戦と野嶋氏

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 5月 3日(火)06時39分54秒
 
いつもながらに、広範なご知識と判りやすい呑舟師のご解説に初学者は深謝です。

出自の問題から越智ー河野の関係など、やまと言葉はあったにせよ万葉仮名の成立後のように
文書として残せなかった時代の事は、後年伝承を記録するという形にならざるを得ず、
真偽を見極めるのは難しいですね。でも、近年旧家から古文書や古美術の発見が
相次いでおりますから、クロスチェックしながら真実を見つけていくことは可能の
ようですが、これとても失われる(忘れられる)速度と発見の速度の兼ね合いですね。

明治の神仏棄却後のお寺さんは専ら法事とお墓の管理、という観点でしか見られませんでしたが、
今回中世においては土地の寄進などを通じて、考えていた以上に政治的に非常に大きな存在だった
事が判りました。寺社に残る文書の重要性に気づいた次第で・・・・、汗。

湯築城のまわりはやはりお堀でしたか。形だけからすると古代天皇陵の延長という感じがしています。
近世の石垣城に比べるととても要塞堅固とは言えませんが、中世の戦争ではせいぜい数百人規模の
ようでこれでも結構役に立ったのかなあ、との感想です。

ただ、こうして書物を読んでおりましても、東京近郊ならば江戸時代位からの土地勘があって
地図を調べずに「大体あの辺か」と判るのですが、今回初めて伊豫地方とのご縁に気づいた次第で
土地勘が全くなく、非常なハンデになっております、涙。

  • [108]
  • Re: 厳島の合戦と野嶋氏

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 2日(月)22時06分40秒
 
> 過日子規記念館より求めました呑舟師お勧めの「観念寺文書」より先に一緒に購入しました景浦勉先生の「河野氏の研究」を読んでおりました。出自は別にして、越智郡の越智氏一族が衰退して河野郡の河野氏へ覇権が移ったが同族意識は強かったようだ、と読み取りましたが如何なものでしょうか。
> 少しずつ勉強しております、汗。流石に景浦先生の大書ですね。
>
> 同書124頁に湯築古城の図がありますが、今城師の仰るように石垣など無い、2層の土盛の
> ようですね。まわりの黒い部分は堀でしょうか、それとも土盛の坂でしょうか。石垣を高く
> 積んだ近世の城とは随分違うものだと実感しました。

●伊予史談会会長の立場からすれば、越智郡の越智氏と風早郡河野郷の河野氏とは全く関係がない
 とは言えなかった感じですね。彼の著書は沢山ありますが、越智郡の越智家後裔が河野氏であると
 は断定していません。様々な予章記や様々な河野系図がそう記録しているので、なんらかの関係
 が途中から発生したらしいと曖昧にしています。
 やはり、始祖の孝霊天皇説とニギハヤヒ説との葛藤と思われます。
 このスレッドのメインテーマの皇別系と神別系と全く相反する始祖だからです。
 一方を認めると片方と辻褄が合わなくなり第三者の歴史学者しては致命的ですから。

 湯築城の古地図の説明は今城さんの方が詳しいと思います。
 私はこの絵地図がいつの時代にいつの時の城を何の目的で誰が書いたか分りませんので
 説明能力がありません。

 感想として言わせて頂ければ、
 新しい時代の絵図のような気がします。
 堀は二重堀になっていますので、天文四年の大改修以降の姿だと思われます。
 よってほぼ現在の姿ではないかと思われます。
 天文四年の大改修は「湯付堀普請」と言われるもので、
 山城の平城化と、堀のニ重化と、大手門と搦手門の逆機能の設計変更と言われてますので、
 攻撃より、防衛を目的とした改造かと思われます。
 この普請は大工事らしく人夫集めには苦労しているようです。
 短期間の工事ではなく相当負担が掛ったらしく、
 「この普請は勘弁して下さい」とした所にOK(免除)しているようです。

 内憂外患の時代ですので、いつでも篭城できるように守りを固めたものと思われます。
 中世の城を改造しているようですから、石垣を高々と積み上げる城とはなってないようです。

 只、素掘りの堀では、堀としては心もとないのですが?
 この時少しは石は使ったと思われるのですが・・・・。
 発掘例を根拠とした今城さんとの見解が以前分かれたものです。

 湯築城の石垣を今の松山城の普請に使ったと景浦会長が書いてますがよく分りません。

 素堀の堀は時間が経つと段々崩れて行き、1年に一回は水を抜いて泥さらいをしないと
 堀が壕でなくなります。平和な時はそれでもいいのでしょうが、戦国時代にはそんな悠長な
 泥さらいできるとは思えません。

 瀬戸内海地域は雨が少ないので、灌漑用のため池が沢山ありますが、殆ど素堀です。
 数年に一度、水を抜いて土壁の補修と泥さらえをして、強度の補修と水量確保のための流れて来た
 土砂を運びだします。小さな溜め池でも水を抜いて同様な工事をして又、水を張ると約1ケ月
 かかります。石垣で養護された池ならこの工事が殆どいらないか、しても十数年に一度のメンテ
 で済みます。同様なことが湯付堀にもあったと思います。

 湯築も天文4年に二重堀化した時に一部石垣工法を使った可能性はあると思います。
 貴重な石工を集めることと適した石を近くから調達できる必要があります。
 時間と費用が限られる戦国時代はスピードが勝負です。
 また。真っ先に堅固にするのは門の周辺です。出入り口が崩れたら勝負にならないからです。
 逆に言えばその部分だけ石垣化が最低条件です。
 会津若松城や弘前城は今も、門周辺しか石垣がありません。

 一旦構築された石垣はキッドと一緒ですから部品に分解して再構築できます。
 よって楚石からその下のグリ石まですべて松山城に持っていかれたら、湯築城には
 証拠は残りません。
 戦国時代の築城はスピード勝負ですから石垣の石はとても貴重です。
 使える石は何でも使います。
 明智光秀が築城した福知山城は築城を急ぐあまり石垣に墓石が多数使われています。
 現在ガイドの方は前領主の墓をわざわざ使いと、極悪非道の明智光秀像を作るために説明しています
 これは誇張でしょう。周りの墓地から片っ端から徴用した感じですから。

 また脱線しました・・・・。

  • [107]
  • Re: 厳島の合戦と野嶋氏

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2011年 5月 2日(月)11時39分50秒
 
ご無沙汰しております。岩崎山法栄寺さま、はじめまして。2009年5月の投稿を拝見しましたが、
通信殿の御子孫とのことですね。イラストが大変お上手で絵心のない私には大変羨ましいです。
寺紋を拝見すると河野家のものとは少し違っておりますね、90度中身を回転したような。
以前書きましたように私の祖母の野嶋家譜は、通信殿の4代あとの通忠の庶流、野嶋掃部丞忠時
という書き出しです。

過日子規記念館より求めました呑舟師お勧めの「観念寺文書」より先に一緒に購入しました景浦勉先生の「河野氏の研究」を読んでおりました。出自は別にして、越智郡の越智氏一族が衰退して河野郡の河野氏へ覇権が移ったが同族意識は強かったようだ、と読み取りましたが如何なものでしょうか。
少しずつ勉強しております、汗。流石に景浦先生の大書ですね。

同書124頁に湯築古城の図がありますが、今城師の仰るように石垣など無い、2層の土盛の
ようですね。まわりの黒い部分は堀でしょうか、それとも土盛の坂でしょうか。石垣を高く
積んだ近世の城とは随分違うものだと実感しました。

>>105
> 偶々、柱島の中富家の記録を見ていますと、この家は予州野嶋家の家臣であったそうで、
> 野嶋家は船上手とありますから、村上水軍の一派ですね。
> 厳島の合戦に参加してその恩賞として柱島を貰ったので、家臣の中富が渡ってきて管理していたようです。
> 中富氏が野嶋に召抱えられた時の俸禄が百石とありますから、野嶋家は1000~1500石近い俸禄を受けて
> いたようです。たぶんこの石高では伊予河野家からではなく毛利家から受けていたように思われます。
> 厳島の合戦での恩賞は直接、毛利から野嶋家が貰った可能性があります。
> この合戦の恩賞で、屋代島の分は来島村上が頂戴するのですが、その中に含まれている柱島領地か別枠か
> 分りませんが、能島村上はこの時、江田島や鞆の浦を頂戴したと思われますので、野嶋氏は来島党と思われます。
> となるとやはり以前紹介した河野の末裔となりますね。

そうでしたか!いつもながらに呑舟師のご指摘に感謝です。厳島の戦いの記録を見ておりますと
因島村上は参加せずに、来島村上と能島村上が毛利軍を海上から支えたようですね。野嶋家譜
記載の2代目(年数からすると数代以上開いておりますが)野嶋通豊が三津浦の戦に参戦したのも
毛利家の家禄を戴いていたとすると自然ですね。

> 東に江戸初期に向かったのは、松前の戦いでも敗れ居場所が、伊予にも周防にも無くなったからかと思えます。

通豊の息子忠由、が頼っていった八王子の親族石川氏は江戸氏の重臣であったようですね、河野通忠の室、江戸太郎の娘の縁を頼っていったのではと考えております。

  • [106]
  • こんにちは、越智氏の事で見ていてとても勉強に成りました。

  • 投稿者:岩崎山法栄寺
  • 投稿日:2011年 5月 2日(月)09時24分16秒
 
うちの寺の場合は1459年ぐらいに先祖が出家を決意して、伊予から京都に行って、各地の名刹を訪ねて、最終的に蓮如上人の本願寺に行き着き、そこで学んだそうです。

その後、岩崎山法栄寺を建立しましたが、問題は河野孫左衛門貞勝と言う侍は河野氏の家系図のどのあたりにいた人物かが謎なのです。


  • [105]
  • 厳島の合戦と野嶋氏

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 1日(日)18時38分30秒
 
偶々、柱島の中富家の記録を見ていますと、この家は予州野嶋家の家臣であったそうで、
野嶋家は船上手とありますから、村上水軍の一派ですね。
厳島の合戦に参加してその恩賞として柱島を貰ったので、家臣の中富が渡ってきて管理していたようです。
中富氏が野嶋に召抱えられた時の俸禄が百石とありますから、野嶋家は1000~1500石近い俸禄を受けて
いたようです。たぶんこの石高では伊予河野家からではなく毛利家から受けていたように思われます。
厳島の合戦での恩賞は直接、毛利から野嶋家が貰った可能性があります。
この合戦の恩賞で、屋代島の分は来島村上が頂戴するのですが、その中に含まれている柱島領地か別枠か
分りませんが、能島村上はこの時、江田島や鞆の浦を頂戴したと思われますので、野嶋氏は来島党と思われます。
となるとやはり以前紹介した河野の末裔となりますね。

東に江戸初期に向かったのは、松前の戦いでも敗れ居場所が、伊予にも周防にも無くなったからかと思えます。

尚、柱島は現在は山口県岩国市柱島で以前は屋代島の属島でした。
柱島の沖の海域は水深があり特に柱島泊地と呼ばれ昭和18年に大和と並ぶ、戦艦陸奥が謎の爆沈したことでも有名です。
明治維新には赤禰武人を生んだ島です。
中世は忽那一族の縄張りです。


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