• [0]
  • 越智河野氏の出自や如何に?

  • 投稿者:管理者
  • 投稿日:2010年 7月12日(月)03時54分19秒
 
「談話室、喫茶室」で長年に亘り越智・河野家出自は決着しません。
決着」しないから面白いのですが(笑い)

ここでアンケートを取ります!

越智・河野の出自は?

?孝霊天皇第三の王子からです。(皇別論)

?ニギハヤヒ系の物部氏からです(神別論)

?どちらでも有りません土着の豪族です(国造論)

?その他(越智と河野氏は関係ありません)

?その他のその他

みなさんはどれに拠ってますかね?

根本が違えば理論展開と価値観が変わります。

長年、喧々諤々やってますが元の認識が根っこで違うのでは?

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [134]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月24日(土)04時29分1秒
 
> 詳しい解説を有り難う御座居ました。次ぎの記述が[33]の野嶋通豊で1600年頃、450年ほど飛んでおります。以前に詳しい解説を頂いた様に、板倉候に出仕以降は嶋原の乱などへの「出張」など裏が取れるようですので、それ以降に伝承を元に記載されたのでしょうね。

●経緯はそうかもしれませんが、へこむほどのことでもありません。
 先祖がなんの根拠もなく書いてるいるとも思えませんし、史実は以外な所に記録されていることも
 多いのです。板倉公は確か僧籍も持っていて寺社奉行も勤めていたと記憶します。
 部下は旗本からチョイスするわけにいかないので自前で直々の家臣を召抱えたように記憶しますから
 板倉家の家臣書を探した方が近道かもしれませんね。
 どこかに残っていると思います。

  • [133]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2012年 3月22日(木)08時04分7秒
 
>  神経使いますが頭の体操で「ボケ防止」の予行練習です(笑い)

私は既に呆けかかっております、汗。

詳しい解説を有り難う御座居ました。次ぎの記述が[33]の野嶋通豊で1600年頃、450年ほど飛んでおります。以前に詳しい解説を頂いた様に、板倉候に出仕以降は嶋原の乱などへの「出張」など裏が取れるようですので、それ以降に伝承を元に記載されたのでしょうね。

今城先師のおっしゃる「湯月城保存運動を主旨とする」件は以前の「ゆづき」の掲示板から存じ上げております。手許に伝わる野嶋系譜は鈴姫様のように系図線を引いたような系図ではなく、且つ初代でざっと河野家との繋がりを記載しているだけでご参考にもならないようで大変申し訳なく存じます。メインスレッドで述べられておられるように、河野通忠が長男?にもかかわらず家内の内紛を避けてあっさり家督相続を放棄したとしたら、その血を継いでいることを誇りたいと思っております。またまた余分で失礼しました。

  • [132]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月21日(水)16時03分27秒
 
matthew様

UPの文書は多分江戸期のものと思われます。
細かく言うと記憶違い(混乱)が三ケ所あると見ています。

①「伊豫国の住人にて太閤秀吉に属せし時」とあるのは

 村上通総の時と思われます。彼が河野惣家に敵対するのが決定的になるのは
 天正10年(1583)4月10日以降の離反と思われます。よって来島村上に属したようにも
 受取れます。しかし、この時は秀吉が通総を来嶋と呼んだため、名を改めて
 来嶋出雲守と号したことによると思われます。

②「秀吉、来嶋を久留嶋と書きかえ能嶋を野嶋と書きかゆべしとの事」

 秀吉はこんな些細なことまで指図はしていないと思われます。
 来島を久留嶋と改名するのは江戸時代に玖珠で大名家二代目の通春が
 元和2年(1615)に書き改めたのが最初とされます。
 能島村上は元々能島と自らを称してはいません。
 自らはあくまで村上としか称していない筈です。
 周りの人や後世の人が村上三家(三島村上とも云います)を区別するために
 それぞれ、住んでる地名で因島、能島、来島と呼びわけていただけのことです。
 ましてや能島村上は秀吉と敵対関係にありますから彼の指示を受けることはありません。
 この古文書を書いたと思われる「野嶋忠時」もこの経緯がよく分らず、来島改名に
 ことよせ、能島を野嶋としたと報告したと考えるのが妥当と思われます。

③「弘治元年十月晦日芸州佐伯郡厳島において合戦」

 これは有名な陶と毛利の覇権を競う厳島の合戦ですが、
 色んな説はありますが、厳島の合戦が始まったのは九月晦日で翌十月一日には
 毛利軍の勝利で終ります。よってこれは十月晦日ではなく九月晦日でないと合いません。

 原因は単純間違いと言うより、忠時が調査した結果、悩んだ上の記載と思われます。
 多くの「一級史料」とされる古文書も同様なミスをしているのですが、
 元号の扱いは結構神経を使います。

 この合戦の例で云いますと、9月30日および翌10月1日は「弘治元年」ではなく
 「天文24年」が正しいのです。
 弘治への改元は同年10月23日とされますので、この事実に曳きづられて、忠時は
 9月晦日を10月晦日としたとも考えられます。

 このような年号の間違いは日本史の最高権威の一つされる「東大史料編纂所」のデータベースでも
 又、大内、毛利史の最高権威の「山口県文書館」の「山口県史整理年表」でもほとんど間違っています。

 理由は単純です。正確な整理が大変だから、改元日を無視してすべて正月1日から改元されたもの
 とみなし年表を作るからです。西暦と【比較】するのはとりあえずこれしかないようです。
 しかし、西暦と【対比】するにはこれでは不十分で太陽歴と太陰歴の対比をしなくてはなりません。
 確かに気の遠くなる作業です。
 好きな方がこの対比の「変換プログラム」を作成していますがまだバグがあるようです。
 私は改元年の史料はできるだけ原本を見る努力をします。
 見れない場合は同事件の同類の書を比較します。
 これを怠って間違った年号を使用する歴史研究者の論文や著書はあまり信用しないことにしています。
 『私は手抜きの性格です』とタイトルの前に書いてあるのと同様だからです。

 面白いのは「中世の伊豫」を見るときに「フロイスの日記」が引き合いに出され
 ますが、こちらの月日は太陽歴ですから日本のとは当たり前ですが合いません。

 神経使いますが頭の体操で「ボケ防止」の予行練習です(笑い) 

  • [131]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月20日(火)07時00分13秒
 
> *野島直信の消息は、なかなか見付りませんな~。
> 景浦勉先師の『河野家文書』の系譜をご参考に~薄っすらとボケてますが。南無

●庵主様 この河野家文書のボケてないのを再度UPして頂けませんか?
 またこの「河野家文書」はどの河野家が出典となっていますでしょうか?
 系図原本が存在するのでしょうか?それとも景浦氏の整理用の創作系図でしょうか?
 景浦氏の整理用の創作系図の方が殆ど正しいのですが・・・。

 「河野冠者三島三郎伊豫権助親清の九代河野八郎通忠の庶流ナリ」の探索の一助にしたいのですが?

 時代からすれば河野惣家は「河野九郎伊予守通義(能)」で予州家は「河野六郎対馬守通之」
 の代ではと思われます。


  • [130]
  • Re: 定紋スレッドから

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月19日(月)20時43分51秒
 
> 豫章記などに依れば、河野親清は三島四郎ですが、野嶋系譜では三島三郎となっていたり、弘治元年の厳島の戦いも簡単な伝承と思われ、相当後年の(おそらく江戸時代の)記載であろうと推測します。資料的価値はないのではないかと危惧します。

●いえいえとても貴重ですよ。
 あともう数ページUPしてもらえませんか?

 書き方の体裁からすれば、系図と言うより、江戸期に主家に家の氏素性由緒と親類書を出したときの
 報告書類の写しのような感じです。
 全文を見れば分るのですが。
 このような書類の提出はたいていの藩が行なっています。
 だいたい代替りの度にしています。
 結婚と養子縁組は藩主の許可がいるので、その書類はその都度出したのでしょう。
 其の他、死亡や結婚などで「親類書」を更新しなければならないからと思われます。
 彦根藩などはこれに人事異動、給与変遷、賞罰記録を藩担当が書き加え、さながら、「人事記録」に
 しています

 体裁からすれば、「野嶋掃部丞忠時」が出したものと推定します。

  • [129]
  • 定紋スレッドから

  • 投稿者:matthew
  • 投稿日:2012年 3月19日(月)19時24分42秒
 
定紋のスレッドからです。

豫章記などに依れば、河野親清は三島四郎ですが、野嶋系譜では三島三郎となっていたり、弘治元年の厳島の戦いも簡単な伝承と思われ、相当後年の(おそらく江戸時代の)記載であろうと推測します。資料的価値はないのではないかと危惧します。

不適切でしたら削除頂ければ、と存じます。

  • [128]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月16日(月)03時15分13秒
 
>>127
>  いえいえさっぱり分らないのは野島直信の消息です。
> *野島直信の消息は、なかなか見付りませんな~。
> 景浦勉先師の『河野家文書』の系譜をご参考に~薄っすらとボケてますが。南無

●上の兄弟全員が通字の「通」を貰っているのに何故直信だけ「通」が貰えず、しかも野島(嶋ではない)
 なのでしょうね?

  • [127]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月13日(金)23時49分55秒
 
いえいえさっぱり分らないのは野島直信の消息です。
*野島直信の消息は、なかなか見付りませんな~。
景浦勉先師の『河野家文書』の系譜をご参考に~薄っすらとボケてますが。南無

  • [126]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月11日(水)18時11分56秒
 
いえいえさっぱり分らないのは野島直信の消息です。

  • [125]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月11日(水)17時16分31秒
 
この度は、偶々、野嶋氏とのご先祖を辿る道程にて、土佐国の歴史研究の士・野島竜馬氏が残された『細川大津天竺落城と越智氏族史料』の著書の内には、我等土佐大津天竺の古史に書き及んでおり。其の史料の内には、我家の系図(原書)の文書が主題として記されております。南無
>
> ●結局、さっぱりわかりません。
*さっぱり分かりません・・とは、呑舟師、お戯れを!
応仁之乱の時代(初期・応仁元年・1467~68年)から~中期(応仁二年・1468~70年)・後半(文明三年・1471~77年)の乱世の四国並びに周辺の国々の世情を知り尽くした、御師なれば、庵主も我等の代々書き込まれた系図の空白期間は正しく、1400年代の記載の文書は、単純に、夫々の官職と名前のみの記載しか無くて、伊予之国今岡氏・諸氏の諸資料を訪ねて、手許に整えながら
今日に至っております。
処で、ご存知の如く、伊予之国も、我々が想いを重ねる以外にも、見据えなければ為らない中央政権・追従する施政の権力争いの関係図(東軍・西軍)は複雑な様相を呈しております。
慎重に奥の細道・・導かれる侭に訪ねましょう! 南無


  • [124]
  • Re: 野嶋民部丞通豊は野島直信ですか?庵主様!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 5月10日(火)13時38分14秒
 
呑舟師、いよいよ~奥の細道・分かれ道に、差し掛かって参りました。
阿波・讃岐・土佐の『細川氏』の関係と、伊予之湯築城に纏わる細川天竺禅門と~細川頼之と戦慄の真っ只中誘い込まれるも避けて通れず・貞冶年間初頭(1360年)の末から~同じく1500年代(永正1504年~・~から)終焉の天正(1592)年への細川氏を取巻く因果にて、伊予河野氏と土佐の長宗我部元親の戦国時代(あえて言えば阿波の三好氏)への誘いは、矢張り奥の深い拘わりの因果の歴史の妙なる調べの成す『禍』かもと考えております。
是非、皆様方の強力(合力・協力)パワーにて、じっくりと訪ねて見ませんか?・・南無

  • [123]
  • 野嶋民部丞通豊は野島直信ですか?庵主様!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 9日(月)18時34分36秒
 
野嶋家と細川家の具体的な相関関係が当方理解できませんが、

野嶋民部丞通豊は野島直信とお考えでしょうか?

時代的にはこの二人は同じ時代です。しかし直信の詳しい消息を私は知りません。
柱島中富家の俸禄からすれば主君の野嶋家は相当の大身です。
予州家の一族であれば考えられます。
兄弟二人が宗家を継ぐのに直信はその名前からしてあまり重く用いられてないようですね。
庶子なのかなとも思えます。
後に河野宗家を継ぐ通政と通宣は実は弾正少輔通直の子との説もあるそうですが
この時代の河野家は今伝えられているよりも不可解なことが起っていた可能性があります。

細川系文書はどのように伝えていますか?

よって、当方、今、毛利系、小早川系の関係文書を探索中です。豊後の大友も絡むかもしれません。
豊後の大友が絡めば、土佐一条、長曽我部が絡み、必然的に伊予宇都宮と西園寺も絡み、複雑怪奇
となりますね。

  • [122]
  • Re: いつも有り難う御座います

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月 8日(日)21時01分34秒
 
>>121
> 呑舟師、久しゅう御座る。
> 東日本大震災の未曾有の大災害の其の後も~より深刻な原発問題を呼び込み~正しく太平洋戦以後・庵主の記憶に留まる最悪・最大の国難では無いかと心を痛めております。
> さて、お尋ねの義は、以前より、尊敬する川岡・寺川両先生のご研究の諸説の足跡を、多分に今城先師の資料サイトにも書き留められておるようです。
> これ等の繋がりは、我家の系図を道標に只管に~土佐・阿波・讃岐・伊予の遊行の旅すがら庵主の日記の恙無き一説です。 南無
> 其の地~其の地には、夫々の史料・史跡・埋蔵された古書や埋蔵物(発掘)や~固有の伝承や~神社仏閣の古史(縁起)には、其れなりの奥の細道を知る機会が潜在している感が有り、思い掛けず既成概念を覆す機会に巡り会えることも摩訶不思議なり。
> この度は、偶々、野嶋氏とのご先祖を辿る道程にて、土佐国の歴史研究の士・野島竜馬氏が残された『細川大津天竺落城と越智氏族史料』の著書の内には、我等土佐大津天竺の古史に書き及んでおり。其の史料の内には、我家の系図(原書)の文書が主題として記されております。南無

●結局、さっぱりわかりません。



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