• [0]
  • 湯月城リサイクル作戦

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)04時30分28秒
 
河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [13]
  • Re: 湯築城石垣転用説は誰が言い始めたのか?

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)10時35分15秒
 
>>10

 江戸時代に出来た伝承ではないでしょうか。

  • [12]
  • Re: 湯築城の建物は移築された

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)00時18分21秒
 
>  湯築城の建物は、どこかに移築されたと、私は見ております。松山城に湯築城から持って来た建材で作ったと伝わる櫓がありますので、移築先は松山城の可能性が高いでしょう。
>
>  私は湯築城の瓦の廃棄状態も、建物を移築したことを物語ると見ております。湯築城の発掘調査で、大手門近くの溝に、瓦が袋に入れて捨てられていたのが見付かりました。4袋あり、中は紋様の付いた軒丸瓦や軒平瓦が殆んどで、紋様のない平瓦はありませんでした。
>
>  紋様の付いた瓦は、それぞれの家で定めた紋様と異なるので捨てたのでしょう。一方、紋様の無い瓦は使えるので持って行ったのではないでしょうか。つまり再利用できる紋様の付いていない瓦が残っていないのは、建物が移築されたことを語っていると思います。

●この袋入りの瓦はいつの年代の層で見付かったものでしょうか?

 またこの袋の大きさと材質は何だったでしょうか?

  • [11]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月16日(金)00時09分24秒
 
> > ●石垣が全くないと言うことは水を貯めない空堀構造だったということでしょうか
>
>  外堀、内堀とも水はちゃんと有りますよ。湯築城の堀は松山の灌漑水系の一部です。

◎土盛だけだと水を入れると崩れるのですが?
 堀底から高さはどのくらいだったのでしょう?
 堤の淵から底に向って土盛の傾斜度はどのくらいでしょうか?

 行基さんも弘法さんもこれには苦労したのですよね。

  • [10]
  • 湯築城石垣転用説は誰が言い始めたのか?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)23時51分3秒
 
なら、いつごろから伊予では湯築城石垣を松山城転用説を何に基づいて言い始めたのでしょうね?

景浦直孝さんの時代はこのことはほぼ常識とされ、愛媛県師範学校の一年生の教科書には同様なことが書かれ、卒業した先生達により、愛媛県下の生徒達に伝播していったのでしょうね。

曰く
「加藤嘉明、松山城を築くとき湯築城の石を取りきと伝う、この城は天正十五年より廃城
 となり、明治十九年公園として盛んに桜樹を栽培せり、外濠と内濠とは今なお二重に続き
 て周井およそ五百間あり(東西十九間、南北四十九間)」と

  • [9]
  • Re: 湯築城の建物は移築された

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)23時16分8秒
 
>>4

 湯築城の建物は、どこかに移築されたと、私は見ております。松山城に湯築城から持って来た建材で作ったと伝わる櫓がありますので、移築先は松山城の可能性が高いでしょう。

 私は湯築城の瓦の廃棄状態も、建物を移築したことを物語ると見ております。湯築城の発掘調査で、大手門近くの溝に、瓦が袋に入れて捨てられていたのが見付かりました。4袋あり、中は紋様の付いた軒丸瓦や軒平瓦が殆んどで、紋様のない平瓦はありませんでした。

 紋様の付いた瓦は、それぞれの家で定めた紋様と異なるので捨てたのでしょう。一方、紋様の無い瓦は使えるので持って行ったのではないでしょうか。つまり再利用できる紋様の付いていない瓦が残っていないのは、建物が移築されたことを語っていると思います。

  • [8]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)23時09分55秒
 
と言うことは父親の間違いを子が実地調査して訂正したということですね?

  • [7]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)22時52分59秒
 
>>5
> ●石垣が全くないと言うことは水を貯めない空堀構造だったということでしょうか

 外堀、内堀とも水はちゃんと有りますよ。湯築城の堀は松山の灌漑水系の一部です。

  • [6]
  • 湯築城が国史跡に指定されるまで

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)22時43分13秒
 
>>4

 松山城を築くとき湯築城から何もかも持って行き、湯築城は破壊されたという伝承が、今振り返ると本格的調査を邪魔していました。この伝承が真実と信じられていたため、発掘しても何も出て来ないと考えられていて、発掘しても無駄と思われていたと聞いています。

 湯築城跡に日本庭園を造ろうという計画が起きあがり、行政は当然事前発掘をしなければなりませんが、その時発掘しても無駄という空気の中で、発掘調査を強く主張したのが景浦勉氏でした。

 行政発掘が始まると、予想に反して出るわ出るわで遺構も遺物も残りが非常に良いことが判明し、この時点で壊されたという伝承は誤りと判りました。そこでこんな貴重な遺跡を潰してはならぬと、川岡先生始め愛媛大学の先生達が湯築城の保存運動を立ち上げ、13年の長年月にわたる運動の末目的を達成し、湯築城跡は今では国の重要文化財として国史跡に指定され、日本百名城にも選ばれる結果となりました。

 湯築城の今日があるのは、景浦先生や川岡先生の御蔭と言って間違いありません。湯築城跡を守る会の活動の中で、会の活動を伝えるサイトを開き、談話室ゆづきは運動を進める人達の交流を図るため、そのサイトの掲示板として開設したのが始まりで、その後種々の変遷を経て今に至りました。

  • [5]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)22時23分3秒
 
●石垣が全くないと言うことは水を貯めない空堀構造だったということでしょうか

  • [4]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)20時35分1秒
 
>>3
> >>2
>
>  建物は移築したでしょう。その可能性は高いと思います。
>
>  石を松山城に運んだと言う件は、発掘調査の結果否定されました。この結論を出したのは湯築城の発掘調査員です。川岡教授始め研究者から異論は全然出なかった筈で、今では仮説でなく定説となっており、松山城のガイドも以前は、湯築城から石を持って来たと説明していましたが、今は訂正され、湯築城から持って来たと言う説明はしていません。
>
>  材質分析の結果、松山城の石垣の石を切り出した場所は二箇所と判明し、どこだったか覚えていませんが、その場所も判っているようです。

●なるほど・・・。
 なら景浦氏の全く見当違いの話なのですね?

  • [3]
  • Re: 湯築城に石垣は無かった

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)20時00分14秒
 
>>2

 建物は移築したでしょう。その可能性は高いと思います。

 石を松山城に運んだと言う件は、発掘調査の結果否定されました。この結論を出したのは湯築城の発掘調査員です。川岡教授始め研究者から異論は全然出なかった筈で、今では仮説でなく定説となっており、松山城のガイドも以前は、湯築城から石を持って来たと説明していましたが、今は訂正され、湯築城から持って来たと言う説明はしていません。

 材質分析の結果、松山城の石垣の石を切り出した場所は二箇所と判明し、どこだったか覚えていませんが、その場所も判っているようです。

  • [2]
  • Re: 湯築城の遺構は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)19時29分52秒
 
>>1
> > 河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
> > とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?
>
>  湯築城跡発掘調査の結果、石垣が壊されたと言う伝承は完全な間違いであることが判明しました。
>  そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。湯築城跡においても、石垣も石垣を壊した跡も全然発見されず、遺構が非常に良く残っておりました。松山城築城に際して湯築城から石を運んだと言う伝承は、湯築城の実態が判らなくなった後世に作られたらしいと言われています。

●そうですか?
 川岡さんはそのように言ってますね?

 となると「伊予古蹟史」が伝える加藤嘉明が松山城築の時、「湯月城」の用材を転用した
 とされるのは誤りなのですね?これは木材のようですが。

 しかしそうなると景浦稚桃氏が断じた「松山城の石塁の多くは湯築城のもので、特に北郭
 に於いて大きな石材をみることができる」とのことは、景浦先生発言の根拠は伝承だった
 のでしょうか?
 仮にも伊予史談会をリードした方ですからそうは思えないのですが?

 そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。

 ●これも時期と場所によって違うのではないでしょうか?

 戦国時代になるとわれもわれもと石を組み始めますし。
 専用の石工集団がいました。

 中世の美濃土岐本城の革手城も石組です。
 古くは「野面積み」でのちに現在のような形式になります。
 仙台青葉城のように現在の石垣の下から古い時代の野面積みの石垣が次々と発掘されま  す。

 瀬戸内海沿岸は比較的良質な花崗岩を切ることができますので石垣は多かったと思います が。
 水戸城や会津若松城や弘前城は現在でも殆ど石垣がなく土塁ですが、これは近くに良質な
 石を採ることが出来なかったからと言われています。
 豪雨のたびに崩れますので、水戸黄門の子が高松から石垣材を船の乗せて水戸藩港那珂湊
 を積みだしたが、途中の時化で転覆し、それ以降水戸藩は石垣組は諦めたとか。

 革手城は石垣を全部もって行かれて近くの城の土台になっています。

 幻の湯築外堀石材かもしれませんね?

  • [1]
  • 湯築城の遺構は

  • 投稿者:今城メール
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)11時17分2秒
 
> 河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
> とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?

 湯築城跡発掘調査の結果、石垣が壊されたと言う伝承は完全な間違いであることが判明しました。
 そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。湯築城跡においても、石垣も石垣を壊した跡も全然発見されず、遺構が非常に良く残っておりました。松山城築城に際して湯築城から石を運んだと言う伝承は、湯築城の実態が判らなくなった後世に作られたらしいと言われています。


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