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  • Re: 湯築城の遺構は

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2010年 7月15日(木)19時29分52秒
 
>>1
> > 河野通直亡きあと、湯月城は、現松山城の築城のため、城や石垣が解体され松山城の一部
> > とされたと聞いていますが、現松山城でそれがどの部分なのか分かっているところはあるのでしょうか?
>
>  湯築城跡発掘調査の結果、石垣が壊されたと言う伝承は完全な間違いであることが判明しました。
>  そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。湯築城跡においても、石垣も石垣を壊した跡も全然発見されず、遺構が非常に良く残っておりました。松山城築城に際して湯築城から石を運んだと言う伝承は、湯築城の実態が判らなくなった後世に作られたらしいと言われています。

●そうですか?
 川岡さんはそのように言ってますね?

 となると「伊予古蹟史」が伝える加藤嘉明が松山城築の時、「湯月城」の用材を転用した
 とされるのは誤りなのですね?これは木材のようですが。

 しかしそうなると景浦稚桃氏が断じた「松山城の石塁の多くは湯築城のもので、特に北郭
 に於いて大きな石材をみることができる」とのことは、景浦先生発言の根拠は伝承だった
 のでしょうか?
 仮にも伊予史談会をリードした方ですからそうは思えないのですが?

 そもそも中世の城は土の城で、石垣はありません。

 ●これも時期と場所によって違うのではないでしょうか?

 戦国時代になるとわれもわれもと石を組み始めますし。
 専用の石工集団がいました。

 中世の美濃土岐本城の革手城も石組です。
 古くは「野面積み」でのちに現在のような形式になります。
 仙台青葉城のように現在の石垣の下から古い時代の野面積みの石垣が次々と発掘されま  す。

 瀬戸内海沿岸は比較的良質な花崗岩を切ることができますので石垣は多かったと思います が。
 水戸城や会津若松城や弘前城は現在でも殆ど石垣がなく土塁ですが、これは近くに良質な
 石を採ることが出来なかったからと言われています。
 豪雨のたびに崩れますので、水戸黄門の子が高松から石垣材を船の乗せて水戸藩港那珂湊
 を積みだしたが、途中の時化で転覆し、それ以降水戸藩は石垣組は諦めたとか。

 革手城は石垣を全部もって行かれて近くの城の土台になっています。

 幻の湯築外堀石材かもしれませんね?


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