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道後 義安寺
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道後 義安寺
投稿者:
呑舟
投稿日:2010年10月22日(金)11時03分43秒
道後義安寺に誓いの泉と云われるものがあるそうな。
天正13年に秀吉の四国征伐で河野家が滅んだ時、家臣達が二君に見えずと誓いを立て
水盃をして自刃したそうな。
●これは一体どのようなことなのでしょう?
天正13年は確かに秀吉軍の一派として、毛利・小早川の大軍が湯月城に押し寄せ
通直は毛利・小早川の説得を受け入れ開城します。
よってこの段階では主君は生きていますから河野家は滅びていません。
この戦の段階に於いても毛利家の駐在員は湯月城内にいて、親族河野家の残存に腐心
しています。よって和睦と言う決着を見ますので、戦闘があったとは思えません。
開城はしますが、通直は天正15年6月まで小早川庇護の許、そのまま湯月城にとどまり ます。
開城を潔しとしなかった一派が湯月を出て、近くの義安寺で勝手に自刃したのでしょうか?
そんなオッチョコチョイは忠臣とは言えませんので悲劇のヒーローと現在、松山市
教育委員会は案内板を出してはいけないと思われますが?
現在のこの義安寺誓いの泉の話は、1710年発行の本が出典と思われますが、そもそも
これが問題なのではないでしょうか?
天正15年夏の自刃ならば辻褄は合うのですが?
地の利のある今城さん、現在どのようになってますでしょうか?
投稿数上限に達したので書き込みできません
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Re: 道後・義安寺・「湯岡の碑」
投稿者:
呑舟
投稿日:2011年 3月21日(月)01時51分50秒
>>9
> 今城さんUPの影浦直孝さんの「湯岡の碑」の文書のレプリカは何故最初の前提部分を削り落としたので
> しょうね?
> 本文のスチュエーションが分らなくなると思うのですが?
> 碑には前文含めて篆刻されていたはずなのに・・・・。
> 直孝さんともあろうお方が・・・。
> 本人の自筆なのでしょうか?周りの方の原稿のような気がしますが?
●この碑がいつ建てられたのでしょうか?
今城さんがおっしゃるように勉さんの字であるなら、「謹書景浦直孝」は生前の直孝さんのメモなのでしょうね?
でも勉さんも専門家ですから文章の前段を割愛するのもやはりおかしいですね。
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9
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Re: 道後・義安寺・「湯岡の碑」
投稿者:
呑舟
投稿日:2011年 3月11日(金)21時12分27秒
今城さんUPの影浦直孝さんの「湯岡の碑」の文書のレプリカは何故最初の前提部分を削り落としたので
しょうね?
本文のスチュエーションが分らなくなると思うのですが?
碑には前文含めて篆刻されていたはずなのに・・・・。
直孝さんともあろうお方が・・・。
本人の自筆なのでしょうか?周りの方の原稿のような気がしますが?
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Re: 道後・義安寺・「湯岡の碑」
投稿者:
呑舟
投稿日:2011年 3月11日(金)04時28分38秒
義安寺の場所、もしくはその周辺に596年(推古4年・法興6年)当時は行宮があったのではなかろうか?
行宮は時代により変遷はしているが、現在の道後周辺の狭い地域に限られています。
道後温泉は地震があると湯が枯渇しまた数年すると別の場所に湧き出すことを繰り返しているので
そのつど行宮が移動したことでしょう。
聖徳太子が書いたとされる「湯岡の碑」は伊予風土記によると196文字で文字数的には多くも少なくも
ない。よって碑のサイズが想定できないが、当時の篆刻の技術からすればさほど大きなサイズではないのではないのでしょうか?
即ち義安寺に隠匿できる程度のサイズの可能性はある。碑文であるのでい「板形状」が想定される。
今城さん散歩のついでにこの失われた国宝を捜してくれませんかね?(笑)
参考までに「湯岡の碑文」を紹介します。伊予風土記(747年迄には成立)に記録されたものを
釈日本紀が引用したものです。よって数百年は現出していたものと思われます。
【湯岡の碑】 『釈日本紀』が引用した古書「伊予風土記」逸文
『法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意
聊作碑文一首 惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇
若乃照給無偏私 何異干(天カ)寿国 随華台而開合 沐神井而■(癒)疹 ■(言巨)舛于落花池而化弱
窺望山岳之巌■(愕) 反冀子平之能往 椿樹相■(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯■(峠の山が口)
何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩
後之君子 幸無蚩咲也』
【意訳】
「法興6年10月 我が法王大王が慧慈法師及び葛城臣とともに、伊予の村に遊んで、温泉を見て、その妙験に感嘆して碑文を作った。
思うに、日月は上にあって、すべてのものを平等に照らして私事をしない。神の温泉は下から出でて、誰にも公平に恩恵を与える。)
全ての政事(まつりごと)は、このように自然に適応して行われ、すべての人民は、その自然に従って。ひそかに動いているのである。
かの太陽が、すべてのものを平等に照らして、偏ったところがないのは、天寿国が蓮の台に従って、開いたり閉じたりするようなものである。
神の温泉に湯浴みして、病をいやすのは、ちょうど極楽浄土の蓮の花の池に落ちて、弱い人間を仏に化するようなものである。
険しくそそりたった山岳を望み見て、振り返って自分もまた、五山に登って姿をくらましたかの張子平のように、登っていきたいと思う。
椿の木はおおいかさなって、丸い大空のような形をしている。ちょうど『法華経』にある5百の羅漢が、5百の衣傘をさしているように思われる。
朝に、鳥がしきりに戯れ鳴いているが、その声は、ただ耳にかまびすしく、一つ一つの声を聞き分けることはできない。赤い椿の花は、
葉をまいて太陽の光に美しく照り映え、玉のような椿の実は、花びらをおおって、温泉の中にたれさがっている。この椿の下を通って、
ゆったりと遊びたい。どうして天の川の天の庭の心を知ることができようか。私の詩才はとぼしくて、魏の曹植のように、7歩歩く間に
詩をつくることができないのを恥としている。後に出た学識人よ、どうかあざわらわないでほしい」(『聖徳太子』梅原猛・著。集英社)
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道後・義安寺・「湯岡の碑」?
投稿者:
呑舟
投稿日:2011年 3月10日(木)20時30分32秒
> 本題は失われたとされる「湯岡の碑文」が密にしかも巧妙に義安寺に隠されているとの
> 話があるからです。
>
> 近くの畠からほりだされた「碑文」を義安寺に安置したと・・・・。
> このような話はないのでしょうか?
●上記の話を投稿して五ケ月近く経ちますがどこからも反応がありませんね。
やはりガセネタなのでしょうか?
確か江戸時代と思われる古文書にそのように書かれていたと記憶します。
確か、仏様か観音様をダミーにしてその後ろか中かに塗りこめて隠してあるとの話でしたが?
なにかの時に塗ったものが壊れて碑が露出したので修復した時の記事のようでしたが。
私は義安寺には行ったことがありませんので要領は得ませんが。
そのような、仏様か観音堂はありませんでしょうか?
本堂ではないような書き方でした。
「湯岡の碑」は現物は現在行方不明ですが、碑文は残されていますので一定期間は公開されて
いたものと思われます。
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Re: 道後・義安寺
投稿者:
海遊庵主
投稿日:2010年11月 9日(火)13時49分12秒
> > 平岡氏の家系は、知る者供は知る古縁(先祖を一つにする)の血筋かと。
> ●悩ましい家系ですね。平岡氏は河野家の有力な家臣家であることは確認されていますが
> 河野一族ではないとされてますよね。
> 其の弟には安綱なる久万六郎太夫と・・その弟には北条十郎太夫と申す者も見ゆ・
> > 安綱の後継の家名を継ぐ人物は、安仲(久万新太夫)~安清(久万太郎)~成清(久万弥太郎・五郎太夫)と名乗り。その後継者は成後(久万弥太郎)と記し、其の後には通賢と申す者は久万六郎左衛門・後改ためて太郎左衛門と名乗る・・と記す。
>
> ●これまた悩ましい家系であります。
>
> 一部の河野系図は冨永・大野を河野支族と記録します。
>
> 大野家も大伴→久万→冨永→大野と氏を変えたと記録します。
> 庵主様の系図が正しければ大野家は河野家支族となります。
> 私はどちらか、もしくは両方に混乱があると見ています。
> 同様な記録が伊予の冨永家系図にも見られます。こちらはどうも河野家支族と認識してい るようでです。大野系図にも冨永系図にも明らかに同一人物が散見されます。
> とてもとても悩ましく千数百年の絡み合った血族の糸を解きほぐすのは至難の業です。
*富永氏も眞にご熱心にご先祖の足跡を辿られておりますなあ~!
手許の某古文書(予章記かと)の紹介を、昭和18年に西条小松の郷『長福寺』に為されておられる記述を見て取れますね(愛媛県図書館蔵)何れにせよ悩ましき事よのうし。南無
次いで・・大野家は大伴姓を標榜しますので河野家ではありません・・・・・の義にては仰せの通り、大伴氏は神譜系統では高皇産霊神の流れの祖神『天忍日命』の『道臣命』の流れを崇拝する一統・一族なれば、正しく・・源流は呑舟師の申される通り・・河野家の流れとは神代の先史の時代には別流なり。
されど、高皇産霊神から分かつ~萬幡豊秋津姫命とアマテラスから継ぐ『天忍穂耳命』との睦にて生まれたる『ニニギ命』と大山津見神の御女『コノハヤサクヤヒメ』との婚縁にて~
神統系譜にては~同族の姻戚を示す由縁かと考えております。 悩ましいですなぁ~南無
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道後・義安寺
投稿者:
呑舟
投稿日:2010年11月 8日(月)20時26分44秒
> 平岡氏の家系は、知る者供は知る古縁(先祖を一つにする)の血筋かと。
●悩ましい家系ですね。平岡氏は河野家の有力な家臣家であることは確認されていますが
河野一族ではないとされてますよね。
其の弟には安綱なる久万六郎太夫と・・その弟には北条十郎太夫と申す者も見ゆ・
> 安綱の後継の家名を継ぐ人物は、安仲(久万新太夫)~安清(久万太郎)~成清(久万弥太郎・五郎太夫)と名乗り。その後継者は成後(久万弥太郎)と記し、其の後には通賢と申す者は久万六郎左衛門・後改ためて太郎左衛門と名乗る・・と記す。
●これまた悩ましい家系であります。
一部の河野系図は冨永・大野を河野支族と記録します。
大野家も大伴→久万→冨永→大野と氏を変えたと記録します。
曰く
『菅田村大野系図』
・・久万大夫安雅(母越智氏)→五郎大夫安綱(母平種元女・父北条康孝)→久米大夫安仲
(母大江氏)→冨永八郎宗行(母大江良元女)→太田六郎大夫勝行→久万七郎定雅→太田十郎
義有(母源氏・義経賜感状)→太田八郎定武(母源氏)→久万武清(先父卒)→久万安清
(継兄後)→久万六郎成清(母源氏)→久万弥太郎成俊(実武清弟・弘安年中軍功有)→大
野六郎成義(母源氏)→久万通賢(久万氏・弟大野直義)
→大野直義(丹治直頼二男)
『屋代島』『大洲』『上川村』大野系図も一部系図線等異同はあるものの大同小異です。
庵主様の系図が正しければ大野家は河野家支族となります。
私はどちらか、もしくは両方に混乱があると見ています。
同様な記録が伊予の冨永家系図にも見られます。こちらはどうも河野家支族と認識している
ようでです。
河野系図にも大野系図にも冨永系図にも明らかに同一人物が散見されます。
とてもとても悩ましく千数百年の絡み合った血族の糸を解きほぐすのは至難の業です。
大野家は大伴姓を標榜しますので河野家ではありません・・・・・。
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秀吉チェーン反対派
投稿者:
maru阿弥
投稿日:2010年11月 4日(木)13時59分32秒
呑舟さん、面白い所を突かれる
これは、毛利家の吉川元春にも見られましたが
反織田・秀吉勢力の、最期の意地だったのでありましょう
河野の看板を降ろし
秀吉チェーンの傘下に入る事を潔しとしない
と言う事でありましょうなー
反秀吉チェーンの筆頭、吉川の意向は
関ヶ原の吉川の空弁当に見事に現れ
秀吉の夢を打ち砕いた
さすが、吉川でありますなー
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Re: 道後・義安寺案内板
投稿者:
海遊庵主
投稿日:2010年11月 2日(火)15時23分8秒
> 松山市が作成した案内をUPしておきます。
平岡山義安寺の義・・呑舟師、何故に訪ねられるのか?
平岡氏の家系は、知る者供は知る古縁(先祖を一つにする)の血筋かと。
義安寺の古跡こそ、今の時代に其の姿を残す~伊佐爾波岡と想いを重ねて御座る。
河野家の同族・戒能の由縁の地也。
正岡氏の源流も親経と先祖を一つにする兼孝(高井太夫)・盛孝~親家~親遠(垣根生)・盛長(滝口)・能長(浅海之祖)・能信(浅海籐三郎)~通経(浅見弥籐太・・後に出家して通信と号すと・・自家の系図に記す・薄く訂正の事象を否めず、もしも『道信』とすれば謎が深まる感也)・・さて・・其の弟と思しき康孝の家系の後継者が正しく『経孝』北条太郎・正岡氏の祖也。その弟には孝門(北条四郎太夫)・また、其の弟には安清(北条太郎)その子には『通頼』と名乗る石崎太夫」なる家名を継ぐ者在り・・其の弟には安綱なる久万六郎太夫と・・その弟には北条十郎太夫と申す者も見ゆ・
安綱の後継の家名を継ぐ人物は、安仲(久万新太夫)~安清(久万太郎)~成清(久万弥太郎・五郎太夫)と名乗り。その後継者は成後(久万弥太郎)と記し、其の後には通賢と申す者は久万六郎左衛門・後改ためて太郎左衛門と名乗る・・と記す。
その源流四十一代親経から、当家四十二代通清を継いだのが・・同族血筋を分かつ同族の分岐点と考えて居ります。 ・・(当然ながら戒能氏の家系も同族・同氏流と)南無
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2
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道後・義安寺
投稿者:
呑舟
投稿日:2010年10月22日(金)11時28分4秒
道後・義安寺は別に自刃の人達の話に興味があったからではありません。
本題は失われたとされる「湯岡の碑文」が密にしかも巧妙に義安寺に隠されているとの
話があるからです。
近くの畠からほりだされた「碑文」を義安寺に安置したと・・・・。
事実存在し且つ聖徳太子の碑文であれば、一大センセーショナルを呼び起こし、
文化庁は国宝に指定し、義安寺はガードマンを雇わなければなりません。
このような話はないのでしょうか?
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1
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道後・義安寺案内板
投稿者:
呑舟
投稿日:2010年10月22日(金)11時14分31秒
松山市が作成した案内をUPしておきます。
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