• [0]
  • 牛福通直と平岡氏

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月 8日(土)14時45分13秒
 
河野家最後の当主牛福通直は惣領にならなければ静かに余生を送れたのかも知れない。

未だに出自が確定しない、河野惣領である。
今は毛利系の出自説が西尾氏より出されている。
論拠に合点が行く所は多いが、キーマンは平岡一族でしょう。
特に平岡房実の研究が欠かせないが史料が見付からない。
このサイトのかって平岡氏の本家と分家からアクセスがあったが、その時とてあまり史料がない模様
であった。

系図を時間の流れで見てゆくくせがあるが、時より周囲の人物の相関関係を整理することも
ヒントとなる。特に、戦国時代は婚姻関係と烏帽子親とヘンキと官途叙任は流れを見やすくする。

さてこちらもボチボチ参りましょうか・・・・。

平岡情報をお持ちの方宜しく。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [7]
  • 御辺事深謝

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)19時07分14秒
 
●早速のお返事有難うございます。

> 「長宗我部オフィシャルサイト」を立ち上げていらっしゃいます。
●出来ればアクセス先をお教えいただけませんでしょうか?
 画面に出るアクセス先をコピーして本文に貼り付けて頂ければ幸いです。
>
> 平岡房家が岡豊へ送られたのは、天正13年春、となっています。

●成程そうですか、天正12年11月から来島通総は秀吉の命を受け伊予への乱暴狼藉を繰り返します。
 前面の来島通総、後ろから長曾我部元親が波状攻撃をかけて来た時期と重なりますね。
 天正13年2月11日に来島通昌帰国を秀吉から迫られた、毛利輝元は已む無く許可します。
 天正13年3月16日には河野通直、大野直昌、大野直周は元親と公広の合戦に加勢して戦っています。
 天正13年3月25日の長曾我部元親は忍び本国に帰った。
 これらを考えると、人質平岡房家は3月25日以降送られたと解釈できますね。

> 著書では「笹が峠合戦」についてはまったく触れられていません。
>
> 私の手元にある桐見川庄屋大野家のコピーには、直昌の条に「同二年(天正)元親当国山方放火節於笹峰合戦也・・(後略討死数名の名あり)・・」
> とあるだけです。笹が峠ではなく笹ヶ峰です。原本は毛筆書で、ある時期に庄屋が人を雇ってどこかの大野系図を写したと聞いています。
>  桐見川というのは、高知県の越知町あたりで、この系図は大友皇子から始まっています。

●桐見川大野 の名は初めて耳に致します。
 大野家を探索中の私と致しましては、大野家コピーのコピーを是非ともお譲り頂ければ有り難く
 存知ますが如何でしょうか?
 笹が峰は笹が峠の誤写と思われます。
「元親当国山方放火節於笹峰合戦也」の記述が気に成ります、他の合戦と混同しているかも・・・。
 討死者は大体分かりますので、書かれている討死者の名をUPして頂くと分かります。
 大野家断絶(河野家と同じ時期)後は伊予の大野一族はそれぞれの領地の庄屋(庄官)となり
 子孫は現在まで続いています。
 土佐の越知近郊で庄屋が勤められたことは、大野家の影響は伊予山方のみに留まらず、土佐側にも
 与えていたことを意味し大野研究が進みます。

 尚、この系図がいつどの大野家から転写されたか今はわかりませんが、原本コピーを見ることが
 できれば、およそ見当をつけることが出来ます。
 初代を大友皇子としてあるなら、多分江戸時代以降の転写物と推定されます。
 天正時代までは本姓は「大伴」と大野宗家は認識していたはずで、そのように河野家家老大野直昌
 の兄の直森夭逝に際し、追善梵鐘に大伴と銘記してあります。
 大伴とは平城京の大伴旅人の庶子の高多麻呂が伊予大野の遠祖とされます。
 大伴家持とは異母兄弟となります。

 桐見川大野系図を是非とも見たいものです。

  • [6]
  • 遅ればせながら

  • 投稿者:naokoメール
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)13時23分16秒
 
管理人様はじめサイトの皆様に改めてご挨拶申し上げます。
初登城は緊張したせいで、不調法でした。PC環境からは遠いため、返信が遅くなり申し訳ないです。

呑舟さんへお返事です。
著書名「長宗我部」、著者 長宗我部友親、発行所 バジリコ(株)です。
「長宗我部オフィシャルサイト」を立ち上げていらっしゃいます。

平岡房家が岡豊へ送られたのは、天正13年春、となっています。
巻末には多数の参考文献が挙げられていますが、この文章についてどの文献を参照したかは不明です。

著書では「笹が峠合戦」についてはまったく触れられていません。

私の手元にある桐見川庄屋大野家のコピーには、直昌の条に「同二年(天正)元親当国山方放火節於笹峰合戦也・・(後略討死数名の名あり)・・」
とあるだけです。笹が峠ではなく笹ヶ峰です。原本は毛筆書で、ある時期に庄屋が人を雇ってどこかの大野系図を写したと聞いています。
 桐見川というのは、高知県の越知町あたりで、この系図は大友皇子から始まっています。





  • [5]
  • Re: 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 1月16日(日)19時41分38秒
 
よくぞお出で下された!・・長曾我部と長宗我部とは~土佐の国でも・・伊予之国でも以前よりしばしば論戦(両論)が為された経緯もあるのですが、概ね学者先生のご検証にて近年は『長宗我部氏』と表されるのが通念とか・・其れはさて置きこの度の土佐の国の資料の義は、眞に新年早々の話題として~新たな展開を生む切っ掛けに成ろうかと考えます。
是非、今後共に根気よく共に歴史の妙なる調べを話し合いましょう!・・伊予と土佐と讃岐の国々に其の身を委ねる庵主の願いです。南無

  • [4]
  • Re: 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月16日(日)19時08分3秒
 
> 長宗我部友親氏(元親の弟親房の家系17代目)の著書(H22年発行)には、
> 「河野通直は家老の平岡伊豆守房家を人質として岡豊に送り、降伏する。」
> とういう記述があります。

●早速の投稿有難うございます。元親系の方の著書であれば間違いないでしょうね。
 初めて平岡伊豆守房家の名を知りました。
 平岡家末裔の方もこの記事をウオッチしてるでしょうから朗報です。
 ついでと言っては何ですが、これは何時(年月日)のことかはっきりしませんでしょうか?

 別件ですが天正2年閏8月25日の元親の許に逃げ込んだ大洲の大野(菅田)直之を兄の大除家城主 大野直昌に引き渡すとして「笹ケ峠の合戦」についての記述はありませんでしょうか?

 新しい本のようですが、版元と著者名と題名をお教え頂けませんでしょうか?

 いきなり色々済みません。

  • [3]
  • Re: 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:naokoメール
  • 投稿日:2011年 1月15日(土)22時11分43秒
 
>>2
> 菅田直之等の攻勢に耐え切れず、毛利の援軍を頼んだ河野家は
> 菅田直之を葬り宇都宮勢に打ち勝つことが出来たが、それもつかの間
> 元親に攻められ、河野家重臣平岡某を質として差出し、元親に従属したと
> 「愛媛県誌」は語るがこの平岡某とは誰であったのであろうか?
> まさか房実本人が行ったとは思えない。
> 親か兄弟か?河野家重臣とされているので親の可能性があるが俗名が分からない。
> 誰かご存知あるまいか?
> 以前、平岡房実の末裔の方も同様な質問をされていたが・・・

はじめまして。参考になればと思って投稿しますが、
長宗我部友親氏(元親の弟親房の家系17代目)の著書(H22年発行)には、
「河野通直は家老の平岡伊豆守房家を人質として岡豊に送り、降伏する。」
とういう記述があります。

  • [2]
  • 河野家の質として長曾我部へ差し出された平岡は?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月15日(土)18時07分28秒
 
菅田直之等の攻勢に耐え切れず、毛利の援軍を頼んだ河野家は
菅田直之を葬り宇都宮勢に打ち勝つことが出来たが、それもつかの間
元親に攻められ、河野家重臣平岡某を質として差出し、元親に従属したと
「愛媛県誌」は語るがこの平岡某とは誰であったのであろうか?
まさか房実本人が行ったとは思えない。
親か兄弟か?河野家重臣とされているので親の可能性があるが俗名が分からない。
誰かご存知あるまいか?
以前、平岡房実の末裔の方も同様な質問をされていたが・・・。

  • [1]
  • 平岡房実

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月10日(月)06時08分10秒
 
そもそも平岡房実と云う人物がよく分からない。
彼の父母が誰で、出自が如何なるものかも分からない。
河野家末期に急に頭角を表し牛福通直を推したてて行く。
毛利家と河野家の調整は殆ど房実親子が独占しているようである。

歴史的には荏原地域を領収し荏原城主とされている。
荏原城は1335年の存在が確認できるから、その頃までは遡れる。
この時にはすでに平岡氏が領有していたとの説もあるが、
この時には未だ、美濃土岐一族のものであったと思われる。
土岐直氏の領下と思われる。
今の荏原城も方形の居館風である。
当時の本国の城も多分同様な形式であったのであろう。
後に1480年前後から「平岡競望」が起こり、細川、土岐、大平等が
平岡侵入を阻止せんと動く。この時、別氏の河野通直も動く。
結果的に土岐の支配は無くなり、平岡が侵入してくる。
この時から平岡の根拠地になったと思われる。
時期が確定しないが1500年前後のことであろう。

このあたりの新情報はないものであろうか?



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