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  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 5月17日(火)04時38分26秒
 
> > 今の中学1年生ぐらいが宗家の総大将になったようですから家臣への押さえは利かなかったことは
> > 容易に想像できます。色んな当時の文書は「通直(牛福)幼稚ゆえ・・・」と傍証しています。
> たしか、河野は幼少だから家臣に話をつけようという趣旨の文書ではなかったでしょうか?
> 当時の文書でそんなことが書かれていたのは一点だけだったと思いますが、他にもあるのでしょうか。

●けっこうあったと思います。
 手許の史料の山の中からそれがどの文書であってか探し出すのは時間がかかりそうですが・・・。

> > 河野家を傀儡政権にするための毛利家にとっては「してやったり!」かも知れませんね。
> 毛利は河野を傀儡にしようとしていたとは思えませんが・・・。伊予にそんな魅力があったとは思えません。

●伊予を狙い、うまくいけば四国全体も視野に入れていたと思われます。
厳島の合戦で村上水軍の与力を受け、その褒賞として領地を安堵したあたりから伊予へのちょっかいが
始まります。陶を討ち防長二州を取り、次は九州、山陰尼子、伊予を手始めの一条家の宇和進出への
攻撃は領土拡大の一環と思われます。村上通康も武吉も「河野家分限録」によれば一応、河野家家臣
とされます。本人たちがそう思っていたか否かは別ですが?河野家への影響力は少なからずあった
と思われます。
牛福通直母、春禅院(春松院)を送りこみ、更に牛福通直の室を送りこんで傀儡化がほぼ成功したと
思われます。春禅院の附人として毛利側家臣を送り込み、湯築城内に詰所(現地駐在所)を設けた
と毛利家文書は記録します。
通直時代に河野家と毛利・小早川家の間のメッセンジャーが平岡房実親子とされます。
この親子は河野家と毛利(主に窓口は小早川家)家から絶大な信頼があったと思われます。

秀吉が天下を取ったのは計算違いで、ただちに適応した毛利側は天正13年、伊予を攻めた形を取り
湯築を無血開城させたとされます。河野家擁護のためか、小早川はほぼ河野家旧版図を受領します。
通直らは当時の常識に反して、下城させず、湯築にそのまま住まわせます。
その後何度も毛利側は河野家再興を秀吉に願い出ますが、頑として聞き入れられず、
最後の最後の直訴を通直が安芸で天正15年に九州からの帰途の秀吉にして御家再興断念に至り
生害に及んだと思っています。後世の河野関係文書はこれを通直病死と記録し名誉を保とうと
したものと思われます。


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