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  • Re: 牛福通直は河埜を名乗る

  • 投稿者:けんい
  • 投稿日:2011年 5月17日(火)20時16分4秒
 
> ●けっこうあったと思います。
>  手許の史料の山の中からそれがどの文書であってか探し出すのは時間がかかりそうですが・・・。
いろいろな論文での引用を含めて、管見には及びませんでした。もし見つかりましたら教えてください。

> ●伊予を狙い、うまくいけば四国全体も視野に入れていたと思われます。
> 厳島の合戦で村上水軍の与力を受け、その褒賞として領地を安堵したあたりから伊予へのちょっかいが 始まります。陶を討ち防長二州を取り、次は九州、山陰尼子、伊予を手始めの一条家の宇和進出への攻撃は領土拡大の一環と思われます。

来島にしろ能島にしろ本領安堵などされていないと思いますが。来島は屋代島に知行を与えられたようですが。宇和での一条氏との戦いも、河野氏の要請に基づいた援軍であったことは史料・論文からみて明らかだと思いますが。秀吉の四国征伐後まで毛利は伊予に領地を獲得した形跡がありませんし。

>村上通康も武吉も「河野家分限録」によれば一応、河野家家臣とされます。本人たちがそう思っていたか否かは別ですが?河野家への影響力は少なからずあったと思われます。
来島通康は、河野氏を代表する重臣でしたし、武吉も天正十年代には河野氏重臣であったようですから、影響力があったというよりは河野氏そのものを大きく左右していたのではないでしょうか。

> 牛福通直母、春禅院(春松院)を送りこみ、更に牛福通直の室を送りこんで傀儡化がほぼ成功したと
> 思われます。春禅院の附人として毛利側家臣を送り込み、湯築城内に詰所(現地駐在所)を設けた
> と毛利家文書は記録します。
「毛利家文書」でそのような史料を見たことがありません。これもよろしければ教えてください。
河野氏を構成していたのは平岡・来島・能島などの有力領主ですから、当主の周辺に一族や家臣を送り込んだところで、河野氏の政治を簡単に左右することなどできないと思います。
いろいろな論文で牛福の時代は、平岡親子が実権を握っていたとされていますし。通直元服後は、平岡親子が死んでいたためか通直本人が表に出ているように感じますが。

> 最後の最後の直訴を通直が安芸で天正15年に九州からの帰途の秀吉にして御家再興断念に至り
> 生害に及んだと思っています。後世の河野関係文書はこれを通直病死と記録し名誉を保とうと
> したものと思われます。
西尾和美氏がそのような論文を書かれていましたね。


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