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  • 御辺事深謝

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月18日(火)19時07分14秒
 
●早速のお返事有難うございます。

> 「長宗我部オフィシャルサイト」を立ち上げていらっしゃいます。
●出来ればアクセス先をお教えいただけませんでしょうか?
 画面に出るアクセス先をコピーして本文に貼り付けて頂ければ幸いです。
>
> 平岡房家が岡豊へ送られたのは、天正13年春、となっています。

●成程そうですか、天正12年11月から来島通総は秀吉の命を受け伊予への乱暴狼藉を繰り返します。
 前面の来島通総、後ろから長曾我部元親が波状攻撃をかけて来た時期と重なりますね。
 天正13年2月11日に来島通昌帰国を秀吉から迫られた、毛利輝元は已む無く許可します。
 天正13年3月16日には河野通直、大野直昌、大野直周は元親と公広の合戦に加勢して戦っています。
 天正13年3月25日の長曾我部元親は忍び本国に帰った。
 これらを考えると、人質平岡房家は3月25日以降送られたと解釈できますね。

> 著書では「笹が峠合戦」についてはまったく触れられていません。
>
> 私の手元にある桐見川庄屋大野家のコピーには、直昌の条に「同二年(天正)元親当国山方放火節於笹峰合戦也・・(後略討死数名の名あり)・・」
> とあるだけです。笹が峠ではなく笹ヶ峰です。原本は毛筆書で、ある時期に庄屋が人を雇ってどこかの大野系図を写したと聞いています。
>  桐見川というのは、高知県の越知町あたりで、この系図は大友皇子から始まっています。

●桐見川大野 の名は初めて耳に致します。
 大野家を探索中の私と致しましては、大野家コピーのコピーを是非ともお譲り頂ければ有り難く
 存知ますが如何でしょうか?
 笹が峰は笹が峠の誤写と思われます。
「元親当国山方放火節於笹峰合戦也」の記述が気に成ります、他の合戦と混同しているかも・・・。
 討死者は大体分かりますので、書かれている討死者の名をUPして頂くと分かります。
 大野家断絶(河野家と同じ時期)後は伊予の大野一族はそれぞれの領地の庄屋(庄官)となり
 子孫は現在まで続いています。
 土佐の越知近郊で庄屋が勤められたことは、大野家の影響は伊予山方のみに留まらず、土佐側にも
 与えていたことを意味し大野研究が進みます。

 尚、この系図がいつどの大野家から転写されたか今はわかりませんが、原本コピーを見ることが
 できれば、およそ見当をつけることが出来ます。
 初代を大友皇子としてあるなら、多分江戸時代以降の転写物と推定されます。
 天正時代までは本姓は「大伴」と大野宗家は認識していたはずで、そのように河野家家老大野直昌
 の兄の直森夭逝に際し、追善梵鐘に大伴と銘記してあります。
 大伴とは平城京の大伴旅人の庶子の高多麻呂が伊予大野の遠祖とされます。
 大伴家持とは異母兄弟となります。

 桐見川大野系図を是非とも見たいものです。


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