• [0]
  • 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 1月29日(土)21時21分38秒
 
近頃新しい情報が立て続けに入ってきますね。
芸州の河野家の末裔達を語るスレッドを別に立てます。

島谷さんもこちらにどうぞ!

今日は島谷さんの投稿がある前に、芸州山野井家を久々に取り上げようとしたときに島谷さんの
投稿を見ましたので、タイトルを「芸州の・・・」と変えました。
島谷さんの話を聞いて、手許の「芸藩通誌」をどこにやったか捜してますが見付かりません。
記憶が正しければ、確か牛福通直が竹原で生害して後の末裔だったように思いますが
貴家の系図はどうなってますでしょうか?

さて、山野井さんも近頃、お出ましになりませんが、いかがお過ごしですか?
「談話室」が消滅しましたので山野井情報も消えてしまいました。

今日、古いメモを整理していると新しい発見がありましたので報告します。

正誤と出典が不明なのですが、
貴系図で芸州初代とされる、山野井清景は養氏のようで浅海季清の子、祖父は海信季で曾祖父は
頼季とされ、北条親孝の末ともされるメモを発見しました。
初代以降は貴家の系図に完全に合致しました。
貴系図に秀清、信秀と書いてあるのは季の字を秀と転記違いをした可能性があります。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [19]
  • Re: お位牌の件

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月20日(日)17時54分0秒
 
> 宗教家の方と歴史の教授にたまたま知人がおり、お位牌を見てもらいました。お二人とも河野因幡守通就の位牌でしょうとのことでした。
> この家では伊予の河野氏最後の当主河野通直の孫になっているようです。

●通直の孫の河野因幡守通就とは、父親は誰で、母親は誰になってますでしょうか?

  • [18]
  • お位牌の件

  • 投稿者:島谷です。
  • 投稿日:2011年11月20日(日)08時47分25秒
 
宗教家の方と歴史の教授にたまたま知人がおり、お位牌を見てもらいました。お二人とも河野因幡守通就の位牌でしょうとのことでした。
この家では伊予の河野氏最後の当主河野通直の孫になっているようです。
通直の生年が1568年ですので、30~40年後あたりに生まれた人でしょう。江戸初期の人ですね。



  • [17]
  • Re: 津波村の河野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月20日(日)05時06分36秒
 
> 土佐の別流河野氏の伝承(古系図)等に、このような記述があるそうです
>
> 左京太夫通宣
> ↓
> 四郎通直
>  内方小早川隆景の姪芸州吉見殿娘
>   女子杉原太郎左衛門内方
>   女子忽那新左衛門内方
>
> ※吉見殿の娘が娘を二人産んでいるとしたら、息子を産んだ可能性もあるとおもわれます
> ※河野通秀が誰なのかわかったわけではありあませんが・・・
>
> ※吉見殿の娘・・・矢野 河野通直と天正9(1581年)結婚
>            父 吉見広頼 母 毛利隆元女

●また、また牛福通直に戻ってしまいましたね。

 河野関係者には最大のミステリーであり、且つ最大の関心事が牛福通直に子息がいたか?
 でしょうね。

 一般的には子がいないので、毛利・小早川側は宍戸元秀の子、通軌を跡取としてその孫の通許の時から
 築山姓を名乗るとされています。牛福通直の系図・什器を引き継いだことにないますので、こちらが世に
 云う「築山本」ですね。

 貴家伝承が正しいのであれば、吉見家との関連と通軌との関連が考えられます。
 すなわち通軌の子、もしくは通許の子の可能性が考えられます。
 どちらも、太閤秀吉暗殺を2度にわたり企て、どちらも事前に露見し失敗し関係者は処分(殺)されます。
 この処分の網から逃れた者たちにより、牛福通直の供養が江戸時代もひそかに行われています。

 また別の話で、牛福通直の子(実子?庶子?)伝承も2説 伊豫にはあります。
 一つは河野家重臣黒川家が通直没後、ひそかに匿ったとされるもので、こちらは「黒川系図」に書かれていま  す。

 こう言った伝統のある家の古文書や系図は歴史史料として採用できないものかと、
 伊豫の中世史の権威、山内譲氏の自宅に電話して聞くと、やはり「書簡等の一次史料でないと難しい」との
 返答であった。

 古系図の原本も現代は殆ど残っていないし、ましてや書簡原本など数えるほどしかなく、殆どが謄写の繰替え
 されたものである。
 そう言った意味では「予章記」や「予陽河野家譜」は参考資料程度の位置づけです。
 歴史学者は基本的には同じ立場ですね。

 ともあれ牛福通直には実子(嫡男)はいなかったと思われます。
 あれば毛利・小早川が宍戸の子を擁立する必要がないからです。
 通直卒後、通直室はさっさと毛利の分家へ嫁して行きます。実子がなかったからでしょう。

 まだまだ芸州・備後に隠れた証拠が残っていそうですね。
 竹原・三原あたりですかね。広島県文書館にはあまりありません。
 浅野が入ってきたからでしょうね?

  • [16]
  • Re: お参りした高野山の寺院

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月20日(日)04時18分33秒
 
> 当方がお参りした寺院名は、「清浄心院」だったと記憶しておりま素。

●有り難うございます。
 調べてみますと、清浄心院は現在は宗教活動とは程遠い「住職後継問題」で10年近くもめてるようですね。
 非常に世俗的で野次馬には面白くはありますが、このテーマには合いませんので割愛します。

 ひとつ関連するのは、宗教法人の規則と労働組合法を根源にして法廷闘争中ですが、これは戦後マッカサーが
 押し付けた、民事訴訟法と労働組合法と戦前まで続いた法灯継承の慣習法の戦いのようですが、明文化されて
 いないようなので、本山側は分が悪いと思われます。

 このような場合、現代法は宗教にはなじまないと思われます。

 前置きが長くなりましたが、現在の本山が認める、清浄心院の住職は金剛三昧院の住職が兼任です。
 これは、清浄心院の親寺が金剛三昧院を意味するものと思われます。
 予州河野家の高野山祈願寺は上蔵院ですが、この親寺も金剛三昧院です。
 明治期に上蔵院が火災で廃寺となった後は金剛三昧院が上蔵院の管理寺ですから、もし上蔵院が再興されること
 があれば、上蔵院文書は返されるでしょう。

 河野家の上蔵院と親寺が同じとの共通項が出てきましたね。

  • [15]
  • Re: 家系図の所在について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月20日(日)03時53分30秒
 
> 爵位問題時、県のお役人が自宅へ来られ、家系図の写しに(多分)朱色の墨で線を引いたり、○印を記入したりして、河野家の家系図に間違いが無いとの証明印の様なものを押印したものが残っている事(家系図の写し)を思い出しましたので、帰郷した折確認してみます。

●そうですね。
 現物が確認できれば、出自流派がより具体的になりますね。

 現物を確認しないと分りませんが朱色の線や○は、古文書形式を読み解く時の符牒と思われます。
 例えば、人物名なら真ん中に朱線をいれ、地名なら右に朱線を入れ、文の終りに。(句点)を加筆
 することが見られます。証明印のようなものは原本の写しであることを証明するだけで河野家系図を
 証明するものではないと思われます。丁寧な写しは原本と副本とに割り印を押してあるものもあります。
 現代の「契約書」の正副本の作り方と同じです。

  • [13]
  • Re: お位牌の件

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年11月19日(土)15時56分0秒
 
>>12
> 母方の実家は山田家(広島県三次市)で、位牌の事を親戚の長老に聞いてみますと、浅野家の関係であるとの事でした。
>  広島藩家中山田家は,文禄年間頃から浅野家に仕えました。寛永9年(1632)に浅野長治が5万石を分知されて初代三次藩主となると,山田監物重次は本家から附人を命じられ,以後享保5年(1720)に三次藩が断絶するまで,代々同藩家老職を勤めています。
> ここで紹介するのは,三次藩断絶後の宝暦3年(1753)の文書2点です。この前年には5代藩主浅野吉長が逝去し,その嫡子であった宗恒(むねつね)が襲封し6代藩主となっています。山田家は三次藩断絶後本藩家臣に戻されました。宝暦3年当時,山田頼母孝友は江戸詰の番頭(警護などを司る軍事部門の侍組の頭)でした。以上の関係で何等かの鳥取との関係があるのでは?と思います。
> 長老によくよく聞けば浅野氏(山田家)とは関連性は無いのではないかと思います。

  • [12]
  • お位牌の件

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年11月19日(土)11時53分26秒
 
母方の実家は山田家(広島県三次市)で、位牌の事を親戚の長老に聞いてみますと、浅野家の関係であるとの事でした。
 広島藩家中山田家は,文禄年間頃から浅野家に仕えました。寛永9年(1632)に浅野長治が5万石を分知されて初代三次藩主となると,山田監物重次は本家から附人を命じられ,以後享保5年(1720)に三次藩が断絶するまで,代々同藩家老職を勤めています。
ここで紹介するのは,三次藩断絶後の宝暦3年(1753)の文書2点です。この前年には5代藩主浅野吉長が逝去し,その嫡子であった宗恒(むねつね)が襲封し6代藩主となっています。山田家は三次藩断絶後本藩家臣に戻されました。宝暦3年当時,山田頼母孝友は江戸詰の番頭(警護などを司る軍事部門の侍組の頭)でした。以上の関係で何等かの鳥取との関係があるのでは?と思います。


  • [11]
  • お参りした高野山の寺院

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年11月19日(土)09時22分45秒
 
当方がお参りした寺院名は、「清浄心院」だったと記憶しておりま素。

  • [10]
  • 家系図の所在について

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年11月19日(土)08時45分18秒
 
爵位問題時、県のお役人が自宅へ来られ、家系図の写しに(多分)朱色の墨で線を引いたり、○印を記入したりして、河野家の家系図に間違いが無いとの証明印の様なものを押印したものが残っている事(家系図の写し)を思い出しましたので、帰郷した折確認してみます。本物は九州の警察官の方かお医者様の方にあるのではないかと思っています。先日、従兄弟が会社の出張で福岡に行った時、偶然、河野さんと言うお医者様(前述)と酒の場で河野の話しが出て、その方も河野家の末裔だと言われ話が弾んだようです。

  • [9]
  • 忠海(ただのうみ)上陸・・・・

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月16日(水)18時35分48秒
 
> 鳥取との関係は、祖父・父も他界し聞いておりませんでした。他に河野家のことですが、思い出したことがありましたのでご報告致します。当家は広島県の忠海町と言うところへ四国から上陸して加計(津波)へ来たのだと、亡き父が生前言っていたのを思い出しました。断片的なことばかりですみません。

●断片的な点を繫いでいけば線になることがあります。
 その線を俯瞰的に見れば全体像が見えてくることもありますので断片情報はとても重要です。

 忠海は小早川・毛利家にとってとても重要な港だったと記憶します。
 竹原と三原の中間点で、再度調べないと断定できませんが軍港としてとても良港と思われます。
 忠海を出るや帰るの記事が沢山あります。

 牛福通直もここに到着したのかも知れません。真崎(松前)の戦いもここから出たと思われます。

 やはり河野牛福通直の関連が濃厚ですね。

  • [8]
  • (無題)

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年11月16日(水)15時31分22秒
 
お位牌の写真ですが、年末にならなければ実家にある為、お送りする事ができません。申し訳ございません。

  • [7]
  • (無題)

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年11月15日(火)16時00分51秒
 
鳥取との関係は、祖父・父も他界し聞いておりませんでした。他に河野家のことですが、思い出したことがありましたのでご報告致します。当家は広島県の忠海町と言うところへ四国から上陸して加計(津波)へ来たのだと、亡き父が生前言っていたのを思い出しました。断片的なことばかりですみません。

  • [6]
  • Re: ご仏壇のお位牌

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月14日(月)13時04分3秒
 
●位牌の様式は写真でUPできませんか?
 できれば縦横高さのサイズも。
 また、裏面に卒年とか俗名とか、供養した人の名等の記事はありませんでしょうか?

  • [5]
  • Re: ご仏壇のお位牌

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月14日(月)12時39分47秒
 
> お位牌の1つがありましたのでお知らせいたします。「離覚院殿前因○太守松厳貞公禅定門」とありました。○のところの字は、丈夫に刀、下部に水の中棒がない字です。当方、無知蒙昧にて読みきれません。

●ご丁寧に有り難うございます。
 ○の所は「刕」の字ではないかと思われます。刕=州の異体字ですので「因州太守」と読めます。
 因州は因幡国(鳥取県地方)の意味と思われますので、この人は院殿号と併せ因州で太守(殿様)の立場に
 あったものと思われます。
 只、この様な法名の付けかたは逝去時ではなく卒後しばらく経ってから付けられる例が多く
 卒時は少し字数が少ないと思われます。
 禅定門とありますので宗派は禅宗でしょうが、どの流派かは分りません。

 因幡に関係する人物はいませんか?

  • [4]
  • ご仏壇のお位牌

  • 投稿者:島谷です。
  • 投稿日:2011年11月13日(日)19時52分6秒
 
お位牌の1つがありましたのでお知らせいたします。「離覚院殿前因○太守松厳貞公禅定門」とありました。○のところの字は、丈夫に刀、下部に水の中棒がない字です。当方、無知蒙昧にて読みきれません。

  • [3]
  • 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年10月12日(水)22時48分40秒
 
●メインスレッドでは後々別の話題の中に埋れますので
こちらで述べます。

> > 私は広島県の加計という町に住んでいたものです。当家の先祖は河野家との言い伝えがあります。現に三島神社(加計町)河野の墓、山頂に墓標(石)、河野家のお位牌(16文字)、高野山に過去帳(寺院名は忘れましたが)清○院か、○清院か・・・・?また戦前河野家が子爵・伯爵の位を授かる時、他の(九州)の河野さんと言う警察官が私の自宅にあった家系図を何故か持っており、どちらが本当の河野家であるか大きな事件が起き当時の中国新聞(広島)に報道されました。また「芸藩通史」にも当家が搭載されております。大三島神社の大祭に、前述のお位牌を持っていけば最上段に鎮座できます(幼少の頃の話)
島谷です。大変ご無沙汰しております。昨日故郷の加計町に帰郷いたしました。なかなか帰郷できませんので、加計町津波の三島神社に行って見ました。神社の横書きに
三島神社

 今から約四百四十年昔の千五百五十六年、河野信秀
という人が愛媛県より移り住んできた時にたてられた
といわれています。
 戦国時代もそろそろ終わりに近づき広島では千五百
五十五年、毛利元就が厳島で陶晴賢(すえはるたか)
をやぶって支配を完成させました。
 三島神社がたてられたのは、その翌年のことでした。
が、書かれておりました。参考になればとお知らせしておきます。

●お久しぶりですね。

 まず高野山寺坊名ですが、お示しの条件に該当するのは
 清光院か清涼院しか見つかりませんでした。
 過去帳がすぐ見つかったということは近代の法要でしょうかね?
 16文字の法名は判りませんせんか?
 河野宗家最後の当主牛福通直の法名が12文字なので多分前○○守等が付け加え
 られていませんか?
 そうすると卒後相当経ってからの法名の可能性があります。
 高野山寺坊が上蔵院ではないのも気になりました。
 このあたりの経緯はわかりませんか?

 加計町の河野家墓にはどのような刻印がされていますでしょうか?
 また山頂の墓標のある山の名を教えてくれませんか?

 戦前の叙勲騒動の中国新聞の記事も気になりますね?
 記事そのものは中国新聞に残っていませんかね?
 戦前の記事なら途中でピカドンにやられますので難しいですかね?

 以前から気になりましたので、再度「芸藩通志」を流し読みしました。

 加計が頭にあったものですから当時(江戸初期)の住所を加計村と思っていまし
 が、隣り村の津浪村ですよね。
 津浪村の三島神社は「弘治二年(1556)河野信秀により再造」と書かれています ので
 河野信秀の創建ではなく再建となりますから以前から在ったことが窺えます。

 この河野信秀の名も河野家通字の「通」を使わないので変だなと思いましたが、
 同じ「芸藩通志」で人物欄では
 「津浪村 河埜氏
  伊豫河埜通直 天正中加茂郡□□□□来る 其の子通秀より今の秀右衛門迄八代」
 と書かれていますので、三島神社由緒の河野信秀は通秀の誤写と思われます。

 この河埜(野)氏伝聞も悩みます。
 天正年間に安芸に移動する河野通直は牛福で、その子通秀とするなら築山系河野
 の可能性が出てきました。なら高野山寺坊が上蔵院でない理由がわかる気もしま
 す。それか後、芸州浅野家家臣となる河野氏の関連が想像できます。
 多分後者と思われます。
 ここでも九州の警察官が所持していた系図が貴家と同じとされるなら
 その系図は今どこにありますでしょうか?
 あれば簡単に系統がわかると思うのですが。
 また、通直から数えて秀右衛門まで八代とは代数が多すぎます。
 「芸藩通志」は1600年の半ばに編纂されたとされますので
 1587年卒の通直から100年未満で八人も代わるとは少し異常です。
 よほど、飢饉が多い場所か、編纂年より後に加筆されたのならわかりますが。


ご承知のように遠祖が定住した津浪村は江戸初期においては
村勢は
 五十六町二反八畝十六歩 四百三十五石五斗の生産額で
 戸数百七十五戸 八百十五人 僧一人 医者一一人
 牛四十五頭 馬四匹 舟二艘とされる
 八百十五人の中に本家や親戚や雇い人がたくさん居たのでしょうね?

 この村勢は中程度の村となります。隣りの加計村は桁違いの大村落と記録されます。
 人口だけで三千八百五十人とされますから。

 津浪村に移り住んだのは毛利か小早川氏からの領知宛がいからでしょう。
 大田川の水運も盛んで、石州の裏街道筋ともなりますので石見への守りの
 位置づけと思われます。
 三島神社再建時はまだ毛利方は長州の陶残党とドンパチしていますので
 前の陶、後ろの尼子と彼方此方に気を配る必要のある時です。
 後の毛利家を大大名に押し上げる原動力となった「大金庫」である「石見銀山」
 確保保持も河野通秀の最大の役割と思われます。

  • [2]
  • Re: 高野山を参拝して。

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 9月16日(金)11時53分54秒
 
それは宜しゅうございましたね。
ちなみに該当の高野山の寺坊の名は不案内なのですが、なんと言うお寺でしょうか?
お骨を納めての供養でしょうか?位牌納めの供養でしょうか?

  • [1]
  • 高野山を参拝して。

  • 投稿者:島谷メール
  • 投稿日:2011年 9月16日(金)10時54分1秒
 
高野山にもいって参りました。確かに言い伝えどおり、お寺の方へ行きますと。「過去帳」に搭載されており、永代料も金額が記入されていましたが、現存では墓石もなく、住職様にお聞きしましたところ末代まで御面倒は見させていただきますので、御心配しないようにとの、お言葉がありました。


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