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  • Re: 芸州 河野家末裔たち

  • 投稿者:通嘉メール
  • 投稿日:2011年12月11日(日)14時46分4秒
 
>>3  突然ですが、同じく安芸国の末裔として一言申し上げます。
「芸藩通史」の完成は1825年です。1663年に浅野藩によって完成した「芸備国郡史」を基に藩内の資料を提出させて再調査したものです。
当家一族も「五輪塔・系図・位牌・武具甲冑の類・仏像など」伊予国から持ち伝えたものとして4百数十年大切に守っており、津波の一族とも同系統ではないかと思われます。

> ●メインスレッドでは後々別の話題の中に埋れますので
> こちらで述べます。
>
> > > 私は広島県の加計という町に住んでいたものです。当家の先祖は河野家との言い伝えがあります。現に三島神社(加計町)河野の墓、山頂に墓標(石)、河野家のお位牌(16文字)、高野山に過去帳(寺院名は忘れましたが)清○院か、○清院か・・・・?また戦前河野家が子爵・伯爵の位を授かる時、他の(九州)の河野さんと言う警察官が私の自宅にあった家系図を何故か持っており、どちらが本当の河野家であるか大きな事件が起き当時の中国新聞(広島)に報道されました。また「芸藩通史」にも当家が搭載されております。大三島神社の大祭に、前述のお位牌を持っていけば最上段に鎮座できます(幼少の頃の話)
> 島谷です。大変ご無沙汰しております。昨日故郷の加計町に帰郷いたしました。なかなか帰郷できませんので、加計町津波の三島神社に行って見ました。神社の横書きに
> 三島神社
>
>  今から約四百四十年昔の千五百五十六年、河野信秀
> という人が愛媛県より移り住んできた時にたてられた
> といわれています。
>  戦国時代もそろそろ終わりに近づき広島では千五百
> 五十五年、毛利元就が厳島で陶晴賢(すえはるたか)
> をやぶって支配を完成させました。
>  三島神社がたてられたのは、その翌年のことでした。
> が、書かれておりました。参考になればとお知らせしておきます。
>
> ●お久しぶりですね。
>
>  まず高野山寺坊名ですが、お示しの条件に該当するのは
>  清光院か清涼院しか見つかりませんでした。
>  過去帳がすぐ見つかったということは近代の法要でしょうかね?
>  16文字の法名は判りませんせんか?
>  河野宗家最後の当主牛福通直の法名が12文字なので多分前○○守等が付け加え
>  られていませんか?
>  そうすると卒後相当経ってからの法名の可能性があります。
>  高野山寺坊が上蔵院ではないのも気になりました。
>  このあたりの経緯はわかりませんか?
>
>  加計町の河野家墓にはどのような刻印がされていますでしょうか?
>  また山頂の墓標のある山の名を教えてくれませんか?
>
>  戦前の叙勲騒動の中国新聞の記事も気になりますね?
>  記事そのものは中国新聞に残っていませんかね?
>  戦前の記事なら途中でピカドンにやられますので難しいですかね?
>
>  以前から気になりましたので、再度「芸藩通志」を流し読みしました。
>
>  加計が頭にあったものですから当時(江戸初期)の住所を加計村と思っていまし
>  が、隣り村の津浪村ですよね。
>  津浪村の三島神社は「弘治二年(1556)河野信秀により再造」と書かれています ので
>  河野信秀の創建ではなく再建となりますから以前から在ったことが窺えます。
>
>  この河野信秀の名も河野家通字の「通」を使わないので変だなと思いましたが、
>  同じ「芸藩通志」で人物欄では
>  「津浪村 河埜氏
>   伊豫河埜通直 天正中加茂郡□□□□来る 其の子通秀より今の秀右衛門迄八代」
>  と書かれていますので、三島神社由緒の河野信秀は通秀の誤写と思われます。
>
>  この河埜(野)氏伝聞も悩みます。
>  天正年間に安芸に移動する河野通直は牛福で、その子通秀とするなら築山系河野
>  の可能性が出てきました。なら高野山寺坊が上蔵院でない理由がわかる気もしま
>  す。それか後、芸州浅野家家臣となる河野氏の関連が想像できます。
>  多分後者と思われます。
>  ここでも九州の警察官が所持していた系図が貴家と同じとされるなら
>  その系図は今どこにありますでしょうか?
>  あれば簡単に系統がわかると思うのですが。
>  また、通直から数えて秀右衛門まで八代とは代数が多すぎます。
>  「芸藩通志」は1600年の半ばに編纂されたとされますので
>  1587年卒の通直から100年未満で八人も代わるとは少し異常です。
>  よほど、飢饉が多い場所か、編纂年より後に加筆されたのならわかりますが。
>
>
> ご承知のように遠祖が定住した津浪村は江戸初期においては
> 村勢は
>  五十六町二反八畝十六歩 四百三十五石五斗の生産額で
>  戸数百七十五戸 八百十五人 僧一人 医者一一人
>  牛四十五頭 馬四匹 舟二艘とされる
>  八百十五人の中に本家や親戚や雇い人がたくさん居たのでしょうね?
>
>  この村勢は中程度の村となります。隣りの加計村は桁違いの大村落と記録されます。
>  人口だけで三千八百五十人とされますから。
>
>  津浪村に移り住んだのは毛利か小早川氏からの領知宛がいからでしょう。
>  大田川の水運も盛んで、石州の裏街道筋ともなりますので石見への守りの
>  位置づけと思われます。
>  三島神社再建時はまだ毛利方は長州の陶残党とドンパチしていますので
>  前の陶、後ろの尼子と彼方此方に気を配る必要のある時です。
>  後の毛利家を大大名に押し上げる原動力となった「大金庫」である「石見銀山」
>  確保保持も河野通秀の最大の役割と思われます。


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