• [0]
  • 予州 大野家について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月19日(火)05時46分48秒
 
近頃、予州大野家の関心が高まっているようなので別スレッドを立てます。
予州河野家メインのサイトなので今まで専用サイトは立ち上げませんでしたが、どうも隠れファンが多いようでこちらでやりとりしたいと思います。
予州大野家に関することはこちらに集約したいと思います。
今城(河野)さん宜しく御願いします。

投稿数上限に達したので書き込みできません

  • [100]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月17日(金)19時12分55秒
 
神谷様ようこそ「喫茶室ゆづき」はお越しくださいました。
予州大野家の直接の後胤の方はNAOKO氏以来二人目です。
今後とも宜しく御願いいたします。

さて順番にお尋ねいたします。
①祖母様の実家には今も系図をお持ちでしょうか?
②舅大野隆直(直秀)のことは系図に書かれているのでしょうか?
③村上直吉が通康の子とする記述がありますでしょうか?
④直吉の長男、勘右衛門直生、二男、九大夫氏重のその後はなにか書かれていませんか?
⑤大野隆直の卒年と葬った寺は分りませんか?
⑥黒田藩大組大野忠右衛門のフルネームは分りませんか?

分る範囲で結構です。

こちらの情報とそちらの情報を突合すると史実がよりはっきりするかもしれませんね?
後に土井家家臣大野家や、紀州徳川藩家臣大野家や彦根井伊家家臣大野家や、播州赤穂大野家、
大坂天野屋、中和門院の女房大野備後、将軍徳川秀忠の室、江に仕えたとされる大野河内らは
どうも連携しあっているような気がしてなりません。

神谷さんの見のがしている記述で新たな発見があるかもしれませんね。
今後が楽しみです。




  • [99]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:神谷杖治メール
  • 投稿日:2012年 2月17日(金)00時49分15秒
 
私の祖母は黒田藩大組大野忠右衛門の子孫です。福岡市博物館の大野忠右衛門展が話題になっているので、知っていることをお話します。来島の村上右衛門大輔通康(一時、伊予河野家の家督を舅の通直から譲られて河野出雲守通康と名乗り、内紛の結果村上出雲守に復姓。河野家門として家紋も使うことを認められる。豊後森藩主久留嶋氏祖)の子の左馬衛門直吉が舅の大野直秀(隆直)から家督を譲られ大野左馬衛門直吉として1500石で黒田如水に使えました。通康の系図は正室の物しか見つからないので、直吉の名はみつかりませんが、正室の次男の村上吉清は黒田長政に使えていますので、「通康子」ということがウソならすぐ露見します。通康の庶子か猶子である筈です。猶子なら、能島の家督騒動で通康の所にに逃げ込んだ村上吉益(義益)の子の可能性があります。直吉の長男の勘右衛門直生は河野の家紋を嗣いだようですが、私の先祖の三男の忠右衛門(初め三郎左衛門)吉乗は村上家の家紋を受け継ぎました。(村上師清のとき北畠親房から北畠の猶子と認められて、村上氏は清和源氏から村上源氏の系譜に繋がりました。)以降、吉勝、貞勝と続きました。

  • [98]
  • Re: 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月11日(土)17時24分28秒
 
> ○赤穂市に大野九郎兵衛の地元情報は如何かと問合せをかけています。
>  返事がくればUPしましょう。

●赤穂市からはまだなんら返事がありません。
 赤穂市民の殆どは「仮名手本忠臣蔵」が史実と思っていますから城代家老大野九郎兵衛が有能な経済官僚で
 貧乏藩赤穂を裕福藩にしたなどとは思いたくないのかも知れませんね(笑い)
 あくまで悪者にしないと大石内蔵助以下の浪士が光りませんので(笑い)

 彼の遺品をUPして見ましょう。一つは九郎兵衛が使い込んだ算盤(大石神社蔵)と
 彼が発行した赤穂藩藩札です。(これが後に断絶の時の回収交換率を廻る話となります)

  • [97]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月11日(土)07時13分30秒
 
> > 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。

●上記の大野直尚覚書を直尚手記と思って見直して見ましたが、同文はありませんので別物ですね?

 手許に覚書が手許にあるのかないのかよく分りませんので、宜しければ「覚書」部分をメール
 して頂けませんか?

  • [96]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)21時15分58秒
 
> 大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。
> これは、慶長5年正月、大阪城西の丸の徳川家康に諸大、小名が新年の祝儀に参上したのに、上杉景勝だけ本人が上洛しなかったので、評議によって会津攻撃が決定した。
> 随行大名は黒田長政~山内一豊~等々、家康の直臣、井伊直政、本多正信~等、5万5800余人だったそうです
> 。
> 大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。

●やはり勘違いされているのではないでしょうか?

 上川村本の直綱の条の会津行きは家康の会津征伐に同行したのではなく、物見遊山で会津に行きそこで
 病死したとされ、時は寛永11年(1634)4月22日とされますから、徳川軍の会津征伐ではないと思います。
 しかも途中で石田三成が徳川討伐に動いたので行軍の途中、栃木県小山市で軍議を開きUターンしたと
 記憶します。

> 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。
> この人物は、呑舟様がご教示くださった土井遠江守利隆(1619~1685)の父親で土井利勝(1573~1644)ですね。土井利勝は徳川秀忠が誕生したときからの傳役(もりやく)で、大老にまで出世します。

●下記ですね。

【小田上川庄屋大野直尚の覚書に
『 直之に一女二男あり、女子備後、一男直綱、二男直次、紀州へ有付云々、亦江州彦根との文通に江戸屋敷土井(土居?)大炊頭殿に相勤候。菅田吉右衛門は直之の子ノ由。旗本安藤伊賀守、安藤九左衛門は直之の娘の子ノ由。藤堂大学頭御内、大野文右衛門の親は半左衛門といい、これも直之の子ノ由。安藤対馬守(重信?)御内、大野忠兵衛は文右衛門の弟ノ由。其後、御所院寄騎に相成申候由 』とある。

 これは直尚が若干混乱していると思われますが、大筋では事実なのではないでしょうか?
ニ男とは長男直隆で二男が直綱の間違いと思われます。
直次は大洲本・屋代本が記すように直綱の息と思われます。
菅田吉右衛門と半左衛門は同一人物で直綱のことと思われます。
文右衛門は息子の直次のことと思われます。
となると直綱と直次親子が土井家家臣で土井大野として続き、
直綱の次男で直次の弟の直偆が紀伊徳川家に仕官できたものと思われます。

流れからすると直綱は慶長5年に主家断絶により、浪人となり、江戸に赴くもしばらく浪人で
慶長10年に土井利勝が従五位下大炊助に叙任された以降の仕官と思われます。
この時点に於いては土井利勝は下総小見川1万石なので、秀忠が将軍に就任後慶長15年に利勝が下総佐倉
三万二千四百石となり老中となった前後の仕官が自然と思われます。
大野河内とのからみを見る必要がありそうです。

また慶長10年には大野備後が中和門院女房となりますのでこちらの方の口利きの可能性もあります。
同年は秀忠が将軍になりますので、中和門院からの口添えとすると秀忠も丁寧にとり扱わなければなりません。

大野備後、大野河内、大野直綱の糸が繋がり始めましたね。

あとは徳川家の一次史料が出てくればOKなのですが・・・・。



  • [95]
  • 訂正です

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)13時38分41秒
 
大野直綱が「会津で卒す」とするのは伊予史談会本でした。

  • [94]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)12時51分9秒
 
>>93
> > 大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。
>
> ●これは何に書いてましたっけ?

◎大洲本では、たしか直綱は「会津で卒」することになっていたはずですが?
桐本では「会津に赴く」という記述だけです。


> > 大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。
> >
> > 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。
>
> ●これは「覚書」のどの部分でしたっけ?
>  近頃、ボケの神様がするよりますので(はあ)
>
> この後長々書きましたがワンクリックでどこかに飛びましたので止めろ!との「天の声」して中座します。
> あ~あ一時間かけたのに。

◎わ~残念!大野直尚の覚書は、このスレッドの[No61]を見ていただけますか?

  • [93]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月10日(金)00時26分17秒
 
> 大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。

●これは何に書いてましたっけ?

> これは、慶長5年正月、大阪城西の丸の徳川家康に諸大、小名が新年の祝儀に参上したのに、上杉景勝だけ本人が上洛しなかったので、評議によって会津攻撃が決定した。
> 随行大名は黒田長政~山内一豊~等々、家康の直臣、井伊直政、本多正信~等、5万5800余人だったそうです
> 。
> 大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。
>
> 小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。

●これは「覚書」のどの部分でしたっけ?
 近頃、ボケの神様がするよりますので(はあ)

この後長々書きましたがワンクリックでどこかに飛びましたので止めろ!との「天の声」して中座します。
あ~あ一時間かけたのに。



  • [92]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 2月 9日(木)18時38分26秒
 
直綱は
> > 慶長三年に長束大蔵大輔に召出されて父直之の堪忍料として江州栗田郡駒井中村を賜ったとされます。
> > 故あって同所を去り武州江戸に出て浪人とあるので、なにか不始末があったのかも知れません。


>  長束大蔵大輔は長束正家のことらしく彼は豊臣政権の五奉行の末席奉行で主に経済面や兵站部分を
>  担当していた人物です。

○長束大蔵大輔の情報を有難うございます。
大野直之の子、直綱は江戸で浪人する前に会津へ行っていますね。
これは、慶長5年正月、大阪城西の丸の徳川家康に諸大、小名が新年の祝儀に参上したのに、上杉景勝だけ本人が上洛しなかったので、評議によって会津攻撃が決定した。
随行大名は黒田長政~山内一豊~等々、家康の直臣、井伊直政、本多正信~等、5万5800余人だったそうです

大野直綱が会津に赴いたのなら、東軍徳川陣営に組したのでしょうから、長束家の領地を辞退したのは当然だと思います。

小田上川庄屋の大野直尚の覚書では、(彼は直次と直綱を取り違えているか、叔父と甥が同名だったかもしれませんが)直次が江戸屋敷土井大炊頭(おおいのかみ)に仕えたとしている。
この人物は、呑舟様がご教示くださった土井遠江守利隆(1619~1685)の父親で土井利勝(1573~1644)ですね。土井利勝は徳川秀忠が誕生したときからの傳役(もりやく)で、大老にまで出世します。

土井家中の伊予大野氏もたぶんいい役儀をもらったことでしょう。
案外、この土井家中の大野氏が重要な役回りを担ったのかもしれません。
同時代の福岡筑前、紀州和歌山、江州彦根、江戸、加えて浅野家中の大野氏を探索しなくてはなりませんね。気が遠くなりそうです。



  • [91]
  • Re: 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 8日(水)14時39分29秒
 
> ここで黒田如水の名が出てきて大政所(ねね?)を通じて秀吉の耳に入ったとされますが、事実か誇張かは
> 分りませんが黒田如水と絡むところが黒田家士大野家を連想します。
> 慶長三年に長束大蔵大輔に召出されて父直之の堪忍料として江州栗田郡駒井中村を賜ったとされます。
> 故あって同所を去り武州江戸に出て浪人とあるので、なにか不始末があったのかも知れません。
>
> ただ「屋代島本」によると彼は土井遠江守に仕えて六百石とありますので一時牢人したのかそれとも
> 土井家へのトラバーユで揉めたのか面白いところです。土井遠江守は徳川直参重臣と思われますので
> トラバーユのようです。

●と書きましたがトラバーユではなさそうですね。
 長束大蔵大輔は長束正家のことらしく彼は豊臣政権の五奉行の末席奉行で主に経済面や兵站部分を
 担当していた人物です。
 紀州菅田系譜が語る「秀吉より長束大蔵大輔(正家)をして(彼の領知の内)江州栗田(太)郡駒井中村
 を知行」とあるのは史実と思われます。
 慶長三年知行と「上川村本」は書きますが、知行の秀吉の口利きが慶長元年の朝鮮征伐の武功とされるので
 当時長束は近江水口城五万石の城主でうすが、慶長二年に十二万石に加増さらますのでこの時の仕官かと
 思われます。少なくても慶長三年八月十八日に秀吉は死にますので此処までの間と思われます。
 秀吉は慶長三年は殆どモウロクしてますから仕官は慶長二年と思っています。

 この秀吉の死から雲行きが長束家は雲行きがおかしくなり、徳川家との交渉役との経緯から徳川家康にも
 近く徳川秀忠を質として迎えるのも彼であり、ここで秀忠と接触するので後に「大野河内」が秀忠室に上がる
 とされるのもこれ等が縁かもしれない。
 結局長束は石田三成に味方して関ヶ原の戦いで西軍となり敗北し、敗走したが、本領安堵に騙されて
 ノコノコ出て行って池田軍に捕まって切腹させられた。

 よって慶長五年の長束家断絶により大野直綱は江戸に向ったと思われます。
 この時「河内」も行動をともにしていると思われます。
 大野備後は慶長十年に中和門院の女房となりますからこの五年間になんらかの経緯が
 あったものと思われます。
 大野河内、大野備後、大野直綱、大野(大坂・天野屋)はすべて同時代なので
 一族として連絡を取り合っていた可能性が高い。



  • [90]
  • 紀州徳川 大野(菅田)家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 8日(水)07時57分14秒
 
ひとまず、黒田福岡藩大野家探索はNAOKO氏に御願いするとして
紀州徳川 大野(菅田)を探索してみます。

まず紀州大野(菅田)が予州大野から分かれるのが、菅田城主(のち大津城主)大野直之(直行)
別名菅田直之の息子直綱を祖とします。兄直隆は土州大野(小野)家の祖ですね?

この直綱は天正8年誕生、天正13年大津城落去の時、豊後の大友家を頼って渡海しますが、わづか五歳ですから
誰が連れていったのでしょうか?
系図により姉とも叔母ともされる「大野備後」もこの時十一歳ですから誰か付添家司が付いていたと思われ
ます。母は河野氏女とありますから、直之室の宇都宮の娘の子ではありませんね。
慶長元年に大友家に属して朝鮮征伐に出かけています。十七歳で勲功ありとされます。
ここで黒田如水の名が出てきて大政所(ねね?)を通じて秀吉の耳に入ったとされますが、事実か誇張かは
分りませんが黒田如水と絡むところが黒田家士大野家を連想します。
慶長三年に長束大蔵大輔に召出されて父直之の堪忍料として江州栗田郡駒井中村を賜ったとされます。
故あって同所を去り武州江戸に出て浪人とあるので、なにか不始末があったのかも知れません。

ただ「屋代島本」によると彼は土井遠江守に仕えて六百石とありますので一時牢人したのかそれとも
土井家へのトラバーユで揉めたのか面白いところです。土井遠江守は徳川直参重臣と思われますので
トラバーユのようです。

直綱の息子は「大洲本」によると
 長男 大野文右衛門直次 土井遠江守仕 六百石
  (「予陽大野軍談」は菅田吉郎直政、土井遠江守家来 □□石)と記しますので彼は土井家臣として残ったの
    でしょう。ここでまた土井家臣大野家が発生します。土井遠江守は利隆と思われます。)

 二男 大野(菅田)吉右衛門直偆
    「紀州家中系譜」によると彼は母方の祖母のコネで紀州徳川家に仕官できたとされます。
    となると直綱の室は徳川家に近い家から嫁いできたものと思われます。
    ここでまた徳川秀忠の室「江」のそばに上がったとされる「大野河内」との関係が連想
    されます。単純に皆、知り合いだった可能性があります。
    直偆の長男が紀州大野家祖として記される「菅田吉右衛門豊直」でここから紀州大野系図は
    始まります。
    また「紀州家中系譜」に出てくる「大伴姓 菅田氏 初代 本国伊豫、生国武蔵 菅田直久は
    菅田吉衛門豊直の甥であると書いてますので分家もしくは新家となります。
    いづれかは石高の変遷を見ないと分りません。

 三男 大野九郎兵衛直広
    (大野家惣領の名乗りの九郎兵衛をもらってますので一番出来が良かったのかも?)

 四男 大野市右衛門直秀

---------------------

よって紀州大野は二男系で長男は土井大野家と思われますのでこちらも探索に出なくてはなりません。

少し気になるのは
「紀州家中系譜」には大野姓は居ないことになってますが、
 同書は
 菅田豊直の二男 大野吉左衛門は「御本丸御書院番与力 大野九郎兵衛直榮の養子」となっていますから
 大野直榮の跡を継いで大野姓に戻っています。
 この直榮が誰かを探索する必要も出てきました。

 和歌山県文書館に確認しないと分りませんがこの本丸とは和歌山城本丸ではなく江戸城本丸ではないかと
 思われます。紀州菅田家の歴代の当主が代々生国武蔵と書くのは、江戸詰の家臣で和歌山には家はなかった
 と思われます。江戸時代は同じ藩内でも勤務地の移動は殆どなかったと思われます。
 参勤交代か使い番でしか本領和歌山を見ることはなかったのではないでしょうか?
 甲府に使番で度々行ってますが、これは和歌山からではなく江戸からと思われます。

 今のところこんな按配です。

 まだまだ歴史制度の勉強が足りません。

     

  • [89]
  • 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 5日(日)20時06分29秒
 
> 元禄14年当時の赤穂藩城代家老大野九郎兵衛の出自を
> 調べていますが今ひとつはっきりしません。

○赤穂市に大野九郎兵衛の地元情報は如何かと問合せをかけています。
 返事がくればUPしましょう。

 その間、大野九郎兵衛の屋敷跡をUPしてみましょう。
 以前行った時は塩屋門(ボロボロ)の内側の更地のままで、すぐそばの現大石神社(隣りは大石内蔵助の役宅)
 でした。いまは相当整備されているものと思われます。
 一大観光資源ですから。

  • [88]
  • 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月 4日(土)20時14分15秒
 
元禄14年当時の赤穂藩城代家老大野九郎兵衛の出自を
調べていますが今ひとつはっきりしません。

「仮名手本忠臣蔵」が彼を善玉「大石内蔵助」に対して悪玉「大野九郎兵衛」
 としているのは芝居上の演出で信用のおけるものではありません。

史実としてわかっているのは
①正保2年(1645)6月22日浅野長直が笠間から赤穂移封後の
 仕官で普代ではなく新参者であること。
②同年8月には早くも大坂高砂の町人に対し赤穂東濱の塩田
 開発の条件を近藤正純、奥野将監らと連名で提示していること。
③延宝3年(1675)藩主浅野長矩の許可を得て初めて藩札を
 発行していること。
④元禄時代の屋敷は城内塩屋門口にあったこと。

⑤赤穂藩断絶に伴い流浪の身となる。

ぐらいしかつかめていない。
所謂、新封地五万石の経済官僚として招聘され、赤穂塩田の開拓に手腕を発揮して
塩石高三万五千石を上乗せして赤穂藩を実質九万石近い実高にしたのは彼の功績
である。藩札発行もその一環です。所謂有能な経済官僚で「悪玉」ではありません。

私は「大野九郎兵衛」は伊豫の大野家の末裔ではないか
と調べています。赤穂浅野仕官は本家広島浅野家の
口利きではないかと思っています。
「九郎兵衛」は伊豫大野家の本分家を問わず惣領の
代々の名乗りです。
 伊豫大野家家紋は「木瓜ニ引両」「左巴」幕紋に
 「向鳩」を使用します。これらのいづれかを使用し
 ていないかと調べています。
 ただ「通字」が大野は「直」であるので彼が「房」使用
 しているようなので伊豫宇都宮家の影響を受けて
 いる可能性もあります。

 大坂の天野屋利兵衛と連携してやはり討入りの後方
 応援をしたのではないかと思っています。

 天野屋利兵衛は実在の人物ではないと主帳する人が
 いますが、実在の人物で大坂南町の惣年寄であり
 岡山池田公の出入り商人です。
 かつ、天野屋は赤穂大野と親族の可能性もあります。
 天野屋利兵衛の本姓は「大野九郎兵衛直之(直治)」
 で、伊豫大野家の子孫です。

 なんとか上記の関係を証明したいと思っています。

 赤穂市内に大野九郎兵衛の子孫を名乗る家がある
 ようですので連絡が取れればと思っています。



  • [87]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月31日(火)06時03分2秒
 
追伸

川岡レポートは右上の「プレビュー」をクリックしないと見れません。

  • [86]
  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月31日(火)05時42分43秒
 
> 家紋、替紋、幕紋について、紀州菅田家に比較的正確に継承されていることは、私も興味深く思っていました。やはり武門の家はさすがと感じています。

●家紋、替紋、幕紋で大伴以来のすべての由緒紋を正しく継承しているのは紀州大野(菅田)家のみです。
 これには驚きました。屋代大野系図には巴紋は利直時代に裏紋としていますから、宇都宮家巴紋より
 やはり八坂神社神紋の流れと思われます。
 紀州大野(菅田)系譜書を見ると、数ある大野系図の中で、今伊豫で一番流布されている「上川村大野系図系」
 が一番怪しいと感じてきました。
 元々上川村庄屋大野家にはきちんとした系図なるものは伝わっていない。
 よって江戸中期に当主大野和五郎が系図の資料集めに奔走している姿が彼の「手記」により明らかです。
 しかし、彼の彼の研究とまったく違う内容の「正統大野系図」なるものが上川村本として現在に伝わって
 います。内容的には和五郎の後の代の人が他の大野系図から転写の上、後の世を書き加えた感じです。
 よって上川村本を転写した、土州大野系図もこの系列になります。
 よって江戸中期の編纂と思われるので、信頼性が屋代島大野や、紀州菅田家より落ちるのは否めません。

>
> 直之の女「備後」足跡についても、戦国末期の大友氏の戦歴とその没落に連動していることと考え合わせると理解できます。ただ、大友氏の重臣・入田氏の宗家は、豊後・薩摩の合戦では主家を裏切って島津氏に内通し、合戦後は島津氏に仕えたらしい。そうすると文禄の役後、毛利家に蟄居した大友義統(よしむね)に随行したと思われる「備後」の夫・入田両庵は入田宗家とは別流でしょうね。

●これはよくわかりません、関係するともしないとも。当時は兄弟親子で敵味方に分かれるのは不思議では
 ありません、大野(菅田)直之と兄、直昌は対立しています。また直昌は兄直秀【隆直】とも対立したか
 のように「上川村本」は伝えます。曰く、大野家相続争いに負けた直秀が出奔した、としますが屋代島本
 は全く違う記述です。直昌も村上武吉も仲間同士でそこに行った、兄について上川村本は言及しません。

 永禄年中は伊豫はゴタゴタ続きです。川岡 勉先生のレポートがその一旦を垣間見させてくれます。
 ここにも菅田(直之系)と大野(直昌系)の対立が見えます。今度の宮尾氏の講演も同様な流れで
 大野直之を語るものと思われます。講義録か講義録音が欲しいところです。

http://ci.nii.ac.jp/els/110001046079.pdf?id=ART0001211296&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1327948786&cp=
>
> さて、すでにご存知のことと思いますが、「福岡藩・初期(上)」を見ていたら『収録史料の解題』に大野家文書の解説があったので、写真をUPしてみました。なお、私が入手したのは上巻であって、下巻の『大野家譜』はまだ見ておりません。この家譜は、東大史料編纂所の「土佐諸氏系図」の元祖が『越智姓、大野左馬右衛門直吉』の系譜と同じものかもしれませんね。

●有り難うございます、初めてみました、できれば下巻の「大野家譜」が是非とも見たいものですね。
 「土佐諸氏系図」の内容は「比較考証版」に記載の通りですが、家紋が河野家の「傍折敷波三文字」と
 なっていますね。これは下述の大野忠右衛門貞勝の像の羽織の紋所は村上家の紋の「丸に上」紋ですね。
 黒田藩士大野家の幕紋も「丸に上」の村上家紋です。紀州菅田家のように他に「堅木瓜ニ引」紋も使って
 いたのかもしれません。筑前大野家譜を見ないとわかりません。

> 大野左馬右衛門直吉の本姓は村上氏だそうですが、以前に福岡市博物館が取り上げた「大野忠右衛門の像」の由緒には、『村上天皇廿八代之苗裔村上右衛門/太輔通康五代之末葉大野忠右衛門/尉貞勝五十八歳之壽像也』とあるそうです。

●本姓は村上氏で間違いはありませんが、通康の系列とは思えません。
 本姓村上氏や安国寺との関連を「黒田家臣傳(大野傳)」【東大史料編纂所】で記録しています。
 著者は貝原益軒と思います。黒川さんちの「曽我部五衛門」も書かれています。
 私は筑後大野の上司「井上周防守」の動向に注目しています。
 筑前大野三兄弟は彼に従属しているからです。
 彼は今の福岡県黒崎に黒田藩の支城を築き、黒崎と命名します。大野三兄弟も移住したものと思います。
 大野直秀(隆直)はこの黒崎で死んだと屋代島本は記します。ただ没日が文禄4年としますが、黒崎城が
 できるのは1603年ですから系図の錯誤と思われます。今、直秀の墓を探しています。
 当時の寺とすれば、今のJR黒崎駅そばの「浄蓮寺」の可能性が高いと考えています。

>
> 村上通康は来島村上家の人ではありませんか?
> 大野直秀(隆直)が能島村上武吉の扶助を受けたのなら、直秀(隆直)の家司を務めた大野(村上)左馬右衛門直吉は能島村上家の人では?と浅学な私は?です。

●なぜ来島通康をもってきたのか「筑前大野家譜」を見ないとわかりません。
 私は村上左馬右衛門は村上隆勝の弟の村上河内守義統(吉和)の系列で来島村上系ではないと
 思っています。分りにくいですから「能島村上大連枝図」をメールしましょう。
 ついでに「河野家大連枝図」もつけておきますので「大野家大連枝図」とあわせて比較してください。
 「大野家大連枝図」は現存の赤ちゃんまで書いてますので他見無用に願います。

 ただ彼が来島通康に属していたかもしれません。村上三家は人と嫁のやり取りは頻繁にしていますから。

 この村上左馬右衛門を家来として後の大野の名跡を譲ると屋代島本は書きますから、名が大野、本姓村上で
 おかしくはありません。ただ福岡市でこの前「大野展」を開いたのは三兄弟の末弟と思われます。
 「大野家大連枝図」参照願います。

  • [85]
  • 福岡藩の大野家

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 1月30日(月)12時32分52秒
 
呑舟様へのお返事です。
紀州菅田氏の系譜についてのご教示有難うございました。
家紋、替紋、幕紋について、紀州菅田家に比較的正確に継承されていることは、私も興味深く思っていました。やはり武門の家はさすがと感じています。

直之の女「備後」足跡についても、戦国末期の大友氏の戦歴とその没落に連動していることと考え合わせると理解できます。ただ、大友氏の重臣・入田氏の宗家は、豊後・薩摩の合戦では主家を裏切って島津氏に内通し、合戦後は島津氏に仕えたらしい。そうすると文禄の役後、毛利家に蟄居した大友義統(よしむね)に随行したと思われる「備後」の夫・入田両庵は入田宗家とは別流でしょうね。

さて、すでにご存知のことと思いますが、「福岡藩・初期(上)」を見ていたら『収録史料の解題』に大野家文書の解説があったので、写真をUPしてみました。なお、私が入手したのは上巻であって、下巻の『大野家譜』はまだ見ておりません。この家譜は、東大史料編纂所の「土佐諸氏系図」の元祖が『越智姓、大野左馬右衛門直吉』の系譜と同じものかもしれませんね。
大野左馬右衛門直吉の本姓は村上氏だそうですが、以前に福岡市博物館が取り上げた「大野忠右衛門の像」の由緒には、『村上天皇廿八代之苗裔村上右衛門/太輔通康五代之末葉大野忠右衛門/尉貞勝五十八歳之壽像也』とあるそうです。

村上通康は来島村上家の人ではありませんか?
大野直秀(隆直)が能島村上武吉の扶助を受けたのなら、直秀(隆直)の家司を務めた大野(村上)左馬右衛門直吉は能島村上家の人では?と浅学な私は?です。

なお、曽我部家に関する文書は残念ながら「福岡藩・初期(上)」「同 (下)」の目次には見当りませんでした。


  • [84]
  • 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月28日(土)09時16分1秒
 
>>72
> No.7085の元祖についての記事が興味深いです。
>
●ようやくこちらも届きました。御三家の紀州徳川家の家臣録とは思えない、簡単なものですね。
 たぶん正式で且つ詳細なものは焼却したか、秘蔵され表に出ないようにされた可能性がありますね。
 幕末に官軍の討伐を受け、敗軍となった徳川家が家臣に類が及ばないように正式なものは隠匿された
 可能性があります。「今あるのは簡単なものと幕末のものだけでそれ以前を処分した」とのことから
 後に「在藩証明書」を発行する目的で簡便なのを残したとも考えられます。
 今、残っているのもよく見ると役職の履歴と禄高の履歴が殆ど消されています。
 これは職務の内容とその立場を隠匿する必要があったとも考えられます。

 ひまなときに文書館に聞いてみましょう。


> ①大野直之の子の直綱が「宇都宮、毛利と一戦の節」から数行、わからない文字がありますが、
> *豊綱が生け捕られたが、直綱は一類の儀に付き・・(う~む?)・・直綱が豊綱の領地を譲与され宇都宮の継養子になって・・・ですか?

●この条は直之を直綱と誤っていますね。伊豫の大野系図にも同様な記述がありますが、ニュアンスが違いますね
 「宇都宮豊綱が生け捕られて芸州につれて行かれたのを直之が相手の見張りを切り崩して連れて帰り、
  その恩で宇都宮の養氏となり宇都宮領を受領して、大洲(大津)城に移った」かのような記述ですが
  これは直之の条であって、豊綱を奪還した事実はないともされるところです。
  やむ得ないとは思いますが、「大津」を「大洲」と江戸期の表記にしてありますから
  原本はすでに江戸期に作られていたと思われます。

>
> 直綱は桐本では天正5年生まれ、上川本では天正8年生まれだから年代があわないですね、直之のことと混同していますね?

 ●はい そうですね。

> ②繁直が足利義政よりのご教書数通、並びに直行(ママ)までに諸家よりの来書、神文等18通を所持とある。菅田家はすごいかも?神文というのはどんな書簡をいうのでしょうか。

 ●これが史実ならすごいですね。
  大野家にとって一番重要な将軍の御教書等の文書18通を大事に所持しているならすごいです。
  もし原本なら宗家となります。
  繁直から数えて七代目として直之の前をすべて飛ばしますが、文書の秘蔵と云い、本来の大野家の伊豫の
  本貫地菅田を領有していることから、大野家再興の主繁直の直系筋が系図上正しいのかも知れません。
  ひょっとするとこちらが本家の可能性がでてきました。

  分家筋が小田に移り、さらに久万大除城に移ったとも考えられます。
  伊豫系系図にトリックがあるのかもしれません。
  嫡男を系図上、二男以下に取り替えれば済むだけで簡単に改竄できます。

  18通が出てきてそれが原本ならトリックが解明でいきるかもしれません。
  原本は宗家が引き継ぎます。分家はその写しがもらえる程度です。
  内容の文章は系図に書き込まれることが多いですが、その系図の所蔵者が主家とは限りません。

  「神文」は単なる「誓約書」です。
  「貴方を必ずお守りします」だの「必ずお味方します」等の「誓約書」で文の最後に必ず全国の有名な
   神様の名を羅列してこれらの神に誓って、と結びますから「神文」とよばれます。有名なのは熊野三社
   の牛王宝印(誓紙)を使うもので「神文」とか「起請文」とか呼ばれます。
   この用紙は今では熊野三山に行けばおみやげで売っています。烏が一杯刷られています(笑い)
   三社それぞれデザインが違いますから集める人もいます。

   この烏は指が1本多い烏で日本サッカー陣の旗にも使われます。
   この烏は「日本書記」にある神武天皇東征の時、熊野から大和を目指す道案内の烏とされます。

   なんてことはありません、大野家遠祖、大伴家の「道臣命」のデフォルメです。
   「道臣命」はカラス(烏)にされて今は全国のサッカー上ではためいて、選手の胸にも
   描かれています。良いことなのか?馬鹿にされているのか?複雑です。


 早い話が「嘘ついたら針千本飲みま~す」と書いて戦国時代は簡単に裏切りますので形式的なもののように
 なってしまいました。よって戦国期は神文は濫発していますから沢山残っています。


> 直綱、直偆父子が江戸で浪人(仕える主人はいなかった?)していたとありますが、四谷左門町のことは記載がない。
>

●これは今後の研究課題です。紀州の報告者は大昔のことを伝承でもわかって居なかったと思います。

> ③紀州菅田系譜では、大野吉左衛門豊充は菅田豊直の次男とあります。
> 桐本(名野川本も同じ)では、直綱の三男直廣の孫になっているので、桐本を書き換えなければなりません

●これはもう少し精査してからでいいでしょう。

●今回の「菅田吉右衛門豊直」家系譜で興味深いのは、
 家紋が「立木瓜ニ引」とあり、これは「堅木瓜ニ引両」紋と同じで伊豫大野家の本来紋です。
 慶長十三年の大野壽慶が日野林彦四郎に内緒で教えた「二引きが上」の説はやはり勘違いでしょう。

 替紋として「三ツ頭左巴」と「横木瓜ニ引」とあります。
 「三ツ頭左巴」は大野家裏紋として「屋代島大野系譜」(九州帝大蔵版)にも出てきます。
 伊豫系の大野系図には出てきません。
 由緒は二つ考えられます。「宇都宮家」家紋を引き継いだ。あるいは遠祖大伴家の神社である
 京都八坂神社の神紋を使用。(こちらは河野家が大山祇神社の神紋を家紋としているのと同じ理由)
 「横木瓜ニ引」は三河の大伴姓冨永家が使用しています。堅木瓜のように上下に細くしない
 通常の木瓜形と思います。

 幕紋に「黒併ニ向鳩」とありますが、これは大野系図の直義(たぶん直仲と同一人物)が大野家に養子に
 来た時の持参紋と思われます。彼は武州熊谷の熊谷家分家の芸州熊谷家から養子に来たとされ、熊谷家の
 家紋が「向鳩」です。又、彼から熊谷家通字の「直」が大野家でも踏襲されます。

 ●こちらも始祖を天智天皇 大友皇子から始まりますから、間違いは戦国以前からとなりますね。

 ●直之の女「備後」の足跡が理解できました。彼女は
 天正13年に早くも豊後大友家に12歳で預けられています。
 天正18年に17歳で結婚します。同年上洛しますが翌年豊後に帰ります。
 文禄二年に大友家没落で防州山口に移ります。(これは大友家を庇護した毛利によるものです)
 慶長10年に中和門院の女房となりますが、これは有力なコネが作用していると思われます。
 山口で庇護されていた大友は慶長5年に毛利から武器と兵を借りて豊後奪還を試みますが
 黒田如水によって石垣原の戦いで負けます。
 皮肉なことにこの如水軍に黒川さんちの曽我部五右衛門さんと大野隆直養子大野(本姓村上)左馬右衛門
 の子、長男勘右衛門直主、二男久太夫氏重、三男三郎左衛門吉乗は大活躍をして黒崎を経て博多に屋敷を
 移し明治を迎ます。(以前の福岡市博物館の大野家展はこの家です)曽我部さんは残念ながら討死しました。
 (別スレッド参照)
 これは豊後の「関ヶ原の戦い」と呼ばれるもので、同時に伊豫の関ヶ原の戦いとされる「松前の戦い」も
 行っており、こちらは隆直の嫡男、直政が河野牛福通直後継の河野太郎を総大将として、村上元吉の家老
 の立場で参戦し、敵方の差し入れの酒に油断して、元吉は討死して、直政は頬に大怪我をして、平岡さんが
 別働隊で頑張ってくれたのですが、本戦場の関ヶ原で毛利側西軍はあっさり負けたのでほうほうの体で
 竹原にかえります。
 豊後も松前も豊臣秀頼の朱印状を持って、徳川家謀反による城引渡しの正使の形を整えての「進行」で
 「侵攻」ではありません。
 秀吉の甥っ子(小早川養子)が裏切らなかったら、歴史は変わって河野家は四国すべてを領有していたかも
 しれません。この裏切りをそそのかしたのも河野家縁者とするのも皮肉なものです。

 江州栗田郡駒井中村領有の経緯はわかりましたが、故あって江戸で牢人は今後の調査対象ですね。

 江州井伊家に仕えているのはこの系列の可能性がありますね。

 紀州徳川家には村上吉継の子孫も仕官してますし、黒川さんの縁者も仕官とされますので
 結構 就職戦線は売り手市場と思われます。
 江戸期の固定化した身分制度による就職戦線より慶長年間までは就職自由の状態が見られます。
 「ニ君に見えず」などと「滅私奉公」を美徳にするのは江戸中期以降の考えに囚われると危険です。

しかし、一つ分ると次々と別の疑問が湧いてくるのが難儀です。


 

  • [83]
  • Re: 土居黨の事

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月22日(日)21時51分24秒
 
> 庵主様、呑舟様。おはようございます。
> 土居一黨の事ですが、興味があります。呑舟さんの質問の
> 如く、土居一黨は連合みたいなものでしょうか?
> 予陽盛衰記の十五巻には、黒川・土居党の事の記述があります。
> 土居の当主がライ病になり云々。。と、その土居党を黒川が
> 呼びて、慰めたみたいな記述ですが、黒川と土居はどのような
> 関りだったのでしょうか?家紋も同じ、丸に剣カタバミと
> 記憶していますが、

●「予陽盛衰記」の該当部分を読み直してみました。

 これは盛衰記著者のいつもの創作文と思われます。
 土居柏宮通茂とか土居主計介通主とか河野系土居家を連想させる人名を書いてますが架空の人物でしょう。
 よってこの土居党とは庵主様家記録の土居黨ではなく、「土居と言う人たち」とぼかした書き方と思われます。
 「予陽盛衰記」はいろんな歴史書をベースに著者の脚色と創作文を加えて書かれていますから、歴史小説
 の原型のような造りです。司馬遼太郎先生の師匠のような著者です。当時では大変有能な人物です。

 しかし、この著者は歴史常識の知識は疎いと思われます。
 古い時代の話を書くのに間違った後世の地名を多用します。
 また、官途名のルールを知らずに掃部守とか平気で造ります。
 ライ病なる高度な病名が天正年間にあったとは思えません。
 よってこの本は一次史料を確認して書いたのではなく、当時の流布本から創作したと思われます。

 ですからこの「予陽盛衰記」に記述はどこまでが史実でどこまでが虚構か
 判断するのが大変な書です。著者は「歴史小説」として書いたのでしょうが
 後世の人が「歴史書」と思ったところからややこしくなります。

 まず登場者の台詞が入っていることが、「歴史書ではない」と著者が証明しているのですが。

 別スレッドの重見氏の段も虚実ゴチャマゼです。よって「芸州河野家の末裔」氏に
 史実はこうです! と言えない所以のひとつでもあります。

 話変わって、黒川家の史実は別の史料で見つけました。これは黒川家のスレッドに書きましょう。

  • [82]
  • 土居黨の事

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 1月22日(日)06時44分13秒
 
庵主様、呑舟様。おはようございます。
土居一黨の事ですが、興味があります。呑舟さんの質問の
如く、土居一黨は連合みたいなものでしょうか?
予陽盛衰記の十五巻には、黒川・土居党の事の記述があります。
土居の当主がライ病になり云々。。と、その土居党を黒川が
呼びて、慰めたみたいな記述ですが、黒川と土居はどのような
関りだったのでしょうか?家紋も同じ、丸に剣カタバミと
記憶していますが、
この関りから、同じ剣カタバミを使用しているのかもとも思いますが
想像の域を越えません。


  • [81]
  • Re: 伊豫土居家

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)23時12分19秒
 
呑舟師、そうなんですよ!・・・紀州鈴木氏の家紋と、我が家の系図に書き残された家紋と~その後気付いた道程での検証の結果「京都・日蓮宗本山・大光山本圀(國)寺」の寺門と~茎の形状は異なるも~紀州鈴木氏の家紋に由来しているのでは~と~感じ取っております。(一本・二本~三本也)南無

  • [80]
  • 伊豫土居家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)06時25分54秒
 
> 追伸の義~一言源平の前段・紀州・鈴木氏・(穂積もか)ともご承知の通り古き縁故が伊予の国南部地域にはその家名を後世に残す土居家~我が家の系図・土居氏の家紋も「土居之一當」と記しております。

●そうですね、伊豫の土居は直接河野家から分かれた土居家と河野家を頼って紀州から渡海してきた鈴木系土居
 があり以前「談話室」で話題になりましたね。
 前者は土居方玄家で後者は土居清良家だったですかね。
 UPされたのは清良家と思われますが、家紋の右は下賜された河野家家紋ですが『傍折敷縮三文字」紋ですので
 一番新しい河野家の家紋のようですね。
 隣りの紋は何と言う紋でしょうか?
 こちらが鈴木家より伝わる土居家の元来紋でしょうか?
 土居一黨(党)として越智、周敷、難波江、徳永の名が見えますが、他に誰の名がありますか?
 そしてここの記事はいつの時代の誰の時の話でしょうか?
 土居一族ではなく土居一黨(党)と書いてありますから文字通り親族と言う意味ではなく
 党(グループ)の意味で配下の者たちの苗字と解釈しましたがそれで宜しいでしょうか?

 土居家の本来紋は私は始めてみました。勉強になります。多謝!

  • [79]
  • 美和の子、岩崎弥太郎

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月21日(土)05時54分20秒
 
> 呑舟様へ
> 和歌山文書館の職員も、なぜ同じ史料の請求があるのかと不思議に思っているかも知れません(笑)
> 岩崎弥太郎の従兄弟、豊川良平(前名、小野春弥)は三菱の大番頭的存在で、弥太郎を支えた一人です。でも、岩崎家の影の功労者は、弥太郎の母、美和です。彼女がいたから弥太郎は大事業家になったといっても過言ではないでしょう。母親の教育熱心さと子供の向学心のなせる業かと思います。

●そうですよね、母方で重用したのは豊川良平ぐらいしか見当たらないのですよね。
 弥太郎以後の系図に見られるようにせっせと閨閥作りに励み、政商の名をほしいままにします。
 戦前の三大財閥、三井、三菱、住友のうち三井、住友は300年以上の商人としての歴史がある中で
 弥太郎三菱だけが一代で三大財閥の一角にのし上がったのは、武家社会に於ける婚姻を通じての
 勢力拡大の手法そのものですね。
 また、明治維新の原動力、「薩長土肥」に属していたことと薩長を結びつけた坂本竜馬系の商社から
 始まったのが新政府に絶大なネットワークを張り巡らせた要因でしょうね。
 新政府が必要な物資の調達、(武器、船、後飛行機、それらを作る工場と原料の調達、それらを繫ぐ
 海運、また潤滑な経済活動に必須な金融と海上保険等)に邁進した結果、財閥になってしまったのでしょう。
 彼が政府の要職を求めなかったのも幸いしたのでしょう。

 いづれにしろ彼の人格形成には母親美和とその親族の影響が大でしょうね。

 三菱関連の書は彼の父親の出自を探そうと必死ですが、母親の出自は小野家から来たとだけ
 でスポットがあたりませんね。
 戦国・伊豫の風雲児大野直之まで遡らせたのはNAOKO氏の「不断の努力」でNET上では初公開で
 しょうね。

  • [78]
  • Re: 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月20日(金)20時44分6秒
 
追伸の義~一言源平の前段・紀州・鈴木氏・(穂積もか)ともご承知の通り古き縁故が伊予の国南部地域にはその家名を後世に残す土居家~我が家の系図・土居氏の家紋も「土居之一當」と記しております。


  • [77]
  • Re: 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月20日(金)19時44分14秒
 
徒然の侭に~豊後の国の大友氏と伊予の国の44代通信の孫・一遍上人・智真(経れば45代通久の兄弟・通弘別府七郎の子と語り継がれる・若干何故か他説も否めず哉?)・・但しこの時代には時代の背景を元杖にして北条家と直系の姻戚関係にて阿波国富田庄とも地頭職としての存在関りを見ゆ)。
祖に時代に継いで・大宰府の在・尊師聖達の元に弟子入りするは疑う予義無しかと。
その延長線上の一遍が遊行の旅に出て、最初に九州豊後之国・守護大友頼泰の帰依を受けたのも先祖の仏縁の深き由縁也。(豊後の国は、大友氏の後世には、臼杵藩稲葉氏存在も奥の細道を辿る道標かと)
又、その源流には・通信の弟通径の御子孫の家系・承久の乱前後にて九州の武藤氏と・豊後大友氏と・その後の近世には土佐山内氏とも、不思議なれど先祖縁故の絆が見受けられるのも記憶の片隅に記憶メモルことも無駄ならずの感なり。南無

  • [76]
  • Re: 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 1月20日(金)13時23分11秒
 
>>74
> naokoさま・呑舟師~いよいよ奥の細道に導かれちゅうが如き展開ですね!?!?!。

庵主様へ
喫茶室で土佐弁を拝見すると新鮮ですね。
土佐弁は~ちゅう、~き、と語尾がねずみと猿のようになります。
奥の細道は、まだまだ行き着く先が見えません。見守ってください。

呑舟様へ
和歌山文書館の職員も、なぜ同じ史料の請求があるのかと不思議に思っているかも知れません(笑)
岩崎弥太郎の従兄弟、豊川良平(前名、小野春弥)は三菱の大番頭的存在で、弥太郎を支えた一人です。でも、岩崎家の影の功労者は、弥太郎の母、美和です。彼女がいたから弥太郎は大事業家になったといっても過言ではないでしょう。母親の教育熱心さと子供の向学心のなせる業かと思います。

  • [75]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月19日(木)23時57分3秒
 
岩崎弥太郎は母方の祖父、小野慶蔵の援助で教養を身につけ、母の姉ときの嫁ぎ先、岡本寧浦に15歳から
学ぶとありますが、何を学んだことになっているのでしょうか?

また小野慶蔵は地下牢人で町医師となっていますので、家格は岩崎家と同じか、もしくは弥太郎の祖父の代に
「株」を売り払ったとされるので、小野家の方が大身であったと思われます。

小野家のサポートが無ければ、後の三菱グループは生まれなかったともいえますね。

どちらも地下郷士であるので、岩崎家は山内家の直臣ではなく、長曾我部か別の地方領主に仕えていたので
しょうね?諸説あるようですがよく分りません。地元はどう言ってますか?
場所からすれば香曾我部のようにも思えますが・・・。

岩崎弥太郎は親族を重用することで組織を巨大化し、「組織の三菱」とも称されますが、
母親美和の兄弟、即ち母方の伯父伯母、そして従弟たちはどのように扱われたのでしょうか?
あまり重用された形跡が見当たりませんね。下記関連系図参照

http://www.kakeiken.com/report0013-3.html

岩崎家家紋の三階菱を主家の山内家の家紋のデザインを借用して、現在の「スリーダイヤモンド」の
社章にしているのは地下牢人に落とした山内家への「見返し」とも思えますがこの経緯は地元では
どのように伝わりますでしょうか?





  • [74]
  • Re: 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月19日(木)21時12分4秒
 
naokoさま・呑舟師~いよいよ奥の細道に導かれちゅうが如き展開ですね!?!?!。
此れほどまでに嘗て伊予と土佐と紀州とが、室町時代以降~戦国経て近世に係わりを髣髴とされるテーマは無かったのでは?・!。
益々の進展を共に期待しております・・南無 恐惶謹厳

  • [73]
  • Re: 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月19日(木)17時52分48秒
 
こちらはまだ届きません。
先ほど文書館から電話があって申し込み書と費用は届いたのですが、枚数を間違っていましたと
云うことで明日また確定してからどうするか決めてくださいとのこと。
あちらも慣れてないようですね。そちらも頼んでいたのなら、「何故同じ史料が同時に注文が来たのか
目をパチクリでちょうね」(笑い)

  • [72]
  • 紀州菅田氏の系譜が届きました

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 1月19日(木)13時22分46秒
 
No.7085の元祖についての記事が興味深いです。

①大野直之の子の直綱が「宇都宮、毛利と一戦の節」から数行、わからない文字がありますが、
*豊綱が生け捕られたが、直綱は一類の儀に付き・・(う~む?)・・直綱が豊綱の領地を譲与され宇都宮の継養子になって・・・ですか?

直綱は桐本では天正5年生まれ、上川本では天正8年生まれだから年代があわないですね、直之のことと混同していますね?

②繁直が足利義政よりのご教書数通、並びに直行(ママ)までに諸家よりの来書、神文等18通を所持とある。菅田家はすごいかも?神文というのはどんな書簡をいうのでしょうか。

直綱、直偆父子が江戸で浪人(仕える主人はいなかった?)していたとありますが、四谷左門町のことは記載がない。

③紀州菅田系譜では、大野吉左衛門豊充は菅田豊直の次男とあります。
桐本(名野川本も同じ)では、直綱の三男直廣の孫になっているので、桐本を書き換えなければなりません。(笑い)

ざっとみただけで、いろいろと示唆に富む記事です。文書館から史料が届きましたら、呑舟先生のご感想とご教示を宜しくお願い致します。
本日は桐本を提供していただいた正一郎翁の一回忌でした、合掌。


  • [71]
  • 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月18日(水)22時53分42秒
 
土佐NAOKO氏提供の土州大野系図によると、三菱財閥創始者岩崎弥太郎には
天正の風雲児伊豫大津城主大野直之のDNAが受け継がれていることが判明した。
直之から数えて八代目の小野慶蔵の娘美和が岩崎弥太郎の父弥二郎へ嫁し
弥太郎を生んでいる。

もっとも、土州大野家初代直隆は河野弾正の女を娶っているから河野家のDNA
も入っている。
激変の明治維新に立ち向かった岩崎弥太郎は戦国風雲児大野直之のDNAが
蘇ったのかもしれない。

  • [70]
  • Re: 河野家家老 大野直昌墓碑判明す。

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月17日(火)16時36分17秒
 
呑舟師、真に徒然なる侭に導かれたるこの度の「奥の細道」を知る道標の諸々の一端の事項は庵主を含めて誰しも「表意・仏心」奥義が故に成される故にて代々受け継がれている「題目」と受け止めて居られるものかと~是非、ご教示を。南無

  • [69]
  • 河野家家老 大野直昌墓碑判明す。

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月16日(月)22時12分37秒
 
この度竹原書院図書館の郷土史家の手になる研究成果により
河野通直(牛福)とともに安芸竹原に渡海した、河野家家老(大除城主)大野直昌の墓碑が判明した。

直昌は天正十七年七月二十七日病死とされ、東光山薬師寺に葬られたと記録されます。
薬師寺は現在は廃寺であり、寺の痕跡もない。
八年前に現地探索をした時、地元の人から、流失し墓は田圃の中と聞いていたので墓の発見には至らなかった。

この度、墓そのものではないが墓碑として作られた石碑の存在を確認した。
こちらも、直昌の位牌と同じく「成井の観音堂」に移されていた。

上川村大野直尚が遠祖直昌の墓を探して
寛政九(1787)年八月廿日 竹原にやってきて、ようよう探し当てた薬師寺の裏にあった墓碑と
同じものである。この時にはもう碑板に変わっている、粗末なものだが戒名がなんとか読み取れたと
「直尚手記」は語る。(この辺りは久万町誌参照願います)

粗末と雖も、原石碑の大きさは高さ180CM、幅53CM、厚さ20CMのものである。

昭和29年久万町の大野憲さん(現松山市住)が位牌を譲り受けに来た時はまだ「■称院殿・・・」までは読み取っており同一石碑とわかったとしている。
私も8年前にこの石碑は見ているのだが、もう文字は全く読めなかったので分らなかった。

薬師寺と通直の菩提長生寺はほぼ2KM離れているだけなので、通直墓が流失した時に同じく流失したとも
考えられる。薬師寺の方が上流に位置する。
村上元吉の墓がもし長生寺境内に置かれていたら同様な運命をたどっていたのであろう。
珍海山五合目に葬られたのが幸いしている。

と言うことは通直に付いて来た人の墓も長生寺や薬師寺に葬られていた可能性が高い。

寛政九(1787)年八月廿日に直尚が直昌位牌を新調し(この位牌が久万町に昭和になり還る)
当面の供養料を置いてきて、その受取(領収書)には「東光山薬師寺現住學譽琢玄有受取」と
あり、調べてみると薬師寺歴代住職の位牌に「教蓮社學譽琢玄比丘霊」とありこの人物となり
実在の住職であることが証明された。



  • [68]
  • Re: 江戸四谷の絵図調査

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月15日(日)19時27分7秒
 
和歌山文書館から届く「書上げ年譜」に何か書かれているとよいのですが。
>
> 現存する『正保年中江戸絵図』は嘉永6年(1853)に模写されたものといわれていますが、その原本は明暦の大火(1657)以前の正保元年(1644)の江戸のようです。これには四谷と思われるところに紀伊殿の敷地がみあたらないし、武家屋敷もほとんどないようです。もっとも国立公文書館のサイトでざっと見ただけなので、見ぬかりがあるかもしれません。

●嘉永2年(1849)年版の住居絵図には紀伊殿の屋敷は2ケ所あります。御三家ですので他の地区にも
 沢山 土地を与えられていたと思いますのでこの界隈では2ケ所と言う意味です。

 ただ紀州家中の大野は伊豫大野とは関係なさそうです。
 文書館に確認した所、「本国紀州、初代の生国紀州、家紋は笹竜胆で、通字も違う」ので違う家と
 判断しました。

 嘉永2年の絵図をUPしましょう。
 一枚はNAOKO氏のUPと同じ場所と思います。
 もう一枚は左門町界隈です。そばに今は無い旧の「忍町」が残っています。
 関係ないでしょうがこちらには「松平摂津守の右の金勝寺の上の舟板横丁の中に大野の名」が認められます
 一旦ダウンロードして最大にUPすれば見れます。
 紀伊家中では「菅田」ですので江戸詰の時の話なら紀伊家屋敷の中に住んでいたなら絵図には個人名は
 出てきません。

 余談ながらこの紀州家跡が旧赤坂離宮で現在の迎賓館で隣りが皇太子様のお住まいの東宮御所で
 現在でも24時間数百M於きに皇宮警察と警視庁が道行く人を見張っています、庶民には縁遠いところ
 です。隣接の神宮外苑の野球場や東京オリンピックの国立競技場はメイン競技があると雑踏化します。
 こちらの方は大昔に一升瓶を片手に相手チームに悪態をついていましたので土地勘はあるのですが(反省)

  • [67]
  • 江戸四谷の絵図調査

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 1月14日(土)15時19分31秒
 
『新編江戸安見図』の「四谷」のトリミング絵図をUPします。
現況地図と対比させてみてください。
UPした『新編江戸安見図』は、明和6年(1769)志村板の初版です。
紀伊殿の敷地の紋所の右上、3ブロックの所に天地逆向きの「大野」が見えます。
文字の頭が表玄関なので、非常に屋敷名を探しづらいです。このあたりは現在、新宿3丁目、若葉町あたりでしょうか。

UPはしませんでしたが、『近江屋板』、『尾張屋板』の嘉永年間(1848~1853)の絵図では、舟町に「大野」屋敷があります。刊行年によって隣近所の屋敷名は変わりますが。

桐見川系図では、大野直椿(菅田吉衛門)は左門町に住んだことになっていますが、現在の左門町にあたる所には「大野」も「菅田」も見あたりません。明暦の大火が1657年なので、その後、転居したのかな?上記の3絵図の「大野」屋敷は菅田吉衛門の弟で、某(鷲野巣伊左衛門・旗本采地千石)か直廣(大野九郎兵衛・与力二百石)に関係あるのか、ないのか・・・和歌山文書館から届く「書上げ年譜」に何か書かれているとよいのですが。

現存する『正保年中江戸絵図』は嘉永6年(1853)に模写されたものといわれていますが、その原本は明暦の大火(1657)以前の正保元年(1644)の江戸のようです。これには四谷と思われるところに紀伊殿の敷地がみあたらないし、武家屋敷もほとんどないようです。もっとも国立公文書館のサイトでざっと見ただけなので、見ぬかりがあるかもしれません。



  • [66]
  • Re: 大野直之の子、紀州の菅田氏について

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2012年 1月13日(金)17時45分4秒
 
呑舟師、naokoさま~興味深く此れからの進展を期待しております。南無


  • [65]
  • Re: 大野直之の子、紀州の菅田氏について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月13日(金)10時54分14秒
 
>  NAOKO氏推定のようですが、原本を見ないとよく分りませんが生地と家紋の記述が一致すれば「ビンゴ」で
>  しょう。しかし、大野の本性を使用せず菅田の通称を苗字として届けでているのも面白い現象です。

●NAOKO史の推定「ビンゴ」(大当たり)でした。
 今、文書館から連絡ありました。

 両菅田氏も
 【本国 伊豫 家紋 木瓜ニ引両 生地 武蔵】」でした。よって途中で分家し別家して家禄給付が叶った
 ものと思われます。生地 武蔵は江戸四谷左門町が生地と文政年間に誤伝され「書上げ」されたものと思われ
 ます。
 今から原本コピーを取り寄せますので詳細は暫らくお待ちを!  

  • [64]
  • Re: 大野直之の子、紀州の菅田氏について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月13日(金)10時15分52秒
 
> 和歌山県立文書館の収蔵史料から判明した情報をお知らせします。
>
> 元祖 吉右衛門豊直―②九郎右衛門直正―③平右衛門直矩―④茂左衛門包朝
> ―⑤九郎右衛門直次金四郎 文化15年(1818)系譜提出、役儀:御小姓組後、大御番格小普請
> ―⑥茂一郎直行 天保8(1834)系譜提出 役儀:新御番
>
> もうひとつ菅田家があって、通字「直」を使用していますが話題がそれるので省略します。
> 桐見川大野系図では、直之―直綱(吉右衛門)―直椿―平右衛門直矩―直朝―某―金四郎
> となっています。少し異同がありますが、平右衛門直矩と金四郎がいますので、紀州のこの菅田家で間違いないと思います。ただ、紀州菅田系譜が直之から金四郎まで5代になっていますが、年代的には一世代欠けているのではないかと推測します。

●和歌山県立文書館から「紀州家中系譜並びに親類書書上げ」が届きました。
 NAOKO氏推定のようですが、原本を見ないとよく分りませんが生地と家紋の記述が一致すれば「ビンゴ」で
 しょう。しかし、大野の本性を使用せず菅田の通称を苗字として届けでているのも面白い現象です。
 よって今の子孫は本姓大野で本籍地愛媛県大洲市菅田とは知らないでしょうね?
 暇があれば和歌山県の菅田姓を探してみましょう。
 和歌山市内周辺では珍しい姓と思われます。
 流浪の呑舟はかって隣りの海南市にも住んでいたことがありますので土地勘はあります(笑い)

 初代を同書は「菅田吉右衛門豊直」と記録し「土佐桐見川大野系図」の」直之→直綱→菅田吉右衛門直偆」
 と同一人物と思われます。豊直としてますから途中で「豊」の字を「通字」に持つ上司から一字頂いた
 ことが考えられますので、元の直偆は間違いではないと思われます。
 「紀州菅田家系図」が見つかればはっきりします。

 直偆は系図によると

・「元和三年二月廿日 仕紀伊大納言」

 とありますが、これは少し混乱しています。

 紀伊徳川家は徳川家康の十男、徳川頼宣が始祖となります。
 直偆は彼に仕えたことになります。
 ただ元和三年二月廿日当時は彼は権中将で大納言になるのは寛永三年(1626)八月十九日です。
 しかし、混乱していますが流れは合っています。
 元和三年正月二十二日に徳川頼宣は加藤清正の五女・八十姫を正室に迎えます。
 その直後の直偆の仕官ですから仕官が叶ったのはこの婚姻と関係するかもしれません。

 また「桐見川系図」は

・「采地五百石 住四谷佐門町」としてあります。

 職名は分りません。
 五百石といえば中堅幹部です。
 四谷左門町は現在の新宿区左門町で、ここは武家屋敷地区となり町人の住む町屋敷とは区別されて
 いました。これは1623年の「御触」により町人と武家は混住したはならないとする命令からそう
 なったそうです。よって町奉行の管轄外の地域となっています。
 町奉行管轄外と言うのは面白いもので管轄地の書類を作る必要がなったために住所表示(町名)が
 無かったそうです。それでは不便なので便宜上そこに住んでいる主要な人の名を取り町名としたそう
 です。
 該当の新宿左門町は元は与力・同心の組屋敷で「忍町」と呼ばれていたものが寛永三年(1623)」
 先手組頭の諏訪左門により改められるとありますから、
 直偆(豊直)記録は寛永三年以降の記録となります。
 彼がどこかの組屋敷にいたのかどうかは今後の研究が必要です。
 500石取りで御三家の家臣ですと少なくても300~500坪の屋敷を給付されていると思われます。

 この辺りは東京の大野姉弟が調べてくれると助かるのですが。
 このサイトをウオッチしていると思われますので(笑い)

 直偆(豊直)記録はは和歌山文書館を追っかけます。
 NAOKO氏情報によりまた探索方面が広がりました。

 となると直偆(豊直)の父、直綱を調べる必要が出てきます。
 系図によると
 「天正五年生まれで天正十三年に大友義鎮」(宗麟)に属すとありますが
 僅か7歳での臣下とは思えませんので、父、直之没落時の姉、後の「備後」とともに
 盟友豊後の大友宗義鎮を頼っての逃亡と思われます。
 姉の備後は亭主が死んで山口に移り、また後、京に上り「中和門院の女房」となりますが
 弟は文禄の役に従軍したとされますから大友宗麟の子に仕えていることになります。
 慶長三年に太閤秀吉にお目見えし江州駒井仲村に領地を賜り同五年の奥州会津に赴き
 寛永十一年卒とあります。

 寛永十一年卒なら直偆(豊直)の住まいの江戸四谷左門町屋敷で死んだことも考えらえますが
 江州駒井仲村の住居とも考えられます。

 太閤秀吉は慶長三年八月十八日に病死しますのでほぼヨイヨイです。
 直綱のような小者にお目見えするとは思えませんが、何かが誇張されているのでしょう。
 「江州駒井仲村に領地を賜り同五年の奥州会津に赴き」に鍵があるのでしょう。
 こちらも探索しなくてはなりません。

*いつも一つの投稿に2~3時間掛っています。一つづつ確認作業をしますので時間がかかります。
 途中で文章を何度も訂正しますから、結果的に「ひにおは」助詞の使い方が変なまま投稿しています。
 半分は推敲の仮定のチョンボです。後の半分は「般若湯」のなせる業です。
 悪しからずご了承ください。 

  • [63]
  • Re: 紀州菅田氏の情報について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 4日(水)09時52分5秒
 
●「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)」は文書館が1200円で頒けてくれるそうなので
 依頼します。
 こちらでも「伊豫温故録」の大野家子孫紀州徳川家臣となったとされる菅家との検証も同時に
 できそうです。

> 大野家の河内、備後、高仁親王の乳母になった正智院、この3人の区別がわかりにくいですね。
>
> 【屋代島大野系譜】
>   河内 : 直昌の娘、徳川秀忠正室に仕え、姫入内の御供す
>   備後(見性院):直昌の娘
>   正智院妙蓮:記載なし
>
> 【大洲小笠原本】
>    河内:記載なし
>    備後(見性院):直之の娘、中和門院女房
>   正智院妙蓮大姉:直昌の娘、高仁親王の乳母、1669年卒
>
> 【上川村本・桐見川本】
>     河内:直之の娘、木下備中守室、後女院様仕
>     備後:直之の娘、中和門院女房、葬大阪大蓮寺
>    正智院妙蓮大姉:直昌娘、高仁親王の乳母、1669年卒
>
> 呑舟師に質問です。師は「河内」イコール「高仁親王の乳母」であると比定されているということですか?

●とてもややこしいです。上記3本の系図の成立順が、①小笠原本 ②屋代島本 ③桐見川本 ④上川村(新)本
 とみていますので。

 「河内」は直昌の娘で徳川秀忠の室、「江」へ仕え「江」の娘「和子」と皇室へ。

 「備後」は直之の娘で豊前、山口を経て京に入り中和門院の女房となり和子の子の乳母となった。

と想定しています。
 乳母とはオッパイを与えるのが主な仕事ではなくよそ者の母に代わり婚家のしきたりと帝王学を
 幼子に刷り込んでいく役目と思われますので高仁親王の乳母は天皇家側でなくてはなりません。
 「江」の息子を乳母(後の母春日局)に取り上げられたのと同様と思われます。

 ただ後水尾天皇は徳川の血が皇統に入るのは許せなく、それなりの目的を遂げる乳母が必要と
 思われます。もともと無理難題を押し付けての婚儀ですから徳川のやり方は最初から気に入りません。
 後水尾天皇の母、中和門院の女房にどのようなツテでなれたかはわかりません。
 意外と単純なものと思われます。

 一次史料が出てくればよいのですが。
 史実なら皇室も徳川家も恥部の部分ですから永久に日の目は見ないと思われます。

  • [62]
  • 紀州菅田氏の情報について

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 1月 3日(火)19時49分54秒
 
呑舟氏へのお返事です。
出典は「紀州家中系譜並に親類書書上げ(上)」ですが、これは和歌山県立文書館の史料目録ですから、前回の投稿で列記した以上の情報はわかりません。この家系は「菅田」に分類されています。

原史料の「系譜」と「親類書」の複写を文書館から取り寄せられるほうがよいいでしょうね。「親類書」は母方、おじ、おば、従兄弟まで記載範囲ということですから、情報量が格段に違います。閲覧申請には資料番号が必要になりますので、とりあえず当該目録の「菅田」と「大野」の部分を電送してみましょう。「大野」は伊予大野氏の流れの気配はしませんが・・・。

原史料の崩し文字は、筆跡によりますが、私には半分も読めないかと・・・。
どうでしょう、呑舟師、崩し字と格闘してみますか?(笑)

絵地図について:資料のコピーをとっていませんので、図書館でまた探しておきます。

大野家の河内、備後、高仁親王の乳母になった正智院、この3人の区別がわかりにくいですね。

【屋代島大野系譜】
  河内 : 直昌の娘、徳川秀忠正室に仕え、姫入内の御供す
  備後(見性院):直昌の娘
  正智院妙蓮:記載なし

【大洲小笠原本】
   河内:記載なし
   備後(見性院):直之の娘、中和門院女房
  正智院妙蓮大姉:直昌の娘、高仁親王の乳母、1669年卒

【上川村本・桐見川本】
    河内:直之の娘、木下備中守室、後女院様仕
    備後:直之の娘、中和門院女房、葬大阪大蓮寺
   正智院妙蓮大姉:直昌娘、高仁親王の乳母、1669年卒

呑舟師に質問です。師は「河内」イコール「高仁親王の乳母」であると比定されているということですか?

  • [61]
  • Re: 大野直之の子、紀州の菅田氏について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月 2日(月)12時42分34秒
 
>>60
> 和歌山県立文書館の収蔵史料から判明した情報をお知らせします。
>
> 元祖 吉右衛門豊直―②九郎右衛門直正―③平右衛門直矩―④茂左衛門包朝
> ―⑤九郎右衛門直次金四郎 文化15年(1818)系譜提出、役儀:御小姓組後、大御番格小普請
> ―⑥茂一郎直行 天保8(1834)系譜提出 役儀:新御番
>
> もうひとつ菅田家があって、通字「直」を使用していますが話題がそれるので省略します。
> 桐見川大野系図では、直之―直綱(吉右衛門)―直椿―平右衛門直矩―直朝―某―金四郎
> となっています。少し異同がありますが、平右衛門直矩と金四郎がいますので、紀州のこの菅田家で間違いないと思います。ただ、紀州菅田系譜が直之から金四郎まで5代になっていますが、年代的には一世代欠けているのではないかと推測します。

●初めて見ます。和歌山県立文書館の史料を該当部分をお持ちでしょうか?
 あれば電送して欲しいのですが?
 原史料は「紀州家中系譜並ニ親類書書上」でしょうか?

 これは本姓等の系譜の氏素性を家臣から享保年間に提出させた履歴書一覧ですが。

 菅田で記録されてますか大野で分類されてますか?

 江戸四谷左門町に住んだとされるのは大野と絵地図にあったとされますね?
 この絵地図を探しているのですがまだ見つけていません。
 あったら電送してくれませんか?
 紀州大納言家に仕官したのは直之の子の直綱の子とされてますから、その人の時にいわゆる「暴れん坊将軍
 吉宗」に臣従して江戸に移ったことが考えられますね。
 となると紀州出身将軍家直参旗本となりますが、菅田姓登録か大野姓登録か気になります。
 江戸古地図で「大野」と書いてあるなら本姓に復姓していることが考えられます。
 この古地図の制作年が分れば誰の時かがわかりますが。
 別に大野九郎兵衛直廣も与力として二百石で江戸に住んでいますからこちらかもしれません。
 また別に大野某が旗本として千石で江戸に住んでいますね。こちらは鷲野家へ養子に行った
 みたいですが。よって直綱の息子3人はいづれも江戸住まいで幕臣のようですね。
 こちらは新しいですから徳川家に記録が残されていると思われます。

> 小田上川庄屋大野直尚の覚書に
> 『 直之に一女二男あり、女子備後、一男直綱、二男直次、紀州へ有付云々、亦江列彦根との文通に江戸屋敷土井(土居?)大炊頭殿に相勤候。菅田吉右衛門は直之の子ノ由。旗本安藤伊賀守、安藤九左衛門は直之の娘の子ノ由。藤堂大学頭御内、大野文右衛門の親は半左衛門といい、これも直之の子ノ由。安藤対馬守(重信?)御内、大野忠兵衛は文右衛門の弟ノ由。其後、御所院竒騎に相成申候由 』とある。

●この直尚覚書は面白い表現ですね。
 すべてを「~の由」として伝聞形態ですから実態がはっきりしていないことを直尚は認識しています。
 これを「桐見川大野系図」と対比しますと

 直之の子は三男六女となります。即ち順に

  ①女子 魚無仁介室
  ②女子 木下備中守室 後河内 (*川上本は直昌の娘とする)
  ③女子 中和門院之女房 備後
  ④直隆 小野新兵衛
  ⑤直綱 長五郎 右衛門三郎 半左衛門
  ⑥女子 本多藤四郎室 →娘 生子
  ⑦直次 卯右衛門
  ⑧女子 前田善右衛門室
  ⑨女子 父直之と自殺 幻性自圓童女 (*これは直之位牌に記述あり)

明らかに直尚覚書の方が信頼度は低いです。河内の上川村系図の直昌娘に取り込んだ可能性があります。
直隆は無くて紀州に行ったのは直綱ではなく直次としています。
徳川関係史料との照合が必要となりますね。

> 安藤氏については、大洲大野系図、上川大野系図には出てきません。名野川と桐見川大野系図のみに記載があって、直之の娘の名は生子のようです。桐見川本には本多藤四郎の室とありますが、調べたところ、本多藤四郎の正室は安藤氏の娘なので、生子は側室なのかもしれません。本多氏の息子3人は外祖父安藤氏の養子になります。
>
> 余談ながら、大野直尚が安藤氏に言及しているのに、上川大野家の系図(伊予史談会謄写版)に安藤氏に関する情報がない。一方、上川大野家系図を転写したとされる土佐の名野川と桐見川大野系図には情報が記載されているという現象は興味深い。

●以前からこの現象は気になって仕方ありません。

 今言えることは現在伝えられる「上川村本大野系図」は伊豫史談会本、上川村本家本、現在の謄写本とも
 すべて新しい系図で直尚覚書は全く踏襲されていません。
 考えられるのは直尚時代の系図には満足できず別の系図から編纂しなおした物を桐見川大野は謄写したが
 上川村大野系図は虫に食われるままにして江戸末期に編纂し直したと考えられます。
 所謂杜撰です。この杜撰な系図を鵜呑みにして旧久万町誌を編纂した伊藤整一氏はそのまま史実のごとく書き
 愛媛県史編集委員であった同氏は大野家については同様な論点で県史を作製しました。
 どこの馬の骨かもわからないと出自を説明していますから愛媛県下の大野氏末裔は肩身が狭いのです。
 出典はすべて「上川村大野系図」です。もちらん彼は「桐見川大野系図」の存在をしりません。
 「桐見川大野系図」は「上川村本」の謄写としていますが、現存の「上川村本」と明らかに内容が
 違います。謄写本の方が詳しく残っています。皮肉な結果ですが、
 直尚の覚書とは今のところ合いません。
 直尚覚書を精査することなく整理してしまったことが悔やまれます。
 現代の人間が見れば落書きと思えるものも一番重要なものの可能性があったのですが。

 尚、生子は孫娘のようですね。

  • [60]
  • 大野直之の子、紀州の菅田氏について

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年12月28日(水)13時10分43秒
 
和歌山県立文書館の収蔵史料から判明した情報をお知らせします。

元祖 吉右衛門豊直―②九郎右衛門直正―③平右衛門直矩―④茂左衛門包朝
―⑤九郎右衛門直次金四郎 文化15年(1818)系譜提出、役儀:御小姓組後、大御番格小普請
―⑥茂一郎直行 天保8(1834)系譜提出 役儀:新御番

もうひとつ菅田家があって、通字「直」を使用していますが話題がそれるので省略します。
桐見川大野系図では、直之―直綱(吉右衛門)―直椿―平右衛門直矩―直朝―某―金四郎
となっています。少し異同がありますが、平右衛門直矩と金四郎がいますので、紀州のこの菅田家で間違いないと思います。ただ、紀州菅田系譜が直之から金四郎まで5代になっていますが、年代的には一世代欠けているのではないかと推測します。

小田上川庄屋大野直尚の覚書に
『 直之に一女二男あり、女子備後、一男直綱、二男直次、紀州へ有付云々、亦江列彦根との文通に江戸屋敷土井(土居?)大炊頭殿に相勤候。菅田吉右衛門は直之の子ノ由。旗本安藤伊賀守、安藤九左衛門は直之の娘の子ノ由。藤堂大学頭御内、大野文右衛門の親は半左衛門といい、これも直之の子ノ由。安藤対馬守(重信?)御内、大野忠兵衛は文右衛門の弟ノ由。其後、御所院竒騎に相成申候由 』とある。

安藤氏については、大洲大野系図、上川大野系図には出てきません。名野川と桐見川大野系図のみに記載があって、直之の娘の名は生子のようです。桐見川本には本多藤四郎の室とありますが、調べたところ、本多藤四郎の正室は安藤氏の娘なので、生子は側室なのかもしれません。本多氏の息子3人は外祖父安藤氏の養子になります。

余談ながら、大野直尚が安藤氏に言及しているのに、上川大野家の系図(伊予史談会謄写版)に安藤氏に関する情報がない。一方、上川大野家系図を転写したとされる土佐の名野川と桐見川大野系図には情報が記載されているという現象は興味深い。
現存する上川大野家系図には大野直尚(1750~1800年頃の人)の見解が反映されていないことになり、呑舟氏の考察を補強する事象だと思います。
紀州菅田氏から安藤氏へ話題がそれてしまいました。


  • [59]
  • Re: 中和門院女房備後の墓探索  訂正 (3

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月22日(木)16時23分16秒
 
備後卒年は寛文9年ではなく文治3年で、直常と同年の間違いUPでした。


  • [58]
  • Re: 中和門院女房備後の墓探索 (3

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月22日(木)14時34分37秒
 
> 寛文9年(1669)11月9日卒去、法名 正智院妙蓮大姉 葬る大坂下寺町大蓮寺 とあります。
> 大坂で親族とすれば大野直常(天野屋)が真っ先に考えられます。

●と以前書きました。
 はやとちりでした。備後の葬儀に天野屋が関係していたとすれば天野屋(大野)直常ではなく
 子の天野屋(大野)直賢と思われます。
 天野屋直常は同年四月二十八日卒去していました。あと継ぎが直賢です。
 翌年に義商とされる天野屋利兵衛を襲名する直治が生まれています。
 「忠臣蔵」と関係するなら直治40歳の時に討入りとなります。
 別本に義商天野屋利兵衛直之ともありますので改名したか変名した可能性もあります。

 直常は

万治3年 4月28日 大野系譜讃岐屋本 ●大野直昌の惣領、直常没、78歳 號 天徳院殿圭厳常白大居士・大坂九条村竹林寺に葬る(大坂・平野町天野屋九兵衛の養子)
と記録されます。この竹林寺も現存していますので機会があれば探索したいと思っています。

大蓮寺も竹林寺も同じ知恩院下の浄土宗です。
徳川家が浄土宗知恩院を擁護しますので、備後もその関連とも考えられます。
下寺町の寺はほとんどが知恩院下浄土宗です。

現在の大蓮寺は古い墓は殆ど無縁仏となり3ケ所に集められていました。
数十基に「この墓にお参りの方は寺事務所にお越しください」との釣り札が付いていましたので、
一定の告知期間を経て、また無縁仏の塚ができそうです。もちろん撤去した跡は新墓地として売り出される
でしょう。墓地に所有権のない所以です。

下記の無縁仏の山の中に「備後」の墓があればラッキーです。手間がかかりそうです。

  • [57]
  • Re: 松岡古城

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月19日(月)21時41分28秒
 
このサイトは以前から知っています。
情報をお持ちの方はアクセスしてくださいと記しておきながら、アクセスすると、
呑舟なる何処の誰とも分らない名の人物とのアクセスはお断りするとの話でした。
このサイトの大野家に関する記事は誤りが多いので、せめて憶測ではなく史料に基づいて
書いて欲しい旨を伝えました。
今から書くとされている最終章はそれ以来一切UPされません。
伝承の世界ならいざ知らず史実としては納得できる文章と構成ではありません。

  • [56]
  • Re: 松岡古城

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月19日(月)20時56分13秒
 
この度の一連の情報は、伊予と土佐と~広くは阿波・讃岐への戦国時代の政情を知るご助勢のテーマと感じております。
ご案内のサイトをじっくりと見させて頂きます。感謝

  • [55]
  • 松岡古城

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年12月19日(月)19時38分13秒
 
松岡城主は「河野分限帳」では直昌の旗下で、重藤数馬時保がいた城です。
以下のURLをたずねてみてください。

http://masakifamily-hp.sakura.ne.jp/OpMatuoka1.html

「松岡古城①」には江戸期の伊予古地図が掲載されています。
「松岡古城③」の最後に予告編として、天正2年の大野方と元親・直之勢の布陣が地図上にあって、興味深い。今後の展開が楽しみです。



  • [54]
  • Re: 中和門院女房備後の墓探索 (2

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月17日(土)09時40分44秒
 
備後が葬られたとされる大坂下寺町大連寺は現在大阪市天王寺区下寺町1-1-27に現存します。
江戸期のMAPは「難波名所獨案内」(下記資料参照願います)四天王寺の北に見づらいですが北に
堀の角の上に下寺町と書いてあります。その一番北の端の寺です。
もう一枚は終戦直後の下寺町の寺が連なる古写真です。大蓮寺は一番手前の本堂がなくて墓地のみが
見られます。この墓地は先日確認したところ、正門の位置を除いてほぼ同じでした。
創建は天文18年(1549)足利氏の意向で5000坪の地を与えられてとのことらしいですが
現在は5000坪もあるとは思えません。たぶん幼稚園にしてしまったところも寺域内なのでしょう。
ちなみに天文18年は村上武吉(17歳)が足利義晴将軍から海軍将軍に、また後奈良院から綸旨を賜り
海内将軍大和守叙任とされる年です【屋代島村上文書】

  • [53]
  • 中和門院女房備後の墓探索 (1

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月17日(土)08時15分19秒
 
背景がよく分らないとの質問を受けました。
以前UPした2人の大野系の女性です。
時期的には江戸初期となります。

> 所謂、称して「大野河内」と「大野備後」です。
> 両人を姉妹とする系図(上川村)や河内を直昌の娘とするもの、備後を大野直之の娘とする者等入り乱れます。
>
> 大野関連系図上は「河内」は徳川江に仕え、江と秀忠の娘「和子(まさこ)を天皇家(後水尾天皇)に嫁がせる、家康、秀忠の野望に
> 巻き込まれ、和子とともに京に向ったとされます。
>
> 片や備後は後水尾天皇の母君、中和門院に仕え、徳川和子が生んだ皇室譲位第一位の高仁(スケヒト)親王の夭死に
> かかわったとされます。(他書に云う怪人男の「備後」とは違います)
>
> その後の和子の二番目の男子誕生も夭死となり、ここに徳川家の天皇家乗っ取りの野望は潰えます。
>
> 河内と備後が本当にそのような立場に置かれていたのであり、両人の「実録日記」でも出てくれば、
> 予州大野家最大の有名人になりますし、徳川家康の評価が変わるでしょう。
>
> 歴史の流れからすると史実であれば、河内は大野直昌の娘と考えられます。
> 徳川江への伝手は関が原の裏切りの小早川系で春日局(お福)と同じ流れと考えられるからです。
>
> 対し備後はアンチ徳川側であるから、大野直之の妻、宇都宮家と土州一条家の京における
> 公家衆の推戴がなければ中和門院の許に上がることはとうてい不可能でしょう。

と以前書きました。
系図により異同がありますが、天正15年生まれで寛永期に高仁親王の乳母として昇殿、後、髪を下ろし尼
となります。この尼になったのは2説あって、高仁親王逝去のためと、中和門院逝去の為と。
寛文9年(1669)11月9日卒去、法名 正智院妙蓮大姉 葬る大坂下寺町大蓮寺 とあります。

どこの寺で尼をしていたのかまだ分かりません。京都なのか大坂なのか?
京で仕えていた者が何故大坂の寺に葬られたのか?
大坂で親族とすれば大野直常(天野屋)が真っ先に考えられます。

当時の大坂の状態は下記のようです。
中州だらけで都市化しているのはお城の近くの今の大阪駅(北)から難波(南)までの間の
ほんのわづかです。

  • [52]
  • 龍穏寺古文書?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月16日(金)22時18分24秒
 
●富岡ではなく冨永(富永)です。
 UPの古文書なるものが龍穏寺の正本でしょうか?
 1659年に検分したことになってますが、本文の内容そのものが史実と合っていない気がしますが?
 天正五年はまだ河野家は伊豫を支配していたと思いますが?
 全文ご披露頂けると助かるのですが?


  • [51]
  • Re: 中和門院女房備後の墓

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月16日(金)21時14分15秒
 
呑舟師、あちらこちらで符合すること多き哉・黒川氏も河野氏一統の血筋也。(我が家の系統図)
さて~この度の富岡(冨)氏の話題にても、遡ること萬治2年巳亥年(1659年)7月16日の出来事(古史)故の事案也。
さて、この古文書『龍穏寺豫章記』の所以は、土佐国の越智姓河野氏(我家系)の縁故も深く~時代背景は誠に混沌として、その足跡は『下村瀬兵衛重明』なる人物にて照合された物也。
詳しくは、この場ではご紹介するは難儀なれど52代通重(文禄3年牛甲・1593年・行年58歳)~53代隆重(明暦3年丁酉年1658年・行年72歳)から~54代吉重(延寶4年丙辰・1676年行年72歳)~55代光重(元禄11年戌寅・1698年・行年72歳)の先祖の身内の家系の御仁数々在れり。(真に多岐に分家しているので~難儀也)
その身内の子孫も系図には多く記されておりますが、瀬兵衛重明なる人物を目下探索しております。

  • [50]
  • Re: 中和門院女房備後の墓

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月16日(金)18時50分42秒
 
> 手許に蔵書しております、我が一族(土佐国・越智姓河野氏)にも関わりある『龍穏寺本豫章記』にもその足跡には富永氏の面影を偲ぶ記載の文面在り!・・何故。

●富永情報有り難うございます。
 UPの写真は伊豫史談会の富永道人先生の「龍穏寺本予章記」を謄写するとき「長福寺本予章記」と照合した
 との説明で、長福寺本は南明禅師の推敲本でああるから数ある「予章記」の中では善本であると評価して
 いるものではないでしょうか?

 龍穏寺本も長福寺本も中身はほとんど異同はなかったのではないでしょうか?
 よって伊豫史談会会長の景浦 勉氏は伊豫史談会双書として『予章記』を発行するとき「長福寺本」の方を採用 したのではないでしょうか?
 南明禅師がかかわっているので、「予章記」も「予陽河野家譜」も1760年前後の最終編纂と
 考える所以です。南明はこのサイトの黒川さんの先祖の桃女の息子です。

 富永道人氏も氏(ウジ)からすれが大野一族の末裔と思われますが、彼の出自はよく知りません。
 誰か教えてくれませんかね?

 本来、トミナガはト冨永と書くはずなのですが富永と書いてあるのが気になります。
 江戸中期以降に本来の冨永(戦国以前に、先祖が首を取られたことを忘れんがため富を冨(首無し)に変えたと  される)伝承が薄れたようです。

  • [49]
  • Re: 中和門院女房備後の墓

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年12月16日(金)17時14分21秒
 
呑舟師、並びにnaokoさま~富永氏の由縁を興味深く傍受しております。
手許に蔵書しております、我が一族(土佐国・越智姓河野氏)にも関わりある『龍穏寺本豫章記』にもその足跡には富永氏の面影を偲ぶ記載の文面在り!・・何故。
これ等の奥の細道を正しく辿り~御仁は、呑舟先師の御尽力に頼る心情にて候為らんかな。南無

  • [48]
  • 中和門院女房備後の墓

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月16日(金)05時45分43秒
 
冨永彦三郎情報ありがとうございます。
少しづつ見えてきそうです。しかしまだ彼は大野一族の認識はないようですね。

先日、大阪下寺町の大蓮寺へ行ってきました。
中和門院の女房備後(大野直之の娘)が葬られたと系図が記録しますので墓探しをしてきました。
通常墓には見当たりませんでしたので、3ケ所ある無縁墓を探しましたがよく分りませんでした。
もっとも別の用件で大阪に行って1時間ほど時間がとれたので急に尋ねたので戒名もうろ覚えでしたので
別の機会に再度調べるしかありません。
墓が発見されて喪主は大野直昌の嫡男直常(天野屋)もしくは子と解明できれば、徳川家の天皇家への血筋挿入抹殺事件と赤穂義士天野屋利(理)兵衛との二大時件が予州大野家と繋がります。

河野家滅亡の後、竹原で父の卒後、松山天徳寺で養育された後、出入りの商人大坂天野屋へ連れていかれます。
この時の住所は平野町とされます。下寺町と平野町は近いです。
直常以降天野屋当主は「九郎兵衛」を襲名したそうです。
まさに伊豫大野家当主(分家を含む嫡男)の名乗りと同じです。
義商天野屋利兵衛は名は天野屋九郎兵衛直之です。本姓は大野と云う古文書を探しています。
忠臣蔵で悪役とされる家老大野九郎兵衛との接点も探索中です。
どうも直接赤穂藩ではなく岡山池田藩経由の線が強そうです。



  • [47]
  • Re: 万葉集にみられる家持の墓標への思い入れ

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年12月15日(木)19時10分33秒
 
>>46
呑舟様
大伴家持の「黄金賛歌」への返歌、および急逝した書持を悼む歌のご紹介、有難うございます。

そうですね、『まさきくと言いてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも』の前段となる家持の歌には、なくした弟を想う心情が切々と、しかし冷静に吐露されているように感じます。そこには、兄弟の強い絆も感じます。

草花を愛でた弟の在りし日の姿を思い浮かべて、『名残惜しく佐保山に棚引く白雲(あるいは霞)』に喩える家持の心象風景とするのも、前段の歌があればこそ自然な解釈かもしれません。
すすきの穂が出て、萩の花が咲く、白雲が立ち棚引く秋なのでしょうね。
夏の入道雲では家持の心情は語れません。

草花を愛でた書持の歌一首、父旅人の歌(天平三年)に九年後追和して

『御苑生(みそのふ)の百木(ももき)の梅の散る花の天に飛び上がり雪と降りけむ』

【大意】大宰府の父上の御庭園に生えていた百もの梅の木、その花が散って天に舞い上がり雪のように 降ってきたのでしょう。
幻想的な歌ですね。

話は変わりますが、
冨永彦三郎について、血縁関係は次のようになることがわかりました。
冨永七郎左衛門 ― 本山八郎右衛門直貞 ― 道正(冨永彦三郎)
冨永七郎左衛門(中居谷村庄屋4代目)
  中居谷■城主冨永備中守■孫
本山八郎右衛門直貞
  七郎左衛門の八男で、大久喜村庄屋本山貞久の養子となる。
    この本山氏は土佐の本山氏一門で、関が原合戦で敗れて主家が改易されたため伊予大久喜村に移  る。
道正(與次郎、後に冨永彦三郎、中居谷村庄屋7代目)
  父の実家、中居谷村庄屋、冨永喜(嘉)右衛門直■(5代目か6代目)の養子となる。
   史料によっては直政となっているかもしれません。

参考文献は、内山地歴談話会の機関紙(平成2年)で、小田の友人からの情報提供です。


  • [46]
  • 万葉集にみられる家持の墓標への思い入れ

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年12月14日(水)10時20分34秒
 
【原文】大伴乃 等保追可牟於夜能 於久都奇波 之流久之米多弓 比等能之流倍久

【訓読】大伴の 遠つ神祖の 奥城は しるく標立て 人の知るべく

【仮名】おほともの とほつかむおやの おくつきは しるくしめたて ひとのしるべく

【大意】大伴氏の遠い祖先の墓所にははっきりと墓標を立てよ世の人々がそれと知るように

   (天平感寶元年五月十二日於越中國守舘大伴宿祢家持作之)

この歌は有名な東大寺大仏建立に必要な黄金が調達できず建立が頓挫していたときに陸奥国にて
黄金が見つかったことを賛する「黄金賛歌」の返歌の一首とされます。
弟の逝去時とは時期は若干違いますが、家持の墓標に対する思い入れがよく出ています。
「黄金賛歌」で彼は同族の佐伯家と協力して大伴家の家門を守もらなければ成らないと大伴宗家
の惣領としての墓標を大切にせよと意思表示をしています。
火葬思想の仏教の影響があるかも知れませんが、大納言家の大伴家が当時火葬したとは思えません。

また仏教で大成するのは同族佐伯家で後の世に唐の西安に渡り仏教の奥義を悟り、多くの仏典と共に
帰朝した佐伯真魚こと空海(弘法大師)となります。

問題は火葬か土葬かですが、

『まさきくと言いてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも』

の前段は

『長逝せる弟を哀しび傷む歌一首 并せて短歌』として

天ざかる鄙治めにと 大王(おほきみ)の任(ま)けのまにまに
出でて来(こ)し我を送ると 青丹よし奈良山すぎて
泉河きよき河原に 馬駐(とど)め別れし時に
好去(まさきく)て吾(あれ)還りこむ 平らけく斎(いは)ひて待てと
語らひて来(こ)し日のきはみ 玉鉾の道をたどほみ
山河のへなりてあれば 恋しけく日(け)長きものを
見まくほり思ふ間に 玉梓(たまづさ)の使ひの来(け)れば
うれしみと吾(あ)が待ち問ふに 逆言(およづれ)の狂言(たはこと)とかも
はしきよし汝弟(なおと)のみこと 何しかも時しはあらむを
はだすすき穂に出(づ)る秋の 萩の花にほへる屋戸を 朝庭に出で立ちならし 夕庭に踏みたひらげず
佐保のうちの里を往き過ぎ あしひきの山のこぬれに
白雲にたちたなびくと 吾(あれ)に告げつる

(佐保山に火葬せり。故に佐保のうちの里を往き過ぎと謂へり)→後世の解釈

【意訳】都から空遠く隔たった土地を治めに、天皇陛下の御任命のまま、家を出て来た私を見送ろうと、奈良山を越えて、泉川の清らかな河原に、馬を留めて別れた時に、「つつがなく私は帰って来よう。おまえもどうか平穏無事に、行いを慎んで待っていてくれ」と、語り合って来たその日を最後に、道が遠くて、山河が隔たっているために、恋しがる日々は積もり積もったけれど、逢いたいと思い続けるうち、使がやって来たので、嬉々として待ち受けて様子を問うと、人惑わせの譫言であろうか、いとしいわが弟は、どういうことか、時はほかにあろうものを、はだ薄が穂に出る秋の、萩の花が咲きにおう庭を こう言うのは、この人は、生まれつき花の咲く草や木を愛し、たくさん正殿の庭に植えていた。それで「花にほへる庭」と言ったのである 朝方の庭に出て立ち均すことも、夕方の庭に踏み平らげることも出来ずに、佐保の内の里を通り過ぎ、山の樹々の梢に、白雲となって立ちのぼり棚引いていたと、私に告げたのだ。

佐保山に火葬したのである。それで、「佐保の内の里を往き過ぎ」と言ったのである。→後世の解釈

とあって、書持の急死(良い知らせと思ったとの条より)の報告のようであるが、これは家持が書持は死んで雲となって
名残惜しく郷里の佐保山に棚引いている様の比喩と思っています。

何故なら遺体を野辺で火葬にすると最初は白い煙が出ますが、本焼になると黒い煙となり、終わりは煙が出なくなります。時間的には火葬中は殆ど黒い煙です。(火力が強いことを意味しています。家の火事と同じです)
私の田舎は野辺火葬がかっては多く、子供のころ野辺火葬は嫌と言うほど見てきました。
髪に火が移るとあの独特な臭いが辺りを漂いますので遺体が燃え始めたことが分ります。
大体臭いと煙の色で火葬の進捗状態はわかりました。

現代はガスボイラーで裏の小窓から穏亡さんが焼き加減を調節しながらしますから、残らず、かつ焼きすぎずと
按配よくしてくれます。子供や嬰子は骨が細いので焼き方が難しいそうです。

私は佐保山の近くの西大寺の秋篠に住んでいたことがあります、佐保山は丘のような所ですから
雲がかかることはありません、比喩的には霞か山霧と思われます。

もっとも私の独断です。(笑い)










> > ○書持が火葬されたのではないか、という解釈は書持の死を悼む家持の次の短歌からです。
> > 『 まさきくと言いてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも 』
>
> ●なんとも分りません。火葬とするものと火葬であろうとする推定説が拮抗しています。
>  場所は佐保山で焼いたとの説もあります。かっての奈良ドリームランドのあたりかと思えます。
>  佐保は大伴家の自宅のすぐ側です。(遺構は地下で眠っているのでしょうが)
>  しかし、誰が喪主を努めたのでしょうか?
>  兄家持はこの年(天平18年)の7月に越中に赴任していますから奈良にはいません。
>  異母弟書持が逝去したのは直後の8月位と思われます。
>  「こんなことになるなら連れてきて越中の海の波しぶきのすばらしさはみせてあげたかった」と
>  9月25日付で歌にしているから、家持が奈良を出る2ケ月前は元気であったことを窺わせる。
>  この辺りを掘り進むと高多麿を含む人間関係が浮かびあがるかもしれません。
>  万葉集の関係歌を丁寧に読む必要がありそうですね。これはまた難儀です。
>  原文は確か万葉仮名で一見漢文のように見えます。これの解釈の違いで学者の間でも
>  解釈が割れてしまいます。
>
>  「続日本紀」での大伴家記事は当たり前ですが政治日程ばかりです。
>  弟書持の喪には服したのでしょうか?
>  大宰府の正妻逝去と云い、越中赴任直後の弟逝去と云い、転勤のたびに不幸に見舞われている。
>  通常は喪に服して、一定期間、出仕はしないのだが・・・・。
>  

  • [45]
  • Re: 万葉集にみられる自然葬

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月28日(月)22時57分51秒
 
> ○書持が火葬されたのではないか、という解釈は書持の死を悼む家持の次の短歌からです。
> 『 まさきくと言いてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも 』

●なんとも分りません。火葬とするものと火葬であろうとする推定説が拮抗しています。
 場所は佐保山で焼いたとの説もあります。かっての奈良ドリームランドのあたりかと思えます。
 佐保は大伴家の自宅のすぐ側です。(遺構は地下で眠っているのでしょうが)
 しかし、誰が喪主を努めたのでしょうか?
 兄家持はこの年(天平18年)の7月に越中に赴任していますから奈良にはいません。
 異母弟書持が逝去したのは直後の8月位と思われます。
 「こんなことになるなら連れてきて越中の海の波しぶきのすばらしさはみせてあげたかった」と
 9月25日付で歌にしているから、家持が奈良を出る2ケ月前は元気であったことを窺わせる。
 この辺りを掘り進むと高多麿を含む人間関係が浮かびあがるかもしれません。
 万葉集の関係歌を丁寧に読む必要がありそうですね。これはまた難儀です。
 原文は確か万葉仮名で一見漢文のように見えます。これの解釈の違いで学者の間でも
 解釈が割れてしまいます。

 「続日本紀」での大伴家記事は当たり前ですが政治日程ばかりです。
 弟書持の喪には服したのでしょうか?
 大宰府の正妻逝去と云い、越中赴任直後の弟逝去と云い、転勤のたびに不幸に見舞われている。
 通常は喪に服して、一定期間、出仕はしないのだが・・・・。


  • [44]
  • 万葉集にみられる自然葬

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年11月28日(月)18時29分3秒
 
●火葬というのは調べないとわかりませんが、変な伝承ですね?
出典はなんでしょうか?火葬は相当時代が下ってからの習慣ですから、火葬の習慣が始まってからの記事とも考えられます。

○書持が火葬されたのではないか、という解釈は書持の死を悼む家持の次の短歌からです。
『 まさきくと言いてしものを白雲に立ち棚引くと聞けば悲しも 』

万葉集の解釈本の中に、「白雲に立ち棚引く」とは火葬の煙をさして言うのであろうとあるようです。「万葉集を読む」というサイトにありました。他のサイトでもそのように解釈されています。孫引きなので自信はありません。

万葉集にみられる自然葬について、他の短歌を引用してみましょう。

『 鏡なす我が見し君を阿婆の野の花橘の珠に拾いつ 』(巻7 1404)
  (解釈)鏡を見るように毎日見ていた恋人を、阿婆(あば)の野で焼いて、その橘の白い珠のような骨を拾った。(その後、恋人の骨を清らかな山野に撒くのである)

もう一首
『 玉梓の妹は珠かもあしびきの清き山辺に撒けば散りぬる 』(巻7 1415)

この時代、土葬も火葬もあったようです。ただ、庶民は墓を持たず、火葬の場合遺灰は野山に撒かれたのでしょう。

ワンダーランドのことであるので、我々現代人がその時代はこうであろう、といった思い込みは禁物かと思います。  恐惶謹言


  • [43]
  • 古田村大野系図

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月28日(月)05時21分27秒
 
大伴系図を追うと不思議と内容が合致するのが古田村(伊賀崎町)庄屋大野家に伝わる大野系図である。

大野系図には珍しく「大伴系図」より分流している。
肝心な所は、安麿→旅人→高田麿→正麿 となり一連の大野系図につながる。
この系図がさらに別れるのは大野利直の弟の位置の

大野直泰(城戸右衛門大夫、伊賀崎竜王城主)→直盛(城戸太郎・室大野山城守直昌妹、笹が峠討死)

→直宗(慶長十九年大坂冬之陣ニ藤堂和泉守ニ属シ弟 五右衛門ト共ニ出陣)

→古田村庄屋初代、大野源兵衛大伴直俊(藤右衛門 寛永中加藤公ヨリ庄屋拝命、七十歳ニテ役儀譲ル)

→直治→直澄→直賢→直該→直道→直好→直竹→昌直→直清(明治十四年八月二十日卒)【途中の注釈すべて略】

よってこの家の系図の最終編纂は明治期と思われ近代は個人情報のからみで割愛されている。
筆者が誰か判明しないが原本はペン字である。(感じからして古田村大野系図を他人が書き写した様である)

この編纂の底本が知りたいものである。
この大野家には何らかの古文書が残っていそうでもある。

NAOKO氏 気がかりの大野直之の条は
「直之 (右衛門大夫) 初 菅田城主
 天正七年 元親ニ属シ 旧宇都宮豊綱ヲ逐ヒ天正八年大洲城主トナル
 小早川隆景 河野通直軍ニ攻ラレ落城 山鳥坂鳥城ニ逃走セシモ
 天正十三年七月七日、橘一族ニ討ル 」とある。

これが「系図纂要」(内閣文庫本)の「大伴宿禰姓系図」になると
 「直之 菅田右衛門大夫 (為)家臣 」とのみで
兄の中に二男 直秀(隆直)が欠如している。しかしなぜか、他の大野系図には見えない末弟に綱之が居て
直昌の命で宇都宮家を継ぐとしている。
他の文書の直昌が宇都宮の娘(一条家の出戻り)を娶り宇都宮家も継ぐとする記述の傍証とも言える。

ついでに同書は直之の子は長女(仕中和門院 号備後)と直綱と直次のみを載せる。
以前話題の徳川江の付け人は、やはり直昌の子とする直常(一条家の胤)の妹とされ

「高仁親王乳母、後為尼、寛文九年十一月九日卒、八十二 正知院妙連」

とある。やはり宮中で笹が峠の合戦の第二幕を演じているようである。(系図により混乱している。)
彼女が大坂・大蓮寺に葬られたのは兄の大坂天野屋(直常)がからんでそうである。
直常が葬られたのは福島区の竹林寺であるので何故寺が違うのか不思議であったが
当時は兄と妹の身分が逆転していたのかも知れない。双方の寺は現存する。

  • [42]
  • Re: 大野家の謂われ

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月27日(日)22時12分6秒
 
まさにワンダーランドの世界です。

『大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る
 神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良上る』

は山上憶良の歌ですが、全文は

大王(おほきみ)の 遠の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫の国に
泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず
年月も 幾だもあらねば 心ゆも 思はぬ間に
打ち靡き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為むすべ知らに
岩木をも 問ひ放(さ)け知らず 家ならば 形はあらむを
恨めしき 妹の命の 吾をばも いかにせよとか
にほ鳥の 二人並び居 語らひし 心背きて 家離(ざか)りいます
反歌
家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも
愛(は)しきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべ無さ
悔しかもかく知らませば青丹よし国内(くぬち)ことごと見せましものを
妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに
大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る
  神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良上る

となります。
いかに妻(大伴郎女)を亡くし慟哭していたかが伺い知れます。
根拠ありませんが出産による逝去と考えられなくもありません。
異母妹が慌ててやって来ることからも家持と高多麿の養育者として必要だった可能性があります。
書持か同人か否かは今後の研究に待たねばなりません。
伝わる大伴系図や大伴系大野系図に齟齬がある可能性があります。
現段階ではどちらも正しいとも言えますし、どちらも間違いとも言えます。

> さて、話を予州大野家遠祖の高多麿に戻しましょう。
>
> 「系図纂要」にも「高多麻呂」が大伴旅人の子として記載されていますが、「系図纂要」は幕末の編纂らしいので、さもあらんということでしょう。
> 高多麿の次兄、書持についても天平18年に若くして死去(年齢不詳)、火葬されたらしい、くらいの情報しかありません。
> 大野系図では、高多麿は天平2年(730)誕生ですから、書持と同一人物だとすると17歳で身罷ったことになります。兄の家持はこのとき29歳です。

●火葬と言うのは調べないと分りませんが、変な伝承ですね?
 出典はなんでしょうか?
 火葬は相当時代が下ってからの習慣ですから、火葬の習慣が始まったからの記事とも考えられます。

 「系図纂要」には確かに大伴書持の弟して、高多麿が出てきます。
 よって高多麿と書持は同一人物人物ではないとしています。

 唯、手許の「系図纂要」のCOPYが薄くてよく見えませんが、
 注釈として小さな字で
 ■土居系図
   大友王子ー與多都王ー牟麿ー夜須良ー旅人ー高多麿ー正麿

 と書持と高多麿の間に書いてあるので、このような説もあるとの意味でしょう。

 この土居系図と全く同じなのは「屋代島大野系図」のみです。
 この土居は大田城の大野本家筋とも言える土居系図と同じであるから、
 大野繁直が1451年津野退治の報告の帰りに日射病で卒去した後、子の通繁が叔父の土居に育てられて
 のちの伝承と考えれば、辻褄はあう。
 なぜか同様な系図は鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司家にも伝わる(東大史料編纂所)から
 なんらかの根拠のある古系譜の可能性は捨てきれない。

 書持と高多麿が同一人物の可能性は残ります。
 大野系図(大洲本・上川村本)が天平2年(730)の高多麿が誕生としますが、父の旅人は
 翌年の7月25日に(67歳)で逝去と「続日本紀」は記します。
 65歳で頑張ったとは不可能ではないにしろ困難です。
 事実なら正妻の子ではありません。
 どうもどの記録もそれぞれに不完全ですが、すべてニアミス(ケアレスミスに近い)していますので
 なんらかの史実が隠れているとも思えます。

 まだまだ研究がたりません(反省)

  • [41]
  • 土佐の国の福留一族の伝承は?!

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年11月27日(日)20時50分39秒
 
見るからに謎多き感なれど~土佐之国の古の舞台にもその名を残すのも摩訶不思議為らん哉?・・讃岐にも~伊予にも関わりあるのも・・何故?

  • [40]
  • Re: 大野家の謂われ

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年11月27日(日)17時59分38秒
 
>
> 『大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る
>
>   神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良上る』
>
> この大野山が大伴家持の弟、大伴高多麿(予州大野家遠祖)の別姓と考えられる。
> 上記の山上憶良の歌は大宰府に赴任してきた大伴家持がその妻(大伴郎女)が着任早々妻を亡くした悲しみ
> を歌仲間(実際は上司)として歌い上げている。
> この大野山は大宰府の山で、白村江の戦いで負け、韓半島からの侵略に備えるため大野城【朝鮮式城(き)】
> の地名としても有名です。
>
> 大伴高多麿は系図等によるとこの時、大宰府で生まれたことになっています。
> 正妻は逝去しますから庶子と思われますが、大伴郎女の子の可能性も捨てきれません。
> 安産ではなく産み落として死んだ可能性もありますし。あとから来る異母妹の子の可能性もあり
> 且つ又、妾の平群女郎(傍妻)の子の可能性もあります。
> 異母兄弟の書持と同一人物説まありますがはっきりしません。
>

大宰府の大野城について補足したいと思います。
660年 百済が滅ぶ
663年 斉明女帝の派遣した百済救援軍が白村江の戦いで大敗して帰朝する
この頃西日本各地に、百済の将軍達が指揮して山城をつくります。

「日本書紀」には、665年憶礼福留、四比福夫という二人の将軍が大宰府の近くに大野城(おおのき)とその南10kmの所に基肄城(きいのき)の二つの城を築いたことが出ています。この時期(天智年間)に築かれた山城で年代のわかっているのは他に6つあって、香川県高松の屋島城(やしまのき)もそのひとつです。

山城を築いたのは、百済と戦った新羅と唐の連合軍が救援軍を出した日本を攻めるかもしれないので、大和防衛のためという見方があるようですが、20年ほど前に、季進熙(リ・ジンヒ)先生(当時、明治大学講師)の講演では、これらの山城の立地条件から考察すると、形勢不利になったときに付近の人々が逃げ込むための城だったのではないかということです。

さて、話を予州大野家遠祖の高多麿に戻しましょう。

「系図纂要」にも「高多麻呂」が大伴旅人の子として記載されていますが、「系図纂要」は幕末の編纂らしいので、さもあらんということでしょう。
高多麿の次兄、書持についても天平18年に若くして死去(年齢不詳)、火葬されたらしい、くらいの情報しかありません。
大野系図では、高多麿は天平2年(730)誕生ですから、書持と同一人物だとすると17歳で身罷ったことになります。兄の家持はこのとき29歳です。

土佐の大野氏が伝承する系図のひとつに、書持イコール高多麿としているものがあって、安易な比定をしたのか、新事実なのか不明ですが、仮に書持イコール高多麿であった場合、遺児がいて血脈が吉良喜につながると考えるのはありえない話でしょうか?
天平10年(738)か14年(742)に平城京(旧都)橘邸で書持は歌を詠んでいます。

  『 あしひきの山のもみじ葉今夜もか浮かびゆくらむ山川の瀬に 』

「大野」という地名は各地にあって、大野系図に関わっていると妙に敏感になってしまいます。

◎参考図書の紹介です
 「古代氏族の系譜」(吉川弘文館、S62年刊、¥2600、溝口睦子 著)
   第一章 大伴氏の現存系譜の考察
          『伴氏系図』と『古屋家家譜』(大伴氏古系譜)を取り上げて、8、9世紀の
          大伴氏本系を復元する試み
 第二章 大伴氏系譜先祖名の特異性
  第三章 「ヒ」型人名
  第四章 大伴氏の歴史        以上です


  • [39]
  • 大野家の謂われ

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年11月25日(金)19時47分24秒
 
以前から「大野」と言う名はどこから来たのか気になって仕方がありません。
今までの説を検証してみたいのですが、いづれも確固たる根拠があるわけではありません。

予州大野家子孫は現在は全国に展開するが、その出自はいろいろあって
四国大野家の大半は
①天智天皇の御子大友皇子の末裔とするもの
大洲の末裔家に伝わる系図は
②大伴安麻呂の子孫で兄を家持とするもの
伊豫河野系図の一部は
③越智経与の末裔とするもの
とに大別される。
江戸期に源氏姓や村上・河野出自説も現れる。

私は①と③は誤伝承と思っています。
①は辻褄があいません。(系図上)
③も状況的には懐疑的です。(家紋、通字、一次書簡等)

一番信頼性が高いのは②となります。

では何故大伴姓が大野と改姓したのか?
まず
①大洲(大津)に残る伝承では
 大野と言う所に下向したとされます。
(多分、八多喜近辺のあざなと考えられます)
 伊豫の郷土史家はそのような地名は無いとしてますが、消えたあざなは沢山あります。

②屋代島大野家譜は大野成義の条で
 「此代ヨリ大野ト改ム 家傳ニ云フ代々
   宇津ノ大野ト 云フ所ニ住居 皇子住ミ
 給フ故ニ王野ト云フ子孫即チ為各字此代
 王ノ字ヲ惶リ大ノ字ニ改ム大野ト名乗ル
  大ノ字ハ一人ニ叶心故用之 」

 としているがこれは大友皇子の末裔であるとする後世の補説と思われる。

古来、姓の出自は地名が多く大野も地名であろうと思われる。

大伴家と大野家を結びつける一次史料はまだ発見されていない。
そこで有力なヒントを得た。
現在、宗家大伴家を探索しているが、山上憶良の興味ある歌を見つけた。


『大野山霧立ち渡る我が嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ち渡る

  神亀五年七月の二十一日、筑前国の守山上憶良上る』

この大野山が大伴家持の弟、大伴高多麿(予州大野家遠祖)の別姓と考えられる。
上記の山上憶良の歌は大宰府に赴任してきた大伴家持がその妻(大伴郎女)が着任早々妻を亡くした悲しみ
を歌仲間(実際は上司)として歌い上げている。
この大野山は大宰府の山で、白村江の戦いで負け、韓半島からの侵略に備えるため大野城【朝鮮式城(き)】
の地名としても有名です。

大伴高多麿は系図等によるとこの時、大宰府で生まれたことになっています。
正妻は逝去しますから庶子と思われますが、大伴郎女の子の可能性も捨てきれません。
安産ではなく産み落として死んだ可能性もありますし。あとから来る異母妹の子の可能性もあり
且つ又、妾の平群女郎(傍妻)の子の可能性もあります。
異母兄弟の書持と同一人物説まありますがはっきりしません。

ともあれ今の所、
③大伴→大野改姓に一番信頼性が高いのは大宰府大野山の大野と思われます。





  • [38]
  • 昼下がりのコーヒーブレイク

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年10月12日(水)13時19分32秒
 
「コーヒーブレイク」の一環でNHK大河ドラマ「江」にまつわる、戦国末期から江戸初期に活躍する、大野家の
二人の女性の探索が楽しみの今日この頃です。

所謂、称して「大野河内」と「大野備後」です。
両人を姉妹とする系図(上川村)や河内を直昌の娘とするもの、備後を大野直之の娘とする者等入り乱れます。

大野関連系図上は「河内」は徳川江に仕え、江と秀忠の娘「和子(まさこ)を天皇家(後水尾天皇)に嫁がせる、家康、秀忠の野望に
巻き込まれ、和子とともに京に向ったとされます。

片や備後は後水尾天皇の母君、中和門院に仕え、徳川和子が生んだ皇室譲位第一位の高仁(スケヒト)親王の夭死に
かかわったとされます。

その後の和子の二番目の男子誕生も夭死となり、ここに徳川家の天皇家乗っ取りの野望は潰えます。

河内と備後が本当にそのような立場に置かれていたのであり、両人の「実録日記」でも出てくれば、
予州大野家最大の有名人になりますし、徳川家康の評価が変わるでしょう。

歴史の流れからすると史実であれば、河内は大野直昌の娘と考えられます。
徳川江への伝手は関が原の裏切りの小早川系で春日局(お福)と同じ流れと考えられるからです。

対し備後はアンチ徳川側であるから、大野直之の妻、宇都宮家と土州一条家の京における
公家衆の推戴がなければ中和門院の許に上がることはとうてい不可能でしょう。

まさに天正二年(1574)閏八月の笹が峠の合戦の兄弟喧嘩が、それぞれの娘達によって、
寛永五年(1628)六月、高仁親王夭死により第ニ幕は下りることなります。
結果的には大洲菅田大野家二連勝となります。(笑い)

徳川家の天皇家乗っ取りとそれを阻止せんとする皇室の死闘の中の大野河内と大野備後の息詰まる抗争劇もあったともいえます、

司馬遼太郎先生なら「坂の上の雲」の次に「菊は葵より強し」と一大歴史ドラマを展開してくれたでしょうね。


  • [37]
  • NHK大河ドラマに「お福」現る

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年10月 4日(火)04時19分38秒
 
ようやくNHK大河ドラマに徳川秀忠の嫡男(竹千代・母、江)の乳母として登場しましたね。今後の成り行きが楽しみですね。

原作者は明智光秀寄りで秀吉(豊臣家)を憎み、豊臣家に一矢報いんがために
良人稲葉氏と離縁してまで乳母として家康の命で上がったとお福に「大言」を吐かせます。
よって家康様の命令以外は秀忠、江の命とは言えども聞かないと戦線布告させます。
これは今後の展開が「江」と軋轢を生む伏線としての芝居上のことでしょう。

原作者がどの程度「史実」を踏まえているかが今後、見ものですね。
「江」の傍に上がったとされる大野河内はよもや登場しないでしょが、展開が
楽しみです。

計らずも、美濃土岐家一族明智光秀系、伊豫河野一族稲葉系、圧倒的優勢の豊臣軍
を徳川(東軍)に寝返った小早川某(そそのかしは稲葉とされる)その恩賞のお福
乳母、伝手を使う土佐の長曾我部元親、河内を送る伊豫大野家、このサイトの常連
揃い踏みであります。

しかし、主人公「江」の手前、原作者はお福(後の春日局)を悪女として演出しそうですね。

史実は確かに「お福」に不利です。

無位無官の単なる徳川家光の乳母にしか過ぎない、お福が、徳川家名代と
して京に上り、当時の天皇の病が仮病か否かを探りますが、目的は達せられません。
無位無官では参内の資格がないので、当時の武家伝奏三条西実の妹分の肩書きで
参内します。

寛永六年(1629)10月10日お福は天盃を受け「春日局」の号を得ます。
そして意気揚々の春日局は宮中で神楽を所望し10月24日に神楽は執り行われます。
この態度に激怒した後水尾天皇は出座を取りやめます。

かって歴代征夷大将軍家では無かったのですが、徳川家康は(天皇の僕である征夷大将軍)天皇家を下に位置づける組織を作ります。
これこそ「下克上」の典型です。

そのため、
「公家衆法度」「勅許紫衣法度」「禁中並公家諸法度」を制定し天皇家を武家の
下に位置ずけ徳川王朝の夢を後300年間貪ります。
これらにより、天皇家にとっては徳川家は不倶戴天の謀反人となります。

制度疲労の徳川王朝が崩壊するのは明治期の「王政復古の大号令」を待たねばなりません。
この時、関が原の戦いから雌伏300年の西軍総大将の毛利家は徳川政権打倒に雪崩れこみます。

これは余話ながら、長州毛利宗家の毎年正月に徳川家打倒の問答儀式として
伝えられます。

曰く。筆頭家臣、
「今年こそ徳川家を討つべし!!!」

歴代藩主曰く
「まだまだ、まだまだ・・・・」と。

これにゴーサインが出たのが高杉晋作挙兵の後、藩論恭順派から武闘派に統一されて後です。

よって明治維新は関が原の闘いが出発点とも言えます。

西郷隆盛さんや坂本竜馬さんも手伝ってくれました。

  • [36]
  • 大除城と大夜家城は別物か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 9月21日(水)09時29分52秒
 
大野家三代(朝直【直家】・利直・直昌)三代の居城とされる久万山大除城は
大野家譜等が語る大夜家(オオヨケ)城は別で2つある可能性が出てきた。
両城は後世(江戸期)の混同と思われる。

まず場所の特定であるが、
今、大除城址とされるのは古くは久万菅生村にあるのであって、「予陽河野家譜」が語る久万山明神村の新城ではない。これは「同書」によると永禄11年(1568)
に土州からの押さえとして新に築き大除を払うために「大除城」と河野家が命名し
宇津城主の大野安芸守直家(朝直)に命じて守らせたと書き、愛媛県関連史はこれ
を史実として伝える。明治期の「伊豫温故録」も江戸期の「二名集」を根拠に同様
に述べる。

ここで疑問は
【築城期が違う】
①大野直郷が久万郷(旧美濃土岐家所領)を譲り受けるのは、永享4年(1432)
 のことでこのあたりから宇津の大野の本格的に久万郷の領営が始まる。
 後にこの地を侵した土州久万入道を打ち破り、城を築き菅生山大宝寺を再建
 したのは寛正5年(1464)とされます。
 これが「大夜家(大除)城」の始まりとされます。
 決して1568年の河野家命による築城ではありません。
 時代が全く合いません。

【築城場所が違う】
①「予陽河野家譜」は久万明神村とし「伊豫温故録」は後世の分村名の西明神村
としますが、大除城は久万菅生村です。

【初代城主の違う】
①「予陽河野家譜」は永禄11年(1568)年宇津の大野直家(朝直)を転封したと
 書きますが、大野直家は(1471~1519)年の人で永禄11年(1568)は生きていません。
 いかに「予陽河野家譜」が混同文書かの一端です。
 確かに大野直家は宇津から小田庄土居城に移り、又のち大夜家城に移ったとされ
 ますが時期が違います。

明神村には3つ城址があると現在言われていますのでその一つが「予陽河野家譜」
が認識する「大除城」の可能性がありますが、江戸期に「予陽河野家譜」を編纂
する時、「大夜家」を「大除」と書き直し、由来を書き加えた可能性があります。
朝直の敵対者と思われる河野通秋の女を嫁にしているので、後世の人は河野家
の家臣に違いないと勘違いした可能性があります。
通秋の女は「人質嫁」と思われます。大野家と河野家の休戦の證と思われます。

  • [35]
  • Re: 一条兼定の女、按察使は大野河内か?

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 9月15日(木)17時36分28秒
 
呑舟師、真に想いを寄せる理は、何時の日にか夫々の古来より固定的に定められた地理的条件にて独立独歩の四国四県の国情と複雑に絡み合う・分流(馴染み誼)の所以では無いのでしょうか?・・・!。
今更に、個人的にも祖父や親父から聞き伝えた~四国の各国の気質は、土佐と阿波は不思議なことに同じ土壌・土俵を偲ぶ風習を伝え知り・~・伊予と讃岐は微妙に「動」と「静」を微妙に分かつ風土の風情を教えてもらって~庵主の人生の実質に身を持って体験した途上体験は~素直に感じとった面影を残すのも摩訶不思議なり。 南無

  • [34]
  • 一条兼定の女、按察使は大野河内か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 9月14日(水)22時57分34秒
 
土佐史談会が悩む、高野山の土佐一条家の過去帳に残る一条兼定の女で内政の妹とされる按察使(あぜち)【職名】は大野河内の可能性が出てきた。

土佐史談会は会報で按察使は
①土佐高島氏の女が兼定の養女であるとするもの。
②九州大友氏の系列とするもの。
③大洲の菅田(大野)直之の女とするもの。
がそれぞれ会報に発表されている。

大野探索の徒である小生は③の説を看過するわけには行かない。
③の説を発表した土佐史談会の和田松子氏は周辺調査をしてこの結論を出している。按察使は戦国を生きぬき後半は徳川秀忠の室(江)に仕えて江戸城内大奥に
在るとされる。これは史実である。

数ある大野系図の中で「屋代島大野系図」(九州帝国大学蔵本)には

「女(河内) 秀忠公御台に勤仕、後姫様御入台の時御供脇局被召仕」

とあり、按察使は大野河内と思われる。
「秀忠公御台」とは今のNHKの大河ドラマ「江」のことである。
「御姫様御入台」とは徳川家康の孫娘、和子(父・秀忠、母・江)を後水尾天皇の 中宮に押し込んだ時のことである。
 別の大野系図はこの和子が生んだ男の子の乳母として中和門院の女房(備後)が
登場する。先の系図は備後は河内の妹とするが、系図により、父は大野直昌とするものと大野直之とするものに分かれる。

状況判断すると、直昌の女ではなく直之の女と思われる。
取り巻く環境が、土佐一条家、土佐宇都宮家、京・一条家、京・三条家、京・日野家、その縁戚、安芸浅野家、その分家赤穂浅野家、稲葉一鉄家、お福こと春日局が
次々と出てくる。徳川重臣板倉家も絡んでくる。

断片的な大野家記録も線で繋がった。
この時は河内、備後が中心人物である。

「忠臣蔵」の赤穂藩経済官僚家老、大野九郎兵衛も直之の系統の可能性が出てきた。その親族、大坂天満の豪商天野屋利兵衛は大野直常のひ孫と思われる。
歌舞伎の「忠臣蔵」は家老大野九郎兵衛を善玉大石内蔵助に対比させるため悪玉と
して登場させ、今の人はそれが史実と信じて疑わない。
本所松阪町の吉良屋敷に四十七士が討ち入る時の武器の調達を密に、行い、船で
大阪から運んで提供したのは「天野屋利兵衛」である。
現在の忠臣蔵信奉者は天野屋利兵衛は架空の人物と信じているが、
当時の大坂の書物「難波雀」には「天満の肝煎、天野屋」と記録されているし、
赤穂浪士討入り以前に囚われ人となって拷問を受けていた
天野屋は有名な「天野屋利兵衛は男でござる」と口を割らなかったが
本懐成就の報を受けるや神妙にすべてを話したと大坂奉行所記録は伝えるとされる。

映画「忠臣蔵」の名場面として必ず挿入される、大石内蔵助が討入りの為東海道を下る時、「日野家用人」の肩書き
で下っていく時、本物の日野家用人と鉢合わせとなり窮地に追い込まれるシーンがあるが、
なんの事はない、浅野家と京・日野家は縁戚関係であるからその事実を知っている作者によって歌舞伎が
演出されたのでしょう。

  • [33]
  • Re: 廣瀬神~妙見信仰の原点について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月27日(土)06時29分52秒
 
庵主様 いつも有難うございます。
詳細な地図のUPで分りました。
この辺りは行ったことがありますので、今度機会があれば探訪してみようと思います。
現在はこの辺りはのどかな田園地帯ですので農家が点在するような所です。
地元では多古米で有名です。

地元の教育委員会より成田山新勝寺の図書館(文庫)を調べる方が詳しいと思われます。

  • [32]
  • Re: 廣瀬神~妙見信仰の原点について

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)09時02分59秒
 
前文の「 重ねて、当寺の古文書には、我等の土佐国幡多郡内の菩提寺・有岡・真静寺の本山・京都妙顕寺や、先祖縁故の尾張国妙勝寺の古刹の寺院の名も連記去れているようです」の文章のこと~尾張国妙勝寺の記述は別の古文書で、当古文書には、守護代細川頼益・勝益殿の由縁の土佐国・田村庄「現・細勝寺・元は土佐・妙国寺古跡)の本山・京都・頂妙寺でしたので検めてご覧ください。御免 南無

  • [31]
  • Re: 廣瀬神~妙見信仰の原点について

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月26日(金)08時51分0秒
 
>>24
> 庵主様 いつも有難うございます。
> 香取郡の記事が気になりました。
> この寺は今どこにありますでしょうか?
*呑舟師、上総~下総の地理的条件は、真に海運の成合の様相を思い浮かべる事由哉!?・・。
さて、お尋ねの地理・地図は、手元の中村檀林・日本寺のご住職から拝領した書物の記事に詳細な地図が有りましたのでお送りしておきます。
重ねて、当寺の古文書には、我等の土佐国幡多郡内の菩提寺・有岡・真静寺の本山・京都妙顕寺や、先祖縁故の尾張国妙勝寺の古刹の寺院の名も連記去れているようです。南無

  • [30]
  • 上総 下総

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)23時10分52秒
 
>  上総と下総は判り難いですね。「下総は江戸と境を接しているが、湿地帯が続いていて
> 徒歩では行けず、舟で行くとなると、上総の方が京に近いことになる」と読んだ覚えがあ
> ります。記憶ですので間違っているかも知れませんが、陸伝いですと江戸から下総に入り、
> 上総はその先になるのですが、上下が反対になっているのは上述の理由だそうですね。

●そうだと思います。
 東海道が整備されるまでは江戸方面は殆ど海路が主流で、大量の荷物を運ぶのは鉄道が明治に出来るまで
 海運ですね。紀伊国屋文左衛門の蜜柑舟のようなものですね。
 中世以前は京から船で行きますから、安房国の次に上総国、そして下総国となりますね。

 江戸期も京・大坂の上物とされる物産は下総銚子から利根川を登り、野田から江戸大川への物資の輸送が
 大動脈とされます。なぜか江戸湾に入っていきません。
 上方の上物を上方からの「下り物」と呼び値段が高く、庶民は手が出ませんので、現在でも下物を意味する
 「下らないもの」で埋め合わせていたようです。ものを馬鹿にする「くだらん」の語源です。

 典型的なのは酒と醤油です。酒は灘・伏見は上物で、赤穂浪士討入直前の蕎麦屋では灘の生一本「剣菱」を
 飲んだと演出されます。酒造家も上方から行ったのですが米と水と樽材の三拍子が揃わなかったのか
 いまだ銘酒は殆どありません。

 醤油業者も下向します。彼等は紀伊湯浅醤油、播州龍野醤油の職人達で、下総の銚子で作り始め、利根川を上っ
 て野田から江戸に運んだとされます。より消費地に近い所で造ろうとしてまた野田まで引っ越したのが
 現在のキッコーマン(亀甲萬)醤油とされますが、当初は下らないものとされます。
 現在は巧みなマーケティングの力でシェア世界一でしょう。
 本家・分家が現在でも仲の良いのが特徴でしょう。

 人間は利根川の木下(きおろし)で降りて木下街道で江戸に行くルートがあったとされます。

 古代、神宮の名で通るのは、伊勢、香取、鹿島だけとされますから当時は利根川(坂東太郎)河口周辺
 が開発されていただけかも知れません。

 江戸は太田道灌の時の湿地帯だらけで、家康の時代も殆ど同じ、明治期に三菱が取得する現丸の内の
 三菱村も葦が茂る湿地帯とされます。
 よって旧江戸城下は0メーター地域が多く、地盤が元々軟弱ですから大地震がくると
 グチャグチャになりますね。
 東京に政治経済の一極集中は今後の直下型地震を考えると日本国の自殺行為ですね。

 又脱線しました。

  • [29]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:今城
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)21時22分41秒
 
>>28

 上総と下総は判り難いですね。「下総は江戸と境を接しているが、湿地帯が続いていて
徒歩では行けず、舟で行くとなると、上総の方が京に近いことになる」と読んだ覚えがあ
ります。記憶ですので間違っているかも知れませんが、陸伝いですと江戸から下総に入り、
上総はその先になるのですが、上下が反対になっているのは上述の理由だそうですね。

 間違っていたら訂正して下さい。

  • [28]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月24日(水)20時18分29秒
 
>  香取は下総国です。香取神宮は下総国一の宮です

●そうですね、私の勘違いでした。香取神宮や鹿島神宮には何度も行っているのに
 ボケてきましたな。下総国の宿仮り人としては恥ずかしい限りです。

  • [27]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:今城
  • 投稿日:2011年 8月23日(火)19時36分31秒
 
>>24
> 香取は香取神社で有名で且つ上総国ですから都から近い順で下総国より上位国ですね。

 香取は下総国です。香取神宮は下総国一の宮です。(香取神宮御由緒香取神宮)。

  • [26]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月22日(月)17時00分29秒
 
なるほど千葉の千葉一族ゆかりのものでしたか。
千葉家の家紋と通じてきますね。


  • [25]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)13時18分33秒
 
>>24
> 庵主様 いつも有難うございます。
> 香取郡の記事が気になりました。
> この寺は今どこにありますでしょうか?
*呑舟師、お目に留めていただき恐縮です
この寺源氏方の豪族・千葉氏一族の末裔の御仁が出家為されて開基されたと覗っております。
その記述文書を転写させていただきますのでご参考にご覧ください。南無

  • [24]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)08時30分2秒
 
庵主様 いつも有難うございます。
香取郡の記事が気になりました。
この寺は今どこにありますでしょうか?
千葉県香取市内であろうことは想像できますが。
香取は香取神社で有名で且つ上総国ですから都から近い順で下総国より上位国ですね。
現在の「交通時間地図」(早く行ける順)と違います。
ともあれ興味ある記事です。





  • [23]
  • Re: 廣瀬神社~前文に不手際あり追加です

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)06時24分43秒
 
写真のピントボケのキツイのが有りましたので、妙見菩薩像と改めて写真を再送します。御免


  • [22]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月21日(日)06時02分28秒
 
> 廣瀬神社の社史によると、妙見宮と称して後は、大田家累代の祈願社18社のうちの1社とあります。大野系図と照らすと「成義の志願によって直義が建長二年(1250)に勧請」という記述の義
昨夜中、別件の用件にて先祖の書き残した「古文書」と~北総千葉の日蓮宗正東山日本寺(中村檀林とも~庵主の先祖の者が同檀林の302世を江戸末期・勤めておりました関係から)の資料を検索中に目に留まった記事が有りましたのでご参考までに写真をお送りしておきます。
その源文面には、赤カッコで囲んだ箇所には「普言擁護国土佐諸国王消災却敵莫不由之」とかかれて居るのも摩訶不思議にて、尚且つ「百済国の星使日羅将来する所なり」とも記されており、我が山の妙見大士神像は毘首竭摩天の彫刻するところにて百済から来た様ですね!・・驚きました。

  • [21]
  • Re: 太田城発掘調査

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月12日(金)03時35分13秒
 
今城さんの解釈は概ね当を得ていると思います。
土居はそもそも住居や屋敷を意味するだけの単語ですから、土居の地名や家名は全国に見られます。
UPの地図は以前披露して頂いたものですね。
注釈に勝手に付け加えますと・・・・


注1 図の「日野城」はまたの名を「日野々城」と言う。
「伊予の古城跡」によると、この城とは別に「日野城」と「日野川城」があったことが記されているが、
「愛媛県中世城館跡」には、その2つとも所在地不明となっている。

●この図の日野城は日野城ですね、たぶん日野川城と同じなのかも知れません。
 大野家関係文書(大野家四十八名次第、熊大夜城由来記、予陽大野軍談、大野家聞書、大野系図(宗家・分家10家分)の

「小田日野川の日野城、城主 日野肥後守孫六郎勝友」とほぼ共通します。
 日野川」が地名からか名前からかはわかりません。
 日野川が流れているので場所は地図と同じでしょう。

注2 「太田城」はまたの名を「亭城」、「土居城」という。

●この城は大野家の太田に於ける旧本城と思われます。
 「長禄年間の土州出雲入道の小田への侵攻時の太田・日野・林・安持の四家の要請により大田に入り、
 京の土岐成頼の推挙で土居城再興とある」城と思われます。再興以前は大田氏が管理していたのかも知れません。
 もっとも大田氏に管理させていたのは大野通繁の伯父の冨永氏と思われます。
 土居城再興は寛正三年(1462)とされますからそれ以前から城はあったと思われます。

注3 「本川城」は「土居城」とも呼ばれた。

●本川城が土居城と呼ばれたのは土居下野守通匡(方玄)が居城していた時代と思われます。
 ただし、居住用の屋敷は林兼久保にあったのかも知れません。

 もっとも本川には別に、「小田本川 戸井城」「小田中川 戸井城」「大田町村 土井城」「小田庄町村 土居
 城」と古文書により表記が変わりますが城主は大野近江守、尾崎七郎、尾首直安とされ大野一族が時期により
 交替している模様です。

注4 「伊予の古城跡」には寺村に「土居城」があったと記されているが、「愛媛県中世城館跡」には所在
地不明となっている。

●寺村の大野家枝城は赤岩城ですから城主は東筑前守(直勝)と記録されますが付人に安持や東が現れますので
 城代として土居氏が居住していた可能性があります。

大野家関係文書も結構「人事異動」が激しく「後○○城に移る」との記事が多く枝城間の転勤や新砦や、攻略した
敵方の城の城主や城代として家臣は頻繁に移動しています。

よって城の名も時期や書物により地名をつけたり城主名をつけたりで、後世の人間にとっては厄介です。



  • [20]
  • Re: 太田城発掘調査

  • 投稿者:今城
  • 投稿日:2011年 8月11日(木)17時09分30秒
 
>>19

 naokoさん、素晴らしい写真を有難うございます。太田城向いの土居城(本川城)は、土居氏の一族の方に連れて行って頂いたことがありますので、懐かしく拝見しました。

 私は写真の小田町の峡谷を勝手に小田峡谷と呼んでおりますが、提供して頂いた写真はその様子が実に良く判ります。太田城の前を流れる小田川を遡っていきますと峡谷はどん詰まりとなります。そこを登った所がほうじが峠、そこを向こう側に降り大川川沿いに下って行きますと、土居下野守方玄のご子孫の大川土居家に至ります。

 小田町には土居城と呼ばれた城が複数存在します。どうやらその城の正式名称ではなく、土居氏が居る城という意味のようで、土居氏が入っていた時土居城とよばれていたのではないかと見ております。土居城と呼ばれた城は、本川城、太田城、そのほかに寺村にもあったようですが、場所は不明とのことです。

 ご参考:「小田川沿いの城郭マップ

  • [19]
  • 太田城発掘調査

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年 8月 9日(火)17時54分49秒
 
呑舟様へのお返事です。
大野寿慶書状の解説とご感想、有難うございました。
書状の後半部分はいつの時代のことをいっているのか不明ですね。

さて、分家の4人のお話がありましたので、かつての太田土居城の空撮写真とイラストで周辺の支城との位置関係を見ていただきたいと思います。
①小田川筋を遮るように張り出した小山が発掘調査前の太田城跡で、現在は総合運動場に様変わりしています。
 川の上流、耕作地が途切れる辺りが上川地区。そこへ至る行程3分の1くらいに廣瀬神社(妙見宮)、さらに奥へ2kmほど行くと三嶋神社と中川城跡があります。
 太田城の左岸上方に開けたところがありますが、その最も手前辺りが土居下野守の居城、土居城跡だそうです。

②イラストは、太田城から西(写真と逆方向)を望む風景。
 約2km先に赤岩城(東越前守居城)、さらに6km先に立石城(大野加賀守直義居城)という説明です。



  • [18]
  • Re: (無題)

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月 9日(火)05時45分27秒
 
貴重な資料の提供ありがとう御座います。
表紙の大野家家紋の出所はなんでしょうね?
何かに染め抜いた感じですが?
誰の所有物で何時ごろのものかが気になすますね。

「大洲随筆」の大野壽慶の大野家家紋の説明文を併せて載せてますが何か変ですね?
大野壽慶は俗名大野直氏で父は大野直勝とされますね。この系統は一之木にいたので一之木姓も名乗りますし
大野本城が土居城であった時代は直勝は東姓ですね。上川村系図は直昌の弟直勝と載せ笹が峠の合戦で討死とします。
笹が峠合戦の討死者名簿では直昌弟東筑前守(直勝)と載せます。
居城は赤岩城(小田町寺村・小田高校川向いに在った)とされます。

されど「予陽大野軍談」は東家初代を太田寺村赤岩城主東筑前守直房としますので大野利直の弟と思われます
。次代の直勝も東筑前守を名乗りますから笹が峠討死はこちらでしょう。
「伊予温故録」は直勝を東筑前守とし子を長男を内蔵大夫とし次男を出家の壽慶と書きますが、大野系図や大野
軍談とは合致しません。(伊予温故録らしい記述です)東・大野家は天正15年本川村に蟄居し後本川村の庄屋となります。
これらの経緯を踏まえてこの説明文を読むに・・・・。

①大野家は木瓜を下に二引両を上(表紙の写真カ)右四人衆はその逆と説明します。
 事実なら慶長13年時代にはこのような風習があったことになりますね。

②このような紋の使い分けは江戸期に始まったと思っていましたが戦国期には定着していたのかも知れません。
 久万町誌編纂に拘わり、現在も大除城の地主の一人である松山の大野憲氏は「二引きが上の紋は大野宗家が
 使用し分家は二引きが下」と説明してくれました。

③であるなら宗家大野直昌没後、本来の嫡男直載は宇都宮章子が男子出生により廃嫡となり大坂の陣で討ち死に
 しますし、嫡男(章子の子)は商人となり大坂天野屋を継ぎますから大野宗家は四国からはいなくなります。
 よって壽慶の説明文の大野家宗家紋を使える家は無いはずです。
 無理に使用したとすれば直昌子孫を唱える上川村大野家(大野家正等譜図所蔵家)でしょう。
 上川村大野家初代は直昌の「庶子」直清とされますから本来宗家には成り得ません。

④分家の四人とは東家・尾首家・尾崎家・城戸家と思われますが今窪家はイマイチわかりません。
 これら四人は大野家本城(大夜家=河野家譜は大除と書く・移動の前)太田土居城の支城で
 土居城の
 東に居るを東殿
 尾首に居るを尾首殿
 尾崎に居るを尾崎殿
 城戸に居るを城戸殿と申し本城大野殿の一族(大野)也
とされます。すべて地名と思われます。

⑤壽慶の混乱(または新事実?)は
「東兵部少輔介(直房カ?)、大野紀伊守(利直カ?)の名代(トシテ)□ □3年上京して小林大膳と申す者、公方(天皇のつもりか?将軍のつもりか不明)の御前にて討取り候時・・・」
とありますが時期的には利直は天文か天正であるから公方の意味がわからない。
また小林大膳討ち取りは、はるか昔、室町時代建武のころ宮中宿直の時、泥棒の小林大膳を討ち取ったから
「木瓜二引紋」を頂戴したとあります(大洲大野系譜)この話は「上川村大野系譜」になると宮中の鬼退治の
ご褒美紋と脚色されます。されどこの時はどちらも、二引きは下です。
大洲大野の話も上川村大野の紋の由緒話も後世の脚色でしょう。

大野の遠祖大伴家の家紋に二引きを加えたのは同じく同族「三河冨永系図」に載る
『建武三年三月二日、冨永直郷の弟、資直は(足利)尊氏に従い、九州南朝方菊池氏と戦った多々良浜の
 合戦で戦功を挙げ尊氏から足利紋の二引両を賜り、大伴木瓜に併せ「木瓜二引紋」と改紋する』
が史実に近いのでしょう。

表紙紋は二引きを木瓜紋で押さえつけてます。原則このような紋は本来発生しないはずです。
なお、現在多くの大野家に伝わる家紋は「堅木瓜二引両紋」です。
木瓜紋が少し痩せています。


小田町教育委員会はこのような経緯を判った上で表紙紋と壽慶の説明文を載せたのでしょうか?

  • [17]
  • Re: 地元の史料~感謝

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 8月 8日(月)22時01分10秒
 
庵主も嘗て、30歳過ぎに~山里深き・小田之郷の某氏と深いご縁が有り~大きな人生の分岐点(分かれ道)を記憶しております。
貴重な地元の史料の文章の中にも、諸所気に留める文面あり。感謝 南無

  • [16]
  • (無題)

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年 8月 8日(月)15時57分41秒
 
小田の左馬充様へご報告です。
太田城発掘調査報告書が図書館より手元に届きました。
表紙とその説明文を紹介します。


  • [15]
  • 彦根藩井伊家家臣 大野清兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 8月 5日(金)17時47分36秒
 
秀吉の四国征伐は伊予の河野を始め家臣団や隣の西園寺、宇都宮家、長我部家の
主従を離散に追い込んだ。

河野家家老大野直昌の弟、直光の孫が大坂の陣の砌、井伊家家臣松居清勝を介し
井伊直孝に召抱えられるとの記録を発見した。

この記録は彦根井伊家に伝わる家臣の「人事記録簿」である『侍中由緒帳』で
あるから史実そのものである。

他藩に見られる臣下の序列と家格を整理するための申告による由緒帳ではなく
歴代井伊家人事部の記録簿である。よって正確に給与明細の増減とその理由、
先代の引退承認日と家督相続承認日、奉仕期間の懲罰の事実、並びに貸与の
社宅の所在地まで克明に記録されている。
人を殺したから減給、遅刻を繰り返したから閉門、公式戦で敵を殺したから
今度は加増と記録が生々しい。
今で言う究極の個人情報であるから子孫はたまらない。
ちなみに廃藩まで存続しているので子孫は現存しているに違いない。

初代から順に述べると

初代 大野利盛(直盛)井伊家通字直をはばかり「利」に改名
二代 大野一利
三代 大野義利
四代 大野義孟
五代 大野一至
六代 大野一虎
七代 大野一載 (伊予の親族と書簡のやり取りあり)
八代 大野義雄
九代 大野義房
十代 大野義一 幕末、明治維新を迎え廃藩となる。

間接的に上川村の大野直尚も大坂天野屋(大野)を通じて彦根大野家の情報も
江戸中期に得ている。
遠くへ行っていても一族の交信は続けられていたようである。
大野直尚は屋代島(現山口県周防大島町)の親族大野を江戸中期に訪問している。
彦根藩大野は土州大野とも交信している。

伊予以外の大野を調べる方が正確で早いようである。

河野氏もしかりかも・・・・。

  • [14]
  • さすが!~実に興味をそそられる之感也

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 7月25日(月)22時03分37秒
 
先般~四国遊行の旅に挑戦しました(讃岐国~阿波国~土佐国~伊予之国)
2日にわたる強行軍でした。
その間に、数々の歴史談義の機会の会合に参席して、土佐は江戸時代~伊予は古代~阿波は中世の遺跡(鎌倉時代の石塔)を山腹に見上げながら~先祖の菩提を弔う土佐の西南部の地を訪れて~この度の本願成就を成し遂げて穏やかな心持を味わっております。
この話題は、地元に残されている古き時代の面影を~恰も童歌の如く「先祖の命の存在を子孫に伝える仏心の智しかと」南無

  • [13]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月25日(月)13時18分4秒
 
>  ⑥微笑ましいのは「猪子祭り」の言及です。
>   「いのこ祭り」は子供のしかも男児のみの祭りで本来は元服前の男児のみに参加資格があったものと
>   思われます。たぶん七五三が終った、七歳から十三歳の青年【少年?】が対象でしょう。
>  この祭りは現在でも瀬戸内海沿岸のすべての地方に現存します。
>  だいたい「いのこ歌」と言う囃子歌を子供達が唄いながら、各家を練り歩き「おひねり」を頂戴し
>  後で、いのこの責任者の子供大将からおひねり分配が行われるのは楽しみです。
>  これは大将とともに合戦し勝てば褒美(領土)が貰えることへの子供への教育の一環だったと思われます。

●いのこ唄について内子町からお便りがありました。

『大黒様のことを唄った亥の子歌は県内全域で唄われて
います。
一般的なのは「大黒さんというひとは」という唄です。

祝いましょう 祝いましょう
大黒さんという人は
一に俵をふんまえて
二でにっこりわろて
三で酒を造って
四つ世の中ええように
五ついつものごとくなり
六つ無病息災に
七つ何事もないように
八つ屋敷をひろめたて
九つ小屋を建て並べ
十でとうとう治めた
ふ~んえ~

※地域によって多少違うようです。』

これに対し河野家滅亡にともなうことと思われる伊予移住者の多い周防では

「祝い込んだ~、祝い込んだ~!

(前詞の後、)

大黒様の仰せには、
一から生~まれて、
二でにっこりわ~ろて
三で酒を造く~て
四つ世の中 良いよ~うに
五ついつもの如~とくに
六つ無病息災に~
七つ何事無いよ~うに
八つ屋敷を広めたて
九つ此処へ蔵をたて
十でとうとう大繁盛~!

 繁昌せ~!繁昌せ~!

おひねりが少ないと嫌がらせに「貧乏せ~!貧乏せ~!」
と悪態ついて引揚げます。
これは所謂貧困家庭ではなく、地元で金持ちとされている家が
しみったれている場合に行われます。
なお、その年に子供が生まれた家は事前に祝いの短冊竹を届け
いのこ歌は正調(一番詞が長い歌)を二番唄います。
家主は該当の赤ちゃんを抱いて迎えます。

もちろん当時の相場のおひねりが一軒30円~50円でこのような家は
祝儀袋に千円以上を入れてくれますので子供たちはとくに気合を
入れて大声を張り上げていのこ石を力一杯打ちつけます。

いのこ石とは昔の地盤固めの丸い石を八方から藁の引き綱で
全員で庭に打ち込み半円の穴を空けます。

このくぼみは神様のくぼみですから以後 足を踏み込んではいけません。

いのこ石の頂上にはコイン(一番金額の高い金)をいれそれを米糊で
錦の御幣で覆います。

一軒一軒、いのこ石をいのこ歌をうたいながらついて歩きますから
どこかでこの御幣は外れ落ちます。
この落ちた御幣はその家に与えられ、その家は向う一年幸せがくると
されますので各家はこの御幣を欲しがります。
よって途中からその家の大人が加わり必死に打ちつけますが
だいたい、大黒さまは笑ってとりあいません。

今はもう子供が少ないので猪子石が上がらない部落(地区)ばかりです。
猪子石は神様と同じですので次年度の当番屋(当屋)の床の間に座布団を敷いて鎮座された
ままです。
少子高齢化は寂しい限りです。

  • [12]
  • Re: なぜ妙見宮か?

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)20時50分53秒
 
色々訪ねて見ました!~驚きの一言ですね!・・妙見菩薩信仰の中国~四国地方には数知れず、其の縁起の神社の多きことかな!!!!!!!。南無


  • [11]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)20時28分47秒
 
広瀬神社(妙見宮)の鳥居が気になります。
木造の「両部鳥居」と呼ばれるもののようですが、安芸の宮島の大鳥居と作りが同じです。
多くの神社に見られる石造りではないのが安芸の熊谷家の伝承かなとも思えます。
しかし、近くの三島神社も同様な木造ではなかったでしょうか?
もしそうなら、時代の変遷を示すものかも知れません。

石造りは技術的には相当後の時代だからです。

  • [10]
  • Re: 大洲祇園神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)18時42分48秒
 
> 参拝したのは、7月17日(日)ちょうど京都祇園祭のクライマックス山鉾巡行の日でした。こちらの祇園神社は人気がなく、聞こえるのは蝉の声ばかり。

●お疲れさまでした。
 本社京都八坂神社の祭礼である祗園祭りの日は静寂でしたか。
 もっとも京都の祗園祭りは京の都の悪霊退治が主目的で始められたとされますので
 全国の末社にはこの日に祭礼をさせる必要はないのかも知れませんね。

 大洲八多喜の祗園神社は紛れもなく、大伴遠祖「高皇産霊尊」から数えて三十二代目で四国大伴初代の
 大伴吉良喜夫妻が祭られていますね。もちろん大伴吉良喜は大野家遠祖です。

 大野系図は「吉良喜」の条に

『 ・豫州喜多郡大領宇津大舘
・母 藤原氏女 伊勢守
・於干鎮西叛逆 朱雀帝勅征之以四国中国兵
 吉良喜有殊勛賜之以赤地錦直垂誅伐彼黨
 大平春田而西州静謐矣因見授國司移干
 本州喜多郡時當天慶二己庚年 牛頭天皇
 奉齋所粟津郷八多喜村初入時朝餉備進之
 所也 平郷徳森村社者市川村 若宮村
 田ノ口村 出石山一見乗輿立所也 川邊郷
 菅田村社者菅田町一見乗輿所也 同郷
 宇津村社者奉葬所也 己上四社葢牛頭天皇
 之尊號者素舝鳴尊社號也
 吉良喜之武威以於素尊全徳而奉號者也』

 と記します。

 所謂、予州大野家発祥の地となります。
 近くに「ホノギ」の大野がある筈です。
 愛媛県の郷土史家はこのホノギ大野を見つけていません。

 予州大野家末裔の一人で毛利家に仕官した大野は藩に提出した「由緒書」【萩藩譜禄】には
 大津大野より起こると地名を残しています。
 愛媛県史はまだ認めてくれません。探査能力が低いのかも知れません。

 まだまだなにか回り歴史証拠が放置されていて、単純に我々が気がついていないのかもしれません。

 大洲祗園神社は戦前は参拝者が多く、祭礼の日は国鉄は臨時電車を仕立てて最寄駅の八多喜へ
 運行までしたとされます。

 大国主尊も祭られていますから「いのこ祭り」も盛んでしょうね。


  • [9]
  • Re: なぜ妙見宮か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)17時57分25秒
 
>>6
> 戦禍の後のお礼建立になぜ妙見宮(妙見菩薩)か?よくわからない。
> 大伴のお社であれば「祇園社」であるべきである。越智一族が大山祇神に拘るのと同様である。
> さりながら妙見宮と名を付けておいて、氏神は大伴遠祖の祭神である。
> 伝承によると、武州熊谷家は妙見様を信仰していたようである。
> どうも武州熊谷家の流れを組む養子と大伴姓大野家の折衷案のようでもある。
> 細かく調べないと断定はできないが。

●ネットで調べてみると近くに八坂神社がありましたね。
 「京の森」と呼ばれる地区にあるようです。
 やはり大伴勢が内子地区に勢力を拡大し直義の時代は内子を含む小田が大野家勢力の中心地とも考えられます。
 久万山に移るのはやはり未だ後の時代のようですね。
 詳しく調べないと判りませんが内子の大野(大伴)系末裔は家紋はまだ、大伴家紋の「木瓜紋」のようで
 「二引き」はない紋のようです。やはり「二引紋」(足利紋)は足利尊氏からの拝領との伝承と合致してきますね。

  • [8]
  • 大洲祇園神社その2

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)13時11分38秒
 
失礼して社殿の中を撮影させていただきました。正面奥にご神体、格子中央の上には天狗が睨みをきかしています。

  • [7]
  • 大洲祇園神社

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)13時08分50秒
 
参拝したのは、7月17日(日)ちょうど京都祇園祭のクライマックス山鉾巡行の日でした。こちらの祇園神社は人気がなく、聞こえるのは蝉の声ばかり。

  • [6]
  • なぜ妙見宮か?

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月21日(木)00時39分13秒
 
戦禍の後のお礼建立になぜ妙見宮(妙見菩薩)か?よくわからない。
大伴のお社であれば「祇園社」であるべきである。越智一族が大山祇神に拘るのと同様である。
さりながら妙見宮と名を付けておいて、氏神は大伴遠祖の祭神である。
伝承によると、武州熊谷家は妙見様を信仰していたようである。
どうも武州熊谷家の流れを組む養子と大伴姓大野家の折衷案のようでもある。
細かく調べないと断定はできないが。

  • [5]
  • Re: 讃岐の国・瀬戸内海・仁尾の里にも、妙見の宮あり

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月20日(水)18時07分29秒
 
> ぜひ、ご参考までに一度、訪ねてみてください。(PCでもサイトあり)

●ご案内有難う御座います。
 たづねてみましょう。

  • [4]
  • 讃岐の国・瀬戸内海・仁尾の里にも、妙見の宮あり

  • 投稿者:海遊庵主
  • 投稿日:2011年 7月20日(水)13時14分47秒
 
流石、奥の細道に奥深く想いを派せねばたどり着く事~難儀な感也。
身近に過去の記憶を思い出しながら、讃岐の国にも古くから妙見神社信仰があったかに聞き覚えあり。
ぜひ、ご参考までに一度、訪ねてみてください。(PCでもサイトあり)

  • [3]
  • Re: 廣瀬神社

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2011年 7月19日(火)21時16分16秒
 
naokoさんへのお返事です。

> 廣瀬神社の社史によると、妙見宮と称して後は、大田家累代の祈願社18社のうちの1社とあります。大野系図と照らすと「成義の志願によって直義が建長二年(1250)に勧請」という記述に合致します。大野ヶ原において土佐勢と合戦というのは、この時代のことではなく後世のものと混同しているようですが、呑舟様、某左馬充様のご意見をお聞きしたいと思います。

●取材旅行ご苦労様でした。
 やはり現地には混在ながらも動かぬ史料そのものが残っているものですね。
 神社由緒が一部ハレーションを起こしていて一部はっきりしませんが感想をのべますと、

 ①祭神三神は予州大野家遠祖の大伴家のその祖神たちとされる祭神です。
  大野系図は確かに
  ・建長二(1250)庚戊年 成義因志願
 太田本川村惣達妙見宮
  との記述がありますから父大野成義の願いを子(養子)の直義が成就させ現広瀬神社(当時は妙見宮)を
 建立したものと思われます。
 これは当時のこの地域の動乱の収まるを待って建立したものと思われ、父成義の代には静謐(平和)は
 訪れていなかったものと思われます。

 建立した直義は系図にある通り宇都宮熊谷家の分家、安芸熊谷家からの養子とされ、本姓の大伴姓を継ぐとされ
 家紋を熊谷家家紋の鳩穂屋紋から大伴姓大野家家紋の木瓜紋を引き継ぎます。
 さりながら通字は熊谷家通字の「直」としますので現代の後裔たちの大半が知ってか識らずか「直」を踏襲します。

 ②宝物の大矢(平能登守教□献上)は成義の室(平姓の女)が嫁入道具の一つとして持ち込んだものが直義の
 代に広瀬神社に奉納されたとも考えられます。

 ③大田家累代とは後の大野家もしくは冨永家をさす総称と思われます。
  紀州熊野神社に残る「米良文書」には大田(オダ)の大野殿と信徒名が書かれています。
  大田殿や土居殿、冨永殿と古文書に出てくるのは皆小田郷の大野一族です。
  もっとも宗家は冨永(富永ではなく冨永(首ナシ)と私は思っていますが。

 ④大野ケ原の合戦は後世の天正年間の長曾我部元親との合戦との混乱かとのお話ですが
  社史の作者も混乱しているようですが、これは大野直尚が云う柳井川村の「笹が峠合戦」が誤伝され
  大野ケ原の合戦に転化した可能性があります。柳井川村は予土との国境で当時土佐勢と領地争いをしていて
  勝利の記念として広瀬神社(妙見宮)を建立したことが考えられます。

  この伝承が江戸中期に於て上川村の大野直尚により天正の「笹ガ峠(大野ケ原)の合戦」と混同され
  天正期の笹ケ峠の合戦は無かったと結論づけられ、愛媛県誌はそれを採用します。
  大野直尚の否定の根拠は「笹が峠」は柳井川村であり今の大野ケ原ではないとのことですが、
  小田から大野ケ原(一丁原・一朝原)に入る手前の峠が笹ケ峠であったことを認識していません。

 ⑤広瀬神社のお祭りは社史によると十月十五日とされますが大洲大野系譜は八月十五日と記しますので
  どちらかが間違えているか、旧暦と新暦で調整したか細かいことながら気になります。

 ⑥微笑ましいのは「猪子祭り」の言及です。
  「いのこ祭り」は子供のしかも男児のみの祭りで本来は元服前の男児のみに参加資格があったものと
  思われます。たぶん七五三が終った、七歳から十三歳の青年【少年?】が対象でしょう。
 この祭りは現在でも瀬戸内海沿岸のすべての地方に現存します。
 だいたい「いのこ歌」と言う囃子歌を子供達が唄いながら、各家を練り歩き「おひねり」を頂戴し
 後で、いのこの責任者の子供大将からおひねり分配が行われるのは楽しみです。
 これは大将とともに合戦し勝てば褒美(領土)が貰えることへの子供への教育の一環だったと思われます。
 いのこ祭りはだいたい十月の猪子の日にしますから田舎の各地域一斉に行います。
 ある地方では実際に子供合戦が行われます。
 他のいのこ本部への襲撃を夜中に行います。相手の旗頭である短冊竹を奪った方が勝ちですから、双方とも
 旗を取れれまいと旗頭の根元に凶暴な犬をつないで待ち伏せします。
 よってこれらの合戦に参加するのはかっては中学生達で小学生は参加しません。
 (小学生たちは別に「肝試し」と称し近くの墓場に一人づつ予め置いてある品物を取りに行かされたりします。)
 怪我をするのは当たり前で当屋とよばれる相手の本部に石を平気で投げつけますから、窓や障子や襖はボロボロ
 になりますが、なぜか長老達はやんやの喝采を送ります。
 みんなかって通ってきた道だからです。
 目くじら立てて怒っているのは女共です。

 いまは子供が少なくこんな光景は見れなくなりましたが。

 広瀬神社はいのこ餅をつくそうですね。
 大洲は子供達がなにかで地面を叩いてあるきますね。
 山陽地方は猪子石を各戸衝いてあるくようです。

 ⑦尚、余談ながら建長二年(1250)は河野通有がオギャーと生まれた年です。



  • [2]
  • 廣瀬神社

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年 7月19日(火)18時57分10秒
 
廣瀬神社の社史によると、妙見宮と称して後は、大田家累代の祈願社18社のうちの1社とあります。大野系図と照らすと「成義の志願によって直義が建長二年(1250)に勧請」という記述に合致します。大野ヶ原において土佐勢と合戦というのは、この時代のことではなく後世のものと混同しているようですが、呑舟様、某左馬充様のご意見をお聞きしたいと思います。

  • [1]
  • 取材旅行

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2011年 7月19日(火)18時53分31秒
 
先日、伊予内子町へ御仁を訪ねた折に、りっぱなお社に出会いました。
ひとつは、三嶋神社。伝に曰く、和銅5年(712)勧請したのは越智宿禰玉興、玉純とありました。写真はありませんが、UPの廣瀬神社と同程度の規模の神社です。

一方廣瀬神社は、三嶋神社より1.5kmほど西に位置しています。
訪ねた御仁のお宅からは、「ほうじが峠」のある山が眼前に見えます。

山の中腹には「世善桜」という、直昌の祖父朝直が植えたとされる桜があるそうです。
推定すると樹齢500余年になります。満開の頃の写真を拝見したのですが、太い幹には烏帽子をかぶった人物がくっきりと正面向いて立っている・・・ように見えました。(幹の陰影のせいかもしれませんが・・・)
来年の春には再び訪れたいと思っています。

現地へ行かねば見えてこないもの、地元の人しか知らない話が沢山あります。
私は別の作業をしながらでしたので、お話をゆっくり聞くことができなくて残念でした。
私を歓待してくださった氏子総代の御仁、その友人で某左馬充様(失礼ながらハンドルネームを正確に覚えていません)この場を借りて厚く御礼申し上げます。
私の記事で間違いがありましたら訂正をしてください。
また、桜のこと、廣瀬神社のこと、大野ヶ原や柳井川における現地調査の情報を「喫茶室」にてご披露いただきたく、お願い致します。



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