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  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 2月23日(木)18時17分2秒
 
●ご返答有り難うございます。
 霧の彼方になんとか山の端が見えそうな感じですね。

福岡市大名町(現在、中央区大名2丁目)から何度か転居しましたので、その後系図を含め資料がどうなったかは分かりません。

●残念ですね、その後大野家の方達との交流は全くないのでしょうか?
 金竜寺の副住職によると風の噂では佐賀県の方に引っ越して近年音沙汰ないとのことでしたが?
 (尚、個人名が特定できる直近の人物の名はUPされなくてもNET上は結構です。私信で御願いします)

> > ③村上直吉が通康の子とする記述がありますでしょうか?
> 「大野忠右衛門展」の寿像の板書に「通康五代之末葉大野忠右衛門」と貞勝本人が書いていますので、通康、直吉、吉乗、吉勝、貞勝となります。ですから、直吉は通康の子になります。

●これがよく分りません。江戸中期に大野貞勝自身が書いているなら混乱かも知れません。
 所謂、来島(村上)出雲守通康ではなく単に村上家末裔に当時大名家だった久留島家先祖を借用した
 可能性があります。
 通康の後裔と言わず村上家末裔とするなら正しいので来島系の吉清(通清)からはクレームは
 つかないと思えます。吉清はすぐ黒田藩を去って紀州徳川家へ行ったと記憶します。

 一応村上系図は村上左馬右衛門については来島村上系ではなく能島村上系と系図線がなっています。
 「萩藩閥閲録」村上図書家系図(能島村上武吉系)及び「宮窪町史資料編の北畠(村上)正統系図」
 も同一な系図線です。(もっとも両系図は同根ですが)
 曰く
  (村上義統 右衛門尉 河内守→義任 和泉守・伯耆守→吉枝 但馬守→某  村上又右衛門
 →某  村上又兵衛(大野隆直付添家司)寛永二年黒田筑前守ニ奉公 村上左馬右衛門ト云、知行五百石ニ有付
  其後立身千五百石之分限也)

 と記します。
> > ④直吉の長男、勘右衛門直生、二男、九大夫氏重のその後はなにか書かれていませんか?
> 系図のことはわかりませんが、二人とも関ヶ原のとき、大友義統と戦い、感状を得て、黒崎で代官となったとインターネットの記事にありました。直吉の息子3人とも黒崎に墓が有るのではないでしょうか。福岡市の貝塚駅の近くに休也橋という橋があります。直吉の次男の久弥(久太夫)氏重と関係があるのかも知れません。

●この三兄弟については「東京大学史料編纂所]

越智姓
大野左馬右衛門 直吉
本領ハナシ 浪人 安国寺ニ腹従ス
本姓村上氏大野跡ヲツグ
家紋(折敷波三文字)

               永禄ノ比(1558~1570) 病死

大野勘右衛門 直生
 豊州中津ニ住ス

同九太夫 氏重
 安国寺東福寺住山ノ時隠遁シ休也ト号ス
 豊州中津ニ住ス

同三郎左衛門 吉乗
 今筑前ニ住居
 慶長五年関ケ原ノ陣ノ時黒田如水公ニ組シ
 大友義統ト合戦シ小田原又左エ門ヲ討取
 沓懸村ニヲイテ四百七石賜フ
 翌年長政公感状アリ采地五百石
 深江七右エ門組打ニシ首ヲトル
 翌年采地七百石
とあります。「筑前大野文書」と合致します。

私は「豊州中津ニ住ス」が気になっています。

ご承知のように豊州中津は黒田勘兵衛(如水)が初めて領地を貰ったところです。
この時、大野隆直以下直吉や三人の子供は中津(現・福岡県行橋市今元)あたりに居を構えたのでは
ないかと思っています。近くには村上家ゆかりの寺も現存します(ただしこの時代のものではなく相当
古くからありますから、以前からこの辺りを含め村上水軍の影響が及んでいた土地と思われます)
> > ⑤大野隆直の卒年と葬った寺は分りませんか?
> 分かりませんが、黒崎に有るのではないでしょうか。

●わかりませんか?!系図か過去帳を探すしかなさそうですね?

 大野三兄弟は慶長五年の「石垣原の戦い」で武功を現し、上司の井上周防守が慶長八年
 黒崎城を築城を開始した時から黒崎に移動したものと思われます。
 黒崎の古地図によると新開地の黒崎では、今の黒崎駅の近くで黒崎城の麓の「浄蓮寺」しか
 見当たりませんので、通常であればここが大野隆直と直吉等の菩提寺ではないかと想定しています。
 墓や過去帳が残っていればよいのですが・・・・・。

遊水のことだと思います。昌次郎の父(私の曾祖父)は明治になって未来と名乗りました。

●と言うことは昌次郎さんは大野貞正さんの子供ですか?

●参考までに直吉の養父とされる大野直秀(隆直)の条を「屋代島大野家譜」よりUPしましょう。

 隆直 (直秀) (1530~1595)
・備前介  左近大輔  久万王
・一ニ直秀トモ云フ
・流浪後傳兵衛ト称ス (加筆)
・妻ハ曽根信孝娘 後妻大友氏ノ娘 輝元公ノ
 妾竹ノ丸殿 牧村九左衛門母十三人兄弟也
・天文十一年(1542)大内従二位義隆卿
 依裁許受領ス應大内ノ命軍功有リ
・受領證文天文十一(1542)七月廿ニ日ナリ
 小湊後語守ノ書翰有之
・此時迄久万小田ノ地古給六千貫ヲ領ス
・伊豫久万山ノ城ニ住ス
・法名一露上珍居士藝□文禄四年(1595)
 己未十月二日歿
一、傳云 永禄年中四国乱逆
大野久万山ハ土佐境故一条家伊予働ニハトカク
取掛ケ毎時戦勝無之候 其頃毛利元就公御
御武勇強御座候 故加勢ヲ頼ム為メ親交秀之時節
一族相談ノ上大野左近太夫嫡子兵庫久万王ト
申十四才ノ霜月ニ藝州ヲ志シ海上ニ而風波強ク
島ニ漂白ノ折柄 野島倹使船出相候
其時代海上一円能島掌握ニ付荼巾ト云丸ノ内ニ
上文字付其長印ヲ船一艘ヘ一本宛用申候 此印
有之ヲバ無碍無此船ヲ糾明ノ時節ニ而左近乗船
右ノ方使無之ニ付及問答候 兎角ハ能島ニ行向候
而可相断トテ父子共ニ能島ヘ参入スノ所能島村上
大和守武吉 掃部頭元吉丁寧ニ饗応有之
数日逼留久万王能島ニテ元服 兵庫助ニ
戌申候 則武吉ノ三女元吉ノ妹ヲ兵庫助ヘ縁結之
所望辞許諾畢 浅野長政御取持ニテ相済候
然レハ大野近代ハ一家ノ内曽祢ト互ニ縁結他姓ヲ
不求時節流筏也 時節右ノ分殊更藝州ニバ指置
能島ニ滞在ノ儀偏ニ一族ヲ離シ悪心ヲ企候トテ
一族蜂起怨成候 左近驚立帰意趣ヲ可理トテ
帰帆ノ所 直重其外出張シテ不近(在)
左近矢文筆談ヲ以一族ニ野心不挟能島ニ而急雖
黙止ニ依而右ノ落着也ト被書在藤看之被書送弥
別心無之候バ帰城迄無之弥毛利方ヘ之親交
御方便候ヘ其内ノ義ハ少モ御気遣無之様ニ篭城可
仕ト有之故左近又能島ヘ被参候兎角ノ間月日
押移本国大乱ニ相成此時ヨリ久万城弟
甚内山城守居住ナリ
一、左近能島ヘ滞在ノ留守ニ天正元年酉弟直之
敵方ヘ内通シ左近弟直昌ハ不足ヲ云立不和成リ
土佐エ欠込ミ仝ニ年八月元親ヨリ大野ヘ使者ヲ
偽リ和解ヲ為ス 同二年閏八月廿五日両方
伊予土佐境笹ケ峠ニテ出合ノ約束ニ成 双方
五十丁ヲ隔テ互ニ礼儀ノ使者アリ
其時元親方ヨリ急ニ伏兵起ル戦争ニ及ヒ
味方歴々ノ侍大将惣頭七十余人討死
及ヒ味方歴々ノ侍大将惣数七十余人討死
此ヨリ大野家モ大ニ落弱ス
一、左近能島ニ滞留上下百八十人程ナリ 大友家
黒田家懇切ニテ方々遊旅ノ内筑前黒崎ニテ
病死ス 此時付添家司大野左馬右衛門
本姓ハ村上氏ナリ大野ノ名跡ヲ継テ大野領ヲ受ル
黒田家ヨリ五百石給ル所々ニ戦功アリ
子孫彼地ニ住ス左馬右衛門長男大野勘右衛門
直主次男久太夫氏重三男三郎左衛門吉乗トアリ





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