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  • Re: 赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 3月 7日(水)05時41分26秒
 
ようやく赤穂市市史編纂係より返答が来ました。
ご丁寧に質問事項をワープロできちんと整理され、関連資料まで
添付して頂き自宅に郵送して下さいました。

結論的には「出自は資料がなく全く分らない」とのことでした。
逆に何か分ったら教えて下さいとのことでした。

資料等については公表されている物ばかりなので新しい発見はありませんでした。

逆説的に言えば、新発見すればこちらが正しくなることも考えられます。

赤穂藩家老大野九郎兵衛は家紋として「抱茗荷」としていますが厳密には抱茗荷ではなく
よく間違えられる豊後大友家の家紋と思われます。

とすれば、赤穂藩家老大野九郎兵衛知房が伊豫大野家末裔とするならば、大友家と友好関係にあり
且つ、天正13年に秀吉軍の四国侵攻時に家族の一部を大友家に避難させた大津城主大野直之の縁者
と見るのが妥当と思われます。この時、なんらかの事由で大友家家紋を頂戴したとすれば辻褄は
合います。

赤穂市の資料においても突然現れて、貧乏な赤穂藩を塩田開発を推し進め裕福な藩にした
有能なテクノクラートです。開発するための資金が無いため彼は赤穂藩で始めて藩札を発行して
資金調達に成功します。今様で言えば、株式の発行か、国の国債発行の資金調達に似ています。
「殿中松の廊下」事件が無ければ平和な生涯であったでしょう。

面白いことに福岡藩大野家を探索していますが、同様な経営手法が大野忠右衛門貞勝が行なっています。
福岡県史によると、彼は元禄十六年糟屋郡奈多浜(福岡市東区)塩田開発を成功させ、同年、資金調達の
ための藩札発行に関与しています。

大野九郎兵衛知房と大野忠右衛門貞勝は同年代の人物であるので、双方伊豫出身の親族と認識していたなら
ば文通しあって、貞勝より知房のほうが先輩であるので塩田開発のノウハウを赤穂から福岡へ伝えていたと
も考えられます。
通常、武士の商法は上手くいかないなのが通例で誰かが教えたと考えるのが普通でしょう。

このあたりの助言は大坂・天野屋利兵衛(大野九郎兵衛直之・直治)がからんでそうだが?

また寛永十年の「黒田騒動」の時、黒田忠之公(長政の次代)は江戸幕府に召喚され、3月6日に
土井大炊頭の屋敷で詰問を受けます。
ここでもまた伊豫大野家子孫、大野直綱の子、直次が土井家家臣であり、この状況を知りえる立場にあります。
黒田藩は一歩間違えば「断絶」になりかねない状況ですので、必死に延命工作をしたことが想像され、
ここでも黒田家大野と土井家大野が接触していてもおかしくありません。

史料によると、伊豫出身の曽我部五右衛門は二千石の高禄で筑前に入国し、黒田忠之の時代に五右衛門の子と
思われる徳蔵(後藤又兵衛婿)が逐電したとあります。
「黒田騒動」に関与したのが原因かもしれません。
小録ながら曽我部家は黒田藩に居ますので灘を逃れた曽我部もいたことになります。



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