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宮尾克彦講演録 「伊豫菅田の大野家」
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月16日(金)22時55分57秒
2月21日、菅田公民館で行なわれた宮尾克彦氏(城郭研究家)の講演録を月初に入手しました。
テーマは「戦国期の菅田地区」であったが、同時期であれば菅田直之こと大野直之
にも言及していた。同氏は講演の中で大野下向時の新説を唱えていた。
大野氏は室町期に三河を経由して伊豫に下向してきたと述べる。
証左として「大野家家紋が三河冨永家の紋と同じであること」と
「熊野「米良(めら)文書」に『おた(小田)の大野殿・・・・』と
旦那の名が書かれていること」によるらしい。
三河冨永や米良文書は史実であるのは間違いないが、下向時を室町期にするには少し短絡的
である。
各「大野系図」は下向時を天慶二年(939)「純友の叛乱鎮圧」のため下向し土着したとする。越智好方とともに鎮圧に加わるとも書く。
これをなんら証左もなく宮尾氏は否定した。
三河の冨永は大伴系図によると大伴安麻呂の弟、、御行流で、大伴国道の時代の、
823年大伴を伴と改め、次代の善男の時、「応天門の変」失脚し、中央政界の座
を藤原氏にとって代わられた家で、三河時代に設楽、と冨永と称するが、同一
人物が両方を使っている。
「木瓜ニ引両紋」の由来は設楽資兼が『多々良浜』の合戦で軍功を挙げたことに
より、足利尊氏から足利二引両を賜り、大伴伝来の「木瓜紋」と合成したとされる。この時の設楽資兼流の後裔(設楽、冨永、大野、伴姓三木氏)等に引き継がれる。
ただ此の時、設楽、冨永、大野一族は必ずしも三河に集中しているわけではない。
全国にバラバラでいるが、連携しあっている。連携した一族が「木瓜ニ引両」を
共有しているが、先日、三河冨永家の子孫に連絡がとれ、家紋を確認したら
「丸に横木瓜」であると答えられ、本来の大伴家家紋を継承し、「二引き」は
附加されていなかった。また設楽家は全くの別紋であった。
よって、設楽氏や冨永氏も同族であるが家紋を全家共有しているわけではなかった。
よって尊氏軍に連携していた伊豫大野家も「木瓜ニ引両」に改紋が正しい
と思われます。
ただし、伊豫大野は御行流ではなく安麻呂の嫡男旅人流と系図は記す。
また、「熊野米良文書」の記述で室町期下向と判断したようであるが、
この文書は鎌倉末期から室町にかけての熊野神社の旦那に関する文書である。
小田の大野として登場し冨永一族であるとしている。
同族の立花(橘)、石原、宇津氏の名も見える。
この文書の東大史料編纂所の現物写本を見ると、年月日は入っていないが、
文書の状況からすると、宝徳二(1450)の津野之高退治の後、報告のため都に
登り、帰路兵庫で死んだ、大野宮内少輔繁直の遺児二人を小田の城に引き取って
養育した、伯父の冨永安芸守時義の時代のものと思われ、
こんな時に大野氏は伊豫下向などしていないことは明白である。
宮尾氏ももう少し調査して講演して頂きたいと考える。
聞いた人間は「ああそうか」と信用し又誤伝が流布していく。
訂正して頂きたいと携帯電話にTELしてみたが、何度かけてもお出にならなかった。
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