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  • [133]
  • 大除城実測図

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月30日(水)10時55分59秒
 
今城師の情報により、現在の大除城の実測探査のこと。
ようやく昨日、久万高原町教育委員会の厚志により実測コピーを送付してもらいました。

七郭まである当時としては大規模な「掻き揚げ」形式の実態でした。
640M付近の空堀から694Mの最高度第一郭までおよそ50Mの急峻な崖が自然の防衛線となった感じです。
通常の侵入路が一本しかないのも堅固さを物語っています。
第一郭(天守台相当)の平地が凡そ180坪相当の平地と見られ、その他の郭平地を含めて1000坪前後
の平地に削った模様である。山をけづり1000坪の平地を造成する手作業は相当な労力を必要した
ものでしょう。

風雲急を告げる天文4年(1535)大除城は大修造を行なったとされます【大野家文書】その場所が
どこであったのかこの実測図では判明しません。石組み等の工法を検証すれば判るかもしれません
今後の研究が待たれます。
同年は【国分寺文書】【仙遊寺文書】によると河野家本城でも「湯付堀」の修造が行なわれ
「二重堀化」し要塞へ強化されたとされるので、当年の伊豫の主要な城は大修造が行なわれたと
思われます。他の拠点城の大普請の記録を並べると誰が何処から伊豫河野家所領に攻め入るかの
想定が伺われると思われます。

なおこの大除城の大改造をもって、河野関係文書は河野家の指示で配下の大野家へ土州境の守り
として城を築かせ、「災いを大いに除く」とし「大除城」と命名したと江戸期の書物あたりに伝承して
いったものと思われます。大除城は大野文書は「熊大代家城」と識別します。

大代家城は河野家の配下ではないはるか昔に築城されています。
「予陽河野家譜」や「予章記」は罪つくりです。



  • [132]
  • Re: 小野宗十郎直徳について

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月 8日(火)14時52分5秒
 
> 年譜は手元にありますので、本日郵送させていただきます。私では気づかない新たな発見があるのではと思います。

●いつもながら有り難うございます。楽しみです。

> 【小野宗十郎直徳】についてですが
> (1764・9 ~ 1831・3・10)
> 土佐名野川郷番頭大庄屋の7代目
> 墓碑銘 『伊予国浮穴郡久万庄大除城主 大野紀伊守利直十二代後胤 68歳』
> とあるようです。ただ、利直を初代とするなら、十一代目になると思いますが・・・。朝直(直家)、利直あたりの混乱なのかもしれません。
>
> 直徳の通信相手は以下の面々です。
> ①大野正寛(松山大野家)
>   伊賀崎城主直泰の子孫で松山候に仕官。文政5年(1822)に直徳と謁見の後、通信
>
> ②大野義雄(彦根藩大野家)
>   直昌の息、利盛の子孫。文政11年(1827)通信
>
> ③天野屋九兵衛直興(大坂)
>   直昌の息、直常の子孫。文政6年(1823)通信
>
> ④大野直壽(伊予小田上川村大野家)
>   直昌の息、直清の後裔で大野(大伴姓)和五郎直尚の孫。
>     直徳は、直壽が当主の時に上川村大野家の系図を転写しています。
>     名野川大野系図には『文政5年直徳通信 右同年初而謁見家系書写ス』とあります。
>
> ⑤紀伊徳川家中の大野(菅田)家と通信していたかは不明ですが、子孫の情報が加筆されています。

●上記の情報で点が線でつながり始めましたね。

 少なくても直徳は親族五家の住所と当主の名を知っていたことになりますから戦国期から200年以上
 経っても付き合いはしていた証拠となりますね。江戸の大野家も屋代島大野家、徳山大野家、
 福岡大野家の消息も知っていたと想像されます。屋代島大野家には大野直尚が直接たづねて行って
 ますから上川村大野直壽から知らされていたと思われます。

 大坂天野屋の直興は私には初見ですが、たぶん 天野屋周蔵の孫でしょうね。
 大坂天野屋探索中ですが勉強になります。大坂天野屋子孫は現存するとされますのでまた一歩
 近付きました。忠臣蔵義商天野屋利兵衛(九郎兵衛直之)は討入りに連座し閉門となるとされますの
 で現天野屋は彼の弟、三郎兵衛が引き継いだものと推定しています。その子孫が直興なのでしょう。

 彦根藩の大野義雄は大野清兵衛一載の養子の義雄でしょうね。

 紀州徳川の大野(菅田)家とも連絡はとっていると思われます。この場合相手は、
 菅田九郎右衛門直次(1796~1837.2/3)病死 か
 菅田源吉直貞(1773~1847.6/28)病死
 と思われます。

 それぞれの書簡の内容がわかればもっと面白いのですが。

 大野正寛はよくわかりません。



  • [131]
  • 小野宗十郎直徳について

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 5月 8日(火)11時36分48秒
 
呑舟様
ご質問が多くて浅学の私にはお答えできないことばかりのようです。
小野(片岡)勝正と豊川良平の年譜は、山内家史料として蔵置されているもので、内容の真偽は一考を要しますが、一次史料と言ってよいものと思います。呑舟様の探究心にはいつもながらハッとさせられることばかりです。
年譜は手元にありますので、本日郵送させていただきます。私では気づかない新たな発見があるのではと思います。

【小野宗十郎直徳】についてですが
(1764・9 ~ 1831・3・10)
土佐名野川郷番頭大庄屋の7代目
墓碑銘 『伊予国浮穴郡久万庄大除城主 大野紀伊守利直十二代後胤 68歳』
とあるようです。ただ、利直を初代とするなら、十一代目になると思いますが・・・。朝直(直家)、利直あたりの混乱なのかもしれません。

直徳の通信相手は以下の面々です。
①大野正寛(松山大野家)
  伊賀崎城主直泰の子孫で松山候に仕官。文政5年(1822)に直徳と謁見の後、通信

②大野義雄(彦根藩大野家)
  直昌の息、利盛の子孫。文政11年(1827)通信

③天野屋九兵衛直興(大坂)
  直昌の息、直常の子孫。文政6年(1823)通信

④大野直壽(伊予小田上川村大野家)
  直昌の息、直清の後裔で大野(大伴姓)和五郎直尚の孫。
    直徳は、直壽が当主の時に上川村大野家の系図を転写しています。
    名野川大野系図には『文政5年直徳通信 右同年初而謁見家系書写ス』とあります。

⑤紀伊徳川家中の大野(菅田)家と通信していたかは不明ですが、子孫の情報が加筆されています。

ご存知のように、土佐名野川大野系図は出自が大友皇子ではなく、高皇産霊尊へ編集されています。編集時期は、直徳が大伴姓紀伊守利直の子孫であることを認識していることから、系図を転写してから死亡するまでの間と考えております。土佐桐見川大野系図の出自は大友皇子のままなので、この土佐大野系図2本の関わりは興味深いものがあります。
直徳が、上川村大野家の古文書をも転写して所持していたことが推測できる記事が地方史にありました。彼が残していたであろう覚書などを探索していますが、いまだその所在が掴めていません。


  • [130]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 5月 6日(日)11時06分17秒
 
●詳細な内容有り難うございます。

 小野勝正以降が混乱しているようですね。
 養子に行ったり復姓したりで流れが複雑になっているようですね。

『 ①小野(片岡)庄左衛門勝正
(~1719・10・10)
 片岡家へ養子・郷士召出
 山内豊隆御用人・住城下
 弐人扶持切米七石 』

この人から一次史料を探さないとなんともいえませんね。
「片岡家なるものはどのような家でしょうか?
 なぜこの時代に郷士召出されたのでしょうか?
 山内豊隆御用人とあるが事実かどうか?
 (ニ人扶持切米七石)とは領地はなく七石のサラリーでしょうから
 とても貧乏です。御用人とは思えません。陪臣の可能性が高いですね。
 されど帰農者が郷士とはいえ士分に格上げですから当時からすれば出世頭かもしれません。

 これが片岡家養子として成ったことか小野勝正として成ったことかが知りたいところです。
 山内家家臣であれば末端といえども禄を食みますから史料は残っている筈ですが・・・。

次に勝正の長男とされる為憲ですが、両人とも大野家「通字」の「直」でないことは
片岡家の通字を使用した可能性がありますので、勝正には養子に行く前に「直○」といった
初名がある筈なのですが・・・。
また勝正は長男に大野家長男の名乗り「九郎兵衛」を付けていますから大野家の伝統は守っていますね。

『権蔵
 諏訪家継グ・住安喜浦
 文政6年小野敬蔵(慶蔵?)謁見直徳/豊川良平の「指出し年譜」には先祖が諏訪家とあるが詳細は不明』

この人物はよくわかりません。
「謁見直徳」の直徳とは誰のことでしょうか?

豊川良平の「指出し年譜」の年譜はどこに差し出したのでしょうか?
現物は残っているのでしょうか?



『②小野九郎助為憲
(~1763・12・2)
 前名・片岡九郎兵衛
 小野姓ニ復ス』

これはどのような事情で復姓したのでしょうね?



> >美和の祖父、小野作吾を小野権蔵の子とするものと、小野直之の子とするものに系図により別れますね。どちらが正しいのでしょうね。
>
> ●小野直之の子と記述したのは、地元の郷土史家K氏ですが、問い合わせたところ「間違いでした」という回答をもらいました。K氏は根拠となる史料をお持ちでないようです。小野直之は大野直之の7代後裔です。
>
> 大洲城主、大野直之―(4代略)-小野勝正-為憲-直之(養子)-好直-(後略)
>
> では、小野作吾が権蔵の子であるかというと、これを断言できる史料を今のところ私は見たことがありませんが、土佐名野川の研究家N氏はそのように解釈しています。問い合わせてもN氏から明確な説明がないので、私なりに史料を検索した結果、『美福門院手記』(美和の回顧録)と弥太郎の従弟・豊川良平(前名、小野春弥)の差出年譜(明治4年)に行き当たりました。小野作吾が美和の祖父であることは、彼女の回顧録から間違いないことです。以下少々込み入った話になります。
>
> 豊川氏年譜によると、初代から4代目までは敷地姓です。
> 5代目が元禄2年(1689)諏訪姓へ改姓します。
>
> 6代、小野左太郎(養子) 享保3年(1718)相続
>
> 7代、諏訪作吾 元文5年(1741)相続、改姓して小野作吾。地下浪人で安芸浦西浜住、寛政10年(1798)病死
>
> 8代、小野慶蔵 寛政10年(1798)相続、文政10(1827)病死
>
> 9代、小野順吉 文政10(1827)相続、慶応元年(1865)病死
>
> 10代、小野春弥(順吉養子) 相続。 明治4年豊川良平と改名
>
> 美和の回顧録では豊川良平は、彼女の弟・篤治の子であり、兄順吉の養子です。
>
> 土佐名野川大野系図では、「小野勝正の子・権蔵が諏訪家を継ぐ」とあり、年代的にも符号すると思われるので、諏訪家6代の小野左太郎が権蔵のことではないだろうか、ということになります。権蔵の別称が左太郎であるという史料をみたことがないので推測に過ぎません。系図上は以下のようになります。
>
> 為憲の弟・権蔵(左太郎か?)-作吾-慶蔵-順吉・とき・美和・篤治
>
> 美和の子が岩崎弥太郎、篤治の子が豊川良平(小野春弥)で順吉の養子です。

●上記がややこしいですね。美和の祖父作吾は直之の子か権蔵の子かはたまた「養子」か
 紐解く必要がありそうですね。複雑になってはいますが、どちらも間違いでもなさそうです。
 「美和の手記」の信頼性は精々祖父までと思われます。
 我々もそうですが祖父まではほとんど記憶にありますが、曽祖父は殆ど相手が死んでいるか
 こちらが幼なすぎるかで記憶に残らず伝承のうろ覚えです。

> 補足情報として、名野川小野家出身の歌人・大町桂月が学生の頃、豊川氏の家紋を見たとき、小野家と同じだったので同族だったのだなと回顧しています。「横木瓜二引き」だったのでしょうね。また、刊本「豊川良平」では、豊川氏を大洲城主の大野直之、さらに大伴家遠祖・道臣命の血統を引く名家の末裔であると記しています。

●刊本「豊川良平」も変な話しですね。
 これの筆者は誰でしょう?現代の人ではないでしょうか?

古い大野系図の殆どは始祖を「天智天皇の御子、大友皇子」に求めます。
決して道臣命の流れである「大伴家」で始まるものは例外的に「系図纂用・内閣文庫」と
「東大史料編纂所」所収の「大野系図菅田本」しかありません。この本も江戸末期か
明治初期の編纂物の可能性が捨て切れない代物です。
よってこの刊本は我々と同じ現代の知識で書かれたものではないでしょうか?

> 「弥太郎が大野直之の血統を引く」という周辺情報は揃っていますが、伝記や系図に頼りすぎていて、根拠としては弱いですね。やはり過去帳やお墓の調査が必要でしょう。どなたか情報をお持ちの方が、この記事に対してコメントしてくださることを願うしだいです。
>
> ●美和の子供たちは4人のようです。
> こと  (1832.4.14~ )
> 弥太郎(1834.12.11~ )
> さき  (1838~ )
> 弥之助(1851~ )妻は後藤象二郎の長女です。
>
> 美和の少女時代の奉公先、五藤正応がどういう人物か知りませんが、土佐藩家老の五藤一族かもしれません。
> 笑止な話をひとつ
> 美和と、岡本寧浦の妻となった姉「とき」を自家の系図に取り込み、兄弟の順吉、篤治は架空の人物であるという持論を、土佐史談に発表した方が過去にいました。有名人は確かに引っ張りだこですね。(ため息~)

●歴史上の有名人でかつ維新に志士たちもからんでいますので史料はたくさんあると思います。
ただスポットの当て方が違うので見過されているだけと思います。

たとえば「弥之助(1851~ )妻は後藤象二郎の長女です。」
の記事は歴史的には大変です。

岩崎弥太郎、後藤象二郎、坂本竜馬は明治維新史を知る者は格好の素材です。
この相関関係の中に弥之助が出てきますので史料はたくさんあると思われます。
ただ一般的には一番のヒーロー「坂本竜馬」に目が行きがちですね。

余談ですが現在でも彼を信奉する信者は会社のマークに彼の「海援隊」のマークを借用します。
携帯電話の会社の「ソフトバンク」なるものです。「二引き紋」が好きなようです。
もっとも岩崎弥太郎も三菱の社章に主家「山内家」の家紋と自家の「菱紋」とを合体させますので
いつの世も同じですかね。

近頃は竜馬にあやかろうと「船中八策」なる現代版を掲げる大坂市長も出てきましたね。
これに慌てふためく政府も野党自民党のていたらくは政治不信をあおりますね。

{ばっかでないの?}笑い

高知県の最大ヒーローは「坂本竜馬」のようですが、同胞、山口県はの最大ヒーローは
毛利公でも、高杉晋作でも伊藤博文でもありません。

すべての県民が「先生」として敬愛する『吉田松陰先生』です。

 【松陰先生無かりせば明治維新ははるかに遠し】

  • [129]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:naoko
  • 投稿日:2012年 5月 5日(土)18時11分26秒
 
>>128

呑舟様、お返事が遅くなりました。

>美和の祖父、小野作吾を小野権蔵の子とするものと、小野直之の子とするものに系図により別れますね。どちらが正しいのでしょうね。

●小野直之の子と記述したのは、地元の郷土史家K氏ですが、問い合わせたところ「間違いでした」という回答をもらいました。K氏は根拠となる史料をお持ちでないようです。小野直之は大野直之の7代後裔です。

大洲城主、大野直之―(4代略)-小野勝正-為憲-直之(養子)-好直-(後略)

では、小野作吾が権蔵の子であるかというと、これを断言できる史料を今のところ私は見たことがありませんが、土佐名野川の研究家N氏はそのように解釈しています。問い合わせてもN氏から明確な説明がないので、私なりに史料を検索した結果、『美福門院手記』(美和の回顧録)と弥太郎の従弟・豊川良平(前名、小野春弥)の差出年譜(明治4年)に行き当たりました。小野作吾が美和の祖父であることは、彼女の回顧録から間違いないことです。以下少々込み入った話になります。

豊川氏年譜によると、初代から4代目までは敷地姓です。
5代目が元禄2年(1689)諏訪姓へ改姓します。

6代、小野左太郎(養子) 享保3年(1718)相続

7代、諏訪作吾 元文5年(1741)相続、改姓して小野作吾。地下浪人で安芸浦西浜住、寛政10年(1798)病死

8代、小野慶蔵 寛政10年(1798)相続、文政10(1827)病死

9代、小野順吉 文政10(1827)相続、慶応元年(1865)病死

10代、小野春弥(順吉養子) 相続。 明治4年豊川良平と改名

美和の回顧録では豊川良平は、彼女の弟・篤治の子であり、兄順吉の養子です。

土佐名野川大野系図では、「小野勝正の子・権蔵が諏訪家を継ぐ」とあり、年代的にも符号すると思われるので、諏訪家6代の小野左太郎が権蔵のことではないだろうか、ということになります。権蔵の別称が左太郎であるという史料をみたことがないので推測に過ぎません。系図上は以下のようになります。

為憲の弟・権蔵(左太郎か?)-作吾-慶蔵-順吉・とき・美和・篤治

美和の子が岩崎弥太郎、篤治の子が豊川良平(小野春弥)で順吉の養子です。

補足情報として、名野川小野家出身の歌人・大町桂月が学生の頃、豊川氏の家紋を見たとき、小野家と同じだったので同族だったのだなと回顧しています。「横木瓜二引き」だったのでしょうね。また、刊本「豊川良平」では、豊川氏を大洲城主の大野直之、さらに大伴家遠祖・道臣命の血統を引く名家の末裔であると記しています。

「弥太郎が大野直之の血統を引く」という周辺情報は揃っていますが、伝記や系図に頼りすぎていて、根拠としては弱いですね。やはり過去帳やお墓の調査が必要でしょう。どなたか情報をお持ちの方が、この記事に対してコメントしてくださることを願うしだいです。

●美和の子供たちは4人のようです。
こと  (1832.4.14~ )
弥太郎(1834.12.11~ )
さき  (1838~ )
弥之助(1851~ )妻は後藤象二郎の長女です。

美和の少女時代の奉公先、五藤正応がどういう人物か知りませんが、土佐藩家老の五藤一族かもしれません。
笑止な話をひとつ
美和と、岡本寧浦の妻となった姉「とき」を自家の系図に取り込み、兄弟の順吉、篤治は架空の人物であるという持論を、土佐史談に発表した方が過去にいました。有名人は確かに引っ張りだこですね。(ため息~)


  • [128]
  • Re: 三菱財閥祖岩崎弥太郎は大野直之のDNAを継ぐ!

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月29日(日)10時53分57秒
 
NAOKO様

岩崎弥太郎(三菱創始者)の母、小野(大野)美和を「大野家大系図」に書き込もうとしましたら、
系図上混乱を起こしていますね。
美和の祖父、小野作吾を小野権蔵の子とするものと、小野直之の子とするものに系図により分かれていますね。
どちらが正しいのでしょうね。

史料が少なくて分りにくいのでしょうね。

検証のため時間軸で小野美和を中心に考えてみますと
彼女は1814年7/20日誕生(太陽暦だと9/3日誕生)とされます。
1827年に父小野慶蔵が死ぬと、貧乏だったのか後藤正応家に13歳で奉公に出されたとされます。
この後藤正応とは如何なる人物か分りませんか?
その後、美和が17歳になった1831年に弥太郎の父、弥次郎と結婚したとされます。
その4年後に弥太郎を生んだとしますから、その間、「水子」もありそうですね。

吾川村大野(小野)系図の方が時代的に一代、変ですね。

系図と云うものは得てして『有名人』は系図に取り込もうとするものですが、小野美和が岩崎弥太郎の母と
記していないのは外戚と思っていなかった人が後世系図に書き込まなかったのかとも思われます。

小野慶蔵とその父、祖父の情報を捜す必要がありそうですね。
この場合、「系図」よりも「過去帳」のほうが信頼性が高そうですね。両人の墓や菩提寺が分れば手がかりがでそうですね。

三菱財閥の総力を挙げて、創始者岩崎弥太郎のルーツ探しをした形跡はありますが、弥太郎の母方は小野慶蔵
までで終っています。まさか、戦国伊豫の風雲児、大津(大洲)城主大野直之に繋がるとは誰も想像しなかった
のでしょう。

この履歴情報を持っているのはNAOKO氏とその情報を受けた私ぐらいしか現代ではいないのでしょうね(笑い)

超有名人「岩崎弥太郎」関連でもこの程度です、歴史は忘却される運命かもしれませんね(はあ~)

  • [127]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)21時18分50秒
 
大野直常が大坂の天野屋養子として引き取られたことは分ったが大坂のどこか未だ分らない。
これについては「屋代島大野家譜」は大野九郎兵衛直實の子として
「天野屋九兵衛子孫摂州大坂上平野町に住す」とある。父親の名は混乱と思われるが住所はわかった。

この「大坂上平野町」が何時の時代のどこか精査の必要はあるが、豊臣末期か徳川初期の大坂は「東横堀」に
平野橋があり、その大坂城よりの初期の市街地の一角と思われる。その隣りの橋が思案橋で、「難波雀」に出てくる「天野屋利兵衛」の住所「思案橋濱」の住所とほぼ同じである。先日のオークションの古文書には寛政七年
時には「内平野町濱内」と記されるがこれもほぼ同一場所と思われる。この時は屋敷の広さは南角で「表口十五間
裏行凡十六間」とあるので250坪近い商家としては大店である。

平野町とは秀吉時代に「平野郷」の商人を集めて住まわせたとされる古い商人街であり
大坂城下内にある。
本来の「天野屋」は平野郷の住人「天野さん」だったのかも知れない。
彼の通しの名が「利兵衛」と思われるが「直常」以降は「利平衛」と大野家通し名「九郎兵衛」が
併用されている。赤穂浪士討入り時の天野屋は利兵衛ではなく九郎兵衛である。

新しい「弘化年間の大坂絵図」ですがUPしてみましょう。見づらいですが、
淀川にかかる天神橋の下に「東横堀」が掘られ淀川側から三番目の橋が「平野橋」その次が「思案橋」です。
この堀は「長堀」を経て「道頓堀」までつながります。今は東西横堀も長堀も埋め立てられわづかに
「道頓堀」を残すのみです。
初期のころは天神橋筋が商業の中心でしたが、江戸中期から東西の御堂が見える「御堂筋」が一等地と
なり現在では御堂筋両側が一流企業の集結地となりました。
金持ちが接待に使う「北の新地」と庶民の味方である南の道頓堀、宗衛門町を北と南に結ぶのが
地下鉄御堂筋線で、本町あたりで右にいくか左に行くかが懐具合との相談です。

  • [126]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)12時20分27秒
 
さてオークションの話はさておき、本題に戻ろう。

大坂・天野屋が何故伊豫大野家と関係するかは諸大野系図の記述によるものです。曰く

【大洲大野系譜】
直常 (1583~1660)
・母 宇都宮遠江守元教女 *豊綱ナラン
天正十一年(1583)癸未年正月十七日
於久万城誕生 *大除城カ
万治三(1660)庚子年四月廿八日卒
齢七十八歳
天徳院殿圭厳常白大居士
(注)宇都宮朝子・一条内政の胤カ

【大野系図讃岐屋本】
直常
 母宇都宮遠江守元教之女也
 天正十一(1583)癸未年正月十七日
 於久万城誕生 童名熊丸 父直昌
 退干芸州竹原而後豫州松山天徳寺
 寄宿干時九歳也
 大野家出入之町人天野屋九兵衛説
 干熊丸而大坂表江同伴 其時之和尚
 為餞別本尊像中秘蔵之唐絵ノ布袋一幅
 被送之 其後為養子継屋号九兵衛
 此画干今家蔵也 万治三(1660)庚子
 年四月廿八日卒去 齢七十八歳
 號天徳院殿圭厳常白大居士
 大坂九條邑竹林寺葬之
 熊丸実土佐一條殿内政郷之胤也
 母懐胎之時長曽我部元親起逆意内政
 郷以毒為殺逆 土州奪押領因慈父
 父宇都宮元教帰干舘當家直昌娶之
 其時契約状曰 若男子於出産者可為
 大野家家督 同姓家臣十人為連判
 然后左巴紋付銀鏡 信国之薙刀
 馬角牛王等並元教家督被譲請故雖
 大野氏宇都宮モ名乗也

【土佐桐見川大野系図】
直常
熊丸
天正十一癸未年正月十七日誕生干大除城
母宇都宮豊綱娘章子 實者一条内政胤成
土佐一条内正與波川玄蕃有陰謀而欲失元親
干時謀計露見而内政捨於豫州此時宇都宮豊綱
居干母居島
 旬余にして豊綱の女を娶る、豊綱と内政は深く元親
を恨み竊に元親を討つことを謹じ=転記モレ)
内正到宇都宮(宇和郡カ)棚井坂戸
以旧臣窺於元親虚叓発覚而内政為元親被鴆
因茲内政室帰與干母居島干時懐胎而再嫁
大除城主直昌而男出生謂直常
大坂天野屋為元祖矣也
萬治三年子四月廿八日卒
天徳院殿主厳常白大居士

【大野家譜上田本】
直常
・熊(王)丸
・天正十一年(1583)正月十七日大除に生る。
 母宇都宮豊綱女章子、実者一条内政の胤なり。
・土佐一条内政 波川玄蕃と陰謀有り、元親を失わん
 とする時、謀計露顕して内政を予州に捨つ、この時
 宇都宮豊綱母居島に居り、内政彼の島に居ること
 旬余にして豊綱の女を娶る、豊綱と内政は深く元親
 を恨み竊に元親を討つことを謹じ、内政宇和郡棚井、
 坂戸に到り旧臣を以て元親の虚を窺うこと発覚して
 内政元親のために鴆せられる。
・因って内政の室は懐胎して母居島に帰る、大除城
 直昌再嫁して男子出生、直常という、
 大坂天野屋の先祖となる。

それぞれの系図は若干の異同はあるが直昌嫡男(本当の嫡男は廃嫡・讃岐屋本によれば彼が大坂夏の陣の
道明寺合戦で討死)直常(熊王丸)は天正15年の河野通直竹原落去の節、父直昌の同行に伴い母とともに
竹原に行き、父が天正17年に同地にて卒去するや、松山・天徳寺(河野家ゆかりの寺で当時河野家遺臣の
拠点寺)に戻り養育され、後に大野家出入りの大坂商人天野屋に連れられ大坂へ行き、天野屋の跡を継ぐ
と説明する。

ここで直常の母は宇都宮(豊綱)の娘とされ、これは明らかに政略結婚で、直昌は本来の室と嫡男を排除し
宇都宮の娘、土佐一条家を離縁された娘とされ直常の実の父は一条であるとされる。それでも室として迎え
直常を嫡男と定め直すのに一族の親族会議を経て行なわれたことは宇都宮家を併合することを狙ったもので
ある。この時より、大野、宇都宮両家を名乗ります。

これを傍証するのが、
【大洲宇都宮系譜】 (大洲宇都宮圓所蔵)
豊綱・・・・・・女子 章子
 一条内政公北方公薨去之後、
 大除城主大野山城守直昌ニ再縁
 天正十壬牛年

とある。時期的には若干の異同はあるが相手方系図にも記載があることは史実なのであろう。
ここで、後世混乱するのは、大津城主で直昌の弟である直之(直行)の室も宇都宮の娘であり
この両者の混同が混乱させている。どちらが姉か分らぬが姉妹なのでしょう。
名前の章子が双方に使われ混乱に拍車をかけています。朝子なる説もあり。

彼の同腹妹が後に高仁親王の乳母として昇殿した正智院妙蓮とあります。
この記事も後に難儀となる表現です。



  • [125]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)07時20分17秒
 
黒川さん

そうですね。落札できなくてもさほど問題はありませんね。
ほとんどが偽物とわかりますが、本物の現物だと武吉書簡のように28万円程度はするのでしょうね。
これが公的な文書館だとその10倍以上の金で入手するようです。税金を使う人たちは気が楽です。
能島村上家の本物の文書はまだたくさん屋代島の村上一学家に残っているようです。
大半は村上水軍の博物館に寄付したようですがまだまだたくさん残っているようです。
問題は宗家村上図書家の文書がどこにあるかが不明です。山口県文書館にあるとされますがあれは殆ど写しです。
最後の殿様村上兼助が東京に移住するとき必要最低限だけ持っていったと思われます。
残りは殆ど反古として処分されたようです。一部残されている場所は判っていますので、その内私が貰って
こようと思っています。
オークションで別に欲しかったのが「伴大納言絵詞」と「神姓大伴系図」でした。
前者は大正8年の模写のようでしたが、綺麗に書かれていました。
伴大納言は伊豫大野家遠祖大伴家の分家で応天門の変で没落させられた家です。
神姓大伴系図は滋賀の大伴末裔家のようで後に設楽や冨永として尾張に移住する過程がわかりそうでした。
こちらは部分しかUPがなく肝心の所は見れませんでした。
トミナガを富永ではなく冨永と正しく書いてあるので本物のようでした。ただ編纂が江戸期のようで
中身の情報の伝来性はイマイチでした。
こちらの冨永の分家が伊豫の冨永のようで、後に伊豫大野に改姓した可能性があるのですが。
系図情報はよくわかりません。

  • [124]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)06時11分35秒
 
呑舟さん。
  むしろ、落札できなてよかったとおもいます。
  時間ギリギリで値段が上がるのは、オークション
  の特徴です。(人間の負けん気がでるのです)
  たまに、本物と思われるのも出ますが、今は
  皆無(殆どが写しか造作物と思われます)
  今でも浪士関係文章多く売りに出てますが、
  本物なら、大変ですね!(特に業者は注意)
  骨董・美術・などは要注意です。あくまでも
  参考までにが良いと思います。
  先日、愛媛新聞で、村上武吉の文章を29万で
  東京から買った記事がでてましたが、本物と判れば
  それくらいの値段が付くのではと思います。

>>123
> 黒川さん
>
> 落札は出来ませんでしたがお知らせ頂いたことでCOPYは撮ることが出来ましたので
> 内容のチェックは出来ますので助かりました。
>
> 唯、後で論証をする時に現物がないと推論の域を出ないことになり論拠が脆弱になることは
> 否めません。かの書は偽書ながらも内容的には事実を含んでおり切り捨てるには惜しい内容
> でした。
> もっともあの落札者は出品者自身と思われますのでほとぼりが覚めたら又、出品してくる気が
> します。どうもNETオークションは変な使われ方を業者にされている印象です。
> 暇つぶしに同時に4点応札しましたが、いづれも最後の5分で同様な手口で値がつりあがり
> 落札にはいたりませんでした。大半が引っ掛け業者のようで素人は気をつけないととんでもない
> ものを高値で掴まされそうですね。返品不可と但書きしている出品者は要注意ですね。

  • [123]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月24日(火)01時30分0秒
 
黒川さん

落札は出来ませんでしたがお知らせ頂いたことでCOPYは撮ることが出来ましたので
内容のチェックは出来ますので助かりました。

唯、後で論証をする時に現物がないと推論の域を出ないことになり論拠が脆弱になることは
否めません。かの書は偽書ながらも内容的には事実を含んでおり切り捨てるには惜しい内容
でした。
もっともあの落札者は出品者自身と思われますのでほとぼりが覚めたら又、出品してくる気が
します。どうもNETオークションは変な使われ方を業者にされている印象です。
暇つぶしに同時に4点応札しましたが、いづれも最後の5分で同様な手口で値がつりあがり
落札にはいたりませんでした。大半が引っ掛け業者のようで素人は気をつけないととんでもない
ものを高値で掴まされそうですね。返品不可と但書きしている出品者は要注意ですね。

  • [122]
  • Re: 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 4月23日(月)19時05分56秒
 
呑舟さん
 お疲れ様でした。かなり、奮発しましたね。真贋は大体解っていましたが、
 少しでも、未知の事柄が書いてあればと思い連絡差し上げました。
 でも、値段すごいですね!私も一柳直郷の書なるものを、落札しましたが、
 真贋は不明です。自己満足の世界。。
 これも考えようで、私みたいにに、やつれた車やバイク好きな者には、
 もう、販売されていない部品などが、手に入る恰好の漁場ですね!
 いつも、サーフしています。お陰さまで、30年前の車は今も健在
 で現役です。
 呑舟さんの今後の研究に期待します。



>>121
> 黒川さん案内のヤフーオークション「天野屋利兵衛直之」の肉筆文書は締め切り間際で高額に跳ね上げられて
> 落札できませんでした。文書の中身は全くの「偽書」であることは最初から判っていましたが、文の内容と紙質
> と筆の濃淡が気になり安ければ買おうかなと思ったのですが、最後の5分間で倍近い入札をしたのは売りたくない
> 提供者の知恵と判断しました。五千円以上なら月々350円の手数料を払えとする「ヤフーJAPAN」の商売は
> 小銭稼ぎで大王になったのがよく判りました。これだけで数億円の利益がでますね。
> 「ヤフーオークション」はあまり素人が手を出してはいけないことがわかりました。勉強になりました。
>
> 愚痴はさておき、何年も前から「大坂天野屋養子となる戦国末期の大野直昌嫡男、直常」を再度この競売を
> きっかけに追ってみたいと思います。
>
> 尚、天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之は、大野直常の3~4代目で、「忠臣蔵」時代の赤穂藩家老
> 大野九郎兵衛知房と同年代です。二人は伊豫大野家一族と認識していた上で行動していたとするのが私の
> 考えです。
>
> どちらの人物も一次史料が足りません。今回のオークション文書は参考になりました。
>
> 「忠臣蔵」で吉良邸に討入りの大半は茨城県真壁や笠間から播州赤穂に引っ越してきた人たちばかりで
> 私の推論の伊豫出身と思われる経済家老の大野九郎兵衛知房とは意思疎通も芳しくなかったのではないかと
> 思われます。
>
> 「だっぺ」言葉の茨城と「あもしとなもしはちがうぞなもし」の伊豫と、赤穂旧住民は「大坂弁なまり」の赤穂
> ではコミニュケーションも大変だったと思われます。
>
> 今でも「こわい」と真壁・笠間の人が言えば、一般的な(怖い・恐い)の意味ではなく「疲れた」の意味で
> すので???となります。
>
> 天野屋利兵衛に少しづつ迫りたいと思います。

  • [121]
  • 忠臣蔵義商「天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之」を追う

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 4月23日(月)02時49分40秒
 
黒川さん案内のヤフーオークション「天野屋利兵衛直之」の肉筆文書は締め切り間際で高額に跳ね上げられて
落札できませんでした。文書の中身は全くの「偽書」であることは最初から判っていましたが、文の内容と紙質
と筆の濃淡が気になり安ければ買おうかなと思ったのですが、最後の5分間で倍近い入札をしたのは売りたくない
提供者の知恵と判断しました。五千円以上なら月々350円の手数料を払えとする「ヤフーJAPAN」の商売は
小銭稼ぎで大王になったのがよく判りました。これだけで数億円の利益がでますね。
「ヤフーオークション」はあまり素人が手を出してはいけないことがわかりました。勉強になりました。

愚痴はさておき、何年も前から「大坂天野屋養子となる戦国末期の大野直昌嫡男、直常」を再度この競売を
きっかけに追ってみたいと思います。

尚、天野屋(大野)利兵衛(九郎兵衛)直之は、大野直常の3~4代目で、「忠臣蔵」時代の赤穂藩家老
大野九郎兵衛知房と同年代です。二人は伊豫大野家一族と認識していた上で行動していたとするのが私の
考えです。

どちらの人物も一次史料が足りません。今回のオークション文書は参考になりました。

「忠臣蔵」で吉良邸に討入りの大半は茨城県真壁や笠間から播州赤穂に引っ越してきた人たちばかりで
私の推論の伊豫出身と思われる経済家老の大野九郎兵衛知房とは意思疎通も芳しくなかったのではないかと
思われます。

「だっぺ」言葉の茨城と「あもしとなもしはちがうぞなもし」の伊豫と、赤穂旧住民は「大坂弁なまり」の赤穂
ではコミニュケーションも大変だったと思われます。

今でも「こわい」と真壁・笠間の人が言えば、一般的な(怖い・恐い)の意味ではなく「疲れた」の意味で
すので???となります。

天野屋利兵衛に少しづつ迫りたいと思います。

  • [120]
  • Re: 現・石手寺梵鐘(重文)【大野直森(友直)供養鐘の変遷を追う

  • 投稿者:黒川
  • 投稿日:2012年 4月14日(土)19時46分15秒
 
●建長3年(1251年)頃は、黒川系図で云う、黒川初代(黒川信綱)の頃とおもわれますが、
 この信綱は愛媛においては、作り話の世界にて何とも言えませんが、どの黒川家も信綱を始祖と
 し、その後、日吉郷の青木氏を養子に迎えて2代目の黒川信兼と継いで行きます。
 この頃は、まだ黒川家は千足の山の中で息を殺して生きていた頃と思われ、西山の鐘を
 造るに当たり、そのような実力は無いと考えます。
 では、誰かと?なりますが、時代が合致するかどうか判りませんが、得能氏辺りかとも
 思います。が判りません。
 この頃の山城の調査をしている方がサイトを開設されて居ます。私は隠れファンですこのサイト
 の!最近は改定されて居ませんが、黒川の居城(旦ノ城)(剣山)(山城)などを掲載してくれています。 特に旦ノ城は何も無いですが、興味深いです。是非見てください。URL付けておきます。

http://blogs.yahoo.co.jp/derfuhrer333/folder/1040044.html


建長3年の黒川家の当主はどなたか、黒川さんわかりませんか?
> この鐘の鋳造主が黒川家であれば「石手寺」の鐘の本来の所有者は黒川家となります。
> 尚、現在の興隆寺の鐘は弘安9年(1286)年に再調達されていますから、
> この直前後に大野家は譲り受けて菅生山大宝寺に寄進したとしてもおかしくありません。
>
> となると「上川村大野系図」の『天文17年寄進』が異同をおこします。
>
> 黒川文書になにか記述はありませんか?天文17年ですと黒川通俊の次の代と思われますし・・・。
>
> この鐘のことは「大坂府立博物館」の研究リストにありました。
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