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  • Re: 福岡藩の大野家

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 1月31日(火)05時42分43秒
 
> 家紋、替紋、幕紋について、紀州菅田家に比較的正確に継承されていることは、私も興味深く思っていました。やはり武門の家はさすがと感じています。

●家紋、替紋、幕紋で大伴以来のすべての由緒紋を正しく継承しているのは紀州大野(菅田)家のみです。
 これには驚きました。屋代大野系図には巴紋は利直時代に裏紋としていますから、宇都宮家巴紋より
 やはり八坂神社神紋の流れと思われます。
 紀州大野(菅田)系譜書を見ると、数ある大野系図の中で、今伊豫で一番流布されている「上川村大野系図系」
 が一番怪しいと感じてきました。
 元々上川村庄屋大野家にはきちんとした系図なるものは伝わっていない。
 よって江戸中期に当主大野和五郎が系図の資料集めに奔走している姿が彼の「手記」により明らかです。
 しかし、彼の彼の研究とまったく違う内容の「正統大野系図」なるものが上川村本として現在に伝わって
 います。内容的には和五郎の後の代の人が他の大野系図から転写の上、後の世を書き加えた感じです。
 よって上川村本を転写した、土州大野系図もこの系列になります。
 よって江戸中期の編纂と思われるので、信頼性が屋代島大野や、紀州菅田家より落ちるのは否めません。

>
> 直之の女「備後」足跡についても、戦国末期の大友氏の戦歴とその没落に連動していることと考え合わせると理解できます。ただ、大友氏の重臣・入田氏の宗家は、豊後・薩摩の合戦では主家を裏切って島津氏に内通し、合戦後は島津氏に仕えたらしい。そうすると文禄の役後、毛利家に蟄居した大友義統(よしむね)に随行したと思われる「備後」の夫・入田両庵は入田宗家とは別流でしょうね。

●これはよくわかりません、関係するともしないとも。当時は兄弟親子で敵味方に分かれるのは不思議では
 ありません、大野(菅田)直之と兄、直昌は対立しています。また直昌は兄直秀【隆直】とも対立したか
 のように「上川村本」は伝えます。曰く、大野家相続争いに負けた直秀が出奔した、としますが屋代島本
 は全く違う記述です。直昌も村上武吉も仲間同士でそこに行った、兄について上川村本は言及しません。

 永禄年中は伊豫はゴタゴタ続きです。川岡 勉先生のレポートがその一旦を垣間見させてくれます。
 ここにも菅田(直之系)と大野(直昌系)の対立が見えます。今度の宮尾氏の講演も同様な流れで
 大野直之を語るものと思われます。講義録か講義録音が欲しいところです。

http://ci.nii.ac.jp/els/110001046079.pdf?id=ART0001211296&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1327948786&cp=
>
> さて、すでにご存知のことと思いますが、「福岡藩・初期(上)」を見ていたら『収録史料の解題』に大野家文書の解説があったので、写真をUPしてみました。なお、私が入手したのは上巻であって、下巻の『大野家譜』はまだ見ておりません。この家譜は、東大史料編纂所の「土佐諸氏系図」の元祖が『越智姓、大野左馬右衛門直吉』の系譜と同じものかもしれませんね。

●有り難うございます、初めてみました、できれば下巻の「大野家譜」が是非とも見たいものですね。
 「土佐諸氏系図」の内容は「比較考証版」に記載の通りですが、家紋が河野家の「傍折敷波三文字」と
 なっていますね。これは下述の大野忠右衛門貞勝の像の羽織の紋所は村上家の紋の「丸に上」紋ですね。
 黒田藩士大野家の幕紋も「丸に上」の村上家紋です。紀州菅田家のように他に「堅木瓜ニ引」紋も使って
 いたのかもしれません。筑前大野家譜を見ないとわかりません。

> 大野左馬右衛門直吉の本姓は村上氏だそうですが、以前に福岡市博物館が取り上げた「大野忠右衛門の像」の由緒には、『村上天皇廿八代之苗裔村上右衛門/太輔通康五代之末葉大野忠右衛門/尉貞勝五十八歳之壽像也』とあるそうです。

●本姓は村上氏で間違いはありませんが、通康の系列とは思えません。
 本姓村上氏や安国寺との関連を「黒田家臣傳(大野傳)」【東大史料編纂所】で記録しています。
 著者は貝原益軒と思います。黒川さんちの「曽我部五衛門」も書かれています。
 私は筑後大野の上司「井上周防守」の動向に注目しています。
 筑前大野三兄弟は彼に従属しているからです。
 彼は今の福岡県黒崎に黒田藩の支城を築き、黒崎と命名します。大野三兄弟も移住したものと思います。
 大野直秀(隆直)はこの黒崎で死んだと屋代島本は記します。ただ没日が文禄4年としますが、黒崎城が
 できるのは1603年ですから系図の錯誤と思われます。今、直秀の墓を探しています。
 当時の寺とすれば、今のJR黒崎駅そばの「浄蓮寺」の可能性が高いと考えています。

>
> 村上通康は来島村上家の人ではありませんか?
> 大野直秀(隆直)が能島村上武吉の扶助を受けたのなら、直秀(隆直)の家司を務めた大野(村上)左馬右衛門直吉は能島村上家の人では?と浅学な私は?です。

●なぜ来島通康をもってきたのか「筑前大野家譜」を見ないとわかりません。
 私は村上左馬右衛門は村上隆勝の弟の村上河内守義統(吉和)の系列で来島村上系ではないと
 思っています。分りにくいですから「能島村上大連枝図」をメールしましょう。
 ついでに「河野家大連枝図」もつけておきますので「大野家大連枝図」とあわせて比較してください。
 「大野家大連枝図」は現存の赤ちゃんまで書いてますので他見無用に願います。

 ただ彼が来島通康に属していたかもしれません。村上三家は人と嫁のやり取りは頻繁にしていますから。

 この村上左馬右衛門を家来として後の大野の名跡を譲ると屋代島本は書きますから、名が大野、本姓村上で
 おかしくはありません。ただ福岡市でこの前「大野展」を開いたのは三兄弟の末弟と思われます。
 「大野家大連枝図」参照願います。


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