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越智家・河野家家紋を考える
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越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)13時12分1秒
今まで、越智河野家一族(分家・庶家・家紋契約家含む)の家紋の変遷について何度も論議された
厭きられた感のあるテーマであるが、再度考察してみたい。
どうも越智姓を名乗る家と越智河野家を名乗る家があり、両家が同一ではないイメージがある。
これを混乱するから、変遷や出自も混乱しているようでもある。
出自は大きく分けて、ニギハヤシ系と孝霊天皇系に二分されることは周知の通りである。
家紋はビジュアルであるから色んな資料がでてくる。
色んな意見や資料が全国から集まればと期待しています。
これを年代別、家別、由緒別に整理すれば史実が見えてくるような気がします。
結果的に系譜の変遷も見えてくるかも知れません。
この場合現物写真かデザイン画が添付されればわかりやすいと思われます。
又?どの家に伝わるものか
?出典はなにか?(墓・紋付・系図・位牌・神紋・武具・その他等)
?いつごろから使われているか?
?改紋されている場合は以前の紋は何か?
?表紋、裏紋、別紋、幕紋、流紋、や拝領紋、契約紋、相続紋の区別。
?紋章の名(紋入屋に頼んで分る名前・これは非常に難しいのであるが)
が少しでも分れば整理しやすいと思います。
色んな情報が投稿されれば論議が活発となり情報が共有されていきます。
投稿数上限に達したので書き込みできません
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月31日(土)05時38分32秒
> スハマとウロコは、系図上には、分けて書いているので混同しているとは
> 考えられませんので、もう少し精査が必要と思われます。意味があると思います。
> また、河野家の紋ですが、始めは菱形に三(以前河原津の道場寺の塀に書かれて
> いた紋に近い)大山ズミ神社にある旗に書かれているのが初期と思われます。
> その後、隅を切り八角形に変化したと考えています。
> 最後にスハマは呑舟さん説明の蓬莱山に関連する方が納得できます。
> UPしてくれている、蓬莱飾りの絵を見ていると、それ自体を台(折敷)と
> 考え、それに三を加えてとも思いますが、私の素人考えです。
●そうですね。まだまだ史料を収集して解析していかなくてはなりませんね。
鱗▲にするのは、河野通清の「大蛇伝説」よる通清の背中に鱗(ウロコ)があったとする伝承からの
連想と後の北条紋の「三つ鱗」からの連想によるものと想像しています。
一方、州浜(団子三つ)は越智家に伝わった紋だと見ています。
越智・寺町氏は越智安国の子とも越智為綱の子ともされますがどちらにしろ越智の系列と思われ
ます。この系図が正しいならこの時まだ河野家は発生していません。
また、新居家は更に古い越智家の別れとされますので、河野家が発生した後の別れでは
ないとされます。
いずれも「秘伝・門外不出・正統」らの修飾語のついた現代に伝わる「河野系諸家の系図」が出典ですから
あちらを立てばこちらが立たずとなり、この際河野家末裔と称する人たちが一堂に会し、それぞれの系図と
証拠文書や什器を持ち寄って「統一見解」を出してくれれば助かるのですが・・・。(笑い)
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
黒川
投稿日:2012年 3月31日(土)03時46分58秒
おはようござます。
スハマとウロコは、系図上には、分けて書いているので混同しているとは
考えられませんので、もう少し精査が必要と思われます。意味があると思います。
また、河野家の紋ですが、始めは菱形に三(以前河原津の道場寺の塀に書かれて
いた紋に近い)大山ズミ神社にある旗に書かれているのが初期と思われます。
その後、隅を切り八角形に変化したと考えています。
最後にスハマは呑舟さん説明の蓬莱山に関連する方が納得できます。
UPしてくれている、蓬莱飾りの絵を見ていると、それ自体を台(折敷)と
考え、それに三を加えてとも思いますが、私の素人考えです。
> ●黒川さんへ
>
> 問題は 【粼】の解釈をどう捉えるかによって河野系諸家譜が変容しているようです。
> 河野系の諸系図は【粼】の字を伝承します。これにわざわざ「スハマ」とルビをふります。
> スハマは【州浜】につながります。
>
> 予章記は元は【一粼】(イチスハマ)とし其の後【三粼】(ミツスハマ)とします。
> 【一粼】は「黒川系図」に書かれている紋ですね。団子が三つの形です。
> 【三粼】は「見聞諸家紋」の越智・寺町氏の家紋で、足利幕府に登録されていますので動かしようがありませ ん。
> 同書には越智・河野家家紋は【折敷三文字】(菱形に漢数字の三)で登録されていますので
> ご案内のように【一粼】が後の【傍折敷三文字紋】(変形八角形に漢数字三)と解釈するのは
> 「見聞諸家紋」の成立時(1467~1470)年時代の河野家(多分・教通時代)の家紋を知らなかった、
> 後世の人物の成せる技と思われます。
>
> また【粼】を「リン」と解釈すると、「鱗」と誤解釈された例が散見されます。
> そうすると【一粼】は(イチリン)となり「小千御子の紋所」とされる、「三角形一つ紋」になります。
> では【三粼】(サンリン)は三角形が三つですから「北条紋」になります。
> こちらは「北条紋」が先にありきで後付の「小千御子の紋所」と思っています。
>
> 「見聞諸家紋」の越智・寺町氏は河野家の別れと言うより越智家の別れの感じがします。
> 同じような古い時期の別れとして新居氏がありますが、こちらも河野家の別れと言うより
> 越智家の別れの感じがします。
> こちらの家紋は「三階松」と思っています。
> 以前、今城さんが河野系「三階松紋」の投稿記事に「初めて見ました」と述べた紋です。
>
> 尚、此処で述べる「越智家」とは正史に出てくる「越智郡国造家越智氏」とは関係ないと思っています。
>
> 州浜の由来は調べてみますと、「入り組んだ洲」の表現で、戦国時代以前は盆栽のような形で、
> 後に足を付けて、祝の席の飾り物とし、江戸時代以降に祝いの席の菓子の台等に変化したようです。
> よって「神様にお供えする物の台」の【折敷】とは本来の意味が違うようです。
>
> 島が洲のように見えるから高縄からみた瀬戸内の景色と重ね合わせて「黒川系図」を編纂したのかも
> 知れませんね。「黒川系図」の編者は【三粼】の意味を「蓬莱山の箱庭」の意味の州浜と大山祇神社地の
> 「御島」即ち「三島」とあわせ、家紋の三文字の意味として説明しようとしたと思われます。
> 相当、知識深い編者と思われます。
>
> ついでに本来の祝の席での飾りである「蓬莱山の箱庭」の州浜台のイメージをUPしましょう。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月28日(水)02時19分18秒
「黒川系図」に書かれているように、州浜(団子三つみたいな)
紋を略して三文字と書いていますので、そのような解釈となりそうです。
本家紋を州浜とし三島と表し、略して三としている。(多分漢字の三でなく
同じ長さの三本線と思っています)
また、以前、呑舟さんが強烈に否定した天地人の意味も含まれているようです。
また、考えるに、予章記、予陽河野盛衰記にも出てくる、第三章の凹石は、
この石が(スハマを晴れの席の飾りとする台とするなら)その様に高輪山から
見えた石が在るのかもと想像したりして
「晴れの席の飾りとする台」
とも言うそうです。これが、真実なら、簡単に考えると
河野家紋章「折敷三文字」は三つスハマで良いと思います。
●黒川さんへ
問題は 【粼】の解釈をどう捉えるかによって河野系諸家譜が変容しているようです。
河野系の諸系図は【粼】の字を伝承します。これにわざわざ「スハマ」とルビをふります。
スハマは【州浜】につながります。
予章記は元は【一粼】(イチスハマ)とし其の後【三粼】(ミツスハマ)とします。
【一粼】は「黒川系図」に書かれている紋ですね。団子が三つの形です。
【三粼】は「見聞諸家紋」の越智・寺町氏の家紋で、足利幕府に登録されていますので動かしようがありませ ん。
同書には越智・河野家家紋は【折敷三文字】(菱形に漢数字の三)で登録されていますので
ご案内のように【一粼】が後の【傍折敷三文字紋】(変形八角形に漢数字三)と解釈するのは
「見聞諸家紋」の成立時(1467~1470)年時代の河野家(多分・教通時代)の家紋を知らなかった、
後世の人物の成せる技と思われます。
また【粼】を「リン」と解釈すると、「鱗」と誤解釈された例が散見されます。
そうすると【一粼】は(イチリン)となり「小千御子の紋所」とされる、「三角形一つ紋」になります。
では【三粼】(サンリン)は三角形が三つですから「北条紋」になります。
こちらは「北条紋」が先にありきで後付の「小千御子の紋所」と思っています。
「見聞諸家紋」の越智・寺町氏は河野家の別れと言うより越智家の別れの感じがします。
同じような古い時期の別れとして新居氏がありますが、こちらも河野家の別れと言うより
越智家の別れの感じがします。
こちらの家紋は「三階松」と思っています。
以前、今城さんが河野系「三階松紋」の投稿記事に「初めて見ました」と述べた紋です。
尚、此処で述べる「越智家」とは正史に出てくる「越智郡国造家越智氏」とは関係ないと思っています。
州浜の由来は調べてみますと、「入り組んだ洲」の表現で、戦国時代以前は盆栽のような形で、
後に足を付けて、祝の席の飾り物とし、江戸時代以降に祝いの席の菓子の台等に変化したようです。
よって「神様にお供えする物の台」の【折敷】とは本来の意味が違うようです。
島が洲のように見えるから高縄からみた瀬戸内の景色と重ね合わせて「黒川系図」を編纂したのかも
知れませんね。「黒川系図」の編者は【三粼】の意味を「蓬莱山の箱庭」の意味の州浜と大山祇神社地の
「御島」即ち「三島」とあわせ、家紋の三文字の意味として説明しようとしたと思われます。
相当、知識深い編者と思われます。
ついでに本来の祝の席での飾りである「蓬莱山の箱庭」の州浜台のイメージをUPしましょう。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
黒川
投稿日:2012年 3月27日(火)21時01分45秒
呑舟さん
UPして頂いている「黒川系図」に書かれているように、州浜(団子三つみたいな)
紋を略して三文字と書いていますので、そのような解釈となりそうです。
本家紋を州浜とし三島と表し、略して三としている。(多分漢字の三でなく
同じ長さの三本線と思っています)
また、以前、呑舟さんが強烈に否定した天地人の意味も含まれているようです。
また、考えるに、予章記、予陽河野盛衰記にも出てくる、第三章の凹石は、
この石が(スハマを晴れの席の飾りとする台とするなら)その様に高輪山から
見えた石が在るのかもと想像したりして。。。
もっと他の系図など出てくれば益々判りよいのですが。
>>25
> > スハマを最近検索して見ますと、「晴れの席の飾りとする台」
> > とも言うそうです。これが、真実なら、簡単に考えると
> > 河野家紋章「折敷三文字」は三つスハマで良いと思います。
> >
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%83%8F%E3%83%9E
>
> ●黒川さんへ
>
> 成る程そう云う意味もありましたか? 勉強になります。
> そうゆう認識が伊豫にあったのかも知れませんね。
> 通状、家紋の説明では「入り組んだ洲」と「州浜」を説明するのでそちらと思っていました。
> こちらの紋はデザインが違うらしいので気にはなっていました。
>
> さりながら、以前黒川さんUPの「系図」では「本家の紋所は(三つスハマ)とし三島から転じて
> これは島の意味である。これを略して「三の文字」とした。としてわざわざ一州浜紋を図示して
> 呉れています。この州浜を三つにすると【2】の「見聞諸家紋」の越智寺町氏の紋となります。
> 寺町氏は本家の紋を踏襲し、現在「三の文字」を持つのは、三つ州浜の略文様を使用する
> 家となりますね。
> ひょっとすると【スハマ紋】が越智家で【略スハマ(三文字)紋】を継承するのが河野家流かも
> しれませんね。
>
> 以前UPしてくれた「系図」に概要はどうでしたっけ?
>
> 他の読者には分りませんので該当部分をUPしましょう。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月27日(火)07時11分2秒
> スハマを最近検索して見ますと、「晴れの席の飾りとする台」
> とも言うそうです。これが、真実なら、簡単に考えると
> 河野家紋章「折敷三文字」は三つスハマで良いと思います。
>
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%83%8F%E3%83%9E
●黒川さんへ
成る程そう云う意味もありましたか? 勉強になります。
そうゆう認識が伊豫にあったのかも知れませんね。
通状、家紋の説明では「入り組んだ洲」と「州浜」を説明するのでそちらと思っていました。
こちらの紋はデザインが違うらしいので気にはなっていました。
さりながら、以前黒川さんUPの「系図」では「本家の紋所は(三つスハマ)とし三島から転じて
これは島の意味である。これを略して「三の文字」とした。としてわざわざ一州浜紋を図示して
呉れています。この州浜を三つにすると【2】の「見聞諸家紋」の越智寺町氏の紋となります。
寺町氏は本家の紋を踏襲し、現在「三の文字」を持つのは、三つ州浜の略文様を使用する
家となりますね。
ひょっとすると【スハマ紋】が越智家で【略スハマ(三文字)紋】を継承するのが河野家流かも
しれませんね。
以前UPしてくれた「系図」に概要はどうでしたっけ?
他の読者には分りませんので該当部分をUPしましょう。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
黒川
投稿日:2012年 3月27日(火)02時01分29秒
呑舟さん。
スハマを最近検索して見ますと、「晴れの席の飾りとする台」
とも言うそうです。これが、真実なら、簡単に考えると
河野家紋章「折敷三文字」は三つスハマで良いと思います。
http://www.weblio.jp/content/%E3%82%B9%E3%83%8F%E3%83%9E
> ●河野一族黒川家の紋所は以前、黒川さんから紹介がありました。
> 見づらいですが、「折敷三文字紋」を三つスハマ紋と誤解釈しているようですが、文字で「粼」とあったのを
> 「折敷三文字」紋と思いこんだものと思われます。
> 替紋で例の「一鱗紋」を伝承しています。
> 三つ目の長曾我部の紋は長曾我部家に連なる伝承と思われます。
> 黒川家家紋は流れからすると非常に真実的です。
>
> 文字では分りませんので黒川さんちの紋所をUPします。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月26日(月)20時54分40秒
ある紋帳に「越智氏流河野家家紋」として【三つ鱗紋】を掲載します。
この【三つ鱗紋】は北条氏の紋とそっくりです。
●北条【三つ鱗紋】伝承は北条家と源氏の婚姻による伝承(継承)の可能性があります。
この北条【三つ鱗紋】を替紋として継承するのは「鈴姫河野系図」(ハンドルネームしか分らないので仮称)
です。またこの系図は「予陽河野家譜」でも「築山本」でもなく独自の家譜形態のようにも思えますが、
冒頭の一ページしか以前UPされませんでしたので全貌が掴めません。
またこの系図は牛福通直以降の系図線を残す系図として稀有なものです。
鈴姫さんが見てくれて、説明してくれれば助かるのですが。
同系図は北条「三つ鱗紋」と「折敷縮三文字紋」を継承していますから牛福通直時代の河野宗家家紋を
継承していると思われます。
該当の「鈴姫河野系図」冒頭をUPします。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)20時30分32秒
ある紋帳に「越智氏流河野家家紋」として【三つ鱗紋】を掲載します。
この【三つ鱗紋】は北条氏の紋とそっくりです。
越智寺町が【三つ州浜紋】であり、また古紋はスハマと「予章記」は述べます。
越智寺町家は「予章記」によると北条大夫親孝の弟としますのでとても古い別れとなります。
「見聞諸家紋」では【三つ州浜紋】で登場します(越智・寺町の項参照願います)
この【三つ鱗紋】に対比するように小千御子古紋として【丸に一鱗紋】を登場させます。(小千紋参照)
この越智流河野家家紋とされる【三つ鱗紋】と北条家の【三つ鱗紋】をUPしましょう。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)18時46分55秒
【予章記・上蔵院本】は
「三並新羅ヨリ帰朝ノ時、家ノ紋ヲ定ム・・・・」の条で
「三並、船ノ紋は一粼ニシカ(伊豫皇子御下向時ノ例ナリ)
御方ノ類ニソノ類余多クアリケレハ、別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ押ムテ舷ニ立ラル、其ノ影
高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ、
異説是多シ、重テ正之」
と書いています。
「上蔵寺本」ですから明らかに室町末期の編纂文と思われます。
これを書いた人も相当悩んだようですね。最初にこの記事を読んだ時は私も
「そうか!河野家家紋の由緒はこうであったのか!」と単純に理解しました。
其の後、色々な資料をみるとそうでもないなあ、と思うようになりました。
この「予章記」の記事は現在の「傍折敷縮三文字紋」を前提に一所懸命由来の理屈付けを考えた
形跡があります。
①「其ノ影高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ」
とありますがこの記述も後付けの理屈と思われます。
三並が夷国から帰朝するのは同本によると彼より十代後が益躬の時が
推古天皇の御宇(592~628年)であるので、一代の在位を平均20年と
したら(392~428年)ごろの話となります。仁徳天皇あたりからになります。
先の記事で河野通有は角折敷三文字(漢字の三)紋であり、「見聞諸家紋」時代はまだ漢字の三ですから
この記事は後世の挿入と言えます。
「縮・波・揺れ」と表現は違いますが、確かに室町中期辺りから漢字三が一部の河野家末裔家で
使用され始めています。ただ未だに漢字の三を使用している家も多く、
「縮・波・揺れ」の三を使用している家の方が新しい家のようです。
この「予章記」の作者はご丁寧に「異説是多シ、重テ正之」(異説(異紋)も多い、重ねて
云います!こちらが正しいのです!)とわざわざ書き込みます。
と言うことはこの「予章記」編纂時には多くのデザインの河野家家紋があったことを
自ら認めたことに他なりません。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)08時32分4秒
> 【予章記・上蔵院本】は
>
> 「三並新羅ヨリ帰朝ノ時、家ノ紋ヲ定ム・・・・」の条で
>
> 「三並、船ノ紋は一粼ニシカ(伊豫皇子御下向時ノ例ナリ)
> 御方ノ類ニソノ類余多クアリケレハ、別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ押ムテ舷ニ立ラル、其ノ影
> 高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
> トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ、
> 異説是多シ、重テ正之」
>
> と書いています。
>
> 「上蔵寺本」ですから明らかに室町末期の編纂文と思われます。
>
> これを書いた人も相当悩んだようですね。最初にこの記事を読んだ時は私も
> 「そうか!河野家家紋の由緒はこうであったのか!」と単純に理解しました。
>
> 其の後、色々な資料をみるとそうでもないなあ、と思うようになりました。
>
> この「予章記」の記事は現在の「傍折敷縮三文字紋」を前提に一所懸命由来の理屈付けを考えた
> 形跡があります。
①「別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ押ムテ舷ニ立ラル・・・」とあります。
これは変形八角形になったとの説明の伏線と思われます。
ここで筆者は大きな間違いをしているようです。傍折敷を角違えにすると変形十六角形になってしまいます。
「上手の手から水が漏れた」感じですね。
正しくは「角折敷の角違え」とすべきだったのでしょうが、この時越智家一門の中に堂々とこの紋を
掲げている家を思い出したのかも知れません。
この越智氏一門家は以前投稿してもらいました広島能美島の山野井家です。
この家は貞治2年(1363)河野通尭が伊豫から逃れて来る時、中子藤重とともに
落ちてくる河野主従を受け入れた家とされます。
山野井家は三島神社大祝家の流れと思われます。
大山祇(三島)神社は河野家と小早川家が常に取り合いをしています。
小早川家承認神官が大山祇神社を仕切ったこともあります。
山野井家は後に小早川一族乃美家と関係を結び変容していくようです。
この紋をUPしてくれたのは能美島山野井家の子孫で現在広島で工務店を
経営されている実業家の山野井さんです。
山野井家紋は
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)07時42分54秒
【予章記・上蔵院本】は
「三並新羅ヨリ帰朝ノ時、家ノ紋ヲ定ム・・・・」の条で
「三並、船ノ紋は一粼ニシカ(伊豫皇子御下向時ノ例ナリ)
御方ノ類ニソノ類余多クアリケレハ、別ニ傍折敷ヲ角違ヘニ推ムニテ舷ニ立ラル、其ノ影
高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ、
異説是多シ、重テ正之」
と書いています。
「上蔵寺本」ですから明らかに室町末期の編纂文と思われます。
これを書いた人も相当悩んだようですね。最初にこの記事を読んだ時は私も
「そうか!河野家家紋の由緒はこうであったのか!」と単純に理解しました。
其の後、色々な資料をみるとそうでもないなあ、と思うようになりました。
この「予章記」の記事は現在の「傍折敷縮三文字紋」を前提に一所懸命由来の理屈付けを考えた
形跡があります。
「別ニ傍折敷ヲ・・・・・」と書いています。
これはこの予章記を書く時はすでに「見聞諸家紋」にある角折敷(四角形)ではなく傍折敷(角のとれた
変形八角形」になっていたことによるものと思われます。
よって「予章記」は後世の編纂と考えるゆえんでもあります。
角折敷と傍折敷の違いは、元々折敷とは神様にお供え物をする時の盆ですから制作技術の変遷から
とされます。今の傍折敷のように四つ角を切って折敷にする技術は室町中期以降とされます。
何時からなのかが分れば河野家が傍折敷紋に切り替えた時期もだいたい推定できるのですが、
これには室町期の「木地師やサンカ」の歴史を探求しないとわかりません。
角と傍とが混乱したイメージになりますので双方UPします。
[
18
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)07時13分59秒
> > 【予章記・上蔵院本】は
> >
> > 「三並新羅ヨリ帰朝ノ時、家ノ紋ヲ定ム・・・・」の条で
> >
> > 「三並、船ノ紋は一粼ニシカ(伊豫皇子御下向時ノ例ナリ)
> > 御方ノ類ニソノ類余多クアリケレハ、別ニ傍折敷ヲ舷ニ立ラル、其ノ影
> > 高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
> > トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ、
> > 異説是多シ、重テ正之」
> >
> > と書いています。
> >
> > 「上蔵寺本」ですから明らかに室町末期の編纂文と思われます。
> >
> > これを書いた人も相当悩んだようですね。最初にこの記事を読んだ時は私も
> > 「そうか!河野家家紋の由緒はこうであったのか!」と単純に理解しました。
> >
> > 其の後、色々な資料をみるとそうでもないなあ、と思うようになりました。
> >
> > この「予章記」の記事は現在の「傍折敷縮三文字紋」を前提に一所懸命由来の理屈付けを考えた
> > 形跡があります。
> >
> > ①「三並、船ノ紋は一粼・・・」とします。
> >
> > ここで粼紋とは何かと考えなくてはなりません。
> > 粼とは「スハマ(州浜)ともリン(鱗)とも取れます。
> > 歴代河野家子孫は之を混乱したようです。
> > スハマと採れば、越智氏寺町の「三つ州浜紋」に関連します(前投稿紋参照願います)
> > リン(鱗)ととれば小千御子下向時の「一鱗紋」となり後の北條家家紋の伏線となります。
●河野一族黒川家の紋所は以前、黒川さんから紹介がありました。
見づらいですが、「折敷三文字紋」を三つスハマ紋と誤解釈しているようですが、文字で「粼」とあったのを
「折敷三文字」紋と思いこんだものと思われます。
替紋で例の「一鱗紋」を伝承しています。
三つ目の長曾我部の紋は長曾我部家に連なる伝承と思われます。
黒川家家紋は流れからすると非常に真実的です。
文字では分りませんので黒川さんちの紋所をUPします。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)06時51分35秒
> 【予章記・上蔵院本】は
>
> 「三並新羅ヨリ帰朝ノ時、家ノ紋ヲ定ム・・・・」の条で
>
> 「三並、船ノ紋は一粼ニシカ(伊豫皇子御下向時ノ例ナリ)
> 御方ノ類ニソノ類余多クアリケレハ、別ニ傍折敷ヲ舷ニ立ラル、其ノ影
> 高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
> トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ、
> 異説是多シ、重テ正之」
>
> と書いています。
>
> 「上蔵寺本」ですから明らかに室町末期の編纂文と思われます。
>
> これを書いた人も相当悩んだようですね。最初にこの記事を読んだ時は私も
> 「そうか!河野家家紋の由緒はこうであったのか!」と単純に理解しました。
>
> 其の後、色々な資料をみるとそうでもないなあ、と思うようになりました。
>
> この「予章記」の記事は現在の「傍折敷縮三文字紋」を前提に一所懸命由来の理屈付けを考えた
> 形跡があります。
>
> ①「三並、船ノ紋は一粼・・・」とします。
>
> ここで粼紋とは何かと考えなくてはなりません。
> 粼とは「スハマ(州浜)ともリン(鱗)とも取れます。
> 歴代河野家子孫は之を混乱したようです。
> スハマと採れば、越智氏寺町の「三つ州浜紋」に関連します(前投稿紋参照願います)
> リン(鱗)ととれば小千御子下向時の「一鱗紋」となり後の北條家家紋の伏線となります。
>
出典はよく分りませんが「姓氏家系辞書」は越智家家紋を「丸に一鱗」とします。
その紋をUPします。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)06時39分48秒
【予章記・上蔵院本】は
「三並新羅ヨリ帰朝ノ時、家ノ紋ヲ定ム・・・・」の条で
「三並、船ノ紋は一粼ニシカ(伊豫皇子御下向時ノ例ナリ)
御方ノ類ニソノ類余多クアリケレハ、別ニ傍折敷ヲ舷ニ立ラル、其ノ影
高ク海水ニ浮ヒ波ニ漂ヒクタケルカ三文字ニ見タリ、其後夷国帰朝の喜例
トシテ傍折敷三文字紋ヲ家ノ紋トシテ定メ玉フ、
異説是多シ、重テ正之」
と書いています。
「上蔵寺本」ですから明らかに室町末期の編纂文と思われます。
これを書いた人も相当悩んだようですね。最初にこの記事を読んだ時は私も
「そうか!河野家家紋の由緒はこうであったのか!」と単純に理解しました。
其の後、色々な資料をみるとそうでもないなあ、と思うようになりました。
この「予章記」の記事は現在の「傍折敷縮三文字紋」を前提に一所懸命由来の理屈付けを考えた
形跡があります。
①「三並、船ノ紋は一粼・・・」とします。
ここで粼紋とは何かと考えなくてはなりません。
粼とは「スハマ(州浜)ともリン(鱗)とも取れます。
歴代河野家子孫は之を混乱したようです。
スハマと採れば、越智氏寺町の「三つ州浜紋」に関連します(前投稿紋参照願います)
リン(鱗)ととれば小千御子下向時の「一鱗紋」となり後の北條家家紋の伏線となります。
一粼(州浜・スハマ)紋と、一粼(リン・鱗)紋をUPしましょう。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月24日(土)05時33分4秒
> ただこれは近世の紋のようで、古くは、「見聞諸家紋」に見られる河野家家紋と
> 同じと思っています。最初の湯築城幟旗写真の紋です。
> 何故現在の大山祇神社がこれを認めないのかよく分りません。
●以前社務所に電話して上記の内容で確認したのですが、「昔から傍折敷縮三文字」と言い張っていました。
私が大山祇神社の古紋にこだわるもう一つの証拠は神社の軒下の古紋もさることながら、
大山祇神社宝物殿の重要文化財とされる「三島(大山祇)神紋流旗」です。
これは【1】で紹介した湯築城で掲げられた流れ旗と同じデザインです。
以前庵主様も投稿してくれました。
伝承による「三島神紋流旗」は弘安4年の弘安の役(元寇)で河野通有が決死の覚悟で
戦勝祈願を三島(大山祇)神社で行い、この旗を持って一族を引き連れ蒙古討伐に発向します。
台風(神風)の加護もあり蒙古軍は閏7月1日全滅します。
敵の大将頸を獲った通有は帰国した後、この流れ旗を祈願成就の御礼と三島(大山祇)神社に
返納したとされますので、この神紋は三島(大山祇)神社の神紋であり、かつ当時の河野家家紋で
あったことになります。
通有は弘安4年5月に出向とされてますのでこの時、祈願しこの旗を神のご加護の象徴として
押し立てていったものと思われます。
それから約190年後に所収された「見聞諸家紋」の(越智氏河野)家、家紋は同様です。
よって1470年以前は河野家紋は「傍」ではなく且つ「縮・波」でもなく、又、算木の「三」でもなく
単に「折敷三文字」紋となります。この時の三は漢字の三です。
今の家紋「傍折敷縮三文字」は室町末期あたりから変形していったように推定します。
家紋を同様なデザインで少しづつ変化させる動機は「一門ではあるが別家である」との
一門内部の区別が必要な時に発生すると考えます。
多くは一門が敵味方に分かれた状況からが考えられます。
最初の変化は応仁の乱の河野家内の分裂から始まったのではないかと思われます。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月19日(月)19時34分16秒
続いて神社で見てみましょう。
やはり一番は河野家の氏社、大山祇神社でしょうね。
多くの末社の三島神社もほぼ同様です。
神主の大祝家も同紋を使用するようです。
ただこれは近世の紋のようで、古くは、「見聞諸家紋」に見られる河野家家紋と
同じと思っています。最初の湯築城幟旗写真の紋です。
何故現在の大山祇神社がこれを認めないのかよく分りません。
確か、多くの大山祇神社の建物の中で一番古い建物の屋根だったか
鴨居だったかにその紋が残っていいたと記憶する。
もっとも創建時の建物ではなく後の再建建物だったと記憶する。
今のはそれよりはるか若い建物であったと思います。
現在の大山祇神社神紋と大祝家家紋をUPしましょう。
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Re: ご参考までに
投稿者:
matthew
投稿日:2012年 3月19日(月)18時55分12秒
専ら拝見するばかりでした。国内はおろか大陸までの繋がりなど大変興味深く拝見しておりました。
先年母が亡くなった後に返納した、東京谷中善性寺の野嶋平馬忠暁の墓石にも「ここのつぼし」の定紋が彫られておりましたので野嶋家代々の紋のようです。板倉候から拝領したと考えるのが自然のようですね。
> 「刈屋口の戦い」の新しい記録古文書(多分能島村上サイド)を見つけました。
> 只今解読中ですが、達筆な古文書ゆえ浅学な私では一日一行も進みません。
> 新しい発見があればUPしましょう。
宜しくお願いします。常山紀談の佃側の記述と野嶋家の系譜の内容(「越智河野の出自や以下に?」のスレッド[33]にupしました)に若干の相違があるようですね。
厳島の戦いでは河野家は関わりないようですが、村上水軍が毛利軍の求めに応じて参戦して最終勝利に貢献したようですね。孝霊天皇からの言われもざっと書いてありますので、今城先師の掲示版の趣旨に全く反することもなさそうで、「越智河野の出自や如何に?」のスレッドの方にupさせて頂きたく存じます。こんな伝承もあるのだ、とご参考になれば幸いです。
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Re: ご参考までに
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月19日(月)17時13分0秒
matthewさん久しぶりですね。
このスレッドは色んな家紋の変遷を集めて実証的に経緯が判断できないかなと思い立てました。
さっそくのご提供有り難うございます。
私は貴系図の定紋、替紋記事も参考になりますが、系図のハナの部分と思われる文章のほうも気に
なりました。宜しかったら全体でUPしてもらえれば勉強になります。
定紋は「九竜」とも読めますが、一般的には「九曜紋」と思われます。
印度の神様をモチーフとする由緒ある紋のようです。
これが貴家の系図の最初に定紋として書かれているのは多分拝領紋ではないかと思われます。
おそらく、坂倉家紋ではと想像します。
後の世に坂倉家のオッチョコチョイが酷似した細川家の紋を自家の紋と勘違いして殿中で刃傷に
及び切腹させられた時の紋と同じではと思っています。
替紋 オモダカ(沢瀉)のゆわれは分りません。多分どちらの紋についても系図に由緒が書かれて
いませんでしょうか?
沢瀉紋も種類が多く、ご案内の紋は「三割り沢瀉」紋と思われます。
このスレッドの中の青山墓地の稲葉家墓家紋の左側の紋と同紋とも見れます。
江戸期に改紋は珍しくはなく、小松一柳家も、久留島家も改紋しています。
「刈屋口の戦い」の新しい記録古文書(多分能島村上サイド)を見つけました。
只今解読中ですが、達筆な古文書ゆえ浅学な私では一日一行も進みません。
新しい発見があればUPしましょう。
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ご参考までに
投稿者:
matthew
投稿日:2012年 3月19日(月)08時09分55秒
大変ご無沙汰致しております。毎日のように拝見しておりますが、皆様の博識にただただ感心するばかりで、ご提供する話題もなく過ごしております。
今城先師のご注意のように、別スレッドでは祖母の野嶋家について長々と占拠してしまい大変申し訳なく存じます。何卒お許しの程を伏してお願い致します次第です。
当家の系譜の内容で信頼できる記述は江戸時代以後でありますので本掲示版の趣旨に添って居らずにその点も併せてお詫び申し上げます。
添付写真のように河野通忠の庶流から始まり、刈屋口の戦いで村上元吉とともに戦死していることからすると、河野家とは何らかの繋がりがあるかも知れませんが、名前からして能嶋村上の末流と考える方が妥当かと考えております。初代野嶋掃部丞忠時の1555年の厳島の戦いから1600年の野嶋民部丞通豊の刈屋口の戦いを経て板倉伊賀守勝重に仕え、1620年に死去した野嶋与右衛門忠明迄を埋めるのが相当難儀でおります。
系譜は江戸時代に書かれたと考えられますが、その時代の野嶋家の定紋及び家紋は傍折敷縮三文字紋と異なり九量とオモダカに変化?しているようです。
お詫び並びにご参考までに投稿させて頂きたく存じます。
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)23時01分3秒
寺院で有名なのは河野一族一遍上人開祖の時宗寺紋である。
また、「寛永諸家譜」によると
「河野通勝家は家伝に河野四郎通治二十四歳にして発心し、遊行一遍上人となり、
諸国を巡回す、通治他邦において一子をもうく、これ通勝が先祖なりといふ」
この説はあまり根拠がなく疑わしいが参考のため書くとして
家紋「折敷の内三文字」とする。
[
9
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)22時31分56秒
江戸時代に大名として生き残った河野家末裔家は
「寛永諸家譜」によると
久留島
通康の時村上家家紋「丸の内上文字」紋を改め「通」字および傍折敷の旗・三文字の紋・河野系図
を譲り受け河野家を継ぐ。通総の時、傍折敷三文字を改め「軍配団扇」とする。
康親、紋、「丸の内に唐団扇」 通春の代に改めて「三唐団扇」となす。
船印は傍折敷三文字を使用している。
豊後臼杵の稲葉家と似ているが久留島は「縮三文字」で臼杵稲葉家は「文字の三」である。
同じページに書かれていた。
牛福通直時代の河野宗家は「傍折敷縮三文字」であることと合致する。
[
8
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)19時46分43秒
【訂正】
> 江戸時代に大名として生き残った河野家末裔家は
> 「寛永諸家譜」によると
>
> 越智姓稲葉家ではなく、小松一柳家の間違いです。
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7
]
Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)19時40分3秒
江戸時代に大名として生き残った河野家末裔家は
「寛永諸家譜」によると
越智姓稲葉家
家の紋「丸の内に釘抜、元は三文字」
とあるので改紋しているが実際は併用している。
一柳釘抜紋とと江戸後期の西国大名船印揃から
UPしてみましょう。
[
6
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)19時17分22秒
江戸時代に大名として生き残った河野家末裔家は
「寛永諸家譜」によると
越智姓稲葉家
家の紋「角折敷三文字」また、織田信長より「桐の紋」を賜う。
青山墓地の稲葉家墓の刻印家紋は
[
5
]
Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)17時45分15秒
見聞諸家紋に見る、足利義政に奉じ東軍についたとされるその他の越智氏で
一説に河野に追われて、和州へ逃げ延びたとする。和州越智氏は
別説では「伊豫越智氏」とは関係ないとも言われるが参考までにUPします。
○和州 越智氏
[
4
]
Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)17時36分9秒
見聞諸家紋に見る、足利義政に奉じ東軍についたとされるその他の越智・河野族の
家紋は
○越智氏 越智氏 難波 【丸に割菊に三】紋
[
3
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)17時30分3秒
見聞諸家紋に見る、足利義政に奉じ東軍についたとされるその他の越智・河野族の
家紋は
○越智氏 越智氏 得能 【三十万に鳥】紋。 異本では鳥が居ないものもある。
[
2
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Re: 越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)17時24分52秒
見聞諸家紋に見る、足利義政に奉じ東軍についたとされるその他の越智・河野族の
家紋は
○越智氏 寺町 【三つ州浜紋】である
[
1
]
越智家・河野家家紋を考える
投稿者:
呑舟
投稿日:2012年 3月18日(日)14時31分21秒
このスレッドの立ち上げは日本最古の家紋集とされる「見聞諸家紋」に起因する。
周知のようにこの家紋帳は足利義政を奉ずる「応仁の乱」の時の「東軍」の諸家
の家紋帳とされる。成立は1467年~1470年とされる。
之に載る河野家家紋は下記の湯築城旗として以前湯築城で登場した紋であった。
現在の傍折敷縮三文字紋ではないですね。
湯築城がこの幟を作ったのは今城さんが詳しいと思いますが、庵主さんは
「なんじゃこれは?!」と感想を述べた紋ですね。
このあたりから変遷が紐解かれていくのではと思っています。
この時、この家紋を掲げていた河野家当主は誰か?と思うによく分りません。
予州家三代通春のようでもあり、惣領家通教のようでもあります。
通春は双方についた経緯があります。
何方かお教え願いたい。
またこれがいつ現在の家紋となったのか?
また此の紋は今の大山祇神社は否定するが、大山祇神社の古神紋と以前述べました。越智河野末裔とする播州三木氏も同紋を使っていたと記憶します。
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