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  • Re: 飯田家の回答

  • 投稿者:呑舟
  • 投稿日:2012年 6月28日(木)17時14分53秒
 
> ところで毛利家の最盛期は織田家と領地境界を接するようになるころで因幡や美作にまで及んでいた思っていましたが、やはり宇喜多や山名など各国人領主達が傘下に入って毛利方だっただけで、実質の直轄地は豊臣政権時代とそんなに変わらないのでしょうか?
> 例えば、伯耆や美作や備中半国は元々毛利家の直轄領を織田家に削り取られたという認識だったのですが。

○色々変遷がありますからなんとも言えませんね。

> ●村上家の最盛期というのは竹原に居た頃ですか?ちなみに竹原時代は何石ほど治めていたのですか?

○竹原時代は没落時代です。
 色んな説があります概ね3500石から5000石ぐらいが能島村上でしょう。
 因島村上は1800~2500石と時期や出典により変遷しますが、海賊衆にとっては領地は
 あまり意味がありません。

 勘違いする人が多いのですが、海賊衆と言うのは古来、特定の殿様の家来ではありません。
 よって、「一所懸命」なる領地は貰えません。

 領地を貰うと特定の殿様の臣下となり仕えなくてはなりません。
 殿様の方も都合の良い時だけ使用できればいいだけなので、自分の所領を分けてまで臣下には
 しませんでした。頼めば動くとする支配的関係のみでした。

 今で言うと警備会社と運送会社のようなもので、必要だからと言って、愛媛県が日本通運や
 アルソックを県職員(公務員)として直下雇いしないようなものです。

 ですから、どの海賊も生産に適した処に居住していません。
 殆ど海関の近くで、領主からすれば農耕の生産性のない不毛な地ですので目くじらは
 立てません。

 瀬戸内海には沢山の海賊がいます。三島村上はその一部にしかすぎません。
 彼等は殆ど、零細な漁民の集団で喰うや食わずで特定の殿様から生活費はもらえません。
 不漁のときは海賊をするしかありませんでした。

 村上家にも時折、仕事のオファーがかかります。殆ど近隣の殿様からの水運警固の臨時の仕事
 です。村上家に一番オーダーをだしたのは大友家と言われています、次が大内家、次が武田家、
 伊豫の河野家も時折仕事を呉れたとされます。

 因島村上と野嶋村上と来島村上は同じグループ会社ですが、オファーは個別にきます。

 全部に行く大仕事は大内の朝鮮や中国への渡航の時くらいです。
 有名なのは「厳島合戦」のオファーです。
 これはクライアントが大内系陶と新興の毛利ですので色んな説があり確定していません。

 各殿様も下請けとしか見ていませんし、正式の臣下とはしません。

 よって村上海賊は「河野水軍」であり「大友水軍」であり「大内水軍」であり「武田水軍」であり
 最後には「小早川水軍」で隆景卒後、「毛利水軍」となります。
 格好よく言えば「全方位外交」ですが、所詮、安定収入がなかったからです。
 後世の関係者は格好の良いところは「水軍」と表現し、かっぱらいをしていた処は無視する傾向
 があります。フロイスも朝鮮の使節団長も「かっぱらいほうの海賊」と記録しますが、「水軍」の
 言葉に酔いたい人もいるようです。人それぞれですのでどうでも良いことです。

 その都度一回限りの請負ですので、生活は安定しません、
 そこで考えだしたのは、「帆別銭」「櫓別銭」なる瀬戸内航路の安全を保証する「パイロット料と
 安全を保証する通行料」による安定収入でした。これは瀬戸内の海賊が皆、カルテルを結ばないと
 機能しません。村上武吉の時が一番安定したカルテル組織になったとされます。

 この通行料は時期によって違いますが、積荷の一割とされます。
 現金ではなく現物支給ですので、海賊みづから売り捌かないと食い物になりません。
 村上海賊営業部は各地を販売して歩きます。
 相手も貧乏ですから、全額払えません。仕方ないので、割賦(クレジット)にしました。
 日本のクレジットシステム(割賦販売)の元祖は瀬戸内海賊営業部と言われる所以です。

 このことは陸の人間から見れば、海賊衆を取り込まなければ、瀬戸内に船一艘独自に動かせない
 強大な組織となり、ようやく沿岸の領主や中央政府までも海賊の取り込みを始めます。

 よって臣下の礼を取らすべく領地を戦国期になり与え始めます。

 海賊衆は所領を呉れることはあまり求めていません。
 何故なら領地支配のノウハウ(代官や庄屋等の統治組織)が無かったからです。
 当初は呉れるなら貰ってやろう程度でしかありません。

 彼等が一番大事な収入源を断たれたのは秀吉の「海賊禁止令」により本業が立ち行かなくなって
 からで、そこから没落が始まります。

 秀吉に狙われるほど、財政面と政治面では村上水軍は大大名と同じ扱いとなっていました。
 それが、豊後の大友、中国の大内、毛利、伊豫の河野と結んでいるとなれば、村上衆分裂を
 画策するのは、自然の成り行きです。

 これが成功したのは、河野家家督相続内紛による、来島村上の取り込み成功でした。
 この時から伊豫河野家は滅亡への道を歩み始めました。
 連鎖して因島村上、能島村上、小早川、毛利家の対秀吉(信長)へのパワーバランスが崩れ
 る元ともなりました。

> ●毛利家の庇護を受けていたようなので、萩藩に加わってるのかなとは思っていましたが、幕末に数十人もいたのですね。寄組や大組にもあったのですか?

○寄組、大組、陪臣の足軽まで含みます。


> ●おっしゃっている内容のことを指しているか判りませんが、
> 1740年の系図には清和天皇の後胤の・・・というような表記で書かれているので、①のことでしょうか。
> ②では、飯田信基の後は時代が飛んで飯田義武の父(?)藤左衛門から書かれています。下向の経緯や代々譜代・・などは書かれていません。
> 毛利家に世話になった始祖からということであれば、やはり飯田義武から仕え始めた、ということもありうるということでしょうか。
> ④の母、妻の出自は書かれていますが、③は一部の他の系統の石高が載っているくらいで本家の石高ことは特にかいてありませんでした。

○同じ家でも時期により何回も由緒書(系図等)を提出します。

 皆がバラバラで出してくるので、事前に「提出原稿手引書」を渡して
 そのように統一して書いて来いとしたもののようですから、江戸中期以降の
 物のようです。所謂、役所の提出書類の「書式統一文書」ですね。

 江戸中期編纂の「防長風土注進案」も統一書式で書かれていますが、例外的に岩国支藩は
 統一されてないようです。

 「風土注進案」の(大島宰判)の部には飯田家のことは沢山載っていると思われますが
 今、手許にありませんので分りません。

 暇があればお調べください。


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